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由良助は正成の生まれ変わりである

〜「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その2「大星由良助」


1)由良助は正成の再来である

「楠のいま大石となりにけりなほ(名を)も朽ちせぬ忠孝をなす」、これは元禄15年(1702)12月14日の赤穂浪士の討ち入りの直後に出た落首だと言われています。「太平記読み」という精神土壌があった当時の庶民にとって、「忠臣」と言えばそれは誰よりもまず楠正成のことを指したのです。江戸の庶民は吉良邸へ討ち入り亡君の無念を晴らした大石内蔵助の行為を見て、内蔵助は正成の生まれ変わりだと直感したのです。

時代は下りますが、寛政9年(1797)に刊行された曲亭(滝沢)馬琴の黄表紙「楠正成軍慮智恵輪(くすのきまさしげぐんりょのちえのわ)」の最後に、「楠、大石に化するの図」と題する挿画が載せられています。菊水の旗を持った正成の衣装は火事装束(つまり赤穂浪士の討ち入りスタイル)であり、「正成は、塩冶の忠臣大石と生まれ変わった」と記しています。

これは「七生まで只おなじ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」と誓ったという正成の最後の言葉を踏まえています。吉良家というのは江戸時代においては足利家の名跡を伝える唯一の家柄でした。吉良家・すなわち足利家の血筋を断絶に追い込んだ内蔵助は、まさしく「正成の生まれ変わり」であったのです。

赤穂浪士の討ち入りは、題材が刺激的なのですぐに芝居に仕組まれました。もちろん幕府の検閲がありますからお上をはばかって過去の架空の出来事とされたわけです。その世界は「曽我の世界」・あるいは「小栗判官の世界」に設定されたりもしましたが、いろいろな芝居に仕組まれるなかで、結局は「太平記の世界」に落ち着いていきます。これは単に「塩冶」の「塩」が赤穂の塩を連想させたとか言うような単純なことではなくて、もっと直接的に内蔵助の行為が正成を連想させたのです。このように「忠臣蔵」は「太平記の世界」に設定されなければならない内的必然性があったということが理解されましょう。

「四段目」(判官切腹の場)において、判官は「由良助はまだか」と案ずるも未だ由良助は参上せず、「是非に及ばずこれまで」と判官は刀を腹に突き立てます。そこへ由良助が息せききって登場します。まさに「四段目」のクライマックスです。以下の場面は現行の歌舞伎では脚本が丸本とかなり異なるので、丸本に基づいて記しますと、判官は苦しい息の下で「定めて仔細聞いたであろ。エエ、無念、口惜しいやィ」と語り、さらに「由良助、この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らせよ。」と言い残して判官は息絶えます。さらに、丸本はこの後の由良助をこう表現しています。

由良助にじり寄り、刀取り上げ押し戴き、血に染まる切っ先を打守り、拳(こぶし)を握り、無念の涙はらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り、さてこそ末世に大星が忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」(注:この部分は歌舞伎ではカットされ、判官の死の直後ではなく門外の場面において演じられます。これについては後述。)

この場で判官は自らの血に染まった九寸五分を由良助に形見にすることで、「我が無念を晴らせよ・我が体面を立てよ」とはっきりと由良助に命令を伝えていることが分かります。「忠臣蔵」での由良助の役割は最初から明確です。それは「亡君の無念を主君に代わって晴らす」ということなのです。さらに言えば、由良助は「それを果たすのが家来としての自分の使命である」と感じて義務感でそれを行ったというのではなく、「亡き主君の無念は残された我々家来の無念でもある」という一体化した意識を由良助ははっきりと持っているのです。由良助と主君判官との間に完璧なほどの一体感、家臣と主人という関係を超えていると言えるほどの一体感が見られます。

「四段目」はそうした由良助と判官との関係を舞台に視覚化して見せているのです。まさに、主君判官のどうしようもない怒り・自らに降りかかった理不尽な恥辱への怒り(これこそまさにかぶき的心情から発したものでした)を家臣由良助に受け渡す儀式であるというのがこの「四段目」の意味なのです。そして由良助 はそれを受けて「亡君の無念を晴らす」のですが、そこに観客はまざまざと「楠正成の再来」を見るということなのです。

ここで由良助の気持ちを考えたいと思います。判官の「かぶき的心情」を、由良助はこれまた「かぶき的心情」で受け止めていることがはっきりと分かります。明らかに由良助は判官の怒りを「我が怒り」としています。判官が師直に斬りつけた原因がわかっているとは思えませんが、しかし由良助は判官と主従関係を超えて同じレベルにおいて怒っています。かぶき的心情という視点から「仮名手本忠臣蔵」を見ると、この芝居は案外とストレートな構造を持っているということに気がつきます。


2)歌舞伎での由良助の表現

史実の赤穂事件の場合は内匠頭の切腹に内蔵助は立ち会っていないわけですが、しかしおそらく内蔵助の心情も芝居と同じようなものだろうと思うのです。これが江戸時代初期の時代的気質ともいうべき「かぶき的心情」の現われ方であるからです。赤穂浪士たちは「忠君の無念を我が無念」とし、「主君の恥辱を我が恥辱」として燃やしつづけて、約1年9ヶ月の歳月を耐えたのです。

このようなことは後世の人々からは理解の範疇を越えたことであるようです。とてもそれだけで四十七士が「主君の無念」を長期間持続できたとは想像もできません。それで、赤穂浪士の討ち入りは幕府の御政道に対する抗議であったとか、はたまた浪士たちの他家への再就職活動であったのだろうとか、いろいろ憶測も出てくる訳です。事情はいろいろありましょう。しかし、彼らの討ち入りへの起爆剤はやはり「主君の無念を我が無念」として、「主君の恥辱を我が恥辱」とする怒りにほかなりません。少なくとも世間は間違いなくそう見たのです。だからこそ、世間はその行為に熱狂し賞賛し、そして幕府は彼らを簡単に断罪できずその処置に苦慮したのです。その意味で、内蔵助以下47名の赤穂浪士たちはまさに「かぶき者」であったのです。

しかし、ここで分かるように同時代ではない後世の人々には「かぶき的心情」はなかなか理解しにくいものですし、あまりに単純・単細胞的な感情のようにも思われますから、「忠臣蔵」を演じる歌舞伎役者も時代が下るにつれて役作りに苦労したのかも知れません。「仮名手本忠臣蔵」の歌舞伎の舞台は次第に実録風に傾いていき、大星由良之助が 実録の大石内蔵助みたいになっていく訳ですが、その理由はひとつには観客はモデルが誰かはっきり分かっていますからどうしてもそちら(史実)に引っ張られてしまうということもありますが、もうひとつには「忠臣蔵」が本来持っているストレートな構造・ストレートな人間像が後世の人間にはなかなか理解しにくくなっているということも関係しているのかも知れません。

現行の歌舞伎の「四段目」の舞台では、丸本にあるように切腹の場で判官と由良助が仇討ちの決意を交わすのをあからさまに見せてはいません。刀を腹に突き立てた判官は「無念・・・・」と言って、さらに「この九寸五分は汝へ形見」とは言いますが、対する由良助は黙って自分の胸を叩いて平伏してみせてその意志を示します。こういうのは言葉で言わずに無言の演技のなかでその気持ちを表現する「肚芸」と言って、九代目団十郎が得意とした演技ですが、こうすることである意味では、気持ちの表現を曖昧にしてはっきりと示さないことで人物の陰翳をつけようとしているようにも思われます。由良助は仇討ちの本心を最後の最後まで周囲に明かさないのが通例とされていますから、このように切腹の場で主人と家来が仇討ちの決意を公然と交わすのを、歌舞伎は嫌ったのかも知れません。

しかし、歌舞伎の舞台においても由良助の「かぶき的心情」を明確に見せる演出があります。それは「四段目」幕切れの門外での由良助の演技です。ここで丸本では判官切腹の直後にある「刀取り上げ押し戴き、血に染まる切っ先を打守り、拳(こぶし)を握り、無念の涙はらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り、さてこそ末世に大星が忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」という文句を、歌舞伎では門外の部分で行なうのです。

城外で独りきりになった由良助は、懐から主人の形見の血のついた九寸五分を取り出して、「判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り」で刀についた判官の血を舐め、「忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」で師直の首を掻き切る仕草をして、その刀を袖に隠すように抱いて泣き上げます。

ここで由良助が九寸五分についた判官の血を舐めるのは寛延2年(1749)江戸三座で「忠臣蔵」が初演された際に、市村座で由良助を勤めた初代彦三郎の型だと言われています。これは「五臓六腑にしみ渡り」を文字通りに読んだ幼稚でグロテスクな解釈という風にも見えますけれども、主君の血を舐めることで、主君の無念の気持ちを我が体内に取り込んで主君と同化しようとする行為だと考えれば、これはまさに歌舞伎役者が本文をかぶき的心情において読み取り、それを視覚形象化したものだと も考えることができるのではないでしょうか。

(関連記事)

「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その1「塩冶判官」、その3「早野勘平」、その4「天河屋義平」もご参照ください。

(H14・1・20)




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