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二代目松緑の助六・七代目梅幸の白酒売〜「助六」

昭和52年1月国立劇場:「助六曲輪菊」

二代目尾上松緑(花川戸助六)、七代目尾上梅幸(白酒売新兵衛)、十七代目市村羽左衛門(髭の意休)、七代目尾上菊五郎(三浦屋揚巻)、三代目尾上多賀之丞(助六母織江)、三代目河原崎権十郎(通人里暁)、七代目坂東蓑助(九代目坂東三津五郎)(くわんぺら門兵衛)、十代目市川海老蔵(十二代目市川団十郎)(福山のかつぎ富吉)、三代目坂東亀蔵(初代坂東楽膳)(朝顔仙平)、五代目坂東玉三郎(三浦屋白玉)、初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(後見)他


1)二代目松緑の助六

本稿で紹介するのは、昭和52年(1977)1月国立劇場での・二代目松緑の助六による「助六曲輪菊」(すけろくくるわのももよぐさ)の舞台映像です。松緑は助六を2回演じました。最初が昭和26年(1951)12月明治座でのことで、二回目がこの国立劇場での映像の時で、これが26年振りの助六でした。まあ松緑と云うと骨太い時代物を得意としたどっしりしたイメージなので、助六の優美なイメージからするとちょっと遠い感じは否めません。兄である十一代目団十郎が助六なら松緑はかんぺら門兵衛と云ったところでしょうが、この頃の松緑は毎年国立での初春芝居などで歌舞伎十八番ものの復活を重点的に手掛けていましたから、助六もその線で順番が回ったものかと思います。イメージでなさそうなのは御本人も重々承知のうえで、当月筋書きの「出演者のことば」を読むと、

『能書きはどうでもいいのであって、当時の人気役者がやるのが一番良く、出てきたらパッと花が咲く役者がやるか、もしくは九代目団十郎のごとく、曽我五郎の形かたちをキチンと見せる、そのどちらかであって、小生ごとくがやるものではありませんが、(中略)どっちかというと、曽我五郎に逃げるしかありません。』(二代目尾上松緑)

と自虐的に語っています。しかし、穿って読めばこれは「無骨な自分でなければ出来ない助六を見せてやろうじゃないか」と云っているようにも読めますね。確かに十五代目羽左衛門以降の助六は優美なイメージが勝った「日本一のいい男・色男」になってしまいました。しかし、助六と云う役も本来どこかに歌舞伎十八番・つまり荒事の要素を内包しているはずです。そこが取っ掛かりになると思います。

まずは助六の出端の踊りで見物をどこまで唸らせるかが勝負です。折口信夫は「助六」は煎じ詰めれば花道の出端だけの芝居ですと云いました。出端に「助六」の魅力が凝縮されていると云うことです。また九代目団十郎は「助六は花道へ出てポンと傘を開いたとき、俺は日本一の色男だと思う自信がなければ出来ない役だ」と云いました。色男のことは兎も角、「俺は日本一だ」という自信がとても大事なことになります。踊りが上手い役者だから当たり前のことですが、松緑の助六はこの出端がとても良いです。この出端で勝負あった感じですね。確かにスッキリ美しい印象からは遠そうな助六ですが、決まり決まりの形の重心が低くて安定感がある、次々に繰り出す形がビシッと決まって力強い。そこがいつもの助六とは異なる魅力です。

助六というのは元々上方のキャラクターで、京都に住む助六という男と島原の遊女揚巻が心中した話を芝居に仕組んだのが江戸に渡ってかぶき者の主人公(曽我五郎)に重ねられたものであるそうです。その変遷過程は容易に解き明かせるものでありませんが、出端の歌詞を見れば・これはなかなか哀愁に満ちたもので、色男助六の優美なイメージもここから発するであろうことは察せられます。そうすると松緑の助六は甘ったるい要素が乏しいので・これはちょっと違うと云うことになりそうですが、この主人公のもうひとつの解である曽我五郎(荒事)の線でくくってみると・この方程式が見事に解けたような気がするのも面白いことであるなと思いますね。やっぱり「助六」は歌舞伎十八番の内なのです。

松緑の台詞は歯切れが良く、どこか世話の軽さを加えた感じで聞きやすい。助六は高調子の役であると思います。一方、松緑は本来低調子の人ですが、言い廻しをよく工夫して高い音も無理なく聞かせます。この台詞廻しで松緑は弁慶なども当たり役にしてきたのです。そんなところを令和の今の若い役者にも是非お手本としてもらいたいところです。(この稿つづく)

(R7・5・22)


2)七代目梅幸の白酒売など

「助六」が世話物か時代物かと云うのは議論のあるところかと思います。市井の生活風俗を活写していると云うことからすれば世話物ですが、曽我の世界を背景に持ち・古(いにしえ)の元禄歌舞伎の様式色が濃いことを考えれば時代物としても良さそうです。まあどちらの要素もあることですが、今回(昭和52年1月国立劇場)の「助六」の舞台は、どことなく世話の感触が強いように感じます。ちょっとこじんまりした印象もなくはないですが、菊五郎劇団主体の面々でまとまって・気心が知れているからでしょうかね、登場人物が生きている。この感触はなかなか悪くありません。松緑の助六は談話では「曽我五郎に逃げる」なんて言ってましたが、もちろん決めるべきところはキチッと張っていますが様式一点張りなんてところは全然なく、骨太い男伊達を描き出しています。このテンポの小気味良さが世話の軽さに通じます。

共演の梅幸の白酒売が、松緑の助六との対照が効いてとても良いです。かつきりとした風情のなかに柔らかみがあって、元々梅幸は若衆など得意としていますからこれは当然のことですが、いつもより芝居っ気を出して滑稽味を強調しているようで、ホウ梅幸にもこんな一面があったかと思うところがありますね。そこでちょっと思い出すのは「廓文章」の伊左衛門のことで、梅幸は夕霧太夫のみを演じて・伊左衛門を演じなかったのですが、梅幸がこの白酒売の感じで上方和事の伊左衛門を一度でも演じてくれていれば良かったのになと思います。兎に角、梅幸の白酒売は十七代目勘三郎と並んで歴代の白酒売のなかでも忘れがたいものです。

羽左衛門の意休は、この人の実直で手堅い芸風からするとスケールの大きさや憎々しさに不足するところがあるのは事実ですが、実(じつ)の意休という感触がするのがこの人ならではです。今回の「助六」の舞台が世話の感触がするのは・多分そう云うところから来ると思うのですが、羽左衛門だけでなく共演の面々が長年の経験から、相手役(ここでは松緑の助六)がそう来るのならば俺は俺の柄でこのように合わせると云う方程式がちゃんとある、そこが互いの気心が知れていると云うことなので、だから羽左衛門の意休も松緑の助六もぴったりそれなりのものになって来るのは当然のことなのだな。これは蓑助のかんぺら・亀蔵の朝顔を見てもそう感じますね。

松緑の助六ならば・この顔揃えならば揚巻は梅幸となるのが定石でしょうが、今回は世代交代で揚巻を菊五郎・白玉を玉三郎が勤めます。令和の今から考えると凄い組み合わせなのだが、二人とも花の盛りの美しさを見せています。菊五郎は神妙に勤めていい出来です。玉三郎も悪くない出来なのですが、この面子のなかに入いってしまうと若干感触が異なる感じがしますね。ホンのちょっと台詞のテンポが伸びる感じがします。

(R7・5・24)


 


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