(TOP)         (戻る)

ピントコナ考〜「伊勢音頭恋寝刃」


1)十人斬りの狂気

いつぞや「伊勢音頭」のどなたかの劇評を眺めていたら、或る役者が演じる奥庭の殺し場の福岡貢について「妖刀のなすがまま動くのが分かって良い」ということが書いてあって、フーンと思いました。貢が持つ刀は青江下坂と云って、元来この刀は貢の家に崇りをなす妖刀であったという設定になっています。鞘が割れてしまった妖刀の魔力に魅入られたが如く、貢は次々と人を殺めます。現代の刑法では人を殺しても、心神喪失状態にある場合はその罪を問えないということがあるそうです。貢が刀で人を振り回すのは青江下坂の崇りのせいであって、貢本人は正気ではない。だから妖刀のなすがまま虚ろな表情で・操り人形のようにフラりフラリと刀を振り回す、そういう機械的な動作をすることで貢が心神喪失状態にあることを表現する、それならば貢に罪がないことが明らかであると、まあそのような理屈でありましょうかね。しかし、そういう見方は心理学の成果に乗っかっているかに見えて、実は芝居の上っ面しか捉えていないのです。歌舞伎には元来そのような思考回路(ロジック)はないのです。

まず歌舞伎では人気役者が悪人の印象のままで終わるのは「気分が悪い」ということがあります。そのような場合には、最後に全然別の善人の役に入れ替わって登場してイメージを一新する、そうすることで観客は気分よく劇場を後に出来るということになります。そうでない時には、人気役者演じるその役が悪事を犯すのにはやむを得ない事情があって「実は彼は根っからの悪人じゃなかったのです」という申し訳が付く場合が多い。「伊勢音頭」でもそうで、貢は刀を振り回して次々と人を殺める凄惨な行為をしますが、最後にそれは青江下坂の崇りのせいでしたとなって、貢は憑きものが落ちたように正気に戻る、これで観客は「そうかア、十人斬りは貢のせいじゃなかったんだ、刀のせいなんだ」ということになって安心するのです。逆に言えば、十人斬りの場面では貢は真剣に・本気の殺意を以て殺し場を演じなければならないということです。そのような落ちが付くことで、最後の場面で貢の所持する刀が青江下坂だと判明し・お家騒動解決の知らせが届いてメデタシメデタシとなる芝居のカタルシスが明確になる。これが歌舞伎の思考回路というものです。

これは「伊勢音頭」での妖刀の崇りは、結局、筋を展開するための装置(方便)に過ぎないと昔の人が割り切っていたことを示しています。何かしら暑苦しく圧し掛かっていた モヤモヤが貢が怒って刀を振り回し十人斬りに至ることで一気に発散される、これが夏芝居の魅力であるからです。だから貢の十人斬りが真剣なものでなければならないのは、当然のことなのです。

これについては、次のような考察もできると思います。昔の人は、人が気が狂うのは、神がかりとか・物の怪(け)とか、何か尋常でないものがその人に入り込んで・心を占領する、そのため人格が変わってしまうと考えました。だから憑きものが落ちれば、正常に戻るのです。昔の人の理屈は単純明快です。「くるふ」とはクルクルと旋回すること。気が狂った状態になると、くるくる回る運動をする。だから「くるう」と「まう」とはほとんど同じことで、神様が降りてきて恍惚状態になった人がクルクル回るのが舞の起源ということになります。そうすると、いつしかこれがひとつの型みたいなものになって、神様が降りて来なくてもクルクル回る。「回っているうちに神様が降りて来る」という理屈になる。そういうところから芸能というものが始まるわけです。

だから能で「おんくるひ候へ」などとシテに呼びかけて物狂いを見せることがあるのは芸能がストーリー性を備えて行く発展過程を示すものですが、能の場合には狂人の狂うさまを観察して・そこから心に分け入り狂気の源を探し出そうとする醒めたものをどこかに感じます。それは精神分析のカウンセリングにも通じます。別稿「隅田川の精神」でも触れましたが、世阿弥は狂女の病み狂った心象風景を思い、その裏に潜むドラマのことを想ったのです。吉之助は、そこに室町時代の世阿弥の科学性を見るのです。

翻って江戸時代の歌舞伎の「伊勢音頭」を見れば青江下坂の妖刀は、貢が暴発し狂気の行動に至ることの免罪符に使われています。これは観客をそのような人間心理の暗く・醜く・恐ろしく・嫌なものに目を向けなくても済むように仕組まれているということなのです。これはたかが夏芝居のエンタテイメントですから・・・別に深い意味はないですから・・・と申し訳を付けているのです。冒頭に挙げた劇評はそれに乗っちゃってるわけです。しかし、何が貢を苛立たせ・何が貢の狂気に火を付けたのか、ホントはそこを感じ取ることが大事なのではないでしょうかね。そこに決してお上に悟られてはならぬ危険なものが潜んでいるからです。だから逆説的に貢の十人斬りは真剣なものでなければならない・そこに真実が潜んでいるということになります。(この稿つづく)

(H27・5・23)


2)「ピントコナ」について

「伊勢音頭」の主人公福岡貢は「ピントコナ」の役どころだと云われますが、このピントコナというのは、どうもイメージが明確でない言葉です。調べてみると、大体こんなことが書いてある文献が多いかと思います。

「ピントコナ:上方和事の役柄の一つ。やわらかな色気を持ちつつ、「つっころばし」のように女性的にならず、立役のきりりとした強さがある役を指す。「伊勢音頭」の福岡貢など。」

これだけ読むと「そんなものかな」と思うかも知れませんが、「福岡貢など」って書いてあるのだから当然他にもピントコナの役があるはず。現代に上演ない作品でも良いから他にどんな役があるのかと思って調べると、これを書いてあるものが全然ないのだな。そこで、結局分かることは、ピントコナの役というのは福岡貢だけだということです。だからピントコナというのは役柄ではなく、貢の性根を表わすものだと考えた方が良いと思います。

いつくかの解説を並べて見ると、共通して「どこかにきりりとした強さがある」というところにピントコナの重きを置いているようです。たとえば貢は元・武士であるから、役にそうした芯の強さが必要だというのです。これは多分、ピントコナの「ピン」の音の、ピンッととんがった印象からの連想でしょう。しかし、戸板康二の「折口信夫坐談」を読むとこんな文章が出て来ます。

『歌舞伎の役柄で、俗に「ピントコナ」ということばがある。和事の、美しい二枚目でいながら、三枚目の要素のある、上方のほうで育った役だ。ある日、(折口)先生は、「ピントコナがわかったよ」といわれた。それまで、歌舞伎の衣裳のほうの、小忌衣(おみごろも)という、殿さまの襟についているビラビラした布のことを「ピントコ」というので、その殿さまのような役だと思っていたが、どうもそうではないらしい。昔話の馬鹿むこの話で、団子を買いにゆく途中、団子ということばを忘れては大変なので、団子、団子と口のなかでいいながら歩いてゆくと、往来に水たまりがあり、「ポイトコナ」といって飛びこえて、それからポイトコナ、ポイトコナと口のなかでいってゆくという話、あれからきているらしい。そういう話であった。つまり、馬鹿むこのような役柄という風な意味の、ピントコナなのだという解釈なのである。』(戸板康二:「折口信夫坐談」)

折口信夫:戸板康二編・折口信夫坐談

これを読むと、折口のピントコナの解釈は「きりりとした強さ」に重きを置いていないことどころか、馬鹿むこのような役という、まったく正反対のイメージなのです。戸板は、折口の見解に対して感想を書いていません。そこが記録者に徹した戸板らしいところなのだけれど、戸板自身はピントコナについて「美しい二枚目でいながら・三枚目の要素のある」と記していますから、多分、折口の見解に全面賛成というわけではなかったでしょう。このように歌舞伎で使われるピントコナの定義は曖昧なもので・定説があるわけではなく、人によって言うことが微妙に異なっています。だから改めて言いますが、ピントコナという役を考える時には、「伊勢音頭」の貢という役を正しく理解するしか・その取っ掛かりはないということになります。(この稿つづく)

(H27・5・31)


3)「ピントコナ」について・続き

「伊勢音頭恋寝刃」は寛政8年(1796)に伊勢古市で実際に起きた刃傷事件を劇化したもので、上方狂言です。現行歌舞伎の舞台で見られる福岡貢は大体菊五郎型に拠ります。これは五代目菊五郎が貢を当たり役としたからですが、仁左衛門はじめ上方の型もいろいろ残っています。

ピントコナが「やわらかな色気を持ちつつ・立役のきりりとした強さがある二枚目の役」だとするのは、これは菊五郎型の貢を見るならばなるほどそんなものかなと思います。しかし、吉之助がこの説明に釈然としないのは、字面だけをあげつらうと、これでピントコナが江戸和事・たとえば曽我十郎などの役とどれほどの違いがあるのかということです。あまり違いが意識されていないと思います。ピントコナが上方の役であることの説明ができていない。しかし、それで良いと考えられていたようです。それは貢は元・武士で芯にきりりと強いところを持った役であるから、ピントコナはいわゆる上方和事と領域が異なるとされたからです。つまり、「つっころばし」系統のナヨナヨと女々しいイメージが上方和事の前提としてまずあって、そのうえでピントコナは同じ和事でも性根がちょっと違うものだという理解がされていると思います。

吉之助は上記の説明が間違いだと言っているわけではないのです。恐らく歌舞伎・特に東京の歌舞伎では、そのようなロジックでピントコナの受容がされてきたのでしょう。芸談「とうざいとうざい・歌舞伎芸談西東」のなかで十三代目仁左衛門が「鰻谷」の八郎兵衛 がピントコナの役柄で、さらに「沼津」の十兵衛も含めることができると語っているのを見つけました。しかし、十三代目の説は、ピントコナを広範囲に捉え過ぎのようで、疑問の余地があると思います。もしそうであるならばピントコナの他の解説にもそういう記述が出てしかるべきだと思います。そう云うわけで吉之助は十三代目の見解に同意が出来ませんが、十三代目の理解にも「きりりとした芯の強さ」に重きを置くロジックがあると感じます。ここを取っ掛かりとすれば、これを江戸前の役柄へも容易に転換できるということになります。多分これが役者の型の発想法なのでしょうね。現行の貢の菊五郎型も、そうやってできたものだと思われます。

十三代目片岡仁左衛門:とうざい とうざい―歌舞伎芸談西東

ピントコナについては、江戸中期に使われた「ひんとする(きっとする)」というのが語源だという説もあるそうです。しかし、吉之助がなおも釈然としないのは、「ピントコナ」という如何にも上方の匂いのする・しかし意味がよく分からない曖昧な言葉が、「きりりとした芯の強さがある」という明快なイメージを持っているように吉之助にどうも聞こえないことです。もうひとつは、別稿「上方和事の行方」で触れた通り、シリアスな要素と背中合わせで滑稽味や諧謔味が出るという上方和事の在り方からすると、「きりりとした芯の強さがある」という理解は、上方和事の本質からずれてしまうと感じるからです。吉之助は現行のナヨナヨの上方和事のイメージにもう少しシリアスさを注入したいと考えますが、それは滑稽味と重ね合わせて「揺れ」の感覚で表現できないと意味がない。「きりりとした芯の強さ」だけでは江戸和事と大して変わりません。これではピントコナが上方系統の役である出目が十分説明できないと感じます。そこで前節に挙げた折口信夫の「ポイトコナ」説が、吉之助のなかで改めて浮かび上がってくることになります。

それにしても、折口の・ピントコナは馬鹿婿のような役だという説は、「きりりとした芯の強さがある」というイメージと真っ向対立する考え方です。大体、「伊勢音頭」の貢を見て馬鹿婿ということがあまり思い浮かばないと思います。吉之助もそうです。しかし、折口の方法論は一見すると直感的に見えるかも知れませんが、とても論理的・科学的です。折口がこのポイトコナ説を語感の連想から思い付きだけでそう言ったと、吉之助はまったく思わないのです。なぜならば折口は歌舞伎の舞台に実によく通じた人であって、菊五郎型はもちろん、仁左衛門・鴈治郎・延若など上方の貢の古い型も承知していた人なのですから、ポイトコナ説が頭のなかに浮かんだ時に、これが貢に適用できるか、そういう検証を頭のなかでしないということはあり得ないのです。

「折口信夫坐談」を読んでも、戸板康二も「(折口)先生の言うポイトコナ説は正しいのかなあ、でも先生が言ったことだから記録しておかなくちゃなあ」と半信半疑であったように思います。しかし、折口がこの解釈なら「伊勢音頭」の貢に適用できると考えた根拠が何かあるに違いない。もし貢に馬鹿 むこのイメージを重ねてみると・それはどんなものになるかということを考えてみたら面白いと思うのですね。(この稿つづく)

(H27・6・5)


4)御師という職業

福岡貢は御師(おし/おんし)という珍しい職業です。御師というのは、特定の寺社に所属して、参詣者を案内して参拝・宿泊などの世話をする者を云い、神職と百姓の中間の身分でした。だから門前町には御師がいるところがたくさんあったのですが、特に伊勢御師が有名でした。江戸期には一大旅行ブームがあって、庶民の伊勢参りが盛んでした。これは信仰と観光・遊興の意味を併せ持っていました。御師というと何だか特殊な宗教者のようですが、平たくいえば門前町の現地観光ガイドということです。そうやって御師はお伊勢さま参拝の世話だけでなく・伊勢古市での遊興の世話などもしました。

現代でもツアー・コンダクターさんは気苦労が絶えなくて・なかなか大変な仕事のようです。日常の憂さを晴らすために旅行に出るわけですから、客にもいろんな人がいます。我儘勝手な人・無理難題を言う人・不平不満の多い人・急病人や現地の人とのトラブルなど、いろんなことが頻繁に起こります。そういうのを嫌な表情を見せずにニッコリ笑って「ハイハイ」とテキパキ処理するのが、たぶん有能なツアー・コンダクターさんだと思います。伊勢参りの御師もそんなものだと思えば良いのです。

ということは御師である福岡貢の性格ですが、二枚目の色男であることは確かですが・それだけではなく、御師というのは接客業のプロですから、人当りが良く・愛想も良い、どんなことを言われても・ニッコリと受け流し・決して嫌な表情を見せることがない、そのような性格が想定されると思います。悪い言い方をすれば、受けは良いが・八方美人的であって・態度につかみどころがない。何を考えているか本心が良く分からない人物ということになるかも知れません。(接客業の方、お読みでしたら御免。)

ピントコナについて「立役のきりりとした強さがある」ということが巷間言われますが、ここがまず吉之助が引っ掛かる疑問点です。貢がきりりとした強さを見せること、「俺は怒っているんだぞ」という気色を他人に対して見せることは、御師の本分として決してあってはならないことです。貢は最後に刀を抜いて暴れますが、暴発するまで怒りの感情を他人に見せてはならないのです。もちろん芝居ですから「我慢している」というところを舞台で匂わせて見せねば観客には貢の心理プロセスが分からぬことになりますが、それさえも柔らかい表情で「いなす」。そういうところが必要なのです。ここがまさに上方和事の技法であることは、別稿「上方和事の行方」をお読みになればお分かりになると思います。

五代目菊五郎が江戸前の貢を当たり役としたことは前に触れましたが、鏑木清方の回想に拠れば、「身不肖なれども福岡貢、女をだまして金とるような所存はない、何を、バ・馬鹿な・・・」と云う有名な台詞の後、煙草盆を取って煙草に火を付けるところで五代目は笑みを含んでいたということです。つまり、思わず怒りの言葉が口から出てしまってからも、なおこれを笑みに紛らせる、自分の感情を隠して・他人に悟られまいとする。これがピントコナの在り方だと思います。東京型の貢においても、五代目はそういう理解がキチンとしてい たことに感心します。しかし、以後の東京型の貢では、五代目の性根のポイントが忘れられてしまったということなのです。(この稿つづく)

(H27・6・8)


5)暑苦しい気分

実は吉之助は夏が大の苦手。「夏は俺の季節」なんてのたまう方が羨ましい。ハワイやグアムも確かに暑いですが、湿度が低くてカラッとしているので暑苦しさはさほどでもありません。サッと一雨来れば、涼しい風が吹く瞬間もあります。ところが、日本の夏は暑いうえに湿度が高いので、暑苦しくて辛い。頬を打つ風も湿気を含んで気持ち悪い。汗をぬぐっても・暑さがまつわりついて来るようです。そこにプーンと蚊が来るのがまた嫌ですねえ。暑苦しいと誰でも 思考が長続きしないで、ちょっと気が短くなって、イライラすることも多いようです。それで些細なことでカッと来て喧嘩沙汰なども多くなり勝ちです。夏芝居というと派手な殺し場がある芝居がよく出るのは、そのせいでしょうか。ただし芝居では殺し場に至るそのプロセスがつねに大事です。主人公がイジメられて・いたぶられて、遂に堪忍袋の緒が切れて殺しに至るから、そこに「遂にやったぜ」というスカッとした快感が生まれるわけです。ですから「伊勢音頭」の奥庭での貢は本気の殺意で殺し場をやらねばならないのは当然のことです。

しかし、恐らく夏芝居の「夏」たる所以は、主人公が遂に切れて怒り出すまでの・イジメられて耐えに耐え抜くイライラした場面にあるのです。つまり、イジメのプロセスが暑苦しく・拭っても拭っても暑さがまつわりつく日本の夏にどこか似るのです。たとえば「伊勢音頭」の万野です。この仲居はネチネチと回りくどく・貢にまつわりついて盛んに厭なことをします。と云って万野は貢にはっきりと敵意を見せるわけでもなく(それならば対処の仕様があるが)、万野が何を意図して厭なことを仕掛けてくるのか貢にはよく分かりません。自分のことが嫌いなのか、あるいは逆に自分に気があるのか、それもよく分からない。だから厭なら「厭だ」とはっきり言えば良いのに、貢は態度を曖昧にしたまま・ただ良いように弄られています。そこが夏狂言のイライラした気分に通じるのです。貢にとってはお鹿もイライラの種です。お鹿は顔は悪いが、気の良い女です。しかし、お鹿の言うことは貢にとってまったく実も葉もないことで、お鹿が騒げば騒ぐほど不愉快以外の何ものでもありません。そんなところでお紺が愛想尽かしをしてきます。もう貢は訳が分からなくなります。(お紺の愛想尽かしは彼女の本心からのものではなかったことが後で分かります。)

別稿「上方和事の行方」で触れた通り、上方和事はシリアスな要素と背中合わせで滑稽味や諧謔味が出ますが、滑稽ということはゲラゲラ笑ってしまうような可笑しいことだけを云うのではありません。滑稽とは、どこかしら不似合いである・何かが不釣合いであるという状態のことを言います。「伊勢音頭・油屋」においては、貢は彼が思いもよらない不愉快な状況に置かれています。しかも、それに対して貢は抗うこともできず・ただ弄られるままです。このような状況は貢にとってミスマッチングですから、つまりそれは傍から見れば滑稽なのです。

そのような状況においても、貢は「自分は不愉快なんだぞ・怒っているんだぞ」という感情を露わにせず、まだお愛想笑いを浮かべて・これをいなそうとしています。つまりこれは「私が今ここで見せている態度は、私が本当に感じていることとは違う」ということなのであって、これはまったく上方和事のフォルムなのです。

ですから貢は辛抱立役には違いないのですが、普通の辛抱立役ならば「俺は不愉快でたまらないぞ・もう怒りを堪えることができないぞ」と、刀の柄に手を掛けてワナワナしてみたり、怒りで目を剥いてムズムズした仕草を見せたりするものです。芝居のプロセスとして観客に怒りへの段取りを明確に見せねばなりません。貢の場合には、そこがちょっと違います。貢は自分の感情をオブラートに包んで・はっきり見せようとしません。これがお客様第一主義の御師の性根であり、上方和事のフォルムでもあるのです。もちろん「芯の強さ」は貢が内に持っていなければならないものですが、外に向けて見せるものではないのです。

逆に言えばこういうことが云えるのではないでしょうか。傍から見て怒って当然と思うところで怒らず・なおはっきりしない優柔不断な態度を続けているということは、傍から見れば「どうして怒らへんねん、はっきりせんかい、阿呆ちゃうかい」ということになるのです。そこが折口指摘するところのピントコナの「馬鹿むこ」のイメージに通じるのではないかと吉之助は思うのですね。(この稿つづく)

(H27・6・12)


6)「俺は今猛烈に怒っている」

吉之助は、折口が福岡貢のなかに「馬鹿むこ」のイメージを見たのだとしたら・・・という仮説を立てて、ピントコナを考えてみたいのです。貢は上方和事の役なのですから、やはりその系譜からピントコナの性根を割り出して行かねばなりません。そのためにはまず上方和事の本質が何かを知る必要があります。

上方和事はシリアスな要素と背中合わせで滑稽味や諧謔味が出ます。たとえば「心中天網島・河庄」において兄・孫右衛門に店のなかへ入れと言われて、治兵衛は「イヤだ」と拒否しながら・しかし店のなかの小春のことが気になるという相反した仕草を見せます。治兵衛が兄に面目ないからこの場を逃げたいという気持ちと・小春に会いたいという気持ちが交錯しています。この演技は滑稽味を表出する と同時に、同時にどっちつかずで優柔不断な治兵衛の性格を示しています。そのどちらもが治兵衛の真実の気持ちであり、同時にそのどちらを取っても本当の気持ちでないということになるのです。

どっちつかずで優柔不断、態度がはっきりしない」という要素に於いて、「伊勢音頭」の貢はこれを上方和事の系譜に置くことができると考えます。貢は最後の最後に優柔不断なイメージをかなぐり捨てて猛烈に怒る・本気で怒ります。人を殺めることはもちろん良いことでないにしても、ここで貢は世間体も面子も恥も外聞もかなぐり捨てて、「俺は今猛烈に怒っているんだゾウ」と思いっきり叫んでいます。

殺し場での貢は最初から怒りで切れて刀を振り回すわけではありません。万野に絡まれているうちに・ポーズだけで万野を鞘で叩いたつもりが・その時に運悪く鞘が割れてしまって・知らずに万野を斬ってしまったのです。万野は「貢に斬られた・殺される」と騒ぎ出す。状況からすると貢には周囲に抗弁できる証拠はない。こうなったら万野を殺すしかないと貢は肚を決めるのですが、そうなったのも貢はそこまでの万野の行為(お紺の愛想尽かし・お鹿の件も含む)に腹を据えかねていたからです。ここまで我慢に我慢を重ねて来たのですが、ここで貢は遂にブチ切れます。それからの貢は頭に血が上っていますから、何をしているのか自分でも分からず、もう無茶無茶に刀を振り回します。ここでの貢は確かに自分を主張しています。これは「私が今ここで見せている態度は、私が本当に感じていること」なのです。ついに貢の内面と外面とが一致したということです。「おい貢よ、何で怒らへんねん、はっきりせんかい」とジリジリしていた観客のストレスが、ここで一気に解放されます。

「伊勢音頭」は寛政8年(1796)に伊勢古市で実際に起きた刃傷事件を直後に劇化したものです。本作の江戸での初演は事件から7年後、享和3年(1803)のことでした。この芝居が上方のみならず江戸でもどうして大ヒットしたのかということは、恐らく当時の沈滞した世相を考えてみれば想像ができます。松平定信が行った寛政の改革は天明7年 (1787) 年から寛政5年 (1793) まで行われましたが、景気はすっかり冷え切ってしまって、庶民の反発を買うことになってしまいました。「俺は今猛烈に怒っているんだゾウ」という気分が当時の庶民のなかにあったのです。

吉之助は、折口のポイトコナ語源説が正しいのかはまだ確証がつかめていません。実はそんな難しく考えなくても、ピントコナは「ピンと来ない」で十分かなと思っているくらいなのですが、折口がピントコナを馬鹿むこのような役だと指摘してくれたことは、吉之助にとってはまさに頼りがいのある味方を得た気持ちなのです。

(H27・6・21)



   (TOP)   (戻る)