四代目歌昇・初役の熊谷直実
令和6年1月浅草公会堂:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」
四代目中村歌昇(熊谷直実)、初代坂東新悟(相模)、初代中村莟玉(藤の方)、二代目坂東巳之助(源義経)、五代目中村歌六(弥陀六)
*原稿に初代と二代目の吉右衛門が交錯する場面がありますが、吉右衛門とのみ記する場合は二代目を指しているとお読みください。
1)最晩年の吉右衛門の熊谷の感触を想像する
本稿は令和6年1月浅草公会堂での初春歌舞伎の「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」の観劇随想です。歌昇の熊谷・新悟の相模・莟玉の藤の方、ともに初役であると思います。「熊谷陣屋」は言わずとしれた丸本時代物の大物。熊谷はどうしても肩に力が入ってしまう難役ですが、今の段階ではまず型(手順)を身体に落とし込み、そこからじっくり細部を彫り込んでいくしかありません。まあそんなわけで、舞台を拝見して思ったことなど徒然なるまま書いてみたいと思います。
歌昇の熊谷ですから当然播磨屋型(つまり二代目吉右衛門の型)ですが、何となく高麗屋型っぽい(つまり二代目白鸚っぽい)ようにも思われました。後から聞けば幸四郎から型を教わったとのことだそうで、なるほどそう云うことかと思いました。そう書くと何だか播磨屋型に他型が混じったかのように聞こえたかも知れませんが、故・吉右衛門の熊谷については映像も多くあるし、故人の書き込み・メモなどもかなり遺っているでしょうから、二人はそれらも参照しつつ、播磨屋型の熊谷はこうあるべきと考えながら演技を構築したことと思います。歌昇の熊谷を見ると、吉之助のなかにある晩年の吉右衛門の熊谷のイメージよりも、随分型っぽい・と云うかかぶきっぽい印象の熊谷に出来上がったように感じました。そこが興味深い。
但し書きを付けますが、吉之助は播磨屋型はこうあるべきとか言いたいわけではないのです。手順の細かいことにあまり興味はありません。幸四郎も歌昇も日常的に故人と接していたわけであるし・故人の舞台も数多く見たはずですから、彼らも伝統を受け継ぐ者として・そこのところは真摯に考えていることと思います。この時「ここはこうする、次はああする」という手順を厳格に模倣する(なぞる)ところから「伝承」というものは始まるものです。その態度に間違いはないと思っています。芸を直截的に受け継ぐ立場にある彼らはこんな風に播磨屋(二代目吉右衛門)の芸をイメージしているのか、令和の今彼らが播磨屋型の熊谷をなぞればこうなるのかと云うことをとても興味深く感じたのです。良いとか悪いとかではなく、どちらかと云えば「保守的」な受け止め方だなと感じますが、これが令和という時代なのでしょうねえ。
一方、吉之助も五十年来歌舞伎を見てきたので・吉右衛門の熊谷を何度も見ましたが、吉右衛門がもう少し長生きしてくれて(そう考えるとコロナ自粛の期間が本当に悔やまれますが)あともう一回熊谷を演じていれば・・と云うところで、結局見ることがなかった幻の・最晩年の吉右衛門の熊谷のイメージを、吉之助は追っているのかも知れないなと思います。今回(令和6年1月浅草公会堂)の「熊谷陣屋」を見て、吉之助が思い描くものとの相違に軽い衝撃を覚えるのは、そのせいかも知れませんねえ。
「熊谷陣屋」の熊谷直実は、二代目吉右衛門にとって特別に重い・あまりに重過ぎる・しかし絶対モノにしなければならない役ではなかったかと思います。(このことは二代目白鸚にとっても同様なことであったと思いますが、ここでは吉右衛門のことに話を絞ります。)それは言うまでもなく初代吉右衛門の記録映画「熊谷陣屋」(昭和26年)が遺っているせいです。(同じような絶対的な重さを持つのは、十八代目勘三郎にとっての・六代目菊五郎の記録映画「鏡獅子」(昭和10年)です。)この重圧(プレッシャー)はご本人にしか分からないものがあります。文字で残っているのと映像で残っているのとでは大違いなのです。いくら良い出来であっても同じようなことをやっている限り、映画と比べられて初代とここが違うじゃないかと比較されるところから決して逃れられないのです。そこで二代目吉右衛門は熊谷と云う役に意識的に初代と異なるアプローチで対した(つまり二代目松緑の型から出発した)ということであろうと吉之助は理解をしています。このことは昭和末期から平成の歌舞伎の保守化傾向、古典化傾向とも密接に関連していることです。(別稿「時代物役者か実事役者か〜二代目吉右衛門小論」をご参照ください。)そのような試行錯誤を続けながら、二代目吉右衛門は初代の芸の感触に少しづつ迫って行った。最晩年の吉右衛門の感触からすれば、もしも令和の時代に吉右衛門が熊谷を演じていたら、余分な力が脱けて淡々とした無常の思いの花道引っ込みになったであろうと想像しています。
吉右衛門が「熊谷陣屋」の熊谷を演じたのは、平成31年(2019)2月歌舞伎座が最後のことになります。しかし、今回の歌昇の熊谷を見ていると、それよりももう少し前の平成22年(2010)4月歌舞伎座(第4次歌舞伎座さよなら公演)辺りの吉右衛門の熊谷が思い浮かびます。(この間にも吉右衛門は熊谷を3回演じています。)まあそんなことであるので、今回の歌昇の熊谷は、(吉之助が夢想する)最晩年の吉右衛門ではなく、もうちょっと昔の(もうちょっと若い時代の)吉右衛門の熊谷のイメージになるでしょうかね。(この稿つづく)
(R5・1・17)
今回(令和6年1月浅草公会堂)の歌昇初役の熊谷ですが、まず良い点を挙げておくと、歌昇の声が低調子であるおかげで、これが義太夫狂言に納まりが良いことです。実際これは昼の部の「十種香」と比較すれば明らかで、「十種香」では竹本と主役級三人(八重垣姫・濡衣・蓑作)が揃って高調子のせいでどうも落ち着かない印象でした。夜の部の「熊谷陣屋」では、新悟の相模・莟玉の藤の方がキンキン高調子で青葉の笛の件など落ち着かないところはありましたが、総体にまあまあ納まりが良い舞台になったのは、歌昇の熊谷が低調子であったことが大きいです。(それと歌六の弥陀六のおかげですね。)どうも昨今は義太夫狂言のトーンが高めでいけません。高めと言ってもホンのちょっとの差異なのですが、そのホンのちょっとの差異が舞台では大きな感触の差異となって現れるのです。試しに何でもいいから昭和40年代の義太夫狂言の舞台映像を取り出して比べて見て下さい。ちなみにピッチが自然に高めになる傾向は芝居だけのことではなく・音楽などでも世界的にあることです。ひとつの理由としてはピッチが高めの方が派手に聞えると云うのでそうなるわけですが、現代の劇場・ホールは昔と比べて反響が良過ぎるなどの環境もあって、これは現代の由々しき問題ではあります。
歌昇は、幸四郎から教わった型に真摯に取り組んで、汗が飛び散るような熱演を見せました。二代目吉右衛門を尊敬する気持ちがビンビン伝わってきました。今の段階では型の手順をしっかりなぞって・型を身体のなかに落とし込むことですが、それは十分出来ていたと思います。この舞台は歌昇にとって良い経験になることでしょう。
このことを認めたうえで歌昇の熊谷の課題を考えたいのですが、吉右衛門の熊谷の型を真摯になぞった結果、型が元々持っている原初的なイメージが結構生(なま)に出たと云う印象を持ちますねえ。前章で「随分型っぽい・と云うかかぶきっぽい印象の熊谷に出来上がった」と書いたのは、そう云う意味です。そうなりそうなところを吉右衛門はオブラートにくるんだ感じで婉曲に・マイルドに出していたのだと云うことに改めて思い至りました。例えば陣屋に戻った熊谷が相模が来ていることに気が付いて思わず袴の上前を叩く・その仕草に、吉右衛門だと「これから首実検という一番マズいところに来てくれた」という内心の苛立ちが出ますが、その同じ仕草が歌昇であると「俺は怒っているんダゾウ」と女房を威嚇する感じで怒りがストレートに強く出る。その違いは目付きとか・間合いであるとか・袴の叩き方のニュアンスの違いから来るわけです。もちろんどちらも正しいと云えば正しいのですが、恐らく歌昇が型の手順を忠実に・かつキッチリ履行しているせいで、型の原初的なイメージがよりストレートに出るのですねえ。そう云うことの積み重ねで、歌昇の熊谷は型っぽい・と云うかかぶきっぽい、ちょっと暑苦しい印象になったと思います。
したがって歌昇が今後熊谷を演じる時の課題は、「ここはこうする、次はああする」と云う段階を脱して、自然主義演劇的な人間理解によって熊谷の悲劇を読み直す、そこから型を再構築するということだろうと思いますね。そうすることで、同じ手順であってもニュアンスが変わって来る、舞台に現れる印象もまた違ってくると云うことです。そうやって次第にホントの播磨屋型が出来上がって行くと思います。大事なことは「自然主義演劇的な人間理解」と云うことです。それがなければ播磨屋型にはなりません。逆に言えば・それが正しく出来てさえいれば、「ここはこうする、次はああする」なんて手順はどうでも良いのです。
歌昇の熊谷を「かぶきっぽい熊谷」と書きました。ザックリ見た印象では、前半の熊谷は花のような若武者を情け容赦もなく殺した武骨者(つまり悪い人)で、後半においては熊谷が殺したのは実は我が子小次郎で・大将義経の命により無冠の太夫敦盛の命を救うための身替りとしたのであると云うことで良い人となる。これが何となく歌舞伎によくあるモドリのパターンに乗ってくる感じに見えるわけです。だから幕切れ(幕外の花道引っ込み)が我が子を殺さねばならなかった熊谷の個人的な悲しみという感じに映る。確かにはるか昔の歌舞伎の熊谷はそんな感触であっただろうと思います。歌昇の熊谷は、そんな「かぶきっぽい」昔の熊谷の感触に逆戻りしたかのように見える。吉之助が「軽い衝撃を覚える」と云うのは、そこのところです。
しかし、戦後の歌舞伎が経てきた自然主義演劇的な人間理解からすると、熊谷の悲劇はそんなに単純なものでないと云うことになると思います。反戦思想でも良いし、無常観・諦観の情でも良い、生きることの意味は何かとか、人は何を守って生きて行かねばならないかと云う疑問とか、そのような汎人類的な・もっと大きな主題として熊谷の悲劇を捉えることになるのです。そもそも明治の九代目団十郎型がそう云うものであったし、戦後の初代吉右衛門の熊谷の映画がそう云うものであったし、二代目吉右衛門の熊谷も試行錯誤しながら・その方向に向かったと思います。それが播磨屋の熊谷だと思います。
ですから歌昇の熊谷は現段階ではこれで十分なのですが、次の段階に於いて大切なことは、熊谷の悲劇を令和の現代人の感性で徹底的に読み直して、型に新しい気持ちを吹き込む・新しい命を吹き込むということです。そうすることでその型はホントの播磨屋型になって行くことでしょう。
(R5・1・18)