「熊谷陣屋」の趣向の働き
令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」
四代目尾上松緑(熊谷次郎直実)、五代目中村歌六(弥陀六)、初代中村萬寿(相模)、五代目中村雀右衛門(藤の方)、八代目中村芝翫(源義経)、三代目坂東亀蔵(堤軍次)、六代目中村松江(梶原景高)
1)芝居の「趣向」について
本稿は令和7年1月歌舞伎座での松緑の熊谷直実による「熊谷陣屋」の観劇随想ですが、舞台について触れる前に、「熊谷陣屋」に於ける「趣向」の機能について暫し考えることにします。
このところ吉之助は歌舞伎に於ける「趣向」と云うことをよく考えます。何故だかは分かっているのですが、それは昨年12月・日生劇場で井上ひさし作の「天保12年のシェイクスピア」を見たせいです。以来このことが頭の片隅に引っかかっており、今月(1月)歌舞伎座の「熊谷陣屋」を見ても、やはり舞台上で作者が意図した趣向がそのとおり十全に機能しているか、このことが気になります。(同じ月の「二人椀久」については別に観劇随想を書きました。これにも趣向のことが絡んでいます。)
井上ひさしは本作「天保12年のシェイクスピア」初演
(昭和49年・1974・1月)の公演筋書に「芝居の趣向について」という小文を寄せて、『芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい。誤解をおそれずに言えば、芝居では思想でさえも趣向の一つなのだ。』
と書いています。これは戯作者として実に力強い宣言であると思いますね。井上ひさしは「趣向を追う」(同じく昭和49年・1974)と云うエッセイのなかでも、初代並木五瓶(「陣屋」の作者並木宗輔よりちょっと時代は下ります)の「戯財録」のなかの文章を引用して、「これを私なりに曲解すれば」と前置きして、次のようなことを書いています。要約しますが、
『作者にはまず書きたいことがある。これがつまり作者の「世界」である。しかし、作者にとってそれが切実な事柄であっても、それが観客にとっても同じように切実であるかどうかは分からない。これをそのまま投げ出されたらどうもなあ・・という場合だってある。それでお金を下さい、というのは厚かましいことで、ここにどうしても、作者と観客とが同時に、そして文句なく乗れるような、切実であるよりは何か面白そうな仕掛けが必要になる。これがつまり「趣向」というものなのではないか。だから観客はおそらく「世界」を見に来るのではない。「世界」がどのような「趣向」に乗っているのか、それを確かめに劇場に足を運ぶのである。』
サテ「熊谷陣屋」の作者・並木宗輔は芝居のなかの趣向にどんな思いを込めたであろうか。そんなことを考えながら芝居を観たいと思うのです。(この稿つづく)
(R7・1・25)
2)「陣屋」の趣向の働き
但し書きを付けますが、井上ひさしは「私なりに曲解すれば」と前置きして、「世界」という用語に自分なりの定義を持たせています。井上ひさしにとっての「世界」とは、作者にはまず書きたいことがあって、これが「世界」であると云うことです。つまりこれは作者が持っている作意・あるいは作品主題のことです。一方、歌舞伎では芝居の時代設定の背後にあるものを「世界」と呼び慣わします(例えば「熊谷陣屋」ならば「平家物語」の世界・または「義経記」の世界となる)が、井上ひさしはこれを云わば「趣向」の枠組み・「趣向」の一部であるとみなしており、これに「世界」という言葉を充てていません。このため文章は多少混乱を来たしていますが、上記を踏まえて続きをお読みいただきたいのですが、
『ある意味では、「世界」と「趣向」は反対概念であり、自分の「世界」に観客の嬉しがりそうな「趣向」を潜り込ませるのは妥協であるかもしれない。事実、そうわたしに忠告をしてくれる人もある。だが、この妥協のなんと快いことであるか。他人様に笑っていただけるなら命も惜しくないと思っている幇間根性のわたしには、これ以上すばらしい妥協なぞないのである。』(井上ひさし:「趣向を追う」・昭和49年)
この文章に、吉之助は戯作者・井上ひさしの真骨頂を見ますね。それでは戯作者・並木宗輔は「熊谷陣屋」の趣向にどんな思いを込めたかを考えることにします。ところで「熊谷陣屋」の筋を簡潔に書くならば、どんな感じになるでしょうか。
「平家物語では「日本一の剛の者」と謳われた熊谷次郎直実は、須磨の浦での戦いで無冠の太夫敦盛卿の首を斬ったことで「この世の無情」を悟って出家したとされていますが、実はそうではなかったのです。直実が斬ったのは、実は我が子小次郎の首だったのです。熊谷夫婦は敦盛の母藤の方に恩義があり、敦盛卿の身替わりとして我が子を斬ったのです。直実は義経の面前に首桶と制札を置き、この制札の文言に従いこの首を討ったと言い、義経は「花を惜む義経が心を察し、よくも討ったり」と首を受け取りました。我が子を無くした直実は髻(もとどり)を切り落とし出家を決意し、黒谷の法然上人を頼まんと陣屋を後にする。」
直実の筋だけを追えば、まあこんな感じで宜しいかと思います。そこで「陣屋」幕外花道での直実の引っ込みで、我が子を犠牲に供さねばならなかった直実の苦悩と悲しみをたっぷりと描く、そこが最大の見所になろうかと思います。
以上のことは、我が子を犠牲に供さねばならなかった直実の苦悩と悲しみを、真に迫った感じで生々しく描けば描くほど、芝居は観客にとって一層身につまされるものになります。現代のリアリズム演劇の考えからすれば、そのように演じることは役者として、と云うよりも人間として当然ということになると思います。しかし、それを真剣にやろうとすればするほど、「陣屋」の趣向が消し飛んでしまうことになるのです。「陣屋」の趣向とは何であったでしょうか。浄瑠璃作者は「陣屋」に複数の趣向を仕掛けていますが、この場合の趣向とは、
「平家物語では熊谷直実は、須磨の浦での戦いで敦盛の首を斬ったことで出家したとされているが・実はそうではなく、直実は実は我が子小次郎の首を斬ったことで出家したのです。」
と云うことです。ここでは(敦盛から小次郎へと)事実の倒置が成されています。しかし、直実が斬ったのが敦盛であっても・小次郎であっても、そのどちらであっても、その行為の結果が同じことになることの方が、もっともっと大事なのです。すなわち、どちらの場合でも直実はこの世の無情を儚んで出家することになる、このことが大事です。このことによって、「この世のあはれさ、この世の無情さ」はどんなことがあっても・決して動かされることのない真理となるのです。事実が倒置されることによって、結果の意味が重複されて強化されることになるわけです。(「陣屋」の他の趣向もみなこの結果を強化する方向に働いています。)
ですから、井上ひさしは「芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい」とか、「他人様に笑っていただけるなら命も惜しくないと思っている幇間根性のわたし」とか言ってますけどね、そんな感じでヘラヘラして趣向ばかりに凝っているように見せかけてますが、最後の最後に芝居に表面に浮かび上がって来るものは、作者が持っている作意・あるいは主題なのです。
したがって作者・並木宗輔が「熊谷陣屋」の趣向で意図したことは、直実が鎧兜を脱ぎ捨て・黒衣の僧形となって舞台に立つのを見て、観客が「アハッこれは作者の仕掛けに見事にやられちゃったな」と思わず苦笑いをして、やはり平家物語が描くところの「この世のあはれさ、この世の無情さ」はどんなことがあっても変えることが出来ない真理なのだナアという思いを噛み締めるならば、作者としてこれ以上快いことはないと云うことかと思いますね。(この稿つづく)
(R7・1・28)
3)「陣屋」の九代目団十郎型について
このように「熊谷陣屋」の登場人物は、「平家物語」から出て・暫くの間そこから自由に動き回りますが、やがて「平家物語」のなかへと戻って行きます。こうして「趣向」の円環が閉じます。この閉じた感覚は文楽の「陣屋」であるならば、
『この須磨寺に取納め末世末代敦盛と、その名は朽ちぬ黄金札、武蔵坊が制札も、花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔。「さらば」「さらば」「おさらば」の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く。』
という幕切れの詞章からスンナリ理解が出来ると思います。一方、現行歌舞伎の「陣屋」の定番である九代目団十郎型ではこの段取りを入れ替え、幕外の熊谷の花道引っ込みで芝居を終えます。団十郎は我が子を身替りに供さねばならなかった直実個人の苦しみに特化するために、幕切れを直実だけの芝居に作り替えてしまいました。但し書きを付けますが、本稿は団十郎型の是非を問うのが目的ではありません。「歌舞伎素人講釈」では団十郎型の検証を何度も行なって来ましたから、詳細はそちらをお読みください。
吉之助が本稿で考えたいことは、団十郎型が直実個人の苦しみに特化しようとしたことは、十九世紀の近代リアリズム演劇思潮の反映であり・そこに「趣向」の閉じた感覚を壊す力を内包するものであることは明らかですが、「江戸歌舞伎の最後の生き残り」を自称した九代目団十郎は恐らく、このことをそこまで深く考えなかっただろうと思われることです。ただしこのことは団十郎を揶揄するものではありません。そのように思わないで下さい。団十郎は「趣向」の感覚が身に染み着いた役者なのですから、役作りを直実個人の苦しみに特化しつつも、最終的にこれを「趣向」に落とし込もうとしたはずです。例えば杉贋阿弥は団十郎の直実について、次のように回想しています。
『(幕切れの花道引っ込みで)成田屋の「夢だ夢だ」とクルクル頭を撫で廻す型は、熊谷自身の飄逸な趣に偏して「ほろりとこぼす」と下から出る弦のツボに落ちない。「十六年はひと昔」は小次郎を観じて無常に泣くのだが、(九代目)団十郎は調子と云い形と云い、自己本位に出家を夢と観じているので、こう悟ってしまうと「柊に置く初雪の」でボロボロ泣くのが揺り返しめいて連続しない(中略)、団十郎はとかく悟り過ぎて困ると思った。』(杉贋阿弥:舞台観察手引草」)
歌舞伎の時代物の幕切れは、主人公が差し出す犠牲を他者が「然り」と受け取りますが、これを「然り、しかしこれで良かったのだろうか」という軽い懐疑の形で終えるものです。団十郎型では懐疑の色合いがさらに色濃くなりますが、それは「忠義への疑念」にまでは至りません。「熊谷自身の飄逸な趣に偏して」おり、「団十郎はとかく悟り過ぎて困る」と書かれています。ここで平家物語が描く「この世のあはれさ、この世の無情さ」が踏まえられています。「然り、苦しく辛いことであったが、それはしなければならないことだった」という形になって、これで「趣向」との折り合いを付けようとしているのです。贋阿弥の記述を読む限り、さすがの団十郎も難儀している様子が伺われます。井上ひさしの表現を借りるならば、そこに「趣向」との妥協が見えると云うことですね。
しかし、「妥協」と云うと悪いことのように聞こえますがね、小次郎は敦盛として須磨寺に葬られることになるわけですから、公にはもはや敦盛なのです。だから団十郎型の幕外花道の引っ込みでは、直実は息子のことを思って泣いているのでもあり、敦盛のことを思って泣いていることにもなる。むしろ幕切れにおいては後者の思いの方がより強くなっているのではないでしょうかね。そうやって直実は「平家物語」へと戻って行く・・・と云うことにするためには、やはり役の気持ちのなかに若干の余裕と云うか・「趣向」の遊び心を持たないといけませんね。(この稿つづく)
(R7・1・31)
4)戦後昭和の「陣屋」のこと
ここまでの考察を整理します。歌舞伎の時代物の幕切れは、これを「然り、しかしこれで良かったのだろうか」という軽い懐疑の形で終えるものですが、この時「趣向」の円環は完全にぴったり閉じているわけでないのです。どことなく懐疑の余韻を残す、その位には開いているのですが、まあ基本的には閉じていると云って宜しいでしょう。しかし、九代目団十郎型の「陣屋」の幕切れでは、直実個人の苦しみに特化することで懐疑の色合いがさらに濃いものとなり、円環の閉じた感覚がはっきりと壊されることになりました。更にこれを延長していけば・それは「忠義への疑念」にまで至ることになるわけですが、団十郎型ではそこまで至る以前のところで留められています。このような閉じた感覚を破綻させるベクトルを団十郎型が持つ「原初的なイメージ」と云うことにしておきましょうか。
団十郎は「陣屋」の幕切れを、「然り、苦しく辛いことであったが、それはしなければならないことだった」という形にして、これで「趣向」との折り合いを付けようとしたのです。このことは明治から昭和前期まで、「尽忠報国」(命を懸けて国の恩に報いよ)を国家スローガンとした時代の倫理道徳に合致することでもありました。相次ぐ戦争に兵士として従軍せねばならなかった若者たちは、「然り、苦しく辛いことであるが、それは国民として耐え忍ばねばならないことだった」と身につまされる思いで直実の苦悩に自分を重ねたのです。こうしたなかで「陣屋」の団十郎型は名型として定着して行きました。
このような状況は昭和20年(1945)敗戦後の昭和後期の日本ではまったく変わってしまいましたが、8月15日で人心が一変したわけではありません。まだまだ戦前の倫理道徳の余韻を引きずったところで人々は生きていたのです。だから吉之助のような「戦争を知らない子供たち」の世代であっても、「陣屋」の舞台を見て「それは耐え忍ばねばならないことだった」という感覚は、それなりに理解が出来たのです。あの頃の人々は「陣屋」は反戦を訴えている芝居なんだねえと素直にそう思って見たものでした。吉之助が見た昭和50年代の二代目松緑や十七代目勘三郎の直実がそう云うものであったし、映像でしか知りませんが八代目幸四郎(初代白鸚)の直実も、そして映画で遺っている昭和25年(1950)4月東京劇場での・あの初代吉右衛門の直実もそう云うものでありました。
「それは耐え忍ばねばならないことだった」と云うことは、「命を捨てても守らなければならないものが何かある」と云うことであったと思います。ところが昭和20年(1945)敗戦以降、倫理道徳のなかの、守らなければならないものの基準が変わってしまいました。このことが昭和末期以降から令和の現在までで、次第に明らかになって来ました。(事の是非を申し上げているのではなく、変わった事実のみを申し上げています。)
このことによって「陣屋」のなかの直実がそうしなければならなかった根拠の数々、例えば「敦盛卿は院の御胤」、直実夫婦は敦盛の母・藤の方に格別の恩義があり、さらに主人義経が「一枝を伐らば一枝を伐るべし」の制札に込めた謎、義経信仰の背景など、これらの根拠の重さが観客に伝わり難くなりました。それよりも「主筋を守るために我が子を犠牲に供さねばならないことの理不尽さ・非道さ」の方がはるかに重いものになるのです。同じ人間でしょ、なのにどうして家来がそんな犠牲を強いられなきゃならないの、そんなのアリなの・・と云うことになる。これまで直実が行動の根拠としてきたものに批判の矛先が向かいます。「陣屋」が封建忠義を批判する様相に見えてくるのです。こうして「陣屋」の趣向の閉じた感覚が破綻してしまう・・・
つまり吉之助が申しあげたいことは、九代目団十郎が直実個人の苦しみに特化し懐疑の色合いを強めたことが、この一連の流れの端緒にあったと云うことです。原作(並木宗輔の文楽)の段取りならばこう云うことは起きなかったとは言いません(「寺子屋」などにも同じことは起こり得る)が、少なくも団十郎型の幕切れが「陣屋」の解釈を一層面倒なものにしているとは言えそうです。(この稿つづく)
(R7・2・2)
5)平成の「陣屋」のこと
令和の現在の「熊谷陣屋」は、「主筋を守るために我が子を犠牲に供さねばならないことの直実の苦しみ・悲しみ」を掘り下げないと・なかなか観客の心に刺さり難い芝居になりつつあるようです。そうすると「趣向」が上手く機能しなくなって、円環の閉じた感覚が益々壊れることになるのです。「陣屋」が何だか不条理悲劇っぽい感触になってくるのですね。まあ現代演劇として見るならば・そういうのもアリなんですが、歌舞伎の古典的悲劇の閉じた感触からは何だか遠くなってしまうのです。
平成の三人の直実役者、二代目白鸚・二代目吉右衛門・十五代目仁左衛門の舞台を思い返せば、皆そこのところで悪戦苦闘を強いられて来ました。直実個人の悲しみに特化する、現代に生きる役者として・人間として・そこは譲れないわけですが、そこへ特化すればするほど悲しみは「忠義への不信」へと向いてしまう、そうすると直実が「平家物語」の世界にスンナリ戻っていけないのです。この負のスパイラルを如何にして解決するか、「陣屋」の幕切れを「趣向」に落とし込み・登場人物を無事に「平家物語」の世界にお返しすることが出来るかについて、吉之助の目から見ると、平成歌舞伎の「陣屋」の舞台の数々は、遂に納得する解答を提示することが出来なかったと思います。
方策としてひとつ考えられることは、幕外での憂い三重での引っ込みは・確かに九代目団十郎型の肝になる箇所に違いないが、この引っ込みが引き立つのも、幕が閉まる直前にある、「花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中じゃなあ」と云う、義経を頂点とする全員の六重唱の割り台詞で、諸行無常の理をしっかり決められればこそだと云うことです。ここが「陣屋」の真のフィナーレなのです。だから「陣屋」の幕切れに本来あるべき・歌舞伎の古典悲劇の閉じた感触を取り戻すために、主役である直実役者だけでなく・出演者全員が、幕切れの六重唱に向けて、首実検以降の段取りをもう一度見直すことだと思いますね。幕外での熊谷の引っ込みは、云わばエピローグに過ぎないと考えて、アッサリした感触に仕立てた方が宜しかろうと思います。
その時に大事になるのは、役を演じる気持ちの若干の余裕と云うか・「趣向」の遊び心と云うことでしょうね。(この稿つづく)
(R7・2・3)
6)令和の時代の「陣屋」のこと
「源氏物語」の「蛍」の巻で光源氏がこんなことを言います。
『その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経るのありさまの、見るにも飽かず聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心に籠めがたくて言ひおきはじめたるなり』
(現代語訳:(「物語」とは嘘事だと人は云うけれど)はっきりと誰それのことと、あからさまに言うことはないけれど、善いことも悪いことも、世の中の生きる人のありさまの、見ても飽きない、言葉にも尽くせない、後の世にも語り伝えたいようなことなどを、心のなかにしまっておけずに物語として語り始めたものなのだな。)
本居宣長は「源氏物語玉の御串」のなかで、作者紫式部はこの箇所で源氏の言葉として「物語は作り話ではあるが、嘘ではないと知りなさい」と自らの信条を述べたのだとしています。
芝居であっても同じことなのです。役を演じるうえでの気持ちの余裕・或いは「趣向」の遊び心とは、「芝居なんて世の中のお役に立たないものでございますよ、それはホンのお慰み、絵空事でございますから・・」という戯作者のポーズに通じます。しかし、絵空事であっても、芝居は確かにこの世の「真実」を描いているのです。そこに戯作者としての矜持(きょうじ)がある。役者にもそう云うものがあるはずですね。
ところで昨年(令和6年)1月浅草公会堂の「熊谷陣屋」で歌昇が直実を初役で演じた時のことを思い出しますね。歌昇は教わった型に真摯に取り組んで、汗が飛び散るような熱演を見せました。若者らしく気持ち良い舞台でありましたが、観劇随想のなかで吉之助が、
『歌昇が(二代目)吉右衛門の熊谷の型を真摯になぞった結果、型が元々持っている原初的なイメージが結構生(なま)に出たと云う印象を持ちますねえ。そうなりそうなところを吉右衛門はオブラートにくるんだ感じで婉曲に・マイルドに出していたのだと云うことに改めて思い至りました。(中略)そう云うことの積み重ねで、歌昇の熊谷は型っぽい・と云うかかぶきっぽい、ちょっと暑苦しい印象になったと思います。』
と書いたのは、そこのところです。直実個人の悲しみに特化する、現代に生きる役者として・人間として・そこは譲れないのは分かる。しかし、そこを真剣に真実めいて描こうとすればするほど、九代目団十郎型が原初的に持つ・芝居の閉じた感覚を内側から壊す力がより強く生(なま)に働いてしまう、直実の悲しみは自ずと「忠義への不信」の方向へ向かうことになるのです。そうすると赤みを増した直実の化粧も荒事の赤っ面の主人公のように・どこか憤(いきどお)りの感情を含んだかのように見えてしまう。歌昇の直実の「かぶきっぽい印象」はそこから来ると云うことです。
但し書きを付けますが、これは歌昇の直実が悪いと云うことではなく、今の段階に於いては型の段取りをその通り懸命になぞる、これで結構なのです。しかし、次の機会に再び直実を演じるならば、役を演じるうえでの気持ちの余裕・或いは「趣向」の遊び心を持つこと、これで歌昇の直実の印象がガラリと変わると申し上げたいわけです。(この稿つづく)
(R7・2・5)
7)再び令和の時代の「陣屋」のこと
これで今回(令和7年1月歌舞伎座)の「陣屋」について触れる準備がようやく整いました。吉之助が当日の舞台から受けた印象を言うならば、それは昨年(令和6年1月浅草公会堂)での「陣屋」から受けたそれととてもよく似ており、なおかつその時よりも「重苦しい」と云うことでした。型は段取りとしては忠実に履行されています。歌舞伎座で演じるメンバーは浅草よりもひと回り上の世代であるし、入れ物は歌舞伎座ですから、そりゃあ浅草よりも恰幅良く見栄えがします。これは当然そうでなければなりませんが、それゆえに受ける印象が余計に「重苦しく」なってくるのです。作者並木宗輔が仕掛けた「趣向」が正しく機能していないからです。もっと役を演じるうえでの気持ちの余裕を持つことです。
しかし、おかげで吉之助は昨年浅草では漠として形を成さなかった疑問が、今回歌舞伎座の「陣屋」ではっきりと見えた気がしました。そうなってしまったのも九代目団十郎型が内的に持つ「趣向の閉じた感覚を内側から壊す力」のせいであることに改めて思い至るのです。令和の現代の歌舞伎は、この時代に沿うた「陣屋」の団十郎型の在り方をもう一度冷静に検証してみる必要がありそうですね。
まず書いておかねばなりませんが、今回歌舞伎座と昨年浅草の配役で共通するのは弥陀六を演じる歌六ですが、弥陀六に関しては申し分ありません。吉之助もいろいろな「陣屋」を見て来ましたが、映像で見たものも含めて、歌六はそのなかでも上位に入る弥陀六だと思います。歌六の弥陀六が動き・しゃべると、「陣屋」の趣向が働いて芝居が「平家物語」の方へ引き寄せられていく思いがします。そうなるのは歌六の弥陀六に或る種の軽み・と云うか洒脱さが意識されているからでしょう。しかし、そのような素晴らしい弥陀六が幕切れに向けて・せっかく「趣向」の円環を閉じる段取りを整えてくれているのに芝居の結果がそうならないのは、直実が(それと義経が)それを壊してしまっていると云うことですね。これでは「陣屋」の登場人物が「平家物語」の世界に帰っていくことが出来ません。
もう一度書きますが、小次郎は敦盛として須磨寺に葬られることになるのですから、公にはもはや敦盛なのです。だから団十郎型の幕外花道の引っ込みでは、直実は息子のことを思って泣いているのでもあり、敦盛のことを思って泣いていることにもなる。むしろ幕切れにおいては既に後者の思いの方がより強くなっているのです。そうでなければ直実は「平家物語」の世界へと帰ることが出来ないのです。
ここで弥陀六のことをちょっと考えてみたいのです。弥陀六の前身・弥平兵衛宗清は、平治の乱の時に捕らわれの身となった幼い頼朝・義経兄弟が殺される寸前であったところを、清盛に嘆願して・これを助命した人物でした。これは慈悲の行為です。だから良いことをしたのです。しかし、成人した頼朝・義経兄弟は平家追討に動き、今まさに平家は滅び去ろうとする運命にあります。つまり宗清は善行を施したはずが、回りまわって結果として平家が滅びる直接の原因を作った人物になってしまいました。これを因果応報と云って良いのかどうか分からないが、宗清はまさに史上稀に見る「業(ごう)」に巻かれた人物であり、救いようのない悔恨と苦悩の底にある人物なのです。これと比較するのも憚られますが、我が子を犠牲にした直実よりもこれははるかに「あはれ」な人物であるかも知れません。
吉之助は思いますがね、作者並木宗輔は宗清のことを(完全に救い上げることは出来ないにせよ)ちょっとだけ慰めてやりたかったのかも知れません。直実が我が子を身替わりにして敦盛を戻してやったことで、救われない宗清がちょっとだけ慰められるのです。
「アヽイヤ イヤイヤこの内には何にもない何にもない。ヲヽマ何にもないぞ。ハアこれでちっと虫が納った。イヤナウ直実。貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」
並木宗輔はこのために「陣屋」の直実に制札の謎を仕掛けたと思うのです。さらに「義経記」が伝えるところに拠れば、そして今は華々しい戦功を挙げる義経もやがてそう遠くない未来に兄頼朝に疎まれて奥州平泉で哀しい最期を遂げることになります。つまり俗世にあっては直実は宗清を慰め、出家して後は蓮生法師として義経を回向することになる、これが直実に課された役割なのです。もちろん「陣屋」にはその未来までは描いていませんが、幕切れを見れば、この運命は暗示されています。
弥陀六:「コレ コレコレ義経殿。もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」
義経:「ヲヽヲ、ヲヽホそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」
直実:「実にその時はこの熊谷。浮世を捨てて不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役」「陣屋」の幕切れの「世界」を(直実個人だけのものにするのではなく)そこまで包括した大きいものにしてもらいたいですねえ。そこから日本人の心の「真実」が浮かび上がる。これが「趣向」が引き起こす魔法なのです。吉之助は団十郎型の幕切れであっても・それは十分可能なことだと考えますが、そのためには令和の「陣屋」は原作をしっかり読み込んで・直実の性根から構築し直す必要があるかも知れませんね。
(R7・2・8)