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黙阿弥・小団次の心理劇〜国立劇場の「宇都谷峠」通し

昭和44年9月国立劇場・「蔦紅葉宇都谷峠」

十七代目中村勘三郎(按摩文弥、提婆の仁三・二役)、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(伊丹屋十兵衛)、二代目中村又五郎(伊丹屋女房おしず)、三代目河原崎権十郎(佐々木桂之助)、三代目尾上多賀之丞(文弥母おりく)、五代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門)(文弥姉おきく)、五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(文弥妹おいち)沢村精四郎(二代目沢村藤十郎)(尾花才三郎)他


1)ヒッチコック映画を見るような面白さ

本稿で紹介するのは、昭和44年9月国立劇場での、通し狂言「蔦紅葉宇都谷峠」の舞台映像です。この上演の場割りは、いつもの「宇都谷峠」通しとは異なるものです。そこがこの上演の眼目なのですが、その意義をご理解いただくためには、現行歌舞伎での「宇都谷峠」上演の現状を知ってもらわねばなりません。

現行「宇都谷峠」の通し上演と云うと、鞠子の宿・宇都谷峠の文弥殺し・伊丹屋店先・同奥座敷・鈴ヶ森仁三殺しの三幕五場での上演が通例です。初演(安政3年・1856・9月江戸市村座)で四代目小団次の按摩文弥と提婆(だいば)の仁三(にさ)の二役を早替して演じ分けたのが大いに評判となって、これ以後の再演で通例になったのが、この五場の部分でした。もちろん「宇都谷峠」の芝居としての見せ場は、その五場にあります。宇都谷峠で伊丹屋十兵衛が文弥を殺して手持ちの百両を奪います。十兵衛は主家への義理から百両を必要としていました。一方の文弥にとってその百両は座頭の官位を買うための資金で、それは妹が身を売って用立てたお金であり・他人に貸すことが出来ないものでした。そんな互いの事情が交錯して絡み合ってついに殺しに至るというものです。二人の事情は宇都谷峠での会話のなかで語られていますから、観客は事情を理解しています。殺される文弥は十分に哀れだし、殺す十兵衛に対しても観客の同情が向くように芝居が書かれています。「宇都谷峠」の筋を追う分には、この五場を見ればそれで十分であると、そのような場割りが定着して来たのも、ごく自然な成り行きだと思います。

しかし、通例の三幕五場の場割りで、鈴ヶ森で十兵衛が仁三を殺した後、自ら絶望の中で腹を切り「文弥殿、これで成仏(してくだされ)・・」で幕になると云う終わり方(通常はこのようなアレンジで終わることが多い)では、「宇都谷峠」は因果応報の怪談劇の如き薄暗い様相にしか見えて来ないようです。伊丹屋奥座敷に文弥の血まみれの幽霊が姿を現しますが、恨めしそうに十兵衛を睨むだけで、何も仕掛けるわけではありません。「四谷怪談」のお岩の幽霊のように恨みの相手を取り殺すことが出来ぬまま、ただ恨めしそうに相手を睨むだけです。つまり怨念のパワーが弱いわけだな。結局、十兵衛は幽霊に脅えながら自分から破滅への道を辿っていくのです。これだと因果応報の恐ろしさは確かに分かるけれども、怨霊の復讐譚としては疲弊していると云うか・筋が薄暗く湿った感触で面白くないと云うか(「四谷怪談」と比べて見れば良いです)、幕末期の閉塞した気分のなかでドラマツルギーはここまで減退してしまったのかと云うのが、吉之助が若い時に初めて見た「宇都谷峠」三幕五場の舞台から受けた印象でした。

「宇都谷峠」に同じような印象を抱く方は少なくないと思いますが、ところが、その印象には実は誤解があるのです。本来の、四代目小団次が意図した「宇都谷峠」は、我々が現行の舞台から受ける印象とはかなり異なるものでした。吉之助は或る時フトこのことに気が付きました。別稿「世話物としての小団次劇」において、明治維新の激動・混乱によって四代目小団次の歌舞伎の流れが一旦断ち切られた、明治以後には、良くも悪くも小団次の芸風をそのまま引き継いだ役者がおらず、五代目菊五郎にせよ、或いは大正期の十五代目羽左衛門・六代目菊五郎にしても、彼らの芸風が小団次のそれとは微妙に異なっていたため、小団次の歌舞伎は本来の姿とは微妙に異なる感触で処理されて、我々のなかに違った印象で刻み付けられてしまったと書きました。それは脚本補綴の問題ももちろん大きいですが・それだけではなく、役者の様式感覚のズレがとても大きいのです。今回、昭和44年9月国立劇場の通し狂言「宇都谷峠」の舞台映像を見て、この推論の裏付けが出来た気がします。

詳しいことは後で書きますが、「宇都谷峠」は、宇都谷峠の文弥殺しという場面はあるにせよ、全体としての流れはさほどドラマティックなものではなく、淡々とした台詞劇が続きます。むしろ心理劇的な印象が強いものです。今回(昭和44年9月国立劇場)の舞台映像を見ていて、吉之助はまるでアルフレッド・ヒッチコック監督の映画を見ているようなスリリングな面白さを感じました。「宇都谷峠」は、細部まで眼の行き届いた精密な心理劇なのです。(これは現行の場割りからは決して感じない印象です。ここに今回の上演の意義があります。)慶応2年(1966)に幕府から「以後は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜるように致すべき」とのお達しを受け、「それじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ」と嘆いて、数日で憤死してしまったほど、写実の芝居にこだわった小団次です。小団次の写実の精神が、この小振りな心理劇のなかに生きているのです。(この稿つづく)

(R1・8・16)


2)マクガフィンの働き

黙阿弥の「蔦紅葉宇都谷峠」は、安政3年(1856)9月江戸市村座での初演で、四代目小団次のために書き下ろされたものでした。黙阿弥(当時は河竹新七)と小団次との提携は嘉永7年(1864)3月江戸河原崎座での「都鳥廓白浪」(忍ぶの惣太)に始まりますから、このコンビとしては初期の作品です。本作は幕末の人情噺の名人・初代金原亭馬生(きんげんていばしょう)が得意とした「宇津谷峠座頭殺し」を脚色したもので、黙阿弥はこれに恋愛物として有名な「お駒・才三(さいざ)」、「古今(こきん)・彦惣(ひこそう)」の筋を綯い交ぜにして、全体を佐々木家のお家騒動に仕立てました。

前述の通り「宇都谷峠」は「鞠子の宿」から三幕五場で上演されるのが通例となっています。この場割りであると、主筋のために百両調達に苦しむ十兵衛と、姉が身売りした百両で座頭の官位を目指す文弥、この二人が鞠子の宿でふとした偶然で出会ったことから起きる悲劇と見えます。大体においてその通りに違いないのですが、この場割りであると、二人の背後にある運命の糸(蔦紅葉)が明確に見えて来ません。本作の外題「蔦紅葉」は、十兵衛と文弥に絡み合う因縁を暗示しています。そこに黙阿弥の独自の工夫があるはずです。

今回(昭和44年9月国立劇場)の「宇都谷峠」通し上演の意義は、鞠子の宿に始まる・いつもの三幕五場の前の、序幕「佐々木家の場」・「伊丹屋の場」と二幕目「文弥内の場」を付けて、佐々木家のお家騒動の概況を明らかにした点にあります。これは、宇津谷峠での二人の会話に出てくる、十兵衛はどうしても百両が欲しい、文弥は百両を貸すわけにいかないという背景が、上記二幕の付加でより具体的に説明されるので実感が増して、殺される側にも殺す側にも観客のより多くの同情が得られると云うことももちろんありますけれども、ここで登場する百両が芝居のなかで果たす機能が観客にはっきり感知されることがもっと大事なことなのです。前章で吉之助は「ヒッチコックの映画を見るような面白さ」と書いたのは、まさにそこです。

ヒッチコックの映画では、常にドラマは或る象徴的なものを巡って展開します。ヒッチコック自身はこの象徴的なものを「マクガフィン(Macgaffin)」と呼んでいました。それは「まったく何でもないもの」であり、「空っぽの場所」であり、純粋な言い訳でもあります。唯一の役割は、物語を先に進めることです。例えば「ダイヤルMを廻せ」での玄関の鍵、「北北西に進路を取れ」での存在しない架空の諜報員・或いは機密情報のマイクロフィルム、「知り過ぎた男」での殺された男が最後に主人公の耳元で言い残した謎の言葉・或いは連れ去られた子供。

黙阿弥劇におけるマクガフィンの機能は、「三人吉三廓初買」(安政7年・1860・1月江戸市村座)を見れば、スンナリ理解が出来ます。歌舞伎の御家騒動によくあるパターンは、名刀とか絵巻物・香炉などの「お宝」が紛失して御家が没落し、一族郎党がお宝の行方を捜し求めて右往左往するというものです。「三人吉三」でも名刀庚申丸が紛失し、その対価である百両の金包が、登場人物の間を行ったり来たりしてドラマが展開します。(別稿「お宝の権威喪失〜三人吉三のお宝の行方」を参照ください。)行方不明のマクガフィンは、ドラマの結末が見えたところ・つまりその役割を終えたところで、突然姿を現します。「吉祥院の場」で三人の吉三郎は自分たちが因果の糸に絡めとられた「三すくみ」の状況」であったことを知ります。この時庚申塚で固めた血の盟約はあわや破滅の危機に瀕しますが、三人が互いを許し合って因果の糸を自ら断ち切ることでドラマは終息し、探し求めていた百両の金包と庚申丸が思いがけなくポロリと現れます。

それでは「宇都谷峠」では、マクガフィンはどのように機能しているでしょうか。その筋をざっと洗ってみます。

1:佐々木家の重宝「花形の茶入れ」が何者かによって盗まれます。これを預かる家臣尾花六郎左衛門は責任を取って切腹。息子の才三郎は、殿の計らいにより表向きは「追放」となるが、主命により茶入れの詮議を任され、詮議のための資金として百両を戴く。

2:十兵衛は喧嘩のかどで尾花家を追われた身だが、主人の恩情により今は江戸で伊丹屋という酒屋を営む。女房のしずは才三郎の姉であるが、幼い時に誘拐されて吉原の遊女となっていたのを、十兵衛が発見して身請けして、女房としたのである。しかし、半金が未払いで廓の抱え主から連れ帰ると談判されているところに、才三郎が現れて百両を出したので、急場を救われる。十兵衛は、恩義ある才三郎に百両を返さねばならなくなって、旧知を頼って京に上るが、果たせずに江戸で戻る途中で鞠子の宿で文弥と出会う。

3:文弥は貧しい按摩であるが、座頭の官位を夢見て修行をしている。しかし、官位を買うためには百五十両の大金が必要である。文弥の失明を自分のせいだと心を痛めていた姉おきくは、自分の身を吉原へ売って百両の金を調達する。姉の犠牲を泣きつつ、文弥は京上りの旅に出る。

4:宇都谷峠で十兵衛は文弥を殺して手持ちの百両を奪い、その金を才三郎に渡す。それから一年後、女房しずは文弥の死霊に憑りつかれて苦しんでいたが、夫が文弥を殺したことを知って荒れ狂い、これを抑えようとした十兵衛はあやまって女房を絞め殺してしまう。さらに宇都谷峠の殺しをネタに強請りに来た仁三を、十兵衛が鈴ヶ森で殺す。(通常の三幕五場の場割りで描かれるのは、4のみです。2と3の事情は、宇津谷峠での二人の会話のなかで説明されます。)

5:鈴ヶ森の場に才三郎が駆けつけて、探索の結果茶入れが戻って帰参が叶ったこと、手元の百両によって文弥の姉おきくは請け出されて自由の身となったこと、女房しずは蘇生したことを告げます。これを知って十兵衛は潔く切腹して罪を償う。(注:これは昭和44年9月国立劇場上演本に拠る結末で、初演本とは多少の相違があります。)

「宇都谷峠」のマクガフィンは、「花形の茶入れ」と百両と考えて良いですが、百両が茶入れの対価ではありません。また十兵衛が求める百両と文弥が持つ百両は、金額が同じであるだけで・まったく出目が異なる百両です。十兵衛と文弥の異なるマクガフィンが交錯して、殺しに至るのです。また大詰めには百両の現物が登場しません。請け出された文弥の姉おきくが登場することで・彼女が百両の代わりになっているわけで、ここではおきくがマクガフィンです。このように「宇都谷峠」にもマクガフィンがあるのですが、場面場面でその姿を変えています。マクガフィンが姿をいろいろ変えるのは、「座頭殺し」の大筋に、御家騒動や「お駒・才三」・「古今・彦惣」など複数の筋を綯い交ぜしている為、結果としてそうならざるを得ないわけです。それでも筋が錯綜・混乱することなく、マクガフィンが一貫して全体を支配していると感じるのは、それだけ黙阿弥の作劇が卓越していることの証しに違いありません。

 もうひとつ大事な点は、マクガフィンがドラマを動かしていたのを止めたのは、自力で茶入れを探し出した才三郎であって、十兵衛ではないと云うことです。求めていた茶入れは戻った、文弥の姉おきくは請け出されて自由の身になった、女房しずは蘇生した、これで芝居は元通りになって万事目出度し目出度しになりそうなのだけれど、そうはならないのです。十兵衛の文弥殺し(そして仁三殺し)の罪だけが残ります。その責任を十兵衛は取らねばなりません。(この稿つづく)

(R1・8・19)


3)新劇運動の先駆

鞠子の宿で十兵衛と文弥が出会うのは偶然のことですが、「もしかしたらこれは因縁の出会い・運命の出会いなのかも知れない」と観客に感じさせそうな伏線を、黙阿弥が仕掛けています。第2幕「文弥内の場」に髪結いに身をやつして家宝の「花形の茶入れ」を探し求める才三郎が立ち寄って話をしているうちに、この内の仏壇に茶入れの包み切れがあるのを見つけます。これでどうやら文弥の父である小兵衛が怪しいと、才三郎は当たりを付けるわけですが、この小兵衛が茶入れを盗んだ犯人であることが後に明らかになります。(才三郎は小兵衛を討って茶入れを取り返して、主家への帰参を果たします。)

だから十兵衛の立場からすると、茶入れを盗んで主家を窮地に陥れた憎い敵(小兵衛)の息子が文弥だと云うことになるわけです。しかし、この事情は、十兵衛にとっても文弥にとっても、まったく預かり知らぬことです。「文弥殺し」の筋に何ら影響を与えるわけでもありません。黙阿弥はシレッとして、この件に最後まで触れようとしませんが、第2幕「文弥内の場」を見た観客にとっては、鞠子の宿で十兵衛と文弥が出会うのが、何か深い因縁があるように見えて来るのです。蔦紅葉の蔓が伸びて二人に絡んで来るように感じます。

もうひとつ黙阿弥が仕掛けた伏線があるかも知れません。十兵衛の女房しずは、元吉原の遊女でした。序幕「伊丹屋の場」で、吉原の佐野松屋清兵衛が判人(はんにん)源六と一緒に現れて、半金百両を払わぬと女房しずを吉原へ連れ帰ると十兵衛に迫ります。その場に才三郎が現れて、茶入れの探索資金として主人から戴いた百両を差し出したのでこの場は収まりますが、このため十兵衛は才三郎に百両を急いで返却せねばならなくなります。これが宇津谷峠での十兵衛の文弥殺しの動機になるわけですが・そのことはしばし置くとして、続く第2幕「文弥内の場」にも清兵衛と源六のコンビがまた登場します。そして今度は、文弥の姉おきくが吉原に身売りをする話になっており、清兵衛が代金百両を置いておきくを連れて去ります。これが文弥が座頭の官位を得るための資金となるのです。この時点で十兵衛はマイナス百両で、文弥はプラス百両、まったく事情が異なる百両が交錯することになります。

ここで気になるのは、序幕「伊丹屋の場」と第2幕「文弥内の場」が同じ日の出来事なのか確証は全然ないのだけれども、観客には何となく、伊丹屋で受け取ってきた代金百両の金包みを、清兵衛がそのまま文弥内で姉おきくの代金百両として渡したように見えて来ることです。黙阿弥はその可能性に触れようともしていません。しかし、観客には蔦紅葉の蔓がスルスルと伸びて、全然無関係のはずの十兵衛のマイナス百両が文弥のプラス百両に絡んで行くかのように見えて来ます。

そう考えると「宇都谷峠」のなかで、黙阿弥はずいぶんと余裕を以たマクガフィンの利かせ方をしているように思われるのです。今回(昭和44年9月国立劇場)での「宇都谷峠」を見ると、序幕「伊丹屋の場」と第2幕「文弥内の場」が付加われたことで、黙阿弥の筆の余裕がなるほどと実感出来ます。この後「鞠子の宿」も含めて、宇都谷峠での文弥殺しが始まるまで、事件らしいことは特に起こりません。芝居は淡々と写実のタッチで進みます。この抑えたタッチが殺し場に至って利いて来るのです。宇都谷峠でマクガフィンが突然牙を剥きます。この時、そこまでの芝居が長々と準備したものが何であったか、啓示のように観客に突き刺さります。

巷間の「宇都谷峠」の評価として、黙阿弥は原作(金馬の人情噺)の筋と小団次からの注文に制約されて自身の良さを十分発揮出来ていない、黙阿弥にとって本意ではない芝居だとも云われますが、本当にそうなのですかねえ?小芝居向きの・安手のサスペンス劇に過ぎないと云う本作の低評価は、いつもの三幕五場の場割りの「宇都谷峠」の舞台を見ただけの感想のようにも思われるのです。だから「宇都谷峠」再評価のために、宇都谷峠での文弥殺しに至るまでの前半がとても大事になると思います。

河竹繁俊先生が、「世話狂言の研究」(大正7年11月)のなかで「宇都谷峠」を考える時思い浮かべるのは、その5年ほど前に「人形の家」で見た松井須磨子のノラの演技のことだと書いています。黙阿弥論に突然イプセンが登場するのでびっくりしますが、河竹先生が云うには、序幕でノラが自身の過去を長々と語る、ともすればダレ気味になりやすい箇所だが、うまく行けば主人公の性格・心理を細やかに描き出し、これが後半のドラマへの重要な布石になっている、「宇都谷峠」前半の作りもこれと同じだと云うのです。さらに河竹先生は次のように書いています。

『注意すべきは、この作(宇都谷峠)の歴史的な位置である。つまり近世における歌舞伎芝居の写実味または写実的新傾向ともいうべきことに大関係をもっている作だからである。(中略)すなわち「蔦紅葉宇都谷峠」は、小団次と黙阿弥との共同によって成された新劇運動の第1声「エルナニ」として作られたもので、また新運動の産出した作物中佳作の一つだということが、この作の歴史的にみて付与さるべき価値であろうと思う。』(河竹繁俊:「座頭殺しの芝居」〜小山内薫編「世話狂言の研究」(大正7年11月・近田書店)に所収)

ちなみに「エルナニ」というのは、ヴィクトル・ユーゴーの戯曲(1830年)のことです。(現在ではむしろヴェルディの歌劇「エルナニ」の原作だと言った方が通りが良いかも。)「エルナニ」はフランス・ロマン演劇の創始と云われる重要なもので、この作品は古典派支持者からは野次・ロマン派支持者からは大喝采を呼び、その衝突が「エルナニ事件」とも呼ばれるほどの騒ぎとなりました。河竹先生が「宇都谷峠」を「エルナニ」に比し、これを新劇運動の先駆とまで位置付けていることは、とても大事な指摘だと思うのです。(この稿つづく)

(R1・8・20)


4)女房の眼差し

京都から江戸に戻った十兵衛は、才三郎に立て替えてもらった百両を返却しますが、実はその百両は宇都谷峠で文弥を殺して奪ったものでした。十兵衛は自分の罪を認識しています。百両が出来たその時には文弥の家族にその百両を返して・自分の罪を告白して潔く討たれる覚悟でいるのです。十兵衛は、一刻も早く百両を作ろうと懸命に働いています。しかし、因果の律はそれを許しません。まず女房しずの枕元に血まみれの座頭の幽霊が毎夜現れて、彼女を病の床に就かせます。十兵衛にはそれが文弥の幽霊であることが分かっています。十兵衛に安穏はなく、彼はビクビク・イライラしながら日々を過ごさねばなりません。

ここに黙阿弥の芝居によく出て来る「因果応報の律」が登場します。古臭い幽霊の復讐譚のように見えます(もちろんそのように見ても芝居としては楽しめます)けれども、実は人間心理の奥深いところを突いているのです。なぜ女房しずは病に伏せるのか、このことを考えます。座頭の幽霊が表徴するものは何かということです。恐らく江戸に戻ってきた十兵衛の様子は、以前の十兵衛とまったく違っていたのです。十兵衛が何かを隠していることが、しずには明らかでした。十兵衛は仏壇の下段は決して開けるなと言っていました。十兵衛の留守にそこを開けてみると、内から血に染まった財布が出てきた。これでしずは夫が罪を犯したことを察するのです。しずが病気になった理由は、そこにありました。真面目であった十兵衛が人を殺して百両奪ったのは、詰まるところ自分のせいであることを彼女は分かっているからです。

しずは十兵衛にとっては主家になる尾花家の娘(才三郎の妹に当たる)ですが、幼い時に誘拐されて、吉原で遊女に売られた身でした。これを見つけ出して身請けして女房としたのが十兵衛でした。しかし、半金百両の工面が付かず、廓の抱え主からしずを連れ帰ると談判されます。女房を廓に連れ去られるのは元より夫にとって耐えがたいことですが、しずは主家の娘ですから、なおさらそれは出来ないのです。この難しい場面を百両出して救ったのが才三郎でした。元々その百両は家宝の茶入れ探索のための資金として佐々木の殿様が才三郎に与えたものですから、十兵衛は百両を早く返却せねば、主家への義理を果たせないことになります。夫十兵衛が百両の工面で苦しんでいるのは、すべて自分のせいであることをしずは分かっているのです。しかし、彼女には何も出来ませんでした。またすべての事情から彼女は除け者にされています。彼女が自分から「廓に戻る」と言えば、夫はこんなことをしなかったに違いありません。実はこれがしずの病気の原因なのです。レナータ・ザクレルは次のように言っています。

『ラカン派精神分析の基本的教訓のひとつは、主体が罪を認めることは、常に「他者」を誘惑する策略として機能するというものだ。主体が自分のやったことに「罪悪感」を覚えるのは、別のもっと根源的な罪を隠すためだ。「罪を認める」ことは、究極的に、他者を罠にはめるための戦略なのである。』(レナータ・ザクレル:「正しい男と間違えられた女」〜スラヴォイ・ジジェク編「ヒッチコックXジジェク」に所収)

「全部自分のせいだ・すべて自分が悪かったんだ」と、自分を責めて、進んで自分から罪を引き受けることで、しずは夫・十兵衛の罪を隠そうとした、或いは夫への不審を考えないことにしたのです。彼女が必死で隠そうとしているものは、血まみれの夫の姿です。十兵衛は主家への感謝の念が強く、義理堅く真面目な男だったはずでした。十兵衛は善良な夫だったはずです。彼女は自身が病気になることで、こうした夫の良いイメージを必死に守ろうとしたのです。しかし、偶然にも彼女の病気の世話をするために文弥の母おりくが伊丹屋にやってきて、おりくの話から十兵衛が殺したのが文弥だったと知ります。しずの勘は正しかったのです。これでしずは夫への不審感をもう抑えることが出来なくなって、喚き始めます。思わず十兵衛は彼女を絞め殺してしまいます。(ただし彼女は大詰めで蘇生します。)しずの夫への不審・恨みは、夜中に突然神奈川へ行く(実は提婆の仁三を殺すつもりなのだが)と言い出した夫をなじる台詞によく表れています。

『お前は私を置き去りに、捨てる心でござんしょうなあ。(中略)連れ添う女房に身の大事、なぜ明かしてくださんせぬ。』(伊丹屋奥座敷)

一方、夫十兵衛からすると、彼は女房が自分を疑っていることを、彼女の眼差しからずっと察していました。しずの視線が、文弥殺しの罪を十兵衛にその度に思い出させます。だから十兵衛は、しずを避ける態度を取っていたはずです。彼女は除け者にされているのです。そんなところから夫婦関係は次第に崩壊して行きます。「宇都谷峠」では、眼差しが決定的な役割を演じます。スラヴォイ・ジジェクは次のように言っています。

『わたしが出会う眼差しは、見られる眼差しではなく、わたしが「他者」の領域で想像した眼差しである。その眼差しは「他者」の目つきそのものではなく、この眼差しがどのように「わたしに関わる」か、主体が自分の欲望に関してどのようにその眼差しから影響されるか、ということなのである。』(スラヴォイ・ジジェク:「あの人の蔑むような眼差しのなかに、私の破滅が書かれているのが見える」〜スラヴォイ・ジジェク編「ヒッチコックXジジェク」に所収)

十兵衛は女房の眼差しを受けながら、そこに文弥の眼差しを見ていたことになります。十兵衛は自分では意識していませんが、自分は罰せられなければならない・そこにしか自分の安息の地はないということが内心分かっているのです。十兵衛は自ら望むかのように破滅の道を辿って行きます。更に「宇都谷峠」に黙阿弥はもうひとつの眼差しを用意して、十兵衛を追い詰めていきます。それが宇都谷峠で落とした煙草入れをネタに十兵衛を強請りに伊丹屋にやって来た提婆の仁三です。(この稿つづく)

注:本稿で引用したザクレルとジジェクの論考に関連するヒッチコック監督の映画は、「間違えられた男」(1956年)です。ただし間違えられた主人公(ヘンリー・フォンダ)は本当に無実で、十兵衛は本当に罪を犯した、そこが異なります。スラヴォイ・ジジェク編「ヒッチコック×ジジェク」(河出書房新社)を参照ください。

(R1・8・23)


5)提婆の仁三の眼差し

十兵衛は宇都谷峠での文弥殺しの罪をはっきり認識しています。江戸に帰った後は、いつか文弥の遺族に百両を返して罪を告白して討たれるつもりで、懸命に働いています。しかし、枕元に立つ幽霊のおかげで女房が病気になってしまいました。これだけでも心穏やかでないのに、宇都谷峠で落とした煙草入れをネタに提婆の仁三が十兵衛を強請りに来て、十兵衛を苦しめます。これも文弥の幽霊の祟りなのでしょうか。

ところでこの提婆の仁三ですが、鞠子の宿で盗みを働いたところを同宿人に見付かって捕らえられ番所に突き出される寸前であったところを、十兵衛が懇々と仁三に説教して放免してやった盗人が、この仁三でした。だから十兵衛には窮地を救ってくれた恩があるはずです。約1年ぶりに出会ってあの時の礼を言っても良いのに、仁三は十兵衛に出会うといきなり強請りに掛かるというのは、これは一体どういうことでしょうか。

芝居を見ると、鞠子の宿の部屋を出ると、仁三はペロッと舌を出して笑って去って行きます。だから十兵衛の説教で改心したのは見せかけで、全然改心していなかったのです。しかし、それにしても仁三が十兵衛を強請るのには、どこかに十兵衛に対する強い悪意が感じられるようです。その理由を仁三の台詞から探すと、仁三はこんなことを言っています。

しらばっくれちゃア言って聞かそう。あの晩藤屋を追い出され、しょう事なしに宇都の谷の賽(さい)の神の古宮でごろりと寝たが寝付かれず、煙草を喰らってまじまじと、夜の明けるところを待つところへ、通りかかった二人連れ、ばれた仕事の埋草(うめくさ)に覗いて見りゃアこなた(十兵衛)と座頭(文弥)、こいつァ俺をはく気だなと、後からついて行って見りゃァ、情けごかしで峠へ連れ出し、ばっさりやってしかも百両、護摩の灰も及ばねえ素人衆にゃァいい度胸だ』(黙阿弥:「宇都谷峠」)

「こいつァ俺をはく気だな」とは、「俺を仲間に入れないつもりだな」と云う意味です。元々仁三は文弥から金を盗もうとずっとその後を付けてはるばる鞠子の宿まで来たのです。ところが宿での盗みが見つかって危ないところを十兵衛の説教のおかげで助かった。だから良い人かと思いきや、何のことはない、暗がりの宇都谷峠に親切ごかしで按摩を誘い出して、ずっと按摩に目を付けていた俺を尻目に、バッサリ殺して百両獲るたあ、何てふてえ野郎だ、稼ぎを山分けにしても良いくらいだ、お前の方がよっぽど強悪じゃないかと、仁三は十兵衛のことを心底怒っているのです。これが仁三の十兵衛に対する眼差しが語るものです。

「そうじゃないんだ、あの場面は仕方なかったんだ、俺は心底文弥に済まないと思っているんだ」と十兵衛は抗弁したいでしょうが、他人にその説明は通じません。誰もそんな風に見てくれません。見かけは善良な商人の振りをして、ひと皮めくれば俺と同じ盗人だと、仁三の十兵衛に対する強い悪意はそこから来ます。仁三の眼差しは、世間(他者)の眼差し同然です。だから十兵衛は仁三から悪意を受けているのではなく、他者の悪意を・或いは文弥からの悪意を受けているのです。これが十兵衛をますます窮地に追い込んで行きます。十兵衛は仁三を鈴ヶ森に誘って殺してしまうのですが、こうして自分の意思に反して十兵衛は、ますます罪の深みにはまって行きます。

ところで「宇都谷峠」の原作・初代金原亭馬生の人情噺「座頭殺し」では、ここのところ芝居とちょっと異なっています。馬生の原作では鞠子の宿で十兵衛に意見されて、仁三はホントに心から改心するのです。ところが宇都谷峠で十兵衛の文弥殺しを目のあたりにして、何だ人間というものはこんなものかと、また心が変わってしまったと云うことになっています。(これ黙阿弥の芝居によくありそうな設定なのですが。)

『それから私ァ、太(ふて)え事はやめようと思ったが、意見を言っておくんなすったお前さんが、あんなことをなすったから、もう厭(いや)んなって、もと通り悪事をやらかしております。心持ちの悪い時は、持薬に泥棒をしております。』金原亭馬生:「座頭殺し」)

十兵衛の悪事が、改心したはずの仁三の心までも変えてしまうのです。捻りが利いて、因果応報の恐ろしさが身に染みます。この方が仁三の眼差しの意味が、より象徴的に理解できそうな気がします。どうして黙阿弥・小団次はこの原作の設定を取らなかったのかなあ。仁三を一貫したワルに仕立てたかったのでしょうかね。(この稿つづく)

(R1・9・5)


6)巧妙な心理サスペンス劇

慎ましい按摩と大律儀者の商人、片方は百両持っていて・片方は喉から手が出るほど百両が欲しい、そんな二人が偶然に出会って、フトしたことから被害者と加害者になってしまいます。文弥殺しに現代の不条理劇にも似た感触がしてくるのは、殺す側の十兵衛にも観客の同情が行って、悪が不在とでも云いたい殺し場だからです。

今回(昭和44年9月国立劇場)の「宇都谷峠」がそのような感触を呈するのも、普段の通しで省かれる序幕「佐々木家の場」・「伊丹屋の場」と二幕目「文弥内の場」を出して、二人の背後にある状況を丁寧に描いているからです。無関係だったはずの二本の蔦紅葉の先端がどんどん伸びていって複雑に絡み合っていく、そのような様相に見えて来るのです。もちろん通例の三幕五場の上演でも、あらましは宇都谷峠での二人の会話のなかで語られますけれど、会話で説明されるよりも舞台で見る方が実感の度合いが全然違います。だから、逃げ回る文弥(勘三郎)に刀を振り回しながら十兵衛(幸四郎)が云う「金を持っていたのがこなたの因果、欲しくなったが私が因果・・・(中略)恨まば恨め、お主のため」と台詞に悲壮感が滲み出て来るのです。

実際、この場面の幸四郎は、ここが黙阿弥の聞かせ所だと華やかに張り上げるようなことをしないのは、さすがです。声を低めに抑えて、渋く七五のリズムを利かせた写実の台詞、そこに商人十兵衛の実直な性格がよく出ています。「私が悪いのじゃないんだ・私に百両を要り用にさせたこの状況が悪いのだ・たまたま貴公が百両持っていたからいけないんだ」と言いたそうです。だからと云って人を殺して金を奪って良いわけがありません。そんなことは十兵衛もよく分かっているのですが、こんな真面目な人間がどうしてこんな暗い側面(ダークサイド)へ堕ちてしまうのかと、割り切れない思いがします。対する勘三郎の文弥も慎ましさと哀れさを出して、さすがの巧さを見せます。だから二人の対照が効いてきます。感心したことは、今回上演の補綴・演出を手掛けた河竹登志夫の意図に沿って、幸四郎も勘三郎も新劇的にさえ見えそうな淡々として抑えた演技に徹していたことです。

 もうひとつ今回の「宇都谷峠」脚本が優れていると思うのは、時間の関係で「お駒・才三」・「古今・彦惣」の件をカットしたために若干の改訂を施してはいますが、幕切れの鈴ヶ森の場、十兵衛の主人尾花才三郎と古今(吉原に奉公に出た文弥の姉おきく)が登場して、佐々木家のお家騒動の主筋にきっちり始末を付けて見せたことです。才三郎は行方不明の茶入れを探し出し、御家への帰参が叶った。(これで十兵衛が主人のために資金繰りに悩む必要がなくなった。)才三郎は用立ててもらった百両を十兵衛に返す代わりに、文弥の姉おきくを勤め奉公から開放して実家へ戻した。(これで十兵衛が文弥の遺族に対する負い目が解決した。)この二つが解決したことで、「宇都谷峠」の設定が振り出しに戻ったことになります。しかし、ひとつだけ解決しないものが残りました。未解決のまま残ったものは、芝居の過程で十兵衛が犯した文弥殺しの罪(更にこれに付随して犯した仁三殺しの罪)です。これだけが解決していません。

十兵衛は文弥を殺した時「恨まば恨め、お主のため」と言いました。鈴ヶ森の幕切れでは、もうお主の問題は解決してしまっています。「宇都谷峠」での殺しは封建制度(身分制度)と忠義の論理から起こったことだと云えますが、この場面ではもう「お主」は何もしてくれません。お主は「あったら忠義の若者を・・是非もなきことじゃなあ」と涙はしてくれるでしょうけれど、それだけです。文弥殺しの罪は、「お主」がしたことではないからです。文弥殺しの責任を十兵衛は一人で取らねばなりません。十兵衛は自らの腹に刀を突き立てて、「文弥殿、これで成仏(してくだされ)・・・」と言って死にますが、芝居が終わって、どこかに割り切れないものが観客の胸のなかに残ると思います。結局、十兵衛が主人のために一生懸命立ちまわって来たのは、一体何のためだったかと云うことです。そういう重苦しい疑問が観客のなかにずっと残ります。しかし、これを黙阿弥・小団次の忠義批判だと決めつけるのでは、ちょっと単純過ぎるでしょう。人は社会組織のなかで何らかの柵(しがらみ)に縛り付けられて生きていかざるを得ないものですから、多分、それは「生きることの理不尽さ・不条理さ」みたいなものなのです。生きていれば誰もがはまってしまうかも知れない落とし穴なのです。今回落ちたのは十兵衛だったけれども、次は自分かも知れないし、もしかしたら貴方かも知れない、そのような落とし穴なのです。「宇都谷峠」が現代の不条理劇に似た、ドライでニヒルな感触を呈するのは、そのせいです。

現代の我々は「宇都谷峠」を薄暗い色調の因果応報劇と見てしまい勝ちです。吉之助も若かりし頃初めてこの芝居を観た時にはそのように感じたのだけれど、これはちょっと考え直した方が良いようです。ここで河竹繁俊先生が黙阿弥・小団次の宇都谷峠」を幕末における新劇運動の先駆と位置付けたことを改めて思い起こしたいのです。そうするとこの「宇都谷峠」が、繊細に伏線を張り巡して巧妙に作られた心理サスペンス劇に見えて来るのですねえ。これがまさにヒッチコックの映画を見るが如くなのです。

ところで「宇都谷峠」は安政3年(1856)9月江戸市村座での初演ですが、その四年後、安政7年(=万延元年・1860)1月江戸市村座で「三人吉三廓初買」が初演されました。(これについては別稿「生も暗く死も暗い〜三人吉三の因果の物語」を参照ください。)晩年の黙阿弥が、自身の会心作は何かと問われて挙げたのが、この「三人吉三」でした。新劇運動の先駆という視点から「三人吉三」を見ると、これを会心作とした黙阿弥の気持ちが理解できます。「宇都谷峠」の延長線上に「三人吉三」を見るべきなのです。「宇都谷峠」では人情噺の原作に制約されたところがあるかもしれませんが、「三人吉三」での黙阿弥はもっと自由です。繊細に華麗に因果の糸を張り巡した黙阿弥の筆の冴えが見られます。この視点からすると多分、現在の歌舞伎座で見られる舞台とはまったく違う感触の「三人吉三」が想像出来るのではないでしょうかね。今回(昭和44年9月国立劇場)の「宇都谷峠」は、黙阿弥・小団次劇の新しい可能性を考えるヒントがあって、大変興味深いものでした。

*本稿で引用しているヒッチコック関連の論考は、スラヴォイ・ジジェック編:「ヒッチコック×ジジェク」(河出書房新社)からのものです。

(R1・9・7)



 

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