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「四谷怪談」から観た「忠臣蔵」〜「東海道四谷怪談」


『真意はさまざまの姿をとりて顕れ、神々はさまざまの思いもよらぬことを遂げたもう。思い設けしことは成らずして、思い設けぬことを神は成らしめたもう。かくてぞ過ぎぬ、今日のことも』(エウリピデス:「バッコスの信女」・大詰のコロスの台詞)


1)「四谷怪談」の伏線の謎

「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月江戸中村座での初演。鶴屋南北71歳の作品です。初演時にはこの作品は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演し、二日掛かりで完了する興行形式を取りました。

第1日:「忠臣蔵」大序から六段目までを上演し、次に二番目狂言として「四谷怪談」序幕から三幕目の「隠亡堀」までを上演。

第2日:まず「隠亡堀」を上演し、「忠臣蔵」七段目から十段目まで、次に「四谷怪談」四幕目から大詰めまで、最後に「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)を上演。

配役は、三代目菊五郎が「忠臣蔵」の由良助・勘平・戸無瀬の三役、「四谷怪談」のお岩・小仏小平・与茂七の三役の合わせて六役。共演の七代目団十郎は「忠臣蔵」の若狭助・千崎・石堂・大鷲文吾の四役に「四谷怪談」の伊右衛門。五代目幸四郎は「忠臣蔵」の師直・定九郎・郷右衛門・本蔵の四役に「忠臣蔵」の直助権兵衛。五代目半四郎は「忠臣蔵」のお軽・お石・お園の三役に「四谷怪談」のお袖でありました。

このように「四谷怪談」と「忠臣蔵」をテレコ上演するやり方は初演の時だけのことで、それ以後は「四谷怪談」は単独で上演されてお化け狂言として人気狂言になっています。ところで「四谷怪談」の人物関係は複雑で混乱しそうですが、ここでまず「四谷怪談」における 脇役の人物背景をご覧ください。

進藤源四郎:実説の赤穂藩士で不義士とされている人物ですが、芝居では伊右衛門の父親ということになっています。息子の伊右衛門は国元に居る時に塩冶家の御用金を横領した犯人でありました。芝居の終りの方で伊右衛門の不実を責めますが、自らは首をつって自害してしまいます。この源四郎は芝居のなかでは大きな位置を与えられていませんが、伊右衛門に「昔気質の偏屈親父」と言われて不義士の苦悩の心中を察せられる役と言えましょう。

お熊:伊右衛門の母親です。元高野家の娘ですが、源四郎と別れた後に師直に奉公して、塩冶家の顔世御前を師直に取り持とうとして判官刃傷の遠因を作る ことになっています。(このことは「隠亡堀」でのお熊の科白に出てます。)つまり、お熊が判官刃傷と塩冶家断絶の遠因を作ったということなのです。さらにお熊は「高師直のお直筆」を使って息子の伊右衛門を高野家に士官させようと画策 します。後に仏孫兵衛(小仏小平の父親)と再婚しますが、最後に蛇山庵室の場でお岩によってとり殺されます。このお熊は「忠臣蔵」との関連を考える時に非常に重要な存在です。

四谷左門:元塩治藩士。お岩・お袖の姉妹の父親ですが、零落して浅草観音周辺で物貰いをしてその日をしのいでいます。伊右衛門の御用金横領 の事実を知っており、伊右衛門をお岩と別れさせようとして、伊右衛門に殺されます。 父親を殺した犯人を知らないお岩は、伊右衛門に父親の敵探索と仇討ちを頼むのですが、これがまた伊右衛門の重荷になってきて、ついにはお岩に嫌気がさしてくることになるわけです。

このように「四谷怪談」の登場人物は「忠臣蔵」の世界と深く係っていることは明らかですが、いくつか気になる点が出てきます。例えば、伊右衛門の公金横領の話、お熊が師直に顔世への恋の取り持ちをするという話、あるいは「隠亡堀」でお熊が伊右衛門に手渡す「高師直のお直筆」なるものの存在などです。

これらの伏線は「四谷怪談」の台本だけ見てみるとあんまり効いているように思えません。お化け芝居として「四谷怪談」を見ている分には、あってもなくてもいい伏線のように思えます。初演の時にはテレコ上演したようだから・それで「忠臣蔵」に無理に関連付けるためにこういう設定をしたのだろうなどと、吉之助も最初は軽く考えていました。ところが「四谷怪談」と「忠臣蔵」との関連は見れば見るほど緊密なのです。南北がいい加減にこんな設定を書いたとは思えません。

だとすれば、「四谷怪談」の台本だけで見ると何やら詰まらない設定がテレコで上演した「忠臣蔵」の方に生かされているのではないか・もしかしたら「忠臣蔵」の方に「四谷怪談」の人物が活躍するような入れ事がされているのではないか・そうして両者がさらに緊密に関連するような形になっているのではないか 。つまり、「四谷怪談」に沿う形に筋の改変がされた南北版の「忠臣蔵」が上演されたのではないか。このような妄想がフト浮かんできたわけです。

ところが 残念ながら初演の時の「忠臣蔵」がどのような形で上演されたかということは、初演の時の「忠臣蔵」の台本が失われているので文献的にまったく分からないのです。数多い「四谷怪談」関連のほとんどすべての研究は、いつもの「忠臣蔵」がいつものように並べて演じられたのだろうという前提(あるいは思い込み)で成り立っています。しかし、本当にどうだったのかは想像をするしかないわけで、吉之助にはまったくお手上げ状態であったのですが、評論家・犬丸治氏がサイト「歌舞伎のちから」での記事「穂を摘んだ鷹たち〜失われた台帳」において、この問題に果敢に挑戦していらっしゃいます。

以下は犬丸氏の論文「穂を摘んだ鷹たち」の助けをもらいながら、「四谷怪談」初演時にテレコ上演された「忠臣蔵」がどんなものだったかを吉之助が気儘に想像してみようという試みです。


2)御用金横領の件

まず伊右衛門の御用金横領の話ですが、これは「仮名手本忠臣蔵」にはまったく無い話です。これはじつは明和3年(1766)に書かれた近松半二の「太平記忠臣講釈」に源流があるそうです。「忠臣講釈」は数ある「忠臣蔵」の書替物のひとつで、昨今はあまり上演されませんが、四段目が俗に「石切りの勘平」として有名です。このなかに御用金紛失の件が出てくるのです。ここでの紛失は斧九太夫の仕業ということになっているのですが、この事件の責任を取って勘定役の早野三左衛門が切腹することになっています。三左衛門は、勘平の父親です。

話を「四谷怪談」に戻して、この御用金紛失の件に伊右衛門が絡んでいるとすれば、伊右衛門は「忠臣蔵」のドラマに予想以上に深く係わってくることになるでしょう。これを想像してみると、まず「忠臣蔵・四段目」判官切腹の後の城明け渡しの評定の場において こんな場面があったかも知れません。御用金の紛失が発覚して、九太夫(じつは伊右衛門に横領を指示したのが九太夫であった)がこの責を三左衛門に負わせて、申し訳に三左衛門は切腹します。この時点で、息子の勘平は殿の大事の場面にいなかった不忠に加えて、御用金紛失に絡む父親の責も負うことになるわけです。これでは勘平はとても義士の仲間に入れてもらえません。

こうなると 「六段目」での勘平切腹までの事情も込み入って来ますが、勘平は紛失した御用金を穴埋めしなければならないから金が必要であったということになります。さらに勘平の殺したのが定九郎(九太夫の息子)であるわけですから、勘平は義父・与市兵衛の仇だけでなくて父・三左衛門の仇も半ば討ったことになります。また「七段目」幕切れで由良助がお軽に手を添えさせて九太夫を刺させるのも、お軽に夫の仇・義父の仇である九太夫を討たせるという強い理由が出来ることにもなるでしょう。

さらに初演の三代目菊五郎がお岩と勘平を兼ねていることにもご注目ください。「六段目」の勘平はもしかしたら「御用金を盗んで父を切腹に追い込んだ犯人が憎い」と言って死んだかも知れません。紛失した御用金の工面のために女房・お軽は身を売ることになり、自分もまたここに死なねばならぬ羽目に陥ったわけです。だとすれば勘平の怨念の対象は伊右衛門ということになり、「四谷怪談」浪宅において同じく伊右衛門を恨んで死ぬお岩と完全に照応することになります。

「六段目」は第1日の一番目の最後に上演されるのですが、二番目の「四谷怪談」序幕・浅草境内の場において四谷左門が次のように言って伊右衛門の御用金横領を指摘しています。

「(左門が伊右衛門が許さない)申し訳は、いまだ御主人繁盛のみぎり、お国元にて御用金紛失、その預かり主は早野勘平が親三太夫、落ち度と相なり切腹して相果てた。その盗人もこの左門、よつく存じて罷りあれど、この詮議中お家の騒動。・・・何もかも言わずに居るは身が情け。それゆえ娘は添わされぬ」

この台詞で観客は「ああ、こいつが勘平を切腹に追い込んだ犯人なのか」ということはすぐ分かるでしょう。この冒頭で、伊右衛門が罰せられるべき人物であるのは誰の目にも明らかになり、「四谷怪談」と「忠臣蔵」は最初から深く結びつくのです。


3)師直の恋の取り持ち、さらに驚愕の事実が

伊右衛門の母親・お熊は、師直が顔世御前に横恋慕するのを取り持ちすることになっています。このことは「隠亡堀」の場でのお熊の台詞に出てきます。

「知りやる通り、昔のつれあい新藤源四郎殿と離別してより、師直さまへお末奉公。そのみぎり塩冶の奥方顔世どのを御前さまへ取り持とうとかかってみたが、しぶとい顔世のご不自由ゆえ塩冶の騒動。その時、師直さまのおっしゃったは、その方もしか後々に難儀の身分となったなら、これを証拠に願うてこいと、これこれ、これはアノ、御前さまの御判のすわりし御書き物、御直筆にて、いわばわしへのお墨付き・・・」

つまりお熊は、判官刃傷とお家断絶の原因に深く係わっているわけです。想像してみると、「忠臣蔵・大序」冒頭において師直がお熊を伴って登場して、兜改めの前にお熊が師直に恋の手引きのアレコレを伝授するなんて場面が浮かんできます。恋の取り持ちの場面が「忠臣蔵・大序」の方にあれば、「隠亡堀」の場を見ている観客は「ああ、あの大序の時の女がこの婆か、まったくトンデモナイ親子だな」とすぐ分かるから、ますます「四谷怪談」と「忠臣蔵」は結びついていくのです。

さらにお熊の台詞では、お熊が息子・伊右衛門に渡す「師直のお墨付き」のことが気になります。これが一体何を証明するお墨付きなのかは「四谷怪談」だけを見ていると結局分かりません。どこにも書いてないのです。昔奉公したご主人が書いてくれた就職紹介状くらいの価値があるようにしか見えません。しかし、お家物の場合の「お墨付き」というのは、たいてい非常に価値があるものでドラマの展開のなかで行ったり来りするものです。もしそうならば「四谷怪談」での「師直のお墨付き」はどの程度の価値があるものでしょうか。

犬丸氏はここで「高師直のお直筆」は、実は伊右衛門が高師直のご落胤であることを証明するものではないかと推測しています。その源流は、文政4年(1821)に初演された南北作の「菊宴月白浪」に登場する雇い婆・お虎の台詞です。ここでお虎は古骨買与五郎に対して、あなたこそ師直さまのご落胤だと言って次のように物語るのです。

「もともと私は高野の御家に腰元奉公、その頃親御師直さま、手廻りの女にお手を付けられ、ほどなく懐妊。奥方のご嫉妬強く、是非に及ばずお暇下され、月日重なりお前を産み落とすと、七夜のうちに母御は病死。私もそののちお暇もらひ、月日送るそのうちに、師直さまには去年の騒動・・・」

ここでは師直の書付けの入った守り袋が登場しますが、この設定が「四谷怪談」では「師直のお墨付き」に変化しているのではないかと推測するのです。「四谷怪談」には伊右衛門が師直のご落胤だとはどこにも書いてありませんが、伊右衛門が新藤源四郎の実子でないことは「蛇山庵室」で源四郎が「離縁した女房の実子」と言っていることで分かります。もし伊右衛門が師直のご落胤ならば、高野家臣・伊藤喜兵衛が伊右衛門と娘を結婚させようとしたのは、お梅が伊右衛門に恋したからというのだけが理由なのではなくて、主家との絆を強固にしたいとの目的があったに違いありません。そうでなければ、判官刃傷のことで主人師直に印象の良いはずがない塩冶浪人をわざわざ婿に迎えようとするのも不思議なことに思えます。また伊右衛門が師直のご落胤であれば、「忠臣蔵」の世界から見た時に伊右衛門が誅すべき存在(単にお岩の敵であったからだけではない・まさに義士にとっては憎っくき敵・師直の一族ということなのです)である理由がますます強化されるということになります。

こう考えると、「大序」冒頭には、師直がお熊に恋の手引きをしてもらう場面だけではなくて、我が子・伊右衛門が難儀ある時はこれを持って来いと言って師直が「お墨付き」をお熊に手渡す場面もあったのではないかと想像できるわけです。

さらに「隠亡堀」において直助が伊右衛門に向かって「なるほどお前は強悪だなあ」と言い、伊右衛門が「強悪にやあ誰がしたえ」と返す有名な場面も、これは七代目団十郎が実悪の大先輩・五代目幸四郎に対する敬意を込めたものだと言われますが、父・師直(幸四郎)に対して息子・伊右衛門(団十郎)がそう言っていると考えれば、これはなかなか意味深な場面になります。これは伊右衛門は師直の悪を継いでいるということです。

なお、絵番付けでは「隠亡堀」が第1日目最後と第2日目の最初と二回上演されているようになっていますが、本当にそうなのかは疑問も提出されていて様々な論争がされているそうです。しかし、「大序」に師直がお熊にお墨付きを手渡す場面があるならば「隠亡堀」でそれが伊右衛門の手に渡っていることを観客に見せるのは意味があると思いますから、初日最後の「隠亡堀」上演は間違いないように吉之助には思えます。また2日目冒頭に「隠亡堀」を上演して「お墨付き」の存在を印象付けておけば、最後の「蛇山庵室」で大事なお墨付きはネズミ(ネズミはお岩の怨霊の化身と考えてよい)に食い散らされてしまうのですが、2日目だけの観客にもその意味がよく分かるから親切というものでしょう。もし伊右衛門が師直のご落胤であるならば、このことは非常に重要です。これは伊右衛門の逃げ路がお岩の怨霊によって完全に断たれたということを意味するからです。だから吉之助は「隠亡堀」は絵番付け通りに2日とも上演されただろうと想像するわけです。

さらに犬丸氏は「夢の場」に在原業平の「東下り」のイメージが託されているのではないかと推測しています。「夢の場」は幻想的で美しく「四谷怪談」のなかでも特異な位置を占めます。そこに見られる若殿姿の伊右衛門と田舎娘のお岩が出会うシーンが「伊勢物語」の「昔、おとこありける・・」というのを連想させるというわけです。これも非常に興味深いご指摘です。「四谷怪談」の登場人物のほとんどは「忠臣蔵」の世界からやって来た・つまり上方から流れてきた人たちであるからです。さらに伊右衛門が師直のご落胤であるとすれば、伊右衛門の流転する数奇な運命は「貴種流離譚」の趣を呈してくるわけです。この幻想的な「夢の場」が一転して陰惨な「蛇山庵室」になってしまうという・発想の飛んだところが何と言っても「南北の妙味」でしょう。

初演の三代目菊五郎が、お岩とともに与茂七、さらに「忠臣蔵」の由良助も兼ねていることも興味深いところです。与茂七がお岩の刑執行代理人であるということは別稿「与茂七と三角屋敷の意味」において考えたことがありますが、由良助もまた「四段目」において主人判官に「我が無念を晴らせよ」と復讐を託された人物なのです。(別稿「由良助は正成の生まれ変わりである」をご参照ください。)終幕において与茂七は伊右衛門を討ち・由良助は師直を討つことで、ふたつの「世界」は照応されて、同じ形に落ち着きます。伊右衛門が師直のご落胤ならば、まさにふたつの結末はぴったりと符合するのです。


4)「四谷怪談」から見た「忠臣蔵」

長々と書きましたが、以上は吉之助の想像に過ぎません。しかし、この想像が違ったとしても「四谷怪談」での伏線はそのまま原作にあるものですから「忠臣蔵」との基本的関係が変化するわけではありません。ただこんな風に初演のテレコ上演のありさまを想像してみると、「四谷怪談」と「忠臣蔵」の関係が、よりクリアに・より強固に見える気がしませんか。

こう想像して見ますと「四谷怪談」と「忠臣蔵」というのは単純にふたつ並べて上演されて並列的・対立的に見比べられるものなのではなく、二つの芝居が渾然一体となって・複雑に絡み合ってお互いの世界の響きが共鳴し合う形になっているように思われます。このため南北は、初演の「四谷怪談」を「忠臣蔵」とのテレコ上演という特異な形態を意図的に構築したと想像できます。

ここでは「忠臣蔵」のドラマも、市井にある「四谷怪談」のドラマもまったく等価に置かれています。由良助の一力茶屋での遊びも、与茂七の地獄宿での遊びも同じ次元に並べられます。お軽は夫のために身を売り、お袖も夫のために身を売ります。これも同じ次元なのです。しかし、誤解しないで欲しいと思いますが、これは「忠臣蔵」の聖性を引きずり下ろして笑い飛ばそうというような南北の意図があるとは 吉之助はまったく考えていません。(このことは別稿「今日もまたそのようになりしかな」において考察しました。)

「忠臣蔵」は表の世界(建前の世界)・「四谷怪談」は裏の世界(本音の世界)というような対立構図に見るのではなくて、もっと大きく全体を「忠臣蔵」の世界で包み込む構図 を想像してみたいと思います。こうして、市井の世界に迷い込んだ伊右衛門もお岩も・すべての人間世界のドロドロが最後には「忠臣蔵」のあるべき世界に収攬されていく形になっていると思うわけです。

このように 「四谷怪談」での南北の仕掛けが成り立つためには「仮名手本忠臣蔵」が提示する完璧な義士像が観客の観念のなかにあるということが前提にあるのです。南北はこのような二つの世界が絡み合う構造を用意して、「忠臣蔵」の世界をよりリアルに生々しく再生させたのだと思っています。吉之助には「四谷怪談」終幕にふる雪はやっぱりキレイに見えます。降る雪がすべてを静かに清めてゆきます。「今日もまたそのようになりしかな・・・」

(H15・8・17)


(後記)

本稿は犬丸治さんのサイト「歌舞伎のちから」に掲載された「穂を摘んだ鷹たち」を参考にさせていただきました。 現在はこの記事はサイトから削除され、単行本「天保十一年の忠臣蔵」の章として読むことができます。

この論文は「東海道四谷怪談」と「盟三五大切」を取り上げており、南北の綯い交ぜの秘密を解き明かしてくれて刺激的な面白さがありますので是非ご一読をお勧めします。この論文を参考にさせていただくこと をご快諾いただきました犬丸さんに御礼申し上げます。出来上がった本稿は犬丸さんのご見解とは多少異なるところもあるかも知れませんが、いろいろな解釈の可能性のあるところに、南北の偉大さがあるのだろうと思っています。





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