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上方歌舞伎の行方

平成26年3月歌舞伎座:恋飛脚大和往来〜「封印切」玩辞楼十二曲の内

四代目坂田藤十郎(亀屋忠兵衛)、三代目中村扇雀(梅川)、五代目中村翫雀(四代目中村鴈治郎)(八右衛門)他


1)上方歌舞伎の行方

三代目中村鴈治郎が四代目坂田藤十郎を襲名したのは、平成17年(2005年)暮れの京都南座でのことでした。ちょうどその時の歌舞伎学会の「坂田藤十郎の再発見」と題されたシンポジウム(注:この場合の藤十郎はもちろん初代を指す)でのオフレコ発言ですが、個人的に藤十郎(もちろん四代目のこと)のことをよく知る権藤芳一先生が、(藤十郎は実にきままな生き方をしてきた人だから、藤十郎が上方歌舞伎の復興のために何かするということは)「自分は全然期待していない」という趣旨のことを仰ったのです。会場は大爆笑でありました。とは言っても近松座を主催して近松作品の復活上演なんて努力も、新・藤十郎は続けてきました。だから「何もせんこともあるまい」と、その時の吉之助は思ったのです。しかし、あれから現在までほぼ8年を振り返れば、襲名してからの藤十郎は、権藤先生の予言通り何もしなかったように思います。

大阪での歌舞伎上演は何とか続いているけれども、残念ながら、上方歌舞伎というものはもう
消えかかっているのが現状です。まあこういうことは興行の思惑とか・座組みの問題とか・年齢のこととか、自分の思うようにならぬことが多々あるとしても、そのなかでも近松に限らず・上方狂言を積極的に取り上げるとか、何かの機会を以て自分の芸を後進に伝えるとか、藤十郎はもっと積極的に何かして欲しかったのですが。「芸は人に教えてもらうものでなく、自分で工夫していくものだ」というのが、確かに上方歌舞伎の芸の在り方かも知れませんが。

今回(平成26年3月歌舞伎座)での「封印切」を見ていて、ちょっとやり切れない思いがしたのは、上方歌舞伎はもうのっぴきならないところまで来てしまったなあということです。この舞台に立っている人たちがいなくなったら、上方歌舞伎は消えてしまうのであろうなあ・・いやもう消えかかっているのだなあ・・ということを思いました。もちろんこれは藤十郎のせいだけではありません。

幸い吉之助は関西生まれであるので、上方弁のニュアンスは聞き分けることが出来ます。(注:東京の方には上方歌舞伎が分からないと言っているのではないので、誤解のありませんように。吉之助が歌舞伎を見始めた時には、まだニ代目鴈治郎や十三代目仁左衛門が存命でしたから、吉之助は彼らの舞台を見て上方歌舞伎を学んだのです。その同じ舞台に藤十郎(当時は二代目扇雀)・仁左衛門(当時は孝夫)がおり、また我當も秀太郎も一緒でありました。吉之助は近松座も昭和56年(1981年)の立ち上げの時からずっと見てきましたから、彼らの芸の息遣いというものは、吉之助のなかにそれなりに身に沁み付いて分かっているつもりです。だから彼らが何を表現したいのかということも、ちゃんと受け止めているつもりです。吉之助もずっと見てきた・お世話になった役者さんのことですから、「さすが円熟の芸」ということを書きたいです。しかし、正直に申しますが、東京生まれの若い観客が初めてこの「封印切」の舞台を見て「上方歌舞伎は面白い」と納得させるだけの活力が、残念ながらこの舞台には乏しいと吉之助は思えてなりません。

当然のことながら、藤十郎(忠兵衛)も・秀太郎(井筒屋おえん)も雰囲気は捉えているのです。そこはさすがという芸を確かに見せてはいるのです。考えれば藤十郎ももう82歳なのであるから、そのことを考えれば、これは驚異的な舞台であること も承知しています。しかし、残念ながら、忠兵衛もおえんも、台詞が滑ってしまっている。言葉が明確でない。舞台で「何をじゃらじゃらしていやさんすのじゃ・・・」などと言い合ってはいても、これではまるで「じゃらじゃら」になってまへんがな。これでは「ふわふわ」ですがな。吉之助はこの芝居を知っているし、「こういうことをしたいのであろう」ということを理解しているからいいですが、これでは雰囲気を捉えていても、分からない人には何をしているのか・何が面白いのだか全然分からないと思います。言葉を明確に発声出来ないならば、雰囲気をそのままに維持しつつ、速度を落としてでも・明確に台詞をしゃべることをした方が良い。速度を落とすことを恐れてはいけません。だから「じゃらじゃら」が 十分な形になって来ないのです。藤十郎さんにも、秀太郎さんにも、そのことを申し上げたいですね。歌舞伎座の観客の反応がいまひとつなのは無理もないことです。

「じゃらじゃら」というのは、あっちへ行ったり・こっちへ行ったり・・ということです。気分はひとつに決まるのでなく、絶えず変転して定まることがない。つまり、落ち着かない気分を示しているのです。台詞のリズムで言えば、微妙に早くなったり・遅くなったり、時には激しく振れてみたり、波のような揺れを示すものです。(別稿「アジタートなリズム〜かぶきの台詞のリズムを考える」の、和事のリズムの項をご覧ください。この感じは、藤十郎とは行き方が多少異なりますが、昨年5月歌舞伎座・「廓文章」での仁左衛門の伊左衛門がよく表出してい たと思います。)こういう台詞は、言葉が明確でないと面白さは出ません。現代の上方漫才でも、言葉が明確でなければ、バタバタ騒がしいだけで面白くないはずです。テンポは大事な要素には違いないですが、言葉を明確に発声出来ないならば、速度を落としてでも・明確に台詞をしゃべって、そこに落ち着かない気分をどう出すかなのです。藤十郎ならばそれは十分出来ることであろうに。

先ほど書いた通り、藤十郎の忠兵衛は雰囲気においてはさすがの芸というところを見せてはいるのです。しかし、これでは東京の観客はその良さが感知出来なかったでしょう。これでは何だか同じ仕草を行ったり来たり、繰り返ししつこくやるのが上方芸だみたいにしか見えないのではないか。幕切れの忠兵衛の花道引っ込みなどは、そういう気配が ありました。それは観客が悪いのではなく、揺れ動く気分 がドラマのなかに明確に位置付けが出来ていないから、そういうことになるのです。雰囲気だけでは芝居になりません。ひとりで芝居が出来るわけではないから、ここにはアンサンブルという問題も関係してきます。

今回の座組みですが、現在「封印切」をやるならこの顔ぶれというところなのでしょうが、我當も秀太郎もちょっと生彩がない。これが全体の出来に響いているようです。前半の芝居が良くなかったので、 台詞が明晰な我當の治右衛門が登場したらちょっとは舞台が締るかと期待しましたが、我當も元気がないようでした。扇雀の梅川は、忠兵衛の藤十郎の方が若く見えるというのでは情けない。下向いてうつむいているだけでは、情は出せません。翫雀の八右衛門は頑張ってはいますが、「冥途の飛脚」ではなく「恋飛脚」の方の八右衛門の場合は敵役の要素が強いから、人が良い感じのこの優には損な感じです。もっとアクの強さが欲しいところです。忠兵衛との掛け合いは、八右衛門の方から押しまくっていかねばなりません。忠兵衛の封印を切るクライマックスが浮いた感じになったのは致し方のないところです。 東京育ちの翫雀は大阪弁が十分でないのも気にはなりますが、ここは翫雀には忠兵衛の方でしっかり親父さんの芸を継いでもらいたいと思います。

(H26・3・26)


2)二か月後の追記:4月歌舞伎座の「曽根崎心中」のことなど

前節「上方歌舞伎の行方」において、吉之助の上方歌舞伎の行方への危惧を吐露しました。あの時はちょっと感傷的であったかも知れ ません。しかし、今後も上方歌舞伎がずっと上演され続けるとすれば、だんだん東京の役者中心にならさるを得ないと思いますし、そうすると上方和事も「与話情浮名横櫛」の与三郎とあまり変わらぬ 感触になってしまうのかなあと思います。まあそれも仕方ないことかも知れません。そんなことなど考えながら、4月歌舞伎座の、「坂田藤十郎一世一代にてお初相勤め申し候」との「曽根崎心中」を見たわけですが、藤十郎のお初は天満屋店先、徳兵衛を縁下に置いての「お前も友だち衆のこと、さのみ憎うはいはぬもの・・」以下の九平次への悪態は、声も力強くてさすがの芸を見せました。翫雀の徳兵衛も、長年演じ込んで来た役だけに手慣れたところを見せました。しかし、個々の役者の芸としては見るべきところがあるのは確かですが、全体からすると隙間風が吹く場面が少なくないようです。やっぱり芝居というのはアンサンブルなのです。

ところで「曽根崎」興行中の4月17日に、翫雀が来年(2016)1月大阪松竹座四代目中村鴈治郎の名跡を襲名することが発表されました。大阪の大名跡を継ぐのであるから頑張ってもらいたいと思います。現時点では襲名披露狂言はまだ決まってませんが、そうこうしているうちに本年7月大阪松竹座の演目が発表になりました。そのなかの「沼津」で翫雀が平作を勤めるのだそうです。ちなみに昨年11月国立劇場でも同じく「沼津」で藤十郎の十兵衛に付き合って翫雀が平作を勤めており、これが初役であったと思います。平作が悪い役などと言うつもりは毛頭ない・役の重い軽いを言うのではない・歌舞伎に平作役者が払底していることが悩みであるのもよく分かってはいますが、しかし、近い将来鴈治郎を継ぐことになる翫雀に何も平作をやらせることはないじゃないかと吉之助は思ったものでした。

要するにこれは役者のイメージの問題なのです。鴈治郎という名前には色気が必要です。これは大事なことではないでしょうか。故・勘三郎が平作を勤めたのとはわけが違います。勘三郎は出来上がった役者であるし、それが兼ねる役者を期待されていた役者の勲章にもなったのです。これから鴈治郎を継ぐ役者が平作をやるのでは御馳走にならぬと思います。昨年11月国立の時もそんなことを思ったものでしたが、いよいよ来年1月の襲名が決まった半年前の、襲名ムード盛り上げの大事な時期に、しかもご当地大阪で、息子・翫雀が平作をやるっていうことは、これは本来親父さんが配慮せねばならないことです。いくら「のほほん」の藤十郎さんでも、息子に十兵衛をやらせて自分はお米に回ることくらいは考えて欲しいものだと思います。(それでも十分お客は来るはずです。)翫雀を四代目鴈治郎として押し出すということは、上方歌舞伎の為に大事なことであるし、立派な役者になってくれなければ困るわけです。

上方芸の伝統の在り方は本来厳しいものです。「芸は親を真似するものやおまへん、自分で工夫するもんだす」というのが、上方の芸の伝承です。「息子は息子、俺は俺」というのが、藤十郎の考え方なのかも知れません。そういうこともよく理解できます。芸能の在り方とすれば、それが本来在るべき形だと思います。むしろ江戸の歌舞伎のように家系だ型だなどという方が権威主義的・形式主義的であって、本来的な意味からすれば芸道精神として脆弱であると思います。しかし、結果としては上方歌舞伎は衰退し、江戸歌舞伎は残るということになってしまいました。

だから、ここは上方芸というものも、しばらくは本来の在り方を曲げてでも、型を写し取るということをせねばならないと思います。願わくば「芸の心を写し取る」となって欲しいものですが、それが江戸歌舞伎の台木に上方歌舞伎を接ぎ木するようなことになったとしても、上方歌舞伎は残ってもらわねば困るのです。そのために鴈治郎と云う名跡も、上方歌舞伎の牙城として残ってもらわねばなりません。もちろん仁左衛門の名跡も同じことですが、本稿は翫雀のことから始まっているのでそうなっているわけですが、翫雀には上方の芸の・どの部分を、おのれの仁において、どう継ぐか・どう真似るかということを、真剣に考えて欲しいと思いますね。そのためにまず役者のイメージを大切にしてください。このこと大事なことなのですよ。

(H26・6・1)

(付記:別稿「大阪人の野性味」 もご参照ください。)


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