(TOP)        (戻る)

「歌舞伎素人講釈」観劇断想・2  (平成26年〜27年)

*観劇随想のうち単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。


○平成26年2月歌舞伎座:「青砥稿花紅彩画」(白浪五人男)

若手花形の「白浪五人男」

五代目尾上菊之助(弁天小僧)、四代目尾上松緑(南郷力丸)、他


平成26年2月歌舞伎座・夜の部は、菊之助の弁天小僧・松緑の南郷力丸らによる若手花形の「白浪五人男」の通しは、なかなか楽しめました。別稿「柿葺落興行の弁天小僧において触れましたが、「白浪五人男」という芝居が本来持つ或る種の安手な感触、時代のなかに刺さり込む世話のパロディ的な意味が、この若手花形の舞台から実感が出来ます。これは意図して出せる感触ではなくて、若い肉体だけが醸し出す感触から来るものです。やがて彼らの芸にも、適度なたるみが付いて、たっぷりした脂が乗った濃厚な感触になっていくことでしょう。そうやって父親たちの世代の「弁天小僧」に近い練れた本格の感触になっていくでしょう。これが芸の道程というものなのです。しかし、吉之助はもちろん父親世代の「弁天小僧」を貶めるつもりはまったくなく、どちらの世代の芸にも、その世代なりの芸の楽しみを見つけることが出来ます。

ところで若手花形の七五調ですが、例えば稲瀬川勢揃いの台詞を聴くと、総じてみんな散文的な台詞回しに思われました。台詞を聞いて観客が意味を取れることは良いことです。ダラダラ調でゆっくりと「イワモトインノチゴアガリ」と歌われても、何と言っているのだかよく分からない。菊之助が演じる弁天小僧では、ちゃんと「岩本院の稚児あがり」と聞こえます。これは良いことです。ただし、散文的でパサパサとした感触で、黙阿弥の様式的な感覚がやや乏しいことも確かです。そこに一長一短があります。これは菊之助だけのことではなく、若手世代の黙阿弥の七五調に共通して言えることです。まあこれが吉之助が云う安手感覚とどこか相通じるということも確かなのですがね。

「世話物の台詞は写実に根ざすべき」ということはその通りで、散文的な台詞回しになることは決して間違いだと云うことでもないのです。吉之助は「黙阿弥の七五調を歌うものだ などと思ってはいけません」といつも書いています。ですから吉之助はねっとりと様式美に浸るよりも、散文的な台詞回しの方がいくらかましだと思います。しかし、稲瀬川勢揃いの名乗り、あるいは浜松屋での 見顕しなどの聞かせ所は、これは厄払いの様式を借りたものですから、やはり様式的な感覚がちゃんと表出できねばなりません。それでないと黙阿弥にならないのです。大事なことは、写実の台詞回しのなかにどのように様式的な感覚を加えるかです。五人男のなかでは赤星十三郎を演じる七之助がいくらかそのように聞こえるのは、赤星という役が持っている女形の台詞術の要素が様式的な感覚にどこか通じるからです。しかし、黙阿弥の七五調のなかの写実性と様式性にどう折り合いを付けていくかということになれば、結局、大事なことは言葉のリズムだということが分かってくると思います。黙阿弥の七五調のリズムは七が早く・五はゆっくりの変拍子だということは、吉之助はこれもサイトのなかで何度か論じています。(詳しくは別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をお読みください。)

恐らく前の世代のダラダラ調の流れ からの揺り返しあるいは反省が、今の若手の世代に起きているのだろうと思います。これは現象としては、台詞の速度が心持ち早くなることに表れます。台詞を意味を取れること自体は良いことですが、ゆっくりしたダラダラ調の流れの台詞の速度をだ早めただけでは、今度はパサパサの散文調に陥るだけです。それは一語一音二拍子の基本の流れが変わっていないからです。ですから(これは黙阿弥に限ったことではないのだけれど)言葉の持つ抑揚と、それを生かすための台詞のリズム、イントネーションをもっと研究していく必要がありますね。そのようなかたちで彼らの台詞術が練れていくならば、これからの黙阿弥はもっと良い方向へ向かうと思うのですが。

(H26・3・1)


○平成26年3月歌舞伎座:「勧進帳」

二代目吉右衛門の弁慶・七代目菊五郎の富樫

二代目中村吉右衛門(弁慶)、七代目尾上菊五郎(富樫左衛門)他


平成26年3月歌舞伎座・夜の部・「勧進帳」は、吉右衛門の弁慶・菊五郎の富樫の共演でありました。吉右衛門の弁慶は、吉之助もこれまで何度か見ましたが、「主人義経を何としても守り抜かねばならない」という覚悟と気迫においては、吉右衛門はこれまでも優れた弁慶を見せてきました。しかし、吉右衛門の弁慶は残念ながら甲の声が遣えなくて荒事の発声がいまひとつのところがありました。例えば「先代萩・床下」の荒獅子男之助でも「きりきり消えてなくなアれエ」の甲の声がうまくないので、荒事にならない。そういうところがあるので、これまでの吉右衛門の弁慶は、勧進帳の読み上げから山伏問答を聞くと、台詞回しのうまい人ですから台詞の文句はよく聞こえる点は良いのだけれど・言葉を噛み砕いて聞かせてくれる(つまり台詞の意味に重きを置いた)感じで、歌舞伎十八番の台詞のしゃべりの技術・次第にアッチェレランド(テンポがだんだん速くなっていく)という音楽的な側面において物足りないところがあったのは事実です。吉之助が吉右衛門の弁慶を、肚においては十分であったということを認めつつも・これまで高く評価してこなかったのは、この点にありました。

しかし、今回の吉右衛門の弁慶は、勧進帳の読み上げから山伏問答において言葉を噛み砕いて聞かせる行き方は同じ・甲の声がうまくないのは同じであるとしても、言葉のリズムで押す感じがよく出てきて、滑らかな音楽性は出ていないとしても、アッチェレランドと同じような・アジタートな(急き立てる)効果がよく出せていて感心させられました。これは、ひとつの行き方として評価が出来ます。吉之助がこれまで見た吉右衛門の弁慶のなかでも、一番良い出来であると感じ入りました。まことに吉右衛門の円熟を見る思いです。

吉之助が感じるには、これには吉右衛門の弁慶と・菊五郎の富樫との相性の良さということもあったと思います。というのは、菊五郎は、昨年(平成25年)4月歌舞伎座で「勧進帳」で幸四郎の弁慶に富樫で付き合っていますが、基本的にはその時と行き方を変えていないからです。その時の富樫について吉之助は「菊五郎の富樫は問答で押す感じがしないが、問答のテンポは富樫が作るものですよ」と不満を書きました。今回の菊五郎の富樫も行き方としては同じで、問答で押す感じがあまりしません。しかし、この行き方が吉右衛門の弁慶には妙に似合うのですな。富樫が押さないで・ドンと構えているから、弁慶が気迫で押してぶつかって行くという構図になっているのです。そうなると吉右衛門の台詞術が生きてきます。結果として菊五郎の富樫も生きるということになる。言葉が粒立ち、しかも急き立てる効果が出た、見事な山伏問答に仕上がったと思います。芝居というものはアンサンブルであるなあと、つくづく思いますねえ。これまで吉右衛門と菊五郎はさほど共演が多くなかったように思いますが、親戚になったことでもありますから、これからの共演が楽しみであると、そういうことを思いました。

(H26・3・9)


○平成26年3月歌舞伎座・「盲長屋梅加賀鳶」

九代目幸四郎の道玄・四代目梅玉の松蔵

九代目松本幸四郎
(二代目松本白鸚)(梅吉、道玄) 、四代目中村梅玉(松蔵)他


平成26年3月歌舞伎座・「盲長屋梅加賀鳶」の幸四郎の按摩道玄は、東京では三回目になります。平成19年6月歌舞伎座の時(2回目)については観劇随想で取り上げて、吉之助はちょっと辛口に書きました。もともと幸四郎は陰のある悪の凄みの表現に長けた役者ではあります。道玄は幸四郎に仁の役だと思いますが、2回目の時は愛嬌・と云うかおかしみを加えようとして、表現が水と油みたい に溶け合わず、そこがどうも居心地が悪い感じがしたものでした。しかし、今回(3回目)を見ますと、相変わらずおかしみの表現はあるものの、わざとらしさがなくなって、これはこれで幸四郎の持ち味として受け入れられるくらいに塩梅が良い感じに収まったようでした。そこに道玄という役をものにした幸四郎の余裕を見る思いでした。2回目と比べてはるかに良い道玄です。

ひとつには、梅玉の松蔵との相性の良さがあったと思います。梅玉はちょっと見の押し出しは弱い感じがしなくもないけれども、実際見てみると堂々たる親分で感心させられました。梅玉の松蔵が良い点は、台詞を歌い上げるようなことをせず・あくまで台詞としてしっかりとした足取りで、生きた七五調をしゃべることです。例えばお茶の水殺しの幕切れの松蔵の「アア按摩か」という台詞は、聞かせるための台詞ではありません。按摩の笛の音で冴え渡る舞台の雰囲気を世話でサッと切り上げて、道玄の花道の引っ込みをじっくり見せるための段取りなのです。梅玉はそういうことが良く分かっています。梅玉の松蔵は派手な感じがないように見えて、台詞が様式的な(つまり音楽的だが様式美だけの)定型に決して陥ることがない。だから本郷木戸前勢揃いでの梅吉(幸四郎)との対決も、伊勢屋店先での道玄との対決も、しっかりドラマに出来ています。相手役が梅玉であることで、幸四郎がどれだけ助かっていることか。おかげで幸四郎の方も肩に余計な力を入れる必要がない。幸四郎の余裕はそこから出ているのです。芝居というものはつくづくアンサンブルであると思いますね。

(H26・3・23)


○平成26年4月歌舞伎座:「鎌倉三代記・絹川村閑居」

二代目魁春の時姫

二代目中村魁春(時姫)、 四代目中村梅玉(三浦之助)、九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(佐々木高綱)


「鎌倉三代記・絹川村閑居」は三浦之助・高綱・時姫の三人の役者が揃えばずっしりとした時代物の重さがある場なのですが、一幕物として見た場合の筋の完結性が乏しくて、このままで残るのはチト苦しいなあと思うことがあります。予備知識なしでこのお芝居を初めて見た方はこの芝居のどこが面白いのか分からないかも知れません。この幕だけならそれも無理ありません。しかし、「鎌倉三代記」は筋が入り組んでいるけれども、文楽で通し上演を見ると実に面白い作品なのです。歌舞伎でも、前段の「入墨・局使者・米洗い」の場を巧くアレンジして半通しの脚本を整備すれば、下手な新作よりはるかに面白い芝居に仕上がると思いますが、誰か挑戦してみてくれませんかねえ。

それはともかく、平成26年4月歌舞伎座の「絹川村閑居」は、主役三人の芸が噛み合って見応えのする舞台でした。このように時代物の重厚な感触が堪能できる舞台も、久しぶりのことです。風情のある梅玉の三浦之助、形容の大きい幸四郎の高綱は、さすがと言うべきですが、今回の舞台の成功の要因に、特に魁春の時姫を挙げておきたいですね。魁春は六代目歌右衛門の指導宜しく、技芸はもちろんしっかりしているし、勤めるところにお行儀の良さがあります。それに魁春は赤色がとても良く似合います。だから魁春の時姫が良いのは予想されたことですが、魁春の時姫は出過ぎたことはしていないのに、いつにも増して活き活きと感じられました。幕切れで立役ふたりと並んでまったく引けを取らない立派な時姫です。この芝居が時姫のドラマであることが、この幕切れでよく分かります。

ところで4月歌舞伎座のチラシの解説を見ると、「三浦之助に自分と夫婦になりたければ父・時政を討てと迫られて時姫は迷った末に決意を固める、すべては時姫に時政暗殺を迫る計略であった」と書いてありました。周囲の人たちが敵意と策意を以て時姫に対しているかのように読めます。まあどんな解釈もあり得ることかと思いますが、願わくば、その解釈で芝居を見て現代の観客が共感できるかどうかということをお考えいただきたいと思いますね。三浦之助と夫婦になりたい純な乙女心につけこんで周囲が彼女に父親殺しを強制する芝居に、現代の観客が共感出来るでしょうか?そのような封建思想だか女性蔑視の時代錯誤の倫理感覚に、現代の観客が共感出来るでしょうか?芝居を解釈する時には、役に共感できるかということを常に考えて欲しいと思います。そうすれば解釈は落ち着くべきところに自然と落ち着くはずです。

吉之助が「絹川村閑居」について思うところは、こういうことです。三浦之助も母長門も、時姫を愛し、彼女が嫁に来てくれることを心から嬉しく思っているのです。彼らはみんな時姫を喜んで迎え入れたい。しかし、過酷な状況がそれを許さないのです。戦いで京方は追い込まれ滅亡寸前のところまで来ています。状況はもはや時姫にそのような頼みをせねばならないほど絶望的です。面相に入墨されて別人にすり替わる高綱も、そのようなゲリラ戦法を取らなければ一発逆転が出来ないから、そうせざるを得ないのです。ということは、時姫にまでそのような頼みをせねばならないということは、彼らがどれほど時姫を嫁として受け入れているか、どれほど時姫を愛しているかということの証に他ならないのです。そこのところが分からないと、この芝居は「すべては時姫に時政暗殺を迫る計略であった」ということになってしまいます。

もうひとつ、時姫が父時政の娘であることと、三浦之助の嫁であることを秤に掛けて後者を選んだと考えてはならないということです。三浦之助は時姫にとって許婚であり、つまり時姫は三浦之助の妻になる為にこれまで育てられて来たのです。時姫が三浦之助のために尽くすことは、彼女が本来勤めるべき仕事です。それは三浦之助を許嫁に定めた父時政の言いつけを守ることでもある。だから、時姫には父を裏切るという感覚はないのです。「どんな状況であっても・たとえ父親を殺してでも・夫に尽くせ」という状況になって、時姫が自己のアイデンティティーにどれほど忠実であるかが試されることになります。(別稿「超自我の奇跡」において八重垣姫で同様の問題を論じていますから、ご参考にしてください。)

「親に付くか、夫に付くか、落ち付く道はたった二つ、ササ返答いかに、思案いかに」と迫られた時、魁春の時姫はパアッと輝きます。それまでも時姫は三浦之助の家にあり嫁として受け入れられようと頑張っていますが、この場面において時姫の感情に或るスイッチが入ります。その瞬間、時姫のアイデンティティーが立つことになる。その高揚感があるから、幕切れの引っ張りの時姫が引き立つのです。状況にがんじがらめにされた時姫から、パアッとエネルギーが放たれます。魁春の時姫は、そこが素晴らしいですね。それはそこまでの過程でやるべきことをきっちりやっているからです。これほどの時姫ならば、魁春が演じる八重垣姫も、きっと素晴らしいに違いありません。是非見たいものです。

(H26・5・25)

*併せて別稿「音楽的な歌舞伎の見方」で「鎌倉三代記」に触れていますから、これも是非お読みください。


○平成26年4月歌舞伎座:「壽靱猿

十代目三津五郎復帰の「靭猿」

十代目坂東三津五郎(猿曳寿太夫)他


今月(4月)歌舞伎座を見てきました。何と言っても嬉しいことは、病気療養していた三津五郎の舞台復帰です。大役を一か月演じるにはまだ体力に自信がないとのことでしたが、元気な姿を見ることが出来て安心しました。無理せず、徐々に身体を慣らして欲しいと思います。いずれ大役を見せてくれることになるでしょう。三津五郎は故・勘三郎とは同世代で、つまり吉之助とも同世代ということですが、同世代の星として長生きしてもらいたいものです。

久しぶりに三津五郎の踊りを見て改めて感心することは、この優の踊りは基本にとても忠実なことです。かと言って四角四面に踊るというというのとは全然違って、自由自在に踊っているようでいながら・終わってみるとそれがすべて規格にぴったり納まっていたという感じなのです。ああ良いものを見せてもらった・・という気にさせられます。今回の「靭猿」でもさりげない踊りのようでいて、ホントに見応えがします。

三津五郎の踊りほど、振りの大切さを考えさせるものは滅多にありません。別稿「踊りの振りの本質」で触れましたが、例えば「右手を横に大きく振る」という振りがあったとして、右手を横に差し出していく動作が振りなのでしょうか。そうではなくて、右手を出し切って・指先を伸ばして決める、その形をしっかり取ることが重要なのです。動作はその過程に過ぎません。その瞬間の形を観客にしっかりと印象付けて、その形から瞬間に抜け出る、そして次の振りに向かうという繰り返しが踊りであると吉之助は考えます。優れた踊り手は、その瞬間の形を観客にしっかりと印象付ける十分な時間だけ維持出来るということです。それはほんのコンマ何秒という瞬間なのだけど、その形をどこまで長く保てるかということです。そこを我慢できないと、瞬間の形が観客の印象に残って来ません。そうすると形が流れてしまうのです。いくら勢いが良くでも、踊りが 粗い印象になってしまいます。三津五郎の踊りは、それがしっかり出来ている踊りです。

芝居というのは年期を経れば晩年に向けて芸がますます良くなるということもありますが、踊りというのは心技体の三要素の兼ね合いになるので、やはり見ておくべきピークの時期というのが必然的にあると思います。三津五郎・58歳、まさに踊りがピークの時期です。これからの三津五郎の踊りは、しっかり見ておきたいと思います。(付け加えますが、もちろんお芝居もです。)

(H26・4・13)


○平成26年4月歌舞伎座:「髪結新三」

九代目幸四郎の「髪結新三」

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(髪結新三)、三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(手代忠七)、六代目中村児太郎(お熊)、五代目中村歌六(弥太五郎源七)、初代坂東弥十郎(家主長兵衛)


今月(4月)歌舞伎座での幸四郎の髪結新三ですが、先月(3月)の按摩道玄もそうでしたが、散文的な演技に感じられるかも知れません。音楽美・様式美に寄りかからない行き方であるので、ちょっと新劇の時代劇っぽい感じに見えなくもなく、人によって好き嫌いがあるところかと思いますが、そこに幸四郎の主張がよく出ているのです。サバサバとした乾いた感触が、写実味に通じます。吉之助は、黙阿弥劇はねっとりと様式美に浸るよりも、散文的な台詞回しの方がましだと考えます。「黙阿弥の七五調を歌うものだなどと思ってはいけません」といつもサイトで書いているくらいですから、幸四郎の髪結新三は悪くないと思います。

出来としては富吉町の新三内の場が良いようです。幸四郎の髪結新三は上総無宿の入墨新三という陰のあるところを強く出しているところに、何となく十七代目勘三郎の感触を思わせます。そういう暗い陰が差すところは、息子の十八代目勘三郎よりも(十八代目の個性は陽性でありましたから)、むしろ幸四郎の方によく出ているかも知れません。中村屋をイメージしながらも、そこを幸四郎の個性で工夫し味付けしたというところでしょうか。そこで見られる愛嬌もあざとくなく、幸四郎の持ち味として十分楽しめるものに仕上がっています。

しかし、永代橋の場での新三が忠七を蹴倒して言う長台詞は、もう少し工夫が必要です。この長台詞には、ツラネと呼んでも良い様式的な要素がやはりあるのです。ここの箇所には写実の芝居に刺さり込む時代の感触が欲しいのです。ここを散文的にサラサラやると、やはり物足りない。ブレヒトは「三文オペラへの註」のなかで、劇中ソングについて次のように書いています。

『歌を歌うことで、俳優はひとつの機能転換を行なう。俳優が普通の会話から無意識のうちに歌に移っていったような振りを見せるほどいやらしいことはない。普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの平面は、いつもはっきりと分離されねばならない。高められた会話が普通の会話のたかまりであったりしては決していけないのだ。』(ブレヒト:「三文オペラへの註」〜ソングを歌うことについて)

黙阿弥の長台詞はソングではないですが、似たところが確かにあります。永代橋の新三の長台詞は感情が高められた台詞です。それは前後の写実の会話と、はっきり分離されねばなりません。その境目が見えないようでは、面白くなりません。そこは、ブレヒトが言う通りです。十七代目勘三郎のこの場面の長台詞は、そこの境目をくっきりと付けていました。特に「・・相合傘の五分と五分」の箇所、そして「覚えはねえと白張りの・・」の部分は、これでもかというほど時代に張っていました。そこをサッと世話の息に返すから、時代と世話の生け殺しが利くのです。(昭和56年5月歌舞伎座での十七代目勘三郎の映像が遺っていますから、ご覧になると良いです。)時代と世話の局面の境目をもっと明確にすれば、黙阿弥劇の面白さが生きてくるのです。富吉町の新三内の場もそこを工夫すれば、さらに面白くなると思いますが。

(H26・4・21)


○平成26年5月歌舞伎座:「勧進帳」

十二代目団十郎追善の弁慶

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(弁慶)、五代目尾上菊之助(富樫)他


今月(平成26年5月)歌舞伎座の団菊祭は「十二代目市川団十郎一年祭」と冠されています。昨年2月に亡くなった十二代目は決して器用ではなかったけれど、茫洋としたスケールの大きい芸を見せてくれました。思い出す舞台はいくつもありますが、やはり「勧進帳」の弁慶を五指に入れておかねばなりません。実は吉之助が見た最初の「勧進帳」は十二代目(当時は十代目海老蔵)の舞台で、それで刷り込まれたせいもあるかも知れませんが、十二代目の弁慶を見ると「これこそ歌舞伎十八番の弁慶だなあ」といつも思ったものです。大らかさのある・でっかい弁慶でした。こういう大きい弁慶だと、細かいところはどうでも良くなってくるのです。もちろん素晴らしい弁慶は他にも大勢いらっしゃいます。心理描写に優れた、忠義第一・御主人大事の肚の決まった弁慶は大勢います。しかし、どこか史劇っぽい・・かな?まあそれもそれで良いものですが、「勧進帳」ってのは歌舞伎十八番なのですから、「助六」や「暫」みたいなものと共通する何かを感じたい。(「勧進帳」が天保の初演だなんてことは関係ありません。)そういうことになれば、やはり十二代目の弁慶なのです。

そこで当代海老蔵ですが、どのような弁慶像を目指すべきか、今月の舞台を見ると現在まだ試行錯誤中という感じですかねえ。試行錯誤中というのは「悪い」と言っているのではありません。いろいろやってみて、これだと云うものを掴めば良いのです。まとまってしまうのは、まだまだ早い。目標は大きいのです。ただ祖父・十一代目団十郎もそうでしたが、当代海老蔵もどちらかと云えば弁慶よりは富樫に向きの役者 であるかも知れません。そこは故・十二代目と違うところでしょう。吉之助は「元禄の荒事の心を呼び起こす」という点において海老蔵に期待するところ大ですが、海老蔵の荒事の魅力は荒々しさ・あるいは鋭さにあるかも知れない。十二代目のような稚気に通じる荒事の大らかさは、ちょっと乏しいかも知れない。またこの二つの要素は相反するものかも知れません。だから吉之助自身も海老蔵にどのような弁慶を期待するかというところがまだクリアでないかも知れないと思います。

そういうわけで海老蔵は試行錯誤中と書きましたが、吉之助も海老蔵に期待すべき弁慶像を模索中なもので・そのような思い入れで見るからかも知れませんが、今回の舞台を見ていると海老蔵の悩みの深さを感じてしまいますねえ。吉之助が海老蔵の弁慶を見るのは平成16年(2006)新橋演舞場以来のことですが、その時は「まっすぐ進むことの爽快さ」みたいなものを感じましたが、今回はちょっと趣が異なりました。荒々しさが目に付きます。それがとげとげしい感じで、「勧進帳」にしっくり来ない気がします。もうちょっと違う行き方があるはず・・・そういうことを思いながら舞台を見ました。

海老蔵は昨年の今頃は台詞に不安定なところを見せていましたが(平成25年6月歌舞伎座:「助六」の観劇随想を参照)、ボイス・トレーニングの成果 か、このところの海老蔵は発声に改善が見えるようです。まだ十分ではないけれど、発声を無理して声が聞こえたり・聞こえなくなったりすることはなくなりました。この調子でトレーニングしてもらいたいと思いますが、今後は言葉ひとつひとつを明確に発声することを、今後の課題としてもらいたいと思います。今回の「勧進帳」の弁慶は、能掛かりをイメージしたのか、謡う感じが強くなりました。これはあまり良くないことです。言葉が浮いて聞こえます。元禄歌舞伎の歌舞伎十八番というのは「しゃべりの芸」なのですから、もっと明確に台詞を言ってください。特に今回の菊之助の富樫がこれはまったく謡う要素を見せず・骨太い見事な台詞廻しを見せたので(本年3月歌舞伎座:「勧進帳」での親父さまの富樫を良いお手本にしましたね)、その対照で海老蔵の弁慶は線が細い印象がします。

例えば勧進帳読み上げの、「焼亡し畢(おわん)ぬ」、「諸国を勧進す」、「数千蓮華の上に坐せん」という台詞の末尾を、海老蔵は伸ばし気味にしゃべってますが、伸ばしてはいけません。末尾を伸ばすから台詞がその度切れてしまいます。二拍子のリズムを一貫して維持せねばなりません。勧進帳読み上げは、初代団十郎が元禄10年に演じた「大福帳参会名護屋」での大福帳の来歴を豪快かつ流麗に言い立てて・「ホホ敬って申す」で終わる様式的な長台詞の伝統の上にあるのですから(別稿「アジタートなリズム」の荒事の項参照)、読み上げは「敬って申す」までの台詞の流れをどう組み立てるかなのです。海老蔵の読み上げからは、その流れが見えて来ません。

同様なことが山伏問答にも言えます。特にいけないのは、問答の最後で富樫に「ササ何と何と」と詰め寄られて、しばし沈思黙考し「・・・九字の大事はして語り難きことなれど・疑念の晴らさんその為に・・・(と言い淀み)ウン(と決意した如く頷き)・・・説き聞かせ申すべし」など、これではせっかく富樫が盛り上げた緊張をブチ切れにしてしまいます。何とも考え過ぎと云うか、こういうのを役の心理を読み込んだ台詞廻しだと考えるのは間違いで、ここはクライマックスに向かって一気に突き進まねばならないところです。台詞のテンポ設計ということをもっと考えなければいけません。細かいこと考えるのは止めた方が良い。だから弁慶の大らかさが出て来ないのです。

ところで役者海老蔵の武器は何と言っても目力(めぢから)に違いありません。「瘧(おこり)が落ちる」成田屋の目力は魅力です。しかし、今回の「勧進帳」ではそれをいろんな場面に多用し過ぎのように思います。弁慶の必死な気持ち・決意の強さを表現したい意図だろうし、海老蔵もこれが自分の持ち味だと思っているでしょう。しかし、こういうものは、ここぞという・限られた箇所で使うから価値があるのです。

確かに海老蔵の荒事の魅力は荒々しさあるいは鋭さにあると思います。しかし、海老蔵は自分の強みを荒事のなかにどう位置付けるか、まだ十分に分かっていないのではないでしょうかね。所作板を踏む音・金剛杖で床を突く音が煩いと感じるほど、強過ぎます。荒事の力強さと荒々しさ、粗暴さを混同しているのではないか。義経に対して「以後はきっとバアン!(と杖で激しく床に突く)慎みおろう」というのが、荒事っぽいと思っているならお間違えです。「以後はきっとトン慎みおろう」で十分なのです。トンと静かに杖を下してそれで十分な弁慶を目指して欲しいものです。「以後はきっとトン慎みおろう」は字面としては確かに義経に向かって言われていますが、この台詞では弁慶は完全に鎮静化しています。弁慶は富樫に向かって「安心せよ、俺は主人を殺しはしない」と言っているように吉之助は聞きますがね。

そういうわけで今回の「勧進帳」は、細かいところにこだわる箇所と、激しさにこだわるところがあって印象がアンバランスというか、そこに自分の在るべき弁慶像を模索中の・海老蔵の悩みを見る気がしますね。答えは案外身近にあるような気がしますが。十二代目の弁慶の映像を見直せば、それが見えて来るかも知れませんね。

(H26・5・3)


○平成26年5月歌舞伎座:「極付幡随長兵衛」

十一代目海老蔵の幡隨長兵衛

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(幡随院長兵衛)他


黙阿弥の「極付幡随長兵衛」は明治14年10月春木座で九代目団十郎が初演したもの。元禄の侠客幡随院長兵衛の芝居は数多いですが、今では長兵衛と云えばこの芝居となるのは「極付」と表題にある通り、長兵衛ものの決定版とすべく、実録風に長兵衛の真実を描こうという黙阿弥の意図があったからです。つまり、この芝居についてはそういう言い方がされないようですが、演劇理念的には活歴だということです。活歴というのは、九代目団十郎が明治初期に熱を上げていた、在来歌舞伎の荒唐無稽を排し史実を重んじて歴史上の風俗を再現しようとする演出様式を言います。活歴物は現在ではほとんど上演されません。活歴は演劇改良協会の指導のもと九代目が推し進めたもので、彼らの攻撃目標は旧来歌舞伎の象徴たる黙阿弥でした。その黙阿弥の「この俺なら活歴でも君たちよりずっと良いものが書けるよ」という気概を示したのが、この「極付幡随長兵衛」であったと吉之助は思うわけです。初演の九代目はこの長兵衛を演じながら、どんなことを思ったでしょうか。福地桜痴なんぞよりやっぱり黙阿弥の方がやってて気持ち良いと思ったのではないかな。

どんな芸術作品でもそれが成立した時代の思潮の影響を受けるものです。本当のところは旗本奴も町奴も同じ無頼漢で、どちらも町人の嫌われ者でした。恐らく事実は、この「極付幡随長兵衛」のような綺麗なドラマではなかったでしょう。しかし、この黙阿弥の芝居では、武士の横暴な振る舞いに敢然と抵抗した庶民の代表幡随長兵衛という構図に仕立てられています。これは封建社会の江戸の世が終わった直後の、明治初期の庶民の気分が反映したものに違いありません。これが史実通りでないから良くないとか云うのではなく、吉之助はまさにそのような受け入れ方をされて来たからこそ、この芝居は人気があったということを大切に考えたいと思います。因縁付けられて理不尽に殺されるということが分かっているのに敢えて死地に赴くというところに庶民は長兵衛の「男」を見たわけで、その見方はあながち間違っているとは言えません。

そこで今月(5月)歌舞伎座の、海老蔵演じる幡随長兵衛は死ぬことの悲壮感より「俺は死ぬことなんか恐がっちゃいねえんだぞ」というような強がりが来る感じであり、そこが元禄の町奴の気分・つまり市川家の荒事の気分にどこか通じるところがあると云う、これはとても面白い長兵衛でしたね。死ぬ覚悟が出来ているかということなら、長兵衛を演じる役者ならもちろん誰でもそうですが、海老蔵の場合は、死ぬ気で相手にぶつかっていく気迫がドンと塊になって伝わってくる。肚芸というのともちょっと違って、芸というよりそれ以前の、これが海老蔵という役者の大きさというものでしょう。

(H26・5・18)


○平成26年5月歌舞伎座:「春興鏡獅子」

五代目菊之助の鏡獅子

五代目尾上菊之助(小姓弥生後に獅子の精)


別稿「女形舞踊としての鏡獅子」に記しましたが、もともと「春興鏡獅子」は九代目団十郎が娘(二代目市川翠扇)が「枕獅子」を練習しているのを見て思い付き・傾城を御小姓に変えて「鏡獅子」を仕立てたものですが、可愛いお小姓が獅子に変身する落差のサプライズばかり強調されて、昨今は「鏡獅子」はすっかり立役 の舞踊になってしまった感があります。ブンブン毛を振り回す元気な獅子も結構ですが、獅子物というのは道成寺物と並んで女形舞踊の二大系譜なのですから、吉之助は優雅な女形の「鏡獅子」を見たいと思うのです。七代目梅幸の「鏡獅子」の舞台を思い出します。落ち着いたなかにも楚々たる味わいがあって、とても良いものでした。

今回(平成26年5月)の菊之助の「鏡獅子」を見て、梅幸さんのことを思い出しました。菊之助の小姓弥生は振りが楷書にしっかり取れていて、そこが良い点です。ただし、振りが丁寧であるという言い方もできますが、振りの決めの形がちょっと印象に残らない感じがしますね。別稿「舞踊の振りの本質」で触れましたが、舞踊とは形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返し(リズム)なのです。振りのリズム感がちょっと乏しいところがあるようです。踊りが若干内向きで華やかさが抑えられた感がするのはそのせいでしょう。この辺は今後の課題かと思いますが、しかし、菊之助の楚々たる味わいは何とも嬉しいことです。

後シテの獅子の精は威勢よく毛を振り回すことをしなかったことを、とやかく言う方がいそうですが、気にすることはありません。これで良いのです。女形舞踊の獅子ならば毛を優雅に振らなければね。

ところで吉之助が見た日(2日)には、ちょっとしたアクシデントがありました。小姓弥生は獅子の精に引き込まれて本舞台から花道に駆け入り七三で倒れますが、この日の菊之助は勢いが余ったか・もしかしたら着物の裾を踏んだのかも知れませんが、花道に入る直前でバターンと激しく倒れたのです。予期しないところで弥生が倒れたので吉之助もビックリしましたが、しかし、菊之助は冷静で獅子頭の口のパクパクを止めなかったのは流石でしたね。六代目の「鏡獅子」を見た時の詩人ジャン・コクトーではないけれど、席から立ち上がりそうになりましたよ。

(H26・5・11)


○平成26年6月歌舞伎座:「源平布引滝・実盛物語」

「実盛物語」のなかの世話と時代

七代目尾上菊五郎(斎藤実盛)他


別稿「仁左衛門の松王」でも書きましたが、吉之助はここ40年くらいの歌舞伎について、全体の印象として重めで粘り気味であると感じています。もうちょっと軽めで・テンポを早く持って写実の方に寄るのがたぶん歌舞伎の本来の味だと思います。その結果、現代歌舞伎はどちらかと言えば世話物より時代物の方が安心して見られるということになるのです。吉之助が感じるには、現代の世話物は南北はもちろんのこと・黙阿弥でさえ世話の味が乏しくなって、感触が時代の方に寄っていると思います。現代歌舞伎では、世話物の将来がとても心配です。しかし、それならば時代物の方は心配ないのかと云えば、これも必ずしもそうとは言えません。

例えば今月(平成26年6月)歌舞伎座の「実盛物語」ですが、菊五郎の実盛はさすがの熟練した味わいを見せ、全体として平成歌舞伎の成果としてよろしいものだと思います。そこに殊更難付けする必要もないことですが、しかし、舞台の表現の彫りをもっと深くしようとするならば注文は出てきます。それは「実盛物語」のなかで時代の要素を担う実盛(菊五郎)・瀬尾(左団次)サイドに対して、世話の要素を担う九郎助(家橘)・小よし(右団次)・仁惣太(橘太郎)サイドのことです。別に失点があるわけではありません。手堅くやっていますが、もうちょっと世話に砕けた感じがあればなあと思います。特に台詞廻しの感触が時代の方に寄っていると思います。微妙な台詞のリズム・アクセントの違いなのですが、そこで世話を強調出来れば、時代サイドとの対立構図が
もっと印象付けられるのにと残念に思います。

それでも時代物というものは「主人公の犠牲を他者が然りと受け取る」というのを基本構図に置くものですから、
それで別に大きな齟齬があるわけでもないのです。これでも時代物として十分納まった形に
なってはいます。しかし、時代物の奥底へさらに踏み込もうとするためには、これでは物足りない。こういうことは現代歌舞伎の感触自体が重めで粘り気味である為に、これを気にする向きは少ないと思いますが、役者が(あるいは劇評家・観客もですが)このような世話の感触・写実の感触に鈍いということは、歌舞伎の将来を考えた時に非常な問題であると思うわけです。恐らくこの問題が解決できるなら、歌舞伎の世話物への不安もある程度は解消されるであろうと吉之助は考えます。

「実盛物語」・九郎助住家の段は琵琶湖の畔の百姓家。本来のどかで、そのような生臭い政治ドラマに全然ふさわしくない舞台面なのです。そんな静かな田舎で、突然源氏と平家の争いという事件が飛び込んでくる。そうなることの不自然さ、理不尽さ、奇怪さを感じて欲しいのです。世話の舞台のなかに刺さり込む時代、そういうことを考えて欲しいと思います。ですから実盛・瀬尾が乗り込んでくるまでは、芝居はまったく世話であって良いのです。むしろ 全体を世話の基調とすべきだと言って良いくらいです。今回の舞台の九郎助はじめ世話サイドはそこに物足りなさがある。「実盛物語」は時代物だという、そういう決め付けがあると間違えてしまいます。もちろん分類すれば「実盛物語」は時代物には違いないですが、どんな芝居でも、ひとつの芝居のなかに世話と時代の局面がある。世話を担う役者と、時代を担う役者がいる。世話と時代のふたつの要素が交錯して、入り交じり、世話と時代が押したり引いたりしながらドラマが展開する、そういうものなのです。そのようなドラマの流れを感知できなくなってるのかな、そういうことを思いますねえ。そういうことは「寺子屋」とか「逆櫓」などでも言えます。別に今回の舞台に限ったことではありません。

話を実盛に戻しますが、菊五郎の実盛は殊更に人形味を強調するところがなく、柔らかみのなかに時代の奇怪さを包み込む、これはまさに熟達の芸と云うべき実盛です。そこに実盛という人間の大きさが自然と出ています。このように肩に無理な力を入れず、勘所をしっかり押さえた菊五郎の実盛の物語を見れば、リズミカルに動作をカクカクとやって踊るのが義太夫味だというのが誤解だということが良く分かりますね。そんなことをしなくても、竹本と役者の掛け合いという手法自体が十分にアンビバレントな時代の要素であるからです。このような菊五郎の実盛の特質をより一層生かす為に、脇が世話の感触をより明確にくっきりと打ち出す必要があると感じます。まあそのところも含めて座頭である菊五郎が仕切るべきところかも知れませんが。

(H26・6・14)

付記:関連記事として別稿「埃沈め」もご参照ください。


○平成26年7月歌舞伎座:「夏祭浪花鑑」

東京・歌舞伎座の「夏祭」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(団七)、九代目市川中車(義平次)、五代目坂東玉三郎(お辰)他


別稿「上方歌舞伎の行方・続」でも触れましたが、今後も上方歌舞伎がずっと上演され続けるとすると、だんだん東京の役者中心にならさるを得ませんし、そうすると上方和事も「与話情浮名横櫛」の与三郎とあまり変わらぬ感触になってしまう だろうと書きましたが、今回(平成26年7月)歌舞伎座の「夏祭浪花鑑」でも 似た感じを持ちました。何と言ったら良いか分かりませんが、舞台に目立って悪いところもないけれど、何となくアッサリで物足りない感じがしますね。

もともと「夏祭」の団七の型については、二代目延若の純上方式の団七と、若干江戸前掛かった(しかし上方出身である父・三代目歌六から発したものですが)初代吉右衛門の系統があるわけです。まあ、それだから吉之助がこれまで見てきた歌舞伎座での「夏祭」も当然吉右衛門系統で、どうしても上方の味わいが弱くなるのは仕方がないところでした。上方味というのは、義太夫味のことを言っているのではありません。歌舞伎の「夏祭」というのはずいぶんと丸本離れしたものですから、義太夫味はあまり関係がない。大阪弁のアクセントの違いは、関西出身の吉之助には気にはなりますが、確かにそれも重要な要素には違いないが、もうそういうことは仕方がないという気に吉之助はなりかけています。

吉之助が言う上方味というのは、「ねちっこさ」ということになりましょうか。あるいはギトギト・ソースのお好み焼みたいな匂いとでも言いましょうか。払っても払っても身体に染みつく匂いです。多分、東京の方はそういうのはあまりお好きではないでしょう。7月歌舞伎座の「夏祭」だと、そこがあっさり醤油味になる感じです。これは好みと云えば、好みの問題だと言えなくもありません。だからこれから東京勢中心になっていく歌舞伎では、あっさり醤油味の「夏祭」が多くならざるを得ないでしょう。

例えばお辰が「うちの人が好くのはここ(顔)ではのうて、ここ(自分の意気地)でこざんす」と言うのは四代目源之助の型ですが、十七代目勘三郎は「ここでこざんす」でニッコリ 笑って胸を叩きましたが、声を強く張り上げはしませんでした。玉三郎は最後の「ここでこざんす」を張り上げて写実に言っていました。玉三郎の言い回しはスカッとしてなかなか気持ち良かったと思いますし、玉三郎の芸質にも似合っていました。しかし、どこか辰巳芸者のような感触のお辰ではあった。まあお辰は玉三郎のニンだと決して云えぬ役であるし、そこのところは仕方ない。

同じようなことが他の役者にも言えます。今回の「夏祭」は団七(海老蔵)・義平次(中車)その他の役でも、みんなあっさり醤油風味に思われます。それは役の性根(解釈)ということと違うもので、性根ということならば彼らは決して的をはずしているわけではありません。みんなそれなりに良く頑張っています。海老蔵の団七は、確かに良い男過ぎるところがあるかも知れません。そのせいもあって、背後に持っている経歴の暗さが見えて来ないところがある。中車の義平次も同じようなところがあって、この男が団七に殺されるべき悪い奴だという厭らしさは見せている。しかし、やはり背後に持っている経歴の暗さが見えて来ない。それはとてもねちっこいもので、暗く執拗にふたりに付きまとうものです。はっきり言わなくても「団七・・・暑いな、暑いな」としつこく言えば互いに分かるものなのです。もちろん団七には、はっきり分かっています。だから団七は義平次を殺さねばならなくなるのです。今回の「夏祭」だと、金銭に執着して執拗に邪魔をされて怒って、誤って義父を殺してしまった可哀想な団七さんということになってしまう。(別稿「夏祭」と「ウエストサイド物語」をご覧ください。)

まあ筋としては確かにその通りなのです。まあ結局、これもニンとしか言いようがないのですが、これは役者としてのニンというよりも、東京の歌舞伎と上方歌舞伎のニンの違いということなのかも知れません。あるいは東京の観客と、大阪の観客のニンの違いということになりましょうか。

(H26・8・15)


○平成26年9月歌舞伎座:「鬼一法眼三略巻・菊畑」

初役揃いの「菊畑」

五代目中村歌六(鬼一法眼)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(虎蔵)、 四代目尾上松緑(智恵内)他


「菊畑」は季節感があって舞台面が華やかなのでよく出る芝居ですが、ひと幕で見た場合、動きが割と少なく、筋に完結性がないので、初めて見たお客さんには退屈な芝居かも知れませんね。筋に完結性を付ける為には、鬼一が鞍馬山で牛若丸に剣術を教えた大天狗は実は自分であったと明かす「奥庭」を付けなければなりませんが、何故か「奥庭」は滅多に出ません。だから「菊畑」だけだと風情で持っている場ということになると思います。「菊畑」はなかなか難しい場なのです。

今回(平成26年9月)歌舞伎座は、染五郎の虎蔵は三回目のようですが、鬼一(歌六)・智恵内(松緑)・皆鶴姫(米吉)らは初役だそうです。どの役者も頑張っているし、取り立てて悪いところも見えないですが、何となく腹応えがしない。印象批評的になりますが、例えば幕切れで智恵内(松緑)・虎蔵(染五郎)・皆鶴姫(米吉)が絵面で決まるところが、良く言えばすっきりしていると云うべきだろうが、みんな顔のサイズが小さく・身体がヒョロッと伸びた感じなので、どうしてもたっぷりした風情が乏しい。こういう役は年期が物を云う(晩年の七代目梅幸や十七代目勘三郎の虎蔵などが思い出される)ので、彼らも歳を取れば身体付きも変わって自然と風情が備わって来るでしょうが・それだけではなく、気になることは、どの役も共通してまだまだ肚が薄いと感じられることです。

肚が薄いということは、性根のことではありません。役の解釈を言っているのではありません。やることはそれなりに教えられた通りにやっていると思います。しかし、幕切れの絵面の決まりで云えば、もう少し腰を据えてどっしり決めてもらいたいと思います。ちょっと重心が高い感じがします。これは息をもっと深く取って身体を構えれば、自ずと重心は低くなります。それが出来てないから、気が抜けた感じになるのです。要するに息の詰め方の問題です。台詞の面でも、例えばノリ地があまりよろしくない。三味性のリズムに乗ってリズミカルに軽快にやるのがノリ地ではありません。言葉の刻みをもっと深く取ることです。その為には息を深く取って腹の底から台詞を言わなければならない。そうすると台詞を言う時にも、腰を落とした身体の構えに自然となるはずです。そうすると役全体がどっしりした印象になる。「肚の有る無し」とは、結局、そういうことなのです。風情で持たせる役ならば、なおさらそうです。

松緑の智恵内は繻子奴がよく似合って浅葱幕を振り落した冒頭など期待をさせます。染五郎の虎蔵も登場したところは柔らかみがあってなかなか良い。歌六の鬼一も頑張っています。しかし、芝居が進むと場が持ちきれない。まあ確かに「菊畑」は難しい場ではある。肚というと漠然として捉えきれない思いがするでしょうが、ここは息の取り方・息の詰め方だという風に考えれば良いと思いますね。

(H26・9・23)


○平成26年11月歌舞伎座:「勧進帳」

七代目染五郎初役の弁慶

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(弁慶)、 九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(富樫)、 二代目中村吉右衛門(義経)


今月の染五郎の「勧進帳」の弁慶ですが、これまで何度も演ってそうに思っていたら、意外や初役だそうです。染五郎に弁慶を演じる機会がこれまでなかったのは巡り合わせもあることで、さしたる理由があったとは思いませんが、弁慶というのは七代目幸四郎以来高麗屋にとってとりわけ大事な役ですから、観客からすれば「やっと待望の弁慶」というところです。花道から登場した弁慶に対する客席からの熱い拍手を聞けば、その期待のほどが分かります。客席もいつもとはちょっと違う雰囲気でしたね。インタビューで染五郎は「生まれてから41年間憧れつづけた役」と語ったそうですが、本人にも相当プレッシャーがあったと思います。しかし、贔屓目を抜きにして立派な弁慶だったと思いますよ。歌舞伎座のポスターで見た染五郎の弁慶の写真を見て、吉之助はまず安心しましたが、形容的にも立派な弁慶です。回数を重ねて高麗屋の伝統を継ぐ弁慶になると思います。

七代目から九代目までそれぞれ個性は違っても、高麗屋の「勧進帳」の弁慶は、成田屋の荒事味の強い弁慶とまたちょっと違った、実事っぽい・史実っぽいところがある弁慶だと思います。染五郎の弁慶もその線ですが、しっかり基本を押さえて描線の太い弁慶を心掛けています。本来弁慶は高調子の役であると云うべきです。一方、染五郎の地声は低調子ですが、無理に声を高調子へ作ろうとせず、自分の声で勝負を掛けたのが成功の要因だと思います。台詞が無理なく自然に通って、自分なりの弁慶が作れています。特に勧進帳読み上げから山伏問答は、リズムがしっかり取れて聞きやすい台詞廻しでした。恐らく初代白鸚(八代目幸四郎)の録音を手本に練習をしたかなという気がしましたが、よく似ておりましたね。実際、実事風の台詞廻しが、低調子の染五郎の行き方によく合っていたのではないでしょうか。この線で弁慶を練り上げて行けば、必ずや弁慶は染五郎のものとなるでしょう。

山伏問答に関しては、むしろ富樫の御父上の方に若干の注文を付けたいと思います。幸四郎の弁慶の台詞廻しが頭に染みついているせいか、幸四郎の富樫を左から右へ弁慶を裏返したように聞いてしまうのは・見る方の吉之助にも問題があるかも知れないですが、幸四郎は 相手(弁慶)のやり易さをあまり考えていないように思いますね。台詞に妙な抑揚と間合いの振れがあるのは、富樫ではちょっと気になります。弁慶は自分のペースでやれば良いけれども、富樫は問答のペースを作らねばならないのですから。それにしても幸四郎の富樫は山伏問答が終わった時点で既に弁慶に感じ入ったように見えたのは、やっぱり父親が出ちゃったかな。

ところで染五郎の弁慶の勧進帳読み上げを褒めましたが、花道から登場してから・本舞台で富樫と対峙するまでの台詞廻しは、ちょっと謡掛かりが強過くて歌う感じに思います。確かに「勧進帳」は松羽目物ですから、あまり本家(能)離れしても困りますが、これでは読み上げ以降とは、台詞廻しの印象に段差が出来るようです。ここは当然ながら実事風をベースにした台詞廻しに一貫性を持たせることを研究してもらいたい。その方が染五郎の仁に合ってくると思います。

染五郎は弁慶の後半も危なげない出来です。御主人大事の性根はどの弁慶役者でも間違いありませんが、染五郎は踊りが良いので安心して見ていられます。ただ延年の舞で身体をターンさせる時に、染五郎は片足の踵に重心を置いて・そこを支点に反動でターンしてませんか。これは御父上もその気がありますが、そうやると確かにターンは綺麗に決まりますけれど、そういう動きは元来日本舞踊にはないのです。その点除けば、安定感のある踊りで良かったと思います。幕切れの飛び六法では清々しい印象を残して、後味の良い舞台でしたね。次回は菊之助の富樫でやってみてくれないかな。

(H26・11・3)


○平成26年11月歌舞伎座:「義経千本桜・鮓屋」

七代目菊五郎の権太・九代目幸四郎の梶原

七代目尾上菊五郎(いがみの権太)、九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(梶原平三景時)他


今回(平成26年11月歌舞伎座)の「鮓屋」で見応えがあったのは、首実検での権太(菊五郎)と梶原(幸四郎)との対決シーンでした。いがみの権太は妻子の命を賭けて大勝負を挑むわけですが、梶原はすべてを見抜いて、余裕を以てこれを受け取り、飲み込んでしまう、これこそまさに非情な歴史の律の業(わざ)であるというべきです。幸四郎の梶原の役者振りが実に大きくて、そのような時代の奇怪さをよく表現できています。だから菊五郎の権太の世話がよく映えます。

言うまでもなく「鮓屋」は世話場です。吉野下市ののどかな田舎に、源平の争いという奇怪な政治の世界が介入してきます。そのギャップが大事なのです。本来ならば権太は、そんなものに係り合いにならないで、自由にやっていれば良かったのです。そうすればそれなりに幸せな生活が送れたはずです。ところが、実は権太には満たされない思いがあって、真人間に戻って父親(弥左衛門)に許してもらいたいと願っていました。だから、よせば良いのに梶原に対して勝負に出 たのです。一方、梶原(この場合は頼朝の代理と考えて良い)は、表向きは維盛一家を処刑せねばならないが陰では何とかして助けたいと考えており、このため維盛一家の身替りを必要としていたのです。権太一家の犠牲を受け取ることで、維盛は実は生きていたという「千本桜」大序の虚構をこれですべて帳消しにして、平家一門はすべて滅びましたという歴史の筋書通りに辻褄を合わせることが出来たのです。こうして「鮓屋」は「然り、そうでなければ叶わない」という形に収まります。権太(菊五郎)と梶原(幸四郎)との対決は、時代物の壮大な構図を見事に視覚化して見せました。

それならば権太一家は無駄死にだったということになるのでしょうか。そう書いてある解説本が多いようですが、吉之助はそうは思いませんね。これについては別稿「なぜ 鮓屋に義経は登場しないのか」で触れましたから、そちらをお読みください。権太はいじらしいですね。権太が願ったのは、ホンのちょっとの達成感でした。親父さんに「権太郎、でかした、よくやった」と言ってもらえれば、それで権太は死んで良かったに違いありません。しかし、権太はでっかいことをやってのけたのじゃないのですか。

(H26・11・9)


○平成26年12月歌舞伎座:「雷神不動北山櫻」

十一代目海老蔵の毛抜・鳴神

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(粂寺弾正・鳴神上人・不動明王他五役)、五代目坂東玉三郎(雲の絶間姫)


今年の海老蔵については「ボイス・トレーニングの成果か発声に改善が見える」ということを何度か書いた気がしますが、今回(12月)の舞台を見るとトレーニングちょっとさぼっているのかなと思いました。声が腹から出ていない。だから身体が共鳴していない。ボイス・トレーニングで最初にお腹に手を当てて「ここから声を出すように」と教えられると思いますが、それが出来ていないのです。喉で声をコントロールしようとして声が出ていない。特に粂寺弾正の発声がよろしくない。今回それが特に目立つのは、恐らく今回の「雷神不動北山櫻」で五役を兼ねるというので、五役を五つの声色で器用に描き分けようなどと考えたせいでしょう。以前「伊達の十役」で書きましたが、こういう芝居は役を描き分けようとする必要はなくて、「またまた海老蔵が出て来たわい」となってちっとも構わないのです。まず自分に相応しい声質(それが最も楽に発声できて客席に通る声なのです)を見付けて、それで押し通すことです。口調において役を仕分けるのです。それが出来れば、「勧進帳」でも何でも他の芝居も変わってくるのですがねえ。優れた役者はみんな自分の声を持っているものです。役というものはひとつの人格(役者)が纏った仮の姿に過ぎないというのが、歌舞伎の役人替名の思想なのです。

まあそのこと置いておけば、海老蔵の「毛抜」の粂寺弾正も「鳴神」の鳴神上人もそれなりの出来だと思います。海老蔵は粂寺弾正の見得や鳴神上人の荒れに大きさと激しさを出しており、そこに海老蔵らしさを十分発揮しています。角度によって見た目が十一代目団十郎に似る(もっとも吉之助は映像で知っているだけですがね)のは嬉しいことですが、雰囲気としてちょっと十二代目に似たおおどかな味わいがしたのがさらに嬉しいところでした。というのは十年ほど前になりますが、海老蔵襲名の「」の観劇随想で「海老蔵の持つ鋭さが助六ではあつらえたようにピッタリとはまるのに、鎌倉権五郎ではまだそれほどでもない」ということを書いたのですが、今回の海老蔵は荒事における稚気が少し出せるようになってきたかなということを思ったのです。それがどこから出るのかと言うと恐らく台詞のちょっとした抑揚か間合いなのですが、これは出そうと思って出せるものではありません。吉之助としては役に鋭さが出過ぎないかという危惧をしていたのでこれは嬉しい誤算で、この方向で行けば海老蔵の荒事は良い方向に向かうと思います。ただし、かつてのようなツッパリの「助六」はもう見られなくなるでしょうが、これは成熟の過程で振り捨てていかねばならぬものだと思います。ただし粂寺弾正が八剣玄蕃に対する時に如何にも皮肉込めた嫌味な口調で返事する小細工は役の大らかさを消してしまいますから、せぬこと。不動明王でマイクを使うのも止めた方が良いと思いますね。

今回の舞台は玉三郎の雲の絶間姫が二十数年ぶりというのも話題でした。玉三郎の魅力が味わえる芝居らしい役が見たいなあと思うのに、旧歌舞伎座の閉場以来、玉三郎はどちらかと言えば舞踊に傾斜気味で、芝居はあまり負担の掛からない役ばかりだったように感じます。今回の玉三郎の雲の絶間姫は、そうした欲求不満を少し解消してくれた嬉しい出来であったと思います。十二代目団十郎との鳴神上人とのやり取りを思い出しますが、玉三郎の雲の絶間姫は女性上位の流れにも似たところがあって、そこに古典の現代性が見えました。玉三郎の華麗さが十二代目団十郎の大らかさと噛み合って互いの良さを引き立て合っていました。今回の海老蔵にもそのことが思い出される瞬間がありました。

(H26・12・26)


○平成26年12月・京都南座:「恋飛脚大和往来・新口村」

四代目梅玉の忠兵衛

四代目中村梅玉(忠兵衛)、二代目片岡秀太郎(梅川)、五代目片岡我當(孫右衛門)


別稿「和事芸の多面性」において、初代藤十郎の和事の技芸は本来もうちょっと凛としたところがあったものだと想像されるが、現実にはもっぱら哀れとかナヨナヨとした弱い印象によってのみ捉えられ上方和事として定着したということを書きました。このことは上方歌舞伎の代表作として伝わっている色々な作品の解釈に、いろいろ微妙な齟齬をもたらしている気がします。「曽根崎心中」の徳兵衛や「油地獄」の与兵衛などが現行の上方和事のイメージから見るとぴったり処理できないというようなことです。

たとえば「恋飛脚大和往来」ですが、本作には「封印切」と「新口村」という有名な場面があり・それぞれよく上演がされますが、上演記録を見ると明治期までは結構通し上演もあったのですが、大正・昭和期になると「封印切」と「新口村」を別々に見取りでやることが多くなってきます。吉之助も通し上演は昭和53年4月国立小劇場での孝夫時代の仁左衛門の忠兵衛くらいしか思い出せません。こういう世話狂言は通し上演の方が絶対良いと思うのにこれはどういうことでしょうか。吉之助が思うには、現行の歌舞伎では「封印切」の忠兵衛と「新口村」の忠兵衛のイメージの落差が結構大きい、芝居として繋がった感じがしない、ならば別々の芝居としてやった方が良いという考え方であったのだろうと思うわけです。

「新口村」の忠兵衛は公金横領という罪の重さに慄いて精神的にもう半分死んでいるということかも知れませんが、青菜に塩まいたように萎れ切って生気がない。影みたいな感じで存在感が薄い。実際、「新口村」を見るとこれは孫右衛門と梅川の芝居であって、忠兵衛はワキで、哀れと弱々しさの風情だけで持っている感じがします。「封印切」から続けた場合、現行の「新口村」のイメージはちょっと情緒的に過ぎるようです。これは「新口村」が道行浄瑠璃として清元など舞踊仕立てで上演されてきた歴史から来るのです。現行の「封印切」と「新口村」は、型・演出のそれぞれの成り立ちが全然異なるのです。ともあれ、現行の上方和事・哀れと弱々しさのイメージからすれば、「新口村」の忠兵衛は最も上方和事らしい役のひとつです。何度も上演されて、それだけ上方和事のイメージの練り上げが尽された役なのです。

そこで今回(12月)の京都南座での「新口村」の梅玉の忠兵衛ですが、浅葱幕が切り落とされた瞬間は「これは上方和事とはちょっと違うかな」という違和感が、吉之助にもなかったわけではないのです。それは恐らく忠兵衛の目付きあるいは視線の向け方、それから身体の置き方などの微妙な違いから来ます。しかし、梅玉は江戸和事の曽我十郎あるいは羽織落としの与三郎などが巧い方で、柔らかさ・優美さというところをしっかり押さえています。そのせいか芝居を見ているうちに「こういう忠兵衛も結構悪くないな」という感じがして来たのです。

特に感心したのは、全体に凛とした雰囲気が漂っていることです。吉之助は別稿「上方歌舞伎の行方」のなかで上方歌舞伎の将来を憂いて、「江戸歌舞伎の台木に上方歌舞伎を接ぎ木するようなことになったとしても上方歌舞伎は残ってもらわねば困る」ということを書きました 。この梅玉の忠兵衛のような行き方ならば、今後も上方歌舞伎が生き残って行く可能性はあるかなということをふと思ったのです。その根拠は本稿冒頭に触れた通り、初代藤十郎の和事の技芸は本来もうちょっと凛としたところがあったはずだというところにあります。あるいはこれも初代藤十郎の和事の本質に通じるものではないかと思えたのです。

梅玉の忠兵衛は精神的に生きている感じで、しっかりした存在感があります。たとえば目付きあるいは視線の向け方ということでいえば、いわゆる上方和事ならば、もっと憂いの目付きで目線を伏し目がちに置くでしょう。身体の置き方ももっと斜めにおいて身体を殺すでしょう。梅玉の忠兵衛は、そういうことをしません。浅黄幕が切り落とされた瞬間、観客席に向けてとても自然に身体が正対できています。この自然さが良いのです。だから全体に凛とした雰囲気が漂います。要するにナヨナヨしていないのです。

もちろん在来の上方和事の、哀れでナヨナヨとした弱々しい忠兵衛も残して行かねばならないものです。しかし、これから東京生まれの役者が上方歌舞伎をやることが多くなるならば、たとえ上方和事と江戸和事の混淆と言われようが、これはひとつの解決策であろうと思います。吉之助としては梅玉の忠兵衛から上方歌舞伎存続へのヒントをいただいたようで、ちょっと嬉しい気分でしたね。

(H27・1・10)


○平成27年1月・大阪松竹座:「将軍江戸を去る」

四代目梅玉の慶喜

四代目中村梅玉(徳川慶喜)、三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(山岡鉄太郎)他


別稿「新歌舞伎の行方」で触れましたが、昨今の新歌舞伎はそのフォルム感覚が怪しいことが多い。今回の舞台も第一場・上野の彰義隊の場では橋之助(鉄太郎)、弥十郎(伊勢守)も唾を飛ばして怒鳴るばかりで新歌舞伎の台詞になっていません。心情で熱く語る台詞を、大声で怒鳴る台詞であるか如くに捉えているようです。言葉のリズムが正確に表出できなくてはね。この場では例外的に亀蔵(天野八郎)だけが新歌舞伎になっています。

第二場・上野大慈院の場になると、橋之助・弥十郎がだいぶ持ち直す(それでもまだ十分とは言えないが)のは、相手役の梅玉(慶喜)がフォルムをしっかり持った台詞廻しでこの場を支配しているからでしょう。梅玉の慶喜はホントにお手本にしたいほど素晴らしいものです。派手さが抑えられているので、「音楽的に台詞を歌うべし」なんて書く劇評家がいそうですが、吉之助に言わせればこれこそ新歌舞伎の台詞だと言うべきなのです。二拍子のリズムを基調に置いた、考え抜かれた梅玉の台詞廻しには感心させられました。堅実に堅実将軍慶喜の内心の苛立ちをしっかり表現できています。しかも、その苛立ちを言葉のリズムのなかにしっかり押し込んで、あからさまに表に出ることはないというところが大事なのです。これこそ慶喜の立ち位置を示すものです。

橋之助(鉄太郎)はこの場でも怒鳴る傾向が残っており、畏れ多くも将軍を熱気で説き伏せようとしているかの如きですが、論理をしっかり語られないと、対話劇になりません。確かに戦争は絶対あってはならんのです」という言い分に反論できる者は誰もいません。いつでもこの台詞で客席から拍手が起きますが、橋之助に限りませんがどの鉄太郎役者も慶喜にセンチメンタルに訴えようとしているかのようです。

しかし、ここでの慶喜はひたすら恭順に恭順を重ねており、慶喜の方から戦争する気はないのです。問題は薩長が戦争をしたがっていることです。何か 難癖を付けて、幕府を戦争に引きずり込む機会を狙っていることです。慶喜としては、ここまで恭順の意を示しているのに・・・という憤懣が募る。鉄太郎が言うことは、そのような薩長の挑発に決して乗ってはならぬということであって、ならぬ堪忍をここですることが「尊王」の心を見せる核心 であり、それが戦争を避ける唯一の論理だということです。その論理がなければ、慶喜が鉄太郎の説得に心を動かされることはないのです。梅玉の慶喜が良いからそれなりの成果は挙げていますが、そのうち橋之助が慶喜をやることもあるだろうから、橋之助には梅玉の台詞廻しを盗んでもらいたいものです。

熱く論理を語るということは、大声で怒鳴ることではありません。まあ日本人は議論する時に相手を押さえつけるように怒鳴る傾向の方が多いようではありますが。このような大声で怒鳴る青果劇を横行させたのは、真山美保氏の問題ですね。青果劇というのは対話劇です。その台詞はしっかりと足が地に付いたリズムで語るべきものです。

(H27・1・24)


○平成27年2月大阪松竹座:「傾城反魂香・吃又」

四代目鴈治郎襲名の「吃又」

四代目中村鴈治郎(五代目中村翫雀改メ)(浮世又平)、 四代目市川猿之助(女房おとく)

(四代目中村鴈治郎襲名披露)


1月から始まった四代目鴈治郎襲名披露の2か月目、新・鴈治郎の四つの披露狂言のなかでは、この「吃又」の又平が鴈治郎の一番ニンに合っているでしょう。自分の願いを聞いてくれない師匠に迫っていく時の頑固さや・手水鉢に絵を描く時の必死さに、鴈治郎の真面目な人柄が生きています。客席も沸いていたし観終わった後味は悪くないですが、「吃又」の場合、又平が前面に出て芝居する場面は意外と少ないので・ニンの良さで隠れて目立ちませんが、演技がアッサリし過ぎでもう少し芝居気が欲しい気がします。

そういうことを思ったのは猿之助の女房おとくがなかなか良かったからでしょう。吉之助は最初のうちは若干しゃべりがうるさい感じがして、ちょっと前に出過ぎかなと思って辛目に見てましたが、後半は夫を気遣う情が出てなかなかの出来でした。後半、手水鉢の絵が抜けた奇蹟の前後では、良い意味で猿之助の芝居気・臭さが生きていました。そこで思うのですが、鴈治郎の又平も後半は猿之助に負けずに芝居して良いと思います。

この「吃又」は六代目菊五郎の型ですが、六代目の型は芸術家の苦悩という近代的視点を入れて見直した・もちろんそれなりのものですが、鴈治郎の又平がアッサリした印象なのは、六代目の型のせいもあります。六代目の型はちょっとアク抜きしすぎの感があります。昔の上方では改作「名筆反魂香」でいろいろ入れ事してたっぷりやったものでした。又平は初代鴈治郎の当たり役でした。今回の襲名披露狂言に挙がったのはその関係ですが、上方のがんじろはんが「吃又」やるのなら六代目のんはちょっとアッサリし過ぎとちゃいますか。もっと仕出かしてもええ思いますね。昭和七年4月中座の初代鴈治郎の又平・三代目梅玉のおとくの舞台の断片映像が遺っています。手水鉢の件の前後の映像ですが、こってりやってます。前半の又平は辛抱ですから、後半に発散すると大いに盛り上がります。「吃又」はそういう風に出来ている芝居なのです。上方のがんじろはんなのだから、もっとこってりやってもよろしかろうと思います。

(H27・2・15)


○平成27年2月大阪松竹座:「義経千本桜・川連法眼館」

四代目猿之助の「四の切」

四代目市川猿之助((源九郎狐・佐藤忠信、二役) 他


今月(2月)大阪松竹座の眼目はもちろん襲名の鴈治郎ですが、吉之助はこのところすっかり座頭しちゃってる猿之助の「吃又」のおとくにも興味ありました。将来のことを考えると猿之助もいろんな形で他流試合した方が良いと思います。才気ある・あり過ぎる人だけに本人はそういうのを是としないかも知れませんが、しかし、おとくは特に後半においては出過ぎず・新鴈治郎を支えてなかなか良いものでした。同世代の役者のなかでも猿之助が技芸的に抜きん出た存在であることを改めて確認できました。

先月(1月)歌舞伎座での「黒塚」は、襲名時(24年7月新橋演舞場)の上演について吉之助は「上中下の・三つの場面の連関をよく考えてもらいたい」と書きましたが、先月(1月歌舞伎座)の舞台では上の巻の重ったるさが修正されて、芝居の流れがだいぶ良くなりました。今月(2月松竹座)の「四の切」についても、襲名時(24年6月新橋演舞場)の上演では本物の忠信の台詞の末尾を引っ張 って詠嘆させて・大先輩(この時の義経は藤十郎・静は秀太郎)の台詞を邪魔していましたが、今回(2月)はこの点もかなり修正されました。襲名以来、猿之助は「黒塚」・「四の切」は相当回数の上演をしてきたわけで、そのなかでスムーズな流れを感覚的に掴めて来たのでしょう。当たり前のことのようですが、この点でも猿之助が日々進化していることが実感できます。 今回(2月)の「四の切」も前半の本物の忠信はだいぶ良い感じになってきました。

ただし源九郎狐の狐言葉は、襲名時とも違っていて・更なる独自の工夫を加えたということか、台詞の末尾がますます伸びています。「お名残惜しかるまいか」が「オシカルマイカーーーーーッ」と末尾をえらく引き伸ばしますなあ。よく息が続くものだと感心はしますが。他の箇所でも同じような風が散見されます。吉之助にはこれは狐言葉には聞こえません 。

「お名残り惜しかるまいか」については「オシカルマイ、カ」というのが正しいのではないですか。最後の「カ」は高く、しかし、あまり強く言わないで、そこに鼓の親と別れ難い子狐の哀しさを込めるのです。まだ解剖学がなかった時代の話ですが、人間の場合は五臓六腑というのに対し、狐は五臓五腑だと伝えられていて、つまり狐は人間より1・2倍ほど吐く息が多いとされていました。したがって狐が人間の言葉をしゃべると息が余る。だから逆に人間である大夫が狐言葉を使う場合、「お名残り惜しかるまいか」は「オシカルマイ」までで息の大半を使って、息次ぎをせず(「首で息をする」というが)若干の余りの息で「カ」と言う、これが義太夫節の狐言葉の技法であるはずです。「オシカルマイカーーーーーッ」と伸ばす狐の発声はあり得ない。どこかの口伝にあるならば教えてもらえませんかね。

そもそも猿之助の狐言葉は観客がよく笑います。もちろん好意的な笑いですが、こういうところで笑いを取るのは不味いというセンスが猿之助にはまだないようですな。 狐言葉は観客に「変わったアクセントだなあ」と思わせる程度のことでちょうど良いのです。狐言葉で観客を笑わせるようとするのではなく、ホロリとさせることを考えて欲しいものです。そうすればもう一段上に行けると思いますが。

それにしても宙乗りで高く上がった猿之助の源九郎狐を見て、吉之助が初めて二代目猿翁(三代目猿之助)の源九郎狐の宙乗りを見た時の気分が蘇って来て、ある種の感慨がありました。同じようなアングル(三階席)から見たせいでしょうかね。ちょうど猿翁が今の猿之助(39歳)と同じくらいの頃でした。観客席も同じように湧いていました。なるほど歴史は繰り返すか・・そんなことを思いました。芝居を長く見ているとそんなこともありますね。

(H27・2・19)


平成27年2月歌舞伎座;「彦山権現誓助劔・毛谷村」

七代目菊五郎の六助・五代目時蔵のお園

七代目尾上菊五郎(毛谷村六助)、五代目中村時蔵(お園)


菊五郎はお園を過去に何度かやっていますし(吉之助もその昔見ましたが、しかしもう35年も前なのだな)、六助も当然とっくの昔にやっているものと思ってましたが、今回(平成27年2月歌舞伎座)が意外や初役であるそうです。菊五郎がどうして急に六助をやろうと思い立ったのか分かりませんが、新たな役に挑戦しようという意欲には敬服しますね。六助は気分のいい役ですし、菊五郎の仁にぴったりの役だと思います。感心するのは、無理な力が入っていない・自然に丸く勤めていて、それでいて決めるところはさりげなく決めてみせる、そこに如何にも丸本の世話狂言という軽い味わいがあることです。糸に乗ってカクカクと気張って見せる、「これが人形味だ・義太夫味だ」というような力んだところがないことです。見ているこちらの気分がホンワカとする良い演技です。

このところの菊五郎の丸本ものはどれも良いですねえ。まさに円熟の芸という気がします。知っている人にしか分からないと思いますが、吉之助にとってはクラシック音楽で言うならば、円熟の境にあったカール・べームのブルックナーを聴くが如しです。つまり息が深いってことです。この境地まで来るのに菊五郎も長い過程があったことを吉之助も知っています。吉之助も同じだけの時間をお付き合いしてきましたから。もちろんこれは菊五郎だけのことではありません。別稿「幸四郎の筆売幸兵衛」で触れましたが、平成歌舞伎の立役陣(幸・吉・菊・仁・梅)すべてに言えることです。いやみなさん頑張っていますね、吉之助もこれまで歌舞伎を長く見て来た甲斐があったというものです。もちろんこの菊五郎の六助はいわば草書の芸であってね、若手がいきなりそれを真似して出せる味わいではないのです。若手は今はしっかり楷書の芸が出来るように努力せねばいけません。しかし、若手もいつかベテランとなった時には、いつか六助をこういう感じで出来ればいいなあということを考えてもらいたいのです。

時蔵のお園もしっかりやっています。虚無僧姿で登場してから、六助が自分の許婚と分かって態度を崩すまでの段取りも手堅いですが、これでもうちょっと華やかさがあったら言うことありません。お園のクドキの場面では、カラミを使うのと・使わないのと二通りの行き方があって時蔵は前者です。35年前の菊五郎のお園もカラミを使ってましたが、時蔵のお園にはこの方が良いでしょう。音蔵のカラミが煩いという向きがあったようですが、そんなことはありません。カラミの俊敏な動きのおかげで、ダレやすいクドキの場面が面白く見えて、時蔵のお園は華やかに見えて引き立ったと思います。正直申せば吉之助もクドキの場面ではカラミを使わない方が好きではあるのです。まあこれは批評家の立場ということもありますが。雀右衛門のカラミを使わないお園は確かによかった。しかし、カラミを使うのならば、やっぱり理屈でなく楽しませてくれないとね。

(H27・3・28)


平成27年2月歌舞伎座:「積恋雪関扉」

九代目幸四郎の関兵衛

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(関兵衛実は大伴黒主)、 二代目中村錦之助(宗貞)、五代目尾上菊之助(小町・墨染二役)


「関の扉」は天明歌舞伎の味わいを伝える古風な舞踊ですが、「古風な」ということを「大時代」と言う風に解釈してはいけません。後で「・・・実は天下を狙う大悪人・大伴黒主」ということになるから見顕わしする前の関兵衛も重くスケール大きくやれば良いと考えそうなところです (そういう関兵衛もいますがね)が、そうではないのです。そこを四代目芝翫は七代目三津五郎に「関兵衛は丸くやれ」と教えたそうです。つまり世話に砕いてやれということです。これは「関の扉」を初演したのが初代仲蔵であることを考えればすぐ分かることで、仲蔵は後の五代目幸四郎や三代目菊五郎に先立つ歌舞伎の現代化・写実化の先駆者なのですから、踊りにもそのような下世話な要素が入り込んでいるに違いない。たとえば六歌仙の世界に江戸の廓噺しが入り込んでくるミスマッチングがそうです。そういうキテレツな要素が六歌仙の世界に入り込むところが面白いわけで、そこを関兵衛が世話にキビキビやらねば全体が平板になってしまいます。幸四郎の関兵衛は、その顔の立派さ・姿の大きさにおいて見顕わしした後の黒主が良いのは当然のことですが、感心するのは前半が世話の軽みのある関兵衛になっていることです。台詞廻しが世話に砕けて良い味がします。踊りも小気味良く、とても良い関兵衛を見せてくれました。

しかし、「関の扉」というのはもちろん関兵衛だけの演目ではないので、役者のバランスがとても大事です。この点で錦之助の宗貞はかなり物足りない。あまり動きのない・風情で見せる難しい役には違いないですが、錦之助を見ていると木目込み人形を見るようで、視覚的には綺麗か知らないが、まるで風情がない。錦之助は襲名以来見る印象では小さくまとまって伸び悩んでいるようで、こういう大役もらった時に仕出かしてくれないと困るのだがね。菊之助も小町に関しては綺麗綺麗に終わっているようです。何というかな、情の表出がまだちょっと乏しいのですね。したがって、これだけ良い関兵衛なのに上の巻は満足というわけに行きませんでしたが、それにしても上の巻はつくづく難しい演目だと思いますね。吉之助としては、昭和54年5月歌舞伎座の八代目幸四郎(関兵衛)・七代目梅幸(宗貞)・六代目歌右衛門(小町・墨染)の配役がいまだ忘れがたいところです。

しかし、菊之助は墨染桜の精の方はなかなか良く、スケール大きい幸四郎の関兵衛(黒主)と相まって下の巻は堪能させてくれました。菊之助は墨染は平成23年12月平成中村座以来2回目だと思いますが、とにかく綺麗。六代目歌右衛門の、暗い情念を秘めた冷たく湿った感覚ではないのは仕方がない。菊之助の場合は桜の樹の精ということでどこやらメルヒェンチックな健康的な感覚ではありますが、この世に在り得ない美しいものという感じが確かにある。これは作品から逸脱した感覚ではないので、ここを押さえておけば、下の巻は何とかなるということでしょうか。

(H27・3・22)


平成27年2月歌舞伎座:「水天宮利正深川・筆売幸兵衛」

九代目幸四郎の筆売幸兵衛

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(船津幸兵衛)他


歌舞伎座再開場以来の平成歌舞伎の立役陣(幸・吉・菊・仁・梅)の充実ぶりは目を見張るものがあり、どの舞台を見ても唸らされるものがあります。ここ数十年のなかでもこれだけ立役が充実した状況は、昭和四十年代後半から五十年代前半以来のことかと思います。(他方、女形陣は頑張っているもののやや手薄の感あり、そこは仕方がない。)彼らが若手花形と呼ばれていた時代から見て来た吉之助にも、この芸の花の盛りを見る感慨はまた格別なものがあります。若い 歌舞伎ファンの方は平成歌舞伎の今をしっかり目に焼き付けておいて欲しいと思います。

今回(平成27年2月歌舞伎座)の「水天宮利生深川」の幸四郎の筆売幸兵衛もまた見事な出来です。後半の幸兵衛の狂乱の態が上手いのはまあ当然のことですが、感心したのは前半の幸兵衛の抑えた演技です。武士の雰囲気がある人なので零落した幸兵衛の姿に真実味があるのが幸四郎の強みですが、それで観客の哀れを誘うのではなく・憤りをグッと自分の腹のなかに抑え込んだ渋い演技になっているのが実に良い。これが伏線になるから後半の狂乱が生きてくるのです。もちろん周囲の役者たちが良いことも付け加えておかねばなりません。お雪とお霜の二人の娘(児太郎と金太郎)がとても良いですね。

それにしても今回の舞台もそうですが、最近(ここ2年)の幸四郎の世話物には、十七代目勘三郎の匂いをフッと感じることがあって、吉之助はこれをとても興味深く感じます。柄も芸風も全然違うはずなのに、幸四郎はどこかで十七代目勘三郎から芸の何かを受け取って、それを幸四郎の仁のなかで上手く生かしているという気がするのです。たとえば昨年(平成26年4月歌舞伎座)の髪結新三ですが、幸四郎の新三には上総無宿の入墨新三という暗くニヒルな陰があって、これが確かに十七代目勘三郎に通じるものでした。あるいは先月(平成27年1月歌舞伎座)の「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛の最後の台詞「棒っ切れを振り回してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛かんざし巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんにせめて見てもらう、駒形のしがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」の台詞廻しは、泣きが強いのは幸四郎の役者としての誠実さというべきものなので置くとしても・この要素を除けば、台詞の末尾を張らないところなどにやはり十七代目勘三郎の台詞廻しの何かを継いでいる気がします。この筆売幸兵衛もそうです。たとえば幸兵衛が隣家の清元を聞きながら嘆く台詞「・・同じ世界のものなるに身の盛衰と貧福は、こうも違うものなるか」の抑えた台詞廻しです。

これは息子の十八代目勘三郎を貶めるということではないと読んでもらいたいですが、十八代目は柄も親父さんに似ており、世間も先代(十七代目)の面影を彼に見ようとし、だから何をやっても「親父さんそっくり」だと言われることで徳をしてきたこともあったと思いますが、実際ビデオで見比べてみれば、吉之助が批評眼で意地悪く見るせいもありますが、案外違うところが目に付くわけです。型ものと言われるようなものは兎も角、世話物での十八代目は、彼の自信から来るものかと思いますが、親父の真似ではない進化形を目指したのかも知れません。吉之助から見ると、世話物での勘三郎の台詞は先代が張った部分をより高調子に強く張ろうとする傾向があり、そのため台詞がやや時代の方に傾いたきらいがありました。吉之助としては、むしろ先代が低調子に抑えたところを取って欲しかったのですが、十八代目はそこを取りませんでした。一方、吉之助が十八代目にそうして欲しかったところを、まさに世話物での幸四郎が取っていますね。だから吉之助は幸四郎の世話物に十七代目の匂いを感じるのだろうと思います。幸四郎は自分の仁と柄のなかで、十七代目の芸をうまく消化して受け継いでいると感じます。

今回の幸四郎の幸兵衛でも、前半を低調子に抑えたところが黙阿弥のフォルムにぴったり合っています。やはり音羽屋系統の世話物は低調子に抑えるのが基本なのです。吉之助は舞台を見ながら、御世辞ではなく・これはもしかしたら十七代目の幸兵衛よりも作品の幸兵衛のイメージに近いかなと思いました。「水天宮利生深川」が散切物の世話物ながら、まさに当時の現代物たるリアリズムに迫っているということを実感しました。黙阿弥というのはやはり凄い戯作者ですね。黙阿弥の舞台でこんなに嬉しい気分になったのは、ほんとに久しぶりのことでした。

(H27・3・26)


平成27年3月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」

四代目松緑の源蔵・七代目染五郎の松王

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(松王)、 四代目尾上松緑(源蔵)他


いつぞや「寺子屋」を見ていたら源蔵(役者の名前はあえて伏す)が登場して戸を開けるなり「いずれを見ても山家育ち」の台詞を高らかに時代で張り上げて言いました。よく考えて欲しいのですがね、目の前に寺子たちが「御師匠さん、お帰り」と居並んでいるのですよ。彼らにぶつけるように「いずれを見ても 山家育ち」と大声で言うのは変ではないですか?これは源蔵が思わず口にしてしまう独り言なのです。もちろん戸浪に「山家育ちは知れてあること・・」と言われるから・それくらいの大きさの声では言っているわけですが、これは自嘲の台詞なのです。これは押し殺すように低い声で言われなければならない。源蔵は帰りの途中で「もしかしたら寺子のなかのひとりを身替りに・・」ということを考えて戻るのですが、帰って寺子たちの顔を見れば身替りにできそうな利発そうな子はいない。これは初めから分かりきったことなのだが、源蔵はがっかりすると同時に、改めて自分は何て恐ろしいことを考えたのかと自分を呪いたい気持ちにもなる。そういう気持ちが源蔵のなかに錯綜するのだから、「いずれを見ても 山家育ち」の台詞を高らかに言えるはずがない。この役者は「せまじきものは宮仕えじゃなあ」も高らかに詠嘆調で張り上げてました。源蔵に全然嘆きの風が聞こえません。吉之助はこういうのは「七五調で詠嘆すれば子供を殺してもセーフ」の感覚だと思います。いわゆる歌舞伎らしさの上っ面をなぞるのではなく、役の心理をもっと掘り下げて演じて欲しいと思いますね。

そこで平成27年3月歌舞伎座・「寺子屋」での松緑の源蔵のことですが、さすがに松緑はそんなことはない。「いずれを見ても山家育ち」も「せまじきものは宮仕えじゃなあ」も低い調子で抑えて発声しています。これが正しいのです。松緑は見掛けが武士らしい感じもあり声もよく通りますから時代っぽい源蔵になるかなと予想してしましたが、台詞を低めに抑えて時代の印象に陥らなかったのは成功でした。特に首実検までの前半が緊張感もあって良い源蔵であったと思います。後半の「若君菅秀才の御身代りと言ひ聞かしたれば潔ふ首さしのべ・・につこりと笑うて」ではやや台詞の調子が高くなったようですが、ここも低めに抑えては如何かな。

染五郎は線の太い松王を心掛けていますが、むしろ染五郎の松王の良さは感情表現の細やかさにあるようです。だから後半がなかなか良い松王です。吉之助の周囲ではいろは送りの場面で涙ぐんでいるお客も多かったようでした。3月歌舞伎の夜の部は若手役者による「菅原」通し後半でしたが、いよいよ歌舞伎も彼らの時代になってきたようですね。

(H27・4・4)
 


平成27年7月歌舞伎座:「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」

十一代目海老蔵の「熊谷陣屋」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(熊谷直実)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(相模)、二代目中村魁春(藤の方)、四代目市川左団次(弥陀六)、四代目中村梅玉(源義経)


今回(平成27年7月)歌舞伎座で海老蔵の熊谷は初役で、吉右衛門の指導を受けたとのことです。まあ確かに手順としては似たようなことをしていますが、随分と受ける印象が違うものだなあと思いました。いや別に悪いと云っているわけではないのです。吉右衛門の熊谷は古典的で安定感があり、「十六年はひと昔・・」の名台詞がしっとりと心に沁みわたる立派なものです。これに対して海老蔵の蓮生坊(出家した熊谷)は悟ろうとしてなお悟りきれない、悟ろうとしても心の底から懐疑(と云うよりも憤(いきどお)りと表現した方がふさわしいかも知れません)が湧き上がってきて、これを振り払うように花道を一気に走り去る熊谷という風に感じられました。吉之助の子供はもう一応成人していますが、海老蔵の子供さんはまだ幼い。若き父親にとっては「もしこのように我が子を殺さねばならぬ場面が自分に起こったとすれば・・」と考えれば、やはりいたたまれないものであろうか。そんなことを思ったりするほど熊谷の感情が生々しい。そうなると「十六年はひと昔・・」も抑えようとして抑えきれない思い出が脳裡を駆け巡るように感じられ、観終わった後はちょっと暗澹たる気分にさせられました。まあ一石を投じる懐疑の熊谷とでも云うべきでしょうか。

他の役者たちが(しかも配役は梅玉の義経・魁春の藤の方など特上に揃っている)いつもの演技でいるなかで、海老蔵の熊谷だけが別次元の様相を呈しています。まあこういうのを作品本来の熊谷とはちょっと違う・特に団十郎型の熊谷のコンセプトとはちょっと異なるということを指摘するのは容易いことです。その線で観劇随想を書いても結構長いものが書けそうです。しかし、吉之助としてはこの海老蔵の熊谷は不器用で洗練されていない・まだまだ修業が必要には違いないにしても、駄目と切り捨てるのは惜しい気がしますね。熊谷のなかにある懐疑・アンビバレントな引き裂かれた感情、そのようなものは作品の熊谷のなかに間違いなくあるものです。そういうものが現行歌舞伎では古典的に収まり過ぎて見え難い。諦観し過ぎだということです。一方、海老蔵は熊谷のアンビバレントな要素を抉り出して、これを臆面もなく前面に押し出してきたところに海老蔵の非凡さがあるのです。ただこのままでは歌舞伎のフォルムをはみ出してしまう。これを如何に歌舞伎の枠のなかにバランス良く収めてみせるかということを今後の海老蔵の課題とすべきです。

それにしてもちょっと荒事風の熊谷だなあという感じはしますね。もしかしたら芝翫型の赤面の熊谷の方が海老蔵には似合うかなという気さえします。目力(めぢから)は確かに海老蔵の武器には違いありません。しかし、制札の見得など角々の決まりで目を剥くのが必ずしも効果的に思えません。決まりがドラマのなかで正しく位置づけられず、形の立派さだけが遊離しています。物語でも熊谷がひとり自分の感情に浸っている。しかし、正しくはこれは嘘の物語。相模・藤の方だけではなく、奥にいる平山・義経にも語りきかせる嘘の物語なのです。昨年(平成26年5月)の「勧進帳」の弁慶でもそうでしたが、海老蔵はまだ自分の芸の正しい立ち位置をつかめていないようです。型を演技の手順・段取りと考えるのではなく、心理の裏付けを持った行為(パフォーマンス)とみなすことができなければ、型はドラマのなかで生きて来ません。脚本を正しく読み込んで、そういうことを良い・悪いときちんと指摘できるブレーンが海老蔵には必要なように思いますが。

(H27・7・14)


平成27年8月:ラスベガス公演:「鯉つかみ」

七代目染五郎ラスベガス公演の「鯉つかみ」

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(滝窓志賀之助) 、五代目中村米吉(小桜姫実は鯉の精)


「染五郎がラスベガスに乗り込んで初の海外歌舞伎公演」ということで話題になった「鯉つかみ」の映像がNHKで放送されたので、これを見ました。この公演はラスベガスの高級ホテル前の 仕掛け噴水のある大きな池に特設舞台を組んで行われたもので、無料公開パフォーマンスであったそうです。公演は8月14日から16日の夜に計5公演が行われ、観客動員は10万人を超えたそうですから、まずは成功ということのようです。カブキを初めて見たラスベガスの観光客の反応が知りたいところですが、映像を見ると背景にある噴水をスクリーンに見立てた大掛かりなもので、観客と舞台との距離は相当あるし、まあ遊園地での光と噴水のショーの域を出ないものでした。「あの映像の鯉はデカかったなあ・・」みたいな印象しか残らないように思いました。役者の動きに合わせて舞台背景および噴水にコンピュータ合成映像を照射した映像演出チームのご苦労が察せられます。まあ「鯉つかみ」なんて内容のあるものではないし、堅いこと云わずにショーアップされていればそれで十分というところではあります。

ところで昨年(平成26年3月)NHKEテレで放送された(野村萬斎との)対談番組で猿之助がこんなことを言っていました。海外歌舞伎公演すると絶賛ばかりで歌舞伎はこれで良いんだと思ってしまうと、歌舞伎の本質を見誤ってしまう 危険がある。今や日本も世界の一部なのだから、これからは日本でしっかりやらないといけないと思うと云うのです。残念ながら故(十八代目)勘三郎は(これにはいろいろと 背景があることですが)凱旋公演とか言って舞い上がって、どつぼにはまったところがありました。(これについては吉之助の書籍本「十八代目中村勘三郎の芸」を参照ください。)一方、猿之助は物事を冷静に見ることができる役者だと感心しますね。現在新橋演舞場の上演中の「ワンピース」が猿之助のその解答になっているのかは分かりませんが、多分考えた末のものが何か出ているでしょう。

話を戻すと、今回の映像では前半の志賀之助と小桜姫の舞踊の動きが腰高でラフな印象で物足りない。歌舞伎座でやっているつもりで本気で腰を据えて形をしっかり決めてもらいたい。舞台と観客の距離が遠いからどうでも良いことのようですが、日本とか海外とか関係なく、やるべきことを常にしっかりやるのが大事なことなのです。染五郎は直前のインタビューで「歌舞伎の底力」ということを言っていましたが、次回の海外公演ではしっかりと内容のある芝居で勝負して欲しいと思います。芝居の筋の分からない外国人には見得と色彩と派手な立廻りを見せときゃいいや・・と染五郎が考えているとはまったく思いませんが、歌舞伎の底力を見せ付けるにはむしろ正道で行く方が宜しいかと思います。

(H27・10・18)


平成27年9月歌舞伎座:「伽羅先代萩」

秀山祭の「先代萩」

四代目中村梅玉(足利頼兼)、二代目中村吉右衛門(仁木弾正)、四代目尾上松緑(荒獅子男之助)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(細川勝元)他


秀山祭での「先代萩」の通し。玉三郎の政岡については別稿をお読みいただくとして、その他の役々についてメモ的に記することにします。まず良かったのは梅玉の頼兼。鷹揚な動きのなかに身に備わった大名の風格が自然と現われるというか、鼻歌を歌うような感じで剣の達人の如く刺客の手をふわりとすり抜ける。小者が手出しのできる相手じゃないというところですね。こういう天然系の主人が傾城狂いすると、本人に良心の呵責がないだけに周囲は扱いに困るであろうなあということもよく分かります。このところの梅玉はどの役も充実していますね。

床下での吉右衛門の仁木も凄みがあって線が太い演技で素晴らしいと思います。数歩かけてゆっくりと身体を上下させて妖術で空中を浮遊している感じをよく出しています。しかも息をじっと詰めているから、花道の長い引っ込みも緊張感がよく持続しています。しかし、問注所の仁木は、お疲れのせいでしょうか、声が低く小さすぎて、どうも陰気臭くてもっさりと冴えない感じがします。もっともこの場の仁木で良いのを見たことがありませんが。芝居が実録風になっているせいでしょうかね。

床下の荒獅子男之助は、昔見た初代辰之助が良かったのを思い出します。当代松緑も声の通りが良い人なので期待しましたが、吉之助が見た千秋楽にはちょっと喉の調子が良くないようでした。動きも良いし悪くない男之助ではありますが、喉を痛めたのは荒事の台詞の高調子の節回しに気が行っていたところに若干の問題があったかと思います。まあ荒事らしく高調子を取るのも大事なことですが、それよりも、もっと噛 み砕いて台詞を言ってもらいたい。そうすれば喉の負担も少なくなるし、台詞が歯切れ良くなってもっと荒事らしくできるはずです。そうすると荒事で高調子にこだわる必要はないということも分かると思います。お祖父さん(二代目松緑)だって調子は低かったのですから。

台詞を噛み砕いて言って欲しいということは、場面は違いますけれど、門注所での染五郎の勝元についても同じことを言いたいですね。仁左衛門の勝元の台詞をよく研究したと思いますが、表面的には確かにサラサラと弁舌爽やかに聞こえます。勝元は儲け役だし印象は悪くないのですが、滑らかすぎて言葉が滑って、台詞が少々上っ面に聞こえます。門注所が仁木とがっぷり対決構図に見えてこないのは、そのせいです。台詞の速度をもう少し遅くしても、もっと噛 み砕いて台詞を言った方が良い。しらばっくれる仁木に対して論理をひとつひとつ積み重ねて迫って行くのが勝元の仕事です。台詞の流れに酔ってはいけません。勢いに乗って台詞の末尾を長く引き伸ばすのも気になりますねえ。幕切れの外記に対する台詞も爽やか一辺倒でなく、もう少し実が欲しいところです。

(H27・10・21)


○平成27年10月歌舞伎座:「一條大蔵譚」

十五代目仁左衛門の大蔵卿

十五代目片岡仁左衛門(一條大蔵卿)他


仁左衛門の人間国宝として初めての歌舞伎座登場。本心を顕わして長刀をもって登場した大蔵卿が、とにかく颯爽としてカッコ良い。もちろん阿呆ぶりも柔らか味があって、下品に陥るということがありません。本心と裏面を鮮やかに切り分けて見事なものです。大蔵卿が阿呆を装うのは、平家横暴の世の中に背を向けて、いつかは平家討伐の大望を果たす・そのための時節を待つということです。仁左衛門の大蔵卿は、その大望を胸の内に秘め、いわば戦略的に潜伏するという感じでしょうかね。「お前たちには分からないだろうが、 実は俺には考えがあるのだよ・・」と周囲の視線を楽しんでいるようなところがあるから、当然その阿呆振りは明晰な印象になります。まったく文句の付けようのない見事な大蔵卿で、吉之助はこの感触が文楽の大蔵卿ならば大満足だと思います。しかし、歌舞伎という演劇は、文楽よりも或る種の過剰性を持つものだと思います。同じ題材を演じても、文楽と歌舞伎とは色合いが微妙に異なって来るはずだと思います。歌舞伎の過剰性を以て一條大蔵卿を見るならば、大蔵卿はどういう感触になるだろうか、吉之助としてはそういうことを考えてしま いますね。

若手がこれから大蔵卿を演じようというならば、いきなり勘三郎(十七代目が良かったが、十八代目のも悪くなかった)や吉右衛門(初代のものはもちろん名品だったでしょうが、吉之助は見ていないので、この場合は二代目)の映像を参考にするよりは、役の基本的な性根をよく理解するために、まずはこの仁左衛門の映像を教材としてよく研究すれば良いと思います。仁左衛門の大蔵卿は押さえるべきところはしっかり押さえています。仁左衛門の大蔵卿をベースにして、自分の個性を付け加えて行けばよいと思います。その時に歌舞伎の過剰性ということをちょっと頭の片隅に置いて欲しいと思います。

歌舞伎の大蔵卿が持つ過剰性とはどういうものでしょうか。それは「私が今ここで見せている態度は、私が本当に感じていることとは違う、今の私は自分を裏切っている」という思いです。それが優柔不断な形で出るか・イライラした憤懣の形で出るかは役によって異なりますが、これが歌舞伎の立役に頻出するパターンです。例えば和事の紙屋治兵衛がそうですし、「忠臣蔵」の由良助もそうですし、「伊勢音頭」の福岡貢もそうです。(それぞれの論考をご参照ください。)大蔵卿も「私が今ここで見せている阿呆は、私が本当に感じていることとは違う」という複雑な様相を揺れる感じで表現する、歌舞伎ならばそういうところが欲しいと思います。ギラリとした感触でも・フワッとした感触でもそれはどちらでも良いのです。

要するに歌舞伎ならば、「今の私は自分を裏切っており・心ならずも阿呆を演じている」というところが欲しいのです。大蔵卿は確かに 狂言舞が好きなのでしょう。しかし、作り阿呆を楽しんでいるということではないと思います。そこに平家全盛の世に対する憤懣が重なって見えてきます。仁左衛門の大蔵卿はスカッとカッコ良過ぎて、そこのところが見えにくい。阿呆を楽しんでいるかに見えかねないところがあります。もっともそれがこの舞台のご機嫌な気分につながっていることも確かなのです。その意味において文楽の感触に近い大蔵卿であると云えるでしょうか。

(H27・10・10)


平成27年11月歌舞伎座:「元禄忠臣蔵・仙石屋敷」

十五代目仁左衛門・四代目梅玉の「仙石屋敷」

十五代目片岡仁左衛門(大石内蔵助)、四代目中村梅玉(仙石伯耆守)他


真山青果の連作「元禄忠臣蔵」のなかでは「仙石屋敷」は地味な存在で、「御浜御殿」や「大石最後の一日」と比べると上演頻度が極端に少ないですが、単独で上演されるのも今回は2011年12月京都南座以来のことで、戦後ではその他5回の上演はすべて「元禄忠臣蔵」通し上演でのものです。これはまあ仕方が ないことかと思います。「仙石屋敷」というのは宿願を果たした大石以下赤穂義士四十六名が幕府に討ち入りを報告する場面を劇化したもので、一般的感覚からすると元禄赤穂事件のなかでの節目のエピソードではないので、あまりドラマチックな箇所と思えないわけです。だから通し上演でも省かれることが多いし(つまりあっても無くても良い場面のように思えるということ)、実際の芝居の方も動きが少なく・対話ばかりで変化が少ない。なるほど単独上演が少ないのも無理はないと思います。

しかし、青果はもともと「元禄忠臣蔵」を通し狂言にするつもりはなかったわけで、「仙石屋敷」も二代目左団次により昭和13年4月明治座で単独作品として初演されたわけです。ですから見取り狂言ではないけれども、「仙石屋敷」を敢えて単独作品として出そうというならば、これを元禄赤穂事件の流れのなかでの途中のエピソード(筋として未完のような印象)ではなく、単独で完結したドラマとしての印象を提示できねばならないと思います。今回(平成27年11月歌舞伎座)上演は、これまで数々の青果劇で優れた演技を見せて来た仁左衛門と梅玉の共演なので大いに期待しましたが、そうなってはいません。二日目のことでもあり、仁左衛門と梅玉との間の段取りがまだ十分に取れていません。

今回のプログラムに「仙石屋敷」が挙がった経過は知りませんが、次の幕に「勧進帳」(幸四郎の弁慶)があることを考えると、問答(内蔵助対伯耆守)での対比を意図したかなとも思います。もちろんこれは取り調べですし、安宅の関での山伏問答のような「通す通さぬ」という火花散るものではないですが(伯耆守には赤穂義士への同情が前提にあるわけで)、歌舞伎には珍しい議論劇(論理の応酬)の面白さを見せねばなりません。しかし、動きが極端に少ない舞台面で・小難しい議論を長々聞かされるのも観客にとってはなかなか厳しいところがあります。最近は赤穂浪士の討ち入りをよく知らない方も多いそうだから尚更です。(吉之助の周囲のお客さんは長台詞を辛そうにしていました。)その場合には「勧進帳」の山伏問答のテンポ設計が参考になるでしょう。つまり歌舞伎十八番においても青果劇においても二拍子が基本リズムにあるわけですが、テンポはクライマックスにおいてはアッチェレランド(テンポが段々速くなる)があって良いわけです。仁左衛門も梅玉も青果劇では素晴らしい演技を何度も見ましたが、今回の台詞は淡々と二拍子を刻んでおり、テンポにおいて高揚を示すところがあまりありません。これではかなり物足りない。熱く語るということをフォルムに置いて示してもらいたいものです。(詳しくは別稿「左団次劇の様式」をご覧きただきたいと思います。)

内蔵助と伯耆守との対話では、二人が思わず熱くなる対話の大波が二か所ほどあります。ひとつは内蔵助が伯耆守に対し「お言葉を返し、恐れ入りますが、われわれ一同夜前の働きを、徒党とお認めなさる段は、手前ども少しく不足に存じまする」と言い出す場面、もうひとつは「恐れながら、そのご批判は、天下御役人さまの思し召し違いと存じます」と言う場面、ここで赤穂義士たちに同情的な伯耆守さえ気色ばむことを内蔵助は言い始めます。そこから始まる問答を経て伯耆守が「条々、明白なる申し開き、我らも一同、感にたえた」と言うまでが、議論のクライマックスです。つまり内蔵助はお上に対してひたすら控え入り恐縮するのではなく、堂々と自己を主張しているのです。(組織と法の論理によってがんじがらめにされた状況で個人の情を主張した芝居が昭和13年という時勢に あり得たということにも思いを馳せて欲しいと思います。)そこへ至るまでに対話の小波・中波が何度かあり、そして大波が最後に来る。その道程を台詞のリズムでどのように構築するかが、二人の役者の芸の見せどころであるはずです。当然、その対話の熱さによって台詞のテンポは早くなったり・元に戻ったりするのです。やっていることは「勧進帳」の弁慶と富樫の応酬とそれほど変わりがありません。この後、伯耆守が「これは余談だが・・(討ち入りに参加しなかった)他の者どもは、みなが如何いたしたことであろう」と言って内蔵助が「憎み責めるよりは、悲しき人の姿」というところは、いわば観客の興奮を鎮める整理体操のようなものと思えば良いわけです。この辺、対話のテンポ設計に工夫ありたいと思います。ふたりの名優に千秋楽までの修正を期待したいところですね。

(H27・11・4)


○平成27年12月国立劇場:「東海道四谷怪談」

雪景色の蛇山庵室

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(民谷伊右衛門)、 七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(女房お岩)他


「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月江戸中村座での初演。この時の「四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演し、二日掛かりで完了する興行形式を取りました。ただし「四谷怪談」と「忠臣蔵」のテレコ上演は初演の時だけのことで、以後は「四谷怪談」は単独で上演されてお化け狂言として人気狂言になったのでした。台本を読めば読むほど「四谷怪談」と「忠臣蔵」との関連が緊密なことは明らかなのですが、残念ながら初演の時の「忠臣蔵」がどのような形で上演されたかということは、初演の時の「忠臣蔵」の台本が失われている為に文献的にまったく分からないのです。数多い「四谷怪談」のほとんどすべての研究は、いつもの「忠臣蔵」がいつものように並べて演じられたのだろうという前提(あるいは思い込み)で成り立っています。本当にどうだったかは想像するしかありません。吉之助がどのようなことを想像したかは別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵」をお読みください。

「四谷怪談」に「忠臣蔵」を絡めた興味深い試みとしては、昭和55年4月明治座で二代目猿翁が昼夜通しで演じた「双絵草紙忠臣蔵(にまいえぞうしちゅうしんぐら)」の舞台が思い出されます。この時、猿翁は師直・由良助・お岩・直助権兵衛などを早替わりで演じました。今月(12月)国立劇場で上演の、幸四郎・染五郎らによる「東海道四谷怪談」はそこまでではないですが、「四谷怪談」の最初と最後を「忠臣蔵」に関連付けて、今回の舞台では雪景色の蛇山庵室幕切れにおいて与茂七と又之丞の赤穂義士二人によって不義士伊右衛門がトドメを刺される場面が挿入されていました。廣末保先生がこれを見たら、卒倒するかも知れませんねえ。「四谷怪談」についての著書のなかで廣末先生はこのように書いていました。

『(「四谷怪談」幕切れで伊右衛門が死んだということになれば)「忠臣蔵」の義士・与茂七によって(伊右衛門は)否定され克服されたことになる。これでは何のための「四谷怪談」だったか訳が分からない』(廣末保:「四谷怪談―悪意と笑い (岩波新書)」)

たまたま吉之助のお隣りに座ったお客さんも舞台を観終わって「どうもモヤモヤするなあ、お岩の件だけの方が良かったのに・・」とブツクサ言っておりました。まあ「四谷怪談」を夏狂言のお化け芝居と見る限り「忠臣蔵」との関連はどうでも良いことです。しかし、「忠臣蔵」は建前の世界・「四谷怪談」はこれを批判する本音の世界という割り切った二元構図では、南北が生きた文化文政期の健康なバランス感覚が見えて来ないと吉之助は思いますがねえ。南北作品はその残酷性・猟奇性がよく 議論されますけれども、実はそれらは日常生活におけるスパイスみたいなものです。観客は芝居で危険な匂いを楽しんでも、明日からは社会のルールをしっかり守って真面目な市民生活を送らなければならないのです。明日からまた同じ生活が始まります。伊右衛門が「仇討ちなんてご免だ・忠義なんて真っ平だ」と言ったとしても、観客はそんなことに同調するわけには行きません。裁くべきものが正しく裁かれることで社会は健全に機能するのです。それで芝居は「然り。そうでなければ叶わない」というものになるのです。これは同じ「四谷怪談」を見る現代人にとっても同じことではないでしょうか。今回の討ち入りに絡めた「四谷怪談」は、お化け芝居として肥大化した「四谷怪談」を本来の感触に引き戻すためのひとつの手段として興味深い試みです。

『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそれは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多いのじゃないか。それはネガみたいなものです。(中略)本当に刺激の多い激しい時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出てくる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたいへん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(ドナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)

幸四郎の伊右衛門・染五郎のお岩、ともに肥大化していない、作品が本来求める程良いサイズの人間像が提示できていたと思います。「モヤモヤするなあ」と言っていたあのお客さんも、いつかそのモヤモヤの正体を見極めてくれれば良いなあと思います。

*鶴屋南北の「四谷怪談」の同時代性については、別稿時代の循環・時代の連関〜歴史の同時代性を考える」が参考になります。

(H27・12・20)


 

 (TOP)   (戻る)