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左団次劇の様式〜二代目左団次の芸

*本稿では二代目左団次の新歌舞伎の台詞の基本イメージを論じています。 新歌舞伎に先立つ様式のリズムについては別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」で考察をしています。台詞というものは役者がしゃべる生きた言葉ですから・台詞はこうしゃべらなくてはならないという定型があるわけではありません。しかし、守らなければならないイメージが厳然としてあります。そこのところご注意いただきながらお読みください。


0)プロローグ:二代目左団次の芸

『私、たいていの「勧進帳 」は勤めさせていただきましたけれども、やはり富樫は先代(二代目)の左団次がようございましたな。』(三代目杵屋栄蔵:「日本の芸術」〜三島由紀夫との対談:昭和31年 )

三世杵屋栄蔵(明治23年〜昭和42年)がこう語っています。二十代で歌舞伎座の長唄立三味線を勤めたほどの名人です。対談では二代目左団次の富樫についてはこれしか語っておりません。二代目左団次が亡くなったのは昭和15年2月のことですから・左団次の舞台を生で知っている方も少なくなりました。もちろん戦後生まれの吉之助が知ろうはずがありません。さて・この杵屋栄蔵のひと言から何が分かるでしょうか。

「見たこともない昔の役者の舞台など想像できないし・興味もありません」という方は・「歌舞伎素人講釈」などお読みにならないでしょうが、そういう方は冒頭のひと言に何も感じないでしょうねえ。「左団次の富樫が良いと言っても・所詮 は好みの問題でしょ。」という方も「あっ、そうですか・・」で終わりかと思います。杵屋栄蔵のひと言を読んで・「そんなに良かったという左団次の富樫とはどんなものだったのかなあ」と思う方だけが芸談から果実を得ることが出来ます。芸談を読む場合には「目の前の(現在の)舞台がこれほど素晴らしい・ならば昔の舞台はどれほど素晴らしかったのだろう・もっともっと素晴らしかったに違いない」と思って読むことです。つまり歌舞伎の規範はつねに過去にあるということです。このことを肝に命じておかねばなりません。それでは杵屋栄蔵のひと言で何が分かるかですが、雑誌「演劇界」増刊「三代の名優」(昭和57年発行)から二代目左団次の項を紹介しておきます。これが手掛かりになります。

『「鳥辺山心中」の半九郎、「番町皿屋敷」の播磨など二枚目系の当り役があるが、それも従来の和事風二枚目ではない。真に男らしい、いわば無骨な外見の内部から滲む色気が魅力だったと言われる。誤魔化しのできない人柄で、台詞を間違えると元に戻って言い直した。またそれで観客の失笑を買わない堂々たる風格の優だったのである。』

左団次の芸風についてのヒントはこれだけで十分です。まずここから線の太い男性的な富樫がイメージできると思います。山伏問答の台詞は一直線・技巧で聞かせるなんて小細工は一切ない。弁慶が義経を打つのを止めた後・感動して思わず涙するみたいなセンチメンタルな要素もまったくない。男心に男が応える・そういう骨太い富樫であったでしょう。そういうことは彼が演じた新歌舞伎の役の数々の・線の太いイメージから容易に想像ができます。二代目の父・初代左団次の富樫は九代目団十郎の弁慶を相手にして非常に評判の良いものでした。芸風の似た息子・二代目の方も富樫に相性が良ろしかったということが納得されます。

もうひとつ・左団次と富樫との相性がいかに良かったかということは、左団次が「鳴神」・「毛抜」など歌舞伎十八番の復活を多く手掛けていることからも推察できます。左団次の芸風は歌舞伎十八番とその本質にどこか相通じるものがあったと考えられるのです。つまり左団次の富樫というのは別格の存在であって、他の役者の富樫が良かったということと・左団次の富樫が良かったということは同次元で論じられないと吉之助は推測します。このことが明治 以後ほとんどの「勧進帳」長唄三味線を勤めてきた杵屋栄蔵のひと言でも裏付けられると思います。疑うことなく・二代目左団次の富樫は良かったと杵屋栄蔵のひと言で吉之助は確信を得たのです。

このことから翻って・富樫の性根はどうあるべきかも検討することができます。現代の我々が富樫の理想の役者としてまず思い浮かべるのは十五代目羽左衛門だと思います。羽左衛門の富樫は幸い映画になって残っています。しかし、左団次の富樫は羽左衛門のそれと印象がかなり異なったものだったと思われます。羽左衛門の富樫が間違いだと言うのではありません・それは確かに素晴らしかったでしょうが、作品本来の富樫はずっと線の太い役柄であったと想像されるのです。富樫が太い筆致で描かれるのなら「勧進帳」のドラマはどのような様相を呈するのか・ということは別稿「勧進帳についての対話〜富樫の心情を考える」をご参照ください。芸談ひと言で・このように想像をどんどん膨らませていくことが出来ます。そういう役に立つひと言に出会うことは決して多くはありませんけどね。しかし、想像力を働かせながら芸談を読むことはとても有益なことなのです。

生(なま)の舞台を見ていないと芝居は語れないと思い込んでいる人が少なくありません。しかし、それは大きな誤解です。生で見てない舞台を論じることはできないなどと思っていたら、観劇歴の短い方はついこの前亡くなった六代目歌右衛門さえ語れないことになる。これでは六代目菊五郎・初代吉右衛門も語れません。まして初代団十郎や初代藤十郎などとても語れません。それでは歌舞伎を論じることなど出来ません。むしろ逆に自分が見た生の舞台の印象にこだわって・自分はこれが良かったんだからこれが絶対正しいんだと決め込んで、それで誤解をしていることも少なくないかも知れません。その舞台に感動したのだから・確かに良かったと思いますよ・その思い出は大事にして下さい。しかし、歌舞伎を見る基本は「目の前の(現在の)舞台がこれほど素晴らしい・ならば昔の舞台はどれほど素晴らしかったのだろう」と想像することです。 見てない過去の舞台を想像することこそ歌舞伎鑑賞の王道です。以下「二代目左団次劇の様式」ということで考えたいと思いますが、本稿をそのようにお読みくだされば・見えない舞台が見えてくるはずです。ということで、吉之助と一緒に・大正時代の二代目左団次の舞台へどうぞ・・。

(H20・1・1)


1)新歌舞伎の様式

新歌舞伎とは明治以後に座付き作者ではない・外部の作家が書いた歌舞伎作品のことを言います。しかし、歌舞伎の様式ジャンルとして厳密に新歌舞伎を規定するなら・それは二代目左団次(明治13年〜昭和15年)によって初演された作品群のことを言います。左団次の取り上げた作家としては岡本綺堂・真山青果が有名ですが、左団次は岡鬼太郎・小山内薫・池田大伍・木村錦花など実に多くの作家の作品を取り上げて初演しました。菊池寛は「二代目左団次は明治大正にかけて俳優として最も意義ある道を歩んだ人であった・その点では(九代目)団十郎・(五代目)菊五郎以上かも知れない」とまで言っています。そのくらい二代目左団次は歌舞伎にとって重要な存在です。

武智鉄二は歌舞伎の様式の十二のパターンということを提唱しました。(武智鉄二:「武智歌舞伎の演出」・昭和30年」)「十二」という数字は多分に語呂合わせのところもありますが、それはまあいいのです。歌舞伎は四百年の歴史のなかでさまざまなパターンの芝居を試行錯誤し、それを蓄積して財産としてきました。その様式を分類してみれば およそ十二パターン見られるということです。そのなかの最後のひとつとして「二代目左団次の新歌舞伎」を武智が挙げています。二代目左団次の業績は歌舞伎様式のひとつとして独立して挙げられるほどのものです。

逆に考えれば、現代の歌舞伎役者にとって最も年代が近い歌舞伎様式である「二代目左団次の新歌舞伎」は、黙阿弥より南北より最も的確に演じられねばならない演劇様式のはずです。観客にとって も最も親しい演劇様式でなければなりません。ところが、最近の劇評を見ると・新歌舞伎について「ドラマの感覚が時代の嗜好にもはや合わない」とか「登場人物の心理が古臭くさくて・現代人の理解から遠い」とか安直に決め付けていることが少なくないようです。新歌舞伎が中途半端に古典化して・その感覚の新鮮さが感知されなくなっています。作品と観客との距離が次第に開き始めているのです。これは危ない兆候だと思えてなりません。歌舞伎における左団次の位置を再検証してみる必要がありそうです。

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2)急き立てるリズム

『新歌舞伎の台詞は黙阿弥の七五調から離れようとしていても、言葉に感情を入れて、それで調子を付けるのです。正しいエロキューションは、新歌舞伎の作者が皆考えていたことで、ただ無意味な節をつけることは嫌っていましたが、正しい台詞廻しは求めていたのです。(中略)リアルにやっても調子の出るところは・リズムがなければ駄目なので、岡本(綺堂)先生には岡本先生の台詞があるのです。「鳥辺山心中」にしても「番町皿屋敷」にしても、岡本先生が高嶋屋(二代目左団次)のエロキューションを考えながら書かれているのだから、それをはずしたら、もう芝居は壊れてしまうのです。(中略)岡本先生が左団次ならきっとこう言うだろうと知って書いていられるのだから、あれより他の言い方は考えられないのです。』(八代目坂東三津五郎:名作歌舞伎全集・第20巻・月報)

八代目三津五郎が「新歌舞伎は二代目左団次の台詞廻しで言わないと新歌舞伎にならない」と言っています。それでは左団次の台詞廻しはどんなものだったでしょうか。現代の役者は新歌舞伎を演じる時に左団次の言い廻しを意識して台詞を言っているのでしょうか。左団次については音質は粗悪ながら録音も残っていますが、一般的に「棒に読む」イメージで捉えられています。悪く言うと不器用な一本調子のイメージです。しかし、その一方で左団次は「大統領!」という掛け声を受けて・その台詞のリズムは当時の観客から圧倒的な支持を得たのも事実です。久米正雄は次のように書いています。

『人は彼(左団次)の口跡を悪評して、ややもすれば単なる怒号と言う。しかも彼があの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて、吾々のそれとピタリと合致する(中略)その調子の緩急を以って、すわなち台辞のテムポーを以って、知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは、彼を措いて外にはない。(中略)彼の口跡のみが、現代のリズムを捉えている(中略)息の刻みだけで吾々を捉えずにはおかない。」(久米正雄:「左団次の信長」・演芸画報大正4年3月)

久米正雄は急き立てる一本調子のリズムのなかに「今(いま)」を見ているのです。また折口信夫は左団次について次のように書いています。

『二代目左団次のいわゆる新歌舞伎と言われるものも、結局は台詞術に生命があったのである。あの息長く、脈動するようにあやつられた台詞廻しに誘惑があったのである。しかし、左団次式な対話も・独白も、左団次式になればなるほど現実離れの激しくなっていることが感じられた。生きた人間のする発声法でなかったことは確かである。しかし、演劇上の話術としてはひとつの領域を開くことのできたのは疑いがない。』(折口信夫:「「市村羽左衛門論」・昭和22年2月)

折口信夫が左団次の台詞に「現実離れの傾向がある」と指摘していることは後で考えます。しかし、折口信夫も・左団次の台詞の魅力が一本調子の急き立てるリズムにあることを確かに認めています。急き立てるリズムにどういう意味があるのか。それは新歌舞伎の脚本をリズムをイメージしながら声に出して・繰り返し読んでみるとその意味が次第に分かって来ます。

(H20・1・9)


3)左団次は偉大なる下手ウマなのか

一方、現代の我々の新歌舞伎のイメージは直接的には三代目寿海(明治19年〜昭和46年)から来ています。三代目寿海は左団次劇団の副将格であり、左団次の死後はその作品のほとんどを寿海が継承しました。寿海は台詞廻しの巧さに定評のある役者で、緩急を巧く使った・朗々と歌う音楽的な台詞廻しと言われました。「新歌舞伎の魅力は台詞に緩急を付けて朗々と音楽的に歌うことである」と書いているのが巷の劇評によくあるのは寿海の印象から来ているところが大きいのです。

そうなると左団次はもちろん・寿海の舞台も見てない吉之助のイメージは混乱して来ます。三津五郎は「新歌舞伎の台詞は二代目左団次の台詞廻しで言わなければ新歌舞伎にならない」と言っていたはずです。左団次の台詞廻しはどうやら棒に読む・一本調子で・急き込み気味の台詞のようです。あまり音楽的という感じには思われません。念のため注釈つけると、歌舞伎で一般的に音楽的な台詞と言う時、それは黙阿弥のような緩急のついた節回しが獏としてイメージされているということに留意してください。巷の劇評に「台詞を緩急をつけて朗々と音楽的に歌うのが新歌舞伎の魅力である」とあるのは左団次の台詞のイメージとかなり異なると思います。

左団次が新歌舞伎を初演した功績は認めるけれども・実は左団次の台詞の技術が拙劣で適切な表現ができていなかった・新歌舞伎の魅力を初めて明らかにしたのは台詞が巧い寿海であったと言うことなのでしょうか。左団次の台詞廻しに当時の観客は熱狂した のですが、左団次は偉大なる下手ウマであったのでしょうか。どうも巷の劇評を見る限り左団次についてはそのような評価が下されている感じに思えます。しかし、新歌舞伎の作者たちは左団次が主役を演じることを念頭に入れて作品を書いたはずです。どうしてこういう見解の違いが生じるのか・どっちの見解が正しいのでしょうか。

本稿は「正しい新歌舞伎(左団次劇)の様式とは何か」ということを考えます。結論を先に書いておくと・寿海が左団次の様式を自分勝手に改変したということは決してありません。寿海は自分なりに左団次の様式を真摯に消化して・自分のものとしたのです。寿海の台詞廻しは確かに素晴らしかったでしょうが、寿海の台詞を聞いて「台詞を緩急付けて朗々と音楽的に歌うのが新歌舞伎の台詞廻しだ」と受け取る方が どこか違っています。何故そうした理解が生じたのかも考えてみたいと思います。繰り返しますが、三津五郎の言う通り・「新歌舞伎の台詞を左団次の台詞廻しで言わないと新歌舞伎にならない」わけです。新歌舞伎の作者たちは左団次が主演することを念頭に入れて作品を書いたことを忘れてはなりません。左団次を偉大なる下手ウマと貶めることは新歌舞伎を貶めることに等しいのです。新歌舞伎の正しい姿を考えてみたいと思います。

(H20・1・12)


4)寿海の勝負球は何か

話が変わるようですが、吉之助の野球の思い出話です。その昔・今はなき阪急ブレーブス(現オリックス・ブルーウェーブ)に山口高史という豪腕ピッチャーがいたのをご存知の方も多いと思います。上体がギッコンバッコンして・ぎこちない投球フォームで・球種は少なくて・投球は一本調子の感じがありましたが、とにかく球が滅法速い投手でした。スピードガンがなかった時代なので実証は出来ませんが、球速が160キロ以上出ていたという話があるくらいです。山口投手がこれも今はなき後楽園球場(現東京ドーム)で八者連続三振の日本タイ記録を達成した時に、吉之助はたまたまバックネット裏近くでその投球を生で見ていました。山口投手は変化球はほとんど投げずに・直球一本槍の投球で、次に直球が来るのは誰の目にも見え見えなのに・あまりの剛速球に打者はただバットを振り回すだけで全然歯が立たず・バットは球にかすりさえしませんでした。まさに快刀乱麻という表現がぴったりでありました。

この時の山口投手の投球ですが、次に直球が来るのが分かっているのに・プロの名だたる打者たちがただ翻弄されるばかりだったのは、その球速が滅法速いこともありますが・その球の伸びが関係しているのです。投手の投げる球はそれがマウンドから捕手のミットに納まるまでに地球の引力の影響を受けるので・直球と言えども実は自然に何センチか落ちているものです。それが通常の直球の球筋(軌道)として打者の脳裏にインプットされているイメージです。その直球のイメージを持って打者は打席に立ちます。ところがスピン(回転)の利いた直球の場合は・空気抵抗で揚力が掛かり・通常の直球よりその落ち具体が少なくなることがあります。こうした直球は打者には手元で浮き上がるように錯覚されるのです。そのような球を伸びのある速球と呼びます。

吉之助がバックネット裏から見ていると、実は山口投手の球はストライクゾーンを外れて・高めのボールと判定されるような球がほとんどに見えました。打者がバットを振らずに立ってさえいれば・四球連発になっていたように思えました。ところが打者の方がバットを振らずにはいられないのです。打者の脳裏には通常の直球の軌道のイメージが植え付けられているので・その球がストライク高めギリギリに決まると見えるのです。打者はそのイメージでバットを振る・ ところが球はグッと手元で伸びているのでそんなに落ちない・その結果バットは見事に空を切るというわけです。

吉之助は二代目左団次の台詞廻しというのは・野球で言えばこの山口投手の投球だと思っています。変化球を交えず・一本調子のストレート・小細工を弄さず・球のスピードと伸びで勝負というタイプなのです。その剛速球はストライクゾーンをしばしば外れますが、球の伸びが良いからバッターはバットを思わず振り回して次々と三振する。調子が悪いと四球連発で自滅ということもあるが、調子が良ければバッタバッタ と打者を斬りまくって・その豪快さで人気があるというわけです。

二代目左団次が直球のスピードと伸びで勝負する豪腕投手だとすれば、その芸を継いだ三代目寿海は本質的に技巧派投手なのです。プロ野球の場合には別に弟子が師匠の個性を引き継ぐ言われはないですが、歌舞伎の場合は伝統芸能でありますから・寿海は師匠の芸の体現しようと必死で頑張ったのです。それでないと観客から「左団次譲り」という世間の評価は得られません。しかし、残念ながら寿海投手には師匠左団次ほどの直球のスピードと伸びはない。それではどうやって左団次投手の伸びのある直球で三振バッタバッタ斬りまくるイメージを観客に与えるかが問題なのです。そのために寿海投手は低めに緩急つけた変化球を駆使するのです。それはここぞと言う時に投げる打者の胸元への直球を実際以上に威力あるものに見せるためです。寿海投手の投げる直球は実は少ないのです。しかし、寿海投手は外角低めに遅い変化球をていねいに散らして・打者を惑わせておいて・最後に打者の胸元に直球を投げ込んで三振に仕留める。これで寿海投手は左団次の後継者としての地位を築くのです。

ですから寿海投手の投球を見ながら・そこに師匠左団次の投球のイメージを探ろうと思ったら、その配球を漫然と眺めていては駄目なのです。表面的に見れば寿海投手の真骨頂は「緩急をつけた変化球の配球の巧さ」ということになるでしょう。しかし、よくよく見れば寿海投手の勝負球はインハイの伸びのある直球だと分かる・この勝負球を生かすために寿海投手は変化球を多用しているのです。インハイ直球に寿海投手は「豪腕投手左団次の後継者」の意地を賭けているのです。

(H20・1・16)


5)二拍子のリズム

「番町皿屋敷」は大正6年2月本郷座において初演された二代目左団次の新歌舞伎の代表作です。まず綺堂の決め台詞とされる台詞を「歌舞伎らしく・音楽的に」言うならばどうなるかを考えて見ます。一般的に歌舞伎らしく音楽的な台詞廻しと言 えば、語調を七五に無意識のうちに整えて・緩急をつけて・ゆったりと歌うように言う黙阿弥調の台詞のことを指しています。これが地球の引力の影響を受けた直球の軌道のイメージです。まずテンポをゆったりと七五調に整えた黙阿弥調のイメージで次の台詞をお読みください。

「伯母さまは苦手じゃ」(オバサマハ/ニガテジャア●)

「散る花にも風情があるのう」(●チルハナニモ/フゼイガ●/アルノォオォ●)

「何を証拠にこの播磨を疑うた」(ナニヲショウコニ/コノハリマヲ/ウタゴウタ)

「一生に一度の恋を失のうて」(イッショウニ/イチドノコイヲ/ウシノオテ)

それでは師匠左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」であったことを念頭に入れたうえで、三代目寿海が上記の播磨の台詞をどう発声しているかを昭和38年12月京都南座での録画映像で見てみます。(別稿「散る花にも風情がある」をご参照ください。)寿海は心持ちゆっくりと台詞を言っていて・抑揚も適度につけていますが、よく聞けばその基本リズムは七五ではなく・二拍子であることが分かります。機械的な印象に陥ることを巧みな抑揚で押さえてはいますが、リズム感覚の根本が実は二拍子なのです。

「伯母さまは苦手じゃ」(オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ)

「散る花にも風情があるのう」(チル/ハナ/ニモ/フゼ/イガ/アル/ノオ)

「何を証拠にこの播磨を疑うた」(ナニヲ/ショウ/コニ/コノ/ハリ/マヲ/ウタ/ゴウ/タ●)

「一生に一度の恋を失のうて」(イッ/ショウ/ニ/イチ/ドノ/コイ/ヲ/ウシ/ノオ/テ●)

「伯母さまは苦手じゃ」と言ってから・間を置かずに「所詮頭は上がらぬわ」をサラリと流すように言う。「散る花にも風情があるのう」と言ってから・間を置かずに「ドレそろそろ帰ろうか」をサラリと言う。そこに大正のノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の写実の感覚があるのです。言うまでもなくノイエ・ザッカリッヒハイトは20世紀初頭の世界的な芸術風潮でした。その音楽的様式の基本感覚はイン・テンポ(テンポを一定に保って揺らさない)ということにあります。これはまさに打者が次は外角にスローカーブが来ると予想しているところへ・胸元内角に直球をポンと投げ込む感覚になります。寿海投手はそれほど球威もスピードもあるわけではないけれど、遅い変化球を待っていた打者は タイミングをはずされて・あっけに取られて球を見送って・三振に取られるのです。


*二拍子のリズムの基本イメージ

タンタンと二拍打つリズムでユニットを作ります。これが基本イメージになりますが、左団次の場合は一拍目に音価(アクセント)が付いて「強/弱」の感じになるので、より急き立てる感覚が強くなります。これについては「その12」で詳しく述べます。

これは左団次の台詞の欠点と言うことになりますが、久米正雄は「一本調子を以って・焦き込みがち」と評し、折口信夫は「現実離れして・生きた人間のする発声法でなかった」と書いています。それは左団次が二拍子のリズム感覚を前面に出し過ぎる感じ(つまり一拍目にアクセントが付いてリズムの打ちが耳に付く感じ・恐らくテンポも若干速めだったと思われる)があるのでそういう印象になったと思います。それは従来の歌舞伎の緩急をつけた音楽的な七五調の台詞のリズムから外れる感覚です。つまり従来の台詞回しではストライクゾーンから外れる感覚になるので「左団次は台詞が下手」みたいな評価になってしまうのです。ノイエ・ザッカリッヒハイトのインテンポの音楽表現はしばしば人間的ではなく・機械的に聴こえるという批判を受けたものでした。名指揮者トスカニーニはリズムの打ちが明確なので・口の悪い音楽ファンから「軍楽隊みたい」と言われたりしたものです。周囲からそのような批判雑音を言われないように配慮しながら、寿海の台詞回しはテンポをゆったりと保ち・リズムの打ちをあまり前面に出さないようにして・抑揚を適度に付けることで一本調子の印象に陥らないように巧みに台詞の工夫をしているのです。しかし、その根本では寿海は二拍子のテンポ感覚をキチンと守っています。ただそうしていると見せないだけの話です。そして最後をさりげなく直球で決めています。寿海は決してそれが決め球であると相手に悟らせないのです。

このような工夫を寿海がしなければならなかったのは師匠左団次と寿海の芸風がかなり違っていたせいですが、左団次劇団が歌舞伎の本流(菊吉を中心とする流れ)に属していなかったということ も大きな要因です。左団次の死後・新歌舞伎しかできない役者という定評が出来てしまえば寿海自身の歌舞伎界での活躍の場は限られてしまうからです。寿海の芸のルーツとしては左団次とともに十五代目羽左衛門が挙げられます。だから変化球投手寿海が師匠である剛球投手左団次の芸風を生かしつつ・羽左衛門の台詞の技巧を生かす・これが彼自身が歌舞伎界のなかでしぶとく生き抜いていくための・彼なりの工夫であったわけです。これで寿海は左団次譲りの定評を得て地歩を築き、なおかつ古典歌舞伎においても当り役を作って・「台詞の巧い役者」という評判を確立していきます。

だから寿海の新歌舞伎での台詞廻しだけを表面的に聞けば「音楽的で緩急のついた抑揚のある巧みな台詞廻し」という印象になり、緩急のついた音楽的な台詞が新歌舞伎の台詞回しの魅力であるということになるのかも知れません。しかし、師匠左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」であり・「現実離れして・生きた人間のする発声法ではなかった」と言われたことを念頭に入れてその台詞を聞けば、「左団次譲り」というイメージを作るために寿海が何にこだわってきたかは歴然としています。それは一本調子の二拍子の急き立てるリズム感覚、そして特に肝心なのはその台詞の末尾なのです。

(H20・1・19)


補足)ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)

「左団次劇の様式」連載で触れたノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)について補足がてら考えてみます。ノイエ・ザッハリッヒカイトは二十世紀初頭に勃興し・第1次世界大戦(1914〜18)以降にはやった芸術思想を言います。ちなみに1900年は明治33年であり、1912年が大正元年になります。ノイエ・ザッハリッヒカイトは個人の内面の探求を目指す主観的な表現主義と対立するもので、逆に主観的な要素を極力排して・冷徹に表現を対処しようとするものです。したがって「即物的」という言い方がなされますが、表現主義の立場からみれば無機的・機械的で冷たいという感じになります。逆に即物主義の立場から見れば表現主義はフォルムが崩れていて・自分の感情に溺れすぎという感じになります。

音楽表現におけるノイエ・ザッハリッヒカイトは「楽譜忠実主義(原典主義)」が、そのひとつの在り方とされました。楽譜がすべての表現の拠り所であり、作曲者が楽譜に記したテンポ・和声・アコーギクというものをできるだけ忠実に守って演奏しようとする態度です。これについては即物主義の代表的な指揮者であるトスカニーニがベートーベン:交響曲第3番「英雄」第1楽章について「ナポレオンかアレクサンダー大王か・あるいは誰かにとっては哲学的な命題かも知れぬが、私にとっては単なるアレグロ・コン・ブリオである」と語った有名なエピソードがその思想を最もよく現しています。これに対してもう一方の表現主義の代表的な指揮者であるフルトヴェングラーは「私は楽譜の裏にある作曲者の意図を読む」と語っています。

しかし、どちらの側も作曲者の意図を尊重している(つもり)なわけで・その点では共通しているのです。作曲者の意図が楽譜にすべて記されているのかという疑問も確かですが、すべてが楽譜に記されていないなら・演奏者が自分の主観で読むことが許されるのかというとそれも疑問です。そういうことで、こういう議論は結局堂々巡りなのです。楽譜忠実主義というのはノイエ・ザッハリッヒカイトの重要な旗印ですが、それが本質的なものであると吉之助は思っていません。

音楽表現におけるノイエ・ザッハリッヒカイトは「イン・テンポ」の思想に明確に現れるというのが吉之助の考え方です。つまり、アレグロならアレグロ・アンダンテならアンダンテという指定を守って、曲冒頭で振り出した指揮棒のテンポをできるだけ正確に保つということがひとつの要件です。テンポを守ることで・楽譜に記された曲のフォルムを明確に印象つけようという態度です。この印象を強調するにはリズムの打ちを明確にする・できればテンポが速めの方が 旋律線は引き締まって・より印象は強くなるということになります。トスカニーニの行き方は後進の指揮者たちに強い影響を与えましたが、しばしばテンポの速さ・直線的な歌いまわしが表面的に模倣されたきらいがあります。大事なのはリズムの打ち(刻み)の深さで、これがあるからトスカニーニの表現は息が深く・歌心(うたごころ)が決して失われないのです。トスカニーニのインテンポの表現をお知りになりたいのならば、ブラームス:交響曲第1番・第4楽章の最後の2分間ほどを独墺系の指揮者のそれと聴き比べてみればよく分かると思います。独墺系の指揮者ならここはテンポをぐっと落として重厚な印象で締めるところです。この場合は濃厚なロマン性が壮大に広がる感じとなります。トスカニーニはここを速いテンポを押し切って・聴き手を急き立ててい くので、ストイックで厳粛な感じが強くなるでしょう。(興味がある方はYoutubeに音声がありますので・これをお聴きください。)

イン・テンポの表現を視覚的な印象にしますと、建築絵画における新古典主義がそれに相当するものです。別稿「歌舞伎におけるバロック的なるもの:その3:舞台構造」をご参照ください。この論考で紹介した建築家シンケルの設計によるベルリンのアルテス・ムゼウムの横長のムカデ構造の建築、あるいは京都の三十三間堂がトスカニーニの演奏の印象に非常に近いものです。ご承知の通り・吉之助はエウへーリオ・ドールスの「バロック論」に基づき・ロマン派芸術の本質に潜んでいたバロック性が露わに顔を出したのが世紀末芸術の表現主義であるとする見方ですが、崩壊する表現を正常な方向に引き戻そうとする形で・逆にバロック性を強く意識しているのがノイエ・ザッハリッヒカイトの表現であるわけです。

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

したがって、黙阿弥の七五調の揺れ動くリズムと・二代目左団次の一本調子のリズムは表面上対立しているように見えますが・実はそうではなくて、歌舞伎のバロック性から見ればどちらも「急き立てる(アジタート)」な気分を共通して持つものであり・同じ歌舞伎のバリエーションに過ぎないのです。このことを論考「左団次劇の様式」と・その続編において検証するつもりです。

(H20・1・20)


6)急き立てる感覚

寿海が師匠左団次の台詞の台詞回しをどう受け継ぎ・消化して・どのように自らの工夫を台詞回しに加えたかを考えました。このような工夫を寿海がしなければならなかったのは、左団次劇団が歌舞伎の本流(菊吉を中心とする流れ)に属していなかったことも大きな要因としてありました。次に挙げるのは「芸十夜」での武智鉄二と八代目三津五郎での対談からの会話です。

武智:「それまで左団次の芸というのは歌舞伎の方では脇筋で、自分としてはそれを踏襲してたら一流になれないという一種の劣等感みたいなものが寿海にはあって、それで羽左衛門に憧れたりしてたんですね。それで「左団次の芸はこれは大変なものですよ」ということを、三津五郎さんと二人で口を極めて言ったら、それで自身をつけて、それでああ言う名人になったんですね。」
三津五郎:「それでその次に寿海さんが「鳥辺山」をやった時に、二人でそろってニヤッと笑ったもんですよね。以前は左団次の真似をすることに後ろめたさばかり感じてた人が、自信を持って颯爽としていましたね。それ以来、声がすっかり良くなりましたね。」

寿海の新歌舞伎での台詞回しは、寿海が左団次コンプレックスを乗り越えるなかで編み出されたものでした。それほどまでに寿海にとって左団次が偉大な存在であった わけです。同じような左団次コンプレックスが寿海と並ぶ左団次劇団の副将格であった猿翁(二代目猿之助)にもあったと思います。「修禅寺物語」は明治44年5月明治座において左団次が初演したものですが、昭和32年歌舞伎座での「修禅寺物語」で猿翁演じる夜叉王の映像が残っています。猿翁も台詞回しに定評ある役者でしたが、ここでの猿翁演じる夜叉王の台詞を聞けば・やはり寿海の播磨の場合と同じことが言えます。幕切れの有名な長台詞を聴けば猿翁には微妙な息の緩急の巧さがありますが、その裏にトントンと勢いで押していく二拍子のリズム感覚が確かに潜んでいます。猿翁がそこに左団次譲りのイメージを見ていることがよく分かります。また、猿翁にとっては左団次の生き方自体が大きな影響を与えたかも知れません。そしてそれは孫の三代目猿之助の猿之助歌舞伎・スーパー歌舞伎などの試みにも伝わっていると思います。

*左団次の二拍子の基本イメージ

二拍子のリズムを基調にしていますが、一拍目に音価(アクセント)をつけて、「強/弱」(trochiaic)のリズムになります。一拍目に音価を入れることによって、前に押す・急き立てる感覚が生み出されるわけです。

以上でお分かりの通り、「岡本(綺堂)先生が高嶋屋(二代目左団次)のエロキューションを考えながら書かれているのだから、それをはずしたら、もう芝居は壊れてしまうのです」 と言う三津五郎の言葉を考える時には、舞台を見て・役者の台詞の表面的な巧拙だけを聞くのでは駄目です。台詞の表面的な巧拙だけを聴いているから「新歌舞伎の魅力は緩急自在の音楽的な台詞廻しである」 という受け取り方をしてしまいます。何が左団次の台詞の本質なのかを考えて舞台を見れば見えないものが見えてきます。新歌舞伎の台詞の真の魅力は「トントントンと勢いで観客を押していく・急き立てる感覚」です。それが一本調子の二拍子のリズムに現れるものです。このことは新歌舞伎の生まれた大正〜昭和初期・つまり20世紀初頭の時代感覚であるノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の感覚と密接に重なっています。

実は極端に言えば・そこに急き立てる感覚があるならば・どういう手法で台詞を言おうが、それは左団次劇の様式に合致していると言えます。急き立てる感覚はトントンと一本調子で行く感覚が基本になりますが・決してそれだけではありません。リズムが微妙に遅くなったり早くなったり・一定の間で揺れる場合でもリズムがプッシュされて急き立てる感覚を起こすことができます。振れの間(ま)をひとつのユニットとして捉えて・そのユニットを等分に保つならば・その台詞も広義にインテンポであると言えるわけです。(注: この場合はユニットの頭にアクセントを置くことが大事になります。別稿「元禄忠臣蔵の二枚の屏風」において触れた藤十郎の内蔵助の台詞回しがこれに当ります。 これについては後述。)したがってその表現手法はひとつに限りません。しかし、二代目左団次個人の場合で言えば・その台詞はインテンポの二拍子のリズムであるということになります。さらに左団次劇の基本様式を検討していきます。

*急き立てる感覚の表出法のひとつの例:

左は四拍子の頭に音価がくるパターンですが、二拍子のユニットの1拍目に音価(アクセント)が来て・次の二拍子のユニットには音価が来ない・交互にその繰り返しが来るという風にも考えることができます。この場合も同じように急き立てる感覚を起こすことができます。

つまり、振れの間にどのようにユニット感覚を持たせるかということがひとつの技術なのです。

(H20・1・24)


)急き立てる様式

新歌舞伎のノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の感覚は台詞の急き立てるリズムだけに現れているのではありません。「番町皿屋敷」の幕切れを見てみます。往来で旗本奴と町奴の喧嘩が始まったと聞いて・播磨は槍をつかん で・本舞台から花道を駆けてあっと言う間に揚幕に駆け入ってしまいます。これが二代目左団次の型です。

初めて「番町皿屋敷」の幕切れを見た観客はびっくりすると思います。普通の歌舞伎らしい幕切れならば、播磨は花道七三で立ち止まり・いったんお菊の死骸を投げ込んだ井戸の方を見て・恋の未練を断ち切る思い入れあって、ここで槍を改めて構えて揚幕へ駆け入るということになるはずです。それならここで「高嶋屋ッ」と大向うから掛け声も掛かると思います。普通の歌舞伎の幕切れならば・七三で主役が演技しないで花道を引っ込むなんてことはありません。ところが、そこをしないのが左団次劇です。役者がそのまま揚幕まで駆け込んでしまうと、役者が七三で止まると思っていた観客はあっけに取られるでしょう。掛け声を掛けようとしてもきっかけがつかめず・ウッと息がつまった感じになると思います。これがまさに打ち気に行っている打者の手元で浮き上がる直球の感覚です。観客は見事に三振に切って取られるのです。(この場面の播磨の駆け込みの意味については別稿「二代目左団次の旋回走法」もご参照ください。)

「修禅寺物語」は明治44年5月の明治座初演で左団次が演じたのは夜叉王で・頼家を演じたのは十五代目羽左衛門ですが、第二場の頼家と桂が野を散策する場面において・頼家が歩きながら台詞を言う場面があります。ご存知の通り、歌舞伎というのは役者は立ち止まって台詞を言うのが普通です。舞台で歩みを止めて「ここで私は台詞をしゃべります」と観客にはっきり示してから台詞を言うものです。しかし、普段の我々は歩きながら会話をしたりもするわけです。だから、立ち止まって台詞を言うという歌舞伎の約束は決して自然な写実の演技ではないのです。「修禅寺物語」に限らず・左団次劇では役者が動きながら台詞を言う場面が多く出てきます。これも左団次劇の様式のひとつになるものです。

役者が動きながら台詞を言うのはもちろん写実の発想から来ます。しかしそれはごく表面的なことで、もっと大事なことが息の問題にあります。観客の方は歌舞伎では役者が立ち止まって台詞を言うものだと思っていますから・役者が歩いていると観客の方はまだ台詞を聞く準備が出来ていないのです。だから役者が歩きながら台詞を言うと・観客の方は間をはずされた感じになります。これは野球で言えば・まだバットを構える準備のできていない打者の打ち気をはずすように・クイックモーションですばやく球を投げ込むようなものです。

もうひとつは、呼吸の関連で台詞のリズムと動きのリズムが必然的に一致してくるということです。頼家の台詞のリズムはその歩くリズムに近づくわけです。つまり、その台詞はゆっくりとした二拍子 になっていきます。頼家の台詞「あたたかき湯のくところ、温かき人の情も湧く」は(アタ/タカキ/ユノ/ワク/トコロ/アタ/タカキ/ヒトノ/ジョウモ/ワク)が基本リズムになります。

もしかしたらそのゆっくりしたリズムに急き立てる感覚を感じにくいかもしれませんが・実はそうではないです。「それに比べて鎌倉には温かき人の情がない」という忸怩(じくじ)たる思いが頼家の台詞の裏側にあるからです。それが人間の情の温かさに恐らくは初めて触れた将軍頼家の感動の根源にあるものです。頼家の置かれた切迫した政治的状況は台詞のゆっくりした二拍子のなかに緩慢な形で影を落としているのです。作者・岡本綺堂はそのように台詞を書いているわけです。

(H20・1・27)


8)原典主義

様式としては明確に現れないものですが・新歌舞伎におけるノイエ・ザッカリッヒカイト(新即物主義)の思想のもうひとつ大事な点は、脚本を役作りの根拠として・つねに脚本に忠実であろうとする態度です。つまり原典主義です。例えば音楽表現における原典とは楽譜です。即物主義と言うと・ぶっきらぼうで事務的で冷たいイメージがするかも知れませんが、要するに作曲者の意図は楽譜にすべてが書き込まれているのだから・そこに表現者の恣意的な要素を介入させず・冷徹かつ虚心に作品(楽譜)を見据えることで音楽を演奏しようという態度が音楽表現における即物主義であり、そのひとつの表れが原典主義(楽譜第一主義)なのです。この考え方が新歌舞伎にも強い影響を与えています。

歌舞伎の台本は狂言作者がその時の座組みに従って・その上演の度に書き換えるのが本来の形でした。狂言作者は役者の個性に合わせて・あるいはその時の趣向なども取り入れて台本を書きます。さらに役者から自分の役が悪いとか・台詞が言いにくいとか横槍りが入ったりして・それらの都合で台本が書き換えられることがじつに頻繁にあります。それでオリジナルの形とは相当変わってしまったものが膨大にあります。つまり、歌舞伎の台本は芝居の素材に過ぎないのであって・絶対的なものではないのです。後に近松・南北・黙阿弥などの作者も出て・そういう名作は大事にされて歌舞伎の財産となりましたが、それさえも細部がかなり改変されて・現在では完全な形で上演される古典作品は ほぼ皆無です。またそれで良いものと歌舞伎ではされていました。従来の歌舞伎は役者第一主義の演劇であったわけです。

こうした考え方を修正したのが新歌舞伎での左団次でした。左団次は芝居の筋の展開の具合が良くないとか・この役は悪いとか・台詞が言いにくいとかいう理由で・場面をカットしたり台詞を改変することがほとんどありませんでした。このことは外部の作家に作品を提供してもらう場合に非常に大事なことです。作家として自分に敬意を払ってくれて・またその作品を大事にしてくれると思うから、作家も左団次のために一生懸命に脚本を書くわけです。作家と演者の間に明確な信頼関係が存在するから、また次の作品を提供しようという気持ちになるわけです。こうして多くの作家がこぞって左団次のために作品を提供し、岡本綺堂・真山青果などの作家も育っていきます。(注:六代目菊五郎の場合は新作上演の時に場面や台詞の改変が少なくなかったことを付け加えておきます。別稿「暗闇の丑松の幕切れについて」を参照ください。)

原典主義(脚本第一主義)の特徴は役作りに現れます。歌舞伎の場合は役者は芸の引き出しを多く持って、新作であっても・この役は和事の役であるとか・この役は古典の似た役柄の性根でやるとか・ある種のパターン処理で済ませることがしばしばです。しかし、原典主義の場合は役の性格はその作品の固有の主題を反映するものであり・役の性格把握の根拠はすべて脚本のなかにあるとするのです。当然脚本の深い読み込みが必要になってきます。

原典主義の考え方は偉大な作家・役者の提携において一時的な形では歌舞伎にもあったことです。初代藤十郎は近松門左衛門を大事にして・その台本の「てにをは」さえ一座の役者に変えることを許さなかったと言われています。四代目小団次と黙阿弥の提携も喧嘩めいたやり取りもあったとは言え・互いの信頼関係があったからこそ名作が次々と生み出されてきたわけです。しかし、新歌舞伎での左団次と作家との関係は「作家は芸術として真摯に作品を提供し・演者は作品に敬意を持ってこれを誠実に舞台に掛ける」という関係であり、それまでの歌舞伎の狂言作者と役者との関係とはまったく次元の異なるものでした。それはノイエ・ザッカリッヒハイトの原典主義という思想を濃厚に反映したものです。

左団次には台詞を間違えるともう一度最初から台詞を言い直したという有名な逸話があります。これは左団次の愚直とも言える真面目な人柄を示すものであり・しばしば笑い話の種にもなりますが、これは左団次の演劇観の根本から来るものでもあります。恐らく左団次は提供してもらった作品を真摯に誠実に演じようとして・例え台詞をトチってもその場を適当にごまかすなんてことを自分に許さなかったのです。そういう役者だったからこそ左団次は多くの作家たちの支持を得たのです。

左団次が新歌舞伎150曲を初演した記念として昭和2年(1927)に「松莚戯曲目録」という冊子が編纂されました。明治37年9月初演の竹柴秀葉の「牛若丸」から始まる154作品がリストアップされています。(松莚は左団次の俳号。昭和2年のことなので・それ以後に初演された青果の「元禄忠臣蔵」などの作品は含みません。)これを見ますと今日上演機会を見るものは10曲くらいというところですが、その打率が問題ではないのです。左団次という誠実な役者がひとつひとつ着実に積み上げていった道程の背後に、左団次と同時代の作家たちとの強い信頼関係があったということです。これがこの目録が示すものです。それは同じ時代の空気を吸った者たちだけが持つある種の気分(時代的心情)もまた共有しているということです。作家が描く題材はそれぞれですが、それらの作品は左団次を核として共通した時代の気分を持ち、それが様式となって舞台に現れます。それが左団次劇の様式なのです。

(H20・1・30)


補足)演出なのか・型なのか

「左団次劇の様式」連載でノイエ・ザッハリッヒカイトの原典主義について触れましたので、ちょっと補足します。演劇における原典主義(脚本第一主義)とは、作品それ自体が自立した戯曲であり・作品解釈は演出者あるいは役者自身による脚本の読み込みから発した独自のものでなければならぬということになります。

「番町皿屋敷」で播磨が本舞台から旋回する形で一気に花道に駆け入り・七三で止まらず・そのまま揚げ幕へ駆けていく幕切れは「息」あるいは「間(ま)」の視点から見れば「その7」で述べた通りですが、これも脚本の深い理解から出たものです。物体が放物線の弧を描くのは、物体が飛び去ろうとするベクトルに対して別の方向から力が掛かって・その軌跡が捻じ曲がるということを示しています。これがニュートン物理学の教えるところです。もはやこの世には未練はないとして・町奴たちとの喧嘩で死ぬ覚悟で走り出す播磨には、播磨が斬って・井戸に投げ込んでしまったお菊に対する未練がしっかりと残っているのです。播磨は引き裂かれているのです。だから播磨の軌跡は井戸(お菊)の方向に引かれる形で捻じ曲がるのです。それが本舞台から花道へ旋回する播磨の走りが示すものです。左団次は物理学を知っていたのかって? もしかしたら洋行の時に英国の演劇学校で教わったのかも知れませんね。しかし、そんなことを知らなくても・実際に走ってみればどこかを中心点に置かないと旋回ができないことは感覚で分かると思います。左団次は身体で分かっていて・幕切れの播磨の心理を形象化しているわけです。

この幕切れは左団次の近代的な役作りのプロセスから出たもので、確かに「演出」と呼んで良いものです。そんなところから「左団次は型は残さず・戯曲だけを残した」(出典はあえて伏す)という見方も出るのかも知れません。それではそれ以前の歌舞伎の役作りにこのようなプロセスが全然なかったのでしょうか。そんなことは決してありません。優れた歌舞伎の型はすべて作品の深い読み込みから生み出されたものです。九代目団十郎はその生涯に「勧進帳」の弁慶を20回(興行)演じました。九代目は演る度にどこかを変えて演じたそうです。現行の「勧進帳」は恐らく九代目最後の明治32年(1899)4月歌舞伎座を原型としており・これを七代目幸四郎を始めとする弟子たちが洗い上げて・完成させたものです。団十郎最後の「勧進帳」も・最後の「熊谷陣屋」も近代的な役作りのプロセスを踏んでおり・間違いなく演出と呼んで良いものでした。

「歌舞伎素人講釈」は歌舞伎の型の概念が団十郎の死後に劇的に変化したということを提唱しています。(別稿「型の概念の転換〜九代目団十郎以後の歌舞伎」をご参照ください。)団十郎自身が「俺が後世の規範になる 型を残す・俺の型を死後も絶対守るべし」などと言ったことは一度もありません。しかし、団十郎死後に歌舞伎を受け継いだ者たちは「九代目団十郎と同じことをしなければ弁慶には・直実には見えない」として・団十郎の舞台の手順を必死で守ろうとしました。その時から歌舞伎の型は「それをしなければ歌舞伎には見えない・同じことをやってさえいればとりあえず歌舞伎に見える」というものになったのです。団十郎を受け継いだ者たちが駄目だった・愚かだったと言うことではありません。歌舞伎自体が時代の背景(江戸)を失った演劇になったからです。歌舞伎を江戸につなぎ留めるために「団十郎はこうやった・菊五郎はああやった」という風に型の意味を変える必要があったのです。型は残す者がこれを型だとして次代に託すのではなく、受け継ぐ者がそれを型だと認めるから型になるのです。受け継ぐ者が「託された」と感じることの意味が団十郎の死以後に決定的に重くなるのです。これが型の概念の転換ということです。確かに型という言葉自体は江戸の昔からあったものでした。しかし、江戸の時代の「型」と・団十郎の死以後の「型」はまったく意味が違います。残念ながら巷間では新旧の「型」の意味をごちゃまぜに使っていて・それで良しと しています。

大正時代に生まれた芝居だから江戸とは関係ないというのは誤解です。左団次劇を歌舞伎とする以上は、この型の概念の転換を念頭に入れた上で左団次劇を見なければなりません。「型」の新旧の概念をごちゃまぜに考えているから・「左団次は型を残さなかった」という見方も出てくるわけです。「左団次は型を残さず・戯曲だけを残した」という見方が正しいのならば、左団次の初演した作品群を「新歌舞伎」と呼ぶこと自体が否定されねばなりません。それならばその作品群は「旧劇の残渣を引きずった前段階の新劇である」とでも演劇史に規定すべきです。もしそうならば『岡本綺堂は左団次のエロキューションを考えながら書かれているのだから・それをはずしたらもう芝居は壊れてしまうのです。左団次ならきっとこう言うだろうと知って書いているのだから・あれより他の言い方は考えられないのです』という八代目三津五郎の言葉も否定されねばならないことになります。役者は左団次の言い回し・演技などにこだわることなく、戯曲自体を吟味して・自らに合った演技や言い回しを自由に研究すべしと言わねばならなくなります。

しかし、これは確かなことだと思いますが・「歌舞伎素人講釈」だけでなく・世間でも左団次の初演した作品群を「新歌舞伎」と呼んでいると思います。なぜ歌舞伎なのでしょうか。初演したのが歌舞伎役者だったからというのではお話になりません。それらを新歌舞伎と呼ぶのは伝承芸能である歌舞伎の系譜の最後に大正期の左団次劇を置くことを認めたということを意味するのです。したがって左団次の演技は演出と言うべき・近代的な役作りのプロセスを確かに含んでいるのですが、受け継ぐ者はこれを明確に歌舞伎の型として受け取らねばならないということです。だから左団次の様式(型)をはずしてしまったら・それだけで左団次劇は壊れてしまって・それは歌舞伎ではなくなるのです。八代目三津五郎の言葉をそのように聞かねばなりません。

(H20・2・2)


9)焦き込む台詞の工夫とは

どうして二拍子のリズムがノイエ・ザッカリッヒカイト(新即物主義)の感覚になるのか。このことを考えます。歌舞伎史的に見れば、これは無意識的に台詞の調子を七五に整えようとする伝来の歌舞伎の台詞廻しの否定・破壊であると考えて間違いありません。そこに新歌舞伎の「新」ということの意味もあるわけです。左団次の台詞廻しは従来の感覚から見ればストライク・ゾーンを外れていますから、「一本調子で・焦き込みがち」という否定的見解も生じることになります。だから左団次の死後にある種の揺り返しが起こって・この感覚を修正しようという作用も当然働くわけです。

まあこういう反動化は左団次劇が古典化して・歌舞伎のなかに取り込まれていく・ひとつの自然な過程であるとも考えられます。これは左団次の位置付けが歌舞伎の本流でなかったせいもあります。左団次の作品を継承することになった三代目寿海の苦労もそこにありました。寿海は左団次の芸風の先鋭的な要素を巧みな台詞廻しで和らげることで・新歌舞伎のレパートリーの存続をどうやら果たしたわけです。ですから巷の劇評家が「新歌舞伎の魅力は台詞を朗々と音楽的に歌うことである」と書くのは、いわば歌舞伎が左団次劇を取り込むに当たって・その先鋭的な部分の毒気を抜き去ろうとする過程に似ています。それは新歌舞伎を伝来の七五の抑揚のイメージに置き換えようとする反動的な動きなのです。そうすれば左団次劇は古典化して確かに「歌舞伎らしく」聞こえるかも知れません。しかし、逆にノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)の感覚は弱められることになります。そもそも「歌舞伎らしい」とはどういうことを言うのか・という根本に立ち戻らねばなりません。

話はちょっと変わりますが、明治44年(1911)帝国劇場において坪内逍遥をリーダーとする文芸協会が第1回公演としてシェークスピアの「ハムレット」を上演しました。それ以前にも翻訳劇は上演されていますが、演劇史において「新劇の創始」とされるのはこの帝劇公演です。この公演の評判はあまり結構なものではありませんでしたが、この時の芝居で「主役の台詞がせきこみ過ぎである」という評が出たそうです。つまり、新歌舞伎での左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」と批判されたのとまったく同じことを言われているわけです。これに対して逍遥は次のように反論しています。

『僕の耳に触れた評のたいていは、我々の劇を評するに在来の劇を評するとまったく同じ標準を用いていたようである。たとえば土肥氏の台詞回しをせきこみ過ぎると評した人があったが、その実あの調子が我々の工夫の一である。人物の性格に応じ、その情調に応じて在来の台詞回しにはかってないような調子を用いさせたような例がいくつもある。』(坪内逍遥・「ハムレット」公演後の所感・明治44年6月)

逍遥は「そのせきこみ過ぎに聞こえる台詞の調子こそ我々の工夫した点だ」と言っています。その急き込むリズムは実は逍遥が意図したものだったのです。このように逍遥と左団次がそれぞれ別の過程でまったく同じ方向(急き立てる・一本調子のリズム感覚)に達していることは注目すべきことです。逍遥はその工夫の背景を上記文中では述べてはいません。しかし、逍遥の周辺の論文を追って行けばその察しはつきます。そのヒントはシェークスピア劇の英語の台詞のリズムなのです。

(H20・2・6)


10)シェークスピアの様式

シェークスピア劇の英語の台詞のリズムの要点を簡単に書くと次のようなことです。当時の芝居は基本的に詩劇でした。韻文(音韻を踏んだ文章)が基本ですが、シェークスピアの特徴はブランク・ヴァース(blank verse)すなわち韻を踏まない韻文です。韻を踏まないのになぜ韻文と言うのかと言うと、行末を空白(blank)に置くからです。つまり、文章にリズムがあれば・それが韻を踏んだのと同じ効果を生むことになり・そ れは詩(韻文)になるのです。シェークスピアの代表的な台詞のリズムは弱強五歩格(ianbic pentameter)と言い、「弱い/強い」のリズムが五回繰り返されるものです。「十二夜」冒頭のオーシーノの台詞を見ます。

「If  mu/sic be / the food /of love, /play on.」(もし音楽が愛の糧であるならば、続けてくれ)

上記の台詞は「弱/」のリズムです。弱強五歩格になるのは・これが英語の持つ自然のリズムであるからです。しかし、シェークスピアの台詞すべてが「弱い/強い」のパターンではありません。もちろんいろいろな変形があります。例えば「ハムレット」の有名な第4独白です。

「To be, /or not / to be, / that is /the question」(このままでいいのか・いけないのか、それが問題だ。)

この場合は最初の3拍が「弱/」(ianbic)ですが、4拍目の「that is」は「強/弱」(trochiaic)」になっており、5拍目の「the question」は「弱弱(amphibrachic)」のリズムとなっています。(注:「the ques/tion●」と解することもできます。)こうした拍の打ちの違いはもちろん語句のアクセントから来ます。いずれにせよ「弱 」と「強」の組み合わせによる二拍子が基本リズムになっていることが分かります。このリズムによって役者は台詞を勢い良くまくし立てることが出来て、しかも台詞は音楽的な印象を帯びるのです。ですから、シェークスピアの台詞は「弱/」のリズムを単純に機械的に打つわけではありません。工夫次第で揺れるような台詞のリズム感覚を生み出すことができます。「マクベス」の独白を見てみます。

「Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow, Creeps in this petty pace from day to day・・・」(明日、そして明日、また明日、毎日毎日、このようにゆっくりと過ぎる・・)

このように「弱/」と「強/弱」のリズムが交錯し、韻律を乱して・台詞に揺れる感覚を与え・それにより不安定な気分を与えることができます。悪夢にうなされる 「リチャード3世」最終幕の独白を見ると、その抑揚の取り方はさらに複雑になります。

「The lights burn blue. It is now dead midnight. Cold fearful drops stand on my trembling flesh. What do I  fear? Myself? There's none else by. Richard loves Richard: that is I am I. Is there a murder here? No. Yes, I am.」(蝋燭が燃えている。今は死んだような真夜中だ。冷たい恐怖の汗がこの身体にあふれ出る。何を恐れている?俺か?他には誰もいない。ここに殺人者がいるのか?いない。いや、いる、この俺だ。)

このようにシェークスピアの台詞では二拍子が基本リズムであって、実際に舞台で役者が台詞をしゃべる時は韻律に合わせて強弱のアクセントを交錯させ・さらにテンポを微妙に伸縮させることで個性を発揮することが可能になります。これがシェークスピアの様式なのです。

*以上の考察は、河合祥一郎著「シェークスピアは誘う」の解説を参考にしています。
河合祥一郎:シェイクスピアは誘う―名せりふに学ぶ人生の知恵(小学館)
 

*「強/弱」(trochiaic)のリズムのイメージ

二拍子の一拍目に音価(アクセント)が付いて「強/のリズムになります。逆に二拍目に音価が来る場合は「弱/」(ianbic)のリズムになります。

この「強/弱」(trochiaic)のリズムのイメージが左団次の台詞のリズムのイメージのもとにあるものです。

このリズムがまさに「様式」(フォルム)であることは、英国人が米国人のシェークスピアを見て鼻で笑うのを見ると・よく分かります。同じ英語でも米国人の場合は台詞が自然に(写実に)傾きがちで・口調が滑らかでそのリズム感が際立たず・弱強五歩格の様式が感知されないことがしばしばあるからです。シェークスピア詩劇の古典的様式はそのリズムに現れるのです。このことは新しい時代の演劇を創始しようとした坪内逍遥に大きなヒントを与えたに違いありません。

*米国人のシェークスピア劇について、名優アル・パチーノが「リチャード3世」に挑戦したドキュメンタリーがとても興味深いものです。
アル・パチーノ:チャードを探して [DVD]

(H20・2・9)


11)新しい歌舞伎のヒント

シェ-クスピア全集を翻訳した英文学者の逍遥がその台詞の影響を受けたと言うのはなるほどと理解できますが、いつ左団次はシェークスピアの知識を得たでしょうか。左団次が松居松葉(しょうよう)とともに西欧の演劇を学ぶために洋行したのは、明治39年(1906)12月から翌年8月までのことでした。この時、左団次は27歳。明治37年に父・初代左団次を亡くして、若輩の身で座頭として明治座を引き継いで2シーズンを経たが、前途は厳しい。そんななかでの洋行でした。この旅で左団次はシェークスピアに出会ったと吉之助は推測します。

洋行した左団次は松葉のガイドでフランス・イギリス・ドイツ・イタリアなどを周遊して(最後にアメリカを経由して帰国)、片っ端から芝居を見て回りました。夕方ある町に着くと・その晩に劇場で芝居を見て、よく朝は次の町に移動して・またその晩はそこの町の劇場で芝居を見るというような旅であったそうで、風景・名所旧跡などは全然見ていないと左団次は回想しています。さらに英国の俳優学校に行って演技の指導をしてもらったり、名女優サラ・ベルナールや・戯曲家のサルドゥーに会ったりもしています。

言葉が分からない左団次がどういう風に芝居を見たかというと、劇場に入る前に松葉に脚本を読んでもらって、大体の筋を理解してから芝居をみたそうです。そして、芝居を見ている間は松葉とはお互い口を利かないという約束をして芝居を集中して見ました。筋の大体を理解したあとは、俳優としての感性だけで舞台から伝わってくるものを必死で吸収・理解しようとしたということです。明治40年8月23日、欧米から帰ったばかりの左団次と小山内薫との対談で ・左団次は次のような会話をしています。

小山内「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
左団次「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。」

(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」)

「当たり前の台詞でもまるで歌を聞いているようだ」というのが、当時の西洋演劇を見た日本人の驚きであったわけです。この頃の西洋演劇はイプセンなどの自然主義演劇が勃興した時期にあたりますが、現代から見ると演技・台詞廻しには様式的な感じが濃厚に残っていました。日本語は音節の数が少ないですから・全体的に平坦でのっぺりした印象があるので、左団次も小山内薫も西洋演劇の台詞が音楽的なことにショックを受けたと思います。これは現代の我々が歌舞伎の台詞は音楽的であると感じていることと・かなり感覚的なギャップがあることにも注目をしたいと思います。彼らが西洋演劇の台詞の方に歌を聴いているような感覚を持ったということは、そこに非常に大きな示唆があります。左団次と小山内薫は歌舞伎より西洋演劇の台詞の方が音楽的だという印象を確かに持ったと思います。そう考えると左団次が西洋演劇の台詞の言い回し(エロキューション)の秘密に関心を持たなかったはずがありません。その西洋演劇の台詞術の基本がシェークスピアです。左団次は英国俳優学校でシェークスピアの台詞のリズム様式・弱強五歩格のことを必ず教わったはずです。そして、そこに新しい歌舞伎の台詞術のヒントがあると感じたに違いありません。つまり、歌舞伎の台詞に明確なリズム感覚を持ち込むことです。

左団次の欧州演劇旅行の成果については歌舞伎史研究のなかで正当な評価がされていないと思います。せいぜい「鳥辺山心中」の幕切れで菊池半九郎とお染が加茂川の河原を歩く時・石ころだらけの河原を歩くのを左団次と松蔦がつま先立ちで歩いた・それが西洋のバレエの影響であるとか言われている程度のことです。しかし、あれほどの欧州演劇旅行だったのですから、後年の左団次に間違いなく大きな影響があったはずです。その成果のひとつが台詞の二拍子のリズムであったと吉之助は思っています。

(H20・2・11)


12)二拍子のリズムが描くもの

二拍子のリズムで勢いよく台詞をまくし立てると、そこにセカセカした・急き立てられた・気ぜわしい感覚が生まれて来ます。そのリズムはともすれば一本調子にも感じられて、どこか機械的で非人間的な感覚も併せ持っています。しかし、 一旦この快速リズムに乗ってしまえば・人はそのリズムに身体を後ろから押されるように熱狂的に興奮した感覚を自然と感じることもあるのです。

*左団次の台詞の二拍子の基本イメージ

二拍子のリズムを基調にして、一拍目に音価(アクセント)をつけて、「強/弱」(trochiaic)のリズムになっています。この点がシェークスピアの影響と 考えられるところです。一拍目に音価を入れることによって、前に押す・急き立てる感覚が生み出されるわけです。なお、これは基本イメージですから、実際の台詞のリズムは言葉自体が 持つリズムにより微妙に変化しますから・二拍子の枠に厳格にはめるものではありません。むしろ、リズムが壊れる(破綻する)ところに台詞の変化が生まれるわけで、そこが役者の工夫の仕どころになるのです。

 久米正雄が「左団次があの一本調子を以って焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて・吾々のそれとピタリと合致する。その調子の緩急を以ってすわなち台辞のテムポーを以って・知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは・彼を措いて外にはない」と書いたものがそれです。また折口信夫が「あの息長く・脈動するようにあやつられた台詞廻しに誘惑があったのである」と書いたのもそのことです。一本調子の二拍子のリズムが生み出すものは、その時代が持つ切迫した・背中を後ろから押されるような・急き立てられた熱い思いです。坪内逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物を表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。時代精神が変わったと共に、作意も作風も変わりまた変わりしつつあるのである。したがって芸風も根底から一新されねばならぬのである。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

逍遥は20世紀初頭の状況を「無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代」と書いています。これが日本だけでなく・この時代の世界全体を覆っていた気分なのです。

「深刻な・もっと細緻な・もっと痛切な・一家・一城・一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にしてその実は人間全体・世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が作者にもあれば見物人の心にもある。」

これはこの時代の芸術表現を考える時に見逃してはならぬ文章です。すなわちそれがどんなに個人的に過ぎない・些細なことを 描いているように見えても、それはこの世界全体の在り方と重ね合わさっているという思いです。それは個人が世界と対峙しており・個人を通して世界が表徴されるという意識から出ます。この考え方によって・同じかぶき的心情を材料にしていても・新歌舞伎の様式は従来の歌舞伎とは一線を画するのです。その様式は台詞の二拍子のリズムとして現れます。

(H20・2・14)


補足)時代の構図

演劇に新らしいスタイルを作り出そうと思えば、それに一番ふさわしい題材は当然「現在」ということになります。ですから明治になってからの歌舞伎でも、当時の世相・風俗を取り入れた芝居が盛んに作られました。それらは興行的に当ったものもありますが、しかし、結局そのほとんどは内容的にいまひとつで・一時の花火にしかなりませんでした。芝居に深みを増した人間描写をさらに求めるなら「現在」をそう在らしめたところの「過去」の細密な描写が必要になってきます。芝居の筋の構築には伏線(因果関係のようなもの)が必要なことももちろんありますが、この時代の芸術には個人は世界と対峙しており・個人を通して世界が表徴されるという明確な意識があったからです。このことは19世紀に個人の在り方・生活が急激に変化したことと大きな関連があります。ある意味でみんな気負っていたのです。19世紀半ば頃の西欧の作家たちは自己を歴史に重ね・後世に読まれることを意識して日記や手記を盛んに書いたもので した。また歴史を題材にした長大な物語が盛んに書かれたことにもそうした背景があります。このことは日本においても同様です。

「深刻な・もっと細緻な・もっと痛切な・一家・一城・一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にしてその実は人間全体・世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が作者にもあれば見物人の心にもある。」 (坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

坪内逍遥がこのように書くのは日清・日露戦争など日本固有の状況ももちろんありますが、これは世界的な芸術風潮なのです。逍遥が「桐一葉」・「沓手鳥孤城落月」のような史劇を書いたのは・逍遥が歌舞伎役者を想定していたことも確かにひとつの要因です。しかし、それよりもっと大事なことは・史劇の方が個人に刻々と迫り・個人を否応なしに巻き込んでいく時代の状況・重圧というものの構図を作品のなかに取り込みやすいし、また見物もそれを感じ取りやすいということです。だから逍遥は大坂夏の陣をその題材に選んだわけです。逍遥は左団次と縁が深い作家ではありませんが、左団次に作品を提供した同時代の作家たちにも同様な想いがあるのは当然のことです。

ですから・左団次劇はもちろん歌舞伎役者である左団次のために提供されたのだから・もちろん歌舞伎として上演され・だから主として江戸の風俗を題材としているのですが、それだけが江戸を背景としている理由ではないわけです。そこには江戸を題材とする内的な必然がありました。個人と状況との関係が明確に見える近過去・江戸を題材とすることは、作家にとっても・左団次にとっても・もちろん見物にとっても確かな意味があったのです。その方法論によって作家は自分の想いを左団次に託したのです。左団次が新歌舞伎150曲を初演した記念として出版された冊子「松莚戯曲目録」(昭和2年・1927)の前書きに小山内薫は「私は高橋君(左団次)が新作のみの役者になることの・そう遠くないのを信じる」と書いています。左団次に作品を提供した作家たちの新しい演劇への想いがそこに見えます。

(H20・2・17)


中休み)「左団次劇の様式」の周辺

「左団次劇の様式」をちょっと中休みして・その周辺のことを書きたいと思います。これでどうやら半分をやっと越えたかなというところです。「左団次劇の様式」は恐らく「歌舞伎素人講釈」の単独論考としてこれまでで一番長い記事になります。いつもよりゆっくりしたペースで進んでいるのは・完成した原稿を章毎に切り分けてサイトにアップしているのではなくて、大筋は決めていますが ・原稿が未完の状態なので・各章を都度アップする段階で書き直しながら進めており・この時点でさらに内容を加筆しているので・それで時間が掛かっています。ひとつには本論考はリズム論・シェークスピアから新即物主義まで吉之助の演劇史観を総動員したものになっているので・論旨をじっくり固めながら進めたいということがありました。

「左団次劇の様式」の二拍子のリズムの件はかなり以前から吉之助の頭のなかにあったものです。これが具体化したのは昨年 (2007年)3月に「急き立てる台詞」というテーマで行なった公開講座でのことでした。内容はロマン派音楽のアジタート(急き立てる・あるいは気ぜわしくという意味のイタリア語)なリズムのパターンをいくつか取り上げて、これに元禄の荒事・和事に始まって・黙阿弥の七五調・左団次の新歌舞伎までの台詞様式を乗せていく試みでありました。(「アジタート」については吉之助の音楽ノート:シューマン「謝肉祭」をご参照ください。)これを実感するのは音楽を聴き込む必要があって・講座では時間が限られていたので十分な紹介ができませんでしたが、「急き立てる」をキーワードにして・すべての歌舞伎の台詞様式はそのバリエーションと見立てられるということです。このことは「歌舞伎素人講釈」のバロック論で提唱している西欧ロマン派芸術と歌舞伎との類似性に関連する重要な事象です。

したがって本来はこの「左団次劇の様式」の前に・元禄の荒事から幕末の黙阿弥に至る歌舞伎台詞様式のリズム分析がまずありまして・左団次劇は最後の項目に来るのが最初の「急き立てる台詞」の構想でした。しかし、原稿を書き始めてみると・左団次劇の部分が突出して多くなりましたので・後半部分を「左団次劇の様式」として独立の論考にしたというわけです。二拍子は急き立てるリズムの基本形ですから、これをしっかり押さえて置けば・他のバリエーションの分析が楽になるということもあります。「急き立てる台詞」の前半部分についてもいずれ整理して・サイトにアップする予定です。

もうひとつ・「左団次劇の様式」で吉之助が問題提起したいことは、歌舞伎は台詞廻しについて・これを「調子がいい/悪い」とか「歌う/歌わない」とか・ただ印象批評で論じるだけで、様式(フォルム)の議論をとても曖昧にしてきたということです。折口信夫は次のように書いています。

『これだけは恐らく歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言われている優人には、かなりの悪声の人がいた。歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を名優のなかに持っていたものはないであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年)

このことは歌舞伎で正しい発声・台詞廻し(エロキューション)があまり顧慮されていないことを示しています。言ってみれば・台詞廻しというのは役者の味でするものだから個性に合わせて 「その役らしく」やればそれでいいじゃないかみたいな感覚です。こういう感覚が役者はもとより・劇評家や「通」と呼ばれる方でも当たり前になっています。ですから時代的に一番近いはずの左団次劇でさえ・その様式が崩れる事態になっても・その事態が正しく認識されないわけです。「左団次劇の様式」前半で書きました通り・左団次の決め球がもはや分からないということです。フォルム感覚の欠如の問題は台詞廻しに限りません。それはいろんなところに現れます。そこで「歌舞伎素人講釈」では、まず左団次劇を皮切りに・ゆっくりとフォルム論を続けていきたいと思っています。

(H20・2・19)


13)寿海の工夫

このように左団次劇の二拍子のリズムのもともとの発想は、逍遥と同様に・直接的にはシェークスピアから来たものだと吉之助は考えています。発想の原点が伝統の歌舞伎の七五調の音楽的な言い廻しのイメージの否定・破壊にあるからです。しかし、誤解があるといけないので付け加えますが、二拍子のリズムが外国から来たリズムであり・日本古来のリズムではなかったということではありません。日本のわらべ歌・例えば「かごめかごめ」や「ひらいたひらいた」などを聞いてもお分かりの通り、日本の伝統音楽の基本リズムが二拍子であるからです。

ここで注意すべきことは、「かごめかごめ」と同じ言葉を繰り返す時に・同じリズムを単純に繰り返しているかと言うとそうではないということです。最初の「か」は一拍分長く、二番目の「か」は短くなります。最初の「め」は短いですが、二番目の「め」の後には一拍の休止があります。ただし、この休止は休みでも良いし ・「めー」と一拍分伸ばしても良いのです。すなわち、最初の「かごめ」は頭に大きな音価が来て・次の「かごめ」では末尾に大きな音価が来て・このセットでフレーズのまとまり感を出すのです。本件については民族音楽研究の小泉文夫氏の著書「日本の音」・平凡社ライブラリーをご参考にしてください。小泉文夫氏の指摘は、「一本調子」という批判も受けた左団次の二拍子の台詞にいかにして抑揚を加えて・フレーズのまとまり感を生み出し、そこに自然な台詞の印象を生み出すかという課題のヒントになります。これがまさに三代目寿海が試みたことでした。

小泉文夫:日本の音―世界のなかの日本音楽 (平凡社ライブラリー)

*左団次の二拍子の基本イメージ

二拍子のリズムを基調にしていますが、一拍目に音価(アクセント)をつけて、「強/弱」(trochiaic)のリズムになります。一拍目に音価を入れることによって、前に押す・急き立てる感覚が生み出されるわけです。

左団次が台詞を言う場合、例えば「伯母さまは苦手じゃ」ならば(バ/マ/●/ガ/ジャ)となり・二拍子の頭の打ちが強めになります。左団次は抑揚をあまり付けないのです。左団次はそのリズム感(急き立てる気分)を優先したとも考えられます。これはインパクトを大事にする変革者としては当然の選択だと思います。テンポも若干早めであったと想像されます。こうすると台詞はン・・・と棒で読む感じに聴こえます。そのため「一本調子で焦き込みがちに台辞を畳む」という印象が生まれることになります。

これに対して寿海の場合はリズムの打ちを弱めて・テンポも若干緩めて、(オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ)と頭の(オバ ・・)に音価を置き、末尾の(・・テジャ)に音価を置きます。これで(伯母様は)・(苦手じゃ)のふたつのフレーズにまとまり感をつけるのです。こうすると感覚としては五・五の調子に近い感じにも聴こえます。この手法によって寿海は従来の七五調の台詞回しとの間に感覚的な折り合いを付けているのです。つまり左団次型と従来型との折衷と言うことですが、実は寿海は二拍子の基本をしっかり守っています。 寿海が二拍子をちゃんと守っていることは台詞の末尾が伸びていないことではっきりと確認できます。(注:上記には五・五の例を引きましたが、七の場合は同じ考え方で五に二を足した感じで末尾に音値を置けば・七のように聞こえるのです。昭和38年12月京都南座での寿海の播磨の映像が残されていますから、そこのところ機会あれば確かめてみてください。その他の場面でも寿海の台詞の工夫が随所に見られます。)

*寿海が二拍子のリズムをどう処理したかの・ひとつの例

オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ)と頭の(オバ ・・)に音価を置き、末尾の(・・テジャ)に音価(アクセントあるいは抑揚)を置くことで、二拍子のリズムに擬似的な五・五のユニット感覚を持たせて、これを七五調に近い感覚に処理しています。しかし、その台詞の基調は間違いなく二拍子なのです。寿海の場合は音価の部分に若干リズムの膨らみを持たせて・そこに抑揚のポイントを置いています。この処理の考え方が分かれば、寿海の音楽的な台詞回しの秘密が見えてきます。

なぜこれを寿海が七五調で処理していると勘違いしてしまうかと言うと、下の七五調(吉之助が「ダラダラ調」と呼んでいるリズム)が現代歌舞伎の「音楽的」な台詞回しの基本になっているので、その先入観で寿海の台詞を聞くからなのです。

現代の役者は寿海の台詞まわしをベースにしていますが、寿海の台詞の根底に二拍子があることを理解していないのです。緩急つけた音楽的な七五の節回しのイメージに捉われているので、(オバサマハ/ニガテジャア●)と五・七で言って・自然に口調を七五調に揃えてしまう。だからフレーズの末尾が間伸びしてしまいます。近松でも南北でも何でも台詞を無意識に七五に口調を揃えてしまうのは、歌舞伎役者の悪い癖です。「その4」で触れた通り、寿海の勝負球は何か(左団次の後継としての台詞回しのポイントは何か)を見極めないで、寿海の台詞を表面的に受け取るから・こうなるのです。特に台詞の末尾が詠嘆調に伸ばされることが左団次劇の様式を決定的に壊します。台詞の急き立てる感覚は見失われることになります。













*現代の一般的な七五調(いわゆる「ダラダラ調」)のリズムのイメージ

同じテンポで台詞が続き、七と五のユニットが交互に伸び縮みする。これは吉之助が「ダラダラ調」と呼んでいるもので、実はこれは正確な七五調ではないのですが、これが 現代歌舞伎の一般的な七五調のイメージとなっているものです。このイメージで処理するならば「ニガ/テジャ」は「ニガテジャア●」と末尾を引き伸ばす言い回しで良い ことになります。(七五調についての詳しいことは別稿「試論:黙阿弥の七五調を考える」をご参照ください。)

別稿「指導者の孤独」でちょっと触れた平成19年6月「元禄忠臣蔵」の仁左衛門の綱豊の台詞廻しは緩急自在で・総体としては世評通り「寿海張り」と褒めても良いですが、仁左衛門が二拍子を意識していないことは台詞の末尾をしばしば詠嘆調に伸ばしているのを聞けば明らかです。例えば「俺はあっぱれわが国の義士としてそちたちを信じたいのだ」という重要な台詞では・「信じたいのだ」の部分でテンポを急に落として・「シーンジタイーノーダーー」と長く引っ張って、これで左団次劇の様式を壊しています。左団次劇の様式としてはこの部分こそインテンポで息を詰めて押し切るべきです。決め球は直球でなければならないのです。

付け加えておくと・応用手法として(オバ/サマ/ハ●/ニガ/テジャ )という言い方も考えられます。つまり、五・五に仮想したユニットの頭に音価を置くという考え方です。こうするとインテンポで・左団次が頭打ち(強/弱)のリズムをつけたのと同じ感覚になり、リズムがプッシュされて・左団次の台詞と同じ急き立てる気分が生まれてきます。別稿「元禄忠臣蔵の二枚の屏風」で触れた平成18年11月 「元禄忠臣蔵」の藤十郎の内蔵助の台詞廻しは・リズムに微妙に緩急を入れていますが・感覚的にこれにとても近いものです。この時の巷間の劇評では「藤十郎の台詞廻しが青果の文体に合わない」と書いているものを見かけましたが、左団次劇に何が必要かが分かれば藤十郎の工夫が分かるはずです。急き立てる気分をベースに聴くならば・これは広義に左団次劇(=青果劇)の様式にちゃんと合うわけです。(このことは和事の台詞廻しの本質にも深くつながっています。このことは別の機会に触れたいと思います

(H20・2・21)


補足)相手を押す台詞

「歌舞伎素人講釈」の提唱する重要な概念に「かぶき的心情」があるのはご承知のことと思います。かぶき的心情のドラマの核心はその心情の強さにあります。かぶき的心情は個人の心情の強さに根ざすものですから、威圧的・強迫的になることがしばしばあります。「俺のこの気持ちがお前にはなぜ分からないのか・俺がこれだけ思っているのだから・お前はそれを理解し受け入れるべきだ」という感じになりやすいのです。こうしたかぶき的心情は左団次劇の場合には畳み掛ける二拍子のリズムにまず出ますが、もうひとつの特徴は台詞が断定口調になることです。台詞の末尾をテンポを速めてグッと押して決めることで相手を押し切ろうとするのです。つまり台詞の決めが胸元内角直球になるわけです。

台詞の末尾を詠嘆調に伸ばすというのは自分の心情に酔っているが如きです。台詞のベクトルが相手に向いていない。これでは心情で相手を押すことはできません。これは相手の打ち気をはずす変化球を外角に投げ込むようなものです。前章で挙げた「元禄忠臣蔵・御浜御殿」の綱豊の台詞の末尾は・なぜ伸ばしてはならないのか・それを考えます。

綱豊「・・・助右衛門、まだ分からぬか、俺を見よ。俺の眼(まなこ)を見よ。俺は、あっぱれ我が国の義士として、そちたちを信じたいのだ。」
助右衛門、一語一語に迫り来る綱豊の台詞に、次第に頭さがり、ついにはその真情に打ち負けんとする自分を押さえて強いて反抗的に頭を上げる。
助右衛門「恐れながら殿様には、大石めが、いま放蕩に身を持ち崩すゆえ、仇討ちの企てがあるにそう相違ないと仰せあるのでござりまするか。それなれば私も、申し上げたいことがござります。・・・」

綱豊の台詞で助右衛門は綱豊の心情の強さに感じてしまって・自分の仇討ちの意志を危うく漏らしてしまいそうになります。揺らぐ自分を感じて・その気持ちを断ち切って、 突然助右衛門は反抗的にグッと顔を上げます。そして「綱豊が将軍家の眼を気にして作り阿呆にしている」ととんでもないことを綱豊に対して言い始めて・綱豊を怒らせてしまいます。この場面では前の綱豊の台詞を息を詰めて受けてじっと聞き入り・今度はその詰めた息をカッと吐いて・自分のなかの内蔵助への憤懣を綱豊に対して一気にぶつけて行く・その気持ちの転換のきっかけが必要です。綱豊に「そちたちを信じたいのだ」を詠嘆調に伸ばされると、助右衛門のきっかけが曖昧になってしまいます。

綱豊の台詞が二拍子の強いリズムを持っていることは、青果がト書きに「一語一語に迫り来る綱豊の台詞」と書いていることではっきりと分かります。青果は明らかに左団次のリズムを意識して台詞を書いています。リズムで相手を押す・その心情で相手(助右衛門)を説得せずにはおかぬという台詞です。ここで台詞末尾が詠嘆調に伸びるということは考えられません。「そちたちを信じたいのだ」を速い調子で詰めれば・しばし間を置いて助右衛門役者はグッと反抗的に顔を上げ・綱豊を怒らせる台詞に突入していくきっかけが作りやすくなる。そのようなリズム設計がこの場のふたりの会話のなかにあるわけです。

平成19年6月「御浜御殿」の仁左衛門の綱豊は「シーンジタイーノーダーー」と長く引っ張って詠嘆調に伸ばしています。そのために綱豊の心情が情緒的に流れています。助右衛門が初役の染五郎のことを考えても、ここは台詞の末尾で相手をグッと押す方が都合が良ろしいのです。そうすれば染五郎は「コンチクショウ」という感じで台詞を叩き返せます。(この部分については別稿「指導者の孤独」をご参照ください。)

同じことが「御浜御殿」幕切れ・能舞台脇中庭で綱豊が助右衛門を押さえつけて・義士の道理を説く長台詞の末尾「・・・助右衛門、分かったか」でも言えます。ここでも仁左衛門は「ワカッタカアー」と末尾を長く引き伸ばしています。左団次劇の様式ならば ここは「ワカッタカッ」と相手を一気に押し切るものです。もうここでの綱豊は相手に理解を求めることはしません。これは相手に有無を言わせぬ・押し付ける台詞なのです。ここで台詞を断ち切ればそのきっかけで・助右衛門はハーッと平伏して・「恐れ入りました」を叫ぶように言うことが出来るわけです。(注:現行の「御浜御殿」脚本では「・・・助右衛門、分かったか」となっていますが、青果のオリジナル脚本は「・・・助右衛門、そちにはこの道理が判らぬか」です。オリジナルの方が二拍子が明確なのは言うまでもありません。初演の左団次がこの台詞を変えたのではありません。左団次は台詞を改変することは決してしない役者でした。 )

青果の芝居では最も肝心な台詞にしばしば断定口調が使われています。そのような台詞は実はすべて左団次劇のリズム様式に拠っています。ところが現代の歌舞伎役者が演じる青果劇では、そのもっとも肝心な場面の台詞において・まるでそこが観客の拍手を受ける場所だと言わんばかりに・末尾が詠嘆調に引き伸ばされています。また劇評でもそれが良いみたいな文章をしばしば見掛けます。しかし、左団次劇の様式を理解していれば・その台詞をどう処理すれば良いかは自然に見えてくるはずです。

(H20・2・23)


14)歌舞伎十八番のリズム

ところで二拍子のリズムは従来の歌舞伎の台詞のなかにもあります。邦楽の場合は拍(リズム)の明確な概念がなくて、表間(おもてま)・裏間(うらま)と言ったりしますから ・歌舞伎の台詞もリズムの概念で捉えることがあまりありませんが、例えば歌舞伎十八番です。「助六」でのツラネは厄払いの様式をとっており、台詞は緩急が付いていますが・部分的に早めの四拍子(四拍子は二拍子 を細分化したものです)でタンタンタンタンと進む場面があります。関東方言ですから・頭打ち(拍の頭にアクセントが付く)で、「強・弱」の四拍子のリズムになっています。そのリズムにいきり立つ男達(おとこだて)の気分が現れています。

『遠くは八王子の炭焼売灰の歯っ欠け爺い、近くは山谷の古やりて梅干婆ァに至るまで、茶呑み話の喧嘩沙汰、男達の無尽のかけ捨て、ついに引けステを取ったことのねえ男だ』
(ハチ/オウ/ジノ/スミ/ヤキ/バイ/タン/ノ/ハッ/カケ/ジジ/イ/チカ/クハ/サン/ヤノ/フル/ヤリ/テ/ウメ/ボシ/ババ/アニ/イタル/マデ/チャノ/ミ/バナ/シノ/ケン/カ/ザタ/オト/コ/ダテ/ノ/ムジ/ンノ/.カケ/ステ ・・・)

「勧進帳」の山伏問答における弁慶が一気にまくし立てる長台詞も同様に「強・弱」の四拍子のリズムになります。

『それ九字の真言といっぱ・所謂、臨兵闘者皆陳列在前の九字なり・・・』
(ソレ/クジ/ノ/シン/ゴン/ト/イッパ/イワ/ユル/リン/ピョウ/トウ/シャ/カイ/チン/レツ/ザイ/ゼン/ノ/クジ/ナリ・・・)

この場面は山伏問答のクライマックスであり、興奮が最高潮に達しているところです。山伏問答の緊張とプレッシャーが弁慶の台詞を早い四拍子のリズムを取らせるのです。同時にその早いリズムは弁慶一行に押し寄せる政治的な状況のなせるものです。ですから、これに対抗する弁慶の台詞のリズムは非人間的な切迫した様相を呈すわけです。対する富樫の詰め寄りの台詞も同様です。富樫の台詞も職務として弁慶にプレッシャーを掛けているというだけではなくて、その内心に沸々と湧き上がる畏敬の念(その正体を富樫はまだ見極めていない)に押されるが如くに急くのです。(この富樫の心理については別稿「勧進帳についての対話」をご参照ください。)

『そもそも九字の真言とはいかなる義にや、事のついでに問いもうさん』
(ソモ/ソモ/クジ/ノ/シン/ゴン/トハ/イカ/ナル/ギニ/ヤ/コト/ノ/ツイ/デニ/トイ/モウ/サン)

「本論考・プロローグ」において・左団次の富樫は他の役者の演じる富樫とは別格であると述べたことの理由もここにあります。二代目左団次の功績として・新歌舞伎作品を上演したことの他に、「毛抜」・「「鳴神」など歌舞伎十八番の復活ということがあります。(他に鶴屋南北作品の復活ということもあります。) これは古典作品が得意ではなかった左団次劇団が乏しいレパートリーの拡充のために行ったことに違いありませんが、左団次が歌舞伎十八番に着眼したのは上記のことを考えれば必然なのです。それは元禄の荒事が表現するところの時代の空気と、左団次の生きた大正・昭和の空気とその閉塞した気分において非常に似かよったところがあり、その台詞の様式感覚が極めてよく似ているからです。歌舞伎十八番は左団次の芸風にピッタリくるということです。(このことは別の機会にも考察する予定です。)

このように左団次劇の二拍子の台詞の直接的な発想はシェークスピアですが、実は深いところで日本の伝統に通じるわけです。そうでなければ 左団次劇は根無し草のように一時のアダ花で終わるしかなかったでしょう。以上の考察を以って・左団次の初演した作品のいくつかを検証していきます。

(H20・2・27)


15)岡本綺堂

新歌舞伎の作者たちは二代目左団次が主演することを念頭に入れて作品を書いたのです。二代目左団次が初演した新歌舞伎作品のなかの台詞から、左団次劇の台詞の共通したイメージを考えてみたいと思います。まず左団次と最も深い関係にあった岡本綺堂の作品から「修禅寺物語」(明治44年5月・明治座初演)の夜叉王の台詞を見ています。

『幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、我つたなきにあらず、にぶきにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、初めて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まず我が作に現れしは、自然の感応、自然の妙、技芸神にいるとはこの事よ。伊豆の夜叉王、我ながらあっぱれ天下一じゃのう。』
(カミ/ナラ/デハ/シロシ/メサ/レヌ/ヒトノ/ウン/メイ/マズ/ワガ/サクニ/アラ/ワレ/シハ/シゼン/ノ/カン/ノウ/シゼン/ノ/ミョウ/ギゲイ/シンニ/イル/トハ/コノ/コト/ヨ●/イズノ/ヤシャ/オウ/ワレ/ナガラ/アッ/パレ/テンガ/イチ/ジャ/ノウ)

この台詞を「強・弱」の二拍子のリズムを基調に読んでみて下さい。台詞は単純な二拍子ではなく・リズムを壊す単語を挿入して・微妙な変化をつけてい ますが、その基調は二拍子なのです。自分の打った面を見ながら・湧き上がる不思議な感動で胸を抑えきれない夜叉王の興奮がリズムに現れているのがよく分かります。夜叉王はこの興奮を一気に吐き出さ ずにはいられません。この台詞を抑揚をつけて・のんびりと歌っていられるとは吉之助には思えません。この台詞には畳み掛ける・急き立てる感覚が必要なのです。同様のリズム感覚は「番町皿屋敷」(大正6年・本郷座)で・お菊が皿をわざと割ったことを知って播磨が怒る場面の台詞にも聞くことができます。

『こりゃよく聞け。天下の旗本青山播磨が、恋には主家家来の隔てなく、召仕えのそちと言いかわして、日本中の花と見るはわが宿の菊一輪と、弓矢八幡、律儀一方の三河武士がたたひと筋に思いつめて、白柄組のつきあいにも吉原へは一度も足ぶみせず、丹前風呂でも女子のさかずきは手に取らず。かたき同士の町奴と三日喧嘩せぬ法もあれ。一夜でもそちの傍を離れまいと、堅い義理を守っているのが、嘘や偽りでなることか。積もってみても知るる筈。何が不足でこの播磨を疑うたぞ。』
(カタキ/ドウ/シノ/マチ/ヤッコト/ミッカ/ケンカ/セヌ/ホウモ/アレ/ヒトヨ/デモ/ソチノ/ソバヲ/ハマレ/マイト/カタイ/ギリヲ/マモッテ/イル/ノガ/ウソヤ/イツ/ワリデ/ナル/コト/カツ/モッテ/ミテモ/シルル/ハズ/ナニガ/フソ/クデ/コノ/ハリ/マヲ/ウタ/ゴウ/タゾ)

播磨は心の底から湧き上がって来る怒りを抑えきれず・その思いを一気にお菊にぶつけます。その思いが二拍子のリズム感覚になって現れるのです。次に「鳥辺山心中」(大正4年9月・本郷座初演)の菊池半九郎の台詞を見てみます。

『わしもそなたを色里に沈めて置くがいじらしく、身受けして親許へと、思いしことも食い違うて、こうなるからはいっそのこと、そなたを殺すはそなたを救う、慈悲の殺生であろうも知れぬ。濁りに沈んで濁りに染まぬ、清いおとめと恋をして・・・』
(ワシモ/ソナ/タヲ/イロ/ザトニ/シズ/メテ/オクガ/イジ/ラシ/ク●/ミウケ/シテ/オヤ/モト/ヘト/オモ/イシ/コトモ/クイ/チゴウ/テ●/コウ/ナル/カラ/ハ/イッ ソノ/コト/ソナ/タヲ/コロ/スワ/ソナ/タヲ/スク/ウ●/ジヒノ/セッ/ショウ/デ/アロ/ウモ/シレヌ/・・/ニゴ/リニ/シズン/デ/ニゴ/リニ/ソマヌ/キヨイ/オト/メト/コイ/ヲ/シテ ・・・)

本作は竹本を入れた擬古典的な作品であり・台詞は七五調にも取れるように巧く書かれています。しかし、七五調で気持ちよく歌ってしまっては新歌舞伎にな りません。義太夫が作り出す音楽の流れと乖離したところで・人間の生(なま)な声を新鮮に響かせることがそこに意図されているからです。台詞は音楽的な雰囲気を壊してはいけませんが、糸に乗ってしまう・調子を合わせる感じでは駄目です。七五調の定型から離れて・台詞をいかにリアルに人間の肉声として聞かせるかが、綺堂が左団次に与えた課題なのです。遅めの二拍子のリズムは大正のロマンティシズムを感じさせますが、すでにお染・半九郎のふたりの意識は死に向かっています。そのリズムは緩慢ではあっても・そこにヒタヒタと迫り来る運命の重圧を表現しているのです。

(H20・2・29)


16)岡鬼太郎と小山内薫

最近はとんと上演されませんが、左団次の初演した新歌舞伎のなかでも重要な二作品を取り上げます。まず岡鬼太郎の「今様薩摩歌」(大正9年10月・新富座初演)の源五兵衛の台詞です。

『路傍の石にも春の風、暖かき人の世の花の眺めを今日知った。次右衛門、命の瀬戸にも手を下げぬ源五が一生の頼み、おまんの返事ひとつにて、三五兵衛が勘当赦され、昨日のままの身に生きらるれば。われもひとしく救わるる。多年の情誼唯一言、何とであるな。』
(ロボ/ウノ/イシ/ニモ/ハルノ/カゼ/アタ/タカキ/ヒトノ/ヨノ/ハナノ/ナガ/メヲ/キョウ/シッタ/●/ジエ/モン●/イノ/チノ/セト/ニモ/テヲ/サゲ/ヌ●/ゲン/ゴガ/イッ/ショウノ/タノ/ミ●/オマン/ノ/ヘン/ジ/ヒトツ/ニテ/●/サゴ/ベエ/ガ/カン/ドウ/ユル/サレ/キノ/ウノ/ママ/ノ/ミニ/イキ/ラル/レバ/●/ワレモ/ヒト/シク/スクワ/ルル/●/タネン/ノ/ジョウ/ギ/タダ/ヒト/コト/ナン/トデ/アル/ナ●)

左団次の演じる源五兵衛は硬骨漢の武士ですが、訳あっておまんを一室に預かっています。源五兵衛はひとりで夕食を取っていると隣家から新内が聞こえてきます。その煽情的な新内を聞きながら源五兵衛は隣室にいるおまんのことを考えて・次第にジリジリとしてきて、ついに心変わりしてしまう。取り上げたのはその変心の台詞です。

この場面の新内は長いもので・役者はその間を持たせるのにとても苦労して・部屋をあっち行ったりこっちを行ったりしてジリジリする心理を表現したくなるものです。しかし、左団次の源五兵衛はこの場面で何もせず・ただじっと座っていただけだったと言われています。実は左団次は何もしなかったのではなく、むしろ内面が激しく動いているのです。源五兵衛は息を詰めて・隣室にいるおまんのこと・これから自分はどうすべきか・身体を固めて全身で考えているのです。これが左団次のリアリズムの演技です。

左団次の演技をリズムの視点から考えると、野球で言えば・投手が打ち気にはやる打者の間合いをはずし・一塁に牽制球を投げたりして時間を稼ぐのによく似ています。観客は左団次が台詞を発するのを今か今かと息を詰めて待っています。聴こえてくるのはただ扇情的な新内の旋律だけです。ところが左団次はなかなか台詞をしゃべらない。観客のジリジリした気分が・源五兵衛のジリジリした気分と何だか妙に重なってきます。そしてついに耐え切れなくなった源五兵衛が突然堰が切れたようにおまんへの思いを吐き出し始めるのが上記の台詞です。同時に観客はその吐き出されるリズムに自然と興奮させられることになります。台詞は一見すると旧式の戯作者風の文体に思えますが・そうではありません。そのリズムのなかにその思いを述べねば堪らぬという急き立てられたリズム感覚が加わることで・その台詞は新歌舞伎になるのです。

特に重要なのが最後の「何とであるな」です。ここを詠嘆調に伸ばすと印象が弱くなって・左団次劇の様式が壊れます。ここはインテンポで押し切る場面です。こうすることで「ここまで言った俺に対してもはや否とは言わせぬぞ」という切迫した感情が強く出て来ます。これがかぶき的心情です。

次に小山内薫の「西山物語」(昭和3年4月歌舞伎座初演)を見てみます。題材は明和年間に実際に起きた「源太(げんだ)騒動」と呼ばれた事件で、結婚が許されない恋人の実家に花嫁姿をした妹を連れて行って・兄が妹を切り殺すというものでした。(この事件は「妹背山婦女庭訓」に強い影響を与えています。別稿「ますらおぶりの情緒的形象」をご参照ください。)引用するのは、左団次演じる源太が相手先の当主である団次に妹の結婚を談判して・相手がついに承知せぬので・妹かえを切り殺してしまう直前の切迫した台詞です。

『こうして頼む以上は、返事次第でかえも生きては帰るまい。だが、そのようなことになったら、お前のためにもよくあるまい。心を落ち着けて返事をしてくれ。』
(コウ/シテ/タノ/ム/イジョウ/ハ/ヘンジ/シダイ/デ/カエモ/イキ/テハ/カエル/マイ/●/ダガ/ソノ/ヨウ/ナ/コト/ニ/ナッタ/ラ/オマエ/ノ/タメ/ニモ/ヨク/アル/マイ/●/ココ/ロヲ.オチ/ツケ/テ/ヘン/ジヲ/シテ/クレ/●)

小山内薫の書く台詞はスッキリとした現代語の文体で・無駄がなく、新鮮な感覚があります。台詞自体は新劇的に素でしゃべっても十分通ります。しかし、この台詞を自然にしゃべったのでは新劇の時代劇になってしまって・新歌舞伎にはなりません。新歌舞伎にするためには・相手を押して畳み掛けていく台詞のリズムが必要になってきます。左団次の男性的な太いイメージと強い意志が二拍子の早いリズムになって現れるわけです。

(H20・3・4)


17)真山青果の「頼朝の死」

二代目左団次にとって綺堂と共に最も重要な作家である真山青果の作品を取り上げます。まず「頼朝の死」(昭和7年4月歌舞伎座)です。初演の配役は源頼家(二代目左団次)・尼御台政子(五代目歌右衛門)でした。

頼家「誰ぞ、誰ぞ、重保を引っ立てよ。獄に下せ、獄屋へ引けい」
尼公「いや、小周防の成敗は尼の言い付け、重保の科(とが)ではない。たって重保を鞠問(きくもん)せんとするならば、母には母の決意がある」
頼家「いや、為らぬ。重保は父上御最後に・・」
尼公(長刀を取り)「又それを言い張らるるか。秘密をつつむも源家のためじゃ。家のためじゃ。家門の大事には兄弟血族とてもゆるさぬは、源氏代々の掟なのじゃ。御祖父義朝公は保元の乱に、御父六條判官どのを打ち参らせ。故(こ)との頼朝公は家のために、義経範頼二人の兄弟までを斬ったるぞ。」
頼家「うう、うう・・・」(母を睨みて声をふるわす)
尼公「この上にも父上御臨終のさまなどあなぐり立てなば、頼家、わどの運命もそのままには居らぬぞ。故との御臨終のさまは、母政子存生の間は、何人にもその事実を包む、この秘密の扉は何人にも開かせぬぞ。」
頼家(声を絞りて)「母上!」
尼公「何ー?」(政子、キッと頼家を睨む)
頼家「さらばわが身は源家あっての頼家にて、頼家のための源家にては・・・ないのでござりまするか。」
尼公「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」
頼家「ええ、そのお言葉に我が身の末も見た。もうこれまで。」(頼家、立ちよって重保を斬らんとす。尼公、頼家を引き戻してキッと長刀を頼家の前に構える)
頼家「母上!うむ・・、うむ・・・、うむ・・・。」(怨念を極めたる視線に母を睨むうちに、刀を投げ出し、小児のように声を立てて泣き出し、その声次第に高くなりゆくうちに・・・幕)


引用が長くなりましたが、「頼朝の死」幕切れでは・ピーンと張り詰めた緊張感が、政子の「事も愚かや・家は末代・人は一世じゃ」という台詞でブツッと音を立てて切れて・頼家の号泣でまるで破綻し途切れるように幕切れます。「歌舞伎は絵面の引っ張りで終わり」などという常識に真っ向から挑戦する幕切れです。まるで二死満塁ツースリーの緊張した場面でピッチャーが暴投して・三塁から走者が生還して試合終了してしまうというようなあっけなさです。

この幕切れのテンポを想像してみます。政子が「家は末代・人は一世じゃ」と叫ぶまでの場面は、頼家と政子が一歩も譲らぬという形で対立しています。ちょうど「勧進帳」での弁慶と富樫の山伏問答を思い出せば良いと思います。ここまでの台詞のテンポはクライマックスへ向かって一気に駆け込むプレストです。この部分に早い二拍子のリズムがふさわしいことは説明するまでもありません。このリズムが「家は末代・人は一世じゃ」でブツッと切れて・急転直下で破綻します。同じような破綻のエンディングが同時代のラヴェルのバレエ音楽「ラ・ヴァルス」終結部(1920年)にも聴かれます。ここに時代への不信感・不安感を見ないわけにはいきません。(別稿「家は末代・人は一世か」をご参照ください。)

「頼朝の死」で大事なことはこの幕切れに至るまでに・退屈に見えるほど回り道をしながら・頼家のイライラした気分を着実に描いていることです。劇前半で頼家の奇矯な言動が描かれているので、最初は観客は頼家という人物にあまり共感を持てないかも知れません。しかし、頼家には表面の強気とは裏腹に ・何も実体と言えるものがないのです。将軍というのは名ばかりで・実は頼家は自分で意志で動けません。そのことを頼家自身も分かっているのですが、分かっていても・それを自分で認めたくないないのです。だから頼家は始終イライラしています。頼家の神経は不安でワナワナと震え・ジリジリして・今にも泣き出しそうなほどであることが次第に明らかになってきます。頼家の気持ちにトドメを刺すのが政子の「家は末代・人は一世じゃ」という言葉です。これを聞いて頼家は堰を切ったように泣き出します。マザコン将軍がお母さんに叱られて泣き叫んでいるように見えますが、それはアイデンティティーが抹殺された恐怖の叫びなのです。

現代の役者はこうした急変する感情表現が苦手のようです。ぐううっと息を詰めて・噴出す感情を抑えようとして・しかし耐え切れずにウルウルとしてきて、ついにウワッと泣き出す・こういう積み重ねの心理過程を踏まないとどうも泣けない・それがリアルな心理描写の演技だと思い込んでいます。そういうプロセスだけが感情表現だと思い込んでいると、左団次の演技は不器用な役者が巧 く心理表現が出来ずに・唐突に泣き出すような奇異な印象に見えるようです。しかし、左団次の表現は唐突でもなんでもありません。実はその前に実に長い長いイライラした気分の積み重ねがあるからです。左団次は表面上は何もしていないように見えても・その内面において激しく動いており・息を詰めた緊張感を持続した演技をしていたと思います。そしてついに耐え切れなくなった緊張の糸がプッツンと切れた時に・左団次の号泣が始まるのです。芝居はそのようなテンポ設計がされているのです。

青果の作品に急変する感情表現が多いことはご存知の通りです。例えば「将軍江戸を去る」(昭和9年)での将軍慶喜もそうです。「元禄忠臣蔵」でも誰彼となく・すぐに顔を赤くして声高に叫び出し・自分を熱く主張して・突然泣き出し たりします。如何にも青臭い感じがしますが、しかし、それは実は作品全体に漂うジリジリした気分・イライラした気分から出るものです。それは左団次の個性であると同時に・昭和初期という時代の感覚と密接に結びついているわけです。

(H20・3・8)


18)真山青果の「元禄忠臣蔵」

連作戯曲「元禄忠臣蔵」連作は昭和9年2月・東京劇場初演の「大石最後の一日」が最初の作品です。その初演は大好評でしたが、実はこの時点での青果に「忠臣蔵」を連作にする構想はなかったのです。松竹社長・大谷竹次郎と左団次の懇請により赤穂義士の討ち入り事件を発端から終結までを描く連作戯曲にすることを青果が決意したのは、その初演から半年ほどたってからのことでした。

まず作品成立の背景として「大石最後の一日」初演の昭和9年(1934)から「御浜御殿綱豊卿」初演の昭和15年(1940)頃までの時勢を考えておく必要があります。晩年の左団次はその風格の大きさの故か・乃木大将や東郷元帥のような・大人物を演じる(あるいは演じさせられる)傾向があって、これは確かにある問題点を孕んでいます。この時期に「新・忠臣蔵」を作ると言うこと も「忠君愛国」を国民に求める時局の要請と興行者(松竹)の思惑が明らかに絡んでおり、青果・左団次はこれに乗ったという一面が確かにありました。しかし、昭和14・5年頃のことですが、青果は娘の美保さんに「待ってろよ、戦争が終ったらもっとはっきり書いてやる。内蔵助の真意を書いてやる。楽しみにしてろ。」と言ったそうです。「元禄忠臣蔵」を忠義の概念から解き放ってみると、そこに大正期の新歌舞伎と共通した気分がそこに見えてきます。別稿「元禄忠臣蔵の揺れる気分」で触れ たように、連作「元禄忠臣蔵」の基調にある気分はふたつあります。ひとつは事を性急に急ごうとする急き立てる気分・イライラした気分であり、もうひとつは「自分の進むべき道はこれで良いのか・正しいのか」ということを常に思い悩みユラユラと揺れる気分です。このふたつの気分が交錯するのが「元禄忠臣蔵」なのです。

『助右衛門、男子義(ぎ)によって立つとは、その思い立ちの止むに止まれぬところにあるのだぞ。義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない。吉良の生首を、泉岳寺の墓前に捧げさえすれば、内匠頭の無念、内匠頭の鬱憤はそれで晴れると思うのか。そちたちにして義理を踏み、正義を尽くす誠あらば、たとえ不幸にして上野介を洩らしても、そちたちの義心鉄腸(ぎしんてつちょう)は、決してそれに傷 つけられるものではない。そちたちの今はただ、全心の誠を尽くして、思慮と判断と知恵との全力を尽くすべき時なのだ。思慮を欠き、判断に欠くるところあらば、たとえ上野介の首打っても、それは天下擬人の復讐とはいわれぬのだ。何故何故何故、おのれ、たとえ吉良上野介を討ちそこなった場合でも、みずから顧みて、疚(やま)しとも口惜しとも思わぬほどの仇討ちをしようとは企てないのか?』
(ダンシ/ギニ/ヨッテ/タツ/トワ/ソノ/オモ/イノ/ヤムニ/ヤマ/レヌ/トコ/ロニ/アル/ノダ/ゾ●/ギノ/ギト/スベ/キハ/ソノ/オコル/トコ/ロニ/アリ/ケッシテ/ソノ/シト/ゲル/トコ/ロニ/アル/ノデハ/ナイ) (「御浜御殿綱豊卿」)

文章を読むだけで綱豊の台詞の二拍子のリズムが浮かんでくると思います。そこにあるのはこの思いを相手(助右衛門)に納得させずには置かぬという切迫した気分であり、またその思いによって自分自身も叱咤せずには置かぬという気分なのです。なぜなら・それを自分にも言い聞かさなければ・自分も揺れてしまいそうだという不安がそこにあるからです。このことは・昭和10年代の時局を考えれば 分かると思います。さまざまな思いを抱きながら・国を守るため・妻子を守るために戦地へ赴かねばならなかった兵士たちの思いにもそれはどこか重なる気分でした。「元禄忠臣蔵」の興行的な成功の秘密もそこにあったのです。(ただし、付け加えておけば・太平洋戦争の賛美であるとか・あるいは批判であるとして「元禄忠臣蔵」を思想的に読もうとすることはあまり意味がないことです。ただ気分においてのみ重なっているという現象面だけを見るべきなのです。)だから台詞の末尾を音楽的に響かせようとして詠嘆調に引き伸ばし・情緒に流してはならないのです。台詞の末尾を気分でグッと押すことが必要になってきます。

(H20・3・14)


19)左団次の発想のプロセス

昭和31年・二代目左団次十七回忌ということで・「今様薩摩歌」が再演され、初代白鸚(八代目幸四郎)が菱川源五兵衛を演じました。この舞台稽古で新内を聴きながらじっと座っている源五兵衛を左団次がどう演じたのかが問題になったそうです。(「その16・岡鬼太郎と小山内薫」をご参照ください。)この場面の新内はとても長いので・役者はその間を持たせるのに苦労して・部屋をあっち行ったりこっち行ったりしてジリジリする心理を表現したくなるものです。そこで左団次劇団の名脇役であった荒次郎に・この場面を左団次がどう演じたかを訊ねると、荒次郎は「何もしませんでした」と答えたそうです。「じゃあ、ここはどうしたんだ」と聴くと荒次郎は「じっとしていました」と答える。「これでは何も分からない・この場面を何もしないで持たせるとはやっぱり伯父さんは偉いんだなあ」ということになって、結局、白鸚はこの場面を自分で工夫して勤めたということです。

左団次にはこういう話が実に多いのです。いつも最後は高嶋屋(左団次)の独特の大きさは他の役者が真似をしようとしてもとても真似できるものではないという結論になってしまいます。これは褒めているように見えますが、風格の大きい役者がただボーっと突っ立っていて・その無技巧が良かったと言っているようなもので・実は左団次の芸の本質が何も分かっていないのです。「その16」で書 いた通り、実は左団次は何もしなかったのではなく、むしろ内面が激しく動いているのです。左団次は表面上は何もしていないように見えても・その内面において激しく動いており・息を詰めた緊張感を持続した演技をしているわけです。これは走者を背負った緊迫した場面でピッチャーが・バッターの間合いをはずすべく・しきりにキャッチャーとサイン交換をしてみたり・プレートをはずしてみたり・一塁に牽制球を投げたりするのと似ているのですが、左団次投手の場合には行動は表面に出てきません。しかし、その裏には息と・間合いの葛藤があるのです。記録上はピッチャーがどんな球を投げて・バッターが打ったか打たなかったしか残りません。しかし、ピッチャーとバッターの駆け引きの面白さはスコア・ブックには残せないものです。歌舞伎の芸だってそうなのではありませんか。

問題は左団次のこうした演技を見る時に「高嶋屋はここをこうした」という・眼に見える表面上の手順(段取り)だけにしか「型」を見ていないことにあります。左団次の内面の心理構築のプロセスに「型」を見ないのです。これでは左団次の芸を理解することはできません。そうなってしまう理由は「補足・演出なのか型なのか」で触れた通り、歌舞伎の型が「それをしなければ歌舞伎には見えない・同じことをやってさえいればとりあえず歌舞伎に見える」というものになったからです。歌舞伎役者は「団十郎はこうやった・菊五郎はああやった」ということ ・表面的な手順だけを金科玉条にしていますから、「高嶋屋は何もしなかった」となるともうお手上げになってしまうのです。本当は受け継ぐ側が何を・どういう要素を「型」として受け取るかという姿勢の方が大きい問題なのですが。

しかし、本稿「左団次劇の様式」をここまでお読みになった方はお分かりでしょうが、左団次がじっと黙って動かないことも・突然ワッと泣き出すことも・二拍子のリズムで台詞をまくし立てることも・歩きながら台詞を言うことも、実はすべて同じ発想から出ているのです。左団次が花道七三で止まらず揚幕に一気に駆け込こんでしまうことも・台詞を間違えると最初から言いなおすのも・脚本を大事にして一字一句も変えないこともすべて同じ発想から来るのです。また左団次にその作品を提供した戯曲作家たちも・左団次が演じることを(つまり左団次の芸風を)念頭に入れて書くことで、左団次と同じ発想で戯曲を書いていることになるわけです。それが登場人物の発言・行動になって現れているのです。これらはすべて底流において密接に関連しており、或るひとつを崩すと・他の要素の規格まで崩れてしまうのです 。

これは左団次劇に限ったことではありませんが、伝統芸能の場合はその発想の根本をきちんと押さえなければなりません。新歌舞伎(=左団次劇)の発想の根本はそれが生まれた二十世紀初頭における世界に共通した時代的気質に拠ります。それは自分の置かれた状況に対して「自分たちはこれでいいのか・これで正しいのか」ということを常に悩み・苛立ち、時に憂い・怒り・迷う気分であり、それがどこかイライラ・セカセカした気分になって現れ ます。ですから、そのことを理解していれば・その発想プロセスを辿ることで、左団次ならきっとここをこうしただろうということは・その舞台を実際に見ていなくても分かることなのです。それが「左団次劇の様式」なのです。ですから・八代目三津五郎が「左団次のリズムをはずしたら・芝居は壊れてしまって・新歌舞伎にならない」と言うのは、そこのところです。三津五郎の言葉をもう一度読んで見たいと思います。

『新歌舞伎の台詞は黙阿弥の七五調から離れようとしていても、言葉に感情を入れて、それで調子を付けるのです。正しいエロキューションは、新歌舞伎の作者が皆考えていたことで、ただ無意味な節をつけることは嫌っていましたが、正しい台詞廻しは求めていたのです。(中略)リアルにやっても調子の出るところは・リズムがなければ駄目なので、岡本(綺堂)先生には岡本先生の台詞があるのです。「鳥辺山心中」にしても「番町皿屋敷」にしても、岡本先生が高嶋屋(二代目左団次)のエロキューションを考えながら書かれているのだから、それをはずしたら、もう芝居は壊れてしまうのです。(中略)岡本先生が左団次ならきっとこう言うだろうと知って書いていられるのだから、あれより他の言い方は考えられないのです。』(八代目坂東三津五郎:名作歌舞伎全集・第20巻・月報)

(H20・3・19)


20)左団次劇の様式:エピローグ

昭和36年1月明治座での「婦系図」映像に大詰・久能山の場で・主人公早瀬主税が仇敵・河野英臣に対して長台詞の啖呵を切る場面があって、主税を演じる花柳章太郎の台詞のリズムが小気味の良い二拍子で感 じ入りました。左団次ならもっと強く太いイメージであったでしょうが、花柳章太郎のリズムにも確かに二拍子で押す感じがあります。花柳章太郎のイメージのなかに左団次のリズムが入っていることは疑いありません。左団次の台詞のリズムは歌舞伎より・むしろこういうところに残っているのです。

ところで・「婦系図」は泉鏡花の長編小説が原作ですが・芝居の方は鏡花の脚色ではなく・芝居の筋は原作と甚だしい相違がありますが、久能山での主税の長台詞は鏡花の原作を大筋で取っています。原作小説から主税の啖呵の一部を引きます。

『迷惑や気の毒を斟酌(しんしゃく)して巾着切ができるものか。真人間でない者に、お前(めえ)、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査(おまわり)ほどにも恐くはねえから、言句(もんく)なしに往生するさ。軍(いくさ)に負けたと思えば可(よ)かろう。掏摸(すり)の指で突(つつ)いても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる濠を掘って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。』(泉鏡花・「婦系図」・明治40年)

鏡花が戯曲創作に意欲を見せ始めるのは大正になってからのことで、この時期(明治40年代)の鏡花は小説専門でした。しかし、この主税の啖呵を見ると・まるで誰かに劇化されるのを意識して書いたのかと思うほど・言葉にリズムがあります。しかも明確に二拍子のリズムです。この時期には左団次の新歌舞伎の試みは既に始まっていましたから・その影響を受けたと考えられなくもないですが、むしろ鏡花が時代的気質に押されるままに書いた啖呵が自然に二拍子のリズムを取ったと考えた方が良いかも知れません。これは決して偶然のことではありません。共通したものがそこにあるのです。(泉鏡花と時代的気質との関連については別稿「たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む」をご参照ください。)

もうひとつ・吉之助 が左団次の台詞のリズムの系譜を持つものと感じるものがあります。それはスーパー歌舞伎での三代目(現)猿之助の台詞です。スーパー歌舞伎の第1作「ヤマトタケル」の初演(昭和61年2月新橋演舞場)の時のことを思い出します。あの幕切れ近くのヤマトタケルが死んで白鳥に変わっての宙乗りシーンでの長科白の時、吉之助は猿之助の科白廻しに「もう少しひと工夫が欲しいなあ」などと思いながら聴いておりました。リズムがタンタンタン・・・と表面的に早く進む感じで、感情がこもった感じに聞こえなかったのです。何箇所かで「どうしてこういう言い回しをするの」と疑問に思う箇所がありました。しかし、後年ハタッと気が付いたのですが、これは左団次のリズムの感触に近いものだったのです。左団次のリズムのイメージと比べるとちょっとリズムの打ちが浅い感じはしますが、その二拍子のリズムはとてもよく似ています。折口信夫が左団次の台詞に「生きた人間のする発声法でなかった」という感想を持ったのともよく似ています。

スーパー歌舞伎での猿之助の台詞廻しは三代目寿海と並んで左団次劇団の副将格であった祖父・猿翁(二代目猿之助)を経由して・猿之助のなかに流れ込んでいるものだと吉之助は考えています。新歌舞伎を演じる時の猿之助にも明らかにそうした感じを思わせるところがあります。例えばこれは猿翁の初演作品ですが・「じいさんばあさん」(宇野信夫作)の猿之助演じる伊織の台詞廻し・例えば第1幕幕切れで自宅の庭の木の幹を触りながら「・・きっと帰ってくるぞ」という言い回しにも明らかに他の役者と違う感触があります。これは明らかに祖父の流れから来るものですが、さらに辿ればそれは左団次に行くようです。考えてみれば・猿之助の生き方・スーパー歌舞伎などの挑戦自体が時代を変えて左団次の新歌舞伎運動と重なるものであるという見方も出来るわけです。

まあそういうわけで・不明を恥じるようですが・「ヤマトタケル」幕切れで宙に舞い上がった白鳥姿の猿之助の台詞を聞きながら・当時の吉之助は「台詞回しにもうひと工夫はないものか・・」と首をひねっていたのですが、吉之助の横に座っていた女子大生らしい二人の女性は驚いたことに・ハンカチを握りしめて「かわいそう・・・」と言って泣いていたのでした。彼女たちが正しかったなあと今にして思いますねえ。台詞のリズムに虚心に身を任せれば・感じるものは確かに感じられるということなのです。大正時代に左団次・松蔦のコンビを見ながら・熱い涙を流した観客もきっとそうだったと思います。

(H20・3・21)

(後記)「吉之助の雑談」での別稿「音楽を通して語るということ」もご参考にしてください。



 

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