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十二代目団十郎に捧ぐ「助六」

平成25年6月歌舞伎座:「助六由縁江戸桜」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(助六)、九代目中村福助(揚巻)

(第5期歌舞伎座柿葺落興行、3月目)


1)出端の哀しみ

平成22年11月、曽我五郎は名刀友切丸の詮議の為、西麻布近辺を潜伏捜査中、喧嘩ふっかけた相手に逆に鼻の穴に屋形船を蹴り込まれたとか。真相は知らないし、興味もないです。週刊誌が詳しいでしょう。事件から2年半が経過したことになります。本公演は本来、歌舞伎座柿葺落興行・この3ヶ月締めくくりとして十二代目団十郎が助六を演じる予定であったものですが、本年2月に団十郎が突然亡くなった(長い闘病生活の末だったとは云え、昨年12月まで舞台に立っていたのだから、ホントに思いがけない死であった)ので、急遽長男の海老蔵が演じることになったものです。

ところで、あの事件の直後に吉之助は「
当分の間助六は止め狂言にしてもらいたい」とブログに書いた記憶があります。
あれから2年半で禊ぎが済んだかどうか分からない 。正直、海老蔵に「助六」はまだ早いという気持ちが吉之助にないわけではない。しかし、団十郎急逝ということならば、代わりが勤まるのは海老蔵しかいない。それは誰にとっても明らかなことなのです。それならば「助六」の舞台で海老蔵の覚悟、変わったというところを見せていただきましょうか。今回、吉之助が海老蔵の「助六」を見に行ったということは、そういうことです。

海老蔵が「助六」を初役で演じたのは平成12年1月新橋演舞場のことでしたが、これは確かにひとつの「事件」でした。特に出端は目が覚めるようでした。吉之助も映像でしか知らない十一代目団十郎がそこに立っている気がしたこともあります(台詞の切れはまだまだでしたが)けれど、何より衝撃であったのは、もっと古(いにしえ)の元禄の荒事の気分が蘇って来たことでした。吉之助も、「これで歌舞伎の寿命は30年は伸びた」と思ったものです。しかし、例の事件で吉之助が鼻白んだのは、「あの助六は芸じゃなくって、地だったのだねえ」ということでした。吉之助の場合は、感激が大きかった分、幻滅が大きかったのです。

助六が煙管を足の指に挟んで「吸いつけ煙草だ、一服呑みやれさア」と言って意休に突きつけたり、出会った輩に「股をくぐれ」と強制する行為は、灰皿にテキーラをなみなみと注ぎ「お前、これを飲め」と 嫌がる相手に強いるのと、まったく同次元の行為なのです。江戸の吉原のかぶき者は、今で言えば麻布六本木のあんちゃんです。それはその通りかも知れないが、しかし、江戸の吉原の助六は三百年経過してたんぱく質は熟成して良い味の干物になっているのです。そこに生ものを出して来て、これは干物と同じだと主張されても、それは認められない。「役者は少々破天荒なところがないと芸の魅力が失われてしまう」というような擁護論を言う人がいますが、舞台で六本木のあんちゃんの振る舞いを見せられちゃあ、たまりません。海老蔵のギラギラは市川宗家の御曹司としての伝統の重圧から来るものだということはお察しはします。それは余人に計り知れない重さでしょう。あの事件もそういうものが遠因にあるのでしょう。しかし、そのギラギラはもう制御されねばなりません。

今回(平成25年6月歌舞伎座)の海老蔵の「助六」は、かつての・これが海老蔵の魅力であると思っていたところの、あのギラギラした感じがあまりしなくなったようです。これは良いことです。海老蔵が、「吸いつけ煙草だ、一服呑みやれさア」を地で行けなくなったとすれば、これは良いことです。また観る側(吉之助)も、これをかつてと同じ気持ちで観ることはもはや出来ません。それと、姿が祖父に似ていることは確かですが、今回は海老蔵のなかにどこか父(十二代目団十郎)の面影が重なる気がしたことでした。これは観る側の思い入れもあるし、海老蔵にもその気持ちがあることでしょう。どこか助六に十二代目の茫洋とした大らかさが加わってきたようである。このことも良しとしたい。

もうひとつは、「助六」の出端のことです。折口信夫は、「助六」は煎じ詰めれば花道の出端だけの芝居ですと言いました。出端に「助六」の魅力が凝縮されているということです。九代目団十郎は、「助六は花道へ出てポンと傘を開いたとき、俺は日本一の色男だと思う自信がなければ出来ない役だ」と言いました。このことはとても大事なことです。しかし、河東節の歌詞を見るとこれは威勢の良いかぶき者のイメージと違って、なかなか哀愁に満ちたものです。

『思ひ出見世やすががきの音締めのばちに招かれてそれと言はねど かおよ鳥 間夫の名取りの草の花 思ひ初めたる五つ所 紋日待つ日のよすがさへ こどもが便り待合いの 辻うら茶屋に濡れてぬる雨の箕輪の冴えかえる』

助六という役はもともと上方が発祥で、京都に住む助六と島原の遊女揚巻が心中した話を芝居としたもので、それが江戸に入ってかぶき者の主人公に変わったものでした。その変遷過程は入り組んで容易に解き明かせるものでないですが、歌詞を見ればそこに上方発祥の助六の哀愁が重なって来ます。これは「俺は日本一の色男だ」という意気だけでは決して出せないものです。海老蔵の「助六」の出端には、哀しみが見えました。吉之助は、これにはちょっと驚きました。ギラギラが消えて、淡々としたところに助六の哀しみがしっとりと浮かび上がって来ました。恐らくこれが今回の十二代目団十郎に捧ぐ「助六」の意義ということになるでしょう。そこから海老蔵の本当の芸の構築が始まることでしょう。

2)発声の課題

海老蔵の台詞、正確に言えば発声と云うことですが、この点について触れておきます。海老蔵の台詞廻しは、平成16年6月歌舞伎座(海老蔵襲名披露)の「助六」でもメリハリに欠けるところがあり・これからに向けての課題は多かった のですが、今回の「助六」での海老蔵は、台詞にも大らかさを出そうと心掛けていることが伺われ、そのことは悪くないです。しかし、全体として声が出ていない。本人は声を張り上げているつもりだろうが、身体が共鳴していない。だから、思ったほど声が客席に通らない。ところが、何かの拍子に、喉が開いて、大声が出る時があったりする。声が出たり・出なかったりの繰り返しで、「これは一体どうしたんんだ?」というような危なっかしい台詞回しでしたね。これは第2部の「対面」の五郎も同様でした。

海老蔵は自分の声の正しい置き方(正しい喉の遣い方)を見失っているようです。もともと海老蔵は自分の声の正しい出し方がまだ出来ていないと吉之助は思っていますが、これは吉之助の推測ですが、海老蔵は前月(5月)京都南座で「伊達の十役」を勤めましたが、今回はこれが特に良くない作用をしたと思います。吉之助は京都の上演を見ていませんが、平成22年1月新橋演舞場の上演は見ましたから、その時を思い出ながら分析しますと、海老蔵は十の役柄を十色の声を出して演じ分けようとしていました。だから自分の喉の置き方が分からなくなってしまって、この状態のまま今月の歌舞伎座の「助六」に突入してしまった。吉之助にはそのようにお察しをしました。

名優というのは、誰でも確固とした「自分の声」を持っているものです。何をやっても六代目、何をやっても橘屋、それで良いのです。ところが歌舞伎役者の多くが、役を構築する時に声色を作って安直に役に対応しようとすることが少なくありません。「伊達の十役」のような芝居は、「何をやってもそこらかしこに海老蔵がいる」となって良い ものです。ひとりの役者の、多面体的な十の要素を見せる芝居だからです。役は声色ではなく、口調において仕分けるべきです。ところが海老蔵は十の役を演じ分けるということは、十の声色を使い分けることだと思い込んでいるようです。そうやって政岡やら男之助やら仁木やら演じて奮闘しているうちに、自分本来の声の置き方が分から なくなってしまったのです。(さすがに二代目猿翁はそんなことはありませんでした。これは早替芝居をやる時の鉄則と云うべきですね。) まずはどういう声(トーン)を基調に置くかです。

「伊達の十役」を思い出せば、冒頭の口上での海老蔵は声が通っていませんでした。これはホントはおかしなことです。役を演じていない・つまり演技の付加が掛かっていない素の状態においては、本来、 最も自然な状態での発声・最も声の通りの良い発声が出来なければならないはずです。ところが海老蔵が力を入れて 大声を出そうとしている割りに、口上の声が客席に通らない。それは身体全体を共鳴装置に出来ていないからです。つまり正しい喉の遣い方が出来ていない、喉が開いていないということです。ということは、口上の時の声(トーン)は役者海老蔵本来取るべき声ではないということです。ところが「助六」で海老蔵が基調に取っている声が、まさにこのトーンなのですね。だから海老蔵は「助六」で基調に置く声を間違えているということです。(注釈つけますと、舞台で役者が本来取るべき基調の声というのは、地声(日常生活で使う声)とはまったく別のものです。)

「伊達の十役」を観れば、海老蔵の声が客席によく通って聞きやすい役は、間違いなく与右衛門です。海老蔵は与右衛門の時には、喉が開いた形になっています。無理しなくても身体全体が共鳴するから、声がよく通 ります。それがその役者の、喉に負担が掛からない、自然な声なのです。だから、今なら海老蔵は、「助六」は与右衛門の声でやった方が良いのです。海老蔵はすべての役のトーンを与右衛門の声で、これを基調に自分の声にして固めて行くべきです。ここから台詞の言葉遣いに応じた喉の置き方を訓練していけば良いのです。

海老蔵が心配するとすれば、恐らくそれは、与右衛門の細く高めの声は優男系のイメージには合うけれども、荒事系には似合わぬのではないかということかと思います。そのような心配は無用です。そのような要らぬ心配をするのも、荒事には太い低めの声が似合うという思い込みがあるせいです。世間に二代目松緑の印象が世間に強く残っているのです。海老蔵の口上の声も低いわけではないが、与右衛門の声よりは低い。それで海老蔵はそちらの声を取るのでしょう。しかし、市川家の荒事の台詞というのは本来高調子なものであって、大事なのはその台詞のリズムです。細い声でも台詞の言葉の抑揚をよく研究して、喉の置き方を研究していけば良いことです。それでちゃんと荒事の発声になるはずです。 野太い声で大音響でやるのが荒事だなんて思っちゃいけません。(詳細は別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)

海老蔵は、確固とした「正しい自分の声」を持つべきです。そのために自分の喉の置き方、客席に自分の声を無理なく通すための喉の開き方を、会得することです。そのうえで台詞の言葉のイントネーションを研究して、台詞に自分の声をどのように乗せて行くかを研究することです。このまま自己流で大声出そうとしていると、そのうち喉を壊しますよ。そのために早急に良いボイストレーナーに付くことをお薦めします。

明治40年、欧米視察旅行から帰ったばかりの二代目左団次が小山内薫との対談で、英国での俳優学校での体験を次のように語っています。

「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。」
(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」より)

あれから百年経ったけれども、歌舞伎役者の発声訓練は未だ進歩していないということです。折口信夫も、「これだけは恐らく、歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。」(「花の前花のあと」・昭和26年)と書いています。歌舞伎でも、もうそろそろ正しい発声法が確立されるべきですね。

ところで自分の喉の遣い方が分かっていない点は、揚巻の福助も同様です。意休に対する悪態の初音など、感情を高ぶらせてキイキイと金切り声で、とても聞き苦しい。台詞の 抑揚に乗せた喉の正しい遣い方をしていれば、あんな声は出ないはずです。六代目歌右衛門の映像をよく見ることです。歌右衛門も声は通るとは云えませんでしたが、揚巻では感情の起伏を見せませんでした。これでこそ吉原一の太夫の品格が出るのです。福助は「こちらは意地の悪そうな・・」ではわざとらしく低く声色を使 って、悪態を言い終えて意休の方へ顔をゆがめて笑うのも、下司な感じで嫌ですねえ。こういう小手先芸をどこで覚えてきたのだろうねえ。歌右衛門は左はせぬものなり。全体としては悪くない揚巻なだけに、残念なことです。

(H25・6・22)


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