(TOP)     (戻る)

上出来の「天守物語」再演

令和5年12月歌舞伎座:「天守物語」

二代目中村七之助(富姫)、初代中村虎之介(姫川図書之助)、六代目中村勘九郎(近江之丞桃六)、二代目中村獅童(朱の盤坊)、五代目坂東玉三郎(亀姫)他


1)姫君への敬愛

本稿は歌舞伎座12月大歌舞伎の、七之助の富姫と虎之介の図書之助による「天守物語」の観劇随想です。この公演は昨年(令和5年)6月平成中村座・姫路城公演から半年後の再演に当たります。姫路の舞台については観劇随想を書きました。だから今回の再演も「まあ凡その見当は付くかな」くらいの軽い気持ちでいましたが、いざ舞台を見てみると七之助も虎之介も格段の成長を遂げていて感心しました。今回の歌舞伎座公演は姫路の舞台よりも演技の輪郭がシャープになって、鏡花の作品コンセプトがより明確に描き出されたと思います。

それは鏡花の「天守物語」は富姫と図書之助との単純な恋の物語ではないと云うことです。確かに富姫は「千歳百歳(ちとせももせ)に唯一度、たった一度の恋だのに」と言っています。けれども、実はそんなに単純なものではない。別稿「愛する理由」で触れた通り、鏡花の女の場合、「弱い男に女が惚れて・女がこれを擁護する、その弱い男に正義がある、いわば女は「正義に惚れたも同然」というところを押さえなければなりません。つまり女の方が精神的優位に立った「恋」なのです。この点については虎之介がインタビューで次のように語っているのが参考になるでしょう。

『図書之助が姫君の顔をまっすぐ見てしゃべるのって、芝居全体で恐らく1分もないんですよ。玉三郎さんに言われたのが、この作品を貫くのは「姫君への敬愛」だと。僕は最初、これはふたりの恋愛の話だと思っていましたが、いやあ未熟でした。姫君に敬意を表しているんです。だから目を合わせない、なれなれしくしないんです。』中村虎之介インタビュー:ぴあ「ゆけ!ゆけ!歌舞伎”深ボリ”隊!」 2023.12.13

このインタビューは参考になるところが多いですから、是非お読みになることをお勧めします。虎之介はよく分かってますね。同時に演出責任者である玉三郎の読みの確かさがこの証言でよく分かります。姫路公演の観劇随想のなかで、玉三郎の富姫では本来あるべきでないところで「ウフフ・・さあ始まったワ」みたいな笑い声が三か所起きる、もちろんそれは玉様ファンの好意的な笑いではあるのだが、これは玉三郎本人からするとガッカリの反応だろうと書きました。吉之助の推察通り、それは玉三郎が意図したものでなかったことが、虎之介の証言から明らかになりました。ここで笑い声が上がっちゃうようではマズイのです。但し書きを付けますが、ここは玉様ファンが悪いわけではなく、玉三郎の芸のなかにある媚態(或いは愛嬌)のせいであるので、回り回れば玉三郎が悪いと云うことになるかも知れません。まあこれは玉三郎人気の表と裏ということかと思いますね。詳細はいずれ吉之助が「坂東玉三郎論」を書く時のための材料として取っておくことにしますが、似たような事例をひとつ挙げておくと、「本朝廿四孝」で玉三郎演じる八重垣姫が濡衣に「あれ(蓑作)が誠の勝頼様」と言われた時に「ソーレ見や」(私が思った通り・この御方が勝頼様だったでしょ)と艶然と微笑むところでやはり観客が笑いますが・これも同じことで、(玉三郎の意図と関係なく)玉三郎の芸のなかにある媚態が引き起こすことです。しかし、これが作品本来の八重垣姫の感触と若干かけ離れたところへ観客を連れて行ってしまいます。

話を戻しますが、今回(令和5年12月歌舞伎座)の七之助と図書之助では、上述の三か所で観客への余計な笑い声が起きません。おかげで富姫と図書之助の対話のプロセスが明らかになり、これがドラマの感銘に大きな意味を持ってくるのです。富姫の「恋」は、

「・・すずしい言葉だね」(=フーン、あなたは他の人間の男たちとはちょっと違うみたいだね。)

「ああ爽やかなお心・・」(=ああ、あなたはホントに真っすぐな心をお持ちの方なのだねえ。)

「・・帰したくなくなった」(=この真っすぐな若者を私は護ってあげたい。)

という三段のプロセスを経ます。富姫は人間であった時にあわや乱暴狼藉を受けそうになって舌を噛んで死んだ高潔な女性であって、生半可なことで人間の男に恋するなど決してないことです。つまり富姫は図書之助が「いい男」だから好くのではない。図書之助が(常の男と異なり)清く正しい若者であり、さらに庇護を必要とする若者であることを認めて、それで段階的に・或る意味において論理的に「恋に落ちる」のです。これが鏡花の「天守物語」の作品コンセプトですね。(この稿つづく)

(R6・1・6)


2)七之助の富姫と虎之介の図書之助

今回(令和5年12月歌舞伎座)の舞台の七之助と虎之介は、「姫君への敬愛」の視点での富姫と図書之助との関係を、前回よりもクッキリ明確な輪郭を以て描き出しました。もちろん玉三郎からの再度のチェックが入った結果でもありましょうが、この半年間の二人の確かな成長を示してもいます。七之助の富姫は自信が増して、前回よりも凛とした風情が前面に出てとても良い出来です。まあ七之助は当然のことかと思いますが、特に虎之介の図書之助の成長には目覚ましいものがありました。前回の舞台でも新歌舞伎様式の二拍子のリズムが一番しっかりとれていたのは虎之介であったと思いますが、リズムの打ち(台詞の息の深さ)に改善の余地があって、まだ役が完全に自分のものになっていない印象を受けました。今回はその点が大幅に改善されて、役の感情から発したところで台詞が言われている印象になりました。役が手に入って自信がみなぎっているように感じました。図書之助でこれだけの発声が出来るならば、虎之介は今後が期待できるのではないでしょうか。

ところで「天守物語」を二人のめくるめく熱い恋の物語であると読みたい方には、今回の舞台は醒めたかのように見えて若干物足りなく感じられたかも知れませんねえ。しかし、ここが大事なことだと思いますが、これは人間と「異界」の妖怪との恋なのですから、決してこの恋は対等であり得ないのです。図書之助からはそれは常に仰ぎ見る構図になります。これが玉三郎がこの物語を貫くものは「姫君への敬愛」だと云うことの意味です。

前章で触れた玉三郎で観客の笑い声が上がった三か所の件ですが、ここで笑い声が起きるか起きないかが、「天守物語」の感銘をかなり大きく左右します。今回笑い声を引き起こさなかったことはまったく七之助と虎之介の功績と云うべきです。それだけ観客をドラマの世界に没入させていたと云うことですね。おかげで富姫と図書之助との恋が「実(じつ)」のあるものになりました。こう書くと吉之助が玉三郎の富姫を貶したと思われそうだから但し書きを付けますが、玉三郎の富姫はもちろん独自の魅力を持つものです。そこは吉之助も長年の玉様ファンであるからよく分かっていますが、上記の得失点差によって、七之助と虎之介のコンビは感銘度合いにおいて玉三郎の「天守物語」にかなり迫った高水準の出来となったと思います。しかし、どちらが鏡花のフォルムを正しく表出できていたかと云うことならば、吉之助は今回の舞台の方を取りますね。

前回では前半部(図書之助が登場する以前)のバランスがやや重ったるいと書きましたが、今回はこの点も改善されました。「天守物語」前半はやはり戯画的な軽みが必要だと思います。獅童の朱の盤坊はそんな感じを出してなかなか良かったのではないでしょうか。玉三郎が亀姫で出たのは、もしかしたら七之助の富姫が演り難くないかと心配しましたが、まったく富姫の邪魔にならず・可愛い妹分に成り切っていたのにはさすがと云うか・感心させられました。

(R6・1・8)


 


  (TOP)     (戻る)