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上方和事の行方

平成27年4月歌舞伎座:「心中天網島・河庄」

四代目中村鴈治郎(五代目中村翫雀改メ )(紙屋治兵衛)、四代目中村梅玉(粉屋孫右衛門)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(紀伊国屋小春)

(四代目鴈治郎襲名披露)


)上方和事の難しさ

先日(平成27年2月)大阪松竹座での四代目鴈治郎襲名披露公演の「曽根崎心中」(注:ただしこの時の「曽根崎」は襲名披露狂言にあらず)で新・鴈治郎演じる徳兵衛を見て、吉之助は昭和62年4月国立小劇場での「曽根崎心中」のことを思い出したのです。この時の配役は鴈治郎(当時は智太郎)の徳兵衛・扇雀(当時は浩太郎)のお初の兄弟コンビで、鴈治郎は昭和57年12月京都南座で祖父の代役を勤めて以後何度か徳兵衛を演じていましたがまだ回数は浅く、扇雀はこの時が初役だったと思います。実説の徳兵衛は心中時に25歳・お初は21歳(19歳との説もあり)だったと云われていますが、この時の兄弟コンビの年齢に近く、なるほど作品はこのような若い身体を求めていたのかということを改めて思い知らされました。確かに演技はまだまだだったかも知れませんが・ひたむきさが伝わって来て、新鮮な感動を覚えたものでした。

四代目鴈治郎の徳兵衛の熱演を見て、その時のことをふと思い出したのです。鴈治郎が徳兵衛を演じたのはもう30年を超えていて、同世代にひとつの役をこれだけ多く の回数演じた例は他にないはずです。(勘三郎の「鏡獅子」だって遠く及ばない。)そう考えると、この演技ではちと物足りないと吉之助は思うのです。あの時と印象があまり変わっていない。芸は果てしないもので30年演じてまだ分からぬこともあるでしょうが、30年超えて演じ込んできた何か・もう少し練れたものが見えても良いはずです。特に第1場 (生玉神社境内)が物足りない。第2場(天満屋店先)はお初の方にウェイトが掛かるので徳兵衛は意外と為所が少なく、ひたむきさだけで通用しますが。

吉之助は別稿「四代目鴈治郎襲名の封印切」で、「新・鴈治郎の特質はシリアスさ・あるいは真面目さにある、その取っ掛かりになるのは徳兵衛である」ということを書きました。吉之助は上方和事の概念をもう少しシリアスで熱い方向に向けたいと思っています。そう考えた時に今後鴈治郎が名実共に上方役者として行く為には、このレベルの徳兵衛ではちと困るというのが、先日の大阪の「曽根崎」を見た吉之助が感じたところです。ただ「ひたむきな」だけでは駄目なのです。新・鴈治郎の「ひたむきさ」はまっすぐ過ぎます。単純すぎる。これでは今後の展望が開けて来ません。「ひたむきさ」を上方のセンスで表出できねばなりません。(これについては後ほど考えます。)

吉之助は「東京育ちの役者には上方和事は難しい」というようなことを言うつもりはありません。確かに新・鴈治郎にとって大阪で育たなかったのが大きなハンデです。関西弁のことだけ言うのではなく、その地に育たねば身に付かぬものがやはりあります。しかし、そんなことを言っても仕方ありません。二代目鴈治郎も将来の成駒屋(孫)のことを考えて関西を離れないで欲しかったと思いますが(十三代目仁左衛門一家は関西に留まりました)、あの頃(昭和30〜40年代)の上方歌舞伎の状況を考えれば、多分、孫の時代(現代)に関西で歌舞伎をやっていることは想像ができなかったと思います。歌舞伎役者廃業さえ真剣に考えたと思います。現在だって大阪で歌舞伎は確かにやっていますが、上方歌舞伎というものは滅びかかっています。だからこれから上方歌舞伎をやる時には東京の役者の助けを借りねばならぬわけで、それならば新・鴈治郎もハンデなんてことを考える必要はありません。ならばどういう風に上方和事をやるかということを、新・鴈治郎は理屈で構築していかねばなりません。上方歌舞伎の経験豊富と言えない鴈治郎がその取っ掛かりを「曽根崎」の徳兵衛に求めねばならないのは当然のことです。

(H27・4・12)


2)上方和事のフォルムとは

たとえば「封印切」の八右衛門のことで言えば、新・鴈治郎は昨年3月歌舞伎座で(当時は翫雀)で八右衛門を演じましたが、これを本年2月大坂松竹座での仁左衛門演じる八右衛門と比べてみると、仁左衛門の方が台詞の表現の幅がずっと大きいことに気が付くと思います。仁左衛門の八右衛門は台詞の緩急・声の調子(トーン)の高低を大きく取るので、表現のダイナミック・レンジが大きくなるのです。これが忠兵衛と八右衛門との掛け合いの面白さを倍加します。鴈治郎の場合は、せいぜい声の強弱の幅です。だから台詞が良く言えばストレート・悪く言えば単調な印象になります。これを大阪弁の微妙なニュアンスの差だと言ってしまうと、もちろんそれと関係ないことはありませんが、そうなると「東京育ちの役者には上方芸は難しい」ということになって、それで終わりになってしまいます。そうではなくて、これを純粋に上方和事のフォルムの問題であると考えてもらいたいのです。

このことは別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞術を考える」で触れましたが、アジタート(急き立てる)気分の表出パターンにはいろいろあります。元禄時代にはどこかイライラした気分があるのですが、江戸の荒事の台詞は早い二拍子で畳み掛け・急ストップ・大音響で ワッと張り上げるという感じになります。これは竹を割ったようにキッパリした江戸の庶民の荒い気性を反映しています。一方、同じ時代でも上方は 文化的に洗練されていますから、イライラした気分がやんわりした捻じれた形で出ます。上方和事の典型的なリズムは、微妙に早くなったり・遅くなったり・波のようなふわふわした揺れを示すものです。たとえば「河庄」の「魂抜けてとぼとぼ・・」という治兵衛の花道の出は とても緩慢なものですがこのリズムと考えて良い。揺れるリズムは 落ち着かない・何となくイライラした気分を示すものです。また声の調子も音程的に高くなったり・低くなったりして・落ち着くことがありません。ところが、その波が共振して突然気まぐれにカーッと熱くなったりすることがあって、大抵そういう時に事件が起きてしまいます。「封印切」の忠兵衛は八右衛門との言い合いでカッとなって勢いでツイ封印を切ってしまうのです。江戸の荒事と上方の和事は対極の芸と思われていますが、アジタートという観点から見れば元禄という時代の共通した気分を背負っているということです。ですから吉之助は上方和事を揺れるリズムと声の調子の高低のフォルムで考えたいと思います。

そう考えるならば、フォルムとしての江戸と上方の アジタートな気分の表出パターンの違いが分かってさえいれば、江戸和事の応用で上方和事も行けるだろうという目算が立ちます。昨年12月京都南座での「新口村」の梅玉の忠兵衛について、吉之助が「たとえ上方和事と江戸和事の混淆と言われようが・これは上方歌舞伎存続へのヒントだ」と言うのは、そこのところです。

(H27・4・16)


3)大坂人の野性味について

別稿「和事芸の多面性」で触れましたが、和事芸の「やつし」は一般的に例えば「吉田屋」の伊左衛門のようなお金持ちのボンボンが落ちぶれて哀れな様を見せる・その落差が見せ所であるとされています。しかし、それは和事の表層的な見方です。そうではなくて、「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞にこそ伊左衛門の性根がよく出ています。つまり金がなくても、金のことなど全然気にしない。そんなことで自分がどうなるなんてちっともクヨクヨしない。そこに伊左衛門という人物のお育ちの良さ・人物の大きさが自然と出るのです。そこから引き出される和事の本質とは「今の哀れな姿をしている自分は真実の自分ではない」ということです。

現代の和事はもっぱらナヨナヨと弱々しい性格が強められていますから、伊左衛門というとお人良しだけれど ちょっと頭の弱いバカ息子にしか見えないと思います。しかし、伊左衛門は「自分は大店の息子だ」というプライドで以てどんな苦難でも・ヒイヒイ言いながらでも・かろうじて耐えるのです。そこに伊左衛門の芯の強さが出ています。実はこれが和事の本質です。だから和事の芸は本来もっと凛としたものであるはずだと吉之助は思います。

「今の哀れな姿をしている自分は真実の自分ではない」、しかし現実としては現在の・この惨めな状況に甘んじなければならないということは、当然伊左衛門のなかに沸々とした憤(いきどお)り・不本意な気分があるはずで、そのような苛立った気分が上方和事の場合には洗練された緩慢なリズムで現れるということです。

現代の和事はナヨナヨして弱々しいものに見えます。こうなってしまったことについては、それなりの理由があるはずで・そのことに思いを馳せることは大事なことです。しかし、現代の和事は脆弱でもはや現代人にはアピールするだけのエネルギーを持ってはおらぬと思います。ご当地の大阪人からももはや見放されています。今や上方歌舞伎が絶滅の危機に瀕しているのも無理からぬと思います。しかし、それは初代藤十郎の和事を表層的に捉えて来たからそうなってしまったのであって、藤十郎の和事が悪いということではありません。もう一度藤十郎の和事を凛とした強さで作り直せば再生のチャンスはある はずです。折口信夫が「大阪人の野性味」ということを言っているので、そこを取っ掛かりに考えてみます。

『三代住めば江戸っ子だ、という東京、家元制度の今尚厳重に行われている東京、趣味の洗練を誇る、すい(粋)の東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、固定した家は、同時に滅亡して、新来の田舎者が、新しく家を興す為に、恒に新興の気分を持っている大阪、その為に、野性を帯びた都会生活、洗練せられざる趣味を持ち続けている大阪とを較べて見れば、非常に口幅ったい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、都会文芸を作り上げる可能性を多く持っているかも知れません。西鶴や近松の作物に出て来る遊治郎の上にも、この野性は見られるので、漫然と上方を粋な地だという風に考えている文学者たちは、元禄二文人を正しゅう理解しているものとは言われません。その後段々出てきた両都の文人を比べても、この差別は著しいのです。このところに目を付けない江戸期文学史などは、幾ら出てもだめなのです。江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ(野暮)過ぎるようです。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

折口信夫文芸論集 (講談社文芸文庫)

実はこの折口の文章は短歌論でして、力の芸術を標榜する田舎生まれの斎藤茂吉に対して、都会(大阪)生まれの折口がやんわりと反論する形になっています。折口はこのようにも言っています。

『真淵の「ますらおぶり」も、力の芸術という言うのでなく、単に男性的という事を対象にしているのではなかろうか、と思います。田舎人ばかりが、力の芸術に与ることが出来て、都会人は出来ない相談だとまで、わたしは悲観して居ません。曲がりくねった道に苦しみ抜いて、力の芸術に達した都会人も、「ますらおぶり」の運動に与ることは出来るのです。あなたも、この点は否定せられまいと思います。さすれば都会人が、複雑な、あくどい、なまなましい対象を掴んでくることも、その表現の如何によっては否認はなされぬでしょう。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

「大阪人の野性味」ということをみなさんあまり考えないと思いますが、関西生まれでも・東京の生活が長くてもはや関西人と言えない吉之助ですが、折口の言いたいことが 吉之助には何となく分かります。生きることのバイタリティ・しぶとさということならば、大阪人はなかなかのものがあるはずです。このような野性味・力強さが、近松の世話物の主人公、伊左衛門にも・徳兵衛にも・忠兵衛にも共通して流れていると考えることは、とても大事なことなのです。

(H27・4・19)


4)上方和事の諧謔味

和事芸のもうひとつの特徴は、シリアスな要素と背中合わせで滑稽な三枚目的要素が出ることです。これについては別稿「和事芸の起源」で触れましたが、演劇とは「人生の真実を誣いる」芸能ですから、哀れを表現しなければならないシリアスな役どころにこそ、誣いることの申し訳として滑稽味や諧謔味が必要になるわけです。

このことは「今の哀れな姿をしている自分は真実の自分ではない」という和事の本質と深く係ります。フッと漏らした真実の言葉を、笑いに紛らせて「今言うたのはみな嘘じゃ」と言ってしまったりします。かと思うと今まで冗談を言って笑っていたのが、急に泣き出したり・怒り出したりします。彼はどれが真実の自分であるか・自分が本当に何をしたいのか・自分でも分からなくなっています。「帰るか居るか・・イヤイヤ去のう」と言いかけて「やっぱり居よう」と戻ってみたり、行動は一定せず・明確な形を取ることがなく・絶えず揺れ動きます。

上方和事の台詞のリズムは、微妙に早くなったり・遅くなったり・波のようなふわふわした揺れであることは先に述べました。また台詞の緩急・声の調子(トーン)の高低を大きく取ります。このような表現の幅の大きさ も、また「今の自分は真実の自分ではない」という和事の本質に係るものです。

ですから「新・鴈治郎の和事芸への取っ掛かりはそのシリアスさ・真面目さにある」と書きましたが、もちろんこれが取っ掛かりなのですが、シリアスさだけでは駄目なのです。「今の自分は真実の自分ではない」という熱さだけでは、表現が一本調子になってしまって、演技に幅が出ません。これでは上方和事のフォルムになりません。それでは江戸和事とあまり変わらないことになってしまいます。新・鴈治郎の長所であるシリアスさをベースにして、どのように演技に幅を出すかなのです。やり方に定型があるわけではありません。工夫次第、そこに役者の持ち味が出てくるのです。上方味というものは、結局、そういうところから出るものなのです。 大阪弁がしゃべれる・しゃべれへんということではないのです。

(H27・4・22)


5)現行「河庄」の型っぽさ

上方の芸の伝承の在り方というものは、江戸とは違ったもので、芸は自分で工夫して作れ・そっくり真似したら駄目だというものでした。だから初代鴈治郎は息子(二代目)に芸を教えることを決してしませんでした。二代目鴈治郎の芸談によれば、花道を歩く父(初代)の足音を聞きながら・奈落で父に合わせて歩く、父が止まれば自分も止まる、そうやって「河庄」の治兵衛の出の息を学んだということだそうです。このエピソードは芸への憧れを感じさせます。しかし、同時にそれは型化・つまり定型化の一歩手前で、初代がそれを知ったら多分怒ったことでしょう。とは言え、おかげで現行の「河庄」は初代の雰囲気を残した形で我々はそれを目にすることができるわけです。

「河庄」については有難いことに数分の断片ですが初代の治兵衛の映像(大正十四年中座)が残っています。現行の「河庄」であると羽織を持った治兵衛と孫右衛門・小春の三人が引っ張りで決まった形で幕切れになりますが、この映像では初代の治兵衛は羽織を頭からかぶって床に突っ伏してしまって幕になります。後年この映像を見た二代目は衝撃を受けて「これは自分にはとてもできない」と唸ったそうです。初代は やる度に細かいところの段取りを変えて演じたようです。それはどちらが良いとか・正しいということではなく、定型マンネリに陥らないことを旨とするのが上方の芸でした。初代はその後も「河庄」の段取りをいろいろ試したはずです。

それにしても今月(4月)歌舞伎座の四代目鴈治郎襲名の「河庄」を見ると、特に幕切れが型っぽい感じがしますねえ。吉之助がこれまで見た「河庄」(つまり二代目鴈治郎の治兵衛、或いは現・藤十郎の治兵衛による舞台)と比べてもずいぶん型臭い印象が強いように思われます。まあこれは仕方ないところもありますが、この印象は役者の動作の角々が三味線のリズムに当っていることから来るのでしょう。もちろんこれは四代目鴈治郎だけに責任があるわけではありません。この型っぽい幕切れは「まあ確かに河庄は義太夫狂言かも知れないけどねえ・・」と言いたくなるような違和感がちょっとしますねえ。時代物の幕切れでは封建主義の重い論理のなかで主人公が引き裂かれ竹本の三味線のリズムが観る者に強く突き刺さりますが、何だかそれと同じような印象がします。しかし、これが「鮓屋」か「六段目」のような幕切れになって良いのでしょうか。「河庄」は元は人形浄瑠璃であったとしても、写実を旨とする同時代劇の世話狂言なのです。

確かに「河庄」においても義理や柵(しがらみ)というものが登場人物たちを縛っています。幕切れの三味線のリズムが表現するものは、そういうものです。時代物ではそれは外部(他者)から強い力で主人公を締め付けます。(必ずしもそうばかりではないけれど、時代物ではそう考えても解釈の根本をそう大きく外すわけではない。) 一方、世話物ではその力はもっと緩慢な弱いものであり、しかもその力はむしろ内側(自分自身)から湧き上がって来るものと考えた方が良いのです。近松の世話物においては役者は木偶(人形)になってはなりません。初代の治兵衛は幕切れがマンネリにならないように始終工夫を凝らしたと思いますが、意図はそのような重い印象を打破するところにあったのかも知れませんね。ですから「河庄」の幕切れは三味線のリズムに乗せて締めるのではなく、意識的に三味線を外す方向で工夫をお願いたいのです。

(H27・4・25)


6)現行「河庄」の型っぽさ・続き

「河庄」が「鮓屋」か「六段目」のような時代物(正確には時代物の世話場)のような重い印象の幕切れになってはならないということを考えます。ひとつには、「河庄」は純然たる世話物であるからです。そもそも際物、つまり同時代劇だからです。もうひとつは「河庄」は人形浄瑠璃オリジンですが、近松の時代の人形浄瑠璃とその後のそれとは作劇術においても倫理感覚においても微妙に違うということです。ただし歌舞伎の「河庄」は後の改作「心中紙屋治兵衛」を基にした歌舞伎化ですが、その場合でも当然近松のフォルムは意識せねばなりません。

「河庄」の粗筋としては、遊女小春は紙屋治兵衛と深い仲となり心中の約束をしていたが、小春の心変わりを知って治兵衛は激昂する、しかし、それは実は小春の本心からのものではなかった、それは治兵衛女房おさんからの手紙を受けてのものであったということです。治兵衛登場の詞章に「せかれて逢はれぬ身となり果てあはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文の言ひ交はし、毎夜々々の死覚悟。魂抜けてとぼとぼうかうかうか身をこがす」とあります。小春は親方から治兵衛と逢うことを禁じられており、今度逢えたら死のうと手紙で言い交し、このところ毎夜治兵衛 はこれが最後と小春の姿を求めて夜の街をフラフラしているということです。それならば治兵衛と小春は逢えばふたりは直ぐ心中に走る死への衝動が渦巻く、「河庄」とはそのような場なのでありましょうか。もしそうならば「河庄」の幕切れは時代物のように重い印象になっても良いと思います。しかし、吉之助にはどうもそのように思えないのですねえ。

和事の本質として「今の自分は真実の自分ではない」ということがあると先に述べました。フッと漏らした真実の言葉を笑いに紛らせて「今言うたのはみな嘘じゃ」と言ってしまったり、今まで冗談を言って笑っていたのが急に泣き出したり・怒り出したりするということがあります。感情が一定せず・不安定でいつも揺れているということです。どちらも真実でないけれど、その時の気分においてどちらも真実であると言えるのです。言い換えれば、個人と世間・義理と人情の狭間で常に揺れている、そのなかで自分がどう在りたいか明確に分かっていない、いつも迷っているということです。

ところでおさんから手紙を貰うまで、小春は治兵衛に妻子がいることを知らなかったのでしょうか。そんなことはないでしょう。知っていて治兵衛と深い仲となり心中を誓い合うまでになったと思います。それならば小春はどうして、おさんに対し「身にも命にもかへぬ大事の殿なれど。引かれぬ義理合。思い切る」と返事したのでしょうか。これについては別稿「女同士の義理立たぬ」で触れたのでそちらをお読みいただくとして、ここで もうひとつ大事なことは、おさんから手紙を貰った時点で、小春はそれまでと全然違った形で死というものに初めてリアルに対したに違いないということです。そのような死に対する畏れが、侍客(実は兄孫右衛門)に対する「アノお侍さん。同じ死ぬる道にも、十夜のうちに死んだ者は仏になるといひますが定かいなア」、あるいは「自害すると首くくるとは定めしこの咽を切るはうが、たんと痛いでござんせうな」という独り言のような台詞に現われます。

しかし、これは小春が「治兵衛さん死ぬなら私も死にます」と誓い合ったのが心中ごっこだったと吉之助が言っているのではありません。治兵衛と小春が愛し合っていることは確かだと思います。治兵衛が「生きているのが辛い、死にたい」と言い、小春が「治兵衛さん死ぬなら私も死にます」と言って起請文を書いた気持ちに疑いはないでしょう。しかし、「生きているのが辛い、生きともない、死にたい」という気持ちがそのまま即心中と云う行為につながるわけではないのです。「二人して死にたい」と思うことと、本当に心中を決行するのとは全然別だということです。本当に死ななかったとしても、二人が愛し合い死を誓い合ったことが嘘だったとは限りません。

おさんから手紙を貰った時点で、いよいよ事態は切羽詰まってきたと感じて、小春は初めて 自分が「死ぬこと」を強く意識したのです。そうなって初めて小春は真(まこと)の人間としてどう振る舞うべきか・つまり「生きる」という問題と対峙することになります。それは愛する治兵衛のことであり、実家に残した母親のことであり、あるいは(会ったこともない)おさんのこともあったりします。その思いが侍客に対する小春の述懐のなかに吐露されています。「私とても命は一つ水臭い女と思召すも、恥かしながら、その恥を捨てても死にともないが第一」は 侍客への偽りの告白であったでしょうか。吉之助はそのようには決して思いません。「治兵衛さん死ぬなら私も死にます」も真実であり、「恥を捨てても死にともない」も小春の真実なのです。ふたつの感情に小春は引き裂かれ、沈滞して行きます。

ですから吉之助が「河庄」の幕切れに見るものは「生きていることの辛さ、死にたくても生きなくてはならないことの辛さ」であって、死ではありません。近松は現世の作家です。このことは忘れてはならないことです。近松は「生きているのが辛い、生きともない、死にたい」と思うところにドラマ性を見ているのであって、芝居のなかで本当に死ぬ方向性が一旦決まってしまえば、近松はもうそこにドラマを見ることはありません。それはドラマではなく、詩になってしまうのです。道行の詞章を読めばこのことは明らかです。

(H27・4・30)


7)「今の自分は真実の自分ではない」ということ

和事の本質とは「今の自分は真実の自分ではない」ということです。彼は絶えず反対の感情へ揺れています。彼が「生きたい」と言う時には彼は死に惹かれており、彼が「死にたい」と言う時には彼は生に惹かれています。上方和事ではシリアスな感情は滑稽と裏腹の形で表現されます。たとえば治兵衛が「(小春を)思い切ったる証拠、これ見よ」と言って二十九枚の起請文を差し出しますが、この場面で当時の大阪の観客は笑ったと思います。近松はこの場面を滑稽な場面として書いているのです。起請文というのは、契約を交わす際・それを破らないことを神仏に誓う誓紙で、江戸の遊郭では男女の間の愛情が変わらないことを互いに誓って起請文を交わすのが流行りました。熊野誓紙は熊野の牛王宝印に書いた起請文で、約束を破ると熊野の神の遣いである鳥(からす)が三羽死に、破った者は地獄に堕ちると信じられていました。そのような誓紙は一枚書けばもう十分なのです。起請が二十九枚あるからといって、愛が二十九倍強くなるわけではありません。傍から見れば、これは治兵衛と小春が「わてのこと好きか、そんなら起請お書き」と 云うじゃれあいを二年半近くやっていたと見られても仕方ないことです。

絶えず反対方向の感情に惹かれるという上方和事の本質からすれば、治兵衛が「生きているのが辛い、死にたい」と言って嘆き・「治兵衛さんに死ぬなら、私もに死にます」と小春が泣く場面があったとしても、その後には「これが最後だから楽しく騒ぎまひょ」となって、死に憧れながら生に対する未練たっぷりということになるのです。そうやって治兵衛と小春はここまでずるずる来たと思います。けれども、それは治兵衛と小春が愛に対して不真面目だったということにはな らないでしょう。生き方が刹那的であったということでもありません。そこに愛の本質があるのです。(別稿「音楽的な歌舞伎の見方〜古典的な感覚」を参照のこと。)

「河庄」の治兵衛の出の詞章に『逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文の言ひ交はし、毎夜々々の死覚悟』とあります。治兵衛は毎晩死ぬ覚悟で小春の姿を求めて夜の街をフラフラしていたわけですが、仮にその晩に・おさんからの手紙がなく・侍客の来訪がなかったとすれば、治兵衛と小春はその晩心中を決行したでしょうか。吉之助にはどうもそのように思えませんねえ。二人はやっぱり死なずにずるずる生き続けたのではないでしょうか。少なくとも・もし治兵衛と小春がその晩心中を決行していたとすれば、近松はこれを浄瑠璃にしなかったと思います。ふたりの死を甘美なものにするものがここにはまだ何か欠けています。(吉之助はこれを「・・と(und)」と呼んでいますが、これについては別稿「近松心中論」をご覧ください。) 彼らが心中するために手続きとしてどうしても「中の巻(紙屋内の場)」が必要になります。

侍客が兄孫衛門だと分かって治兵衛は逃げようとして(店の内へ)「入れ」・「いやだ」とじゃれ合いのようなやり取りが続きます。この箇所は近松の原作にはない歌舞伎の入れ事ですが、ここは治兵衛の面目なくて兄の元から逃げたいという気持ちと、ここまで来たならば小春に是非ひとめ会いたいという気持ちが交錯する場面だと考えられます。もちろん「会いたい」といっても・ここでの治兵衛は小春を 蹴飛ばしてやりたい気分でしょうから・完全にぴったりは来ぬわけですが、そこに小春に対する強い思いが曲げた形で婉曲に出ていると考えれば良いのです。こういうところを滑稽な場面として処理するのが上方和事のフォルムです。だから「いやだ」と言いながら、実は内にいる小春が気になって仕方ないという態度を見せて、シリアスな感情を決して真面目に描かない、「いなす」・あるいは茶化して見せる、これが上方和事なのです。滑稽というのは、笑ってしまうような変なことだけを言うのではありません。古典的なものにおける滑稽とは、どこかしら不似合いである・何かが不釣合いであるという状態のことを言います。治兵衛自身が予期しない・ 不本意な・彼にとって相応しくない状況に置かれてしまったこと、それが滑稽に通じるのです。そのことが治兵衛の行動を滑稽なものにしています。

(H27・5・5)


8)「河庄」ではまだドラマは完結していない

実は「河庄」の場においては、治兵衛はドラマの枠外の存在です。この場のドラマの核心は小春が治兵衛を愛していても・或る事情(おさんへの手紙)によって小春は辛くても生きねばならないというところにあります。兄孫右衛門は最後に手紙の存在を知り、事情を察します。治兵衛だけが事情が分からないまま勝手に怒って騒いでいます。だから治兵衛がどんなにシリアスに怒ろうが、その言動はドラマの本筋からはずれており、だから「河庄」での治兵衛の役割自体が滑稽なものとならざるを得ません。これが上方和事のフォルムの基となっているのです。

ところで大事なことは、この「河庄」の場で小春と・手紙の主であるおさんが共に守ろうとしている物は何かということです。その物の為に「河庄」では小春が身を引こうとし、「紙屋内」ではおさんがやはり身を引こうとします。それが守られれば、私が「立つ」と云うのです。当時の人びとにとって、私(わたしく)が立つ・一分(いちぶん)が立つということは、或る意味で自分の命よりも大切なことでした。幕切れ近くで兄孫右衛門はおさんの手紙の存在を知りますが、この箇所は近松の原作と歌舞伎では段取りが若干違うので、原作を引きますと、

『(孫右衛門は文を)読みも果てず、さらぬ顔にて懐中し、「これ小春、最前は侍冥利、今は粉屋の孫右衛門、商い冥利、女房限ってこの文見せず、我一人披見して起請とともに火に入るる、誓文に違いはない」、(小春は)「アアかたじけない。それで私が立ちます」』

とあります。ここで孫右衛門は「今は粉屋の孫右衛門、商い冥利」と言うところを見れば、それが明らかです。小春と・おさんが共に守ろうとしているものは、「大阪商人である紙屋治兵衛」というアイデンティティ だということです。だから孫右衛門は感じ入るのです。大坂商人にとって、自分が大坂商人であるということはそれほどまでに重く自らを縛るプライドであり・意気地です。「曽根崎心中」でも「冥途の飛脚」でも、結局、それがドラマの倫理的主題です。

治兵衛というのは、どうやら商才のない頼りない男のようです。恐らく本人自身が大坂商人不適格だと思っているでしょう(多分、それが治兵衛が浮気して小春にのめり込む遠因です)が、おさんと小春が一緒になって「大阪商人である紙屋治兵衛」というアイデンティティを守ろうとしているのです。なぜならばおさんと小春も治兵衛を愛しており、治兵衛が大坂商人として「立つ」ならば、「この男を愛した私」という「・・と(und)」の関係によって私も「立つ」、これがおさんと小春の女の論理であって、その論理のうえで二人は対等であるということになるのです。(本稿では深入りしませんが、このことは大坂商人にとってのお金の問題も深く関連します。別稿「金がなければコレなんのいの〜歌舞伎におけるお金を考える」をご参照ください。)

前節で「河庄ではふたりの死を甘美なものにするものがまだ何か欠けている」と書いたのは、まさにそこのところです。「曽根崎心中」でお初が「そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」と叫ぶのと同じもの (大義)が必要になります。治兵衛と小春が心中するために「大阪商人である紙屋治兵衛」というアイデンティティを守るのだと云う大義がまだ明らかにされていない「河庄」では、二人はまだ死ねないのです。そのことを明らかにし、彼らに大義を授けるのが「中の巻(紙屋内の場)」の役割です。「河庄」では、まだドラマの方向性は決していません。だから「河庄」の幕切れが、「鮓屋」か「六段目」の如く、死の印象が全体を覆う重い幕切れとなってはならないのです。確かに観客は彼らが最後に心中する結末を承知しています(この作品は際物、つまりモデルがあるわけですから)が、死の印象は曲げて婉曲に提示されなければなりません。なぜならば「河庄」は上方和事の世話物浄瑠璃であるからです。

(H27・5・10)


9)四代目鴈治郎の治兵衛

今月(4月)歌舞伎座の四代目鴈治郎襲名の「河庄」のことに話を戻しますと、新・鴈治郎の和事芸への取っ掛かりがそのシリアスさ・真面目さにあるということは確かです。別稿「和事芸の多面性で触れた通り、吉之助は、現在の上方和事は現実にはもっぱら哀れとかナヨナヨとした弱い印象によって表層的に捉えられ来たものだと考えており、これをもっと凛とした本来の方向へ引き戻すために、上方和事にシリアスさを注入せねばならないと考えています。新・鴈治郎にとって大阪で育たなかったのは大きなハンデですが、それならばどのように上方和事をやるかということを新・鴈治郎なりの理屈で、感性ではなく理屈で構築してハンデを取り返していかねばなりません。そのために上方和事とはどのようなフォルムかということをしっかり理解してもらいたいのです。そのうえで新・鴈治郎の個性であるシリアスさをベースに、表現に変化と幅をどのように持たせるかなのです。上方の細かなニュアンスが出せる・出せへんということではなく、純粋に上方和事のフォルム・技巧の問題として捉えて欲しいと思います。

本稿で述べた通り、上方和事の技巧とは「揺れる」というところにあります。台詞・動作のある箇所をグッと伸ばして・急に引いて収める(あるいはその逆)という「テンポ・ルバート」の技巧です。これは押したらサッと引いて戻す・引いたらサッと押して戻すという世話の活け殺しの手法です。またテンポだけではなく、声の高低・テンションの高低を大きく付けて、表現全体の幅とリズム感を付けることです。これがなければ上方芸にはなりません。そこは役者の工夫に掛かっており ・定型というものがありませんから、一見すると瞬間芸・役者の味でするもののように見えるかも知れませんが、実はそれは芝居全体の流れと役の正しい理解によって綿密に設計されているのです。これが初代鴈治郎や二代目延若の上方芸です。新・鴈治郎は、そのような上方芸の系譜を正しく理解して、そのなかで自分の芸の進むべき道を考えてもらいたいと思います。

そのために新・鴈治郎の良さであるシリアスな熱さが大事な取っ掛かりになるのには違いないですが、それだけではまだ足りないのです。今回の「河庄」でも新・鴈治郎の一生懸命さは確かに伝わってきます。治兵衛は小春と愛し合っている、そのうち二人で死のうと思っているという気持ちのシリアスさはよく伝わってきます。しかし、本文に「逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と」とあるから治兵衛は死覚悟・心中にまっしぐらだと単純に決めてかかってしまうと、「河庄」の印象は全然違ってしまいます。それだけでは上方和事にはならないのです。それだけでは近松になりません。もちろん治兵衛は死ぬ覚悟には違いないですが、その気持ちを真っ直ぐに出さずに曲げて出す。滑稽に紛らせる。まずこのことを上方和事の理論として理解することです。そうするとシリアスな場面においてはこれを滑稽の方へ紛らせる、滑稽な場面においてはこれをちょっとシリアスな方向に返す、そう考えることで自分の持ち味であるシリアスさをベースにして・余裕を以て演技を構築することができるようになります。これができれば「河庄」を必ず上方和事に・近松のフォルムにできるはずです。新・鴈治郎は吉之助と同世代でもあるし、大阪のガンジロはんとして頑張ってもらいたいと思います。

(H27・5・16)



 

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