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五代目米吉・初役の八重垣姫

令和6年1月浅草公会堂:「本朝廿四孝〜十種香」

五代目中村米吉(八重垣姫)、四代目中村橋之助(花作り蓑作実は武田勝頼)、初代坂東新悟(濡衣)、四代目中村歌昇(長尾謙信)、初代中村種之助(白須加六郎)、二代目坂東巳之助(原小文治)


1)反魂香の奇跡

本稿は令和6年1月浅草公会堂での初春歌舞伎の「本朝廿四孝〜謙信館(十種香)」の観劇随想です。米吉の八重垣姫・新悟の濡衣はともに初役、橋之助の蓑作は令和4年10月御園座での初役以来の2度目ということです。「謙信館」は丸本時代物の人気作品ではありますが、ドラマに取り立てて山場がなくて・滔々と流れる大河の如くの・風格本位の芝居であるので、ともすれば芝居がダレてしまう。こういう難物は、今の段階では型(手順)を覚えて身体に落とし込むだけで精一杯でしょう。それは仕方がないことで、一度はこの過程を経なければ芸の「先」は見えてこないわけですが、演じながら型の背後にあるもの(心)を常に意識して欲しいと思いますね。まあそんなわけで、舞台を拝見して感じたことを徒然なるまま書いてみたいと思います。

この二・三十年来歌舞伎を見て義太夫狂言の多くに感じる共通した問題は、竹本も含めて全体が次第に高調子へと推移していることです。高いと云ってもホンのちょっとの差異です。しかし、そのホンのちょっとがとても大きな舞台の印象の差異になって現れるのです。今回の舞台も例外ではなく、主要三人(八重垣姫・濡衣・蓑作)ともにかなり高調子気味です。このことは歌舞伎全体の問題であるので・つまりそう云う過去の舞台がお手本になっているので・今回の舞台だけをあげつらっても仕方ないことですが、今回の「謙信館」前半(謙信登場より以前)が浮いて聞こえるのは「なぜなのか」?原因をじっくり考えてみた方が良いかと思いますね。

この芝居の通称を「十種香」(じしゅこう・じゅっしゅこう)と申します。十種香とは、栴檀(せんだん)・沈水(じんすい)・蘇合(そごう)・鬱金(うこん)など十種類の香木を調合したお香のことです。八重垣姫は許婚の武田勝頼が切腹して死んでしまった(表向きにそうなっている)と信じているので、仏間にその絵姿を掛けて香を焚いて回向しています。「十種香」冒頭は死んだ勝頼への鎮魂の念がお香の煙のように全体に立ち込めているのです。・・であるとすると、この場の空気は沈痛で重いものでなければならないのではないでしょうか?そう云うことを歌舞伎役者はあまり考えないみたいですねえ。この芝居は八重垣姫の「恋」を描いている、そう思っているようです。確かに芝居が終わってみればそう云うことですが、しかし、「十種香」前半はそうでないのです。八重垣姫は、

「申し勝頼様、親と親との許嫁、ありし様子を聞くよりも、嫁入りする日を待ち兼ねて、お前の姿を絵に描かし見れば見る程美しい。こんな殿御と添ひ臥しの身は姫御前の果報ぞと、月にも花にも楽しみは、絵像の側で十種香の、煙も香花となつたるか。回向せうとてお姿を絵には描かしはせぬものを、魂かへす反魂香、名画の力もあるならば可愛とたつた一言の、お声が聞きたい」

と言います。ここに「魂かへす反魂香」という詞章が出てきます。「反魂香」とは、焚くとその煙のなかに死んだ者の姿が現れるという不思議なお香のことを言います。その典拠は中国の故事にあります。唐の詩人・白居易の「李夫人詩」のなかに、漢の武帝が最愛の李夫人を亡くした後、道士に霊薬を調合させて金の炉で焚き上げたところ、その煙のなかに李夫人の姿が見えたとあるそうです。大事なことは、あの世へ旅立っていった者(死者)を弔い、現世に生きる者(生者)が自分が追い求めるもの(故人の姿)を煙のなかに見たいとする思いの強さです。そんな八重垣姫の思いが届いたか、勝頼が眼前に現れます。これは十種香の煙が引き寄せた反魂香の奇跡に違いありません。

八重垣姫が恋するのは、そっくりの「蓑作」ではなく、あくまで「本物の勝頼」です。八重垣姫には、これがまことの勝頼さまか・幻影か?どちらか確信が持てません。八重垣姫の眩暈(めまい)は、濡衣から「ご推量に違わず、あれが誠の勝頼様」と云われるまで続きます。ということは、ここまで八重垣姫の死んだ勝頼への鎮魂の念が持続していなければならないはずです。この場の空気は沈痛で重いまま維持されねばなりません。そうでなければ反魂香の効果が失せてしまいます。だからこの場の台詞は高調子に派手に明るく語るものではないということですね。(この稿つづく)

(R6・1・14)


2)蓑作の性根について

このように「謙信館」冒頭は死んだ勝頼への鎮魂の念がお香の煙のように全体に立ち込めているのです。実はその「勝頼」は偽勝頼であったと云うことですが、しかし、この場が鎮魂の念に満ち溢れていることは疑いありません。事情は三者三様ですが、鎮魂の気持ちは三人(八重垣姫・濡衣・蓑作)ともに同じです。八重垣姫のことは前章で述べました。濡衣・蓑作についてはどうでしょうか。

まず濡衣については、(二段目・勝頼切腹の場で描かれますが)偽勝頼の恋人が濡衣であったと云うことで、まさに鎮魂の当事者です。濡衣は、八重垣姫が死んだと思って一生懸命弔っている勝頼が実は生きていることを知っています(それは自分の恋人です)から、思いは複雑です。しかし、濡衣は恋人の死を大っぴらに嘆くことさえ許されません。(本物の勝頼と偽勝頼は見た目がそっくりと云うことになっています。ここが十種香の奇跡のために大事な伏線です。)立場が複雑であるのは蓑作(実は本物の勝頼)も同じことで、蓑作は何も知らない八重垣姫を不憫に感じていますが、今は真実を明かすわけに行きません。また蓑作には濡衣の気持ちを思いやり、偽とは云え武田の家を守るために切腹した偽勝頼のことを弔う気持ちももちろんあることです。(偽勝頼は自分が偽であることを知らぬままで死んだのです。別稿「廿四孝と八重垣姫」を参照のこと。)

以上のように「謙信館」冒頭には、三者三様の死んだ勝頼に対する鎮魂の念が満ち溢れている。だからこの場を「十種香」と通称するのです。この場を高調子に派手に明るく語るものではないことは、これで明らかです。暗くなってはいけないけれど、しっとりと落ち着いた色合いで語らねばならぬものです。

このような三者三様のトライアングルのなかで、特に立役の蓑作のトーンの取り方が大事になるはずです。八重垣姫と濡衣は女形である以上抑えると云っても高めの調子ですから、三重唱で蓑作の台詞を高めの調子に作ってしまうと、全体の印象が平板に聞こえてしまいます。鎮魂の念が伝わって来ないのです。今回(令和6年1月浅草公会堂)の「謙信館」が浮いた印象に聞こえるのは、米吉(八重垣姫)と新悟(濡衣)がキンキン高調子であるせいもありますが、橋之助(蓑作)が台詞のトーンをもっと低調子に取っていれば、印象はかなり変わって来るはずです。トライアングルはもっと落ち着きのある趣になったはずです。

橋之助(蓑作)についてはもう一つ申し上げたいことがあります。橋之助は役の性根を勝頼に・つまり大名の御曹司としての品格と容姿優れた若衆の色気に置いていると感じますが、これで良いのかと云う疑問です。このことは冒頭の「われ民間に育ち人に面を見知られぬを幸ひに花つくりとなって入りこみしは・・」をどう読むかという問いに関わってきます。ここを字面だけ読めば、本物の勝頼に立ち戻り・素でしゃべっているかのように読める、橋之助はそう思っているのでしょう。だから台詞の調子が自然と時代に・高調子になって来ます。しかし、吉之助はここはそうあるべきでないと思いますね。勝頼は決して蓑作の意識を捨てていません。ここでそのことを忘れたら潜入計画はおじゃんになってしまうのです。このことは濡衣が「申し蓑作さま、合点の行かぬあなたのお姿・・」と呼びかけていることでも分かります。もちろん花作り蓑作は身体から滲み出る品格と色気を隠そうとしても隠されぬ・そう云う人物ですが、この場面では「勝頼」ではありません。「謙信館」では勝頼の気分で言う台詞と蓑作の立場で言う台詞とが交錯しますから、そこは語調の変化で対処して、蓑作のトーンに一本筋が通ったものが欲しい。つまり蓑作にしっかりした男(実)の印象が欲しいのです。優美一辺倒ではならぬと思います。(この稿つづく)

(R6・1・16)


3)米吉初役の八重垣姫

米吉初役の八重垣姫は、清らかで可愛らしいお姫様になっています。そこのところは予想通りで、手順の一応のところは出来ていると思いますが、現在のところはまだ可愛らしさに留まっていると云うことかと思います。これは初役ならば仕方がないことで、可愛くなけりゃあ米吉でないとも言える。今の段階ではそれで宜しいのですが、演じながら型の背後にあるもの(心)を身体のなかに落とし込んでいかねばなりません。八重垣姫と云う役はもちろん美しいには違いありませんが、その美しさはパアッとした・裏表のない・明るい美しさとはちょっと異なると思います。それはどこか陰にこもった粘着質的な要素を持つものです。そのような八重垣姫の粘着質的なもの(性格)が十種香の奇蹟を引き寄せるのです。(別稿「超自我の奇蹟」をご参照ください。)

と云うことは、現在の米吉の翳りのない無垢な美しさと、八重垣姫に求められる美しさとはちょっと趣が異なるものと云うことになろうかと思います。しかし、歌舞伎の立女形の役どころにはそう云う性質のものが多いわけですから、これから米吉もそう云う役どころを何としてもモノにして行かねばなりません。

そこで大事になることは、所作の息の持ち方だと思います。身体の動きのなかに、ねっとり粘着質的な息の深さが欲しいと思います。動きをゆっくりすると云う意味ではなく、深い息を以て舞踊のようにじっくり緩急をとって形を決める。そう云う要素が付け加わることで、米吉の美しさも奥行き・深みを持ったものに変化していくだろうと思います。例えばサワリの「許嫁ばかりにて枕交はさぬ妹背中、お包みあるは無理ならねど、同じ羽色の鳥翼。人目にそれと分らねど親と呼び、又つま鳥と呼ぶは生(しょう)ある習ひぞや。・・」という竹本の詞章に、今の米吉は動きを合わせて形を決めるだけで精一杯であろうと見ましたが、じっくりとこちらから竹本を引っ張るくらいの心持ちで息を詰めて掛かる、そういう修練が必要であろうと思います。そのような息の詰め方で参考になるのは、何と言っても六代目歌右衛門ですね。

新悟の濡衣は悪くありませんが、八重垣姫との対照上もう少しトーンを下げてもらいたいですね。そこを直せばもっと落ち着いた印象になろうかと思います。「謙信館」後半(謙信登場以降)は、小気味良く芝居が運びました。立役三人(歌昇の謙信・種之助の六郎・巳之助の小文治)ともに好演です。

(R6・1・17)


 

 

 

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