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吉之助の雑談40(令和3年7月〜12月)


〇今回はホンの雑談

本稿は、ホントの雑談です。別途「六代目歌右衛門の最後の政岡」を連載中ですが、雑事があって書くのが遅れていたところに・予期せぬ吉右衛門さんの訃報があって・いろいろ考えることも多く、このため連載が中座になっています。連載形式では、章の切れ目では次の章で何から書き始めるか・当然目算を付けて書くのを止めるわけです。しかし、何かの拍子で思考の糸が途切れてしまうと、切れた思考をまた繋ぎ合わせるのに苦労することがあって、今回の場合はそのような感じに陥りました。そんなところで、昨日(6日)歌舞伎座に行って来て、やっと何か書いてみようという気持ちが戻ってきたので、近日に第1部・「新版 伊達の十役」の観劇随想を書くつもりです。まだ書き始めていませんが、予感ではこの「雑談」に小出しの章割りで続ける形にはまりそうにないので、別途に連載の形にいたしたいと思います。

なお歌右衛門の政岡・猿之助の政岡と連載が並列になってしまうため、何か意図が裏にあるのかと勘ぐられそうですが、そういうことはまったく御座いません。六代目歌右衛門の最後の政岡」の観劇随想は、最初の章をお読みいただければ分かりますが、もちろん政岡について書くわけだけれども、本稿は芸の最晩年期に役者はどのような「生き様」を見せるかというところに主眼を置いています。このことは次に書くつもりの「六代目歌右衛門の最後の隅田川」の観劇随想でも、同じ主題となるはずです。お察しいただけると思いますが、たまたまタイミングが重なってしまったけれども、吉之助のなかで、多分連載中座は吉右衛門さんの死が気分的に影響しているのでしょう。連載再開にはもう少し時間が掛かるかもねえ。

まあそれは兎も角、また書く気分になってきたのは良いことです。

(R3・12・7)


〇令和3年10月歌舞伎座:「天竺徳兵衛新噺〜小平次外伝」・その2

猿之助が勤めるのは小平次と女房おとわの二役ですが、小平次はさしたることもない(これくらい出来て当たり前)ですが、悪女役のおとわの方を猿之助がどう処理するかは、興味あるところです。猿之助が演ればやはりそうなるだろうと云うような・濃厚な感触の悪女に仕上がっています。ただし幕末歌舞伎の重ったるい絵草紙の感覚であって、もう少し感触が軽めの方が南北の味ではないかと云う気がしますね。

ところで以下は猿之助のおとわと直接関連しませんが、このおとわという役についてちょっと考えてみたいのです。南北の脚本には、おまきに「とんだ悪婆だ」と罵られて、おとわが「何だ、悪婆とはオレがことか」と言い返す場面があり、これは文献で「悪婆」という用語が出て来る比較的早い例ではあるようです。しかし、南北の・この「悪婆」の使い方は、悪女・或いはふてぶてしい女・毒婦というニュアンスであって、いわゆる役柄としての「悪婆」の定義とは意味合いが異なるようです。ですから短刀を振り回す女というだけでおとわを悪婆の役として規定すると間違いで、これは岩藤や八汐と同じ悪女の範疇に入れて考えるべきであろうと思います。まず役柄としての「悪婆」の定義について触れておきます。「お染の七役」(於染久松色読販)を国太郎に習った玉三郎が、次のように語っています。

「悪婆(土手のお六)は可愛さがなければいけないと言われました。抜けたところがなくてはいけない、可笑しみがないといけないということです。お六にしても旧主の竹川のためにやっているので、根っからの悪ではいけないわけです。」(坂東玉三郎インタビュー:歌舞伎美人・平成30年3月歌舞伎座)

これが役柄としての「悪婆」の正しい感覚で、「女形としてあるまじき事(女武道)をするのも忠義のためだから仕方ないと断りをすることで、女形本来の性質である善人に立ち返る」のが、悪婆なのです。如何にも女形が考えそうな発想です。「こんなはしたないことはホントはしたくないんですよ、でもお主(あるいは愛する亭主)のためだから、仕方がないのヨ」というところに、悪婆の可愛さ・愛嬌があるわけです。(別稿「源之助の弁天小僧を想像する」をご参照ください。)

しかし、このおとわという役には、女形本来の性質である善人に立ち返るための名目が見当たりません。おとわは根っからの悪女です。「彩入御伽艸」初演(文化五年・1808)時点でおとわを演じた初代尾上松助(後の初代松緑)は64歳であり、また立役(小平次)とおとわを兼ねたところから考えても、被害者としての小平次との対照上からも・おとわは悪女でなければなりません。やはりおとわは立役が勤めることが多い岩藤と同じ範疇であると考えて良いでしょう。つまり役が立役からの発想だということです。ですからおとわという役を、悪婆と見なすことは出来ません。

一方、「於染久松色読販」初演(文化10年・1813)で土手のお六を演じた五代目半四郎は、この時37歳でした。このお六が「悪婆」の端緒だとまで言い切れないかも知れませんが、これ以後、半四郎は悪婆の領域をどんどん開拓していきます。そう考えると、「彩入」のおとわは、南北の生世話のバラガキの悪女として興味深いキャラクターではあるけれども、「悪婆」の役柄が成立する以前の・前段階(プロトタイプ)と見るべきだと思いますね。

そう考えると猿之助のおとわは、まだ工夫の余地があるかも知れませんねえ。前節で触れた通り今回の舞台では巳之助ら若手が南北の生世話に近い感触でやっているなかで、猿之助だけが幕末の絵草紙感覚と云うのでは、ちょっと困るのではないかな。猿之助は主役であるから・そうであってもさほど違和感がないと言ってしまえばそれまでですが、「生世話の岩藤」とでも云うような、性悪女のバラガキの感覚、その辺をおとわで目指してみれば如何かなと思うのですが。

(R3・12・3)


〇令和3年10月歌舞伎座:「天竺徳兵衛新噺〜小平次外伝」・その1

三代目猿之助四十八撰の内「天竺徳兵衛新噺(てんじくとくべいいまようばなし)」(初演は昭和57年7月歌舞伎座のことで、吉之助はもちろん見ました)から、今回はコロナ仕様の時間制限のせいで、中幕の小幡小平次(こはだこへいじ)の件を抜き出して「小平次外伝」と銘打って上演したものです。ただし鶴屋南北の「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべいいこくばなし)」には小平次の件は本来ないもので、これは同じく南北の「彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)」の小平次の件を挿入したものです。脚本が伝わっていませんが、「彩入」発端でどうやら小平次の筋が天竺徳兵衛の世界と絡んでいたらしく、小平次の件を「天竺」へ挿入した根拠がそこにあるようです。実は原典主義者の吉之助はこう云う素性のよく分からぬ脚本のいじくり廻し(もちろん三代目猿之助は良かれと思ってやっているわけだが)が昔から好きではなく、当時の若き吉之助はかなり熱心な三代目猿之助ファンでしたが、吉之助が猿之助歌舞伎の復活狂言から次第に離れていくことになった遠因のひとつが、これでありました。まあ小平次の件だけ抜き出してやる分には余り気になりませんが、今回のチラシでは「「彩入御伽艸」より」とのクレジットがされたことは良心的であったと思います。しかし、この芝居の外題が「天竺徳兵衛新噺」である経緯が今の若い観客には分からないでしょうから、多分混乱するでしょうね。

まあそれは兎も角として、今回(令和3年10月歌舞伎座)の「小平次外伝」は小平次の幽霊譚を手際よく見せてくれました。芝居のコクが乏しいのは脚本のせいで仕方ないところですが、南北の生世話の乾いた感触が出せていればそれで良しとします。ところで、いつぞや吉之助は「南北ものは、ベテランよりも若手で見る方が面白い」という仮説を提出しました。つまり幕末歌舞伎の・重くねっとりした「らしい」感触に染まってしまったベテラン役者よりも、まだそういうものに染まり切っていない(まだ出来上がっていない)若手の南北の方が、本来の南北の生世話の感触にいくらか近くなるだろうということです。今回の「小平次外伝」では、巳之助の馬士多九郎・米吉の小平次妹おまき・松也の尾形十郎ともに、そんな感触にいくらか近いものを感じて、ちょっと嬉しい気分になりました。もっとも彼らも役者として練れて行くなかで・こう云う芝居がだんだん似合わなくなって行くでしょうが、まあそれはそれです。

吉之助は今回の舞台を見ていて、昭和57年7月歌舞伎座の「天竺徳兵衛新噺」初演の雰囲気をフト思い出しました。ちなみに当時の配役では多九郎を段四郎・おまきを東蔵・十郎を九代目宗十郎が演じたのでした。吉之助も若かったが、みんな若かったねえ。どこがどう似ていると云うのでもないけれど、何と云うか、当時の若手のひたむきさが似ているのでしょうかね。芝居がまっすぐであることは、良いことです。(この稿つづく)

(R3・11・30)


〇令和3年10月歌舞伎座:「時平の七笑」

「天満宮菜種御供」(てんまんぐうなたねのごくう)は、安永6年(1777)3月大坂角の芝居での初演。この二幕目が「時平の七笑」として今に残ります。作者は並木五瓶で、本作は五瓶が30歳の時の大坂時代の作ですが、後に五瓶は江戸に移り上方劇の写実を江戸歌舞伎に移植し、これが文化文政期に花開いて鶴屋南北の生世話を生むことになります。五瓶の・この演劇史的位置を押さえておきたいと思います。

本作は、近松門左衛門の「天神記」・竹田出雲他の「菅原伝授手習鑑」を下敷きにしています。だから歴史劇ではないわけですが、この場は完全な台詞劇になっており、芝居の雰囲気としては実録風に進みます。芝居が淡々として写実(リアル)なのです。例えば「菅原・車引」では藤原時平は隈取で登場し、見ただけで大悪人だと分かる仰々しい造りですが、わざとそこをしないところが五瓶なのです。本作での時平は最後の最後まで流罪となる菅原道真に同情して・善人のふりを続けて、舞台上にただ一人になった時に至って「道真はいかい阿呆じゃ、ハハハ・・」と笑い出す、この意表を突いたところが本作の最大の趣向です。明治に入って福地桜痴が本作を活歴仕立てにして「時平公七笑」という芝居を書いた(明治30年11月歌舞伎座、時平を演じたのはもちろん九代目団十郎、ただし評判芳しからず)のも、元はと云えば本作に実録風な要素があるからに違いありません。

今回上演(令和3年10月歌舞伎座)の「時平の七笑」(今井豊茂脚本)では、道真の流罪が決まったところで気分が悪くなって奥に引っ込む(原作では時平は最後まで舞台に残る)、他の者たちがいなくなったところで時平は中国の使者天蘭敬を刺し殺し(原作では金を与えて立ち退かせる)、姿を顕わした時平は青の筋隈の化粧で・衣装がぶっかえって七笑いとなります(原作では最後まで白面で公家装束のままです)。さらに今回は時平の登場から原作にはない竹本仕立てとなっています。筋書の談話を読む限りでは、これらの改訂は、どうやら白鸚の発案のようですねえ。まあいつもの芝居の常識からすると、時平=天下を狙う大悪人の、いつもの歌舞伎の図式に乗るわけだから、お客も芝居が分かりやすくなるし、役者も演じやすいと云うことでしょうかね。それにしてもホントに可哀そうな五瓶・・・みんな良かれと思って・寄ってたかって・こんな風に変えちゃうわけです。これでは作者の意図は台無しです。

と云うわけで原典主義者の吉之助からすると口アングリでしたけれど、これで「時平の七笑」が面白くなったと云う方がいらっしゃるならば、まあそれはそれでよろしかったのかも知れませんねえ。二代目松緑が半通しで「天満宮菜種御供」の時平を演じた時(昭和57年4月国立小劇場)に、確か「芝居が薄味だ」という劇評が出たと思います。何と較べて薄味だと云うのか分かりませんが、五瓶の芝居というのは、そう云うものなのです。いつものカブキらしい・こってりした濃い味に慣れてしまっているから、五瓶の芝居を薄味に感じてしまうのです。薄味に感じてしまうから、醤油やラー油をぶち込みたくなるわけです。

本作の延長線上に、後年の名作「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ・初演寛政7年・1795)があり、更に文化文政期の南北の生世話が続く・・と考えるならば、そもそも我々が現状これで良いと思い込んでいる「東海道四谷怪談」の舞台の感触だってホントにこれで良いのだろうか、これでホントに生世話の感触になっているんだろうかと云う疑問に思い至らねばなりません。滅多にやらない芝居をやる時は、新鮮な気持ちに返って、そう云うことを考える良いチャンスなのですけどねえ。せっかくのチャンスなのに、いつも俺たちはこんな風にしてやってきたという・いわゆる「歌舞伎らしさ」だけでやっていたら、歌舞伎が持っている膨大な財産は、我々に何も教えてくれないのではありませんか。白鸚の時平はさすがの大きさを見せているし、最後の七笑いもなかなかの見ものではありますが、その辺が何ともねえ・・・。

(R3・11・29)


〇令和3年11月歌舞伎座:「井伊大老」・その2

史実の直弼のことはこれくらいにするとして、劇中の直弼とお静との会話を聞けば、彦根の埋木舎時代の二人の関係がどういうものであったか察することが出来ます。大老の苦悩を吐露する直弼に対して、お静が「もしそうであっても(後の世の人が直弼の苦しみを理解してくれなかったとしても)・・それで良いのではございますまいか」と静かに笑って言えるところで、直弼がお静を愛する理由が分かります。お静は、埋木舎の時代もそうであったのです。もし直弼が何か尋ねたとしても、「私には殿方の世界の、政事の難しいことは分かりませんから・・・」と言って静かに笑って、余計なことは何も言わない女性であったのです。「それで良いのではございますまいか」とお静に言われて、直弼は先ほど仙英禅師が残した傘にしたためた「一期一会」の意味にハッと思い至るのです。その機会は一生に一度しか巡ってくることはない、だからその日・その時を精一杯生きよ。そこからあの埋木舎の長く苦しかったけれども・必死にもがいた日々が蘇って来る、あの時お静に幾度も救われたことも直弼はありありと思い出すのです。禅師とのことも一期一会ならば、お静とのこともまた一期一会である。

直弼が旧暦3月3日に桜田門外で暗殺されたことは史実ですが、この芝居が・その前夜・桃の節句に設定されて・奥の間に豪華な雛人形が飾られる意味も、これで明らかなのです。2日はお静との間に生まれた鶴姫の四度目の命日でした。直弼は亡き娘に線香を手向けるために下屋敷を訪れたのです。鶴姫は幼くして亡くなったけれども、自分とお静にこうして忘れがたい思い出を遺してくれた、それが奥の間に飾られた雛人形が示すものです。つまり鶴姫とのことも、また一期一会であったということです。雛人形は単に桃の節句の季節感を強調するために登場するのではありません。すべてのことは有機的に繋がっており、舞台に無駄なものは何ひとつありません。この芝居を「雪の雛」と呼ぶことがあるのは、そう云うことです。

白鸚の直弼は、もともと史劇っぽい感触ですけれど、前回(平成29年1月歌舞伎座)よりも無駄な力が抜けて写実の味わいが一層濃くなりました。ただそのことの良さも悪さもあって、この直弼は明朝桜田門外で殺されることを予感しており・それとなくお静に無言の別れを告げに来た・・みたいに見えなくもない印象ですねえ。登場した時に、七段目の由良助っぽく・本心を隠して軽口を叩く感じに見えるのは、そのせいです。それが芝居に余韻を与えていることも確かなのですが、ここは、芝居が終わった後から考えて見れば「あの時の直弼は何か虫の知らせがしたのであろうか」とチラと思うくらいに、さりげなく留めたいところではあります。

白鸚の直弼が史劇っぽいと書きましたけれど、芝居の感触を新歌舞伎の方へ引き寄せているのは、魁春のお静の功績です。六代目歌右衛門のお静も忘れられないですが、魁春のお静も、直弼の傍らで目立たないようにしているようでいて、実は夫に対する心遣いが細やかなこと、良いお静であります。最後に付け加えますが、腰元たちが桃の節句を愉しんで小唄を歌う声が、ちょっと大きくて耳触りです。お次ぎの間で騒いでいるみたいに近く聞こえます。正しい距離感を感じさせてもらいたいですね。

(R3・11・23)


〇令和3年11月歌舞伎座:「井伊大老」・その1

今回(令和3年11月歌舞伎座)上演の「井伊大老」ですが、コロナ仕様と云うことであろうけれど、通常の上演とは異なり・前半の「井伊家上屋敷奥座敷」が省かれて、後半の「千駄ヶ谷井伊家下屋敷」のみの上演です。役者の顔触れは揃っており、演技に不足があろうはずはない。けれども芝居の重みが不足して、作品の正しい姿が浮かび上がって来ない。それは前半・上屋敷のカットで政治家としての井伊直弼の苦悩が描写されなかったからに他なりません。もし作者北条秀司が生きていれば、この形での上演は許可しなかったでしょう。上演時間の制約で・この形でしか出来ないですと言うならば、いっそのこと「井伊大老」は出さない方が宜しい。こうして作品が・芝居が殺されて行きます。蒸し返すようですが、コロナだから仕方がないと言いつつ、桧垣茶屋のない「大蔵卿」、釣り灯籠からの「七段目」なんて出し方を当たり前のように続けていたら、芝居好きの足はどんどん歌舞伎座から遠くなるなるばかりです。もっと作品を大事にしてもらいたい。ガラガラの歌舞伎座の客席を見れば、これがホントに全部コロナのせいなのか、客が求める演し物を提供出来ているのか、松竹はそう云うことを胸に手を当てて考えてみて欲しいと思います。本当に見たい演し物であれば、コロナが多少恐くてもお客は詰めかけるはず。先日の「四谷怪談」の満員の客席(コロナ仕様だから50%で満員)がそのことを教えています。

前半の井伊家上屋敷がカットされて・政治家としての井伊直弼の苦悩が描かれなかったために、芝居としての・正しいバランスを失してしまいました。そのせいで芝居の幕切れが、「彦根の埋木舎でお静と一緒に暮らした日々が懐かしい・楽しかったあの頃に戻りたい」と直弼が言っているかの如くに見えかねないのです。それは正しい「井伊大老」の幕切れではありません。芝居の本当の主題は、仙英禅師が残した傘に書かれた「一期一会」の文字に示されています。「その機会は一生に一度しか巡ってくることはない、だからその日・その時を精一杯生きよ」と云うことです。

埋木舎の日々は、直弼にとって幸せな楽しい日々ではなかったのです。それは、いつ終わるか分からぬ・辛く苦しい日々でした。このことは「埋木舎(うもれぎのや)」という言葉の響きを聴けば察せられます。「俺はこのまま・世に出ることなく・人知れず朽ち果てていくしかないのか・・・俺ほどの男が・・・」という直弼のジリジリした気分が表われています。井伊直弼は、井伊家藩主の十四男でした。江戸期は長子相続の時代でしたから、次男以下は長男に何かあった時のスペアみたいなものでした。だから次男以下は跡継ぎのいない他家へ養子縁組み・あるいは婿入りするしか手はなかったわけです。そんななか直弼は、自らを花の咲かぬ枯れ木に見立てて自邸を「埋木舎」と名付け、いつ役に立つかも知らず、ひたすら自己研鑽に励みました。

彦根城下の埋木舎。令和元年(2019)12月・吉之助の撮影です。

二年ほど前、吉之助は彦根市の埋木舎を訪ねたことがあります。埋木舎は彦根城のお堀の傍にあります。部屋住み三百石扶持と聞いたので・どんな質素な家かと想像していたら、三百石扶持には分不相応なお屋敷で、やっぱり大藩ともなると十四男でも扱いが違うものだなあと思ったものでした。芝居のなかでは彦根での日々の生活は苦しかったと語られていますけれど、実際は、屋敷の維持費用や付け人の給金は藩から別途支給されていたそうなので、贅沢は出来なくても、暮らし向きはそこそこであったはずです。まあそれは兎も角、この埋木舎で直弼は、師である長野主膳(師と仰いでいますが直弼と同じ年の生まれです)と天下国家を日々論じ合いました。後の安政大獄のことを思えば意外なことですが、当時の直弼も主膳も外国船打ち払いを主張する強硬な攘夷派でした。若き直弼は幕府の弱腰を批判し、国の行く末を大いに憂いたのです。ですから埋木舎での日々は、直弼にとって辛く苦しい時期でした。お静が傍にいてくれたことで、やっと救われた日々だったのです。

ところがどういう運命のいたずらか、嘉永3年(1850)直弼は彦根藩主となり、さらに安政5年(1853)幕府の大老に就任することになりました。「俺の手腕を存分に試す時が来た」はずでした。しかし、現実ははるかに厳しかったのです。直弼は自らの信条に反した決断をせざるを得ない事態に何度も陥りました。しかし、それは現実に負けた・状況に流されたということではなく、現実を知れば知るほど、このままでは日本は欧州列強の属国にされてしまう・事は卓上の理想論では済まぬということを直弼は思い知らされることになります。ここから直弼は方向転換していきます。(この稿続く)

(R3・11・21)


〇令和3年10月歌舞伎座:「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)・その3

と云うことは、先日(令和3年5月歌舞伎座)のお嬢吉三も、右近は、社会の束縛から逃れて自由に生きるアウトローの気分でやっていたと云うことですねえ。スカッと竹を割ったようなツラネの感触は多分そこから来たのでしょう。確かに三人の吉三郎はアウトローと格好付けて意気がっているようだけれども、大川端でやっていることは、所詮盗んだ他人の金を俺のものだと言い合っているに過ぎません。そう云うツマらん奴・人間の屑だと云うことは、本人たちが一番よく分かっているのです。だからお嬢の場合にも、ポジティヴな色合いと・ネガティヴな色合いの二つの色が混ざりあうのです。そう云うお嬢の悲哀が分かって来れば、右近のお嬢のツラネももっと陰影が付いて練れてくると思います。

だから右近の、お嬢のツラネにしても・お七の人形振りにしても同じ異形の有り様ではあるが、どちらも色合いが未だポジティヴで単色であると云えます。ところが、吉之助は右近のお嬢の方は評価して、お七の人形振りの方に辛い点を付けた、これは何故かと思うかも知れません。それは、お七が人形身に入る以前・つまり(前場の「吉祥院」も含めた)娘方のお七の右近の演技が、如何にも定型の様式っぽい印象で、お七が「生きていない」と感じるからです。前半のお七の世話(写実)の感覚が生きていないから、お七が人形身に入った時の、世話から様式への変化の落差が十分に付かない、だから異形の感覚が足りないと云うことです。

前半の右近の娘方のお七を見ると、「イヤじゃイヤじゃ、イヤじゃわいなあ」とか・「ドウしょうドウしょう、ドウしょうぞいノウ」という台詞が、定型の様式っぽい伸びた台詞廻しで、実感が全然伴って来ません。このお七は、ただ状況に流されてヒイヒイ泣いているだけです。自分で何かを変えようという意志がまったく見えない。まあ普通の芝居の商家の娘方であればこんな感じでも良いでしょうが、このお七が能動的に動いて・火付けにまで至るとは、吉之助にはまったく想像出来ませんねえ。このままではイヤだ・ドウしてくれようと云う気分が内面からお七を突き動かして、お七を異形の姿に変えるのではないか。イヤじゃ・ドウしょうという台詞こそ、熱く乱れるように実感を込めて発せられねばならないはずです。

だから右近の「櫓のお七」の問題は、人形身のお七の技術的なところだけにあるのではないのです。実は前半の娘方のお七の「生きていない」感覚こそ真の問題なのです。歌舞伎の娘方の定型の・「らしい」演技にどっぷり浸かるから、こうなるのです。歌舞伎のこう云う感覚こそ打破せねばなりません。若い右近は、このことに早く気が付いて欲しいですねえ。「大川端」のお嬢吉三が正体を顕わす前の娘の演技も、右近は同じ感覚で処理しているわけですが、こちらは男が女を騙っています。娘方の演技の様式っぽさが嘘っぽさに通じるから、これで感覚的に気にならないのです。だから吉之助は右近のお嬢を評価しました。しかし、この箇所も世話の感覚を活かした方が、世話から様式のツラネへ変化することの落差をもっと大きく見せることが出来るはずです。

吉之助は、他の世話狂言での右近の娘方を多く承知していませんが、娘方の感覚をもっと「生きた」・ヴィヴィッドな感覚にすること、これが今後の右近の女形大きな課題になって来るでしょう。右近は、同時代の(当然ですが右近ならば令和の)若い女性たちの気分をよく観察することです。動きを写実に真似るのではなく、その気分・生き生きした感覚を盗む、そういうことを心掛けることです。時代を代表する女形は、六代目歌右衛門でも・五代目玉三郎でも、そういうことが自然に出来ているのです。

(R3・11・17)


〇令和3年10月歌舞伎座:「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)・その2

右近の人形振りのお七について、「キラリと光るところと・未だしというところが相半ばする」と書きました。興味深く感じるのは、右近の人形振りは「生きている人間が人形のようにぎこちなく動いている」という印象がすることですねえ。ただし、その印象はたまたま結果として出て来たもので、右近が意図して表現しようとした結果ではなさそうです。つまりはっきり言えば人形振りとしては技術的にまだ未熟で、「人間が出ている」ことから来ているのです。普通人形振りでは「人間が出ている」という用語は良くない時に使うもので、人間的な感情表現を押し殺した動きを見せるのが人形振りというものです。だから「生きた人間が人形のように動いている」と見えるのは、まあ褒めたことになるか・貶したことになるか・微妙なことになりますが、両方相半ばしますねえ。しかし、激しい動きのなかに・時折ハッとするような生々しい感情を感じたことは事実です。

人形振りとしては、腕の遣い方にもう少し工夫が必要に思います。下半身の動きも重く感じられますが、これは後ろの黒衣のサポートにも問題がありそうです。しかし、まあその辺は今後の稽古次第で良くなることでしょう。目線が動いているような気がしますが、本来ならこれは人形振りとしていけない点なのだろうが、「生きた人間が人形のように動いている」に感じるのはそのおかげなのかも知れませんねえ。工夫してもらいたいのは、口元の作り方です。口元をキュッと硬く絞った表情に見えます。これはもう少し緩めて、中間表情に置いてもらいたい。「能面のように」と云うと無表情という風に聞こえるかも知れませんが・そうではなくて、笑っているようにも・悲しんでいるようにも・どのような表情にも見える能面の、中間表情に置いてもらいたい。口元の作り方はとても大事なのです。せっかく美しい顔をしてるのだから、そこをもっと活かすことです。

ところで別稿「人形振りを考える」で「櫓のお七」の人形振りについて論じましたが、内面から湧き上がる異形の感情に動かされて・もはや人間ではないものと化してしまう、それが人形振りというものなのです。右近のお七が「生きている人間が人形のように動かされている」という印象がするのは、恐らく右近がその内面から湧き上がる感情をポジティヴなものとして捉えていると云うことだろうと思います。つまりそれは吉三を想う熱い恋心=だからそれは人間的な感情で・それがなければ人間であり得ない感情=だからポジティヴという論理思考(ロジック)でしょう。そう云う論理思考は、もちろんあり得ます。しかし、「櫓のお七」のお七のことをもう少し深く考えてもらいたいのです。私は吉三さんのことが大好き、吉三さんに何としても逢いたい、何が何でも逢いたい、私はこの感情を抑えられない、逢いたいならば何をしたって構わない、ご法度しても構わない、だから私は太鼓を叩く、「櫓のお七」は太鼓を叩くだけですが・実在のお七は火付けをしたらしい、吉三さんに逢うためならば火付けをしても構わない・・・こうなってしまえば、もはやそれはポジティヴな感情とは云えないわけなのです。ポジティヴなものか・ネガティヴなものか・どちらだか分からないところにお七はいるのです。だからこれは「異形」の感情なのです。お七はそれがいけないことだと自覚しているのに・それでも火付けをするのです。そこのところを踏まえなければ、お七はただの馬鹿娘です。まだその域にまで右近は至っていないようですね。

もちろん江戸の民衆が八百屋お七というキャラクターを長く愛し続けたのは、お七の吉三を想う熱い恋心をポジティヴに受け取ったからです。この点は大事なことです。しかし、江戸の民衆は同時にそれが危険な感情であることもしっかり分かっていたのです。ですから「櫓のお七」の人形振りには、ポジティヴな色合いと・ネガティヴな色合いの二つの色があるのです。それは決して一色ではあり得ません。(この稿つづく)

(R3・11・15)


〇令和3年10月歌舞伎座:「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)・その1

先日(令和3年5月歌舞伎座)の「三人吉三・大川端」では胸がすくスカッとしたお嬢吉三で、センスの良いところを見せてくれた尾上右近が、今度は初役で「櫓のお七」を見せてくれるということで期待しましたが、キラリと光るところと・未だしというところが相半ばする舞台でしたけれど、なかなか興味深いものがあったと思います。

右近は玉三郎よりもちょっと面長だと思いますが、角度によっては・俯き加減の横顔に若い頃の玉三郎に似た面影を感じるところがあって、ハッとする時があります。しかし、同じ美しさでも、玉三郎の美しさは怜悧で透明な艶やかさですが、右近の美しさには香気があると云うか、濃厚な艶やかさを感じるところがちょっと違う気がします。これは玉三郎にはない感触で、これが吉之助に右近の将来を期待させるところです。それは歌舞伎に向いた感触のような気がします。面長の容貌のせいでしょうかね。玉三郎の美しさが歌舞伎の向きでないように聞こえたかも知れませんが、そこは吉之助が長年の玉三郎贔屓であることでお許しをいただきたいですが、吉之助は五十年近く玉三郎を追って来て、玉三郎の美しさは歌舞伎という器に収まり切れなかったなあという感慨を持っています。(別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」を参照ください。)そこで一転して右近の女形に期待・・・ということには即ならないけれども、清元との二刀流はもちろんですが、このところの右近の活躍ぶりを傍目で見た感じでは(吉之助も彼の「ワンピース」の舞台は見ました)、右近にはこの令和という時代の空気に感応して奮い立ち・何かを生み出そうとする意欲を感じるので、右近のそう云うところに期待を掛けてみたいと云うことを思うのです。右近の桜姫は、もしかしたら玉三郎とはまた違う衝撃を与えてくれそうな気がします。ただしそうなるためにはまだまだ課題がある。本稿ではそんなところを少し書いてみたいと思います。

まず先日の「大川端」のことですが、初役で(しかも歌舞伎座で)お嬢吉三をやるとなれば、普通は先輩連中がやっている・いつもの「らしい」演技をなぞってしまいそうなものです。まあその方が安全な行き方だと思います。こうして普通は「様式美」の美名で括られた・穏便な感覚に安住してしまうことになるでしょう。ところが右近は、綺麗な娘のフリをかなぐり捨てて・一転男の盗賊の本性を見せるところで、斬れの良い・ザッハリッヒカイトな(即物的な)感触のお嬢吉三を見せてくれました。吉之助はちょっと驚きもし・ホウと感心したのですが、こう云うことはなかなか出来るものではありません。歌舞伎では、性別を決めるのは衣装です。女の衣装を着ている者は、それが「女」なのです。そういうお約束のなかで観客は安心して芝居が見られるのです。ところがお嬢吉三ではそう云う常識をかなぐり捨てて、女の衣装を着ている奴が突然男の演技をし始めます。男でもない・女でもない異形の存在が、そこに立ち現れます。右近のお嬢吉三には、そのような尖った異形の感覚があったのです。これは右近が初心で役に立ち向かったところから立ち現れたものです。表現的にはまだ練れていない・ストレートに過ぎるというところがあるにしても、役がこの時代を生きているというヴィヴィッドな感覚があったことは、近頃嬉しいことでした。

そこで今回(令和3年10月歌舞伎座)の「櫓のお七」へ話しが移ります。八百屋お七の人形振りと云うのも内面の衝動に突き動かされて操られる木偶と化する、(これはお嬢吉三とはまた異なる)異形の存在ですから、これを右近がどう処理するかと云うことで、吉之助は舞台を大いに期待したわけです。しかし、結果からすると本稿冒頭に記した通り、キラリと光るところと・未だしというところが相半ばする舞台になってしまいました。その辺に右近の今後の課題が潜んでいそうです。(この稿つづく)

(R3・11・13)


〇令和3年11月国立劇場:「一谷嫩軍記」・その6

要するに、芝翫型は団十郎型以前の古い型ではあるが、団十郎型がスタンダードとなっている現在、芝翫型を復活して出す意義は、それが古風で様式美に溢れていると云うところにはない。これが団十郎型の批判型になっているか否かという点にあるのです。団十郎型に慣れ親しんだ我々が、久しく忘れていた「熊谷陣屋」の別の側面を、芝翫型があぶり出せるかと云うことです。(結果として批判型は、団十郎型の新しさを再認識させることにもなります。)「陣屋」をモドリの構図で大掴みに捉えることで、登場人物全員が「平家物語」の諸行無常の主題を唱和して終わる、これが「陣屋」の本来の形なのです。団十郎型との差異を如何にはっきり見せるかという点に、芝翫型を復活して出すことの意味が掛かっているのです。

誤解がないように付け加えますが、吉之助は今回(令和3年11月国立劇場)上演にそれが出来ていないと言っているのではありません。成果は十分挙げられています。これから吉之助が指摘することは、恐らく今回の舞台だけ見る分にはどうでも良いことです。大したことではないのです。しかし、吉之助が指摘する箇所は団十郎型へ寄って見えるところで、つまりそれは熊谷個人の心理の綾(葛藤)を意識した箇所なのですが、どうしても表現ベクトルが団十郎型と同じ方向に向いてしまう、結果としてこれが団十郎型との差異を埋めることになってしまう。だからそこに再考の余地があると云うのです。

例えば熊谷が揚幕から登場し花道七三で立ち止まり・数珠を袖に収めて三味線のチンで決まる、この箇所は団十郎型と突きますね。もっとアッサリ処理した方がよろしい。熊谷桜と制札前で立ち止まるのも、控えめにした方が宜しい。これらは底を割る箇所だと心得て欲しいと思います。

物語りは勢いがあって、なかなか面白く出来ました。「心に掛かるは母人の御事」辺りで相模を気に掛ける様子を見せないのは、モドリの性根を維持するうえで結構なことでした。(逆に団十郎型をやる役者は、ここで相模への心遣いが足りないのが実に多い、これも困ったことなのですが。)しかし、「討ち奉ってございます・・・エエ戦場の習れエだわエ」では、泣きが強くて台詞の末尾が伸ばし過ぎで、これは困ります。

首実検は制札の見得も含めてなかなか良いですが、義経に首を差し出す時の高さが高過ぎるのではないか。このため義経(錦之助)が扇を構えて首を見る形が悪くなり、義経の視線と扇・首が一線に揃っておらぬようです。義経が良い形を取れるように、首を差し出す高さをもっと下げた方が良いです。自分(熊谷)の気持ちばかりに気が行っているように見えます。首実検が終われば、熊谷はモドリの性根を解くわけですが、熊谷が小次郎の首を抱いて・相模に直接手渡す場面は情が溢れて、なおかつ団十郎型との違いもよく出て、よく考えられた型だと思います。ここが今回の芝翫型の白眉でしたね。

有髪の僧になってからの熊谷の「十六年はひと昔、夢であったなあ」は、台詞の末尾をあまりに詠嘆調に伸ばし過ぎです。これを団十郎型で幕外花道でやるならば兎も角、それでも感覚的には二倍以上長いと思いますがね。熊谷の核心の台詞だという・団十郎型の残渣が強く残っているから、こうなってしまうのです。この後に〽ほろりとこぼす涙の露、柊に置く初雪の日影に融ける風情なりと床(義太夫)が続くことの意味を考えれば、ここで台詞の末尾を引き伸ばしてはならないことは、自ずと明らかなのです

それから熊谷が義経に「堅固で暮らせよ」と声を掛けられて、バタンとその場に倒れるのかと思うように突っ伏すのも、如何なものかと思います。義経と熊谷との関係は、もう主従ではありません。熊谷は蓮生法師としての歩みを始めているのですから。芝翫型のクライマックスは、「花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中じゃなあ」と云う、義経を頂点とする全員の六重唱の割り台詞にあります。芝翫型では(団十郎型と較べると)熊谷が奥に引っ込んで他の人物たちと同じ大きさになってしまう感覚になりますが、ここが「陣屋」本来の頂点である、このことをはっきり示さなければなりません。

以上気付いたことを連ねましたが、今回の国立劇場の「熊谷陣屋」は「御影浜」も含めた丁寧な上演で、団十郎型の批判型たる芝翫型の価値を改めて認識させてくれたと思います。成果は十分挙がったと思います。芝翫にはこの型を今後も大事に守って欲しいと思います。

(R3・11・12)


〇令和3年11月国立劇場:「一谷嫩軍記」・その5

熊谷についてはモドリということがあまり云われませんが、それは熊谷という人物が持つ葛藤がひとつのパターンにはめるには余りに大きく複雑に過ぎるためです。それならば近代演劇思想によって奥行きを持った心理表現を追求する方が相応しいわけで、明治期に団十郎型が生まれた背景がそこにあるのです。しかし、ドラマが熊谷個人の思いにいささか寄り過ぎたかも知れませんね。そこで改めて「熊谷陣屋」をモドリの構図で見直してみると、現代から見れば大雑把なパターン思考に思うかも知れませんが、これであると相模・藤の方・弥陀六・義経といった周囲の人物がみんなドラマの太い骨格にぴったり沿ってくるように思えるのです。芝翫型においては、作品が持つ歴史の律の重みは、これを登場人物たちが等しく背負います。幕切れの・引っ張りの絵面の舞台が、このことを示しています。江戸期の人々は「陣屋」のドラマをそのように受け取めたのです。

そこで今回(令和3年11月国立劇場)の芝翫型の熊谷をモドリの構図で見ることにします。芝翫の熊谷は3回目で、襲名(平成28年10月歌舞伎座)以来、5年振りのことです。今回の・久しぶりの熊谷は「自分の型だ」ということで一段と気合いが入っていますし、今回の脚本は前幕に「御影浜」の場を置き・「熊谷陣屋」も普段はやらない「熊谷桜」の部分を付ける丁寧な上演で、バランスが取れた共演陣と相まって、これが芝翫型の良さを一段と引き出す結果になったと思います。

それにしても、芝翫の熊谷の熱演振りを見ると、あまり細かい心理描写に固執せず・役の大きさを大まかに掴んで演じた方が、芝翫の良さが出ると改めて感じます。太い演技で押し通した箇所は、多少荒っぽいようでも芝翫の良さが生きています。褒めているのか・貶しているのかと思うかも知れませんが、今回の熊谷にさほど不満があるわけではないのだけれど、首実検を終えるまでのところ・つまり憎まれ者のポーズを取る前半において、熊谷の葛藤を細やかに見せようとして、熱演の余り、芝翫型の熊谷の良さ(演技の骨太さ)を損なうところがあったやに思います。心理描写の細かいところにこだわらず、前半は・モドリの性根で太く押し通した方が、芝翫型の意図がもっと明確に浮かび上がると思います。

心理の綾を細やかに表現することは、役の深みを増す効果がもちろんあります。ただし、モドリの場合であると、これが過ぎると「実は私は敵役のフリしてるんです」というネタ晴らしになってしまう、敵役の性根を軽く見せることになるので、そこは注意せねばなりません。事実、今回の芝翫の熊谷の所作を見ると、熊谷の葛藤を意識した箇所は、自然と団十郎型に似てくる感じで、そこが中途半端に思えるのです。団十郎型との差異をより際立たせるために、そこはモドリの性根で太く押し通した方が良いと云う印象を吉之助は持ちますがねえ。(この稿つづく)

(R3・11・11)


〇令和3年11月国立劇場:「一谷嫩軍記」・その4

錦之助の義経について、前回(本年・令和3年3月歌舞伎座)の舞台に関して、吉之助は苦言を呈しました。今回も陣屋奥から義経が現れた時には、やはり武張った印象がして如何なものかと思いました。これが団十郎型であるならば吉之助としてはなお是とするわけに行きませんが、今回の錦之助の義経は、首実検を終えた後、ホッとしたように硬い表情を解く様子が見えて、今回の芝翫型の、敵役・憎まれ役を装ったモドリの熊谷を相手にするのであれば、ナルホドこういう義経もあり得るなと思ったことでした。そこまで錦之助が考えたのであれば、これを是としたいと思います。義経は、

「ヤア直実首実検延引 といひ、軍中にて暇を願ふ汝が心底いぶかしく密かに来りて最前より、始終の様子は奥にて聞く。急ぎ敦盛の首実検せん

と言っています。ここで若武者敦盛を情け容赦なく殺した無慈悲な男と云う、世間の憎まれ者の熊谷のイメージがリフレインされています。熊谷が敦盛を討ったという報はとっくの昔に義経に届いている、それなのに熊谷はいつまでたっても義経の元に首を届けに来ない、さらに熊谷から暇願いが提出される、ここに至って義経は熊谷の心底に疑念を抱いて、密(ひそか)に熊谷の陣屋に確認にやってきたのです。そういうことならば、陣屋奥から現れた義経が、不審いっぱいの硬い表情で「急ぎ敦盛の首実検せん」と急かすのは、これは理解できます。もし熊谷が本当に敦盛を討ったのであれば、これは義経にとっても一大事です。熊谷を信じてはいるが、一抹の疑念が義経の脳裏をよぎります。しかし、首実検で・間違いなくこれが小次郎の首であることを確認した義経はすべてを悟って、熊谷に対する疑念を捨て、ホッと息を付いたというのは、確かにあり得る解釈です。まあこれは吉之助がいつもの「熊谷陣屋」論で述べる義経=菩薩論とはまったく異なりますが、生身の人間として見た義経解釈とでも云いましょうか。しかし、解釈としてはあり得るだろうと思いますね。もちろんこれは熊谷が憎まれ者のモドリ(芝翫型)であることが前提です。(団十郎型での首実検の意味については、別稿「熊谷陣屋の時代物の構造」を参照ください。)

実は既に奥で義経は敦盛と対面しており・熊谷が息子を身替わりにしたことは義経は分かっているのですこのことは「始終の様子は奥にて聞く」の台詞で暗示されています)が、とりあえず・このことは置くことにします。なぜならば首実検に臨む熊谷の方は必死だからです。熊谷は、

「花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」

と言っています。ここで息子の首を義経に受け入れてもらえなければ、熊谷の行為は水泡に帰するのですから、首実検に臨む熊谷は必死です。実検の首を見てすがりつこうとする相模を睨みつけて止めるのも、ここは当然です。したがって、

「ホヽヲ花を惜む義経が心を察し、アよくも討ったりな。敦盛に紛れなきその首。・・」

という義経の声を聞くまでは、熊谷は憎まれ者のポーズを解くわけに行きません。モドリという役どころは、「この人だけは自分の本心を分かってもらいたい」と心底思う相手から、「そうか分かったぞ、お前の本心はそう云うことだったのだな」という言葉を掛けてもらうことで、初めて敵役・憎まれ者のポーズを解くことが出来るのです。と云うわけで吉之助は、今回の錦之助の義経は、芝翫型の・憎まれ者の熊谷のモドリの段取りに照応したものであると受け取りたいと思います。(この稿つづく)

(R3・11・7)


〇令和3年11月国立劇場:「一谷嫩軍記」・その3

「熊谷陣屋」がモドリの構図を呈する為には、熊谷の妻相模と、敦盛の母であり主筋に当たる藤の方という、二人の女性の役割を、いつもより重めにする必要があります。二人はドラマのなかで熊谷に対立する役です。今回の上演では、前幕「御影浜」で藤の方が陣屋に転がり込む経緯、「陣屋・熊谷桜」ではるばる東国から相模が陣屋をたずね・さらに思いがけなく藤の方と再会する経緯が描かれますから、この役割が明確になりました。熊谷をめぐって二人の女性がオロオロ取り乱し・嘆き悲しみ・すすり泣く、状況は場面によって立場が入れ替わり・色合いも刻々と変化しますが、そのいずれもが、熊谷が取った行為の無慈悲・不実を訴えているのです。須磨浦(今回は上演されません)で熊谷が敦盛を討ったことが、それがどれほど熊谷夫婦にとって・取り返しの付かない重い行為であったか、これで明らかとなります。「熊谷桜」があるから、観客はこの後熊谷が陣屋に戻ったら一体何が起こるのだろうと不安に思うのです。いつもの「陣屋」の・熊谷の帰着から始まるやり方であると、そこのところが曖昧にされてしまいます。

今回上演では二人の女性が、劇中で芝翫の熊谷に拮抗した印象があって、「陣屋」のモドリの構図が正しく実感できたと思います。特に孝太郎の相模が良い出来です。孝太郎の相模は、これが三回目になります。吉之助は前回(本年・令和3年3月歌舞伎座)の相模に関し若干の注文を付けましたが、今回の相模はその点が修正されて、申し分ない出来です。彫りが深い陰影がある相模に仕上がって、これならば第1級の相模であるといって差し支えありません。児太郎の藤の方も気品があって、ひと廻り上の世代のなかにいて見劣りしない立派な出来で感心しました。いつもの上演ではダレ場になりやすい「青葉の笛」も引き締まったいい場面になりました。二人の女形の健闘は、頼もしいですねえ。

もうひとり、直接的に熊谷と対立する役ではありませんが、モドリの構図を元に戻すために(身替わりの小次郎を歴史のなかに収めるために)劇中で大きな役割を果たすのが、弥陀六(実は弥平兵衛宗清)です。弥陀六は老人なれど気骨ある人物に描かれることが多いと思います。これはいつもの「陣屋」の・前半で弥陀六が陣屋に連れて来られる経緯を出さないやり方であるならば、そのように描かなければ、後半の義経に詰め寄る長台詞のスケール感が出せません。しかし、今回のようにチャリ場の「御影浜」から出すならば、弥陀六を飄々とした味を出す老人として描くことは、あり得ることだと思いますね。そこで鴈治郎の弥陀六ということになるわけですが、柔い印象もしなくはないけれど、肝心の・長台詞のタテ言葉は頑張って熱いところを見せてくれました。なかなか良い弥陀六に仕上がったと思います。(この稿つづく)

(R3・11・7)


〇令和3年11月国立劇場:「一谷嫩軍記」・その2

武士というのは戦(いくさ)をするのが仕事で、人を殺すのをためらっていたら自分の方が殺されてしまいます。情け容赦はならぬわけです。だから「日本一の豪の者」と云われたほどの武者熊谷直実が、花のような優美な若武者を殺してしまったと云って・はらはらと涙し・出家を決意したと「平家物語」が伝えるところは、そこにイメージのギャップがあるわけなのです。このことを「平家物語」は、このように書いています。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

「もののあはれ」を知らぬはずの、もしそれを知っていたら戦が出来なくなるはずの、むくつけき関東武士の熊谷が、実は「もののあはれ」を感じる心を持っていた。だからそれは「まるで作り話のように思われるだろう」けれど、これは真実なのだと「平家物語」は言うのです。「一谷嫩軍記」は、このイメージのギャップを謎として取り上げて、なぜ熊谷は敦盛を殺したことで出家するに至ったのかを解明した物語なのです。

吉之助は、芝翫型の熊谷が、赤っ面で疳筋を濃く引いた、如何にもカブキ的な・大時代の化粧をするのは、そこに意図があると考えています。これは単に「日本一の豪の者」の勇壮なイメージを表現したものではない。これは、明らかに敵役(かたきやく)のイメージを背負っています。つまり花のように優美な若武者敦盛を情け容赦もなく殺した無慈悲な男、血も涙もない冷血漢、「もののあはれ」を知らぬ奴と云う、憎まれ者のイメージです。

「熊谷陣屋」では、最初熊谷は、そのような世間からの憎まれ者のイメージを纏って登場します。女房相模も藤の方も、「どうしてあなたはそんなひどいことをしたの・・」という冷たい視線を熊谷に送っています。しかし、首実検で、実は熊谷が殺したのが我が子小次郎だったことが明らかとなります。熊谷は我が子を身替わりにして・主筋の敦盛を助けたのです。ここに至って観客は、「ああそれならば熊谷が出家を決意した気持ちは分かる」と云うことになります。「熊谷陣屋」はそのようなドンデン返しの構図になっているわけです。つまり何のことはない、熊谷についてはそういうことがあまり云われませんが、これは「寺子屋」の松王丸とまったく同じモドリのパターンだと云うことになるのです。

今回(令和3年11月国立劇場)の「一谷嫩軍記」半通しでは、このモドリの構図がはっきりと見えました。まず前幕に「御影浜(宝引)」の場を置き、「熊谷陣屋」では熊谷の登場の前に、普段はやらない「熊谷桜」の部分を付けて、相模・藤の方と、梶原・弥陀六の陣屋への入りを見せる丁寧な上演になっています。さらに今回は芝翫型ですから、最後は主要登場人物全員の引っ張りの絵面で芝居を締める、このことで熊谷のモドリの構図が視覚的にもはっきり確認が出来ました。なるほどそういう解釈で昔の歌舞伎は熊谷の憎まれ者のイメージを強調するために赤っ面にしたのだと云うことが、まことによく分かります。

「熊谷陣屋」を、普段の熊谷の入りからやるやり方で・幕外で熊谷一人が花道を引っ込む団十郎型でやったのでは、熊谷のモドリの構図が明確に浮かび上がって来ないきらいがあります。イヤもちろん目を凝らせば・団十郎型でもそれは舞台に見えるのですが、主人公熊谷の気持ちばかりに焦点が行ってしまう為に、そこのところが観客に見えにくい。ところが、今回の「一谷嫩軍記」半通し(芝翫型)では、作品のモドリの構図が、ホントに素直に立ち現れました。これが今回上演の最大の成果でしたね。(この稿つづく)

(R3・11・6)


〇令和3年11月国立劇場:「一谷嫩軍記」・その1

「熊谷陣屋」には四代目芝翫型と九代目団十郎型があるとは、どの歌舞伎の型の解説本にも書いてあることです。実際、歌舞伎の演技の重要な概念である「型」を考える時、2つの型を比較することは、とても役に立ちます。しかし、制札の見得で芝翫型は制札を上に掲げて持ち・団十郎型はこれを逆さにして三段に突くとか、そういう知識はもちろん大切なことですが、それよりもっと大事なことは、「型の心」と云うことです。これは演出コンセプトと言い換えることも出来ます。制札の見得の形は、そこから来るのです。別稿「型とは何か」では、団十郎型から見た芝翫型(九代目団十郎は芝翫型のどこを変え・何を加えたか)と云う視点で考察しました。本稿では、芝翫型を別視点から考えてみることにします。

芝翫型は、明治期に出来て・現在標準となっている団十郎型よりも以前の、歌舞伎の古い型であり、概ね文楽の型に近いものだと言われます。九代目団十郎が強引に詞章を入れ替えた幕切れの改変がないので、確かにテキスト的に、本行に近いものです。しかし、芝翫型の熊谷を見ると、(熊谷以外の役は兎も角、主役の熊谷に関しては)本行に忠実と云うよりも、むしろ、如何にもカブキ的と云うか・大時代で古風な感触がしないでしょうか。「カブキらしい感触がする」と云うことは、これは「文楽からちょっと離れた感触がある」と云うことなのです。そこが大事なことであると思います。

どうしてそんな印象がするかと云うと、それはまず芝翫型の熊谷の化粧の印象から来ます。黒天鵞絨(びろーど)の着付に赤地錦の裃袴(かみしもはかま)と云うのも確かに大時代な成りですが、これは文楽も同様の衣装です。やはり芝翫型の熊谷の「カブキっぽさ」は、その化粧から来るのです。芝翫型の熊谷は赤っ面で、疳筋を濃く引いた・いわゆる芝翫筋の化粧をします。これが如何にもカブキ的な・大時代の印象を呈するのです。

一方、本行である文楽の熊谷の首(かしら)は、口アキ文七というものを使用します。顔の色としては肌色(または白)が普通で、赤色ではありません。これは主役級に使用される首で、線が太い男性的な顔立ち。太い眉と、カッと見開いた意志的な目、大きな鼻が特徴です。それよりも大事なのは、眉間に深く刻まれた皺と、ぐっと「へ」の字に食いしばった口元。そこにこの人物の内面の深い苦悩と、これに耐え抜く不屈の精神を感じます。時代・世話とも幅広く使用され、敵役にも使われます。口アキ文七を使う役は、熊谷の他に代表的なものとして、「寺子屋」の松王丸、「絵本太功記」の光秀などがあります。

*文楽の熊谷(吉田玉男)。上のチラシの芝翫の熊谷と較べて見てください。

「熊谷陣屋」を歌舞伎に取り入れた時、熊谷の・口アキ文七の首を赤っ面に変えたところが、如何にもカブキらしい発想と云うか、興味深いところではないかと思うのです。それにしても、どうして歌舞伎の・芝翫型の熊谷は、同じ歌舞伎でも松王丸や光秀のように肌色(または白)にしないで、荒事風の・古風な赤っ面となったのかということをじっくり考えてみたいのです。このことは、もしかしたら、歌舞伎の「熊谷陣屋」解釈に深く係わって来ることかも知れません。(この稿つづく)

注:肌色とは、日本人として平均的な肌の色をイメージした薄いオレンジ色のこと。近年は「肌色」という表記は、差別的な意味合いから適切でないということで使用を控える流れですが、本稿では「薄オレンジ」と表記すると・どうも実感が伴いませんので、やむを得ず使用しております。

(R3・11・4)


〇令和3年10月国立劇場:「伊勢音頭恋寝刃」・その5

「伊勢音頭」通しでよく云われることは、妙見町宿屋では二枚目・太々講(今回は出てません)では和事師・油屋では辛抱立役ということで・貢の性格に一貫性が見えない、そこが作品として二流のところだということです。これを「人間の行動というものは矛盾するのが当たり前だ」なんて言っているようでは、最初から役の人間理解を放棄するようなものです。表面的に矛盾して見える行動のなかに、何が彼をそのように見せているのかを考えなければなりません。それが芝居を理解すると云うことです。

梅玉の福岡貢が良い点は、宿屋〜二見ヶ浦〜油屋で貢の性格に一貫性を持たようとする行き方だと云うことです。宿屋での貢では、落ち着いた実事の味わいがします。一方、油屋では油屋では怒りの過程をストレートに見せることはせず・ここを抑えめに見せて、優柔不断さを強調した行き方としています。そこに一貫したものを感じます。派手さが足らないという不満を覚える方もいらっしゃると思いますが、まさにこの点に貢という役に対する深い人間理解があるのです。なぜならば伊勢御師は古市遊郭とは商売上の柵(しがらみ)が強くて・そう勝手なことは出来ない、嫌なことでもそこはナアナアで笑って済ませないと、これから古市遊郭で仕事が出来なくなるからです。だから傍から見ると、「どうした、貢、はっきりしないか、そこまでされて何故怒らないんだ」ということになるわけです。これが上方和事のフォルムであることは、別稿「ピントコナ考」で触れました。

辛抱立役というと、イライラが次第に蓄積し、目を血走らせ・煙管を持つ手をブルブル震わせて、「私の我慢は限界に達しました・私はそろそろ怒ります」と云うプロセスを明確に見せるものです。梅玉も、初役の時(平成4年・1992・4月歌舞伎座・梅玉襲名)には、そんな感じでありましたね。しかし、この行き方だと、貢の「上方らしさ」の味わいが出ないのです。あれから30年近く経って、梅玉もそこのところをきっちり仕上げて来ました。そこに梅玉の芸の成熟が見えます。福岡貢に必要不可欠な要素を、梅玉は正しく描き出しました。

それでもなお梅玉の貢に「もう少し派手さと云うか色気・艶が欲しい、これでは地味に過ぎる」という不満があることも、吉之助は理解はします。しかし、恐らく貢に求められる色気・艶は、貢を辛抱立役のパターンにはめた時にはまり切らない要素を、色気・艶でいなす形で後天的に付加されたものでしょう。それもひとつの工夫ではありますが、「伊勢音頭」通しでの役の印象の一貫性の無さもそこから来ます。梅玉の行き方の方が、役の本質により深く迫ったものと考えます。梅玉の貢は、柔らかさのなかにも凛としたものがあって、精神的に生きています。

言うまでもなく梅玉は東京の役者ですが、「梅玉」は元々上方の名跡です。だから梅玉は上方の味わいを身に着けようと、地道に努力を続けてきたと思います。別稿「梅玉の忠兵衛」で、梅玉演じる「新口村」の忠兵衛について触れました。凛とした印象があることで・これは近頃珍しい忠兵衛でした。現在上方歌舞伎は危機に瀕しているけれども、この梅玉の忠兵衛のような行き方ならば、今後も東京において上方歌舞伎の演目が残って行く可能性があるだろうと思えたのです。「伊勢音頭」の貢に関しても、同様なことを感じますねえ。今後貢を持ち役にしていかねばならないであろう幸四郎や菊之助は、この梅玉の貢をよく研究しておくことをお勧めします。

(R3・10・30)


〇令和3年10月国立劇場:「伊勢音頭恋寝刃」・その4

「奥庭」の殺し場について触れておきます。貢が青江下坂の刀を振り回す姿を、「櫓のお七」の人形振りと重ね合わせて考えてみてください。お七は、どんな感情に動かされて火の見櫓の太鼓を打ち鳴らすのでしょうか。「恋しい殿御に逢いたい一心」と云うのは、それは表向きのこと。ここに見えるのは、ドロドロした情念です。 「もうどうなってもいい、私はこの感情を抑えきれない」と云う情念がお七を内側から操っているのです。それがお七の人形振りが表現するものです。

貢が青江下坂の刀を振り回すのも、お七の人形振りとまったく同じです。貢を内側から操るものは、強い憤(いきどお)りです。「俺がこんな仕打ちを受けねばならぬ理由はない、こんな理不尽な話はない、俺は猛烈に怒っているんだゾウ」と、状況に対して強い異議を申し立てながら、刀を振り回しているのです。観客が感じる大事なこととは、「何だか分からないが、兎に角コイツは怒っている」ということです。そこが観客に「荒ぶる神(怒れる神)」を想起させます。歌舞伎の荒事に出て来る主人公たち(御霊)はみんな、政治だかこの世の中だかに強く怒っているのです。(別稿「伊勢音頭の十人斬りを考える」をご参照ください。)

劇評で「貢役者の身体が妖刀に操られるがまま動いているのが良い」とか書いているのをよく見かけますが、正確には、青江下坂が人を殺めるのではありません。「俺は猛烈に怒っているんだゾウ」という異形の感情が、内側から貢を操って人を殺めるのです。「妖刀が血を求める」なんてのは方便に過ぎません。これを方便とするのは、「俺は猛烈に怒っているんだゾウ」と云うのが、如何に社会的に危険な感情であるか(従ってお上には隠しておかねばならない)、このことを作者がよく分かっているからです。だから貢は心神喪失の状態で人を殺めるのではなく、明確に殺意があるわけです。貢役者はそこが大事なことになるので、貢はフラフラと身体が動いているようにみせて、刀の切っ先が相手に向いた時、切っ先に殺意を集中せねばなりません。(これは「籠釣瓶」でも「縮屋新助」でもまったく同様のことです。)筋書の・梅玉の言葉にある通り、

「妖刀にふわふわと操られっぱなしではなく、相手を殺すに至る気持ちまでも表現できていなければいけない」

ということです。梅玉は殺し場の貢の動きのなかに、その通りのものを見せてくれました。(この稿つづく)

(R3・10・28)


〇令和3年10月国立劇場:「伊勢音頭恋寝刃」・その3

「万野・お鹿・お紺と三者三様のイジメのプロセス」と書きましたが、万野については兎も角、お鹿もお紺も貢をイジメるつもりはないわけですが、貢からすると、三方向から異なるやり方で責められる感覚なのです。結果として貢をイラつかせ・嬲り・遂には刃傷沙汰へと到らせます。だからお鹿もお紺も、その役割を十分承知していなければなりません。

お鹿は顔はまずいが、心根の優しい・純真な遊女です。しかし、お鹿の・その無邪気なところが、この場で静かにして欲しい貢には、「無神経に・がさつに」見えているのです。そこが東京人が感じる関西人の臭みに重なってくる、そこがお鹿の上方味なのです。歌昇は頑張ってはいますが、女形にトライするのが初めてなんだってねえ。しかし、過度に笑いを取ろうとするところがなかったのは、良い点でしたね。

梅枝のお紺については、その古風な風貌で当たり役になる可能性を持っているので期待しましたが、現時点では憂いが強過ぎて、感触がねっとりし過ぎです。「感触がねっとり」は上方味じゃないかと思うかも知れませんが、これは「ねっとり感」を様式で捉えるから、そう思うのです。上方芸はあくまで写実に根差すものなのですから、質感で云えば「あっさり」が基本です。料理でも関西は薄味でしょう。そこに出汁が利くから関西味になるわけで、お紺の出汁は「情」だと心得て欲しいのです。情と憂いは、ちょっと違います。お紺は阿波侍の気を引くために、貢に対してわざと冷たい態度を取っています。嘘を言って貢に対し「申し訳ない」と感じています。だから梅枝は憂いの表情をするのでしょうが、ここは次のように考えて欲しいと思います。ここで私が頑張って阿波侍の気を引いて青江下坂の折紙を取り戻す、これが私の貢さんへの愛の証だと、お紺はそう考えているのです。芝居の縁切り物では、縁切りした女は殺されるのが通例です。お紺は、貢に殺されることを覚悟しているのです。そこにお紺の実(まこと)があるのです。当たり前のことですが、傍で阿波侍がお紺の様子を伺っているのですから、むしろ貢に対する態度を「そっけなく・あっさりと」して、芝居をしていない間・じっと俯いた表情でしっとりと情を出す、これで「私が今ここで見せている態度は、私が本当に感じていることとは違う」という上方芸の味わいになると思います。お紺の上方味とは、そう云うことです。この点では七代目梅幸のお紺が素晴らしいものでしたから、その映像を参考にしてもらいたいですね。(この稿つづく)

(R3・10・25)


〇令和3年10月国立劇場:「伊勢音頭恋寝刃」・その2

今回(令和3年10月国立劇場)の「伊勢音頭」ですが、全体の演出統括は誰が付けているのでしょうか。普通は座頭が仕切るものだから、今回ならば梅玉でしょうかね。主役を引き立てるように、梅玉の芸に周囲がもっと擦り合わせることをしないといけないと思います。全体を見渡すと、まあ皆さん一生懸命やっていることは分かりますが、向いている様式ベクトルが各人各様バラバラで、梅玉の芸がいまひとつ映えて見えないきらいがあります。伝統芸能なのですから、周囲の役者には自分の演技を梅玉の芸にもっと擦り合わせて・その芸を盗むという姿勢を望みたいですねえ。そのような姿勢が見えるのは、又五郎くらいでしょうか。後述しますが、梅玉の貢はとても良いと思います。芸は渋いところがありますが、ピントコナの性根を押さえて、写実に抑えた演技が好ましい。そこに江戸(東京)の役者から見た「上方らしさ」の感触を感じます。そこのところはしっかりしています。ところが、芝居のなかで梅玉の芸が十分活きていると見えないのは、全体のアンサンブルに問題があるからだと思います。このため梅玉の貢を地味に感じてしまいます。

時蔵の万野は、これが三回目だそうですが、感触がサラリと軽くて、時に愛嬌めいた感じがしますが、これは万野のやり方として如何なものでしょうか。少なくともこれでは梅玉の貢には感触がフィットしないと思いますがねえ。吉之助には、時蔵が万野を悪婆・例えば切られお富の引き出しで処理しようとしているように感じられます。悪婆の様式については、折口信夫の論考を引き合いに何度か考察しました。(とりあえず別稿「四代目源之助の弁天小僧を想像する」を参照ください。)「悪婆は常に女形の本質である善人に立ち返る」と云うところがポイントです。「こんなこと(強請り・騙り)はホントはしたくないんですよ、でも愛する亭主の為だから仕方ないのよ」という形で、切られお富は女形の本質である善人に立ち返っているのです。その申し訳が悪婆の愛嬌となるのです。そのような要素が万野にあると思えません。

万野に感じるものは、貢に対する底意地の悪さです。敵意・悪意と言っても良いです。しかし、同じく悪女であっても、それをあからさまに見せたのでは、世話の岩藤になってしまいます。だからそういう印象に陥らないように、そこを愛嬌でいなそうと思うのでしょうが、そうすると今度は切られお富(悪婆)になってしまう、時蔵の万野はどうもそんな感じがしますねえ。そうではなくて、万野の場合は、貢に対する底意地の悪さが彼女の本音・本質なのですから、本音がどこにあるのか分からぬように、どこまでも意地悪く、ねっとりと重く、貢に対する敵意を真綿に針を包んだように、回りくどく・婉曲に見せる、そこが暑苦しい時にプーンと嫌な羽音をたてて蚊がまたやってくるような、日本の夏の感触に似るわけです。これが東京の役者から見た「上方らしさ」の感触です。(三代目多賀之丞・あるいは六代目歌右衛門の万野の映像を参考にしてくれれば良いと思います。)吉之助は関西生まれですが、もう東京の生活の方が長いから・東京人みたいなものですが、東京の方は「関西の奴はどうも好かんなあ」とチラッと感じることがあるかなと思いますけど、東京人が感じる・そんな関西人の臭みが万野に集約されていると思えばよろしいのです。(この稿つづく)

(R3・10・22)


〇令和3年10月国立劇場:「伊勢音頭恋寝刃」・その1

歌舞伎の型の本を見ると「伊勢音頭」には大別して上方型と江戸型があり、上方の〇〇衛門はこうやった・江戸の〇〇郎はああやった・・と演技の手順がいろいろ書いてあると思います。そう云うことはもちろん大事なことですが、作品解釈としては、両者にそう大きな相違があるわけではないようです。京大坂は伊勢に近いし、観客も現地のことをよく知っています。だから上方型が写実のディテールにこだわるものになるのは、これは当然です。一方、伊勢から遠い江戸型であると、その辺が甘くなるのは仕方ないところです。しかし、江戸型だって、上方の雰囲気を出そうと江戸の役者なりに一生懸命努めているのです。伊勢古市を江戸吉原の雰囲気に移したわけではありません。歴代の貢役者、例えば五代目菊五郎にしても・十五代目羽左衛門にしても、何とか上方の雰囲気を出そうと工夫を凝らしたに違いありません。そこのところは、結構大事なことなのです。「伊勢音頭」の大坂角の芝居での初演は、伊勢古市での刃傷事件(寛政8年・1796)5月からわずか54日後のことでした。その約7年後には、享和3年(1803)江戸(河原崎座)でも上演されました。それ以来、江戸でこの芝居が人気狂言であり続けたのは、芝居が面白いこともあったでしょうが、それよりも、お蔭参り(伊勢参り)が一生に一度かも知れない庶民の最高のお愉しみであった時代においては、観客は「伊勢音頭」を見ることで・まだ行ったことがない伊勢への憧れ(イメージ)を募らせたに違いありません。だから「伊勢音頭」・江戸型において一番大事なことは、江戸(東京)の役者から見た上方らしさの表出と云うことです。江戸なりの上方のイメージが大事なのです。主役級だけでなく脇に至るまでその気持ちがないと、舞台に上方らしさは生まれないと思います。

東京から見た芝居の「上方らしさ」とは、一体どういうものでしょうか。「・・らしさ」と云うと漠然とした感じで、具体的な説明がどうも難しい。何だか出来上がった料理に加える香辛料の最後のひと振りみたいに思うかも知れませんが、そうではありません。「伊勢音頭」における「上方らしさ」は、この芝居の本質に大きく係わることです。関西弁の巧拙は、もちろん「らしさ」の表出に大きく関連します。しかし、それならば別に「伊勢音頭」に限ったことではありません。吉之助も関西生まれなので、東京の役者のアクセントの細かいところが多少気にはなりますが、東京の役者に完璧な関西弁を期待しても仕方ないことはよく分かっています。だから吉之助が、東京の役者に期待する「伊勢音頭」の上方らしさと云うのは、まったく別のことです。

「伊勢音頭」の上方らしさの感覚は、主人公・福岡貢の優柔不断な態度によく表れています。貢は辛抱立役には違いありませんが、普通の辛抱立役ならば「俺は不愉快でたまらないぞ・もう怒りを堪えることができないぞ」と、刀の柄に手を掛けてワナワナしてみたり、怒りで目を剥いてムズムズした仕草を見せたりするものです。芝居のプロセスとして観客に怒りが爆発する段取りを唐竹を割ったように明解に見せる、これが江戸歌舞伎の辛抱立役のプロセスです。ところが、貢の場合には、そこがちょっと異なります。貢は、自分の感情をオブラートに包んで、はっきり見せようとしません。これがツアーコンダクターみたいな仕事をして現地での商売の柵(しがらみ)が強い伊勢御師(おし・おんし)の性根であり、それが上方和事のフォルムにも通じるのです。最後の最後まで、貢は「自分は不愉快なんだぞ・怒っているんだぞ」という感情を露わにせず、まだお愛想笑いを浮かべて・これをいなそうとします。つまりこれは「私が今ここで見せている態度は、私が本当に感じていることとは違う」ということであって、これがまったく上方和事のフォルムなのです。(別稿「ピントコナ考」を参照ください。)

さらに「伊勢音頭」では、万野・お鹿・お紺と三者三様の、貢に対するイジメのプロセスが暑苦しい。その感覚が、拭っても拭っても暑さがまつわりつく日本の夏にどこか似るのです。たとえば仲居の万野です。万野はネチネチ回りくどく・貢にまつわりついて盛んに厭なことをします。かと云って貢にはっきりと敵意を見せるわけでもなく(それならば対処の仕様があるが)、万野が何を意図して厭なことを仕掛けてくるのか貢にはまったく分かりません。だから貢の優柔不断さを裏返したような形で、万野もまた実に上方らしい役と云えるかも知れませんね。(この稿つづく)

(R3・10・19)


〇九郎判官義経の話・その6

折口信夫は随想「山の話」(昭和13年)のなかで、我々日本人は、例えば曽我十郎・五郎の兄弟とか、佐藤継信・忠信兄弟とか、そのような似よりの年頃の・二人の仲間の組み合わせを考えるのが何故か気持ち良かったと云うことを書いています。

『それを辿って行くと、恐らく誰でも古い昔の神様に関する色々な伝えを連想してくるだろうと思います。そして、神とそれに仕える者という風に考えると、それはこの二人という形です。神に仕える人には、五人・八人・九人もあるが、その単位は二人で、またこれが正副二人と云うことにもなるのです。これを他の方面で説明して見ますと、竹取物語は翁がかぐや秘めを発見して育てたと云う物語ですが、この翁のほかに榲(おうな)がいます。そうすると、神と神に仕える者との二人であったのが、神に仕える者が二人ということになるのです。』(折口信夫:「山のはなし」・昭和13年・折口信夫全集・第15巻)

この「二人」の組み合わせには、色々なパターンがあり得ます。例えば「義経と弁慶」と云う二人の組み合わせと云うのもあります。この二人は主従関係、義経が主人・弁慶が家来ですが、同時に仲間同士でもあるのです。(これについては本稿2章を読み返してください) 芸能の初期段階においては、義経を怨霊(御霊)とみなす試みは少なからずあったと思います。義経も恨みを含んで死んだと考える、義経の悲しさに思いをはせることは、庶民としてごく普通の感情プロセスだと思われます。ところが結果として、義経は御霊になりませんでした。恨みや怒りの要素を取り落して、この世の悲しみ・苦しみを涙で以て受け止めて、これを癒してくれる菩薩の姿になっていくのです。このことはとても大事なことです。吉之助はそこに日本の庶民の悲しみと限りない心根の優しさを思います。

義経は、幼少にして父母に離れ・肉親の愛を知らずに育ち、武人として華々しい戦果を収めながらも、兄頼朝に疎まれ・追われ、やがて奥州平泉に寂しく散って行きました。義経は、生涯のなかで、人生の有り様のすべてを目の当たりにしたのです。だから「祇園精舎の鐘の声・・」という「平家物語」の有名な冒頭部分は、奢る平家だけを語ったものではなかったのです。それは壇の浦に平家を討ち滅ぼした義経にもやがて振り掛かって来ることでした。「平家物語」を語り伝えた琵琶法師は、もちろんこのことを知っていました。だからこの世で「もののあはれ」の一切を体現した義経がその死後に、恨みに凝り固まって御霊に転化すると云うことはなかったのです。死後の義経は恨みや怒りの要素を振り落として、「もののあはれ」の有り様を受け止め・涙する菩薩へと転化して行きます。能においても義経はツレまたは子方として扱われるものが多い。歌舞伎でも、義経は若手花形または女形が勤めることが多い。伝統芸能の義経はイメージは優美で、「もののあはれ」を知る菩薩のような存在なのです。

一方、義経が振り落とした恨みや怒りの要素は、弁慶が引き受けることになります。「平家物語」のなかに弁慶は義経の家来として出てきますが、あくまで「その他大勢」の扱いです。出生も明らかではなく、屋島や壇の浦でも目立った活躍はなく、実在の人物なのか疑う声さえあるようです。弁慶には菩薩を守護する不動明王のイメージがありますが、それは「義経記」などで庶民が作り出したものでした。歌舞伎の弁慶は、恨みや怒りの要素を「もののあはれ」の憤(いきどお)りの振動に変換した荒事のキャラクターとなって行きます。つまり義経と弁慶は「二人」の組み合わせになることで落ち着いたものになるわけですね。

(R3・10・16)


〇九郎判官義経の話・その5

実盛まつり(虫追い・虫送り)の話しで深く感じ入るのは、昔の人々(農民たち)が、鬢鬚を黒く染め若やいで出陣して見事に戦死を遂げた老体の斎藤実盛の死に「あはれ」を感じ取り、死後・実盛は恨みで稲虫となったと考えたことです。「もののあはれ」という感情は、本来は喜び・笑い・悲しみ・苦しみ・妬み・恨みなど、すべての感情を包括したところで、胸がドキドキするほど心が動かされることを言いました。それが後世「あはれ」が悲しいことを指すようになったのは、この世においては悲しく・苦しいことがあまりにも多く、そういうことに人々が心を動かされることが多かったからです。(別稿「憤る心」をご参照ください。)喜びなどポジティヴな感情としての「あはれ」は、それが転化した「天晴れ(あっぱれ)」という形で残ってはいます。

一方、後世の武士たちは実盛の死を武士たる者の理想の死に方だと考え、これを「あっぱれ」だとしたものでした。武士は死を覚悟して戦場へ赴くのですから・そこに未練なものがあってはならぬわけで、実盛は潔く死ぬ覚悟が定まった最たる者だと見たのです。実際「平家物語」を読んでも・或いは歌舞伎の「実盛物語」を見てもそうかも知れませんが、実盛の死からは、死んで怨霊(稲虫)に転化しそうな陰湿さをあまり感じないと思います。しかし、これは知らず知らずのうちに理屈と云うか・倫理道徳に影響されて観念的に物語を読んでしまうから、そうなってしまうのかも知れません。昔の庶民(昔の庶民は大半が農民です)の多くは、遊行の琵琶法師が語って聞かせる実盛の死の物語を、生(なま)の感情で涙して受け止めたのです。農民たちは、実盛の死を悲しいことだ・あはれなことだと感じて、そう云うことならば自分たちが弔ってやろうかと思ったのです。そこでいささか唐突に(実盛と関係ないはずの)稲虫が登場して来るのは、農民たちがそれを彼らの生活感覚の範疇で受け止めたからです。日本の庶民は心根優しかったのですねえ。それは村での農民たちの人生が、悲しく・苦しいことがあまりにも多かったからに他なりません。これがフォークロア的な実盛の死の受け止め方でした。実盛の死が「あっぱれ」か・悲しみの「あはれ」かは、どちらの見方が正しいとか云うことでなく、そのどちらもが実盛の死が持つ「もののあはれ」の真実なのですが、庶民はそれを悲しみの要素の方でより強く受け取めたということなのです。源義経についても、庶民はまったく同様のプロセスでその死を受け止めたと思います。

義経は壇の浦に平家を滅ぼし華々しい武功を立てたにも係わらず、兄頼朝に疎まれて・追われ・寂しい生涯を終えました。歌舞伎以前の芸能も含めて検討せねばなりませんが、芸能の初期段階では、義経を怨霊とみなそうと云う試みは少なくなかったに違いありません。実盛の例を見ても、やはりそれがごく自然のことに思われます。江戸以前では「平家物語」のなかの、庶民の最大のヒーローは義経でしたから、それこそ菅原道真(菅丞相)に比肩する強力な御霊神となってもおかしくなかったはずです。しかし、結果的には、そうなりませんでした。この結果は、とても重大なことです。芸能に於ける義経は、静かで優美な菩薩のイメージに集約されて行きます。(この稿つづく)

(R3・10・14)


〇様式とは・フォルムとは    

現在ポーランド・ワルシャワ市で第18回・ショパン・コンクールが開催中です。コンクールは今月2日から始まり、本日(11日)時点では第2次予選の真っ最中。第3次予選・本選を経て、本選結果発表は20日深夜の予定です。第18回は本来2020年開催のはずだったのですが、世界的なコロナ状況により・本年(2021)に順延となったものです。有難いことに・ITの進歩により選考会の模様をライヴ・ストリーミングで世界中どこでも視聴することができる(アーカイヴ映像も自由に見られます)ので、吉之助も先週からショパン漬けになっています。日本からの参加者は毎回多いのですが、特に今回は・もしかしたら日本から初の優勝者が出るかも・・と云う期待が下馬評では密かに言われてもいるので・そういう関心もあって見ているのですが、本稿では予想みたいなことは書きません。本サイトは「伝統芸能研究サイト」でありますから、吉之助の最大の関心事は、「ショパンの様式とは・フォルムとは」、そういうことを若いピアニストたちがどう考え・どのように迫るかと云うことです。

クラシック音楽は伝統芸能とは呼びませんが、ショパン・コンクールはショパンの作品のみを課題曲とする珍しいタイプのコンクールであるので、技術的に卓越していることだけが選考要件なのではありません。歌舞伎の「型」みたいな概念ではないにしても、「ショパンらしさとはどういうことか」ということが、単なる香り付けではないところで・非常に大事なことになって来るのです。もちろんアプローチの仕方はいろいろあるわけで・これが正解というものはありません。が、後から振り返ってみると、何となくそこに大きなショパン演奏の「伝統」みたいなものが朧げに見えて来ます。彼らはそういうものに(師のアドバイスを受けたりはしますが・基本的に)個人レベルで立ち向かっているので、クラシック音楽はこれを伝統芸能とは呼びませんけれども、その態度は何となく伝統芸能に似通ったところがあると思っています。

「個人レベル」と書きましたけど、これは言い方を変えると、コンクールに出場する若手ピアニストたちは、最後に助けてくれる人は誰もいない・自分一人で立ち向かって勝利を勝ち取らねばならないと云う事であるので、これは非常に厳しい苦しい戦いになるわけなのです。そういうところで若いピアニストたちがコンクールに立ち向かっているのを聴くと、この演奏には構成力がある・この弾き方は好きだなあ・この音色は素敵だなあとか・或いはそうではないとか、ご感想は勝手に浮かびますが、このピアニストを次のステージに通過させるか・それとも落とすか、あなたの判断は如何にということになると、一瞬たじろいでしまいます。実は、第1次選考で八十数名の参加者(それを吉之助が全員聴いたわけではないが)が約半分ごっこり落とされたのを見て、個々の結果がどうのではなく、ホント残酷な世界だなあということに改めて思いが至って、ちょっと暗い気分にさせられました。だけどこれはコンクールですから、最後は一人の優勝者を選び出さねばなりません。これが現実であるわけですから、だからなおさら「ショパンの様式とは・フォルムとは・・」ということをより一層深く考えなければならぬ。本来それは客観的な命題になり得ないものですが、評価・選別をより公正なものにしたいと思うならば、「ショパンの様式とは・フォルムとは・・」という命題により強くすがらざる得ない。そう云うことですねえ。

まあそういうことを考えるのは吉之助が歌舞伎で批評活動をやってるせい(元々クラシック音楽批評を志していたせいもある)でしょうが、現在第2次選考が進行中で・より一層レベルが高いところでの戦いになるので、吉之助も「ショパンの様式とは・フォルムとは・・」というところを自らにさらに強く問いかけながら、これから本選までの・若いピアニストたちの戦いを見届けていきたいと思います。本選結果が出た後、また何か書くことになるでしょう。

(R3・10・11)

(追記)別稿「様式とは・フォルムとは〜ショパン・コンクール2021」をご参照ください。


〇九郎判官義経の話・その4

江戸の昔、奥州の村芝居で、例えば「鮓屋」などで〽その時奥の一間より現れ出でたる義経公・・・の語りで突然上手から義経が登場し、〽さしたる用もなかりせばそのまま奥へぞ入り給う・・・で何もせずに奥へ引っ込んでしまう。ただそれだけのことで村人は拍手喝采、何の芝居でも、このような義経が登場する場面がないと村人が納得しなかったのだそうです。この話しはよく知られていますが、文献或いは考証として・どこどこの村芝居ではいつ頃までこう云う演出が残っていたとか、どのくらいの範囲(地域)でそれが行なわれたかということになると、どうもはっきりしたことが分かっておらぬようですが、それはまあいいことにしておきます。本稿では、そういうことが奥州では広く行なわれたほど義経は人気があったらしいと云うことのみとします。

義経は壇の浦に平家を滅ぼし華々しい武功を立てたにも係わらず、兄頼朝に疎まれて・追われ・寂しい生涯を終えました。それだけでも民衆には同情すべきところがあるのに、加えて義経は奥州平泉で死んだので、云わばご当地ものとして奥州の人々に義経は特別な人気があったのだろうと思ってしまいますが、実はそんな単純なものでもありません。これは創成期の歌舞伎が念仏踊りと深い関連があったことから来ます。

念仏踊りは平安末期から始まり、その後江戸期に至るまで長い年月に渡って民衆の生活の生活のなかに溶け込んでいたものです。もともと念仏踊りというものは、稲作の行事と関係が深く、田を荒らす稲虫を退散させるために行なわれたものでした。その稲虫は、恨みを含んだ人がなるのだとします。村全体に反抗して死んだ者がいると、それが稲虫になったとするのです。それらしい者がいなくても、そういうことにするのです。それで村では、年中行事として盆の時期、もうひとつは田植えの時期に念仏踊りを行ないます。そうすると怨霊は収穫まで悪いことをせぬと考えました。そこで害虫とか疫病とか・説明の付かぬ悪い霊が出て来た時に、芸能者がこれを安心させるための物語を付けました。お前は生きている時にはこういう人物であったと語り聞かせて弔う、そうすると怨霊の方は自分はそうした名目で弔われてるのだと納得して成仏するのです。例えば斎藤実盛は、稲作に関係あるように思えませんが、加賀の国篠原の戦いで出陣したところ田んぼの稲の切株につまづいて・転んだところを手塚太郎に討ち取られた、それで稲を深く恨んで害虫になったというのです。そこで村人は怨霊にお前はもとは平家の侍・実盛だと教え諭すと、なるほどそうかも知れんと思って納得して成仏する。そんなところから村人は実盛人形を作って、田んぼを巡って稲虫を誘い、離れたところで焼いてしまう、そのような風習が各地に広がって行きました。実盛まつりと云う稲虫追いがそれです。地方によって、その地の歴史的人物と結び付いて、同様なことが広がって行きました。

『書き物、芝居で、目に触れているものもあり、また消えていっているものもある。怨霊たちに理解のうえに、矛先を収めてくれるのか、かしこいこの信仰が何べんも出て来る。そして怨霊に承知してもらう。お前は偉い人だ、お、そうかと言って退散する。名もない怨霊がそう言われると満足する。それには昔の名高い人が、苦しい悲惨な境遇に落ちた人でなくては効果がない。そう言って祀ると満足する。その代表が義経だ。何代か前には「義経記」が有力なのは、よく出来ているからではない。いい加減な書き物でも、身に沁むほど感じる。その土台が我々の心にあったわけだ。義経という人が、こうして死んだ人だから、こういう恨みを持っている。常に事あるごとにその人を思い出す。その場合が多かった。』(折口信夫:「歌舞伎芝居の一考察」〜昭和22年度芸能史講義・文章は若干吉之助がアレンジしました。)

奥州の田舎を歩く盲目の芸能者が、奥州に関係が深い義経を以て、田を荒らすものを義経だと考えて借用する。お前は九郎判官だと、そういう扱いをして怨霊を収める。こうして「義経記」が奥浄瑠璃となって栄えて行ったと云うわけです。(この稿つづく)

(R3・10・8)


〇九郎判官義経の話・その3

歌舞伎の荒事の主人公には御霊(ごりょう)が多いことは、ご存知の通りです。御霊信仰とは、不特定多数の人々を脅かす天災や疫病の発生は、政治的な怨みを持って死んだり・非業の死を遂げた人物の怨念が引き起こしたものだと考えて、これを「御霊」として畏怖し・これを鎮める行為を行なうことで、世の中の平穏と繁栄を実現しようとしたものです。文献的に確認されるのは、貞観5年(863)に京都・神泉苑で行なわれた御霊会(ごりょうえ)が最初のこととされます。平安貴族の間に広まった都市信仰みたいなもののようです。菅原道真(菅丞相)は、代表的な御霊神でした。一方、民間の怨霊信仰にも似たものがあって、例えば歌舞伎十八番の「暫」に登場する鎌倉権五郎景政は平安末期の実在の人物ですが、五郎(ごろう)の音が御霊(ごりょう)に似るとして、これを御霊だとする説があります。「寿曽我対面」や「助六」ほか歌舞伎の曽我物の主人公である曽我兄弟も、これも有名な御霊です。また実在の人物かは定かでありませんが、「佐倉義民伝」に登場する佐倉宗吾も、これを宗五郎と呼ぶことが多いのは、これに御霊信仰のイメージを重ねようとする意図が隠れているとされます。ただし、平安貴族の御霊信仰が怨霊信仰としてどこまで昔に遡れるか、御霊信仰と民間の怨霊信仰との関連について、色んな仮説が言われていますが・未だに定説がないようなので、本稿もこれ以上深入りしません。本稿では、歌舞伎の荒事の主人公には御霊(=怨霊)が多いと云うことだけにしておきます。

それにしても、御霊であることの第一条件が政治的な怨みを持って死んだり・非業の死を遂げた人物であるとすると、伝統芸能の観点では、この人物こそ御霊であっておかしくないのに・何故かこれを御霊とは呼ばないな?と不思議に思う重要人物が、二人いますね。ひとりは源義経であり、もうひとりは大石内蔵助(四十七士含む)です。どちらも華々しい実績を上げており・賛美すべき人物ですが、同時にいろいろな政治的障壁があって・幸せな人生を送ることができなかった、その意味で無念を含んで死んだであろうと、民衆が同情するところが多々ある人物なのです。しかし、義経や由良助が隈取して荒事をやる例を現行歌舞伎のレパートリーには見出せません。

義経で適当な例が思い付きませんが、内蔵助(=由良助)に関しては、「忠臣蔵・九段目」で由良助の荒事演出が試みられた例を見付けました。「九段目」幕切れ近くで・庭先の竹を鴨居にはめて・雨戸をはずす計略を披露する件は、現行歌舞伎では力弥の持ち場になっていますが、その昔、むきみの隈を取って・諸肌を脱いだ由良助がこれを行なって見得する型があったと云うことです。歌舞伎で由良助を御霊と見なす考え方が、昔はやはりあったのです。「忠臣蔵」はその昔は曽我の世界や小栗判官の世界に仮託されたこともあったので、似た例は他にも少なからずあったと推測します。しかし、荒事の由良助は定着しませんでした。この定着しなかったと云う事実こそ大事なのです。元禄赤穂事件は江戸の民衆にとって同時代の出来事ですから、理性的に人物を眺めることが出来たことが大きかったでしょう。その後の歌舞伎の由良助のイメージは、実事をベースにして・これに「やつし」の要素を加えた形で定着して行きます。その過程で由良助の御霊のイメージは浮いたり消えたりしながらも、終に無くなってしまいました。映画でもテレビでも「忠臣蔵」の一番の見せ場は、祇園一力茶屋で内蔵助が浮かれ遊ぶ場面なのです。

一方、義経は平安末期の人物ですから、事情はちょっと異なります。歌舞伎以前の芸能も含めて検討せねばなりませんが、芸能の初期段階では、恐らく義経を怨霊とみなす試みは多かったと想像します。しかし、最終的にそれらも消えてしまいました。能においても義経がシテとして扱われているものは少なく、例えば「船弁慶」・「鞍馬天狗」など、ツレまたは子方として扱われるものが多いようです。歌舞伎でも、義経は若手花形または女形が勤めることが多く、イメージは優美で、「もののあはれ」を知る菩薩のような存在なのです。(この稿つづく)

(R3・10・2)


〇九郎判官義経の話・その2

文学でも演劇でも、作品が成立した当時の倫理・道徳観念が色濃く反映されるものです。「勧進帳」ならば、天保11年(1840)の道徳観念と云うことになります。もうすでに封建社会が終わりに差し掛かる時期でした。(大政奉還は慶応3年・1867) この時期の封建道徳は、実質を失って半ば理想化・お題目化したものになりかけています。七代目団十郎が能の「安宅」を市川家伝来の荒事化しようと云うならば、劇中で弁慶が富樫を威嚇して関所を押し通る筋をそのまま活かせば、それで十分だったはずです。ところが七代目団十郎はそれでは飽き足らず、弁慶の智略と「忠義」をドラマの前面に持ってきました。もちろん七代目なりの思惑あってのことです。この七代目の思惑は、後に明治の九代目団十郎の時代に忠君愛国の思想と組み合わさって、忠義のドラマとしての「勧進帳」の位置付けは、さらに強固なものとなって行きました。(別稿「勧進帳の二つの意識」を参照ください。)そうすると前述の四天王の会釈も、長いスパンから見れば「勧進帳」の表現ベクトルの上に乗って来ることになり、そうなると一概に間違いと決め付けるわけに行かないのかも知れません。

ただ吉之助は「勧進帳」の義経と弁慶の主従関係を、そのような堅苦しい忠義の論理で厚く塗り固めるのでなく、忠義々々はほどほどにして、二人の関係をもう少し軽く描けば却って歌舞伎らしさが出せるだろうに・・と思うことがあります。忠義は大事なことですが、加減が大切ではないでしょうかねえ。

例えば、近松門左衛門に殩静胎内捃」(ふたりしずかたいないさぐり・正徳3年・1713・5月竹本座)という時代物浄瑠璃があります。序段では北野天神の境内で義経一行が酒宴を催しています。義経が都落ちする・その直前の出来事です。義経は願掛けで絵馬を奉納するつもりです。絵馬には長刀を持った稚児が逃げる荒法師を追い駆ける光景が描かれています。実はこの荒法師は義経の母・常盤御前を殺害した盗賊・熊坂長範で・弁慶ではないのですが、絵馬を見た義経の家来・鷲尾三郎と熊井太郎が、「これは五条橋で牛若丸が弁慶をやっつけている場面じゃないか」と弁慶をからかいます。弁慶は憤慨し、「俺ではない、俺は逃げ回ったりしなかったし、あの時は長刀を取り落として太刀の柄で押さえられただけのこと。それに橋が描かれてないじゃないか」と言って義経に同意を求めますが、義経が「昔のこと過ぎて忘れてしまった」とトボけるので、仲間たちがドッと笑います。弁慶はついに怒り出し、「それならば今一度勝負のやり直しだ、さあ我が君御座れ」と刀の柄に手をかけるので、静御前に止められます。

ここで近松が描いた義経と弁慶ら家来たちの主従関係は、生き生きとしてなかなか素敵じゃないかと思いますねえ。主従のけじめはもちろんありますが、根本は友情にも似たものです。「あいつ(義経)のことが大好きだから、俺たちはあいつの後を付いていく」と云う感じなのです。実は江戸初期の主従関係には、まだまだこんな感じがあったのです。当時は「男道(おとこみち」とか「侍道(さむらいみち)」とか云いました。気に入った主人にはとことん尽くし・命を捨てるのも惜しまない。しかし、気に入らないことがあると、主人が相手でも猛然と反抗したりしました。(別稿「かぶき的心情とは何か」を参照ください。)近松の時代には、まだ武士のなかにそんな気風が色濃く残っていました。「勧進帳」の忠義もこれに近い感じに収めてくれるといいなあと思うのですけどねえ。イヤちょっと無理かな。(この稿つづく)

(R3・9・27)


〇九郎判官義経の話・その1

本稿では、九郎判官義経の話を雑談風にたらたらと綴ります。話が行ったり来たりするかも知れませんが、概ね歌舞伎の義経の周辺を逍遥することになるはずです。

「勧進帳」で、〽これやこの、行くも帰るも別れては・・で笈を背負った義経が右手に金剛杖、左手に傘を持って花道へ登場し、七三で止まってポーズを取る。この後四天王が登場して、後ろ向きになって通路を空けた義経の背後でちょっと立ち止まり、「後ろを失礼いたします」と云う感じで会釈してから通り過ぎます。ここで四天王が会釈するのは、吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代からお馴染みのシーンで、それ以外の舞台を見たことがない気がします。

ところが、映画で遺っている昭和18年11月歌舞伎座での、七代目幸四郎(弁慶)・十五代目羽左衛門(富樫)・六代目菊五郎(義経)という超豪華配役の映像では、四天王は止まることなく・会釈もせず・そのまま義経の背後をスーッと通過してしまうのです。ちなみにこの時の四天王には、後の十一代目団十郎(亀井)・後の八代目幸四郎(駿河)と、戦後昭和の代表的な弁慶役者を含みます。映画の・この場面から分かることは、なるほどこの場面では四天王は止まることなく・会釈もせず・そのまま義経の背後をスーッと通過するのが「勧進帳」の本来のやり方なのだ、あそこで会釈するのは「御主人を決してないがしろにしてはならぬ」と云う旧封建道徳の悪描写であるなあと云うことですね。義経は笈を背負っており、既に一行のなかで偽の強力としての役割を勤めているはずです。ちょっと目から鱗が落ちた気分がして、やっぱり昔の人は「正しく」やっていたのだなと思うのです。

それにしても、いつ頃から四天王は義経の背後を通過する時に、わざとらしく私は御主人を敬っておりますと見せるが如く会釈するようになったのか。誰がこれを始めたのでしょうか。どなたかの指示があったのでしょうか。これは全然分かりません。弁慶がこうやった・富樫がああやったと云う型の記録はありますが、四天王のことなど誰も記録しないから分からないのです。吉之助が調べたところでは、志野葉太郎氏が雑誌「演劇界」(昭和47年6・7月)の「歌舞伎名作選」のなかで、「(四天王が義経の背後を通り抜けるのに)一々会釈するのは不要ではないか。ましてする者しない者とアンバランスがあるのは目ざわりである」と指摘したのを知るのみです。まあそれは兎も角、吉之助の手元にある、昭和36年2月歌舞伎座(八代目幸四郎の弁慶)、昭和40年3月歌舞伎座(十一代目団十郎の弁慶)の映像でも、四天王は会釈しています。従って、誰の指示で始めたと云うでもなく・何となく誰かが会釈したことから始まって、会釈する者しない者バラバラと並列する時代が長く続いて、恐らくは昭和40年辺りから、四人全員が会釈する現在の状況に固まったということではないかと推測します。

ただしこのことは四天王の型という問題だけに止まりません。と云うのは、ドラマは幕が開いてからの様々な印象の積み重ねで出来上がっていくわけですから、どなたかが御主人様の背後を通過する時に四天王が会釈しないのは「不敬」だと感じて、この感じ方が長い時間を掛けて役者のなかで共有されていくなかで、細かいところで「勧進帳」自体の感触も次第に変わって来たであろうと云うことは、ちょっと考えてみる必要があると思うのです。(この稿つづく)

(R3・9・25)


〇令和3年9月歌舞伎座:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その3

首実検の段取りは、文楽であるとアッと云う間に終わりますけど、歌舞伎では盛綱の独り芝居で首実検をじっくり引き伸ばします。吉之助にはこれがまどろっこしく感じられます。しかし、逆の見方をすれば、頭脳明晰な盛綱が瞬時に下した決断の思考プロセスを微速度撮影の如く最大限に引き伸ばし、表情・視線の細かな変化で見せる、つまり歌舞伎は、文楽と真逆のアプローチで盛綱の心理の襞に迫ろうと云うことなのですね。そこに役者の様々な工夫があるわけです。幸四郎も、ここは見せ場だと云うことで、一段と気合いを入れて首実検を見せてくれます。ひと目見て贋首と悟り、「弟(高綱)よ、生きていたか」という感じで二ヤリとする辺りは、父上(二代目白鸚)の盛綱はしなかったと思いますが、そう云うところは幸四郎が独自の解釈でやっているようです。

歌舞伎では、首実検をドラマの頂点(クライマックス)と位置付けているわけです。しかし、吉之助は、首実検が終わって時政一行が去った後、盛綱が篝火を呼び寄せ・瀕死の小四郎に対面を許し、微妙に「そなたは京方へ味方する心底か」と問われて、盛綱が爆発的に自らの心情を吐露する長台詞の方を、より重く見たいと思います。歌舞伎では、首実検の段取りを重くし過ぎる為、肝心の盛綱の長台詞を引き立たなくしていると感じます。そこが盛綱の在来型に対する一番大きな不満です。

ところで、映画で遺されている初代吉右衛門の盛綱(昭和28年11月歌舞伎座)を見ると、最晩年(翌年・昭和29年9月に死去)の舞台ゆえ体力の衰えが見えないわけではないですが、それでも長台詞の言葉の粒立ちの良さ・明瞭さ・息の良さは比類のない出来です。初代の体格は貧弱で、時代物役者の押し出しという点で引けを取るものの、それでもなお初代が時代物の第一人者とされた理由は、その見事な台詞廻しと人間描写にあったのです。しかも映画を見ると、首実検は同じく在来型でやっているのだけれど、盛綱の長台詞がちゃんとこの芝居の頂点に位置付けられた印象がします。それはホンのちょっとした印象の違いなのですが・首実検の感触を重くし過ぎないおかげで、それで長台詞が引き立つことになるのです。つまり芝居のバランス配分が上手いのだな。自分の得意が台詞にあることを初代はよく分かっているのです。このセンスが初代吉右衛門の名優たる所以です。ここに「盛綱陣屋」再検討のための大きなヒントがあると思います。

盛綱の長台詞は、タテ言葉と呼ばれるものです。立て板に水を流すように一気にしゃべる台詞だと云うことです。これはサラサラと流麗にしゃべるのとは違います。言葉のひとつひとつの粒をしっかり立てて・勢いを付けてしゃべるのです。そこから盛綱の実事としての格が立ち現れます。そのためには息が詰んでいなければなりません。幸四郎の長台詞はそんなに悪くはありませんが、言葉を滑らかにしゃべろうとしていますね。速度は付いていますが、これでは言葉のエッジが立ちません。言葉の息が弱くなる。結果として、役の印象が優美な方向へ流れ、盛綱の心情が聞き手にいまいち生々しく迫ってこないきらいがあります。ここは義太夫狂言の音遣いに更なる工夫が必要なのです。そのお手本が曽祖父さん(初代吉右衛門)の映画で遺っているのですから、幸四郎は映画を見て・そこのところをじっくり学び取ってもらいたいと思いますね。

(R3・9・24)


〇令和3年9月歌舞伎座:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その

まっそれは兎も角、幸四郎にはまずは現行型の盛綱の肚をしっかり学んでもらわねばなりません。また今回(令和3年9月歌舞伎座)の「盛綱陣屋」は他にも初役の役者が多いわけで、そういう意味で10年後の歌舞伎を占う舞台になりそうです。段取りとしてはみんなそれなりに出来てはいますが、全体的に薄味の印象がすることは否めません。それは台詞あるいは身体の捌きに義太夫狂言の息がまだ十分身に付いていないからで、そこら辺が至急の課題になってきます。

舞台を順に追って見ますが、和田兵衛上使で幸四郎(盛綱)と兵衛(錦之助)が対すると、どちらも台詞が高調子なので、対話の押し引きが乏しく・一本調子に聞こえます。ここには、いつぞや「鞘当」で述べたのと同じく、声のバランス設計があるのです。この場合には盛綱が低調子・兵衛が高調子になりますが、まあ最悪逆であっても良しとしますが、互いに高調子で張り合ったのでは虚々実々の駆け引きにならぬと云うところは分かっておいて欲しいと思いますねえ。そう易々と小四郎解放にならぬことは分かり切ったことなので、ここは息を詰めて・互いに相手の肚を探ろうとしているのです。それよりも二人とも、カッコ良く台詞を時代に張ろうという方に意識が向いてないか、そこが問題かなと思います。

歌六は和田兵衛が出来る人で、今回は座組みの関係で老け女形がいないので歌六が微妙を勤めることになったのかなと思います(このこと自体歌舞伎の層の薄さを示しているようです)が・それでも老け女形が立派に勤まるのだから大した実力ですが、やはりちょっと印象が強い感じになってしまったようです。盛綱に小四郎を切腹させることを頼まれ・これを承知し、「気遣いめさんな、遅れはせぬ」の台詞が、微妙が小四郎を見るなりバッサリやりそうな決意に聞こえて、吉之助は一瞬驚きました。ここでの微妙は息子(盛綱)の頼みを理屈では理解していますが、祖母としての強い躊躇(ためら)いがあるわけなので、「気遣いめさんな、遅れはせぬ」の台詞は、むしろこれから恐ろしいことをせねばならぬ自分に必死に言い聞かせる感じに言って欲しいと思います。(ところで、もしかしたら歌六の覚寿は良いかも知れませんね。)

この場の幸四郎の盛綱は、段取りはしっかり取れています。「思案の扇からりと捨て」も良く出来ましたが、思案に思案を重ねて出した結論(やはり小四郎には死んでもらわねばならぬ)を何としても母(微妙)に受けてもらわねばならぬ、さらにこのことは隠密になされねばならぬわけなのですから、微妙への頼みこみでの盛綱は、低調子で抑え気味に言わねばならぬことは明白だと思います。ここを高調子で高らかに歌いあげたのでは肚違いになると云うところは分かっておいて欲しいと思います。幸四郎の盛綱だと、周囲に丸聞こえのように見えますね。

雀右衛門の篝火は本役に違いありませんが、このところの雀右衛門はどうも気合いを欠く気配がします。篝火は仕出かすような役ではないかも知れないが、本役が出て来た安心感が欲しいのですがね、ちょっと影が薄い印象です。米吉の早瀬は力が空回りしている印象で、声が大きいだけで、義太夫狂言の空間に嵌っていません。(この稿つづく)

(R3・9・22)


〇令和3年9月歌舞伎座:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その1

今月(9月)歌舞伎座の「盛綱陣屋」では、幸四郎が初役で時代物の大役・佐々木盛綱を勤めます。言うまでもなく盛綱は高麗屋・播磨屋にはとりわけ重い役であり、両家の芸脈を引き継ぐ立場にある幸四郎にとって、何としてもモノにしたい役です。そう云うわけで舞台を期待して見ましたが、一方、サイトの「盛綱陣屋」関連の記事をご覧いただくと分かりますが、「盛綱陣屋」は吉之助が現行型の見直しが必要であると考える演目の筆頭格であって、見ていて不満を覚えることが多い(とりあえず別稿「盛綱陣屋の音楽的な見方」をご参照いただきたい)。したがって現行型の盛綱を吉之助はどうしても醒めて見てしまう立場にいますが、それは兎も角、幸四郎にはまずは現行型の盛綱の肚をしっかり学んでもらわねばなりません。これ以後に願わくば出来ることならば盛綱の型の再検討をしてもらいたいと云うことで、幸四郎初役の盛綱を見ました。大筋において父上(二代目白鸚)の型を踏襲したということかと思いますが、ぱっと見の印象も含めて多少の相違もあります。そこも含めて吉之助の感じたところをつれづれなるまま書いてみたいと思います。

まず幸四郎の盛綱はぱっと見で生締めの役どころの優美さを大事にした印象で、父上であると同じ生締めでも実事の方に寄る印象ですが、幸四郎の場合は、優美さに頼るせいで・演技全体の線が細く見えて来ます。肚が薄く見えると云っておきましょうか。これは風貌のせいもあるから・そのこと自体どうこう言うつもりはないですが、幸四郎が優美さに頼る印象が強くなるのは、台詞のトーンを高調子に置いているせいです。これが問題です。恐らく生締めの役=優美=台詞の高調子という思い込みがあるのだろうと思います。しかし、これだと、台詞が義太夫狂言の調子にはまりません。床(竹本の三味線・太夫)が示導するトーンとかけ離れた調子で台詞を言っても、これでは台詞が水っぽくなって・腹が薄く聞こえるだけです。

これは「盛綱陣屋」だけのことではなく義太夫狂言の鉄則と云うべきことですが、幸四郎には、もうひとつ申し上げたいことがあります。幸四郎は「自分の声」と云うものを、声域のどの辺にイメージを置いているのでしょうか。幸四郎の声は案外調子が低くて、それが本来の幸四郎の声であると吉之助は思っているのですが。例えば先月(8月)の「義賢最後」の時の義賢のような低調子の方が幸四郎本来の声であろうし、今回(令和3年9月歌舞伎座)の盛綱もそう云う感じでやってくれれば良かったのです。幸四郎のなかに生締め=優美=高調子という思い込みがあると書いたのは、そこのところです。一方で、幸四郎は、「廓文章」の伊左衛門とか・「油地獄」の与兵衛など、仁左衛門系統の役で・その後継をも期待される位置にあるわけですが、これらがどちらかと云えば高調子の役です。その両方の声を一応のレベルで器用にこなしているのだから・これは大したことだとも言えますけれども、このことは、結局、幸四郎は「自分の声」を持っていないと云うことにしかねないと思いますがねえ。別稿「十代目幸四郎が進む道」で触れましたが、骨太い実事の役と優美な色男の役と、印象的に相反する芸道二筋道を進まねばならない時、幸四郎が「幸四郎」の名跡を継ぐ者として死守せねばならないのは、どちらの方か?と云うことです。答えは明らかだと思います。幸四郎が盛綱を高調子でやっているのを聞くと、そこのスタンスの取り方(覚悟)が「甘い」と思うのだねえ。高麗屋・播磨屋系統の盛綱は、実事の方へ寄った盛綱です。実事の盛綱ならば、もっと低調子に取った方が良い。それが幸四郎本来の声に似合ってもいるでしょう。いつぞやも書きましたが、名優と云うのはみんな「自分の声」を持っているものです。極端なことを云えば、例え悪声であったとしても「自分の声」を持ってさえいれば、その声を聞けばこの役者・名調子!となるのです。四代目源之助とか六代目菊五郎などがいい例です。吉之助が言いたいことは、幸四郎は「自分の声」のイメージをしっかり固めなさいということです。そこを早く固めないと、いつまでたっても弁慶がニン違いみたいな陰口を叩かれることになります。「自分の声」を持っていれば、これが幸四郎の弁慶だと云うことになるのです。(この稿つづく)

(R3・9・20)


〇令和3年8月歌舞伎座:「三社祭」・その3

まあそんなことなど考えながら、今回(令和3年8月歌舞伎座)の「三社祭」を見たわけです。染五郎(16歳)の悪玉・団子(17歳)の善玉と云う組み合わせですが、ふたりとも長身で小顔、手足が長い。いつの間にやら随分と背が伸びたものですね。果たして、幕が開いて後姿が見えると、何だかヒョロ〜リと安定感がなくて、印象が頼りない。まだ踊っていないのに、ツイ「これで踊れるのかいな」と不安に感じてしまう、そういうハンデは確かにあると思います。しかし、前述した通り、腰を落して踊るのは大事なことですが、それで背を盗めてもせいぜい数pのことです。だから長身腰高の踊りの印象が解消されることは決してありません。踊りの重心が上に行くことは避けられません。と云うことは、踊る以前から20点くらいのビハインドを背負うことになるわけだが、この不利を補うために、手足を伸びやかに・大きく遣うことが大事なことになるのです。とにかく動きが小さく見えてはいけません。

そのような観点からふたりの踊りを見ると、ふたりとも背をスッと伸ばして、頭の位置は確かに高いけれども、頭がフラフラと揺れることはない。手足を伸びやかに・大きく遣えており、素直で良い踊りだと思いますねえ。「手足を大きく遣え」とアドバイスすると、長身で手足が長いと脇が空いて見えてしまうため、そのことに気が行く余り身体の軸がブレてしまうことが少なくないのです。しかし、染五郎にも団子にも、身体の軸がブレた感じは見られません。頭も変に上下動することもありません。これは正しいご指導がなされていると感じますねえ。今の段階ではふたりの踊りに体操みたいなギコチなさを感じる方がいらっしゃるでしょうが、これは踊りのための身体がまだ出来上がっていない10代の彼らの場合には仕方のないことです。年季を経て身体が出来上がってくれば自然に改善していくことです。今の段階では、とにかく身体の軸がブレない・頭が動かない、手足を伸びやかに・大きく遣うことを心掛けていれば、それで十分です。将来に向けての道程がはっきり見える踊りであったので、安心しました。これから踊り込んでいくうちに印象は必ず変わって来ます。

そういうわけで吉之助も最初のうちは不安半分でふたりの踊りの身体の軸をチェックするみたいに舞台を見ていましたが、ホッと安心してからの、後半の面を付けた踊りは、愉しく見させてもらいました。ふたりともリズム感が良くて、扇子の踊りでは長い手足を大きく使って、なかなかダイナミックに見せたと思います。おかげで気分良く劇場を後にすることが出来ました。これから、長身で手足が長い踊り手の、新しい時代が来ることを期待したいものです。それにしても染五郎と団子は、これからも良きライバルとして、互いに切磋琢磨しながら伸びてもらいたいと思いますねえ。

(R3・9・16)


〇令和3年8月歌舞伎座:「三社祭」・その2

長身ならば長身なりの、手足が長いならば長いなりの、踊りとはどんなものか。そういうことは吉之助にも分かりませんが、体格の良い現代の役者が六代目菊五郎と同じように肩を動かさず・身体の軸がブレないように正しく踊っても、腰高の印象は多分なくならないと思います。そこは致し方ないことですが、腰高の硬い印象を和らげる為に、長い手足の遣い方を工夫する必要がある。踊りの振りを「流れ」で捉えるのではなく・形の「決め」であると心得て、振りのなかにリズム感を持たせること。そうすることで現代の役者の踊りは、時代に則した美学を体現したものになっていくであろうと一応の目算を付けてはいます。

そこでヒントになるかは分かりませんが、1930年代〜50年代のダンス界のトップスターであったフレッド・アステアが、当時新進のジーン・ケリーと共演した映画「ジークフェルド・フォーリーズ」(1946年公開)のシーンをご覧ください。アステア(1899年生まれ・175p)、ケリー(1912年生まれ・170p)です。実測では身長にあまり差がないようですが、見たところでは、ケリーは中肉中背で均整の取れた身体付き、これに対しアステアは身体が細身で・手足が長めですから、アステアのダンスの方がバランス的に重心が高めになってきます。このふたりが同じ振り付けでダンスを踊って、「俺のダンスの方がちょっと上手いぜ」というところをアピールし合います。

ケリーのダンスは身体付きから来る安定感が素晴らしく・オーソドックスで手堅い印象さえしますが、華麗さと云う点では、もしかしたらアステアの方がちょっと上かも知れませんねえ。アステアの手と足の遣い方をご覧ください。時に腕を高く差し出したり・足を高く跳ね上げたりして、これでアクセントを付けています。手足を伸びやかに使えていて、長い手足を持て余す感じが全くしません。しかもリズム感と身体のキレは申し分ありません。

日本舞踊とは全然動きが異なりますが、このアステアの手足の遣い方が、長身で手足の長い若手の歌舞伎役者にも、参考になるところが多いだろうと思っています。西洋・日本を問わず、舞踊においては、頭が動かない・肩が動かない・身体の軸がブレないことが、必須の要件です。長身であれば、踊りの重心が上に行くことは避けられない、だからそこは仕方がないのです。この不利を補うために、手足を伸びやかに・大きく遣うことが大事なことで、とにかく動きが小さく見えてはいけない。この点が、背が低くて・手足が短い踊り手よりも、或る意味でずっと大変なことになると、吉之助は考えています。

腰を落とすことは日本舞踊ではもちろん大事なことだけれど、吉之助が苦手なのは、長身で手足の長い踊り手が踊りの振りを決める勘所で思い切り腰を落とす(膝を大きく折る)、多分そこで腰を落として形を正しく決めろと煩く注意されるのでしょうが、そうでない場面では膝を伸ばして気楽に踊る、結果として身長が伸び縮みして・頭が大きく上下動して見える踊りです。こういう踊りは、吉之助は見ていて落ち着かなくて、どうもいけません。(この稿つづく)

(R3・9・14)


〇令和3年8月歌舞伎座:「三社祭」・その1

まずは別稿「舞踊の身体学」の続きみたいな話しになります。昔と比べて今の若者の体格はずっと良い。背は高いし・顔は小さい。手足が長い。けれどもそうなると、舞踊(西洋舞踊でも日本舞踊でもそうです)の身体バランスが変化して、随分と印象が変わって来るということを考えたわけです。多少のことならば、腰を意識して落とすことで対処は出来ます。しかし、これで背を盗めるのも、せいぜい数pです。ひとつの対処法は踊りの振りそのものを変えてしまうことです。しかし、古典的な演目であると、そうも行かない場合だってあります。舞踊を指導なさる先生方は多かれ少なかれそう云う場面に遭遇して悩むことが多かろうと思うのですが、吉之助の目に触れるところでは、西洋舞踊でも日本舞踊でも、踊り手の体格の変化に伴う舞踊の変化について実体験的なことを書いた文章をほとんど目にしません。そう云うものは踊り手のセンスによって対処すべきもので・正面切って論じるものでないと思われているのか、企業秘密であるのか、その辺は分かりませんが、吉之助にとっては摩訶不思議なことではあります。

例えば「三社祭」で云えば、吉之助にとっては、昭和の末頃の五代目富十郎の悪玉と五代目勘九郎(後の十八代目勘三郎)の善玉による舞台が懐かしく思い出されます。平成で言うならば、十代目三津五郎の悪玉と十八代目勘三郎の善玉による舞台、これも結構なものでした。三人共に言わずと知れた舞踊の名手でした。三人に共通するのは、「背が低い」と云うことでした。日本舞踊の場合は、背が低いだけで、踊りが低重心で、動きが安定したものになります。これと較べると、今の若者は長身で小顔、手足が長い。だから幕が開いて姿が見えると、何だかヒョロ〜リと安定感がなくて、印象が頼りない。まだ踊っていないうちから、つい「これで大丈夫かいな」と不安に感じてしまいます。富十郎以下背が低い三人が踊るならば、踊る前から20点か30点が加算されているようなものです。こりゃあ、色んな意味で、採点が不公平だなあと思うのです。しかし、芝居の分野ならば、あの三人は「俺の背があと10p高ければ・・」と人知れず悔し涙を流したことがあったに違いない。けれど、歴史にIF(もし)はないと云うけれど、もし三人の背が10p高かったとしたら、あの絶妙な踊りのバランスはなかったかも知れません。

吉之助は、踊りの舞台を見る時には、もちろん歴代の踊りの名手たちの記憶を大事にしています。思えば、どなたも背が低くて顔が大きかったのです。吉之助は、現代の、長身で小顔で手足が長い・若手役者たちの舞台を、これと同じ土俵に上げて論じるつもりはありません。それでは、若手役者の踊りを、見る前から20点減点して見るようなものです、そんな不公平な見方はありません。吉之助は、長身ならば長身なりの、手足が長いならば長いなりの、踊りを見出せないものかと思って見ています。どんな踊り方が良いかについては、吉之助にも分かりません。恐らく踊りを指導なさる先生方は、いろんな場面でそのような苦労をされておられるはずだと思います。(この稿つづく)

(R3・9・12)


〇令和3年8月歌舞伎座:「伊達競曲輪鞘当」・その3

つまり「鞘当」は、元禄歌舞伎の様式を衒った文化文政期の現代劇だと云うことです。だから芝居のなかに、古(いにしえ)と今の、様式の揺れ動きが感じ取らねばなりません。しかし、今回の舞台に限りませんが、現行歌舞伎で見る「鞘当」は、伝統にどっぷり浸って・いわゆる「様式美」を売り物にしていますから、そう云う様相がなかなか見え難い。様式美・様式美と言っていると、感触がどうしても時代の・重い感触の方へ傾いてしまいます。

様式の揺れ動きを考えるためには、「不破が高調子で・名古屋が低調子である」という音楽的配置から見れば良いです。不破(団十郎)の高調子が、元禄荒事のツラネの様式を踏まえたものであることは、前述しました。基本は二拍子のリズムです。しかし、文化文政から見れば元禄はずっと昔のことですから、それは様式の方へ傾斜して、自然と心持ち遅めのテンポになります。写実から離れるということです。一方、名古屋(菊五郎)は二拍子のリズムを踏まえつつ、これに自分の領分(写実・世話)で以て対抗しようとします。低調子は写実のためのの武器になるものです。写実ですから、同じ二拍子でも、それはいくらか早めなもの(前に進む力を持ったもの)になるでしょう。これで不破の台詞とのコントラスト(対照)を付けるのです。「鞘当」の様式自体が、様式と写実・或いは時代と世話の揺らぎを包含しているわけです。芝居が進行してドラマが盛り上がっていくに従って、揺らぎの間隔は、次第に狭まって行きます。つまり台詞の速度が徐々に速くなっていく、これは鶴屋南北の生世話の二拍子のリズムに段々近づいていくと云うことです。こうして最初は元禄歌舞伎の様式を衒っていたものが、いつの間にか文化文政期の現代劇(生世話)の様相に変化して行く、この芝居はそのような設計になっているのです。(注:別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。ところで本稿は「鞘当」についてですが、別稿で本年8月歌舞伎座「鈴ヶ森」について書きましたが、実は「鈴ヶ森」も似たような問題を孕んでいるということだけ言っておきます。)

このようなことは、気を付けて聞けば、様式の方へ傾斜して重ったるい現行歌舞伎からでも、察することが出来ます。もちろん今回の舞台(令和3年8月歌舞伎座)からも、これは察せられます。ただし時代と世話のコントラストが、十分付いているとは言えません。原因のひとつは、前述の通り、不破が高調子で・名古屋が低調子であるべきところを、逆に取っていることにあります。もうひとつは、隼人の名古屋が、恐らく役の優美さを強調しようとする意図(優美さを出そうとして高調子に取ると云う意図もある)でしょうが、台詞を伸ばし気味に取って、二拍子のリズムを崩してしまっているせいです。(ただし本舞台にかかるといくらか持ち直しました。)ここは不破の台詞の二拍子に付かず離れず、しかし、台詞のテンポを名古屋が確実にリードして行く必要があります。(これは「勧進帳」の山伏問答のテンポを富樫がリードするのと同じことです、)まあ、そう云うところはありますけれども、それは今後の課題としておきましょう。まずは現行歌舞伎の伝えるところをしっかり学ぶことは、これは当然のことです。歌昇も隼人も初めての役に力いっぱい体当たりして、気持ちのいい舞台になりましたね。新悟の留女も手堅いところを見せてくれました。

(R3・9・9)


〇令和3年8月歌舞伎座:「伊達競曲輪鞘当」・その2

浮世柄比翼稲妻」は文政6年・1823・江戸市村座の初演で、不破伴左衛門と名古屋山三の世界と、幡随院長兵衛と白井権八の世界を綯い交ぜにしたものでした。16年前に出版されてベストセラーとなった山東京伝の「昔語稲妻草紙」を種本にして、歌舞伎で代々取り上げられてきたキャラクターを当世風俗のなかへ放り込んだのです。だから時代の枠組みを持っていますが、当然ながら根本は南北一流の生世話だと考えて良いものです。たまに「山三浪宅」が上演されることもありますが、もっぱら「鞘当」と「鈴ヶ森」が単独で取り上げられます。そうなると「鞘当」と「鈴ヶ森」がそれぞれ独立の幕として演出が洗いあげられて・肥大化し、「浮世柄」全体のことは次第に忘れられてしまうことも仕方がないことではあります

例えば「鞘当」ですが、不破と名古屋のキャラクターは、お国かぶきの昔から親しまれたものでした。元禄の初代団十郎も、「参会名護屋」(元禄10年・1697・江戸中村座)で不破を演じました。ちなみに本作は後に歌舞伎十八番に選定されることになる「暫」の原型であり、「鞘当」の趣向もそのように考えて良いです。不破は二代目団十郎に引き継がれて家の芸同然になって、「鞘当」の様式が確立していきます。歌舞伎十八番のなかに「不破」があることは、御存知の通りです。不破に敵役的な性格が濃いのは、四代目団十郎が実悪を得意としたことなどが影響しているそうです。文政6年「浮世柄」初演の不破を七代目団十郎に当てたのは、このような理由に拠るのです。

ところで歌舞伎の解説で、「鞘当」は「内容がない芝居だから・古劇の様式美と役者の容姿を愉しめばそれで良い」と云うようなことがよく書かれています。それは上記の通り「鞘当」が元禄歌舞伎の古色を伝えていると云うことからですが、「鞘当」を見取りで見る分には、まあそのように見ても一向差し支えないかも知れません。しかし、吉之助は内容がない芝居に付き合わされるのは叶わんし、見るからには多少であっても何らかの意味を見出したいと思います。

「鞘当」は、文政6年・1823・当時66歳の鶴屋南北が、当時からみれば100年以上も前になる、古(いにしえ)の元禄の「鞘当」の様式を衒(てら)って書いたものでした。「奇を衒う」と云うのは、気をひくために、わざと奇妙で風変りなことをしたりすること。当世風俗の「浮世柄」のなかに、擬古劇的な「鞘当」を意図的に挿入することの、「衒い」の意味を考える必要があります。当然元禄歌舞伎然とした芝居そのままであって良いはずがないのです。後期ロマン派のワーグナーが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなかで対位法やコラール形式を多用したとしても、それはバッハの時代の音楽とはまったく違うものとなります。これは当たり前のことなのです。現代から見れば、元禄(1700年前後)と文化文政(1820年前後)の違いなんてあってもないようなもので・どちらも似たような古劇の感触に思うかも知れませんが、南北は当世流の生世話の芝居のなかに古の「鞘当」の様式を放り込んで「奇を衒っている」わけですから、歌舞伎役者はそこのところをちゃんと仕分けて欲しいと思うのですねえ。これはもちろん今回の舞台だけのことを言っているのではありません。

つまり「鞘当」の不破と名古屋の渡り台詞は、もちろん元禄荒事のツラネを様式を引いたものですが、決して元禄歌舞伎そのままであってはならないわけなのです。様式にどっぷり浸ったような感触であっては困る。極端に云えば、「元禄歌舞伎らし」ければそれで良いのです。どこかに新しい写実の・生きの良さがあって、これが文化文政の南北の生世話に通じるところが感じられれば、面白くなるのではないでしょうか。文化文政期というのは、「成田屋の荒事なんて単純で内容がなくて、もう時代遅れで詰らない」という声が次第に出始めた時期でした。役者評判記にもそんなことが書かれています。このような観客の雰囲気を察知して、当時33歳であった七代目団十郎も、ケレン早替りや色悪とか、新たな芸域開拓を必死で模索せざるを得なかったのです。そんな時期に書かれたのが、この「鞘当」です。

このことは別の側面からも察せられます。三代目菊五郎(40歳)と七代目団十郎は仲違いしていましたが、「浮世柄」初演前年の顔見世興行で、五代目半四郎の仲裁により仲直りしました。「鞘当」は因縁の二人が対決し半四郎(48歳)が留女で出る趣向で書かれたのです。つまりこれは楽屋オチでもあったわけで、初演を見た観客は当然この経緯をよく知っていました。成田屋ッ・音羽屋ッと、両者の贔屓の観客の声援の応酬が凄かったでしょうねえ。最初のうちは様式めかした仰々しい雰囲気で始まったものが、次第に緊張が解けて、半四郎の留女の登場で一転して「今」風(生世話)の芝居に砕けていく、「鞘当」のなかに、そのような様式の大きな揺れ動きがあることが想像されます。これで擬古劇の「鞘当」が、「浮世柄」の生世話の枠組みにぴったり納まることになります。(この稿つづく)

(R3・9・7)


〇令和3年8月歌舞伎座:「伊達競曲輪鞘当」・その1

或る時、武智鉄二が七代目三津五郎に「六代目(菊五郎)のどこが、いちばん五代目(菊五郎)によく似ていますかね」と尋ねたそうです。すると三津五郎は即座に「それは声です」と答えて、「親子というのは、恐いものですねえ。目をつぶって聞いていると、五代目そっくりです。あんなに似るものですかねえ」と言ったそうです。六代目菊五郎の声は決して通りの良い声ではなかったようですが、遺された弁天小僧の録音など聞くと、菊五郎の台詞は低調子であったなと思います。この低調子は世話物では大きな武器になるわけですが、しかし、武智に拠れば、六代目の声は低調子ではあったけれど、うまく喉を使って結構高いところも響かせていたそうです。確かにそうでなければ、荒事の高調子の「車引」の梅王丸などを得意にすることは出来ぬはずです。世間ではどうも混同されている気配がありますが、「低調子」とは、声が小さいとか・声色が暗いと云うことではありません。声が低調子であることは悪いことではなく、そこは技術(と云うか喉の使い方)次第でどうにでもなるのです。

この逸話で推測されるのは、菊五郎の代々の家系が台詞が低調子であったと云うことです。このことは、「勧進帳」の弁慶と富樫をみれば、なるほどそうであったかと納得出来ます。九代目団十郎の高調子に対して、五代目菊五郎の低調子と云うことです。ちゃんと声のバランス設計がされているのです。実は、「鞘当」もそのように出来ています。初演(浮世柄比稲妻・文政6年・1823・江戸市村座)の時の配役は、不破が七代目団十郎・名古屋が三代目菊五郎でした。だから不破が高調子で・名古屋が低調子なのです。そこで不破の台詞をみると、冒頭の「遠からんものは音にも聞け・・」など高調子で朗々と発声されることを念頭に書かれていることが、一目瞭然です。これは成田屋代々の荒事のツラネの様式を衒(てら)っているわけです。「暫」のツラネと同じ様式なのです。

しかし、現行歌舞伎では、「勧進帳」も「鞘当」も、声のバランス設計がまったく混乱しています。富樫や名古屋を得意とした、大正〜昭和前期の名優・十五代目羽左衛門は、高調子でした。このイメージが現行歌舞伎にまでそのまま引き継がれてしまっているからです。そもそも歌舞伎役者は芝居のなかの役の間の声のバランスということをあまり考えないみたいですねえ。こう云うことは、様式感覚に直結する問題なんですがね。

残念ながら、今回(令和3年8月歌舞伎座)の「鞘当」も、歌昇の不破が低調子・隼人の名古屋が高調子になっていて、声のバランス設計が逆になっています。このため、二人が対決する渡り台詞が、何だか感覚的にスカッと割り切れない不満を感じます。ただし吉之助は配役が逆だとか言いたいのではありません。歌昇も隼人も頑張って、良いところを見せています。姿形はなかなかだし、声が通っていることは、良いことです。工夫すべきは、喉の使い方です。

台詞を「高調子にする」とは、音階のキー(調性)を高めに取ると云うことです。低調子であればキーを低めに取る。役が求めるキーに、自分の喉のキーを合わせれば良いのです。二人で本読みする時に、台詞の字句がどういう音の流れ(旋律)を求めているか、音階のキー(調)の探りを入れながら、互いにキーのバランスを調整していくことが大事です。音楽で云えば、チューニング(調律)みたいなものです。「鞘当」の様式感覚を正しく掴んでいれば、不破と名古屋の渡り台詞は、高調子と低調子の交錯となり、ユラユラ揺れる感覚に聞こえるはずです。今回の舞台では、台詞が高くなるべきところで高まらず、低くなるべきところが埋まってしまっています。だから流れが平坦になって、煮え切らない感覚になります。歌昇は心持ちキーを上げ気味に取る、隼人はキーを下げ気味に取る、そうするだけでもバランスはかなり改善するはずです。(この稿つづく)

(R3・9・3)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その4

前節までで論旨はほぼ尽くされていますが、いくつか補足しておきます。まず「君は見事にカッコよく死ねるか」と云うことですが、これは「義賢最後」から「実盛物語」・さらに「平家物語・実盛最後」までを貫くメッセージと考えられますが、例えば義賢が派手な立ち廻りをしてカッコ良く死ぬ、実盛が髪を黒髪に染めて若やいだ姿でカッコ良く死ぬ、そのような・何と云いますかね・明るい側面だけを考えてはいけないということです。「カッコよく死ぬ」ということは、「無慙に死ぬ」ということの裏腹です。だから「あっぱれ」すなわち「あはれ」なのです。(これはついては、別稿「かぶき的心情の研究・1」を参照ください。「あはれ」とは、Ahと云う声を作り出すものです。)カッコ良さの裏には、常に陰惨さがつきまといます。後世の武士たちは「もののあはれ」を強く意識して、実盛の無慙な死こそ武士の理想の死に方であると肝に念じたわけです。

もうひとつは「反復」は、寿永2年6月加賀国篠原での実盛の死を以て終わるわけではないと云うことです。この反復は、ずっと続くことになるのです。まず近いところでは、この約半年後、寿永3年1月の近江国粟津ヶ原での、木曽義仲の死において反復されます。「平家物語・巻第九・木曽の最後」をご覧ください。巴御前と別れた後、義仲が乳母子に当たる今井四郎兼平とともに、死に場所を求めて粟津ヶ原を彷徨います。この時、篠原の戦いでの実盛の見事な死が、義仲の脳裏にチラつかなかったはずはありません。「君は見事にカッコよく死ねるか」と云うメッセージが、義仲に対しても突き付けられているのです。ですから前述した通り、史実の実盛が琵琶湖周辺と格別縁が深いとも思われないのに、浄瑠璃作者が「実盛物語」の舞台を近江国手孕村に設定したもっとも強い動機は、近江国が義仲が戦死した地であると云うことであったに違いありません。これが「実盛物語」の発想の出発点なのです。さらに反復は、後世の武士たちによって引き継がれて行きます。例えば豊臣秀頼の臣・木村重成が、大坂夏の陣で討ち死にする前日の晩に、鎧兜に香を炊き込めて出陣したという話しもまた、この反復のひとつであったと考えて良いのです。

以上が本歌取りの趣向に絡んだ「実盛物語」の構造ですが、作者は実盛に28年後の篠原での死を予告させるために綿密な段取りを組んでおり、ここでまったく別系統の反復を使っています。それは「俺は元々源氏に仕えた者であるのに・今は生きるためにやむなく平家の禄を食んでいる」という「負い目」で、この負い目が事ある度に実盛を責めさいなむ、「・・またしても」と云うように。それが「実盛物語」の物語なのです。詳細については、別稿「実盛物語における反復の構造」、あるいは「実盛の負い目」をご覧ください。この反復は実に巧妙に仕組まれています。実盛が「ムハヽヽヽなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」が爽やかに語ることが、確かに必然の如く感じられます。だから、作者としては、父を亡くした幼少の義仲を実盛が庇護して木曽に送り届けた当時に既に実盛の「負い目」が在ったという設定に、どうしてもしなければならなかったのです。その必要から「源平布引滝」の作者による、史実及び時系列の、大胆な改変が始まったのです。浄瑠璃作者は好い加減な態度で史実をちょこちょこいじったわけではありません。真摯に歴史に対峙しており、史実で変えていいことと、変えてはいけないことの見極めは、きっちり付けているのです。このことに気が付くと、キチンと背を正して丸本を読まねばならぬなあと、改めて感じますねえ。

(R3・9・1)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その3

本歌取りにも色んな技法がありますが、本稿では「反復(重ねる)」の技法を取り上げることにします。例えばここで手をパーンとひとつ叩いてみます。「これが反復です」と言ったら、「?」となるだろうと思います。しかし、パーン・パーンと手を続けてふたつ叩くならば、これが反復だと納得するでしょう。(ここで最初のパーンを拍Aとし、次のパーンを拍Bと呼ぶことにします。)ただし厳密に云えば、たまたま偶然に次の音が鳴る場合だってあるし、拍Bの音色や音程・音量が最初の拍Aと違ったりすると、これが反復だと受け取れない場合もあり得ます。だからそれが「反復」であると認識されるためには、両者の間に何らかの関連性が感じられねばなりません。連関性が感じられるならば、例え異なる楽器の音であっても、それは「反復」であると認識することが出来るはずです。

もうひとつ大事なことは、「反復」という行為が完成するためには、常に拍Bが存在しなければならないということです。拍Aが投げかけたメッセージを、拍Bが受け取る、そして受け取った証(あかし、LINEの既読の印みたいなものです)を拍Aに返す、これで反復が完成するのです。メッセージを受け取ってもらえないと、拍Aは宙ぶらりんになってしまいます。だから拍Aに反復の意味を与えるのは、拍Bであると云えると思います。反復は連続すれば、ますますその意味が強化されることになりますが、とりあえず拍Aと拍Bのふたつの拍があれば、反復は成立します。だから二拍が反復の最低単位です。反復が成立するか・しないかは、拍Aと拍Bと云う、二拍の関係性で決まるのです。しかし、反復の意味を与えるのは、常に2拍目(拍B)です。つまり何が反復されたかは、「後で分かる」と云うことです。

ここで最初の話に戻りますけど、手をパーンとひとつ叩いて・それだけで「これが反復です」と言える場合があるとすれば、一体それはどう云う場合でしょうか?拍Bは、今はまだ鳴っていないが、10分先のことか・1ヶ月先か・或いは28年先のことか・それさえ分からなくても、いつか必ず拍Bが反復されると、そのような確信がある時です。音はパーンとひとつしか鳴っていなくても、それは次が未だ鳴っていないと云うだけのことです。拍Bは、必ず鳴る。この時、未来の拍Bに対して、或るメッセージが投げかけられています。そして未来の拍Bから拍Aに向けて、反復の証が返されています。このことが第三者(観客)にもはっきり見える場合があるのです。

以上のことを「源平布引滝」に適用してみますが、まず言えることは、三段目「実盛物語」(拍B)が、二段目「義賢最後」(拍A)に意味を与えると云うことです。「実盛物語」を理解することで、実盛が義賢から何を受け取ったかが明らかになるのです。(これは芝居の進行からすると、未来から過去へ意味を返すということなので、「義賢最後」だけであるとドラマが閉じた感覚が若干乏しい印象になるのは、これが原因しています。吉之助には、切場と云うよりも・何だか大端場みたいな感じがしてしまいますねえ。)死に際し義賢は、実盛に向けて或るメッセージを投げます。それは、俺は見事に死んでみせたぞ、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」ということです。(別稿「義賢から実盛へのメッセージ」をご参照ください。)これに対し、「実盛物語」で実盛が受け取りの証を返します。これで「義賢最後」と「実盛物語」との間に、「反復」の行為が完成することになるのです。その証とは、幕切れに実盛が九郎助と太郎吉に云う台詞、

「ムハヽヽヽなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」

です。同時に実盛は、28年後の・未来の自分に向けて、メッセージを投げたことになります。「俺も卑怯未練なところを見せず・必ず見事にカッコよく死んで見せるぞ」ということです。28年後に鳴ることになる拍Cは、「実盛物語」では描かれません。しかし、不思議なことですが、拍Cが未だ鳴らないはずなのに、「実盛物語」には、はっきりドラマが閉じた感覚がありますねえ。これこそ本作が傑作である所以ですが、なぜならば観客が28年後に実盛がそうする史実を知っているからです。受け取りの証はもうあるのも同然です。その典拠は「平家物語・実盛最後」にある詞章、

『手塚太郎馳せ来る郎等に首取らせ木曽殿の御前に参つて、「光盛こそ奇異の曲者組んで参つて候へ。大将かと見候へば続く勢も候はず。侍かと見候へば錦の直垂を着て候ひつるが、名乗れ名乗れと責め候ひつれども、つひに名乗り候はず。声は坂東声にて候ひつる」と申しければ、木曽殿、「あつぱれこれは斎藤別当にてあるござんなれ。それならば義仲が上野へ越えやりし時幼い目に見しかば白髪の霞苧はつしぞ。今は定めて白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎年比馴れ遊んで知りたるらんぞ。樋口呼べ。」とて召されけり。樋口次郎ただ一目見て、「あな無慙長井斎藤別当にて候ひけり」とて涙をはらはらと流す。』(平家物語・巻第七の八:実盛最後)

です。「実盛物語」(拍B)に意味を与えるのは、「平家物語・実盛最後」(未来の・未だ鳴らない拍C)です。江戸時代の民衆にとって必須教養と云えるものでした。すなわち、浄瑠璃作者のアイデアは、寿永2年(1183)加賀国篠原での実盛の死という史実から発し、時系列としてはこれを未来から過去へ遡るわけですが、「平家物語」と「源平盛衰記」を本歌として、これを逆から「重ねて行く(反復する)」形で、「実盛物語」から「義賢最後」へ本歌取りしてみせたことになります。拍C-B-Aに共通したメッセージとは、死と対峙した時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うことです。これが「源平布引滝」の本歌取りの構造なのです。(この稿つづく)

(R3・8・31)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その2

さらに、これが「実盛物語」の舞台を琵琶湖周辺とした理由の三つ目になりますが、近江八景「堅田の落雁」で有名な景勝の地・満月寺浮世堂から少し南へ歩いた湖畔「おとせの浜」(現在の滋賀県堅田市)に伝わる伝承があります。それに拠ると、平治の乱(平治元年・1159)の時、堅田出身のおとせと云う女性が、奉公先である源氏の屋敷から白旗を守ろうとして京都を脱出しました。追っ手に追われたおとせは大津辺りで琵琶湖に飛び込みましたが、平家の侍に斬られて死にました。その後、白旗を握ったままの、おとせの片腕が流れ着いたのが、おとせの浜であったそうです。村人がおとせの忠義を讃え、その霊を慰めるために築いた塚が、「おとせの石」だそうです。浄瑠璃作者の頭のなかで、おとせの片腕と「手孕」-「手塚」へと連想が繋がって行きます。この伝承が、白旗を守ろうと琵琶湖を泳いで逃げる小万が、竹生島詣の平家の御座船と遭遇し・乗り合わせた実盛に腕を斬られると云う、実盛の物語りに出てくる筋の本説となるものです。手孕村にある九郎助住家から見ると、おとせの浜は琵琶湖の対岸に位置するので・ちょっと離れてはいますが・まあそう堅いことは言わないこと、同じ琵琶湖周辺に伝わる伝承だと云うことですね。この他「源平布引滝」では近江八景「矢橋帰帆」でも知られる矢橋(やばせ・現在の滋賀県草津市)辺りから小万を琵琶湖に飛び込ませるなど、琵琶湖周辺の地名や伝承を散りばめながら、筋を巧みに織り上げています。

これらのことから、史実の実盛からすると特にご縁が深そうでもない琵琶湖周辺が「実盛物語」の舞台に選ばれたわけです。と云うことは、「実盛物語」の舞台を近江国手孕村(現在の滋賀県栗東市手原)に決めた以上、二段目「義賢最後」で、史実では義賢が討たれた地は武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)であるところを、京都白河の館で討たれたと作者が改変した理由も、義賢館を九郎助住家から近いところにしたい事情から来るのでしょうねえ。九郎助と太郎吉は身重の葵御前を連れて京都から逢坂の関を通り大津を経て街道を下って手孕村へ落ちます。(道行の場があります。)このくらいの距離が適当なわけです。つまり二段目「義賢最後」で、時は平治の乱以後のことで・その頃平家は横暴を極めていた・源氏の頭領義朝は討たれて今はなく・実盛もやむなく平家に仕えていた・この時義賢の館は京都に在った・義賢は奢る平家に反抗して討たれたという一連の虚構(史実・或いは時系列の改変)は、どれもすべて三段目「実盛物語」の要請から来ることが明らかなのです。

このことは、二段目「義賢最後」を本歌取りの趣向から見た場合に、大きな意味を持ちます。本歌取りとは、元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて・どこを変えないか、そのセンスを愉しむ遊びです。本歌取りには、置き換える・ひっくり返す・重ねる・見立てる・ずらすなど色んな技法があります。本稿ではそれらを逐一解説する余裕はありませんが、ここでは「義賢最後」に関することだけ触れます。本歌取りでは「元歌(史実)のどこをどのように変えたか」と云う点が大事な場合も多々ありますが、「義賢最後」においてはそうではなく・それらはすべて三段目の要請から来るわけですから、史実を変えたところ(義賢は平家に討たれたという虚構など)は二段目のドラマの本質的なところではないのです。

「義賢最後」を単独で読むならば、源氏である義賢が横暴極まる平家に対して敢然と反抗したドラマであると読むことはもちろん出来ます。その読みが間違いだとは決して言えないですが、しかし、後段・三段目「実盛物語」を見据えて考えれば、二段目のドラマの主題がそこにないことは明らかなのです。そこは「変えても良かった史実」に係わることだからです。(史実では義賢は源氏の内輪争いで討たれたのです。)

「義賢最後」では、むしろ「元歌(史実)のどこを変えずに残したのか」の方が重要になって来ます。変えなかった史実とは、「無残に討たれた義賢の遺児を実盛が守ることになる」ということです。考えて見ればこの件も二段目「義賢最後」では完全に成就したと言えない(だから単発のドラマとして物足りないことになる)のですが、葵御前のお腹のなかの赤ちゃん(後の木曽義仲)と白旗が実盛の手元に届けられるべく、それぞれ九郎助と小万に託されて段取りが付いたところで、安心したかのようにガクッと力尽きて義賢は壮絶な最後を遂げます。このことが重要なのです。初演当時の大坂町人も木曽義仲の父が誰だかなんて詳しいことは知らなかったと思いますが、「父を亡くした幼少の義仲を実盛が守った」という史実は皆知っていました。さらに「成人して挙兵した義仲軍と戦って老齢の実盛が討ち死にした」という史実も皆が知っていました。だからそこの史実は決して変えられません。実盛を描くために、そこは絶対「変えてはならない史実」なのです。ドラマはその「変えられないところ」へ向かって紆余曲折しながらも確実に進んで行きます。その後も白旗を持った小万に危難が襲い掛かりますが、そこのところは必ず、成るように成るのです。

元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて、どこを変えないか、そこを見極めることが、新古今以後の本歌取りではとても大事なことになります。そこで作者のセンスが問われます。(読み手の力量が問われるということでもあります。)これは、江戸の人形浄瑠璃においてもまったく同じことです。(この稿つづく)

(R3・8・29)


〇「源平布引滝」と本歌取りの趣向・その1

令和3年8月歌舞伎座での「義賢最後」観劇随想において、浄瑠璃作者が「源平布引滝」で史実をどのように本歌取りで取り入れ、そこにどんな演劇的意味を与えようとしたかを考えました。作者は史実を大胆に改変し、平治の乱で平家が政権を取った後に・源義賢が平家に討たれて・今はやむなく平家に仕える斎藤実盛が源氏への忠誠を忘れず義賢の遺児(後の木曽義仲)を木曽へ送り届けたと云う虚構をでっちあげたわけですが、それは三段目「実盛物語」の要請から来るのです。それは、駒王丸を木曽に送り届けた実盛が、さらに28年後の未来に加賀国篠原の地で成人した義仲の軍勢に覚悟して討たれることになる因縁のドラマの伏線とするために、実盛が元々源氏方でありながら・今は平家の禄を食んでいると云う強い「負い目」を背負う設定がどうしても必要であったからです。「実盛物語」のドラマを読む時、実盛の「負い目」が鍵であることが、このことで分かります。(別稿「実盛の負い目」を参照ください。)

そこで本稿は補足として、後段「実盛物語」の方から「義賢最後」を読む形で、浄瑠璃作者の作劇の秘密(本歌取りの趣向)をもう少し見てみます。明治29年出版の「浄曲百番 語り物の訳」には、「綿繰馬の段(実盛物語)」について、「名前は有名、事実は無根。例に依って例の如き歴史的の夢幻劇。」と書いてあります。これはまあその通りかも知れませんが、作者は決して出まかせの芝居を書いたわけではなく、題材に関して作者は膨大な文献に当たり・綿密な情報収集をして、史実の改変・筋の趣向にはそれぞれにそれなりの理屈があり、決して好い加減に芝居を書いていないと云うことは言っておきたいと思います。(注:これは「実盛物語」だけのことではなく、近松門左衛門から竹田出雲・さらに近松半二に至るまで、作者が実に綿密に調査して作品を書いていることには常に驚かされます。)

ところで、史実の実盛は、琵琶湖周辺に格別縁が深いようにも思われません。それなのに作者はどうして「実盛物語」(九郎助住家)の舞台に琵琶湖近くを選んだのですかねえ、考えて見ればこれは不思議なことです。理由はいくつか考えられますが、吉之助の推察では、まず理由のひとつは、木曽義仲が近江国粟津ヶ原(現在の滋賀県大津市粟津周辺)で戦死したと云う史実に拠ると思います。それは寿永3年(1184)1月20日のことでした。義仲の墓が、現在・大津市馬場1丁目にある義仲寺(ぎちゅうじ)にあることは、世間によく知られています。(なお義仲寺は松尾芭蕉の墓があるお寺としても有名です。)

そこから「実盛物語」の有力候補に琵琶湖周辺が挙がったと思いますが、さらに現地周辺を調べてみると、興味深い伝説が見付かります。それは「手孕説話(てばらみせつわ)」と呼ばれるものです。女性が、その身体に男性の手が接触したことが原因で妊娠し、片手を産んだと云う古い伝説で、似たような説話が各地に伝承が残っています。神の来訪が子孫を残すという考え方で、来訪の痕跡を手あるいは足に象徴させたと云うことだそうです。そのひとつが、近江国手孕村(てばらみむら、現在の滋賀県栗東市手原)に伝わるものです。恐らくこの手孕説話を聞いて、作者の脳裏にストーリーがピーンと閃いたのです。なぜならば、寿永2年(1183)6月、篠原の戦いで平家方として参戦した斎藤実盛が討ち死にした時、実盛の首を取った木曽側の武将の名前が手塚光盛であったからです。「手塚」と「手孕」が繋がって、太郎吉(後の手塚光盛)の出身地を近江国手孕村にしようと云うアイデアが生まれたのでしょう。これが理由の二つ目です(なお史実の手塚光盛の出生は定かではないですが、「源平盛衰記」では信濃国諏訪の出身とされているようです。)

「実盛物語」では、葵御前が腕(かいな)を産んだ・産まぬと云う話しになって、実盛が瀬尾に向かってまことしやかに腕の講釈を始めます。これを見ると、

「アイヤ例(ため)しないとはもうされず。かゝる不思議も世にあること。(中略)ホヽもうさぬとて御存じあらん。唐土楚国の后桃容夫人、常にあつきを苦しんで鉄(くろがね)の柱をいだく。その精霊宿って鉄丸を産む。陰陽師占ふて剣に打たす、干将莫耶が剣サこれなり。察するところ葵御前も常に積衆(しやくじゆ)の愁あって、導引鍼医(はりい)の手先を借り、全快の心通じ自然と孕めるものならん。ハテあらそはれぬ天地の道理。今よりこの所を手孕村と名づくべし」

「実盛物語」では、近江国手孕村の地名を実盛が名付けたことになっています。葵御前が産んだ腕(実は実盛が斬り落とした小万の片腕)を埋めた塚が、「手塚」の苗字の由来だというわけです。もちろんこれも浄瑠璃作者の創作です。(この稿つづく)

(R3・8・27)


〇令和3年8月歌舞伎座:「源平布引滝〜義賢最後」・その3

そう云うわけで、「義賢最後」は単体のドラマとして見ると心もとないところがありますが、後続の「実盛物語」を連ねて見据えることで、初めて共通した主題がはっきりと見えることになるのです。その主題とは、もし目の前に死を突き付けられた時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うことです。「如何にカッコよく死ぬか」と云うことは、つまり裏返せば「如何にカッコよく生きるか」ということでもあるのです。その通りに義賢は見事に死んでみせました。一方、実盛は28年後の未来にカッコ良く死ぬことを予告して、実際その通り見事に死んでみせることになるのです。未来のことは芝居には描かれませんが、間違いなく実盛はそうすることを我々観客は知っています。

ですから前節で吉之助は「義賢最後」は最後の派手な立ち廻りでやっとこさ存在意義を主張している感があると皮肉を書きましたけれど、多分ドラマの核心がそこ(立ち廻り)にあると云うことなのでしょうねえ。押し寄せる平家の軍勢に義賢が甲冑を用いず素襖のままで戦うのは、「俺は死ぬことなんかちっとも恐くないんだぞ、しかし、ただ無抵抗で殺されたのでは武士としての面目が立たぬ、だから出来るところで精一杯の抵抗をして死んでやろうじゃないか」ということです。そこに義賢の「ええカッコしい」の、死の美学があるわけです。

今回(令和3年8月歌舞伎座)の、幸四郎初役による「義賢最後」ですが、立ち廻りと仏倒しの幕切れは悲壮感が溢れて、なかなか良い出来ではなかったでしょうか。死ぬ覚悟は出来ているが、大事の白旗を誰か信頼できる人物に預けるまでは絶対死ねないと云う熱い思いは確かに伝わって来ました。結局、白旗を小万に渡して義賢は力尽きるわけです。本作は義太夫狂言としてのコクがさほどのものではないですが、幸四郎の台詞の低調子が義太夫狂言の雰囲気に似合っています。近年は義太夫のトーンから大きく外れた高調子の台詞を聞くことが多いので、幸四郎の低調子は結構なことです。特に前半の義賢は病鉢巻をして病気の態を装っていることもあって、この低調子がよく似合います。三度目の出からは仮病をやめるので若干トーンが高めになりますが・まあそれはいいとしても、別れを渋る葵御前を叱る台詞などは、欲を云えばここはもう少し息が詰んで欲しいと云うか、ちょっと淡泊に聞こえる場面が散見されます。ここは音遣いに更なる工夫が必要です。義賢ならばこれでもまあ良いとしても、例えば来月(9月歌舞伎座)予定の佐々木盛綱(盛綱陣屋)であると、特に首実検後の長台詞などは、これでは物足りないことになるでしょう。幸四郎ももう48歳か、義太夫狂言の音遣いについては・幸四郎だけのことではないですが、これは至急の課題ですね。

梅枝の小万については古風な風貌が生きてなかなか良い味を醸し出しています。この「義賢最後」の小万から「実盛物語」の小万へ線を引いてみるだけで、「源平布引滝」のなかで小万が負う役割の重さは十分察せられると思いますが、半通し上演で矢橋と御座船をダイジェストであっても出すことが出来れば、小万を女武道の大きな役に仕立てることが出来るでしょう。前節で「投函された手紙は必ず宛先に届く」というラカンのテーゼを紹介しましたが、白旗に託された義賢からのメッセージを実盛に届けるのが、まさに小万の役割なのです。

(R3・8・26)


〇令和3年8月歌舞伎座:「源平布引滝〜義賢最後」・その2

吉之助が推察するに、この「源平布引滝」のなかで、史実の時系列を大胆に改変し、義賢を討ったのが源氏ではなく平家であるとしたのは、三段目「実盛物語」(文楽では「九郎助住家」)からの要請であろうと思います。寿永2年(1183)北国篠原の戦いで、木曽義仲追討のため平家方で出陣した斎藤実盛は老齢の身ながら奮戦しますが、ついに義仲の武将・手塚光盛によって討ち取られました。首実検の際にもすぐには実盛本人とは分からなかったのですが、生前の実盛が「最後こそ若々しく戦いたい」と語っていたことを樋口次郎から聞いた義仲が首を洗わせたところ、黒髪がみるみるうちに白髪に変わりました。樋口は「あな無残なや、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」と呻き、命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだそうです。「実盛物語」はこの逸話の謎解きの体裁を取っています。実盛がそのような行為を取ったのは、かつて源氏に仕えたのに・今はやむなく平家の禄を食んで居るという「負い目」が実盛にあり、今源氏が勢いを盛り返したけれど、この期に及んであちらに付き・こちらに付くと云う見苦しいことはしたくない、自分は潔く見事に死んで行きたいと云う気持ちからでした。このように名を惜しんで散っていった武士が少なからずいたのです。(別稿「梶原景時の負い目」をご参照ください。梶原は名よりも実を取った武士ですが、当時は勢いのある方に付くのが当たり前でした。)

実盛の死は、後世の武士たちが「理想の死に方」と賛美したものです。「実盛物語」で浄瑠璃作者が意図したことは、実盛の「負い目」の根拠を描くことでした。「実盛物語」のなかで実盛が駒王丸(後の義仲)の出生に絡み・その命を助け・木曽に送り届ける事情を描く時、史実通りに当時の実盛が源氏方であったとすると、実盛の「負い目」の根拠が弱く見えてしまいます。「実盛物語」を必然のドラマとするために、ここはどうしても当時の実盛が平家の禄を食んでいた状況を作る必要があります。これが作者が無理を承知で上述の史実の大胆な改変をした理由です。

なお別稿「実盛物語における反復の構造」のなかで、実盛が28年後の篠原での死を予告して・その通りに死ぬ(つまり未来に向けての「反復」)という構造を論じました。ここで吉之助が「28年後」としたのは、実盛が駒王丸を木曽に送り届けた久寿2年(1155)から、北国篠原の戦いがあった寿永2年(1183)までの歳月(28年)を便宜上使用しているからです。浄瑠璃では平治の乱(年号としては平治元年・1159になりますが)以後のこととして、時系列を大胆に入れ替えて、年号を意図的にボカしていますから、そこのところは曖昧です。だから厳密に云うならば、芝居のなかでは「実盛物語」から「大まかに28年近辺の歳月」を経て実盛の死となると云うことかも知れませんね。

実盛が駒王丸を木曽に送り届けたのは、久寿2年(1155)の大蔵合戦で源義賢が源氏内部の主導権争いで討ち死にした直後のことですから、浄瑠璃作者としては、二段目「義賢最後」において、義賢も、源氏ではなくて平家に討たれたことにしないと、辻褄が合わないことになります。「義賢最後」だけを単体で見た場合に、わざわざ史実を改変せねばならない理由は二段目からは格別見当たりません。

「義賢最後」は単体のドラマとして構成面で弱いところがありますが、後段「実盛物語」へ向けて、白旗と駒王丸(九郎助住家で生まれる)を軸として筋が繋がるので、間幕に矢橋と竹生島遊覧(御座船)を挟んで三幕構成に仕立てれば、通し狂言としてなかなか面白いものに出来ると思います。そのような半通し上演を昭和55年(1980)10月池袋・サンシャイン劇場で二代目猿翁(当時は三代目猿之助)が試みたことがありますが、とても興味深いものでした。この半通し上演の利点のひとつは、「実盛物語」だけだとチョイ役に見えかねない小万をとても重要な役に出来ることです。

もうひとつ、「源平布引滝」半通し上演の大きな利点は、構成が弱いために・ただ最後に派手な立ち廻りがあることでやっとこさ存在意義を主張している感のある「義賢最後」を、「実盛物語」としっかり結び付けることで、ドラマとして正しく立てることが出来ることだと思います。「実盛物語」に「(28年後の未来に)死ぬ時には、未練なところを見せず・美しく見事に死んで行きたい」と云う実盛の美学があるならば、「義賢最後」は、もし現実として目の前に死を突き付けられた時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うメッセージを見せているのです。その通り義賢は見事に散って見せました。これが二段目のドラマなのです。もしかしたら浄瑠璃作者は、この義賢のメッセージを、三段目の実盛に向けて発したのかも知れませんねえ。このメッセージを受けて実盛は、28年後の未来に見事に散って見せることを予告するのです。メッセージは必ず「届く」ものです。ジャック・ラカンのテーゼとして、「投函された手紙は必ず宛先に届く」と云うのがあります。実盛のメッセージも、28年後の未来の宛先に届くことになります。それはどういう過程を経ようが、必ず「成る」ものです。(この稿つづく)

(R3・8・24)


〇令和3年8月歌舞伎座:「源平布引滝〜義賢最後」・その1

歌舞伎は筋が荒唐無稽で史実に則していないとはよく云われることですが、寄せ集めた史実や伝説の断片を組み合わせて独自の筋を編み上げるのは、相当に歴史センスがないと容易に出来るものではないと思うのですね。和歌には本歌取りと云って、元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて・どこを変えないか、そのセンスを愉しむ遊びがありますが、作劇の愉しみも似たようなものです。史実のどこを変えて・どこを変えないかによって、劇作家の力量が問われます。真山青果と云えば時代考証がしっかりした作家と云うイメージですが、「元禄忠臣蔵・伏見橦木町」初演(昭和14年・1939・東京劇場)の時に、或る歴史学者が「元禄15年3月のこの時期には堀部安兵衛は江戸にいたはずで・京都にいた証拠はない、大方この安兵衛は飛行機で京都へ飛んだのだろう」と皮肉を書いたそうです。青果は大いに憤慨して、「かかる些事まで一々史実呼ばわりされたら、到底脚本は書けなくなる」と書いています。(真山青果:「自作覚書」・昭和14年談話) 堀部安兵衛は、誰もが知る四十七士のなかの傑物であり熱血漢です。史実であるかないかは兎も角として、その安兵衛を内蔵助の遊興三昧の場に登場させたところに、青果がどういう演劇的役割を期待したか、大事なことはその意図を読み取ることであろうと思います。もちろん改変の内容にも拠りますがね。

「源平布引滝」(延享2年・1749・大坂竹本座初演)は時代浄瑠璃としては各段の主題の一貫性に難があって決して上作とはされていないようですが、ベテラン作者の並木千柳・三好松洛だけに、史実・伝説を巧みに組み合わせた手腕に確かに見るべきものがあります。ところで本作の重要人物になる(ただし本作ではまだ赤ちゃんであるので活躍はしませんが)木曽義仲のことは、「平家物語」・「源平盛衰記」に親しんでいた当時の大坂町人も誰もが知っていたはずです。一方、義仲の父親のことになると、よほどの歴史好きでも知らない人が多いだろうと思います。実は吉之助もそうでした。三段目「実盛物語」が史実通りであるとは決して思いもしませんが、二段目「義賢最後」の方はまあ大筋はそんなものだろうと疑いもしませんでした。ところが実は「義賢最後」の方も全然史実に則してはいないのです。しかも些細な改変ではなく、「へえ?そこを変えたのですか」と驚く改変がされています。

丸本を見ると「源平布引滝」は後白河院の世と記されていますが、正確な年号はわざとボカされています。しかし、芝居を見ると、源氏の頭領・源義朝はすでに長田に討たれ・平家は全盛の世にあり横暴の限りを尽くしているとありますから、平治の乱(平治元年・1159)からそう間もない時期のことであろうと大体推察が出来ます。ところが木曽義仲の父・源義賢の史実を調べてみると、源義賢が死んだのは久寿2年(1155)のことで、これはつまり平治の乱の4年も前のことなのです。この時期には平家はまだ天下を完全に掌握してはいません。義朝はもちろん生きています。久寿2年8月、源義賢は武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)にある館を、義朝の長男・つまり義賢にとって甥に当たる源義平に急襲されて討ち死にしました。享年30歳前後。つまり義賢を討ったのは平家ではなくて、源氏内部の主導権争いの結果であったと云うことです。この時、大蔵館にいた2歳になる義賢の次男・駒王丸は、斎藤実盛らの計らいによって、信濃木曽谷の中原兼遠の元に送り届けられて、後に成人して源義仲(木曽義仲)となります。これが史実です。

芝居では平家が京都白河にある義賢館を攻めて・これを討ったことになっていますが、埼玉県にあった大蔵館を京都に移すくらいの改変は些細な事としても、これを平家の仕業にしたのは吉之助には驚きの改変で、これは「忠臣蔵」を描くのに内匠頭が殿中で斬ったのが上野介ではなくて別の人物でしたくらいの重大な改変ではないかと思いますねえ。それでも「義賢最後」だけのことならばそもそも義賢のことをそれほど知らないからまだ良いかも知れませんが、その影響が後段の「実盛物語」にまで及ぶことになるので、困ったことになります。「実盛物語」では元々源氏に仕えていたのが・生きるために今は心ならずも自分は平家に仕えていると云う「負い目」が斎藤実盛のドラマの根本にあるわけですが、史実ではそれはまったくない(駒王丸を木曽に送り届けた時点の実盛は源義朝配下であり源氏方であった)と云うことだからです。

そこでハタッと考えてしまうわけですが、ここは冷静になって、「源平布引滝」での史実の時系列の大胆な改変、義賢を討ったのが源氏でなくて平家であったと改変した「本歌取り」の趣向によって、浄瑠璃作者(並木千柳・三好松洛)はどういう演劇的意味を狙ったのか、そこを考えることが大事であるということですね。(この稿つづく)

(R3・8・22)


〇エリザベートの「うっせいわ」

暑い、暑いですねえ。吉之助は気温30℃を超えると頭が働かなくなるので、今回の雑談はYoutube映像の紹介でお茶を濁しますが、これはなかなかパンチのある映像です。この映像の作者の、かちひろこ(可知寛子)さんは本職のミュージカル女優だそうです。歌唱力はもちろん素晴らしいが、替え歌の歌詞がなかなかのものです。これ自宅での・手作り映像だそうですけど、上手いものですねえ。

原曲の「うっせいわ」というのは、Adoさんと云う・現在18歳の女性歌手の歌だそうです。そちらの方面に無関心な吉之助はこの映像で初めて知りました。昨年(2020)10月にリリースされて現在も大ヒット中の曲だそうです。なるほど現代の若者の気分はこう云う感じなのだろうなあと納得させられますが、そちらの原曲ではなく、かちひろこさんの替え歌の方を紹介するのは、19世紀のハプスブルク王家のエリザベート后妃(エリザベートが暗殺されたのは1898年)が置かれた緊迫した政治的状況と、華やかだけど慣習・仕来りに縛られた窮屈な宮廷生活、コロナ緊急事態で国民が自粛生活を強いられる傍らでオリンピックをやっていると云う・2021年のこの奇妙な状況とは、もちろん外見的には全然異なるようだけれども、「うっせい、うっせいわ」というイライラした気分で何となく連続している、多分現在の方がもっと複合的で・どうしようもなくなっているというところが、この映像を見るとよく実感できるからです。だからAdoさんの原曲のパロディでもなく、「エリザベート」のパロディでもなく、見事に綯い交ぜの面白さを見せているということです。吉之助風にいえば、裂け目がはっきりしてエッジが立っているということです。(別稿「四代目鶴屋南北と現代」をご参照ください。)

魅惑のかちひろこ:エリザベートの気持ちになって「うっせいわ/Ado」歌ってみた

本サイトは歌舞伎のサイトですから付け加えますと、この映像でエリザベートが歌っている気分というのは、これをそのまま「本朝廿四孝・十種香」の八重垣姫や、「桜姫東文章・岩淵庵室」の桜姫の気分に置き換えても良いものです。もちろん歌舞伎は古典ですから守るべき様式はしっかり守らねばなりませんが、古典的に納まり返っちゃうのではなく、その古典的な枠組みを破綻させるような熱いものを内面に持つことで、古典はヴィヴィッドなものに出来るのです。この映像には、そのようなヒントがあると思いますね。

(R3・8・4)


〇令和3年6月歌舞伎座:「銘作左小刀〜京人形」

「京人形」は、廓で見染めた小車太夫のことが忘れられない甚五郎が、太夫に生き写しの人形を作りますが、その人形に魂が入って突然動き出す・・・と云うことで・どこかメルヒェンチックな趣きがしますね。終わりの方で甚五郎の右腕が切り落とされても、アハハ・・それで「左」甚五郎になったと云うオチね・・と云うことで愉しく見てしまいます。まあ「京人形」は、そう云う感じで見れば十分なのです。しかし、よくよく考えて見ると、名工の右腕を切り落とすなんて由々しき事ではある。そう云うところを、後で奴照平に「誤解でした、申し訳けない」と謝られたって簡単に許せないじゃないの、などと臍曲がりな吉之助は思ったりします。

「京人形」が御家騒動物の仕立てであることは、詳しい事情は知らずとも、現行舞台でも明らかですが、原作ではこうなっているようです。甚五郎が匿っている主筋の井筒姫を奪いに役人が捕り手をつれて押しかけて来ます。そこで甚五郎は、さっきまで一緒に愉しんでいた太夫の人形の首を切って首桶に入れて、これを井筒姫の首だと言って役人に渡すのです。人間に生き写しの人形の首ですから、役人は納得して帰って行きます。しかし、奴照平はホントに甚五郎が井筒姫の首を斬ったと思い込んで、怒って甚五郎の右腕を切り落としてしまうのです。

人形というのは、神霊が依り憑く形代(かたしろ)です。まして太夫の魂が入り込むほどの名作です。御家騒動の事情があったとは云え、人形の首を身替わりに斬ってしまったことで、甚五郎は何某かのタブーを犯したに違いないのです。「寺子屋」や「熊谷陣屋」のように生身の人間を身替わりに立てた訳ではない。しかし、人形なんだから首切ったっていいじゃないかと云うことにはならなかった。甚五郎は償いをせねばならなかったということです。まあこれならば経緯としていくらか納得できる気がします。「京人形」をこう見なさいと誰にでも言うつもりはありませんが、吉之助はこう見ないとどうも落ち着かない性分なのでね。

ところで今回(令和3年6月歌舞伎座)の「京人形」は、白鸚の甚五郎がほどよく力が抜けた洒脱なところを見せてくれました。高麗蔵の女房おとくも良くて、粋(すい)な夫婦になりました。しかし、今回の立役者は染五郎の京人形の精ですね。これはまことに面白い京人形の精でした。

実は見る前は染五郎はだいぶ背が伸びたようなので、どんなものかなと不安に思っていました。箱を開けると、果たしてこれが西洋人形のようなメーキャップで・まあ確かに綺麗なのだが、まるで着物を着せたリカちゃん人形のようで、アレアレ・・と思いました。眉の引き方などに工夫が必要かも。魂が入っていない時は長身腰高の踊りでまあそんなものかと思って見ました。ところが鏡を懐に入れてもらって太夫の魂が入ると、一転、腰をしっかり落とした踊りになって、これが身体の軸が決まって肩が揺れないキチンとした踊りで、近頃の若手女形のなかでもこれだけ踊れるのはいないと感心してしまうほどに良い。それが鏡を懐から抜いて魂が抜けると、ニュッと背が伸びて途端に長身腰高の振りに変わる。こうなると手足の長い機械的な踊りの方も面白く見えて来て、その印象の落差がとても大きいところが、妙に吉之助の気に入りました。吉之助流に云うならば、この世の有り様が乖離して・その境目がはっきりモザイク状に見えて来たということです。染五郎は恐らくそう遠くない時期に「鏡獅子」に挑戦することになるでしょう。この腰をしっかり落とした踊りならば、前シテの小姓弥生は大いに期待できると思いますね。

(R3・7・28)


〇令和3年7月歌舞伎座:「雷神不動北山桜」

海老蔵の歌舞伎座出演は、約2年振りのことだそうです。もしコロナ騒動がなければ、海老蔵は今頃「団十郎」だったはずです。襲名延期と云う予期せぬ事態となって海老蔵も大変なことですが、こうなったら災い転じて福となさねばならぬ。立派な団十郎になる為の準備期間がもっと出来たと云うことにせねばなりません。体調やメンタルな面だけでなく、コロナの自粛期間中にどれだけの自己研鑽をしてきたかが問われます。正直申して「雷神不動」についてはまたか・・と云う感じで、しかもコロナ仕様で前回(平成30年5月歌舞伎座)上演脚本(3時間20分くらい)を1時間ほど切り詰めたということなので、芝居として内容的にも十全であろうはずがない。海老蔵版「千本桜」みたいな酷いダイジェスト版を見せられるのなら叶わんなあ・・という不安もあり舞台を見るのを躊躇しましたが、それでも結局歌舞伎座へ行ったのは、海老蔵がどのくらい成長したか確認したかったからでした。

結論から云えば、あまり成長したところが見られませんねえ。まあ確かにお客さんを愉しませようと一生懸命にやっていると思いますが、芸として成長したところが見えない。相変らずの「海老蔵」であるようです。俺は俺なんだから・それでイイじゃん・・・と云う本人の声が聞こえてきそうだが、今頃彼は「団十郎」だったはずだと考えると、これは拍子抜けの感がしますね。芝居(粂寺弾正・鳴神上人)の出来自体も、前回と比べて決して良くなってはいない。まあ格別悪くなったというわけでもないが、成長が見えない。どんな時でも「オッ、以前とは違うぞ」と云う新鮮な発見がある舞台でなければ困る。繰り返しますが、今頃彼は「団十郎」だったはずなのです。付け加えれば、これは他の共演者も(右団次も児太郎もだが)同様です。いつものことをいつも通りにこなしている感じですかね。児太郎の絶間姫も前回(平成31年1月新橋演舞場)より崩れて悪くなっていると思います。

と云うわけで舞台のことを書く気になりませんが、海老蔵の発声についてちょっと触れておきます。吉之助は以前ボイス・トレーナーに付いて発声訓練した方が良いと書いたことがあります。その後ボイス・トレーナーに付いたという報道を耳にして、一時は改善の兆しが見えたこともありました。しかし、多分訓練をすぐ止めちゃったのでしょう。すぐ元に戻っちゃいましたね。ここ数年の海老蔵の発声は良くない方向で固まった印象がします。海老蔵の声は、響きに芯がなくて力強さを感じません。まあ聞こえてはいますが、台詞が心に届かない。喉が開いていない、腹から声が出せていないのです。実は、このような海老蔵の声は、成田屋の家の芸である荒事にあまり向かない声である。このことを本人がどれだけ認識しているのか分かりませんが、吉之助は海老蔵は未だに「自分の声」(舞台のための声)を持てていないと思います。役者にとって「自分の声」を持っているかどうかは、とても大事なことです。極端なことを云えば、例え悪声であったとしても「自分の声」を持ってさえいれば、その声を聞けばこの役者・名調子!となるのです。四代目源之助とか六代目菊五郎などがいい例です。残念ながら、海老蔵は未だにそのような「自分の声」を持てていません。大声を張り上げれば良いわけではないです。「自分の声」を持ててない(つまり喉の正しい使い方が出来ていない)役者が五役を勤めて(口上も含めれば六役だが)五色の声質を使い分けようなんて、若干無理があるのじゃないの?そう云うことは「自分の声」を持っている役者がすることです。三代目猿之助はもちろん自分の声を持っていた役者でした。「飴のなかから猿之助」(何をやっても猿之助と云う意味)と言われたこともありますが、早変わり芝居で十何役勤めてこれを仕分けられたのも猿之助が自分の声を持っていたからです。そういうことが分からないで「雷神不動」五役相勤申候とがむしゃらに頑張るだけでは、またいつぞやの時のように喉のトラブルで声が出なくなったりしますよ。だから今からでも遅くはないから、もう一度ボイス・トレーナーに付いて正しい発声を真剣に学んで、「自分の声」を持つようにしてもらいたい。正直申して、海老蔵の現状は少々心配です。

(R3・7・19)


〇令和3年7月歌舞伎座:「鈴ヶ森」

歌舞伎の解説本などで「鈴ヶ森」を調べると、「世話物。・・・権八と雲助たちとの立ち廻り、長兵衛の「お若けえの、お待ちなせえ」の名台詞など歌舞伎の様式美にあふれた舞台・・・」などと書いてあります。「鈴ヶ森」が世話物だと云うことは、これは大事な認識です。しかし、揚げ足取りみたいで恐縮ですが、権八と雲助たちとの立ち廻りを歌舞伎の様式美だと云われると、吉之助はちょっと違和感を覚えますねえ。何でも安直に「様式美」で括るのは、問答無用でそれで良しと済ませているようで、吉之助はどうも好きませぬ。様式的な立ち廻りと云うのは、時代物の、例えば「新薄雪」の清水寺の花見の立ち廻りのようなものを指すと思います。「鈴ヶ森」のような世話の立ち廻りは、これとはちょっと違うと思います。時代の立ち廻りと世話の立ち廻りとどう違うんだい?と正面切って聞かれると、どうもフィーリングの違いみたいな話しになって、どこがどうと具体的に言い難いですが、雲助が権八に近寄って・掴みかかるまでの呼吸の違いですかねえ。権八を掴んで・斬られる段になれば・これは時代の立ち廻りと変わりはないですが、そこに至るまでの写実の感覚です。この違いはなかなか教えられるものではないけれど、そこの違いが分かって欲しいと思います。そこで今回(令和3年7月歌舞伎座)の「鈴ヶ森」の立ち廻りを見ていると、何となく時代っぽいねえ。キチンとやっているようだけれど、あんまり面白くない。と云うか、キチンとやっちゃうから面白くならないのです。

時代っぽいと云えば、錦之助の長兵衛も菊之助の権八も何となく時代っぽい。一番の原因は、二人とも声のトーンが高過ぎることです。声を太く作れと言うのではありません。世話の口調はもっと低調子で作るものです。これは「鈴ヶ森」に限りません。「六段目」だって同じことですよ。何だか「鈴ヶ森」は時代物だと勘違いしてるように見えますねえ。これだから「様式美」なんて言葉を安直に使って欲しくないのです。これだから世話物の感触が時代物と区別が付かなくなってしまいます。

錦之助はどちらかと言えば権八役者でしょうが、無理して柄になく太い長兵衛を作ろうとしていないのは良いことです。しかし、低調子の世話口調になっていないから、台詞に真実味がこもらない。長兵衛の長台詞は何となく七五で割り切れるように感じるだろうが、黙阿弥とは違う。そこをしっかり仕分けること。幡随院長兵衛というのは江戸町民の代表、つまり世話の役なのです。菊之助は柄は悪くないし・形がよく取れているけれど、爽やかな色若衆のような心持ちで演っているのかな。もう少し横顔に暗い陰が差すところがないと権八にはならぬと思います。声が低調子の世話口調になっていないことは前述しましたが、ここにも「鈴ヶ森」は時代物だと云う勘違いがありそうですねえ。七代目梅幸の権八の素晴らしい映像が遺っていますから、これを見て研究して欲しいと思いますね。

(R3・7・18)


〇令和3年7月歌舞伎座:「身替座禅」

今回(令和3年7月歌舞伎座)の「身替座禅」の白鸚の山蔭右京は初役で、「身替座禅」自体も昭和61年・1986・4月歌舞伎座で十七代目勘三郎の右京を相手役に玉の井を勤めて以来のことだそうです。ちなみにこの時が勘三郎の「身替座禅」の最後の舞台でした。勘三郎の右京は持ち前の愛嬌がよく生きて、見ているこちらがほっこりとした気分にさせられたものでした。他人が真似できるものではないけれど、先日のインタビューでも白鸚は勘三郎の右京の思い出を語っていましたから、今回の舞台もそのような芸の心を継ごうと云う思いがあるのでしょう。しかし、勘三郎と白鸚とは芸風が異なりますから、今回の白鸚はさすがに愛嬌で勘三郎に似せようとはしていません。敢えて勘三郎との相似を探すならば「嫌らしさ」のないところ、「色好み」の徳とでも云いますか、そういうものをさりげなく目指しているようです。むしろ全体としては本行に立ち返った行儀の良さ・折り目正しさが印象に残るものでした。これは近頃得難い右京であったと思いますね。

一方、芝翫初役の玉の井は、白鸚の右京と印象が真反対です。いかつい風貌で観客を笑わせようとする玉の井はよく見掛けますが、ここまで下品で酷い玉の井も近頃珍しい。芝翫に玉の井の役が振られた理由は本人は承知していると思います(云うまでもないが先年の不倫報道のせいです)。「どうぞ私のこと笑ってください、こんなに怒られました」と自虐ネタで笑わせる魂胆のようですが、やればやるほど本行から離れる。所作板を踏む音がバンバン煩いし、太い男声で叫ぶので、見ているうちにだんだん不愉快な気分になって来ました。右京が襖を取ったら、なかから般若の隈をとった玉の井が現れたならば、もっとカブキ・テイストで観客に受けるからそうやってみれば如何かな?と言いたくなる。これは逆でしょう。心の底から反省しています・・神妙に勤めております・・と云う姿勢をみせた方が良いのではないか。それは本行に対するリスペクトにも通じることだと思います。玉の井はこの場では怒っているから怖く見えるけれども、ご主人を心底愛している・可愛い女房なのです。芝翫も奥さんがしっかりしてるから舞台に立ててるのじゃないの?そこんとこよく考えてみることだと思いますがね。

(R3・7・15)


〇鶴屋南北と現代・その5

モザイクとは、欠片(ピース)がいっぱい集まることで、それらが全体でひとつの絵模様(世界)を創るものです。このモザイク模様からこの世界が乖離しているという感覚、連関性がなく支離滅裂だと云う感覚がどこから生じるかと云うと、それは欠片と欠片の境目・裂け目の感触から来ます。境目のザラザラした感触・違和感が、この世界はこのようなバラバラで連関のない状態に置かれていると云う実感を与えてくれます。だから境目はくっきりとして、裂け目がより鮮やかな方が良いわけです。このようなテレビの時代の欠片の質感は、「軽い」。あるいは「薄っぺらい」。前項で吉之助が、「桜姫の場合には、技巧が技巧として浮き上がった方が良い、むしろ聖と俗の裂け目がはっきりと見えた方が宜しい」と書いたのは、そこのところです。これが二十世紀初頭からここまで続いてきた現代世界の乖離感覚です。

一方、令和の現代(2020年代)はインターネットの時代が進行中ですが、状況はさらに複雑です。テレビ時代から見れば、量的な観点では連続しています(ただし情報量は急激に増加し続けています)が、むしろ質的な変化が著しい。欠片(ピース)があまりに細分化し過ぎて、もはや境目がはっきり見えて来ません。欠片の質感は、ますます軽く・薄っぺらになっています。このためテレビ時代のように境目のザラザラした感触で世界を実感することがもはや出来なくなってしまいました。世界は溶融の様相を呈して来ます。現実と非現実の区別が付きにくくなっているのです。これがインターネット時代の世界の乖離感覚です。

のようなインターネット時代の感覚であると、境目がくっきりと・裂け目が鮮やかなことが、むしろ嘘っぽく見えてくるのですねえ。つまりテレビ時代とは、見える様相が違って来るのです。昔はリアルに感じられたものが、何だか嘘っぽく・作り物っぽく見えて来るのです。だから昭和50年代の我々が「南北の状況は現代を先取りしていた」と共感したのとまったく同じドラマが、インターネットの時代には、何だか趣向を弄んだフェイクな芝居に見えて来るのです。ただしこれは見方が間違っているわけではなく・見る角度が違っているからそう見えるわけで、南北の別の一面を突いてはいるのです。しかし、それでドラマに共感できるかと云うと、多分、そうはならないでしょうねえ。

話しが変るようですが、吉之助は最近映画やテレビ・ドラマをほとんど見ませんが、チラと小耳に挟んだところでは、例えば主人公がタイムスリップして別の時代に放り込まれるとか、主人公と別の人物と心と身体が入れ替わってしまうとか、そう云う極端に非現実的な設定のドラマがこのところ増えているようです。そういう極端な設定をしないとドラマを動かせないのかねと脚本家の力量の低下を嘆くけれども、視点を変えると、これくらい極端でないと境目を感知出来ないということです。確かに現代は現実の確固たる手応え(リアリティ)を感じ取りにくい時代なのだろうと思います。

そう考えると、4月・桜姫・上の巻で高貴なお姫様と折助のミスマッチングな恋物語と云うところで観客が狂喜したのは、何となく分かる気がします。今風ドラマの感覚で見ているわけだな。一方、6月・桜姫・下の巻で、風鈴お姫がお姫言葉(時代)と女郎言葉(世話)をチャンポンに使い分けると場面で、拍子抜けするほど観客が反応しないのも、これも何となく分かる気がします。境目の感触が感じ取り難いのでしょう。(これは令和の玉三郎が重ったるい感覚へ変化したことにも原因があります。ここ参照。)現代(インターネットの時代)は、南北にとっては、難しい時代になったようです。これからは、歌舞伎の他の場面においても、受け取りの微妙な変化が出てくるかも知れませんねえ。

(R3・7・13)


〇鶴屋南北と現代・その4

1932年にスイスの哲学者マックス・ピカートがドイツを旅行した時、「どうしてヒトラーがこんなに有名になり、多くの支持者を獲得することが出来たのだろう」と或る人がピカートに聞いたそうです。ピカートはたまたま机の上にあった新聞を手に取り、「どうぞ、これを見てください」と答えました。第1面にはほとんど全裸の踊り子の挿画、第2面には機関銃操作の訓練を受ける兵士の写真、その下には実験室にいる研究者の写真、第3面には19世紀末から今日に至る自転車の発達が挿画で示され、その下には中国の詩が印刷されている…第四面には工場で体操する行員たちの写真、そしてその横には避暑地でバカンスを愉しむ某衆議院議員の写真・・・。

『現代人が外界の事物を受け取るやり方は、こうなのです。現代人はあらゆるものを、何の連関もない錯乱状態のままで、手当たりしだいにかき集めて来るのですが、それは、現代人の心のなかも一種の支離滅裂な混乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはや確乎たる事実としてのそれに向かい合っているわけではなく、従ってもろもろの事物も、もはや一個限りの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。また現代人はもはや一つの特別な行為を通じて個々の事物に近づくこともしないのです。(中略)したがって、何が我が身に振りかかりつつあるかは一向に吟味されない。このような連関性のない錯乱状態のなかには、どんなことでも、またどんな人物でも容易に紛れ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょうか。』(マックス・ピカート:「われわれ自身のなかのヒトラー」・1946年)

ピカートが語ったことは1932年の話ですが、現代の状況は1932年よりずっと深刻な状況になっています。1932年当時には、テレビもインターネットも存在しませんでした。

テレビの時代(とりあえず戦後昭和の1970年代を想定)を考えます。テレビはお茶の間に入り込んで、日常生活に、それがこちら受け手にとって大事か・関心があるか・そうでないかに関係なく、一方的に情報を脈路なく垂れ流し続けます。そこから浮かび上がる世界は、モザイク的な模様を呈します。1932年ピカートの時代と比べて、テレビの時代は情報が飛躍的に増大し混乱度合いはさらに酷くなっています。しかし、量的な変化はあるけれど、質的にさほどの変化はないと考えて良さそうです。

そこで1970年代の第二次南北再評価ブームのことを振り返ってみます。吉之助も最後の方にどうやら間に合いましたから、この時代はよく覚えています。テレビの時代に南北ブームが起こったことは、決して偶然ではありません。当時の我々は、「文化文政期の南北が戦後昭和の支離滅裂なモザイク感覚を先取りしていた」という新鮮な驚きを以て受け取ったのです。ここで前項で述べた南北の時代の芝居が「絵画的」であると云う郡司先生の指摘が深く関連して来ます。絵画的なものの本質とは、立体性を欠く・連関性を欠くということです。この南北の芝居は、まさにテレビの時代の世界の状況とよく似ています。

但し書きを付けますと、南北の芝居がどれもこれも凄いというわけでもないです。趣向それ自体が世界を表徴する様相を呈するような傑作はそう多くないかも知れません。しかし、少なくとも「盟三五大切」(文化8年9月江戸中村座)と「桜姫東文章」(文化13年3月江戸河原崎座)の2作に関しては、その域に達した傑作であると云えると思います。戯作者精神がバッチリ決まった作品だと云うことです。

昭和の玉三郎の「桜姫」については、サイトで何度も書いたので・詳しくはそちらをお読みいただきたいですが、「山の宿」の長台詞での、桜姫と風鈴お姫の人格は、一人の肉体に宿る二つの記号の交錯であると解釈できます。記号は交じり合うことはありません。入れ替わり・立ち替わり現れるだけで、そこに何の連関もないのです。「お姫様がこんな悲惨な境遇に陥って悲しくはないのか」、「どうして何食わぬ顔してお姫様に戻れるのか」などと考えて、そこに一貫した人格を描こうと考えると、面倒なことになります。局面々々の桜姫の心情は、すべてその時々の真実です。しかし、どの心情にも連関がないのです。ですから桜姫の場合には、技巧が技巧として浮き上がった方が良いのです。むしろ聖と俗の裂け目がはっきりと見えた方が宜しいのです。歌右衛門も雀右衛門も難儀したというこの役を、若き玉三郎は難なく演ってのけてしまいました。恐いもの知らずということもあったかも知れませんねえ。こういう役は考え過ぎると返って良くないのかも知れません。(この稿つづく)

(R3・7・10)


〇鶴屋南北と現代・その3

文化文政期が江戸町民文化が花開いた時期であることは、今更申すまでもありません。この時期は、江戸歌舞伎の方も名優が目白押しで、実際凄い時代でありました。役者は現代で云う「俳優」ということではなく、「職人」という意識が徹底していました。郡司正勝先生がこんなことを語っています。

『文化文政期は、職人芸というものが上昇した時代だったと思います。錦絵にしたって絵描きよりも彫師や摺師の方が腕が上がって来た。だからあれほど発行されたし、見事な版画技術が頂点に達した。絵描きだけであんなに錦絵は発達しない。役者絵がブロマイド化して、錦絵の影響を役者ばかりでなく、作者(南北)も強く受けたと思いますが、舞台も作風も絵画的になった時代です。それは技術が、職人芸として上昇した時代だったということが大きい。浮世絵師だって、国芳みたいなのは西洋の版画でも何でも取り込んで行くと云う広い精神があの職人芸で、ただ古い伝統技術を守って行くのが職人ではない。職人なら何でも出来なければならんと云う根性が、職人芸なのだと云う意味で。』(郡司正勝:広末保との対談:「近松と南北の意味するもの」・昭和46年7月)

ここで郡司先生は「職人芸」ということを言っています。例えば歌舞伎では「趣向」が大事だとよく言います(南北物においては特にそうです)けれど、趣向と云うと、これを小手先の・職人のその場の思い付きみたいに受け取る方が現代では少なくないと思います。しかし、趣向が極度に洗練されて、趣向それ自体が世界を表徴する様相を呈したのが、文化文政期の特質なのです。

また郡司先生が文化文政期の歌舞伎が「絵画的」だと言っているのも大事なことです。舞台面が絵面として綺麗だと言う意味ではありません。絵画というものは、平面に描くものです。つまり遠近法を用いて立体的に見せていたとしても所詮それは嘘です。つまり絵画的なものの本質とは、「立体性を欠く」ということです。翻って演劇的に立体性を失ったものと云うと、それは例えば或る役において・その人物の深みを欠くような場合、性格描写に境遇・生い立ちなどの裏付けを欠くような場合を指します。つまり連関性を欠くということです。同じ対談で郡司先生は、こんなことも言っています。

『南北の生世話では、時代と世話とが、すごくくっきりと出てくるのです。時代と世話が綯い交ぜになると云うのは、うやむやになったということではなくて、むしろどっちとも違った、ふたつの要素の違和感がはっきりして来る。』(郡司正勝:広末保との対談:「近松と南北の意味するもの」・昭和46年7月)

このことは「桜姫・山の宿」で風鈴お姫がお姫言葉(時代)と女郎言葉(世話)をチャンポンに使い分けるところに典型的に出ますが、この長台詞を一人の人物の一貫した性根から生じる言葉としてしまうと、どうにも居心地が良くありません。時代と世話は明確に仕分けられなければなりません。この長台詞についてはサイトで何度か取り上げたので別稿「四代目雀右衛門の桜姫」をご参照いただくとして、本稿では別の箇所・「桜谷草庵」で周囲に誰もいなくなると桜姫が態度を一変させて権助にしなだれかかる場面を見ることにします。

『イイヤ其方(そち)は去なされぬ。マア待ちや。・・・サア用がある程に、ちゃっとここへ。・・・苦しうない、ここへおじゃ。ハテ大事ないわいの。・・・何をマアその様に。サアどうぞ云うて聞かせてたも。・・・隠してたもんな。其方の身のうえ。・・・』

台詞の流れは姫言葉であって、ここにバラ描きの言葉は出て来ません。それではこの台詞は、姫の性根で発声すべきでしょうか。4月・上の巻の玉三郎は、桜姫が姫の建前(慎み)を捨てて本音(恋心)をさらけ出し、しかしそう言いつつも恥じらいが募るという感じで、さらに遅いテンポでねっとり濃厚に、この台詞をしゃべっておりましたね。姫の性根を基本にして重ったるい大時代の感触でした。まあそう云う解釈もあろうかと思います。姫の性根で一貫させようとすればこうなります。

しかし、この瞬間、桜姫(=白菊丸)の業(ごう)が桜姫の人格を乗っ取り・桜姫を操り始めたと考えるならば、まったく別のやり方が考えられます。つまり、口調自体をガラリと変えるのです。しゃべっている台詞は姫言葉だけれども、しゃべっているのは他者(桜姫ではない他のもの)であるからです。役の性根と、しゃべる言葉の間に連関性がないのです。このような状況の違和感・乖離感覚を際立たせる為の最もシンプルな手法は、姫言葉(普通は時代にゆっくりとしゃべるものです)を早いテンポでサラサラ世話口調でしゃべるやり方です。こうすれば「早く、少しでも早く、今すぐここで・・」と云う急いた気分も表出できます。これが南北的な様式だと云うことです。(この稿つづく)

(R3・7・7)


〇鶴屋南北と現代・その2

今回(令和3年)「桜姫」上演では、上の巻(4月)は熱狂的に歓迎されたけれど、下の巻(6月)の方はいまいちそこまで受けず、観客に一抹の割り切れなさが残ったようでした。吉之助の下の巻の観劇随想で、その考えられる幾つかの要因について触れました。まずひとつは上演形態の問題で、上の巻・下の巻という上演形態は玉三郎と仁左衛門の体力的問題と・コロナ事情があるから致し方ないことでしたが、やはり無理があったということです。つまり一つの尺として見た時、下の巻だけだと正しい芝居の間尺にならない。正しい始まりがなければ・正しい終わりはないと云うことです。まあこういうことは実際やってみて初めて分かるようなものですが、もうひとつは役者サイドの問題で、年季を経て芸が練れて来たと云うことでもあるのだが、役者に七五で割る「歌舞伎らしさ」の感覚が身に付いてしまっているから、どうしても芝居が重ったるく幕末歌舞伎めいた感触になってしまうと云うことです。

もちろん印象に強く残った場面もありました。岩淵庵室幕切れ・花道上での桜姫の「毒喰わば・・」の叫びは、強烈な生々しさでした。山の宿で酔っぱらった夫権助の酒の相手をしながら・権助が犯した悪事を聞き出す件りでの、桜姫のシリアスなタッチは、なかなかのものでした。これらはまさに現在71歳の玉三郎ならではの、濃厚な重さを持つ桜姫でした。しかし、これが「南北的」な感触であったかと云うことになると、そこは疑問です。いささか重きに過ぎるように思われます。吉之助が記憶する昭和の「桜姫」と比較して感触が重い。南北的と云うよりも、多分、これは「演劇的」な感触なのだろうと思います。演劇的と云う意味は、権助の悪事を聞き出した後、桜姫が我が子を殺し・我が夫を殺す、その結末へ向けて論理的必然を踏もうとしていると云う意味において演劇的なのです。

ただし、今回これで観客を納得させることが出来たかと云うと、十分ではなかったと思います。理屈で納得が出来ても、感情で納得させてもらえないからです。それは「桜姫」のこの場面に、理屈と感情との間に関連性が欠如しているからです。南北では、両者は乖離しているのではなく、最初から関連性がないのです。(この点が本稿の以後のところで重要なポイントになるので、気に留めておいてください。南北的であるとはそう云うことなのだとご理解を願いたい。)それなのに論理的必然を重くしようとするものだから具合が悪くなります。

桜姫が桜姫が我が子を殺し・我が夫(権助)を殺し・平然と元の吉田家のお姫様に戻るという結末について、「桜姫」を初めて見た人には、唖然とした方が少なくないと思います。この桜姫の決断は、非人間的で・女性として理解出来ないと憤る方もこれまた多いと思います。或いは、このような「重い決断」をするからには、桜姫の選択は深刻かつ厳粛な重いものでなければならぬと考える方も当然いらっしゃるでしょう。前世からの暗い輪廻の縛りと・現世の冷酷な社会制度の縛りにがんじからめにされて、社会的身分を捨てて自由な恋に生きようとした桜姫の願いは、これによって崩れ去ったという見方も出来るかも知れませんねえ。そのようなご感想も、直接的には、今回の玉三郎の桜姫がまさに「演劇的な重さ」を背負っているところから引き出されるものです。

しかし、そういう見方は南北的な感触とはちょっと異なるものではないでしょうかね。そこで南北の重さではなく、南北の「軽さ」のことを考えなければならなくなるのです。(この稿つづく)

(R3・7・4)


〇鶴屋南北と現代・その1

先日・4月と6月に上下に分けて上演された南北の「桜姫東文章」は、玉三郎(桜姫)と仁左衛門(清玄/権助二役)の組み合わせで、実に36年振りに昭和の伝説の舞台が再現されて、大いに話題となりました。舞台については観劇随想(上の巻下の巻)で書き尽くしたつもりですが、本稿ではちょっと別視点から今回の「桜姫」上演に絡み雑談風に綴ってみたいと思うわけです。結果として観劇随想の補足にもなると思います。

玉三郎による「桜姫」上演は、戦後昭和歌舞伎のエポック・メイキングな事件でした。吉之助が初めて「桜姫」を見たのは昭和53年(1978)10月新橋演舞場のことですが、この舞台はその後の吉之助が歌舞伎にのめり込むきっかけとなったものでした。だから玉三郎の「桜姫」は、吉之助にとっても思い出深く大事な演目です。(このことについては、本サイトでも何度か書いたので、これ以上は改めて書きません。)「桜姫」を初めて見る方々・昭和の上演を体験できなかった方々にとっても、今回(令和3年)の「桜姫」上演はホントに得難い機会となったと思います。

今回上演の意義を認めたうえで書きますが、今回上演で気になったことが、ひとつあります。4月(上の巻)上演の時(特に「桜谷草庵」の場面においてですが)には、客席にワクワク感が立ち込めていました。「私は今凄いものを見ている」という興奮というか・高揚感が劇場全体を覆っているようでした。もちろん現在はコロナ対策で声を出すのは禁止ですから静かなのだけれど、あれは不思議なものですねえ、みんなが息を呑んで舞台を見詰めている熱い緊張が伝わって来るのです。こういう雰囲気は、歌舞伎座でも久しく感じなかったものでした。ところが6月(下の巻)上演の時には、観客が「アレ?この展開は何なの?」と戸惑っていると云うか、筋の展開に付いて行けなくて「困惑している」もどかしさが漂っているようでした。この雰囲気が最後まで消えませんでした。ネットでも同様の感想をいくつか目にしましたから、これは吉之助だけが感じたことではなかったようです。

普通に考えれば、南北らしい筋の奇矯さとか猥雑さは、上の巻よりも下の巻の方によく出ていて、芝居はずっと面白いはずです。桜姫についても、綺麗綺麗で済むお姫様よりも、悪婆の風鈴お姫の、お姫言葉と女郎言葉のチャンポンの方が面白いので、玉三郎の芸の見せ場は、下の巻の方にあるのです。だから「上の巻も面白かったけど・下の巻はますます面白い」となるのが普通だと思うのです。けれども今回上演では、下の巻(6月)は何となくシラーッとした雰囲気が漂っていました。但し書き付けますが、これとは関係なく、舞台の出来は素晴らしいものでした。それだけに批評家としては、下の巻(6月)での、観客のとまどったような反応が余計に気になりました。これはどう云うところから来るものでしょうか。

南北の芝居に、現代(令和)の観客には受け入れ難いところがあるのかも?」と云うことも一応考えておかねばなりませんが、吉之助には、あの衝撃的であった昭和の「桜姫」と・令和の「桜姫」との間に、何かが変化したと感じるのです。それは役者の問題と・観客サイドの問題と、ふたつあります。40年の歳月の間に、玉三郎や仁左衛門の芸も変わったし、観客の嗜好も変わったと思います。吉之助自身も変わったでしょう。もちろん変わったことが良いことか・悪いことか・そういう問題もありますが、歳月を経れば何かが変わるものです。いずれにせよ・そう云うことも含めて相互関係のなかで、今回(令和3年)「桜姫」上演では、上の巻は熱狂的に歓迎されたけれど・下の巻はいまいちそこまで受けず・或る種のもどかしさが残った(ようだ)。このことは、やはり結果として気に留めて置かねばならぬと思うのです。(この稿つづく)

(R3・7・3)


 

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