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「元禄忠臣蔵」の二枚の屏風

平成18年11月・国立劇場・通し狂言「元禄忠臣蔵・第2部」*

四代目坂田藤十郎(大石内蔵助)、四代目中村梅玉(徳川綱豊)

*「伏見撞木町」・「御浜御殿綱豊卿」・「南部坂雪の別れ」


1)「元禄忠臣蔵」の二枚の屏風

平成18年11月国立劇場での「元禄忠臣蔵・第2部」では「伏見撞木町」と「御浜御殿綱豊卿」が久しぶりに並べて上演されました。「元禄忠臣蔵」での・このふたつの芝居の位置付けが確認できる良い機会であるので、本稿ではこの舞台映像を取り上げてみます。大事なことはこのふたつの作品が対になって出来ているということです。このことは真山青果の娘である美保氏が「元禄忠臣蔵考」(岩波文庫版・「元禄忠臣蔵」解説)でも触れていますが、「この二作は一対をなすと同時に実は重複している」ということです。場所は上方伏見の遊郭と江戸の御浜御殿、人は大石内蔵助と甲府綱豊とそれぞれ違いますが、ふたりとも内心の思いを胸に秘め・酒色に溺れ・女たちに囲まれて・ 同じように浮かれています。だから、ふたりはちょうど鏡に映したように・対称的に見えて実はそっくりであるのです。このことは非常に大事なことです。「二作で一対をなす」ということはその二枚の屏風を並べて見た時に・それぞれ片方の絵だけで見てこなかった構図が見えてくるということであり、「重複している」ということは内蔵助は綱豊であると同時に・綱豊は内蔵助でもあるということです。

「御浜御殿」は「元禄忠臣蔵」中の最高傑作であり・頻繁に上演されていますが、「伏見撞木町」は地味であるせいか・単独上演はあまりされぬようですから、こういう通し上演でないとなかなか見ることができません。「伏見撞木町」が時系列的に見て「仮名手本忠臣蔵・七段目」に相当することは誰でも判ることです。元禄14年には祇園一力茶屋はまだありませんでした。史実の内蔵助が遊んだのは伏見撞木町の遊郭でした。しかし、「七段目」の見立てとすれば・この青果の「伏見撞木町」は華やかさに欠けることは否めません。別稿「誠から出たみんな嘘」において「七段目」の華やかさはどこから来るのかということを書きました。とにかく「七段目」は明るくないと面白くありません。映画でも「忠臣蔵」を題材にするなら・一番の見所となるのは大望を胸に秘めながら・嘘か本気か判らぬ感じで遊郭で浮かれ騒ぐ内蔵助というのが一番華やかで絵になる場面のはずです。ところが 、青果はそういうことにあまり関心がないのですな。まあ茶屋遊びの場面は一応ありますが、「伏見撞木町」はえらく地味です。地味どころか・むしろ辛気臭いと言った方がよいかも知れません。それにここには平右衛門とお軽の兄妹に当たる役も見えません。「七段目」の華やかなところは対である「御浜御殿」の方に行ってしまっているのです。

「伏見撞木町」と「御浜御殿」はふたつでひとつという認識はとても大事です。「御浜御殿」冒頭のお浜遊びの風景は「七段目」冒頭の「手の鳴る方へ、手の鳴る方へ」「捕らまよ、捕らまよ」というお茶屋遊びを模していますし、 能舞台前庭先で綱豊が助右衛門を地面におさえてつけて説教するのは・由良助が九太夫を地面に押さえつけて打つのと構図的に相似します。幕切れの綱豊の「ここにしたたか酒に食らい酔って、道に踏み迷うているやつ(助右衛門)がある。門前まで担ぎ出し、阿呆払いとやらに追ッ帰してやれ」も、由良助の「喰らひ酔うたその客に、加茂川でナ・・・水雑炊を喰らはせい」をパロっているのです。 助右衛門とお喜世は義理の兄妹ですが、これは「七段目」の平右衛門とお軽の兄妹に対比されることは言うまでもありません。こういう遊びは内蔵助と綱豊との対比ということから発想されているのではなく、実は深いところで「伏見撞木町」と「御浜御殿」はひとつ・内蔵助と綱豊はひとりと言う発想から出来ているものです。 吉之助は「御浜御殿」と「伏見撞木町」の足らないところを互いに補っており・ふたつで完全な「七段目」の見立てに仕上がると思っています。このことは「元禄忠臣蔵」 を連続性のなかで捉えて初めて見えてくることです。

「内蔵助と綱豊はふたりでひとり」ということは、片方は元浅野家家老であり今は密かに仇討ちを画策する浪人・もうひとりは次期将軍有力候補とされながらその気があるところを気取られまいとする御殿様という立場の違いはありますが、「自分の進むべき道はどこか・自分の取っている行動はこれで良いのか」ということに常に悩み・自分に問うということをしている点で ぴったりと重なるからです。立場の違うはずのふたりが、朝廷の浅野家再興の意向を近衛家が綱豊に打診してくるという一点で同じ線上に乗ってくることで・ふたつのドラマが重複して来ます。浅野家再興の問題に関して内蔵助と綱豊が感じ・悩むその内容はまったく同じです。「伏見撞木町」と「御浜御殿」を見れば判る通り、ふたりはまったく同じことを語っています。だから「内蔵助と綱豊はふたりでひとり」なのです。「伏見撞木町」を見れば「御浜御殿」で見えなかったことが見え、「御浜御殿」を見れば「伏見撞木町」ではっきりしなかったことが見えてきます。そのように青果はふたつの芝居を書いているのです。

「御浜御殿」だけ見ていると起こりがちな誤解ですが、甲府綱豊は自分は安全地帯にいて・いわば無責任的な立場から赤穂義士をその動向をやきもきしながら見守って・時には 叱咤し・時には親身に思いやるお節介なお殿様だなどと思っていたら、「御浜御殿」は「元禄忠臣蔵」外伝になり・「松浦の太鼓」と同じ次元のお芝居ということになってしまいます。一見すると外伝みたいに見える「御浜御殿」を青果は「元禄忠臣蔵」の中核に置いていることは明らかです。だとすればその重い意味を考えなければなりません。その意味は「伏見 撞木町」と「御浜御殿」を対として読んだ時に見えてきます。内蔵助と綱豊を重ねて見た時に・人間としての・指導者としての・ふたりの悩み苦しみがはっきりと見えてくるのです。

(H19・10・18)


2)四代目藤十郎の内蔵助

別稿「指導者の孤独」においても触れましたが、「伏見撞木町」の内蔵助も・「御浜御殿」の綱豊も青果はどちらも二代目左団次が演じることを念頭に入れて書いたことを忘れてはな りません。つまり本当は「伏見撞木町」と「御浜御殿」を対で上演する時・内蔵助役者が綱豊も演じることが理想なのです。そうすることで「内蔵助と綱豊はひとり」という暗喩が観客に視覚的に実感されます。ところが実際の上演となると今回の「第2部」上演 の場合もそうですが・「伏見撞木町」から「御浜御殿」・「南部坂雪の別れ」まで内蔵助役者は出ずっぱりということになって・その負担はもの凄いことになるし、観客のなかに は御浜御殿に内蔵助が座っているようで落ち着かないという人も出てくるかも知れません。だから実現はせぬでしょう。しかし、「御浜御殿」の御座所の対話において・助右衛門は綱豊と対話しているようでいて・実はその向こうに内蔵助の姿を見ている ・綱豊は助右衛門と対話しながら自分が内蔵助と同化していく気分に次第になっていくということが判らなければ、「御浜御殿」は単なる「忠臣蔵」外伝に落ちてしまいます。

平成18年11月国立劇場での「元禄忠臣蔵・第2部」では内蔵助は藤十郎・綱豊は梅玉に分けて配役されていますが、まあこれは現実問題として仕方のないところです。それより青果の描く主人公を的確に演じられているかということの方が大事なことです。その点で今回の舞台はとても充実した出来でありました。藤十郎の内蔵助・梅玉の綱豊ともに・それぞれの持ち味を生かしつつ・対に見た場合でもしっかりと噛み合った演技を見せており、「伏見撞木町」と「御浜御殿」のバランスがよく取れていました。今回3ヶ月に渡る国立劇場「元禄忠臣蔵」連続上演のなかではこの第2部が最も見応えがあったと思います。それは藤十郎・梅玉ともに青果の台詞のスタイルを歌舞伎としてよく消化しているということから来ています。

藤十郎が内蔵助を演じることが発表された時にはちょっと驚きましたが、この配役を考えた企画の方はなかなか慧眼であるなあと思いました。青果劇は男っぽい線の太い芝居だというイメージがあり・これはひとつには二代目左団次のイメージから来るものですが・これは確かにそういうところがあります。そういうことからすると藤十郎は和事の柔らかいイメージのせいで・「七段目」の由良助はともかく「元禄忠臣蔵」の内蔵助はどうか?という先入観があったのですが、ビデオ見ているとこれがなかなか新鮮でありました。ひとつには「伏見 撞木町」が地味ではあるが・ やはり「七段目」を意識して作られているということです。藤十郎の和事のセンスがこういうところで生きてきます。

いくつかの劇評を読むと・「藤十郎の和事の台詞廻しが青果の文体に合っていない」と言うことが書かれていますが、吉之助はまったく逆の評価をします。藤十郎の台詞回しは青果の文体の微妙な息(リズムの押し引き)を歌舞伎の台詞術で消化して・非常によく考えられたものだと思います。微妙に緩急をつけた台詞によって・リズムがプッシュされる感触があります。ここが肝心な点です。台詞を押して・引いて・また押す。そのうねるような微妙な呼吸によって・そこに「後ろから背中を押されるような気分・急き立られる気分」が醸し出されるのです。青果劇に「急き立られる気分」は必須で・これがなければ青果劇になりません。藤十郎の台詞にはそれが確かにあります。それはどうしてかと言えば初代藤十郎の和事のしゃべりの技術自体にも「急き立られる気分」があるからです。考えても見てください、初代藤十郎も・内蔵助も同じ元禄の世の人であり、同じ時代の空気を吸っていた人なのです。吉之助は別稿「元禄忠臣蔵の揺れる気分」のなかで・元禄の世の気分と昭和初期の気分は似ているということを申し上げました。だから和事の台詞術が青果の台詞でも生きてくるのです。藤十郎の台詞は息が詰んでいますから、他の役者の和事の台詞みたいにデレーッと伸びたところはありません。 (このことは別の機会に考察したいと思います。)

単純な比較はしたくないですが、第1部の吉右衛門の内蔵助・第3部の幸四郎の内蔵助も確かに見事な内蔵助を演じていますが、台詞の感触としては写実の方に寄っており・新劇的な感覚のする内蔵助です。台詞のリズムによって「急き立られる気分」が醸しだされるところがあまりありません。ふたりとも肚の持ち方から内蔵助になろうとしています。それは役作りとして間違いとは言えませんが、ああいう内蔵助なら新劇役者でも腕の立つ人なら出来なくはないのです。しかし、藤十郎のような内蔵助は新劇役者には不可能です。つまり、台詞の息の様式的な意味合いを藤十郎はよく分かっているということです。それは確かな伝統芸能の修練によるものなのです。

もうひとりの梅玉の綱豊も素晴らしい出来です。梅玉は朗々と張り上げるような発声をせず・派手さはないですが・しっかりと言葉を噛み締めるように淡々と正確なリズムを取って(インテンポに近い感じで)台詞を発しています。この速度ではグイグイと押す感覚を感じにくいかも知れませんが、実は緩慢に・しかし着実に「背中は押され・急かされている」のです。それは息が詰んでいるから出る感覚です。だから梅玉は青果劇の台詞の持つ急き立てる気分を正しく表現しています。実は青果劇のフォルムとしては梅玉の台詞廻しの方が藤十郎より正攻法だと言うことが言えます。一方の藤十郎の台詞術はかなり技巧派的な行き方です。しかし、手法は違えど・ふたりとも「急き立てる気分」を正しく表出しています。結果として藤十郎の内蔵助・梅玉の綱豊という配役は二人の役どころの性格の良い描き分けに納まっていると思いました。

以上のことで分かるのは、「急き立てる気分」を表出するためのアプローチは多様で・ひとつに極まるものではないということです。早めのテンポで相手を押 すように喋るのが青果劇の基本スタイルであり・「台詞を棒に読む」と言われた二代目左団次はそういう感じであっただろうと想像しますが、現代においては青果劇のスタイルは見失われています。朗々と歌う音楽的な台詞が青果のスタイルだと思われていたり、逆に新劇的にパサパサした感じで処理されたりしています。それは青果劇の台詞の根本が「急き立てる気分」にあるということを理解しないで、表面的な抑揚だけを追っているからそうなるのです。「急き立てる気分」の表出ができていれば・その台詞のフォルムは必然的に青果のスタイルに沿うのです。今回の藤十郎と梅玉の台詞廻しからそのことが納得されます。結果として藤十郎も・梅玉もそれぞれの個性において・青果の「急き立てる台詞」をよく消化しており、歌舞伎らしい感触の「元禄忠臣蔵」を作り上げたと思います。青果の「元禄忠臣蔵」は新劇みたいな歌舞伎なのではなく・確かに歌舞伎でありました。

田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)

(後記)

「御浜御殿綱豊卿」については別稿「指導者の孤独」をご参照ください。

(H19・10・24)



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