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家は末代・人は一世か

昭和31年4月・歌舞伎座・「頼朝の死」

三代目市川寿海(将軍源頼家)・六代目中村歌右衛門(尼御台政子)・五代目中村富十郎(畠山重保)ほか
 


1)政子の科白

本作は大正8年(1919)11月明治座で「傀儡船」という題名で二代目左団次によって初演されましたが、この時は大して話題になりませんでした。一部を改作して「頼朝の死」と題名を変えて、歌舞伎座で上演したのが昭和7年(1932)4月のことです。これが大成功で、それからは本作は新歌舞伎の秀作といわれて今日に至っています。ちなみに、この再演の時の配役は、二代目左団次(頼家)・五代目歌右衛門(政子)・三代目寿海(重保)・二代目松蔦(小周防)らです。この芝居は最後のシーンが何と言っても印象的です。

(頼家)「さらば我が身は、源家あっての頼家にて、頼家のための源氏にては・・・ないのでござりまするか。」
(尼公)「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」
(頼家)「ええ、そのお言葉にわが身の上も末も見た。もうこれまで。」
頼家、つと立ち寄って重保を斬らんとす。尼公、頼家を引き戻してキッと長刀を頼家の前に構える。
(頼家)「母上!うむ・・、うむ・・、うむ・・・。」
怨恨を極めたる視線に母を睨むうちに、刀を投げ捨て、小児のように声立てて泣き出し、その声次第に高く、高くなりゆくうちに・・・・(幕)

この場面ですが、昭和7年頃の五代目歌右衛門は鉛毒でもう足が立ちませんでしたから、尼公政子はト書きにあるような演技はできなかったでしょう。おそらくお傍の者に長刀を取らせて・座ったままでこれをキッと構えるという演技であったでしょうか。しかし、座ったままでもその威厳他を圧すると言われた五代目歌右衛門ですから、この場面の気迫というのは凄かったであろうと想像します。

「頼朝の死」のこの場面を見ていると、政子が「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」と叫ぶところで客席から拍手が来ることが多いようです。吉之助はいつもこれを奇異に感じます。ここで拍手が来てしまうと、その後で頼家がぐっと息を詰めて「母上!うむ・・、うむ・・、うむ・・。」と泣き出すのがやりにくいのじゃないかと思うのですが。考えてみれば、この芝居の主人公は頼家ではありませんか。決して政子ではないのです。頼家の暗澹たる気持ちを思いやれば、この場面で拍手ができるとは吉之助には思えません。「家は末代、人は一世じゃ」というのは、頼家の生きる気持ちにトドメを刺す科白なのですから。頼家の行く手にはもう修禅寺での死しかないのです。

逆に言えば、このようにも感じます。「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」と政子が叫ぶと・観客は何だか熱いものを感じて思わず拍手してしまうのでしょう。観客はこの科白に「つらいけれども・このつらさは耐えねばならぬのじゃ」という悲壮感を感じたに違いありません。もちろん最後の場面で政子がさらってしまうことになるので釈然としませんが、それもこの芝居の読み方であるとは言えます。

今回のビデオは昭和31年4月歌舞伎座での舞台。この六代目歌右衛門の尼公政子の幕切れの気迫は凄い。さすがは歌右衛門、この幕切れだけで歌右衛門の凄さが分かると言っても過言ではありません。話がそれるようですが、歌右衛門の芸のなかにある近代性というものは、新作ものにおいてよりシャープに出ていたと思います。それがこの政子の演技にもはっきり出ています。歌右衛門が政子をやればやっぱりこうなっちゃうなあとも思いますが。

大正8年の「傀儡船」と・改作された昭和7年の「頼朝の死」とどこが違うかは調べたわけではありませんが、大した改変ではないそうです。また二代目左団次を中心とする演技陣の顔ぶれもそう変わっているわけではありません。とすれば、何が変わったかと言えば、それはこの芝居が上演された環境が変わったということです。十数年の歳月が観客の何かを変えたのです。昭和7年というのは満州事変(昭和6年)に発し、日本が泥沼の戦争に足を踏み入れていく不安定な時期でした。昭和7年5月には5・15事件により犬養毅首相が暗殺されています。このような不穏で・将来が見えてこない時期において「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ」と言われるのは、「お国のために・すべてを耐えるのじゃ・お国のために 苦しくても尽くすのじゃ」と言われるのと同じですから、観客はここでグッと熱いものを感じたに違いないのです。

このような「耐えねばならぬ・忍ばねばならぬのじゃあ」とか・「行かねばならぬ・行かねばならぬのじゃあ」というような科白が日本人はお好きのようです。考えてみれば、歌舞伎の身代わり物だって・子別れ物だって、結局はこれが主題ではありませんか。だから、政子のこの科白を勘所だと思って今の観客がワッと拍手をするのも理解できないわけではありません。しかし、ここで拍手が来るのは、やはり青果の本意ではないと思っています。


2)幕切れの頼家

「頼朝の死」の最後で、頼家がワッと泣き出すのは非常に印象的な幕切れです。なんだか芝居がぶつっと切れたようで、初めてこの芝居を見た時は「何だ、この幕切れは」と驚きました。しかし、本当のところ、頼家の号泣でまさに「芝居の流れをぶつっと断ち切る」のがこの芝居の眼目なのです。台本を見ると、

(頼家)「母上!うむ・・、うむ・・、うむ・・・。」
怨恨を極めたる視線に母を睨むうちに、刀を投げ捨て、小児のように声立てて泣き出し、その声次第に高く、高くなりゆくうちに・・・・(幕)

となっています。頼家は「小児のように」泣き叫ぶのです。これは「マザコン将軍が怖い母親に叱られて口惜しくて泣わめく」と言うようなものではありません。もっと深刻で・絶望的なものなのです。将軍・頼家は「生まれながらの将軍」でありながら、実は何の権力もありません。何も知らされず・何もできない。自分の意思はまったく無くて、ただ周囲に動かされているだけの名ばかりの傀儡将軍です。この日常に頼家は悶々としています。

『うう・・・。ええ苦しいわ。酒を持て、酒だ!・・母上!将軍とは、有るを有りとも知られぬ身か。虚偽(いつわり)の海に泳ぐ、我が身の嘘を知らぬ魚か。広元が知り、重保も知り、母上も知らるるその秘密を、なぜこの頼家ひとりが知られませぬか。将軍頼家とて人の子じゃ。なぜその大事の秘密を、われひとりにお包みなされますか。』

この頼家の科白には、苦悶・いらだち・やりきれなさが煮えたぎっています。頼家の気持ちはもう張り裂けそうになっていて、ちょっとしたことで壊れてしまいそうなほどなのです。父の死の真相を知りたいという・人の子としての願いさえも無視されるに至って、ついに頼家の気持ちがぷつっと切れてしまうのです。だから、周囲にはどれほど唐突な号泣に見えたとしても、頼家にとってはぜんぜん唐突ではないのです。劇の最初からピーンと張っていていた糸が切れたようなものなのです。頼家の神経はピリピリと震えています。このことが観客に見えなければなりません。

逆に言えば、頼家の演技は最初からずっとピーンと張っていなければなりません。そこに頼家のいらだち・苦痛が常に表れていなければ、幕切れの号泣の必然が見えてこないのです。この頼家の幕切れの号泣は、真山青果が二代目左団次の芸風を最大に生かしたものだと思っています。(別稿「高揚した時代の出会い〜青果と左団次」をご参照ください。)この頼家のいらだち・苦痛が、そのまま昭和前半の庶民の気持ちでもあったということを思いやらねばなりません。

このビデオでの寿海の頼家も素晴らしい出来です。昭和7年の再演時には寿海(当時は寿美蔵)は重保を勤めていて、左団次の頼家の演技を間近で体験しています。寿海の頼家が左団次そのままかどうかは分かりません。しかし、寿海もピーンと緊張して張り裂けそうな頼家の気持ちを表現していて、さすがに左団次譲りと唸らせるものがあります。 幕切れにおける政子と頼家とのぶつかり合いは、じつに見物です。「家は末代、人は一世じゃ」では確かに客席から拍手が来ていますが、頼家も負けてはいません。これでなくちゃいけません。それは寿海がそれまでに頼家のいらだち・苦痛を十分に観客に伝えているからです。これでこそ幕切れの号泣が生きてくるのです。いい映像が残ってくれたものだと感謝したい気持ちになります。

(H15・10・12)

田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)



 

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