(TOP)        (戻る)

女形の弁天小僧〜五代目菊之助の弁天小僧

平成8年5月歌舞伎座・「弁天娘女男白浪・浜松屋」

五代目尾上菊之助(弁天小僧)・十二代目市川団十郎(南郷力丸)

(五代目尾上菊之助襲名披露)


1)半四郎の弁天小僧を想像する

「青砥稿花紅錦画 」(弁天娘女男白浪)は文久2年(1862)3月・江戸中村座での初演。これより3年前のことですが、安政6年(1859)から2年にわたり三世歌川豊国が「豊国漫画図絵」30枚シリーズの浮世絵を出版しており、そのうちの1枚が「弁天小僧菊之助」なのです。これは実は黙阿弥が豊国に絵を描かせて、あたかも絵をヒントにして後から芝居を作ったかのように仕掛けたものでした。芝居絵が初演前に作成されることはよくある話でして、興行が始まってから役が変わったり粗筋が変更されたりして実際の場面にはない芝居絵が出てしまうこともこれまたよくあることでした。まもなく「弁天小僧」を上演することを黙阿弥は考えていたのでしょう。

五代目菊五郎はその晩年の芸談(明治35年)において「自分を弁天小僧役にした豊国の白浪五人男の続き絵が出されてこれに黙阿弥がヒントを得て作劇したものだ」と語っています。しかし、実はこれは菊五郎の勘違いで、この時の浮世絵の弁天小僧の顔は菊五郎(当時は十三代目羽左衛門)ではないのです。じつは浮世絵で描かれていた弁天小僧は三代目粂三郎・後の八代目半四郎でした。(別稿・写真館「半四郎の幻の弁天小僧」をご参照ください。)しかし、ご承知の通り、文久2年の初演における弁天小僧は菊五郎が演じ、半四郎の役は赤星十三郎でありました。また、半四郎が弁天を勤めた記録は残っておりません。

このことから分かるのは、まず黙阿弥が最初に弁天小僧を構想した時にその役に考えていたのは半四郎であったということです。そして、何かの理由でそれが菊五郎に役が回ったということです。半四郎が同座しているわけですから、病気休演代役ということではないのです。黙阿弥がプランを変えたということです。そこから弁天小僧という役を考えてみたいと思います。

まず別稿「源之助の弁天小僧を想像する」でも紹介した折口信夫の悪婆論を振り返ってみます。折口信夫は「もともと歌舞伎芝居は女形の演じる女を悪人として扱っていない。立女形や娘役には昔から悪人が少ない。昔の見物は、悪人の女を見ようとしなかったのである」と言っています。(折口信夫:「役者の一生」)もともと女形というのは男が女を演じるという不自然な存在です。だから女形を演じる役者は窮屈な・鬱屈したストレスをつねに感じているものです。「スカッとしたいぜ・発散できるものが欲しいぜ」という気分を女形はどこかに持っているのです。実際、女形役者に大酒飲みは少なくありません。

そういう女形の鬱屈した気分が、 「悪婆」のような・善人のパターンを破る役柄を求めるのです。だから、切られお富の科白に「お家のためなら愛嬌捨て憎まれ口も利かざあなるまい」というのは女形のある特性を示している重要な科白だと折口は言うのです。つまり、女形としてあるまじき事をするのも忠義のためだから仕方ないと断りをすることで、「女形本来の性質である善人に立ち返っているのだ」と言うのです。折口は、お嬢吉三も弁天小僧も半男女物というべき だが傾向から言えば「悪婆もの」の範疇に入れることができると書いています。

このことは非常に大事な指摘です。黙阿弥の「三人吉三」は万延元年(1860)市村座の初演です。初演のお嬢吉三は半四郎(当時は粂三郎)ですが、これは半四郎の芸がおとなしくて人気がパッとしなかったのを何とか売り出そうというので考え出された役でした。前述の半四郎の弁天小僧の絵が出たのが安政6年(1859)のことですから、この時期、黙阿弥が半四郎の売り出しに苦心していたことが察せられます。

以上のことからお嬢吉三や弁天小僧という役柄を悪婆の延長線上でとらえ直してみる必要があると思うのです。美しい女形が突然男の声に変わって・裾をまくって胡坐をかいてみたりするのは、窮屈な・鬱屈したストレスに苦しめられた女形の究極の願望なのではありませんか。これほどにあられもない・はしたない行為はないけれども、女形役者にとってこれほどスカッとすることがありましょうか。悪婆という役柄はついにそこまで行き着いたということです。

あの有名な七五調の(「月も朧に白魚の・・・」(お嬢吉三)/「浜の真砂と五右衛門が・・」(弁天小僧))のような長台詞を正面切って高らかに詠い上げる行為というのは本当は立役の行為です。長台詞を高らかに詠い上げるというのは「本来の女形の身にあるまじきこと」なのです。そういうことをあえてするという意識が、役者にも見物にもあるから、朗々としたリズムが独特のカタルシス・独特の悪の美を生み出すことになるのです。

歌舞伎のガイドブックなどを見ると、女形の半四郎の初演したお嬢吉三と・立役の菊五郎の初演した弁天小僧とでは役の発想が異なると書いているものが少なくありません。菊五郎が立役だと決め込んでいるようですが、18歳時点の菊五郎は女形だって修行中であるし、まだまだ役柄が固まっていたわけではないのです。弁天小僧が立役だと思うのは 現行の舞台の役者の視覚的印象にとらわれているからなので、悪婆の延長線上に見ればふたつとも まったく同系統の役なのがお分かりになるはずです。そのためには、黙阿弥が夢見た半四郎の弁天小僧の舞台(それは実現されなかったわけですが)を想像してみなければならないのです。

それでは黙阿弥は、どうして文久2年(1862)の初演の弁天小僧を半四郎に演じさせずに・若い菊五郎に任せたのかということが問題になるでしょう。

万延元年(1860)の「三人吉三」初演は、半四郎のせいというわけではないのですが、ヒットというわけにはいきませんでした。(安政の大獄での社会不安が原因とも言われています。)黙阿弥は前年の安政6年1月市村座での「十六夜清心」でも半四郎をイガグリ頭にしています。しかし、前半の十六夜の方は清心役の小団次に「これなら寺を開いても惜しくはねえ(=破戒しても構わないとの意味)」と言わせるほどの出来でしたが、後半のおさよの方はやはり好評とはいかなかったようです。半四郎はおとなしい芸風なので、開き直れなかったということかも知れません。それは半四郎のおとなしいイメージを破壊するための仕掛けであったのですが、どうも黙阿弥の期待したような成果を半四郎のお嬢吉三やおさよは十分に挙げることができなかったらしいのです。それが黙阿弥に半四郎売出しの方向転換を即したとも考えられます。

あるいは年齢の問題の方が大きかったかも知れません。文久2年(1862)・「弁天小僧」初演の年には、文政12年生まれの半四郎は33歳・弘化元年生まれの菊五郎は18歳(ともに満年齢)でした。黙阿弥は、もう役どころが固まってきた半四郎に・ある意味では見切りをつけて、将来性のある若い菊五郎に弁天小僧の役を振り替えたということかも知れません。

この経過が弁天小僧という役のイメージを混乱させているのです。弁天小僧を考える時に、まず黙阿弥が半四郎で当初構想した弁天小僧のイメージから、菊五郎が演じたことで切り 捨てられてしまったもの・付け加えられてしまったもの、このふたつを考えてみる必要があります。黙阿弥が半四郎の起用をあきらめたことで捨てられてしまったものがあったに違いありません・あるいは菊五郎を起用することで 黙阿弥が新たに期待したものがあったことでしょう。それは改良とか改悪ということではなくて、役のイメージというのは作者の作意と役者の身体が共鳴して生み出すものだからです。

半四郎がその期待に応えられなかったとしても・黙阿弥が半四郎に夢見て・また半四郎の起用をあきらめたことで捨てざるを得なかったイメージとは何であったでしょうか。それは清冽な美しさを持つ乙女が伝法な言葉使いをして・胡坐を組んで見得をするという、そのあられのなさ・はしたなさであったでしょうか。そこにこそ悪婆の役の面白さがあった はずです。その爛熟した・ちょっと腐敗した美しさはいかにも幕末の歌舞伎の行き着いたところであったろうという気がします。

18歳の菊五郎が弁天小僧に付け加えた新しいイメージとは何でしょうか。それはまだ幼さの残る・中性的な美しさを持つ少年が女を装い、ゆすり場でその 男の正体を見せて開き直るという面白さでしょう。それは岩本院の稚児上がりという弁天小僧の役の設定に似合っているとも言えますが、しかし、それはカチャッと芸のチャンネルを切り替える鮮やかさであって、ある意味では健康的なのです。悪婆本来の鬱屈した腐敗した面白さではありません。そこが半四郎のイメージとは決定的に異なる点なのですが、それが菊五郎の個性なのです。菊五郎の出現は新しい時代(明治という時代の歌舞伎)の到来を予告するものであったし、事実そうなったのです。一方の半四郎は 「江戸」という時代の古風な雰囲気を残す女形として後世に記憶されることになりました。黙阿弥の判断は正しかったのです。


2)菊之助の弁天小僧

そこで今回取り上げるのは、平成8年5月歌舞伎座での5代目尾上菊之助襲名での「弁天小僧」の映像です。この時点で菊之助は18歳ですから、初演の五代目菊五郎と同年齢ということです。この菊之助の弁天小僧は確かに「教えられた通りに演っております」というような固さはありますが、素材として弁天小僧を考える時に非常に興味深いと思いました。それは、いかにも女形の演じる弁天小僧という感じがすることです。つまり、菊之助の弁天小僧は吉之助が想像している弁天小僧のイメージに近い・ぴったり同じというのではないですが、これまで見たどの弁天小僧よりイメージが比較的近いとそのように感じられました。もちろん18歳の女形の演じることですから、「爛熟した・ちょっと腐乱した美しさ」というわけにはいきませんが、しかし、17歳という弁天小僧の役の設定年齢に相応の・膨らみ掛けた蕾の花の若女形の美しさです。

従来の弁天小僧のイメージからすると、 菊之助の弁天小僧は女から男への変わり目がキッパリしないということが言われるかも知れません。例えば玉島逸当に「チラリと見たる桜の彫物」と言われて「エッと」と男の声を上げることをせず、腕を隠してうずくまるだけ。正体を現して「もう化けちゃあいられねえ」という直前、懐紙を持った手を震わせながら顔を上げる表情もそうきつい感じはない。「どこの馬の骨か知るものか」と言われてキッとなる表情も抑え気味である。全体にちょっとおとなしい・というか控えめなところがあるかも知れません。しかし、これは女形の演じる弁天小僧なのだから、吉之助はこのくらいで程が良いと思いますね。

「長いものが脚にベラベラ巻きつきやがって窮屈で仕方がねえ」というような捨台詞(注:この台詞は黙阿弥全集にはない)も、女形の弁天小僧がしゃべれば立役とはまったく違う面白さがあるのがお分かりになるはずです。女形なんて・辛気臭くて窮屈で演ってられるかい・・というような響きになる。これこそ悪婆の台詞ではないでしょうか。

それに、弁天小僧が「小僧」であることが菊之助の弁天小僧にはよく出ていたと思います。弁天小僧は本人の言っているように「私ァほんの頭数」なので、まだ悪事を覚え始めたばかりの・ワルぶっている若僧に過ぎません。根っからの悪ではないのです。あまり上演されなくなりましたが浜松屋奥の間で、生き別れた父親(幸兵衛)とめぐり合えば「面目ない・・」と嘆くような子供なのです。あんまり凄みのある悪の魅力を弁天小僧が見せちゃあいけません。南郷に指南を受けながら習いたてで〜すという甘っちょろさが欲しいと思います。

女形の演じる弁天小僧のイメージ・覚えたての悪ですという小僧のイメージ、このふたつが菊之助の弁天小僧には程よくミックスされているのです。それは菊之助が意識して表出したものではなくて・18歳という菊之助の肉体だからこそ自然に出てきたものなの でしょう。後年再び菊之助が演じても出そうとして出せるものではないかも知れません。吉之助は18歳でこの役を演じた五代目菊五郎のことを思いました。

今回は襲名披露ということで共演の役者も揃っていますが、特に感心したのは団十郎の南郷力丸です。前半はいかにも武士らしく・後半はいかにもワルらしく、どっしりとして安定感があります。この南郷が後ろに控えているからこそ弁天小僧はやんちゃに振舞える、そう思いました。

(H16・2・3)


 

 

       (TOP)     (戻る)