(TOP)         (戻る)

指導者の孤独

平成19年6月歌舞伎座「元禄忠臣蔵〜御浜御殿綱豊卿」

十五代目片岡仁左衛門(徳川綱豊卿)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(富森助右衛門)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(お喜世)、五代目中村歌六(新井勘解由)、二代目片岡秀太郎(江島)他


1)「元禄忠臣蔵」の気分

大正・昭和初期にかけての新歌舞伎作品に共通した心情とはどんなものでしょうか。坪内逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、 昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物のを表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。時代精神が変わったと共に、作意も作風も変わりまた変わりつつあるのである。したがって芸風も根底から一新されねばならぬのである。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

まず大事なことは逍遥が自分たちが生きている時代(明治末期)を「無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代」と規定していることです。この時代においては日本は世界の潮流ともはや無関係ではありません。それは19世紀末から20世紀前半にかけての世界に共通した時代的な特徴 なのです。(そしてこの傾向は現代においても強まりこそすれ・決して変わっていないということも大事なことです。このことがこのところ吉之助が「歌舞伎素人講釈」において西欧世紀末を連続して取り上げていることの大きな理由です。)

そのような時代の気分とはどういうものでしょうか。逍遥は「深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある」と指摘しています。こうした気分は何かしら切迫して・始終背中を後ろから押されているような・イライラして・落ち着かない気分となって現れるのです。このことは文学でも絵画でも音楽でも芝居であっても・この時代の芸術作品に共通した特徴です。

このことは青果の「元禄忠臣蔵」においても同様です。「元禄忠臣蔵」の人物はしばしば突然泣き出したり、急に大声を出して怒鳴ったり、自分の心情を声高に熱く主張したりします。芝居掛かって不自然 に感じるかも知れませんが、そこに自分の心情を訴えて止まぬ・そうせねばやり切れぬという思いがあるのです。これが「元禄忠臣蔵」全編に共通した気分です。それはもとより赤穂浪士たちがいかにして自分たちの初一念を貫徹するかという主題から出てくるものです。「御浜御殿綱豊卿」は言うまでもなく「元禄忠臣蔵」の白眉ですが、こうした気分はこの芝居のどこに特徴的に現れているでしょうか。こうした気分は綱豊と助右衛門の対話のなかに出てくるのです。

まず綱豊は助右衛門との対話のなかから赤穂浪士たちの動静を探りたいという気持ちがあります。助右衛門はその意図を察しているから・答えをはぐらかす・正直に答えない。そういうギクシャクしたところからふたりの対話が始まります。しかし、実は途中から劇のなかでのふたりの会話の位置付けは変化して行きます。つまり、 だんだんと甲府綱豊と助右衛門の会話ではなくなってくるのです。それは次第に大石内蔵助と助右衛門の対話のようになっていくのです。綱豊の後ろに内蔵助の姿が見えてこなければなりません。真山青果はそのように芝居を書いています。その構図が見えてこなければ、綱豊は安全な第三者的立場で・赤穂浪士の仇討ちをけしかけて・それで世間の動静を占おうと一喜一憂しているだけの・お気楽なお殿様ということになってしまいます。

言うまでもなく本編「御浜御殿綱豊卿」の主人公は甲府綱豊です。それならば本作は「忠臣蔵」外伝であるはずなのに・どうして青果は本作を「元禄忠臣蔵」の一編としたのでしょうか。しかし、この作品は確かに「元禄忠臣蔵」のなかの作品 であると観客もそう感じるはずです。副主人公が赤穂浪士富森助右衛門だからですか。そうではなくて、観客は芝居の背後に山科で浮かれ遊んでいる内蔵助の姿を見るからなのです。逆に申せばその対話が甲府綱豊と浪人助右衛門の対話の範疇にだけ留まっているならば・その対話がいくら芝居として面白かろうが・台詞のテンポが良かろうが、吉之助にとっては「御浜御殿」の意味がないのです。


2)「七段目」の見立て

青果が「御浜御殿」を「仮名手本忠臣蔵・七段目」に見立てたことはよく知られています。冒頭のお浜遊びの風景は「七段目」冒頭の「手の鳴る方へ、手の鳴る方へ」「捕らまよ、捕らまよ」というお茶屋遊びを模していますし、幕切れの綱豊の「ここにしたたか酒に食らい酔って、道に踏み迷うているやつがある。門前まで担ぎ出し、阿呆払いとやらに追ッ帰してやれ」も、由良助の「喰らひ酔うたその客に、加茂川でナ・・・水雑炊を喰らはせい」をパロっているのです。(助右衛門は斬られるんじゃありませんけどね。) しかし、それだけでこの芝居が「七段目」見立てだと言うのでしょうか。「御浜御殿」が「七段目」ならば当然それは甲府綱豊が由良助(=内蔵助)に見立てられているということです。当然この芝居はそう見る必要があるのに、そういうことを指摘する劇評が全然ないのは摩訶不思議だと思います。

ご存知の通り、「御浜御殿」の初演は昭和15年1月・東京劇場のことで、この時の配役は二代目左団次の綱豊卿・二代目猿之助( 初代猿翁)の助右衛門・六代目寿美蔵(三代目寿海)の新井白石でした。しかし、この時の左団次の体調はすでにかなり悪くて、左団次は医師の制止を振り切って初日の綱豊卿の舞台を勤めたのですが、三日目からはやっぱり無理で・寿海が代役を勤めました。この翌月・昭和15年2月22日に左団次は59歳で死去するのです。したがって、「御浜御殿」は「元禄忠臣蔵」のみならず・新歌舞伎のなかの最高傑作であり・しばしば上演されているにも関わらず・歴史的に見て左団次の印象が薄いわけです。 このことは「御浜御殿」のひとつの問題点です。現行の「御浜御殿」の綱豊のイメージは三代目寿海から来ています。寿海の綱豊はもちろん素晴らしいもので・そのこと自体が問題なのではないですが、この作品での左団次の位置づけは考えねばならぬことです。(この問題は本稿では提起するに留め・別の機会に考えることとします。)

「御浜御殿」を考える時に忘れてはならぬことは、この作品が左団次の綱豊を前提として書かれたということであり・また「元禄忠臣蔵」のシリーズ全体が左団次の内蔵助を前提として書かれたということです。つまり、昭和15年の「御浜御殿」初演において観客が舞台を見る時、内蔵助役者の左団次が綱豊を演じているのですから・ 内蔵助と綱豊は重なって見えるわけです。青果は当然そのことを計算に入れて書いているのです。昨年国立劇場のように「元禄忠臣蔵」通し上演する場合も本来ならば綱豊は内蔵助役者が兼ねるのが正しい形だったと思います。そうなると興行での内蔵助役者の負担は突出したものになりますし・「御浜御殿」を見た時に観客はイメージがごっちゃになって・江戸の 御浜御殿に内蔵助が座っているようで変だという批判も出るでしょうから・実現はしないでしょうねえ。しかし、 「伏見種木町」と「御浜御殿」が作品として対になっていることは明らかなのですから、演劇的暗喩としてはそれが正しいのです。まあ、もともと青果は通し上演を念頭に入れて「元禄忠臣蔵」を書いたわけでないのですから ・実現はならぬにしても、そのように「御浜御殿」を見る必要があると思います。


3)指導者の孤独・部下の孤独

話題を「元禄忠臣蔵」全編を覆う気分のことに戻します。「何かしら切迫して・始終背中を後ろから押されているような・イライラして・落ち着かない気分」、そのような気分は綱豊と助右衛門の対話のどういうところに出てくるでしょうか。

まずその気分は綱豊に対する助右衛門の態度・返答に現れます。助右衛門は綱豊に近くに来いと言われても拒否し・時に返事を突っ返し・答えをはぐらかし・正直に答えません。助右衛門の態度に現れてくるイライラは、実は山科にいて遊興にふける内蔵助に対する不信感・イライラから来ています。なぜなら助右衛門自身が内蔵助の煮え切らない態度に不満を持っており・その心底を図りかねているからです。そう した助右衛門の態度を綱豊は始めはいかにも余裕ありげに受け流している(この辺は「七段目」での三人侍に対する時の由良助だと思えばよろしい)のですが、心を開こうとせぬ助右衛門に対してだんだんと熱くなり・綱豊は将軍家の一員という立場から離れて・次第に内蔵助の立場に立った反応をし始めるのです。ここで綱豊が内蔵助と重なり始めます。

「さようか・・。が、わしはどうも・・・そうは思われぬ。(中略)わしは一時の戯れ心からそちに訊ねているのではないぞ。少しく義理に迷うところもあり、是非ともそちたちの思案のそこを極めたいと思ったのだ。(中略)わしは今、そちたちには頭を下げても頼んでも、その企てありと聞きたいのだ。(中略)綱豊のために、行くべき道を示せと言うのだ。助右衛門、まだ分からぬか、俺を見よ。俺の眼を見よ。俺は、あっぱれわが国の義士として、そちたちを信じたいのだ。」

この綱豊の台詞を徳川家の次期将軍の有力候補としての台詞としてだけ読むのでは、「七段目」見立ての意味がないというものです。この台詞を内蔵助の台詞として 抜き出して読めば、まさにこれはその遊興三昧に憤慨して・詰め寄ってくる仲間たちに対して内蔵助が語りかける台詞なのではありませんか。この台詞から見えてくるのは、赤穂浪士の指導者として自分がどうすればいいのか・一党をどう率いていったらよいのかを悩みぬく内蔵助の姿です。仲間たちが自分に対して不満を持っていること を内蔵助も感じており、内蔵助自身も仲間たちの心底を見極めきれずに悩んでいます。だから、内蔵助は元家老でも・一党の指導者としてでなく・「ひとりの人間」として・仲間たちに語りかけようとしている。そのような内蔵助の気持ちが綱豊に乗り移ったかのような台詞だと思います。

ところが助右衛門の方が依然として頑な態度を崩しません。と言うより助右衛門は内蔵助に対してスネているのです。助右衛門の論理は「そういうことは指導者たるあなたが自分で決めることじゃないのか・私ら部下はそれに従うだけなのだから・指導者のあなたがはっきり決めてくれないと困るんだよ」と言うことです。そこに助右衛門の内蔵助に対する不信感・失望がありありと表れています。

「箍(たが)がありゃこそ桶でござります。その一本の大事に箍が切れれば、みなバラバラに分かれて一枚一枚の板切れでござりまする。一枚の板ぎれに水を汲めとおっしゃっても、そりゃ無理な相談でござりましょう。(とセセラ笑って横を向く)』

さきほど引用した綱豊の「さようか・・。が、わしはどうも・・・そうは思われぬ」という台詞は上記の助右衛門の台詞に対するものです。そこに集団の指導者と・自分はその構成員に過ぎぬと思っている者との意識の差が如実に現れています。構成員たる助右衛門は「決めるのは私じゃないですからね・指導者のあなたが決めることなんだよ」という態度を崩そうとしません。綱豊の方は「指導者と言えども・ひとりの人間であり・悩みもすれば迷いもする・部下としてではなく仲間として俺に教えてくれ・俺はこの集団をどこに導けばよいのだ」という弱音にも・悲鳴にも似た気分を次第に感じ始めるのです。この時の綱豊の気分は内蔵助と完全に重なっています。このように綱豊と内蔵助の気分がシンクロする背景はひとつには近衛家からの催促を将軍綱吉に取り次ぐかどうかという問題で「浅野家再興」の行方を左右できるキャスティング・ボートを綱豊が握っており・すなわち「内蔵助は何を考え・どう 行動すべきか」を綱豊が考えざるを得ない立場にあるからですが、ここではそういう立場さえ忘れられて・綱豊は内蔵助に完全に同化しています。この綱豊の変化はもちろん助右衛門にも伝染しています。助右衛門にもだんだん綱豊が内蔵助に見えてくるのです。だから、助右衛門もだんだんプレッシャーを感じてきて・会話がつらくなって来ます。そして助右衛門はついに頭にきて・とんでもないことを言い出すのです。

「恐れながら殿さまには、大石めがいま放蕩に身を持ち崩すゆえ・仇討ちの企てがあるに相違ないと仰せあるのでござりまするか。それなれば私も申し上げたいことがござります。あなた様には、六代の征夷大将軍の職をお望みゆえ、それでわざと世を欺いて作り阿呆の真似をあそばすのでございまするか。」

ここで助右衛門が怒るのは「内蔵助さまはまだ俺たち部下の気持ちが分からぬのか・遊興三昧ばかりして・まだ決断をしないのか・いい加減にしろ」ということです。助右衛門には綱豊が内蔵助に 二重写しに見えていますから、その憤懣を綱豊にぶつけ始めるのです。「大石は天性の放埓者か、それともまた敵を欺くための放埓なのか、それは我らにも判らぬこと 、そのような返答は我らにはできないこと」と助右衛門は言っています。ここでも助右衛門はなお内蔵助の決断を待っています。結局、御座所での対話の間は助右衛門は綱豊(=内蔵助)の気持ちを理解するところまでは行かないわけです。(分かっているならば闇に乗じて吉良を槍で襲おうなどと考えるはずがありません。この芝居の最後の最後で助右衛門は綱豊(=内蔵助)の気持ちをやっと理解するのです。)ここで綱豊が対話を打ち切るのは「所詮小者には指導者(内蔵助)の気持ちは判らぬのだ なあ」という軽い失望があるようにも感じられます。しかし、それでも最後に「浅野家再興」の話が出た時の助右衛門の必死の号泣を見て、綱豊はそこに助右衛門の真情を察して・綱豊は快く彼を許すわけです。

もうひとつ綱豊が「六代将軍の地位を望んでいるので・わざと作り阿呆の真似をしている」と言われて怒ることに触れておきます。綱豊が怒るのは助右衛門に痛いところを突かれたのではなく・心外であったからです。このことは幕切れでの綱豊の長台詞において判ります。

「彼(内蔵助)が今日島原伏見の遊里に浮かれあるくのは、そちたちの眼から見れば、あるいは吉良を油断させようための計略などと思おうが、俺の眼にはそうは見ない。(と頭を振り・眼に涙を浮かべ)彼は今、時の 拍子に願い出た・浅野大学再興に・・その心を苦しめながら、あやまって手から離した征矢(そや)の行方を淋しくじっと眺めているのだ。この内蔵助の悲しい心を、淋しい心を・・・そちたち不学者には察し得られるところではないのだ(一滴落涙)。」

まったく同様の内容が「伏見撞木町」の内蔵助によって語られています。だから、この綱豊の言っていることはまさにその通りなのであり、綱豊の台詞は「内蔵助の気持ちは(同じく指導者の立場にある)この俺にしか判らない」という台詞なのです。 つまり、綱豊は指導者の孤独を改めて噛み締めているのです。「男子儀によって立つとは、その思い立ちの止むに止まれぬところにあるのだぞ。義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない。・・・」に始まる綱豊の長台詞はまさに内蔵助が赤穂浪士一党に言ってもおかしくない台詞です。しかし、 この最後の場面では綱豊の態度が明らかに変化しています。これは決して仲間(同じ集団にあって・リーダー部下を越えた同格の仲間)に対して言われた台詞ではありません。その台詞は はっきりと指導者がその立場において集団を強く導く台詞になっています。

綱豊(=内蔵助)に指導者の立場で強く言われた時に初めて助右衛門は平伏します。つまり、助右衛門は「決めるのは部下の私じゃなくて・指導者のあなたですから・・」と言う態度を結局最後まで崩すことはなく・最後に指導者に決められた時に「ハアーッ」と言って平伏したということです。これが助右衛門なのです。指導者も 哀しいでしょうが、部下もまた哀しいのです。この部下の哀しい心を、淋しい心を・・指導者たる綱豊(=内蔵助)は判ったかどうか。多分判ってくれたと思いたいですね。しかし、両者の間の埋まらない溝の存在は感じたでありましょうね。「伏見撞木町」と「御浜御殿」のふたつの作品から浮き上がってくる内蔵助(=綱豊)の姿は孤独なのです。そして、それに従おうとする部下たちもまた孤独である。


4)イライラした気分

それでは御座所での対話のなかで助右衛門は「何かしら切迫して・始終背中を後ろから押されているような・イライラして・落ち着かない気分」をどのように表現するかが問題になってきます。綱豊と助右衛門の対話は綱豊が助右衛門から赤穂浪士の動静を探りたいという感じで始まりますから、対話のペースは綱豊が作ると思うかも知れませんが、そうではありません。対話のペースは助右衛門が作るのです。野球で言えば、助右衛門は球を力任せに球を叩き返す役です。力任せに叩いているから・球はあちこちに飛んで・トンでもない方向に 行ったりましす。これをスイスイと受け流しながら余裕で綱豊は球を投げ続けるのですが、綱豊もだんだん熱くなって・次第に息が上がってくるというわけです。御座所の対話はそういう対話なのです。だから、助右衛門の返答の叩き返すペースで対話が決まってきます。

そこで今月(6月)歌舞伎座での「御浜御殿」の舞台のことです。形は一応整っているが、全体に印象が淡く・薄味の感じがします。仁左衛門の綱豊は定評ある役であり・ 吉之助にとっても昭和55年12月歌舞伎座(前進座創立50周年公演)での「御浜御殿」の舞台の中村梅之助の助右衛門と競演した時の仁左衛門(=当時は片岡孝夫)の綱豊の演技は強く印象に残っています。三代目寿海を思わせる緩急自在な台詞廻しは見事なもので したから、今回も若手のホープ染五郎が演じる助右衛門との共演でもあり・期待して舞台を見ました。しかし、今回の仁左衛門の綱豊は悪くはないですが、全体として柔の方向に傾いており・描線が弱くなっている と感じられます。 仁左衛門の持ち味である台詞の柔軟性を強さを伴った「しなり」として・つまり綱豊の人間性の強さとして感じさせると言うよりも、優しさの方に傾いていると感じられます。

これはひとつには共演の染五郎(初役)の助右衛門の受け答えが影響しています。もちろん仁左衛門の綱豊にも責任はあります。仁左衛門の綱豊は台詞の語尾を引き伸ばして転がす感じがあるようです。このことが左団次劇の台詞の強さを十分に表出できていないことに繋がっています (正しくは台詞の語尾をテンポを詰めていくのが左団次劇の様式であるのです)が、しかし、今回はそのことも含めてここは助右衛門の要素の方が大きいように思いました。染五郎の助右衛門は爽やかな好青年の印象であり、あまり拗ねた(屈折した)ところが感じられません。しかし、助右衛門という役には拗ねたところが絶対必要なのです。つまり、内蔵助に対する不信感・不満がその心中に渦巻いており・そのイライラが助右衛門 の全身に最初から現れていることが大事です。仇討ちの企てが綱豊に知られてはならぬなどというのはこの際どうでもよろしいことです。染五郎の助右衛門を見ていますと、まあ、甲府綱豊と浪人助右衛門の会話には確かになっています。その意味では良いというご感想も出てくるでしょうが、その範疇をはみ出して・さらに内蔵助との会話にワープする形にはなっていない。それは助右衛門が会話を受けに入っていることで・キャッチボールがポンポンと無難に進むからです。しかし、そういう会話ではいくらテンポが良くても吉之助にとっては「御浜御殿」の意味はないのです。

むしろギクシャクした会話をこそ聞きたいのです。会話はイライラを込めて綱豊に叩き返されねばなりません。助右衛門の方からグイグイと綱豊を押していかねばならないのです。そうすれば仁左衛門も「このヤロウ、この豪球を返せるか、そらどうだ」という強い調子になれるわけです。綱豊が熱くなって台詞を押し返せるように、助右衛門の方から押していかねばならないのです。染五郎の助右衛門は一生懸命悪ぶっていますが・実はお行儀が良い。だから仁左衛門の綱豊が人の良い感じに終始してしまって・強い調子を出せずに終わってしまいました。だから綱豊が剛の感じに見えてこず・綱豊が内蔵助に見えてこないのです。この点において前述の梅之助の助右衛門、あるいは初代辰之助の助右衛門は良ろしいものでした。まあ、こういうことは何回か役を繰り返し演じてみて身体で分かって来ることだと思います。次回の染五郎に期待いたしましょう。仁左衛門の綱豊についても触れたいところですが・本稿は助右衛門の心情に焦点を合わせているので・それは別の機会とします。いずれにせよ「御浜御殿」に必要なものは助右衛門のイライラ感であり・それによって綱豊の背後に内蔵助の姿が見えてくるということなのです。そのような「御浜御殿」の舞台を期待したいと思います。

(H19・6・24)

田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)

(後記)

別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」「高揚した時代の出会い〜青果と左団次」も併せてお読みください。

別稿「元禄忠臣蔵の二枚の屏風」もご参考にしてください。

*論旨の流れ上・本稿で触れなかった仁左衛門の綱豊の台詞の問題については・別稿「左団次劇の様式・補足・相手を押す台詞」で触れていますので・ご参照ください。

  (TOP)        (戻る)