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吉之助の雑談40(令和3年7月〜12月)


〇令和3年8月歌舞伎座:「三社祭」・その3

まあそんなことなど考えながら、今回(令和3年8月歌舞伎座)の「三社祭」を見たわけです。染五郎(16歳)の悪玉・団子(17歳)の善玉と云う組み合わせですが、ふたりとも長身で小顔、手足が長い。いつの間にやら随分と背が伸びたものですね。果たして、幕が開いて後姿が見えると、何だかヒョロ〜リと安定感がなくて、印象が頼りない。まだ踊っていないのに、ツイ「これで踊れるのかいな」と不安に感じてしまう、そういうハンデは確かにあると思います。しかし、前述した通り、腰を落して踊るのは大事なことですが、それで背を盗めてもせいぜい数pのことです。だから長身腰高の踊りの印象が解消されることは決してありません。踊りの重心が上に行くことは避けられません。と云うことは、踊る以前から20点くらいのビハインドを背負うことになるわけだが、この不利を補うために、手足を伸びやかに・大きく遣うことが大事なことになるのです。とにかく動きが小さく見えてはいけません。

そのような観点からふたりの踊りを見ると、ふたりとも背をスッと伸ばして、頭の位置は確かに高いけれども、頭がフラフラと揺れることはない。手足を伸びやかに・大きく遣えており、素直で良い踊りだと思いますねえ。「手足を大きく遣え」とアドバイスすると、長身で手足が長いと脇が空いて見えてしまうため、そのことに気が行く余り身体の軸がブレてしまうことが少なくないのです。しかし、染五郎にも団子にも、身体の軸がブレた感じは見られません。頭も変に上下動することもありません。これは正しいご指導がなされていると感じますねえ。今の段階ではふたりの踊りに体操みたいなギコチなさを感じる方がいらっしゃるでしょうが、これは踊りのための身体がまだ出来上がっていない10代の彼らの場合には仕方のないことです。年季を経て身体が出来上がってくれば自然に改善していくことです。今の段階では、とにかく身体の軸がブレない・頭が動かない、手足を伸びやかに・大きく遣うことを心掛けていれば、それで十分です。将来に向けての道程がはっきり見える踊りであったので、安心しました。これから踊り込んでいくうちに印象は必ず変わって来ます。

そういうわけで吉之助も最初のうちは不安半分でふたりの踊りの身体の軸をチェックするみたいに舞台を見ていましたが、ホッと安心してからの、後半の面を付けた踊りは、愉しく見させてもらいました。ふたりともリズム感が良くて、扇子の踊りでは長い手足を大きく使って、なかなかダイナミックに見せたと思います。おかげで気分良く劇場を後にすることが出来ました。これから、長身で手足が長い踊り手の、新しい時代が来ることを期待したいものです。それにしても染五郎と団子は、これからも良きライバルとして、互いに切磋琢磨しながら伸びてもらいたいと思いますねえ。

(R3・9・16)


〇令和3年8月歌舞伎座:「三社祭」・その2

長身ならば長身なりの、手足が長いならば長いなりの、踊りとはどんなものか。そういうことは吉之助にも分かりませんが、体格の良い現代の役者が六代目菊五郎と同じように肩を動かさず・身体の軸がブレないように正しく踊っても、腰高の印象は多分なくならないと思います。そこは致し方ないことですが、腰高の硬い印象を和らげる為に、長い手足の遣い方を工夫する必要がある。踊りの振りを「流れ」で捉えるのではなく・形の「決め」であると心得て、振りのなかにリズム感を持たせること。そうすることで現代の役者の踊りは、時代に則した美学を体現したものになっていくであろうと一応の目算を付けてはいます。

そこでヒントになるかは分かりませんが、1930年代〜50年代のダンス界のトップスターであったフレッド・アステアが、当時新進のジーン・ケリーと共演した映画「ジークフェルド・フォーリーズ」(1946年公開)のシーンをご覧ください。アステア(1899年生まれ・175p)、ケリー(1912年生まれ・170p)です。実測では身長にあまり差がないようですが、見たところでは、ケリーは中肉中背で均整の取れた身体付き、これに対しアステアは身体が細身で・手足が長めですから、アステアのダンスの方がバランス的に重心が高めになってきます。このふたりが同じ振り付けでダンスを踊って、「俺のダンスの方がちょっと上手いぜ」というところをアピールし合います。

ケリーのダンスは身体付きから来る安定感が素晴らしく・オーソドックスで手堅い印象さえしますが、華麗さと云う点では、もしかしたらアステアの方がちょっと上かも知れませんねえ。アステアの手と足の遣い方をご覧ください。時に腕を高く差し出したり・足を高く跳ね上げたりして、これでアクセントを付けています。手足を伸びやかに使えていて、長い手足を持て余す感じが全くしません。しかもリズム感と身体のキレは申し分ありません。

日本舞踊とは全然動きが異なりますが、このアステアの手足の遣い方が、長身で手足の長い若手の歌舞伎役者にも、参考になるところが多いだろうと思っています。西洋・日本を問わず、舞踊においては、頭が動かない・肩が動かない・身体の軸がブレないことが、必須の要件です。長身であれば、踊りの重心が上に行くことは避けられない、だからそこは仕方がないのです。この不利を補うために、手足を伸びやかに・大きく遣うことが大事なことで、とにかく動きが小さく見えてはいけない。この点が、背が低くて・手足が短い踊り手よりも、或る意味でずっと大変なことになると、吉之助は考えています。

腰を落とすことは日本舞踊ではもちろん大事なことだけれど、吉之助が苦手なのは、長身で手足の長い踊り手が踊りの振りを決める勘所で思い切り腰を落とす(膝を大きく折る)、多分そこで腰を落として形を正しく決めろと煩く注意されるのでしょうが、そうでない場面では膝を伸ばして気楽に踊る、結果として身長が伸び縮みして・頭が大きく上下動して見える踊りです。こういう踊りは、吉之助は見ていて落ち着かなくて、どうもいけません。(この稿つづく)

(R3・9・14)


〇令和3年8月歌舞伎座:「三社祭」・その1

まずは別稿「舞踊の身体学」の続きみたいな話しになります。昔と比べて今の若者の体格はずっと良い。背は高いし・顔は小さい。手足が長い。けれどもそうなると、舞踊(西洋舞踊でも日本舞踊でもそうです)の身体バランスが変化して、随分と印象が変わって来るということを考えたわけです。多少のことならば、腰を意識して落とすことで対処は出来ます。しかし、これで背を盗めるのも、せいぜい数pです。ひとつの対処法は踊りの振りそのものを変えてしまうことです。しかし、古典的な演目であると、そうも行かない場合だってあります。舞踊を指導なさる先生方は多かれ少なかれそう云う場面に遭遇して悩むことが多かろうと思うのですが、吉之助の目に触れるところでは、西洋舞踊でも日本舞踊でも、踊り手の体格の変化に伴う舞踊の変化について実体験的なことを書いた文章をほとんど目にしません。そう云うものは踊り手のセンスによって対処すべきもので・正面切って論じるものでないと思われているのか、企業秘密であるのか、その辺は分かりませんが、吉之助にとっては摩訶不思議なことではあります。

例えば「三社祭」で云えば、吉之助にとっては、昭和の末頃の五代目富十郎の悪玉と五代目勘九郎(後の十八代目勘三郎)の善玉による舞台が懐かしく思い出されます。平成で言うならば、十代目三津五郎の悪玉と十八代目勘三郎の善玉による舞台、これも結構なものでした。三人共に言わずと知れた舞踊の名手でした。三人に共通するのは、「背が低い」と云うことでした。日本舞踊の場合は、背が低いだけで、踊りが低重心で、動きが安定したものになります。これと較べると、今の若者は長身で小顔、手足が長い。だから幕が開いて姿が見えると、何だかヒョロ〜リと安定感がなくて、印象が頼りない。まだ踊っていないうちから、つい「これで大丈夫かいな」と不安に感じてしまいます。富十郎以下背が低い三人が踊るならば、踊る前から20点か30点が加算されているようなものです。こりゃあ、色んな意味で、採点が不公平だなあと思うのです。しかし、芝居の分野ならば、あの三人は「俺の背があと10p高ければ・・」と人知れず悔し涙を流したことがあったに違いない。けれど、歴史にIF(もし)はないと云うけれど、もし三人の背が10p高かったとしたら、あの絶妙な踊りのバランスはなかったかも知れません。

吉之助は、踊りの舞台を見る時には、もちろん歴代の踊りの名手たちの記憶を大事にしています。思えば、どなたも背が低くて顔が大きかったのです。吉之助は、現代の、長身で小顔で手足が長い・若手役者たちの舞台を、これと同じ土俵に上げて論じるつもりはありません。それでは、若手役者の踊りを、見る前から20点減点して見るようなものです、そんな不公平な見方はありません。吉之助は、長身ならば長身なりの、手足が長いならば長いなりの、踊りを見出せないものかと思って見ています。どんな踊り方が良いかについては、吉之助にも分かりません。恐らく踊りを指導なさる先生方は、いろんな場面でそのような苦労をされておられるはずだと思います。(この稿つづく)

(R3・9・12)


〇令和3年8月歌舞伎座:「伊達競曲輪鞘当」・その3

つまり「鞘当」は、元禄歌舞伎の様式を衒った文化文政期の現代劇だと云うことです。だから芝居のなかに、古(いにしえ)と今の、様式の揺れ動きが感じ取らねばなりません。しかし、今回の舞台に限りませんが、現行歌舞伎で見る「鞘当」は、伝統にどっぷり浸って・いわゆる「様式美」を売り物にしていますから、そう云う様相がなかなか見え難い。様式美・様式美と言っていると、感触がどうしても時代の・重い感触の方へ傾いてしまいます。

様式の揺れ動きを考えるためには、「不破が高調子で・名古屋が低調子である」という音楽的配置から見れば良いです。不破(団十郎)の高調子が、元禄荒事のツラネの様式を踏まえたものであることは、前述しました。基本は二拍子のリズムです。しかし、文化文政から見れば元禄はずっと昔のことですから、それは様式の方へ傾斜して、自然と心持ち遅めのテンポになります。写実から離れるということです。一方、名古屋(菊五郎)は二拍子のリズムを踏まえつつ、これに自分の領分(写実・世話)で以て対抗しようとします。低調子は写実のためのの武器になるものです。写実ですから、同じ二拍子でも、それはいくらか早めなもの(前に進む力を持ったもの)になるでしょう。これで不破の台詞とのコントラスト(対照)を付けるのです。「鞘当」の様式自体が、様式と写実・或いは時代と世話の揺らぎを包含しているわけです。芝居が進行してドラマが盛り上がっていくに従って、揺らぎの間隔は、次第に狭まって行きます。つまり台詞の速度が徐々に速くなっていく、これは鶴屋南北の生世話の二拍子のリズムに段々近づいていくと云うことです。こうして最初は元禄歌舞伎の様式を衒っていたものが、いつの間にか文化文政期の現代劇(生世話)の様相に変化して行く、この芝居はそのような設計になっているのです。(注:別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。ところで本稿は「鞘当」についてですが、別稿で本年8月歌舞伎座「鈴ヶ森」について書きましたが、実は「鈴ヶ森」も似たような問題を孕んでいるということだけ言っておきます。)

このようなことは、気を付けて聞けば、様式の方へ傾斜して重ったるい現行歌舞伎からでも、察することが出来ます。もちろん今回の舞台(令和3年8月歌舞伎座)からも、これは察せられます。ただし時代と世話のコントラストが、十分付いているとは言えません。原因のひとつは、前述の通り、不破が高調子で・名古屋が低調子であるべきところを、逆に取っていることにあります。もうひとつは、隼人の名古屋が、恐らく役の優美さを強調しようとする意図(優美さを出そうとして高調子に取ると云う意図もある)でしょうが、台詞を伸ばし気味に取って、二拍子のリズムを崩してしまっているせいです。(ただし本舞台にかかるといくらか持ち直しました。)ここは不破の台詞の二拍子に付かず離れず、しかし、台詞のテンポを名古屋が確実にリードして行く必要があります。(これは「勧進帳」の山伏問答のテンポを富樫がリードするのと同じことです、)まあ、そう云うところはありますけれども、それは今後の課題としておきましょう。まずは現行歌舞伎の伝えるところをしっかり学ぶことは、これは当然のことです。歌昇も隼人も初めての役に力いっぱい体当たりして、気持ちのいい舞台になりましたね。新悟の留女も手堅いところを見せてくれました。

(R3・9・9)


〇令和3年8月歌舞伎座:「伊達競曲輪鞘当」・その2

浮世柄比翼稲妻」は文政6年・1823・江戸市村座の初演で、不破伴左衛門と名古屋山三の世界と、幡随院長兵衛と白井権八の世界を綯い交ぜにしたものでした。16年前に出版されてベストセラーとなった山東京伝の「昔語稲妻草紙」を種本にして、歌舞伎で代々取り上げられてきたキャラクターを当世風俗のなかへ放り込んだのです。だから時代の枠組みを持っていますが、当然ながら根本は南北一流の生世話だと考えて良いものです。たまに「山三浪宅」が上演されることもありますが、もっぱら「鞘当」と「鈴ヶ森」が単独で取り上げられます。そうなると「鞘当」と「鈴ヶ森」がそれぞれ独立の幕として演出が洗いあげられて・肥大化し、「浮世柄」全体のことは次第に忘れられてしまうことも仕方がないことではあります

例えば「鞘当」ですが、不破と名古屋のキャラクターは、お国かぶきの昔から親しまれたものでした。元禄の初代団十郎も、「参会名護屋」(元禄10年・1697・江戸中村座)で不破を演じました。ちなみに本作は後に歌舞伎十八番に選定されることになる「暫」の原型であり、「鞘当」の趣向もそのように考えて良いです。不破は二代目団十郎に引き継がれて家の芸同然になって、「鞘当」の様式が確立していきます。歌舞伎十八番のなかに「不破」があることは、御存知の通りです。不破に敵役的な性格が濃いのは、四代目団十郎が実悪を得意としたことなどが影響しているそうです。文政6年「浮世柄」初演の不破を七代目団十郎に当てたのは、このような理由に拠るのです。

ところで歌舞伎の解説で、「鞘当」は「内容がない芝居だから・古劇の様式美と役者の容姿を愉しめばそれで良い」と云うようなことがよく書かれています。それは上記の通り「鞘当」が元禄歌舞伎の古色を伝えていると云うことからですが、「鞘当」を見取りで見る分には、まあそのように見ても一向差し支えないかも知れません。しかし、吉之助は内容がない芝居に付き合わされるのは叶わんし、見るからには多少であっても何らかの意味を見出したいと思います。

「鞘当」は、文政6年・1823・当時66歳の鶴屋南北が、当時からみれば100年以上も前になる、古(いにしえ)の元禄の「鞘当」の様式を衒(てら)って書いたものでした。「奇を衒う」と云うのは、気をひくために、わざと奇妙で風変りなことをしたりすること。当世風俗の「浮世柄」のなかに、擬古劇的な「鞘当」を意図的に挿入することの、「衒い」の意味を考える必要があります。当然元禄歌舞伎然とした芝居そのままであって良いはずがないのです。後期ロマン派のワーグナーが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなかで対位法やコラール形式を多用したとしても、それはバッハの時代の音楽とはまったく違うものとなります。これは当たり前のことなのです。現代から見れば、元禄(1700年前後)と文化文政(1820年前後)の違いなんてあってもないようなもので・どちらも似たような古劇の感触に思うかも知れませんが、南北は当世流の生世話の芝居のなかに古の「鞘当」の様式を放り込んで「奇を衒っている」わけですから、歌舞伎役者はそこのところをちゃんと仕分けて欲しいと思うのですねえ。これはもちろん今回の舞台だけのことを言っているのではありません。

つまり「鞘当」の不破と名古屋の渡り台詞は、もちろん元禄荒事のツラネを様式を引いたものですが、決して元禄歌舞伎そのままであってはならないわけなのです。様式にどっぷり浸ったような感触であっては困る。極端に云えば、「元禄歌舞伎らし」ければそれで良いのです。どこかに新しい写実の・生きの良さがあって、これが文化文政の南北の生世話に通じるところが感じられれば、面白くなるのではないでしょうか。文化文政期というのは、「成田屋の荒事なんて単純で内容がなくて、もう時代遅れで詰らない」という声が次第に出始めた時期でした。役者評判記にもそんなことが書かれています。このような観客の雰囲気を察知して、当時33歳であった七代目団十郎も、ケレン早替りや色悪とか、新たな芸域開拓を必死で模索せざるを得なかったのです。そんな時期に書かれたのが、この「鞘当」です。

このことは別の側面からも察せられます。三代目菊五郎(40歳)と七代目団十郎は仲違いしていましたが、「浮世柄」初演前年の顔見世興行で、五代目半四郎の仲裁により仲直りしました。「鞘当」は因縁の二人が対決し半四郎(48歳)が留女で出る趣向で書かれたのです。つまりこれは楽屋オチでもあったわけで、初演を見た観客は当然この経緯をよく知っていました。成田屋ッ・音羽屋ッと、両者の贔屓の観客の声援の応酬が凄かったでしょうねえ。最初のうちは様式めかした仰々しい雰囲気で始まったものが、次第に緊張が解けて、半四郎の留女の登場で一転して「今」風(生世話)の芝居に砕けていく、「鞘当」のなかに、そのような様式の大きな揺れ動きがあることが想像されます。これで擬古劇の「鞘当」が、「浮世柄」の生世話の枠組みにぴったり納まることになります。(この稿つづく)

(R3・9・7)


〇令和3年8月歌舞伎座:「伊達競曲輪鞘当」・その1

或る時、武智鉄二が七代目三津五郎に「六代目(菊五郎)のどこが、いちばん五代目(菊五郎)によく似ていますかね」と尋ねたそうです。すると三津五郎は即座に「それは声です」と答えて、「親子というのは、恐いものですねえ。目をつぶって聞いていると、五代目そっくりです。あんなに似るものですかねえ」と言ったそうです。六代目菊五郎の声は決して通りの良い声ではなかったようですが、遺された弁天小僧の録音など聞くと、菊五郎の台詞は低調子であったなと思います。この低調子は世話物では大きな武器になるわけですが、しかし、武智に拠れば、六代目の声は低調子ではあったけれど、うまく喉を使って結構高いところも響かせていたそうです。確かにそうでなければ、荒事の高調子の「車引」の梅王丸などを得意にすることは出来ぬはずです。世間ではどうも混同されている気配がありますが、「低調子」とは、声が小さいとか・声色が暗いと云うことではありません。声が低調子であることは悪いことではなく、そこは技術(と云うか喉の使い方)次第でどうにでもなるのです。

この逸話で推測されるのは、菊五郎の代々の家系が台詞が低調子であったと云うことです。このことは、「勧進帳」の弁慶と富樫をみれば、なるほどそうであったかと納得出来ます。九代目団十郎の高調子に対して、五代目菊五郎の低調子と云うことです。ちゃんと声のバランス設計がされているのです。実は、「鞘当」もそのように出来ています。初演(浮世柄比稲妻・文政6年・1823・江戸市村座)の時の配役は、不破が七代目団十郎・名古屋が三代目菊五郎でした。だから不破が高調子で・名古屋が低調子なのです。そこで不破の台詞をみると、冒頭の「遠からんものは音にも聞け・・」など高調子で朗々と発声されることを念頭に書かれていることが、一目瞭然です。これは成田屋代々の荒事のツラネの様式を衒(てら)っているわけです。「暫」のツラネと同じ様式なのです。

しかし、現行歌舞伎では、「勧進帳」も「鞘当」も、声のバランス設計がまったく混乱しています。富樫や名古屋を得意とした、大正〜昭和前期の名優・十五代目羽左衛門は、高調子でした。このイメージが現行歌舞伎にまでそのまま引き継がれてしまっているからです。そもそも歌舞伎役者は芝居のなかの役の間の声のバランスということをあまり考えないみたいですねえ。こう云うことは、様式感覚に直結する問題なんですがね。

残念ながら、今回(令和3年8月歌舞伎座)の「鞘当」も、歌昇の不破が低調子・隼人の名古屋が高調子になっていて、声のバランス設計が逆になっています。このため、二人が対決する渡り台詞が、何だか感覚的にスカッと割り切れない不満を感じます。ただし吉之助は配役が逆だとか言いたいのではありません。歌昇も隼人も頑張って、良いところを見せています。姿形はなかなかだし、声が通っていることは、良いことです。工夫すべきは、喉の使い方です。

台詞を「高調子にする」とは、音階のキー(調性)を高めに取ると云うことです。低調子であればキーを低めに取る。役が求めるキーに、自分の喉のキーを合わせれば良いのです。二人で本読みする時に、台詞の字句がどういう音の流れ(旋律)を求めているか、音階のキー(調)の探りを入れながら、互いにキーのバランスを調整していくことが大事です。音楽で云えば、チューニング(調律)みたいなものです。「鞘当」の様式感覚を正しく掴んでいれば、不破と名古屋の渡り台詞は、高調子と低調子の交錯となり、ユラユラ揺れる感覚に聞こえるはずです。今回の舞台では、台詞が高くなるべきところで高まらず、低くなるべきところが埋まってしまっています。だから流れが平坦になって、煮え切らない感覚になります。歌昇は心持ちキーを上げ気味に取る、隼人はキーを下げ気味に取る、そうするだけでもバランスはかなり改善するはずです。(この稿つづく)

(R3・9・3)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その4

前節までで論旨はほぼ尽くされていますが、いくつか補足しておきます。まず「君は見事にカッコよく死ねるか」と云うことですが、これは「義賢最後」から「実盛物語」・さらに「平家物語・実盛最後」までを貫くメッセージと考えられますが、例えば義賢が派手な立ち廻りをしてカッコ良く死ぬ、実盛が髪を黒髪に染めて若やいだ姿でカッコ良く死ぬ、そのような・何と云いますかね・明るい側面だけを考えてはいけないということです。「カッコよく死ぬ」ということは、「無慙に死ぬ」ということの裏腹です。だから「あっぱれ」すなわち「あはれ」なのです。(これはついては、別稿「かぶき的心情の研究・1」を参照ください。「あはれ」とは、Ahと云う声を作り出すものです。)カッコ良さの裏には、常に陰惨さがつきまといます。後世の武士たちは「もののあはれ」を強く意識して、実盛の無慙な死こそ武士の理想の死に方であると肝に念じたわけです。

もうひとつは「反復」は、寿永2年6月加賀国篠原での実盛の死を以て終わるわけではないと云うことです。この反復は、ずっと続くことになるのです。まず近いところでは、この約半年後、寿永3年1月の近江国粟津ヶ原での、木曽義仲の死において反復されます。「平家物語・巻第九・木曽の最後」をご覧ください。巴御前と別れた後、義仲が乳母子に当たる今井四郎兼平とともに、死に場所を求めて粟津ヶ原を彷徨います。この時、篠原の戦いでの実盛の見事な死が、義仲の脳裏にチラつかなかったはずはありません。「君は見事にカッコよく死ねるか」と云うメッセージが、義仲に対しても突き付けられているのです。ですから前述した通り、史実の実盛が琵琶湖周辺と格別縁が深いとも思われないのに、浄瑠璃作者が「実盛物語」の舞台を近江国手孕村に設定したもっとも強い動機は、近江国が義仲が戦死した地であると云うことであったに違いありません。これが「実盛物語」の発想の出発点なのです。さらに反復は、後世の武士たちによって引き継がれて行きます。例えば豊臣秀頼の臣・木村重成が、大坂夏の陣で討ち死にする前日の晩に、鎧兜に香を炊き込めて出陣したという話しもまた、この反復のひとつであったと考えて良いのです。

以上が本歌取りの趣向に絡んだ「実盛物語」の構造ですが、作者は実盛に28年後の篠原での死を予告させるために綿密な段取りを組んでおり、ここでまったく別系統の反復を使っています。それは「俺は元々源氏に仕えた者であるのに・今は生きるためにやむなく平家の禄を食んでいる」という「負い目」で、この負い目が事ある度に実盛を責めさいなむ、「・・またしても」と云うように。それが「実盛物語」の物語なのです。詳細については、別稿「実盛物語における反復の構造」、あるいは「実盛の負い目」をご覧ください。この反復は実に巧妙に仕組まれています。実盛が「ムハヽヽヽなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」が爽やかに語ることが、確かに必然の如く感じられます。だから、作者としては、父を亡くした幼少の義仲を実盛が庇護して木曽に送り届けた当時に既に実盛の「負い目」が在ったという設定に、どうしてもしなければならなかったのです。その必要から「源平布引滝」の作者による、史実及び時系列の、大胆な改変が始まったのです。浄瑠璃作者は好い加減な態度で史実をちょこちょこいじったわけではありません。真摯に歴史に対峙しており、史実で変えていいことと、変えてはいけないことの見極めは、きっちり付けているのです。このことに気が付くと、キチンと背を正して丸本を読まねばならぬなあと、改めて感じますねえ。

(R3・9・1)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その3

本歌取りにも色んな技法がありますが、本稿では「反復(重ねる)」の技法を取り上げることにします。例えばここで手をパーンとひとつ叩いてみます。「これが反復です」と言ったら、「?」となるだろうと思います。しかし、パーン・パーンと手を続けてふたつ叩くならば、これが反復だと納得するでしょう。(ここで最初のパーンを拍Aとし、次のパーンを拍Bと呼ぶことにします。)ただし厳密に云えば、たまたま偶然に次の音が鳴る場合だってあるし、拍Bの音色や音程・音量が最初の拍Aと違ったりすると、これが反復だと受け取れない場合もあり得ます。だからそれが「反復」であると認識されるためには、両者の間に何らかの関連性が感じられねばなりません。連関性が感じられるならば、例え異なる楽器の音であっても、それは「反復」であると認識することが出来るはずです。

もうひとつ大事なことは、「反復」という行為が完成するためには、常に拍Bが存在しなければならないということです。拍Aが投げかけたメッセージを、拍Bが受け取る、そして受け取った証(あかし、LINEの既読の印みたいなものです)を拍Aに返す、これで反復が完成するのです。メッセージを受け取ってもらえないと、拍Aは宙ぶらりんになってしまいます。だから拍Aに反復の意味を与えるのは、拍Bであると云えると思います。反復は連続すれば、ますますその意味が強化されることになりますが、とりあえず拍Aと拍Bのふたつの拍があれば、反復は成立します。だから二拍が反復の最低単位です。反復が成立するか・しないかは、拍Aと拍Bと云う、二拍の関係性で決まるのです。しかし、反復の意味を与えるのは、常に2拍目(拍B)です。つまり何が反復されたかは、「後で分かる」と云うことです。

ここで最初の話に戻りますけど、手をパーンとひとつ叩いて・それだけで「これが反復です」と言える場合があるとすれば、一体それはどう云う場合でしょうか?拍Bは、今はまだ鳴っていないが、10分先のことか・1ヶ月先か・或いは28年先のことか・それさえ分からなくても、いつか必ず拍Bが反復されると、そのような確信がある時です。音はパーンとひとつしか鳴っていなくても、それは次が未だ鳴っていないと云うだけのことです。拍Bは、必ず鳴る。この時、未来の拍Bに対して、或るメッセージが投げかけられています。そして未来の拍Bから拍Aに向けて、反復の証が返されています。このことが第三者(観客)にもはっきり見える場合があるのです。

以上のことを「源平布引滝」に適用してみますが、まず言えることは、三段目「実盛物語」(拍B)が、二段目「義賢最後」(拍A)に意味を与えると云うことです。「実盛物語」を理解することで、実盛が義賢から何を受け取ったかが明らかになるのです。(これは芝居の進行からすると、未来から過去へ意味を返すということなので、「義賢最後」だけであるとドラマが閉じた感覚が若干乏しい印象になるのは、これが原因しています。吉之助には、切場と云うよりも・何だか大端場みたいな感じがしてしまいますねえ。)死に際し義賢は、実盛に向けて或るメッセージを投げます。それは、俺は見事に死んでみせたぞ、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」ということです。(別稿「義賢から実盛へのメッセージ」をご参照ください。)これに対し、「実盛物語」で実盛が受け取りの証を返します。これで「義賢最後」と「実盛物語」との間に、「反復」の行為が完成することになるのです。その証とは、幕切れに実盛が九郎助と太郎吉に云う台詞、

「ムハヽヽヽなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」

です。同時に実盛は、28年後の・未来の自分に向けて、メッセージを投げたことになります。「俺も卑怯未練なところを見せず・必ず見事にカッコよく死んで見せるぞ」ということです。28年後に鳴ることになる拍Cは、「実盛物語」では描かれません。しかし、不思議なことですが、拍Cが未だ鳴らないはずなのに、「実盛物語」には、はっきりドラマが閉じた感覚がありますねえ。これこそ本作が傑作である所以ですが、なぜならば観客が28年後に実盛がそうする史実を知っているからです。受け取りの証はもうあるのも同然です。その典拠は「平家物語・実盛最後」にある詞章、

『手塚太郎馳せ来る郎等に首取らせ木曽殿の御前に参つて、「光盛こそ奇異の曲者組んで参つて候へ。大将かと見候へば続く勢も候はず。侍かと見候へば錦の直垂を着て候ひつるが、名乗れ名乗れと責め候ひつれども、つひに名乗り候はず。声は坂東声にて候ひつる」と申しければ、木曽殿、「あつぱれこれは斎藤別当にてあるござんなれ。それならば義仲が上野へ越えやりし時幼い目に見しかば白髪の霞苧はつしぞ。今は定めて白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎年比馴れ遊んで知りたるらんぞ。樋口呼べ。」とて召されけり。樋口次郎ただ一目見て、「あな無慙長井斎藤別当にて候ひけり」とて涙をはらはらと流す。』(平家物語・巻第七の八:実盛最後)

です。「実盛物語」(拍B)に意味を与えるのは、「平家物語・実盛最後」(未来の・未だ鳴らない拍C)です。江戸時代の民衆にとって必須教養と云えるものでした。すなわち、浄瑠璃作者のアイデアは、寿永2年(1183)加賀国篠原での実盛の死という史実から発し、時系列としてはこれを未来から過去へ遡るわけですが、「平家物語」と「源平盛衰記」を本歌として、これを逆から「重ねて行く(反復する)」形で、「実盛物語」から「義賢最後」へ本歌取りしてみせたことになります。拍C-B-Aに共通したメッセージとは、死と対峙した時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うことです。これが「源平布引滝」の本歌取りの構造なのです。(この稿つづく)

(R3・8・31)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その2

さらに、これが「実盛物語」の舞台を琵琶湖周辺とした理由の三つ目になりますが、近江八景「堅田の落雁」で有名な景勝の地・満月寺浮世堂から少し南へ歩いた湖畔「おとせの浜」(現在の滋賀県堅田市)に伝わる伝承があります。それに拠ると、平治の乱(平治元年・1159)の時、堅田出身のおとせと云う女性が、奉公先である源氏の屋敷から白旗を守ろうとして京都を脱出しました。追っ手に追われたおとせは大津辺りで琵琶湖に飛び込みましたが、平家の侍に斬られて死にました。その後、白旗を握ったままの、おとせの片腕が流れ着いたのが、おとせの浜であったそうです。村人がおとせの忠義を讃え、その霊を慰めるために築いた塚が、「おとせの石」だそうです。浄瑠璃作者の頭のなかで、おとせの片腕と「手孕」-「手塚」へと連想が繋がって行きます。この伝承が、白旗を守ろうと琵琶湖を泳いで逃げる小万が、竹生島詣の平家の御座船と遭遇し・乗り合わせた実盛に腕を斬られると云う、実盛の物語りに出てくる筋の本説となるものです。手孕村にある九郎助住家から見ると、おとせの浜は琵琶湖の対岸に位置するので・ちょっと離れてはいますが・まあそう堅いことは言わないこと、同じ琵琶湖周辺に伝わる伝承だと云うことですね。この他「源平布引滝」では近江八景「矢橋帰帆」でも知られる矢橋(やばせ・現在の滋賀県草津市)辺りから小万を琵琶湖に飛び込ませるなど、琵琶湖周辺の地名や伝承を散りばめながら、筋を巧みに織り上げています。

これらのことから、史実の実盛からすると特にご縁が深そうでもない琵琶湖周辺が「実盛物語」の舞台に選ばれたわけです。と云うことは、「実盛物語」の舞台を近江国手孕村(現在の滋賀県栗東市手原)に決めた以上、二段目「義賢最後」で、史実では義賢が討たれた地は武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)であるところを、京都白河の館で討たれたと作者が改変した理由も、義賢館を九郎助住家から近いところにしたい事情から来るのでしょうねえ。九郎助と太郎吉は身重の葵御前を連れて京都から逢坂の関を通り大津を経て街道を下って手孕村へ落ちます。(道行の場があります。)このくらいの距離が適当なわけです。つまり二段目「義賢最後」で、時は平治の乱以後のことで・その頃平家は横暴を極めていた・源氏の頭領義朝は討たれて今はなく・実盛もやむなく平家に仕えていた・この時義賢の館は京都に在った・義賢は奢る平家に反抗して討たれたという一連の虚構(史実・或いは時系列の改変)は、どれもすべて三段目「実盛物語」の要請から来ることが明らかなのです。

このことは、二段目「義賢最後」を本歌取りの趣向から見た場合に、大きな意味を持ちます。本歌取りとは、元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて・どこを変えないか、そのセンスを愉しむ遊びです。本歌取りには、置き換える・ひっくり返す・重ねる・見立てる・ずらすなど色んな技法があります。本稿ではそれらを逐一解説する余裕はありませんが、ここでは「義賢最後」に関することだけ触れます。本歌取りでは「元歌(史実)のどこをどのように変えたか」と云う点が大事な場合も多々ありますが、「義賢最後」においてはそうではなく・それらはすべて三段目の要請から来るわけですから、史実を変えたところ(義賢は平家に討たれたという虚構など)は二段目のドラマの本質的なところではないのです。

「義賢最後」を単独で読むならば、源氏である義賢が横暴極まる平家に対して敢然と反抗したドラマであると読むことはもちろん出来ます。その読みが間違いだとは決して言えないですが、しかし、後段・三段目「実盛物語」を見据えて考えれば、二段目のドラマの主題がそこにないことは明らかなのです。そこは「変えても良かった史実」に係わることだからです。(史実では義賢は源氏の内輪争いで討たれたのです。)

「義賢最後」では、むしろ「元歌(史実)のどこを変えずに残したのか」の方が重要になって来ます。変えなかった史実とは、「無残に討たれた義賢の遺児を実盛が守ることになる」ということです。考えて見ればこの件も二段目「義賢最後」では完全に成就したと言えない(だから単発のドラマとして物足りないことになる)のですが、葵御前のお腹のなかの赤ちゃん(後の木曽義仲)と白旗が実盛の手元に届けられるべく、それぞれ九郎助と小万に託されて段取りが付いたところで、安心したかのようにガクッと力尽きて義賢は壮絶な最後を遂げます。このことが重要なのです。初演当時の大坂町人も木曽義仲の父が誰だかなんて詳しいことは知らなかったと思いますが、「父を亡くした幼少の義仲を実盛が守った」という史実は皆知っていました。さらに「成人して挙兵した義仲軍と戦って老齢の実盛が討ち死にした」という史実も皆が知っていました。だからそこの史実は決して変えられません。実盛を描くために、そこは絶対「変えてはならない史実」なのです。ドラマはその「変えられないところ」へ向かって紆余曲折しながらも確実に進んで行きます。その後も白旗を持った小万に危難が襲い掛かりますが、そこのところは必ず、成るように成るのです。

元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて、どこを変えないか、そこを見極めることが、新古今以後の本歌取りではとても大事なことになります。そこで作者のセンスが問われます。(読み手の力量が問われるということでもあります。)これは、江戸の人形浄瑠璃においてもまったく同じことです。(この稿つづく)

(R3・8・29)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その1

令和3年8月歌舞伎座での「義賢最後」観劇随想において、浄瑠璃作者が「源平布引滝」で史実をどのように本歌取りで取り入れ、そこにどんな演劇的意味を与えようとしたかを考えました。作者は史実を大胆に改変し、平治の乱で平家が政権を取った後に・源義賢が平家に討たれて・今はやむなく平家に仕える斎藤実盛が源氏への忠誠を忘れず義賢の遺児(後の木曽義仲)を木曽へ送り届けたと云う虚構をでっちあげたわけですが、それは三段目「実盛物語」の要請から来るのです。それは、駒王丸を木曽に送り届けた実盛が、さらに28年後の未来に加賀国篠原の地で成人した義仲の軍勢に覚悟して討たれることになる因縁のドラマの伏線とするために、実盛が元々源氏方でありながら・今は平家の禄を食んでいると云う強い「負い目」を背負う設定がどうしても必要であったからです。「実盛物語」のドラマを読む時、実盛の「負い目」が鍵であることが、このことで分かります。(別稿「実盛の負い目」を参照ください。)

そこで本稿は補足として、後段「実盛物語」の方から「義賢最後」を読む形で、浄瑠璃作者の作劇の秘密(本歌取りの趣向)をもう少し見てみます。明治29年出版の「浄曲百番 語り物の訳」には、「綿繰馬の段(実盛物語)」について、「名前は有名、事実は無根。例に依って例の如き歴史的の夢幻劇。」と書いてあります。これはまあその通りかも知れませんが、作者は決して出まかせの芝居を書いたわけではなく、題材に関して作者は膨大な文献に当たり・綿密な情報収集をして、史実の改変・筋の趣向にはそれぞれにそれなりの理屈があり、決して好い加減に芝居を書いていないと云うことは言っておきたいと思います。(注:これは「実盛物語」だけのことではなく、近松門左衛門から竹田出雲・さらに近松半二に至るまで、作者が実に綿密に調査して作品を書いていることには常に驚かされます。)

ところで、史実の実盛は、琵琶湖周辺に格別縁が深いようにも思われません。それなのに作者はどうして「実盛物語」(九郎助住家)の舞台に琵琶湖近くを選んだのですかねえ、考えて見ればこれは不思議なことです。理由はいくつか考えられますが、吉之助の推察では、まず理由のひとつは、木曽義仲が近江国粟津ヶ原(現在の滋賀県大津市粟津周辺)で戦死したと云う史実に拠ると思います。それは寿永3年(1184)1月20日のことでした。義仲の墓が、現在・大津市馬場1丁目にある義仲寺(ぎちゅうじ)にあることは、世間によく知られています。(なお義仲寺は松尾芭蕉の墓があるお寺としても有名です。)

そこから「実盛物語」の有力候補に琵琶湖周辺が挙がったと思いますが、さらに現地周辺を調べてみると、興味深い伝説が見付かります。それは「手孕説話(てばらみせつわ)」と呼ばれるものです。女性が、その身体に男性の手が接触したことが原因で妊娠し、片手を産んだと云う古い伝説で、似たような説話が各地に伝承が残っています。神の来訪が子孫を残すという考え方で、来訪の痕跡を手あるいは足に象徴させたと云うことだそうです。そのひとつが、近江国手孕村(てばらみむら、現在の滋賀県栗東市手原)に伝わるものです。恐らくこの手孕説話を聞いて、作者の脳裏にストーリーがピーンと閃いたのです。なぜならば、寿永2年(1183)6月、篠原の戦いで平家方として参戦した斎藤実盛が討ち死にした時、実盛の首を取った木曽側の武将の名前が手塚光盛であったからです。「手塚」と「手孕」が繋がって、太郎吉(後の手塚光盛)の出身地を近江国手孕村にしようと云うアイデアが生まれたのでしょう。これが理由の二つ目です(なお史実の手塚光盛の出生は定かではないですが、「源平盛衰記」では信濃国諏訪の出身とされているようです。)

「実盛物語」では、葵御前が腕(かいな)を産んだ・産まぬと云う話しになって、実盛が瀬尾に向かってまことしやかに腕の講釈を始めます。これを見ると、

「アイヤ例(ため)しないとはもうされず。かゝる不思議も世にあること。(中略)ホヽもうさぬとて御存じあらん。唐土楚国の后桃容夫人、常にあつきを苦しんで鉄(くろがね)の柱をいだく。その精霊宿って鉄丸を産む。陰陽師占ふて剣に打たす、干将莫耶が剣サこれなり。察するところ葵御前も常に積衆(しやくじゆ)の愁あって、導引鍼医(はりい)の手先を借り、全快の心通じ自然と孕めるものならん。ハテあらそはれぬ天地の道理。今よりこの所を手孕村と名づくべし」

「実盛物語」では、近江国手孕村の地名を実盛が名付けたことになっています。葵御前が産んだ腕(実は実盛が斬り落とした小万の片腕)を埋めた塚が、「手塚」の苗字の由来だというわけです。もちろんこれも浄瑠璃作者の創作です。(この稿つづく)

(R3・8・27)


〇令和3年8月歌舞伎座:「源平布引滝〜義賢最後」・その3

そう云うわけで、「義賢最後」は単体のドラマとして見ると心もとないところがありますが、後続の「実盛物語」を連ねて見据えることで、初めて共通した主題がはっきりと見えることになるのです。その主題とは、もし目の前に死を突き付けられた時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うことです。「如何にカッコよく死ぬか」と云うことは、つまり裏返せば「如何にカッコよく生きるか」ということでもあるのです。その通りに義賢は見事に死んでみせました。一方、実盛は28年後の未来にカッコ良く死ぬことを予告して、実際その通り見事に死んでみせることになるのです。未来のことは芝居には描かれませんが、間違いなく実盛はそうすることを我々観客は知っています。

ですから前節で吉之助は「義賢最後」は最後の派手な立ち廻りでやっとこさ存在意義を主張している感があると皮肉を書きましたけれど、多分ドラマの核心がそこ(立ち廻り)にあると云うことなのでしょうねえ。押し寄せる平家の軍勢に義賢が甲冑を用いず素襖のままで戦うのは、「俺は死ぬことなんかちっとも恐くないんだぞ、しかし、ただ無抵抗で殺されたのでは武士としての面目が立たぬ、だから出来るところで精一杯の抵抗をして死んでやろうじゃないか」ということです。そこに義賢の「ええカッコしい」の、死の美学があるわけです。

今回(令和3年8月歌舞伎座)の、幸四郎初役による「義賢最後」ですが、立ち廻りと仏倒しの幕切れは悲壮感が溢れて、なかなか良い出来ではなかったでしょうか。死ぬ覚悟は出来ているが、大事の白旗を誰か信頼できる人物に預けるまでは絶対死ねないと云う熱い思いは確かに伝わって来ました。結局、白旗を小万に渡して義賢は力尽きるわけです。本作は義太夫狂言としてのコクがさほどのものではないですが、幸四郎の台詞の低調子が義太夫狂言の雰囲気に似合っています。近年は義太夫のトーンから大きく外れた高調子の台詞を聞くことが多いので、幸四郎の低調子は結構なことです。特に前半の義賢は病鉢巻をして病気の態を装っていることもあって、この低調子がよく似合います。三度目の出からは仮病をやめるので若干トーンが高めになりますが・まあそれはいいとしても、別れを渋る葵御前を叱る台詞などは、欲を云えばここはもう少し息が詰んで欲しいと云うか、ちょっと淡泊に聞こえる場面が散見されます。ここは音遣いに更なる工夫が必要です。義賢ならばこれでもまあ良いとしても、例えば来月(9月歌舞伎座)予定の佐々木盛綱(盛綱陣屋)であると、特に首実検後の長台詞などは、これでは物足りないことになるでしょう。幸四郎ももう48歳か、義太夫狂言の音遣いについては・幸四郎だけのことではないですが、これは至急の課題ですね。

梅枝の小万については古風な風貌が生きてなかなか良い味を醸し出しています。この「義賢最後」の小万から「実盛物語」の小万へ線を引いてみるだけで、「源平布引滝」のなかで小万が負う役割の重さは十分察せられると思いますが、半通し上演で矢橋と御座船をダイジェストであっても出すことが出来れば、小万を女武道の大きな役に仕立てることが出来るでしょう。前節で「投函された手紙は必ず宛先に届く」というラカンのテーゼを紹介しましたが、白旗に託された義賢からのメッセージを実盛に届けるのが、まさに小万の役割なのです。

(R3・8・26)


〇令和3年8月歌舞伎座:「源平布引滝〜義賢最後」・その2

吉之助が推察するに、この「源平布引滝」のなかで、史実の時系列を大胆に改変し、義賢を討ったのが源氏ではなく平家であるとしたのは、三段目「実盛物語」(文楽では「九郎助住家」)からの要請であろうと思います。寿永2年(1183)北国篠原の戦いで、木曽義仲追討のため平家方で出陣した斎藤実盛は老齢の身ながら奮戦しますが、ついに義仲の武将・手塚光盛によって討ち取られました。首実検の際にもすぐには実盛本人とは分からなかったのですが、生前の実盛が「最後こそ若々しく戦いたい」と語っていたことを樋口次郎から聞いた義仲が首を洗わせたところ、黒髪がみるみるうちに白髪に変わりました。樋口は「あな無残なや、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」と呻き、命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだそうです。「実盛物語」はこの逸話の謎解きの体裁を取っています。実盛がそのような行為を取ったのは、かつて源氏に仕えたのに・今はやむなく平家の禄を食んで居るという「負い目」が実盛にあり、今源氏が勢いを盛り返したけれど、この期に及んであちらに付き・こちらに付くと云う見苦しいことはしたくない、自分は潔く見事に死んで行きたいと云う気持ちからでした。このように名を惜しんで散っていった武士が少なからずいたのです。(別稿「梶原景時の負い目」をご参照ください。梶原は名よりも実を取った武士ですが、当時は勢いのある方に付くのが当たり前でした。)

実盛の死は、後世の武士たちが「理想の死に方」と賛美したものです。「実盛物語」で浄瑠璃作者が意図したことは、実盛の「負い目」の根拠を描くことでした。「実盛物語」のなかで実盛が駒王丸(後の義仲)の出生に絡み・その命を助け・木曽に送り届ける事情を描く時、史実通りに当時の実盛が源氏方であったとすると、実盛の「負い目」の根拠が弱く見えてしまいます。「実盛物語」を必然のドラマとするために、ここはどうしても当時の実盛が平家の禄を食んでいた状況を作る必要があります。これが作者が無理を承知で上述の史実の大胆な改変をした理由です。

なお別稿「実盛物語における反復の構造」のなかで、実盛が28年後の篠原での死を予告して・その通りに死ぬ(つまり未来に向けての「反復」)という構造を論じました。ここで吉之助が「28年後」としたのは、実盛が駒王丸を木曽に送り届けた久寿2年(1155)から、北国篠原の戦いがあった寿永2年(1183)までの歳月(28年)を便宜上使用しているからです。浄瑠璃では平治の乱(年号としては平治元年・1159になりますが)以後のこととして、時系列を大胆に入れ替えて、年号を意図的にボカしていますから、そこのところは曖昧です。だから厳密に云うならば、芝居のなかでは「実盛物語」から「大まかに28年近辺の歳月」を経て実盛の死となると云うことかも知れませんね。

実盛が駒王丸を木曽に送り届けたのは、久寿2年(1155)の大蔵合戦で源義賢が源氏内部の主導権争いで討ち死にした直後のことですから、浄瑠璃作者としては、二段目「義賢最後」において、義賢も、源氏ではなくて平家に討たれたことにしないと、辻褄が合わないことになります。「義賢最後」だけを単体で見た場合に、わざわざ史実を改変せねばならない理由は二段目からは格別見当たりません。

「義賢最後」は単体のドラマとして構成面で弱いところがありますが、後段「実盛物語」へ向けて、白旗と駒王丸(九郎助住家で生まれる)を軸として筋が繋がるので、間幕に矢橋と竹生島遊覧(御座船)を挟んで三幕構成に仕立てれば、通し狂言としてなかなか面白いものに出来ると思います。そのような半通し上演を昭和55年(1980)10月池袋・サンシャイン劇場で二代目猿翁(当時は三代目猿之助)が試みたことがありますが、とても興味深いものでした。この半通し上演の利点のひとつは、「実盛物語」だけだとチョイ役に見えかねない小万をとても重要な役に出来ることです。

もうひとつ、「源平布引滝」半通し上演の大きな利点は、構成が弱いために・ただ最後に派手な立ち廻りがあることでやっとこさ存在意義を主張している感のある「義賢最後」を、「実盛物語」としっかり結び付けることで、ドラマとして正しく立てることが出来ることだと思います。「実盛物語」に「(28年後の未来に)死ぬ時には、未練なところを見せず・美しく見事に死んで行きたい」と云う実盛の美学があるならば、「義賢最後」は、もし現実として目の前に死を突き付けられた時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うメッセージを見せているのです。その通り義賢は見事に散って見せました。これが二段目のドラマなのです。もしかしたら浄瑠璃作者は、この義賢のメッセージを、三段目の実盛に向けて発したのかも知れませんねえ。このメッセージを受けて実盛は、28年後の未来に見事に散って見せることを予告するのです。メッセージは必ず「届く」ものです。ジャック・ラカンのテーゼとして、「投函された手紙は必ず宛先に届く」と云うのがあります。実盛のメッセージも、28年後の未来の宛先に届くことになります。それはどういう過程を経ようが、必ず「成る」ものです。(この稿つづく)

(R3・8・24)


〇令和3年8月歌舞伎座:「源平布引滝〜義賢最後」・その1

歌舞伎は筋が荒唐無稽で史実に則していないとはよく云われることですが、寄せ集めた史実や伝説の断片を組み合わせて独自の筋を編み上げるのは、相当に歴史センスがないと容易に出来るものではないと思うのですね。和歌には本歌取りと云って、元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて・どこを変えないか、そのセンスを愉しむ遊びがありますが、作劇の愉しみも似たようなものです。史実のどこを変えて・どこを変えないかによって、劇作家の力量が問われます。真山青果と云えば時代考証がしっかりした作家と云うイメージですが、「元禄忠臣蔵・伏見橦木町」初演(昭和14年・1939・東京劇場)の時に、或る歴史学者が「元禄15年3月のこの時期には堀部安兵衛は江戸にいたはずで・京都にいた証拠はない、大方この安兵衛は飛行機で京都へ飛んだのだろう」と皮肉を書いたそうです。青果は大いに憤慨して、「かかる些事まで一々史実呼ばわりされたら、到底脚本は書けなくなる」と書いています。(真山青果:「自作覚書」・昭和14年談話) 堀部安兵衛は、誰もが知る四十七士のなかの傑物であり熱血漢です。史実であるかないかは兎も角として、その安兵衛を内蔵助の遊興三昧の場に登場させたところに、青果がどういう演劇的役割を期待したか、大事なことはその意図を読み取ることであろうと思います。もちろん改変の内容にも拠りますがね。

「源平布引滝」(延享2年・1749・大坂竹本座初演)は時代浄瑠璃としては各段の主題の一貫性に難があって決して上作とはされていないようですが、ベテラン作者の並木千柳・三好松洛だけに、史実・伝説を巧みに組み合わせた手腕に確かに見るべきものがあります。ところで本作の重要人物になる(ただし本作ではまだ赤ちゃんであるので活躍はしませんが)木曽義仲のことは、「平家物語」・「源平盛衰記」に親しんでいた当時の大坂町人も誰もが知っていたはずです。一方、義仲の父親のことになると、よほどの歴史好きでも知らない人が多いだろうと思います。実は吉之助もそうでした。三段目「実盛物語」が史実通りであるとは決して思いもしませんが、二段目「義賢最後」の方はまあ大筋はそんなものだろうと疑いもしませんでした。ところが実は「義賢最後」の方も全然史実に則してはいないのです。しかも些細な改変ではなく、「へえ?そこを変えたのですか」と驚く改変がされています。

丸本を見ると「源平布引滝」は後白河院の世と記されていますが、正確な年号はわざとボカされています。しかし、芝居を見ると、源氏の頭領・源義朝はすでに長田に討たれ・平家は全盛の世にあり横暴の限りを尽くしているとありますから、平治の乱(平治元年・1159)からそう間もない時期のことであろうと大体推察が出来ます。ところが木曽義仲の父・源義賢の史実を調べてみると、源義賢が死んだのは久寿2年(1155)のことで、これはつまり平治の乱の4年も前のことなのです。この時期には平家はまだ天下を完全に掌握してはいません。義朝はもちろん生きています。久寿2年8月、源義賢は武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)にある館を、義朝の長男・つまり義賢にとって甥に当たる源義平に急襲されて討ち死にしました。享年30歳前後。つまり義賢を討ったのは平家ではなくて、源氏内部の主導権争いの結果であったと云うことです。この時、大蔵館にいた2歳になる義賢の次男・駒王丸は、斎藤実盛らの計らいによって、信濃木曽谷の中原兼遠の元に送り届けられて、後に成人して源義仲(木曽義仲)となります。これが史実です。

芝居では平家が京都白河にある義賢館を攻めて・これを討ったことになっていますが、埼玉県にあった大蔵館を京都に移すくらいの改変は些細な事としても、これを平家の仕業にしたのは吉之助には驚きの改変で、これは「忠臣蔵」を描くのに内匠頭が殿中で斬ったのが上野介ではなくて別の人物でしたくらいの重大な改変ではないかと思いますねえ。それでも「義賢最後」だけのことならばそもそも義賢のことをそれほど知らないからまだ良いかも知れませんが、その影響が後段の「実盛物語」にまで及ぶことになるので、困ったことになります。「実盛物語」では元々源氏に仕えていたのが・生きるために今は心ならずも自分は平家に仕えていると云う「負い目」が斎藤実盛のドラマの根本にあるわけですが、史実ではそれはまったくない(駒王丸を木曽に送り届けた時点の実盛は源義朝配下であり源氏方であった)と云うことだからです。

そこでハタッと考えてしまうわけですが、ここは冷静になって、「源平布引滝」での史実の時系列の大胆な改変、義賢を討ったのが源氏でなくて平家であったと改変した「本歌取り」の趣向によって、浄瑠璃作者(並木千柳・三好松洛)はどういう演劇的意味を狙ったのか、そこを考えることが大事であるということですね。(この稿つづく)

(R3・8・22)


〇エリザベートの「うっせいわ」

暑い、暑いですねえ。吉之助は気温30℃を超えると頭が働かなくなるので、今回の雑談はYoutube映像の紹介でお茶を濁しますが、これはなかなかパンチのある映像です。この映像の作者の、かちひろこ(可知寛子)さんは本職のミュージカル女優だそうです。歌唱力はもちろん素晴らしいが、替え歌の歌詞がなかなかのものです。これ自宅での・手作り映像だそうですけど、上手いものですねえ。

原曲の「うっせいわ」というのは、Adoさんと云う・現在18歳の女性歌手の歌だそうです。そちらの方面に無関心な吉之助はこの映像で初めて知りました。昨年(2020)10月にリリースされて現在も大ヒット中の曲だそうです。なるほど現代の若者の気分はこう云う感じなのだろうなあと納得させられますが、そちらの原曲ではなく、かちひろこさんの替え歌の方を紹介するのは、19世紀のハプスブルク王家のエリザベート后妃(エリザベートが暗殺されたのは1898年)が置かれた緊迫した政治的状況と、華やかだけど慣習・仕来りに縛られた窮屈な宮廷生活、コロナ緊急事態で国民が自粛生活を強いられる傍らでオリンピックをやっていると云う・2021年のこの奇妙な状況とは、もちろん外見的には全然異なるようだけれども、「うっせい、うっせいわ」というイライラした気分で何となく連続している、多分現在の方がもっと複合的で・どうしようもなくなっているというところが、この映像を見るとよく実感できるからです。だからAdoさんの原曲のパロディでもなく、「エリザベート」のパロディでもなく、見事に綯い交ぜの面白さを見せているということです。吉之助風にいえば、裂け目がはっきりしてエッジが立っているということです。(別稿「四代目鶴屋南北と現代」をご参照ください。)

魅惑のかちひろこ:エリザベートの気持ちになって「うっせいわ/Ado」歌ってみた

本サイトは歌舞伎のサイトですから付け加えますと、この映像でエリザベートが歌っている気分というのは、これをそのまま「本朝廿四孝・十種香」の八重垣姫や、「桜姫東文章・岩淵庵室」の桜姫の気分に置き換えても良いものです。もちろん歌舞伎は古典ですから守るべき様式はしっかり守らねばなりませんが、古典的に納まり返っちゃうのではなく、その古典的な枠組みを破綻させるような熱いものを内面に持つことで、古典はヴィヴィッドなものに出来るのです。この映像には、そのようなヒントがあると思いますね。

(R3・8・4)


〇令和3年6月歌舞伎座:「銘作左小刀〜京人形」

「京人形」は、廓で見染めた小車太夫のことが忘れられない甚五郎が、太夫に生き写しの人形を作りますが、その人形に魂が入って突然動き出す・・・と云うことで・どこかメルヒェンチックな趣きがしますね。終わりの方で甚五郎の右腕が切り落とされても、アハハ・・それで「左」甚五郎になったと云うオチね・・と云うことで愉しく見てしまいます。まあ「京人形」は、そう云う感じで見れば十分なのです。しかし、よくよく考えて見ると、名工の右腕を切り落とすなんて由々しき事ではある。そう云うところを、後で奴照平に「誤解でした、申し訳けない」と謝られたって簡単に許せないじゃないの、などと臍曲がりな吉之助は思ったりします。

「京人形」が御家騒動物の仕立てであることは、詳しい事情は知らずとも、現行舞台でも明らかですが、原作ではこうなっているようです。甚五郎が匿っている主筋の井筒姫を奪いに役人が捕り手をつれて押しかけて来ます。そこで甚五郎は、さっきまで一緒に愉しんでいた太夫の人形の首を切って首桶に入れて、これを井筒姫の首だと言って役人に渡すのです。人間に生き写しの人形の首ですから、役人は納得して帰って行きます。しかし、奴照平はホントに甚五郎が井筒姫の首を斬ったと思い込んで、怒って甚五郎の右腕を切り落としてしまうのです。

人形というのは、神霊が依り憑く形代(かたしろ)です。まして太夫の魂が入り込むほどの名作です。御家騒動の事情があったとは云え、人形の首を身替わりに斬ってしまったことで、甚五郎は何某かのタブーを犯したに違いないのです。「寺子屋」や「熊谷陣屋」のように生身の人間を身替わりに立てた訳ではない。しかし、人形なんだから首切ったっていいじゃないかと云うことにはならなかった。甚五郎は償いをせねばならなかったということです。まあこれならば経緯としていくらか納得できる気がします。「京人形」をこう見なさいと誰にでも言うつもりはありませんが、吉之助はこう見ないとどうも落ち着かない性分なのでね。

ところで今回(令和3年6月歌舞伎座)の「京人形」は、白鸚の甚五郎がほどよく力が抜けた洒脱なところを見せてくれました。高麗蔵の女房おとくも良くて、粋(すい)な夫婦になりました。しかし、今回の立役者は染五郎の京人形の精ですね。これはまことに面白い京人形の精でした。

実は見る前は染五郎はだいぶ背が伸びたようなので、どんなものかなと不安に思っていました。箱を開けると、果たしてこれが西洋人形のようなメーキャップで・まあ確かに綺麗なのだが、まるで着物を着せたリカちゃん人形のようで、アレアレ・・と思いました。眉の引き方などに工夫が必要かも。魂が入っていない時は長身腰高の踊りでまあそんなものかと思って見ました。ところが鏡を懐に入れてもらって太夫の魂が入ると、一転、腰をしっかり落とした踊りになって、これが身体の軸が決まって肩が揺れないキチンとした踊りで、近頃の若手女形のなかでもこれだけ踊れるのはいないと感心してしまうほどに良い。それが鏡を懐から抜いて魂が抜けると、ニュッと背が伸びて途端に長身腰高の振りに変わる。こうなると手足の長い機械的な踊りの方も面白く見えて来て、その印象の落差がとても大きいところが、妙に吉之助の気に入りました。吉之助流に云うならば、この世の有り様が乖離して・その境目がはっきりモザイク状に見えて来たということです。染五郎は恐らくそう遠くない時期に「鏡獅子」に挑戦することになるでしょう。この腰をしっかり落とした踊りならば、前シテの小姓弥生は大いに期待できると思いますね。

(R3・7・28)


〇令和3年7月歌舞伎座:「雷神不動北山桜」

海老蔵の歌舞伎座出演は、約2年振りのことだそうです。もしコロナ騒動がなければ、海老蔵は今頃「団十郎」だったはずです。襲名延期と云う予期せぬ事態となって海老蔵も大変なことですが、こうなったら災い転じて福となさねばならぬ。立派な団十郎になる為の準備期間がもっと出来たと云うことにせねばなりません。体調やメンタルな面だけでなく、コロナの自粛期間中にどれだけの自己研鑽をしてきたかが問われます。正直申して「雷神不動」についてはまたか・・と云う感じで、しかもコロナ仕様で前回(平成30年5月歌舞伎座)上演脚本(3時間20分くらい)を1時間ほど切り詰めたということなので、芝居として内容的にも十全であろうはずがない。海老蔵版「千本桜」みたいな酷いダイジェスト版を見せられるのなら叶わんなあ・・という不安もあり舞台を見るのを躊躇しましたが、それでも結局歌舞伎座へ行ったのは、海老蔵がどのくらい成長したか確認したかったからでした。

結論から云えば、あまり成長したところが見られませんねえ。まあ確かにお客さんを愉しませようと一生懸命にやっていると思いますが、芸として成長したところが見えない。相変らずの「海老蔵」であるようです。それでイイじゃん・・・と云う本人の声が聞こえてきそうだが、今頃彼は「団十郎」だったはずだと考えると、これは拍子抜けの感がしますね。芝居(粂寺弾正・鳴神上人)の出来自体も、前回と比べて決して良くなってはいない。まあ格別悪くなったというわけでもないが、成長が見えない。どんな時でも「オッ、以前とは違うぞ」と云う新鮮な発見がある舞台でなければ困る。繰り返しますが、今頃彼は「団十郎」だったはずなのです。付け加えれば、これは他の共演者も(右団次も児太郎もだが)同様です。いつものことをいつも通りにこなしている感じですかね。児太郎の絶間姫も前回(平成31年1月新橋演舞場)より崩れて悪くなっていると思います。

と云うわけで舞台のことを書く気になりませんが、海老蔵の発声についてちょっと触れておきます。吉之助は以前ボイス・トレーナーに付いて発声訓練した方が良いと書いたことがあります。その後ボイス・トレーナーに付いたという報道を耳にして、一時は改善の兆しが見えたこともありました。しかし、多分訓練をすぐ止めちゃったのでしょう。すぐ元に戻っちゃいましたね。ここ数年の海老蔵の発声は良くない方向で固まった印象がします。海老蔵の声は、響きに芯がなくて力強さを感じません。まあ聞こえてはいますが、台詞が心に届かない。喉が開いていない、腹から声が出せていないのです。実は、このような海老蔵の声は、成田屋の家の芸である荒事にあまり向かない声である。このことを本人がどれだけ認識しているのか分かりませんが、吉之助は海老蔵は未だに「自分の声」(舞台のための声)を持てていないと思います。役者にとって「自分の声」を持っているかどうかは、とても大事なことです。極端なことを云えば、例え悪声であったとしても「自分の声」を持ってさえいれば、その声を聞けばこの役者・名調子!となるのです。四代目源之助とか六代目菊五郎などがいい例です。残念ながら、海老蔵は未だにそのような「自分の声」を持てていません。大声を張り上げれば良いわけではないです。「自分の声」を持ててない(つまり喉の正しい使い方が出来ていない)役者が五役を勤めて(口上も含めれば六役だが)五色の声質を使い分けようなんて、若干無理があるのじゃないの?そう云うことは「自分の声」を持っている役者がすることです。三代目猿之助はもちろん自分の声を持っていた役者でした。「飴のなかから猿之助」(何をやっても猿之助と云う意味)と言われたこともありますが、早変わり芝居で十何役勤めてこれを仕分けられたのも猿之助が自分の声を持っていたからです。そういうことが分からないで「雷神不動」五役相勤申候とがむしゃらに頑張るだけでは、またいつぞやの時のように喉のトラブルで声が出なくなったりしますよ。だから今からでも遅くはないから、もう一度ボイス・トレーナーに付いて正しい発声を真剣に学んで、「自分の声」を持つようにしてもらいたい。正直申して、海老蔵の現状は少々心配です。

(R3・7・19)


〇令和3年7月歌舞伎座:「鈴ヶ森」

歌舞伎の解説本などで「鈴ヶ森」を調べると、「世話物。・・・権八と雲助たちとの立ち廻り、長兵衛の「お若けえの、お待ちなせえ」の名台詞など歌舞伎の様式美にあふれた舞台・・・」などと書いてあります。「鈴ヶ森」が世話物だと云うことは、これは大事な認識です。しかし、揚げ足取りみたいで恐縮ですが、権八と雲助たちとの立ち廻りを歌舞伎の様式美だと云われると、吉之助はちょっと違和感を覚えますねえ。何でも安直に「様式美」で括るのは、問答無用でそれで良しと済ませているようで、吉之助はどうも好きませぬ。様式的な立ち廻りと云うのは、時代物の、例えば「新薄雪」の清水寺の花見の立ち廻りのようなものを指すと思います。「鈴ヶ森」のような世話の立ち廻りは、これとはちょっと違うと思います。時代の立ち廻りと世話の立ち廻りとどう違うんだい?と正面切って聞かれると、どうもフィーリングの違いみたいな話しになって、どこがどうと具体的に言い難いですが、雲助が権八に近寄って・掴みかかるまでの呼吸の違いですかねえ。権八を掴んで・斬られる段になれば・これは時代の立ち廻りと変わりはないですが、そこに至るまでの写実の感覚です。この違いはなかなか教えられるものではないけれど、そこの違いが分かって欲しいと思います。そこで今回(令和3年7月歌舞伎座)の「鈴ヶ森」の立ち廻りを見ていると、何となく時代っぽいねえ。キチンとやっているようだけれど、あんまり面白くない。と云うか、キチンとやっちゃうから面白くならないのです。

時代っぽいと云えば、錦之助の長兵衛も菊之助の権八も何となく時代っぽい。一番の原因は、二人とも声のトーンが高過ぎることです。声を太く作れと言うのではありません。世話の口調はもっと低調子で作るものです。これは「鈴ヶ森」に限りません。「六段目」だって同じことですよ。何だか「鈴ヶ森」は時代物だと勘違いしてるように見えますねえ。これだから「様式美」なんて言葉を安直に使って欲しくないのです。これだから世話物の感触が時代物と区別が付かなくなってしまいます。

錦之助はどちらかと言えば権八役者でしょうが、無理して柄になく太い長兵衛を作ろうとしていないのは良いことです。しかし、低調子の世話口調になっていないから、台詞に真実味がこもらない。長兵衛の長台詞は何となく七五で割り切れるように感じるだろうが、黙阿弥とは違う。そこをしっかり仕分けること。幡随院長兵衛というのは江戸町民の代表、つまり世話の役なのです。菊之助は柄は悪くないし・形がよく取れているけれど、爽やかな色若衆のような心持ちで演っているのかな。もう少し横顔に暗い陰が差すところがないと権八にはならぬと思います。声が低調子の世話口調になっていないことは前述しましたが、ここにも「鈴ヶ森」は時代物だと云う勘違いがありそうですねえ。七代目梅幸の権八の素晴らしい映像が遺っていますから、これを見て研究して欲しいと思いますね。

(R3・7・18)


〇令和3年7月歌舞伎座:「身替座禅」

今回(令和3年7月歌舞伎座)の「身替座禅」の白鸚の山蔭右京は初役で、「身替座禅」自体も昭和61年・1986・4月歌舞伎座で十七代目勘三郎の右京を相手役に玉の井を勤めて以来のことだそうです。ちなみにこの時が勘三郎の「身替座禅」の最後の舞台でした。勘三郎の右京は持ち前の愛嬌がよく生きて、見ているこちらがほっこりとした気分にさせられたものでした。他人が真似できるものではないけれど、先日のインタビューでも白鸚は勘三郎の右京の思い出を語っていましたから、今回の舞台もそのような芸の心を継ごうと云う思いがあるのでしょう。しかし、勘三郎と白鸚とは芸風が異なりますから、今回の白鸚はさすがに愛嬌で勘三郎に似せようとはしていません。敢えて勘三郎との相似を探すならば「嫌らしさ」のないところ、「色好み」の徳とでも云いますか、そういうものをさりげなく目指しているようです。むしろ全体としては本行に立ち返った行儀の良さ・折り目正しさが印象に残るものでした。これは近頃得難い右京であったと思いますね。

一方、芝翫初役の玉の井は、白鸚の右京と印象が真反対です。いかつい風貌で観客を笑わせようとする玉の井はよく見掛けますが、ここまで下品で酷い玉の井も近頃珍しい。芝翫に玉の井の役が振られた理由は本人は承知していると思います(云うまでもないが先年の不倫報道のせいです)。「どうぞ私のこと笑ってください、こんなに怒られました」と自虐ネタで笑わせる魂胆のようですが、やればやるほど本行から離れる。所作板を踏む音がバンバン煩いし、太い男声で叫ぶので、見ているうちにだんだん不愉快な気分になって来ました。右京が襖を取ったら、なかから般若の隈をとった玉の井が現れたならば、もっとカブキ・テイストで観客に受けるからそうやってみれば如何かな?と言いたくなる。これは逆でしょう。心の底から反省しています・・神妙に勤めております・・と云う姿勢をみせた方が良いのではないか。それは本行に対するリスペクトにも通じることだと思います。玉の井はこの場では怒っているから怖く見えるけれども、ご主人を心底愛している・可愛い女房なのです。芝翫も奥さんがしっかりしてるから舞台に立ててるのじゃないの?そこんとこよく考えてみることだと思いますがね。

(R3・7・15)


〇鶴屋南北と現代・その5

モザイクとは、欠片(ピース)がいっぱい集まることで、それらが全体でひとつの絵模様(世界)を創るものです。このモザイク模様からこの世界が乖離しているという感覚、連関性がなく支離滅裂だと云う感覚がどこから生じるかと云うと、それは欠片と欠片の境目・裂け目の感触から来ます。境目のザラザラした感触・違和感が、この世界はこのようなバラバラで連関のない状態に置かれていると云う実感を与えてくれます。だから境目はくっきりとして、裂け目がより鮮やかな方が良いわけです。このようなテレビの時代の欠片の質感は、「軽い」。あるいは「薄っぺらい」。前項で吉之助が、「桜姫の場合には、技巧が技巧として浮き上がった方が良い、むしろ聖と俗の裂け目がはっきりと見えた方が宜しい」と書いたのは、そこのところです。これが二十世紀初頭からここまで続いてきた現代世界の乖離感覚です。

一方、令和の現代(2020年代)はインターネットの時代が進行中ですが、状況はさらに複雑です。テレビ時代から見れば、量的な観点では連続しています(ただし情報量は急激に増加し続けています)が、むしろ質的な変化が著しい。欠片(ピース)があまりに細分化し過ぎて、もはや境目がはっきり見えて来ません。欠片の質感は、ますます軽く・薄っぺらになっています。このためテレビ時代のように境目のザラザラした感触で世界を実感することがもはや出来なくなってしまいました。世界は溶融の様相を呈して来ます。現実と非現実の区別が付きにくくなっているのです。これがインターネット時代の世界の乖離感覚です。

のようなインターネット時代の感覚であると、境目がくっきりと・裂け目が鮮やかなことが、むしろ嘘っぽく見えてくるのですねえ。つまりテレビ時代とは、見える様相が違って来るのです。昔はリアルに感じられたものが、何だか嘘っぽく・作り物っぽく見えて来るのです。だから昭和50年代の我々が「南北の状況は現代を先取りしていた」と共感したのとまったく同じドラマが、インターネットの時代には、何だか趣向を弄んだフェイクな芝居に見えて来るのです。ただしこれは見方が間違っているわけではなく・見る角度が違っているからそう見えるわけで、南北の別の一面を突いてはいるのです。しかし、それでドラマに共感できるかと云うと、多分、そうはならないでしょうねえ。

話しが変るようですが、吉之助は最近映画やテレビ・ドラマをほとんど見ませんが、チラと小耳に挟んだところでは、例えば主人公がタイムスリップして別の時代に放り込まれるとか、主人公と別の人物と心と身体が入れ替わってしまうとか、そう云う極端に非現実的な設定のドラマがこのところ増えているようです。そういう極端な設定をしないとドラマを動かせないのかねと脚本家の力量の低下を嘆くけれども、視点を変えると、これくらい極端でないと境目を感知出来ないということです。確かに現代は現実の確固たる手応え(リアリティ)を感じ取りにくい時代なのだろうと思います。

そう考えると、4月・桜姫・上の巻で高貴なお姫様と折助のミスマッチングな恋物語と云うところで観客が狂喜したのは、何となく分かる気がします。今風ドラマの感覚で見ているわけだな。一方、6月・桜姫・下の巻で、風鈴お姫がお姫言葉(時代)と女郎言葉(世話)をチャンポンに使い分けると場面で、拍子抜けするほど観客が反応しないのも、これも何となく分かる気がします。境目の感触が感じ取り難いのでしょう。(これは令和の玉三郎が重ったるい感覚へ変化したことにも原因があります。ここ参照。)現代(インターネットの時代)は、南北にとっては、難しい時代になったようです。これからは、歌舞伎の他の場面においても、受け取りの微妙な変化が出てくるかも知れませんねえ。

(R3・7・13)


〇鶴屋南北と現代・その4

1932年にスイスの哲学者マックス・ピカートがドイツを旅行した時、「どうしてヒトラーがこんなに有名になり、多くの支持者を獲得することが出来たのだろう」と或る人がピカートに聞いたそうです。ピカートはたまたま机の上にあった新聞を手に取り、「どうぞ、これを見てください」と答えました。第1面にはほとんど全裸の踊り子の挿画、第2面には機関銃操作の訓練を受ける兵士の写真、その下には実験室にいる研究者の写真、第3面には19世紀末から今日に至る自転車の発達が挿画で示され、その下には中国の詩が印刷されている…第四面には工場で体操する行員たちの写真、そしてその横には避暑地でバカンスを愉しむ某衆議院議員の写真・・・。

『現代人が外界の事物を受け取るやり方は、こうなのです。現代人はあらゆるものを、何の連関もない錯乱状態のままで、手当たりしだいにかき集めて来るのですが、それは、現代人の心のなかも一種の支離滅裂な混乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはや確乎たる事実としてのそれに向かい合っているわけではなく、従ってもろもろの事物も、もはや一個限りの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。また現代人はもはや一つの特別な行為を通じて個々の事物に近づくこともしないのです。(中略)したがって、何が我が身に振りかかりつつあるかは一向に吟味されない。このような連関性のない錯乱状態のなかには、どんなことでも、またどんな人物でも容易に紛れ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょうか。』(マックス・ピカート:「われわれ自身のなかのヒトラー」・1946年)

ピカートが語ったことは1932年の話ですが、現代の状況は1932年よりずっと深刻な状況になっています。1932年当時には、テレビもインターネットも存在しませんでした。

テレビの時代(とりあえず戦後昭和の1970年代を想定)を考えます。テレビはお茶の間に入り込んで、日常生活に、それがこちら受け手にとって大事か・関心があるか・そうでないかに関係なく、一方的に情報を脈路なく垂れ流し続けます。そこから浮かび上がる世界は、モザイク的な模様を呈します。1932年ピカートの時代と比べて、テレビの時代は情報が飛躍的に増大し混乱度合いはさらに酷くなっています。しかし、量的な変化はあるけれど、質的にさほどの変化はないと考えて良さそうです。

そこで1970年代の第二次南北再評価ブームのことを振り返ってみます。吉之助も最後の方にどうやら間に合いましたから、この時代はよく覚えています。テレビの時代に南北ブームが起こったことは、決して偶然ではありません。当時の我々は、「文化文政期の南北が戦後昭和の支離滅裂なモザイク感覚を先取りしていた」という新鮮な驚きを以て受け取ったのです。ここで前項で述べた南北の時代の芝居が「絵画的」であると云う郡司先生の指摘が深く関連して来ます。絵画的なものの本質とは、立体性を欠く・連関性を欠くということです。この南北の芝居は、まさにテレビの時代の世界の状況とよく似ています。

但し書きを付けますと、南北の芝居がどれもこれも凄いというわけでもないです。趣向それ自体が世界を表徴する様相を呈するような傑作はそう多くないかも知れません。しかし、少なくとも「盟三五大切」(文化8年9月江戸中村座)と「桜姫東文章」(文化13年3月江戸河原崎座)の2作に関しては、その域に達した傑作であると云えると思います。戯作者精神がバッチリ決まった作品だと云うことです。

昭和の玉三郎の「桜姫」については、サイトで何度も書いたので・詳しくはそちらをお読みいただきたいですが、「山の宿」の長台詞での、桜姫と風鈴お姫の人格は、一人の肉体に宿る二つの記号の交錯であると解釈できます。記号は交じり合うことはありません。入れ替わり・立ち替わり現れるだけで、そこに何の連関もないのです。「お姫様がこんな悲惨な境遇に陥って悲しくはないのか」、「どうして何食わぬ顔してお姫様に戻れるのか」などと考えて、そこに一貫した人格を描こうと考えると、面倒なことになります。局面々々の桜姫の心情は、すべてその時々の真実です。しかし、どの心情にも連関がないのです。ですから桜姫の場合には、技巧が技巧として浮き上がった方が良いのです。むしろ聖と俗の裂け目がはっきりと見えた方が宜しいのです。歌右衛門も雀右衛門も難儀したというこの役を、若き玉三郎は難なく演ってのけてしまいました。恐いもの知らずということもあったかも知れませんねえ。こういう役は考え過ぎると返って良くないのかも知れません。(この稿つづく)

(R3・7・10)


〇鶴屋南北と現代・その3

文化文政期が江戸町民文化が花開いた時期であることは、今更申すまでもありません。この時期は、江戸歌舞伎の方も名優が目白押しで、実際凄い時代でありました。役者は現代で云う「俳優」ということではなく、「職人」という意識が徹底していました。郡司正勝先生がこんなことを語っています。

『文化文政期は、職人芸というものが上昇した時代だったと思います。錦絵にしたって絵描きよりも彫師や摺師の方が腕が上がって来た。だからあれほど発行されたし、見事な版画技術が頂点に達した。絵描きだけであんなに錦絵は発達しない。役者絵がブロマイド化して、錦絵の影響を役者ばかりでなく、作者(南北)も強く受けたと思いますが、舞台も作風も絵画的になった時代です。それは技術が、職人芸として上昇した時代だったということが大きい。浮世絵師だって、国芳みたいなのは西洋の版画でも何でも取り込んで行くと云う広い精神があの職人芸で、ただ古い伝統技術を守って行くのが職人ではない。職人なら何でも出来なければならんと云う根性が、職人芸なのだと云う意味で。』(郡司正勝:広末保との対談:「近松と南北の意味するもの」・昭和46年7月)

ここで郡司先生は「職人芸」ということを言っています。例えば歌舞伎では「趣向」が大事だとよく言います(南北物においては特にそうです)けれど、趣向と云うと、これを小手先の・職人のその場の思い付きみたいに受け取る方が現代では少なくないと思います。しかし、趣向が極度に洗練されて、趣向それ自体が世界を表徴する様相を呈したのが、文化文政期の特質なのです。

また郡司先生が文化文政期の歌舞伎が「絵画的」だと言っているのも大事なことです。舞台面が絵面として綺麗だと言う意味ではありません。絵画というものは、平面に描くものです。つまり遠近法を用いて立体的に見せていたとしても所詮それは嘘です。つまり絵画的なものの本質とは、「立体性を欠く」ということです。翻って演劇的に立体性を失ったものと云うと、それは例えば或る役において・その人物の深みを欠くような場合、性格描写に境遇・生い立ちなどの裏付けを欠くような場合を指します。つまり連関性を欠くということです。同じ対談で郡司先生は、こんなことも言っています。

『南北の生世話では、時代と世話とが、すごくくっきりと出てくるのです。時代と世話が綯い交ぜになると云うのは、うやむやになったということではなくて、むしろどっちとも違った、ふたつの要素の違和感がはっきりして来る。』(郡司正勝:広末保との対談:「近松と南北の意味するもの」・昭和46年7月)

このことは「桜姫・山の宿」で風鈴お姫がお姫言葉(時代)と女郎言葉(世話)をチャンポンに使い分けるところに典型的に出ますが、この長台詞を一人の人物の一貫した性根から生じる言葉としてしまうと、どうにも居心地が良くありません。時代と世話は明確に仕分けられなければなりません。この長台詞についてはサイトで何度か取り上げたので別稿「四代目雀右衛門の桜姫」をご参照いただくとして、本稿では別の箇所・「桜谷草庵」で周囲に誰もいなくなると桜姫が態度を一変させて権助にしなだれかかる場面を見ることにします。

『イイヤ其方(そち)は去なされぬ。マア待ちや。・・・サア用がある程に、ちゃっとここへ。・・・苦しうない、ここへおじゃ。ハテ大事ないわいの。・・・何をマアその様に。サアどうぞ云うて聞かせてたも。・・・隠してたもんな。其方の身のうえ。・・・』

台詞の流れは姫言葉であって、ここにバラ描きの言葉は出て来ません。それではこの台詞は、姫の性根で発声すべきでしょうか。4月・上の巻の玉三郎は、桜姫が姫の建前(慎み)を捨てて本音(恋心)をさらけ出し、しかしそう言いつつも恥じらいが募るという感じで、さらに遅いテンポでねっとり濃厚に、この台詞をしゃべっておりましたね。姫の性根を基本にして重ったるい大時代の感触でした。まあそう云う解釈もあろうかと思います。姫の性根で一貫させようとすればこうなります。

しかし、この瞬間、桜姫(=白菊丸)の業(ごう)が桜姫の人格を乗っ取り・桜姫を操り始めたと考えるならば、まったく別のやり方が考えられます。つまり、口調自体をガラリと変えるのです。しゃべっている台詞は姫言葉だけれども、しゃべっているのは他者(桜姫ではない他のもの)であるからです。役の性根と、しゃべる言葉の間に連関性がないのです。このような状況の違和感・乖離感覚を際立たせる為の最もシンプルな手法は、姫言葉(普通は時代にゆっくりとしゃべるものです)を早いテンポでサラサラ世話口調でしゃべるやり方です。こうすれば「早く、少しでも早く、今すぐここで・・」と云う急いた気分も表出できます。これが南北的な様式だと云うことです。(この稿つづく)

(R3・7・7)


〇鶴屋南北と現代・その2

今回(令和3年)「桜姫」上演では、上の巻(4月)は熱狂的に歓迎されたけれど、下の巻(6月)の方はいまいちそこまで受けず、観客に一抹の割り切れなさが残ったようでした。吉之助の下の巻の観劇随想で、その考えられる幾つかの要因について触れました。まずひとつは上演形態の問題で、上の巻・下の巻という上演形態は玉三郎と仁左衛門の体力的問題と・コロナ事情があるから致し方ないことでしたが、やはり無理があったということです。つまり一つの尺として見た時、下の巻だけだと正しい芝居の間尺にならない。正しい始まりがなければ・正しい終わりはないと云うことです。まあこういうことは実際やってみて初めて分かるようなものですが、もうひとつは役者サイドの問題で、年季を経て芸が練れて来たと云うことでもあるのだが、役者に七五で割る「歌舞伎らしさ」の感覚が身に付いてしまっているから、どうしても芝居が重ったるく幕末歌舞伎めいた感触になってしまうと云うことです。

もちろん印象に強く残った場面もありました。岩淵庵室幕切れ・花道上での桜姫の「毒喰わば・・」の叫びは、強烈な生々しさでした。山の宿で酔っぱらった夫権助の酒の相手をしながら・権助が犯した悪事を聞き出す件りでの、桜姫のシリアスなタッチは、なかなかのものでした。これらはまさに現在71歳の玉三郎ならではの、濃厚な重さを持つ桜姫でした。しかし、これが「南北的」な感触であったかと云うことになると、そこは疑問です。いささか重きに過ぎるように思われます。吉之助が記憶する昭和の「桜姫」と比較して感触が重い。南北的と云うよりも、多分、これは「演劇的」な感触なのだろうと思います。演劇的と云う意味は、権助の悪事を聞き出した後、桜姫が我が子を殺し・我が夫を殺す、その結末へ向けて論理的必然を踏もうとしていると云う意味において演劇的なのです。

ただし、今回これで観客を納得させることが出来たかと云うと、十分ではなかったと思います。理屈で納得が出来ても、感情で納得させてもらえないからです。それは「桜姫」のこの場面に、理屈と感情との間に関連性が欠如しているからです。南北では、両者は乖離しているのではなく、最初から関連性がないのです。(この点が本稿の以後のところで重要なポイントになるので、気に留めておいてください。南北的であるとはそう云うことなのだとご理解を願いたい。)それなのに論理的必然を重くしようとするものだから具合が悪くなります。

桜姫が桜姫が我が子を殺し・我が夫(権助)を殺し・平然と元の吉田家のお姫様に戻るという結末について、「桜姫」を初めて見た人には、唖然とした方が少なくないと思います。この桜姫の決断は、非人間的で・女性として理解出来ないと憤る方もこれまた多いと思います。或いは、このような「重い決断」をするからには、桜姫の選択は深刻かつ厳粛な重いものでなければならぬと考える方も当然いらっしゃるでしょう。前世からの暗い輪廻の縛りと・現世の冷酷な社会制度の縛りにがんじからめにされて、社会的身分を捨てて自由な恋に生きようとした桜姫の願いは、これによって崩れ去ったという見方も出来るかも知れませんねえ。そのようなご感想も、直接的には、今回の玉三郎の桜姫がまさに「演劇的な重さ」を背負っているところから引き出されるものです。

しかし、そういう見方は南北的な感触とはちょっと異なるものではないでしょうかね。そこで南北の重さではなく、南北の「軽さ」のことを考えなければならなくなるのです。(この稿つづく)

(R3・7・4)


〇鶴屋南北と現代・その1

先日・4月と6月に上下に分けて上演された南北の「桜姫東文章」は、玉三郎(桜姫)と仁左衛門(清玄/権助二役)の組み合わせで、実に36年振りに昭和の伝説の舞台が再現されて、大いに話題となりました。舞台については観劇随想(上の巻下の巻)で書き尽くしたつもりですが、本稿ではちょっと別視点から今回の「桜姫」上演に絡み雑談風に綴ってみたいと思うわけです。結果として観劇随想の補足にもなると思います。

玉三郎による「桜姫」上演は、戦後昭和歌舞伎のエポック・メイキングな事件でした。吉之助が初めて「桜姫」を見たのは昭和53年(1978)10月新橋演舞場のことですが、この舞台はその後の吉之助が歌舞伎にのめり込むきっかけとなったものでした。だから玉三郎の「桜姫」は、吉之助にとっても思い出深く大事な演目です。(このことについては、本サイトでも何度か書いたので、これ以上は改めて書きません。)「桜姫」を初めて見る方々・昭和の上演を体験できなかった方々にとっても、今回(令和3年)の「桜姫」上演はホントに得難い機会となったと思います。

今回上演の意義を認めたうえで書きますが、今回上演で気になったことが、ひとつあります。4月(上の巻)上演の時(特に「桜谷草庵」の場面においてですが)には、客席にワクワク感が立ち込めていました。「私は今凄いものを見ている」という興奮というか・高揚感が劇場全体を覆っているようでした。もちろん現在はコロナ対策で声を出すのは禁止ですから静かなのだけれど、あれは不思議なものですねえ、みんなが息を呑んで舞台を見詰めている熱い緊張が伝わって来るのです。こういう雰囲気は、歌舞伎座でも久しく感じなかったものでした。ところが6月(下の巻)上演の時には、観客が「アレ?この展開は何なの?」と戸惑っていると云うか、筋の展開に付いて行けなくて「困惑している」もどかしさが漂っているようでした。この雰囲気が最後まで消えませんでした。ネットでも同様の感想をいくつか目にしましたから、これは吉之助だけが感じたことではなかったようです。

普通に考えれば、南北らしい筋の奇矯さとか猥雑さは、上の巻よりも下の巻の方によく出ていて、芝居はずっと面白いはずです。桜姫についても、綺麗綺麗で済むお姫様よりも、悪婆の風鈴お姫の、お姫言葉と女郎言葉のチャンポンの方が面白いので、玉三郎の芸の見せ場は、下の巻の方にあるのです。だから「上の巻も面白かったけど・下の巻はますます面白い」となるのが普通だと思うのです。けれども今回上演では、下の巻(6月)は何となくシラーッとした雰囲気が漂っていました。但し書き付けますが、これとは関係なく、舞台の出来は素晴らしいものでした。それだけに批評家としては、下の巻(6月)での、観客のとまどったような反応が余計に気になりました。これはどう云うところから来るものでしょうか。

南北の芝居に、現代(令和)の観客には受け入れ難いところがあるのかも?」と云うことも一応考えておかねばなりませんが、吉之助には、あの衝撃的であった昭和の「桜姫」と・令和の「桜姫」との間に、何かが変化したと感じるのです。それは役者の問題と・観客サイドの問題と、ふたつあります。40年の歳月の間に、玉三郎や仁左衛門の芸も変わったし、観客の嗜好も変わったと思います。吉之助自身も変わったでしょう。もちろん変わったことが良いことか・悪いことか・そういう問題もありますが、歳月を経れば何かが変わるものです。いずれにせよ・そう云うことも含めて相互関係のなかで、今回(令和3年)「桜姫」上演では、上の巻は熱狂的に歓迎されたけれど・下の巻はいまいちそこまで受けず・或る種のもどかしさが残った(ようだ)。このことは、やはり結果として気に留めて置かねばならぬと思うのです。(この稿つづく)

(R3・7・3)


 

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