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八代目半四郎の幻の「弁天小僧」


まず下の錦絵をご覧下さい。安政6年(1859)から2年にわたり三世歌川豊国が描いた「豊国漫画図絵」30枚シリーズのうちの1枚で、三代目粂三郎・後の八代目半四郎の弁天小僧菊之助です。黙阿弥は「青砥稿花紅錦画」を着想して豊国にこの絵を描かせて、あたかも絵をヒントにして作劇したように思わせたのです。同作の初演は、文久2年(1862)3月、江戸中村座のことでした。

ここで「アレッ?」と思われたと思いますが、初演の時の弁天小僧は半四郎ではなくて、当時19歳であった十三代目羽左衛門、すなわち後の五代目菊五郎であり、その後、菊五郎の持ち役となったものでした。初演の時の半四郎の役は赤星十三郎でした。また、半四郎が弁天を勤めた記録は残っておりません。しかし、この錦絵が示す通り、黙阿弥が最初に着想した時の弁天小僧役は半四郎であったのです。

このことは重要なことで、別稿「源之助の弁天小僧を想像する」に書きましたように、この弁天小僧と半四郎が初演した「三人吉三」のお嬢吉三はともに同じ役者の個性を念頭に置いており、共通の発想で書かれているということを示すものです。これらの役は半男女物なのですが、系統とすれば「悪婆」の範疇であることも理解されると思います。

歌舞伎の案内書に「似てはいるけれど真女形の半四郎の初演したお嬢吉三と立役の菊五郎の初演した弁天小僧とは役の持つ色気が違う」と書いてあるものがいくつかありますが、実際の舞台の視覚的印象にとらわれ過ぎていると思います。

黙阿弥の構想から3年経って、初演の弁天役が菊五郎に変わったのは成長著しい若手を抜擢したということでありましょうか。五代目菊五郎の芸談(明治35年)では、「自分を弁天役にした豊国の白浪五人男の続き絵が出されてこれに黙阿弥がヒントを得て作劇したものだ」と菊五郎が語っておりますが、これは本人の勘違いで す。なお、芝居絵が初演前に作成されることはよくある話で、興行が始まってから役が変わったり粗筋が変更されたりして実際にはない芝居絵が出てしまうこともこれまたよくあることでした。

左の写真は初演者である五代目菊五郎の弁天小僧です。菊五郎にとってはまさに出世芸と言える役となりました。晩年の写真でありますが、錦絵らしい風貌が独特の味わいを感じさせます。若い時の中性的な妖しい魅力は想像するしかありませんが、黙阿弥の最初の構想を変えさせるような何ものかが若き菊五郎にあったに違いないのです。

左の写真は四代目源之助の弁天小僧です。源之助と言えば当たり役でまず挙がるのは、女団七・姐妃のお百といった「悪婆」物ということにどうしてもなってしまいますが、弁天小僧・魚屋宗五郎・め組の辰五郎など菊五郎の役どころも得意とし、晩年になっても源之助はこれらの役をよく演じました。多賀之丞が語っていたように、源之助の弁天は「弁天なんかこりゃ飛び抜けてましたね。五代目(菊五郎)よりいいんじゃないかって話でしたよ。間合いなんかはね、これはとても五代目だって真似ができないって。」といったものだったそうです。源之助の弁天には「幻の半四郎の弁天」を想像させる手掛かりがあるように思います。

(H13・4・8)


 

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