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歌舞伎の雑談6(平成16年7月ー12月)


○白浪物の革命性・そして無力感

(お嬢)「浮き世の人の口の端に」(和尚)「かくいふ者があつたかと」(お坊)「死んだ後まで悪名は」(お嬢)「庚申の夜の語り種」(和尚)「思へばはかねへ」(三人)「身の上じゃなあ」

黙阿弥の「三人吉三廓初買」(安政7年1月市村座初演)のなかの割り台詞です。ところで、この台詞について「自分たちが悪党であることを世間に誇る気持ちが感じられる ・自分たちの所業を世間に知らせたいと思っているのである」と書いてある評論(名前はあえて伏す)を読みました。そういう風に読む方もいるんだなあと思いました。語り種になるのは「悪名」だと彼らは言っているんですけどね。「あいつ らは悪い奴だ、親不孝者だ、人間の屑だ」と後々までも言われるということです。これは「俺たちの人生は何だったんだ」という嘆息の台詞なのではありませんか。

そこには「どうせ俺たちは何をしたって浮かばれないんだよ」という無力感が漂っています。幕末期(四代目小団次との提携時代)の黙阿弥の主人公たちは、閉塞した状況を打開しようとして必死でもがきます。しかし、結局は状況に絡めとられていくのです。なまじっか強引に状況を変えようとするから・状況に仕返しをされるのです。そこに幕末のどうしようもない閉塞感・袋小路に入った時代へのいらだちがあるのです。

この黙阿弥の主人公たちのあがきを「革命への萌芽」だと読むことができるでしょうか。ないとは言えないと思います。白浪物には「世直しもの」の要素があるということは別稿「小団次の西洋」において触れました。が、所詮は盗賊のことではあります。あの謹厳実直な黙阿弥が盗賊の所業を賛美するなんてはずもありません 。「このままでは嫌だ・なにかを変えたい」という気分を世間に醸し出した点において・確かに盗賊は「世直しの神」であったと言えます。しかし、やはりそれだけのことだったのです。そこに白浪物の無力感があるのです。

結果から見れば、結局、明治維新が「下からの変革」ではなかったのは確かなことです。時代へのいらだちを抱きつつも、小団次も黙阿弥もその解決方法を見出すことまでは行きませんでした。そのことを責めることはできますまい。そこまでで精一杯であったと思います。だが、民衆の無力感は明治以降の歴史を見れば民衆がずっと引きずってきた根本的な問題であるとも言えます。

だから吉之助は「三人吉三」が悪党 (アウトロー)の魅力だ・これがエンタテイメントよと明るくアッケラカンと割り切る気にはとてもなれないのです。そんな単純なものではないだろうと思っています。慶応2年(1866)3月、芝居は「色気など薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを受けた小団次がこれを聞いて一晩で面相が変わり憤死してしまったことでも分かるように・間違いなく小団次の腹のなかにふつふつと煮えたぎる時代への暗い怒りがあったに違いないのです。もう少し小団次・黙阿弥提携作品の持つ「底知れぬ暗さ」を思い起こしてみたいと思います。

(H16・12・18)


○「勧進帳」における義の絶対性

メルマガ第140号「武士道における義を考える」では、義の絶対性を論じています。歌舞伎における身替わり物など忠義を描いた作品は、個人の権利意識の強い現代においては、なかなか共感が得られにくいものです。主人だって家来だって・同じ人間じゃないかとか、これじゃ家来は犠牲になっただけで死に損だとか、そういう感じ方になってきます。こういう感覚が普通になるなかで・歌舞伎の新たな今日的な解釈(価値)を見出そうというのは大事なことですが、しかし、本質を見誤ったらどうしようもありません。

例えば「勧進帳」において・あれが作り山伏の義経一行だと知って関を通した富樫左衛門が「死(切腹)を覚悟している」というのは・これはその通りです。富樫は義経を見逃したことで主人である鎌倉殿(頼朝)を裏切ったのですから・そうなるのが富樫の行く末だろうと思います。しかし、だからと言って「俺の人生はこれで終わりだ」という絶望的な心境に富樫がなることはあり得ないということを申し上げておきたいと思います。あるとすれば「俺は命を捨てて・守るべきものを守った」という確信と喜びでありましょう。そのことが「義経信仰」のバックグラウンドにおいて理解されねばなりません。

そうでなければ富樫は「一時の気の迷いで・してはならないことをしてしまった愚かな男」だということになるでしょう。「勧進帳」は義経・弁慶一行が安宅の関を通ってうまくやったぜ・後の富樫の事は知らないよ、という物語では ないのです。弁慶の延年の舞は、弁慶は油断のない男ですから・富樫に完全に気を許していないにしても、間違いなく富樫のために舞われています。

唐突ですが・良い例が思いつかないのですが、ずいぶん昔の米映画に「聖衣」(1953年/ヘンリー・コスター監督/リチャード・バートン主演)というのがあるのをご存知でしょうか。これはイエスが磔(はりつけ)刑になった時に・その傍らにいたローマ の護民官の物語です。彼はもちろんイエスに何の係わりもなかったのですが、イエスの遺体を十字架から降ろす時に・イエスの着衣に 偶然触れてしまうのです。その時に何かが彼に憑依します。やがていろいろ経緯あって、彼はキリスト教徒になって・ローマにおいて磔になるのですが・神に祝福されて彼は喜びに満たされるという筋であります。

弁慶にとって義経が守らねばならない存在であるのは当然です。しかし、「富樫にとっても義経はやはり守らねばならない存在なのか」と疑問に思われるかも知れませんが、これは間違いなく・そうなのです。なぜならば、観客を含めた劇場全体の人々が義経を守らなければならないと信じているからです。義経の姿を一目見たその瞬間から・富樫は「この男は守らねばならない」と いう思いに打たれたと思います。しかし、富樫自身がそれを確信し切れないのです。どうして自分がそんなことを感じたのかが分からない、もとより義経を探し出し逮捕するのが彼の職務なのです。だから、彼は職務として弁慶に勧進帳を読ませ・問答をします。「なぜ自分はそんなことを感じたのか」、富樫はなおも自問自答を続けています。しかし、まだ確信が得られない。緊迫した山伏問答はそんな富樫の内心のいらだちを示しているとも言えます。さらに富樫は家来に指摘されて・一行を引き止めてしまうのですが、しかし、弁慶が義経を打つのを見て・ついに富樫は確信を得るのです。「この人を守らねばならない」、その思いが富樫のなかで抑えられなくなる。「判官殿にもなき人を・・・・」という台詞は 吉之助にはそのような叫びに聞こえるのです。これは弁慶に言わされた台詞ではないのです。(別稿「勧進帳・義経をめぐる儀式」をご参照ください。)

これが義の絶対性と義経信仰を念頭に入れた「勧進帳」の読み方であります。如何でありましょうか。

(H16・12・12)


○勘三郎襲名披露

来年の・勘九郎の十八代目勘三郎襲名披露の演目が発表されまして、歌舞伎ブームもいよいよ過熱と言ったところでしょうか。それにしても切符が高い!一等席2万円はちょっと・・・という感じがします。先日、フトしたことあって昭和60年(1985)の十二代目団十郎襲名披露のチラシをながめてましたら、一等席は1万円でありました。この時も普段より高い価格設定でしたが・当時の吉之助は三階席からの見物でありましたけれども、あれから20年立ったら倍額であります。

さて、歌舞伎座では3ヶ月の襲名なので・演目もバラエティに富んでいますが、吉之助の個人的な好みでひとつ取るなら、やはり「京鹿子娘道成寺」でしょうか。これは勘九郎にとっては・「鏡獅子」と並んで祖父六代目菊五郎の所縁の演目です。六代目も・今の勘九郎と同じ50歳くらいの時期・つまり昭和10年代には「鏡獅子」や「道成寺」を集中して踊っておりました。踊り手にとっては・心技体が最もバランスとれた時期であります。当然ながら六代目を目標に据えた筋目正しい踊りを期待したいものです。「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」と観客に言わせた六代目の「道成寺」の魅力を再現して欲しいですね。(別稿「菊五郎の道成寺を想像する」をご参照ください。)

「盛綱陣屋」は勘九郎の仁からするとちょっと意外な選択でした(吉之助は「俊寛」かなと思っていました)が、何か期するところあるのですかね。「鰯売恋曳網」は勘三郎と歌右衛門で昭和29年に初演された三島歌舞伎で・勘九郎には似合いでありましょう。ただし、あまり「お笑い」になりませんようにお願いしたいですね。三島は黙阿弥ものより古い時代の歌舞伎をイメージしているのですから、そこのところよろしく。(別稿「故郷に帰ったつもりで」をご参照ください。)

「野田版・研辰の討たれ」は前々から襲名披露での下馬評が高かったもの。平成13年初演の舞台はサイトでも取り上げています(別稿「出来損ないの道化」)が、まさか再演で同じギャグはやらないでしょうね。当然ながら、こういうものは書き直しを前提にしているものと思います。楽日のカーテンコールは大騒ぎになることでしょう。勘九郎ファンの方は絶対楽日狙いですね。

(H16・12・9)


○「かぶき的心情」について

「かぶき的心情」は本「歌舞伎素人講釈」において提唱している概念です。演劇というのは情緒感性に訴える要素が強い芸術ですから、これを理性(理論)で割り切ろうとすると・どうしても取りこぼすものが出てきます。「かぶき的心情」という視点を取り入れることで、従来は不自然に思われてきた歌舞伎の主人公の言動・行動が、エモーショナルなレベルではあっても彼らなりの論理的必然から湧き出たものであることが納得されるであろうと思います。 (特別講座「かぶき的心情」をご参照ください。)

「かぶき的心情」は山本博文先生の論文「かぶき者と仇討ち・殉死・心中」(「歴史読本・1997年1月号)からインスピレーションを得て吉之助が創案したものです。山本先生はこの論文で江戸初期を覆う時代的心性としての「かぶき者的心性」を紹介しています。 吉之助はここから江戸時代初期の民衆の個人意識の芽生え・アイデンティティーの喪失、これこそ歌舞伎創造のエネルギーの原点であるという風に直感して、本サイトにおいて歌舞伎・浄瑠璃作品を読み込むことをしてきました。その成果はサイトにおいてある程度形を成してきたと思っています。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)

しかし、一般には演劇作品を社会学の視点・すなわち個人と社会を対立的関係に見て・これを唯物史観的・階級闘争的に把握する見方から読む傾向が強いようです。 また、演劇学では作品の社会的側面の分析をほとんど社会学・歴史学からの知識で済ませているのが現状ではないかと思います。

例えば世間について数々の論文を出されている歴史学の某大先生(名前はあえて伏す)の本を見ますと、近松の登場人物はポトラッチ的なのだといいます。ポトラッチとは贈与に対するお返しみたいな関係のことを言います。「心中天網島」で小春はおさんとの義理立てから治兵衛と同じ場所で死ぬのを拒むのですが、起請文を交わしているので治兵衛から心中を言い出されると拒否ができなかったというのです。こういう見方 は現代からの視点であって・それが間違いと言うでもありませんが、芝居を見ていれば・少なくとも登場人物に対して共感を持とうとするならば、こういう見方は絶対に変だと感じるはずです。これでは小春も冶兵衛も浮かばれない・彼らの死を見て観客が涙する理由も分からないと思います。(別稿「惨たらしい人生」をご参照ください。) 演劇作品は「心情」で読まねばならないのです。

再現芸術である演劇の場合は、時間の経過のなかで個人の心情が高まり・考え方が変容し・熟していく・その過程は、本で字面(じづら)だけ読んで線引きしているのでは決して理解ができ ない。やはり、登場人物の経時的な心理変化を追体験する(つまり芝居を実際に見て没入する)ことでしか得られないものがあると思っています。そういう歴史学・社会学批判が演劇の立場から少しはされてもいいと思うのです。

山本先生の最近の著作(「武士と世間」・中公新書)も、個人と社会を対立関係に強く読み過ぎていて・ある意味で常識的な視点になってしまったように思われます。 吉之助が「かぶき者と仇討ち・殉死・心中」で一番感銘を受けた部分の発展がないのは残念に思いました。逆に言えば、これで「かぶき的心情」は正真正銘・吉之助のオリジナルと称してよろしいということではありますが。

そういう意味で吉之助が素晴らしい仕事をされていると思うのは、映画評論の立場から社会学の分野に立ち入っておられる佐藤忠男先生です。佐藤先生の「忠臣蔵・意地の系譜」 (朝日新聞社)にしても「長谷川伸論」(岩波現代文庫)にしても、まさに映画を専門にしている方ならではの視点があると思います。それが社会学の専門の方からどう評価されているかは分かりませんが、しかし、佐藤先生の解釈には心情レベルからの独自の視点があるのです。

例えば、若いヤクザAが敵の親分のところに単身で乗り込もうとしているとします。多勢に無勢で・彼が死ぬのは誰の目にも明らかです。そこへ別のヤクザBがやってきて「命を粗末にするもんじゃねえ」などと忠告をします。「それでも・ これじゃ俺の腹が収まらねえんだ」とAはなおも行こうとします。それを聞いてBは「お前ひとりを死なしゃしねえ、俺もお前と一緒に行くぜ」と言って、二人は顔を見合わせてニヤリとして・並んで敵地に向かいます。こういう場面は鶴田浩二と高倉健の映画のラストシーンなんかにありそうですね。こういうの が「かぶき的心情」です。死ぬと分かっていても・守らねばならない意地があるということです。そこに彼らの存在価値が掛かっているのです。

「かぶき的心情」は日本独自のものと吉之助は思っておりません。例えばアメリカン・ニューシネマの代表作品と言われる「明日に向かって撃て」 (ジョージ・ロイ・ヒル監督・1970年)で、ロバート・レッドフォードとポール・ニューマン扮する強盗二人組が警官隊に取り囲まれてもう絶体絶命という時に、ふたりが顔を見合わせて「1・2・3・・」 と数えて銃弾の雨のなかに突入していく ラスト・シーンなども、まさにそういうものであろうと思っています。

(H16・12・1)


○古典劇における「趣向」と「型」・その7:時代を共有できない演劇

江戸の・その昔においては歌舞伎は現代劇でありました。その時代には何をやったって「そんなものは歌舞伎じゃない」なんて議論はあり得なかったのです。「面白い・面白くない」という議論はあったでしょうが。

江戸の芝居は新趣向・新機軸の連続であったでしょう。例えば「忠臣蔵」の斧定九郎は本来は野暮ったいどてらの山賊姿でした。父親九太夫に勘当されて・路頭に迷う ドラ息子です。そういう者は山賊でもやらねば生きていけなかったのです。「忠臣蔵」成立時にはそれがリアルでありました。ところが時代が下がると、これが どうも実感を伴ってこないのですね。そこで初代仲蔵が江戸の往来を眺めれば・そこに落ちぶれた浪人が雨のなかを歩いている。「これだ」ということになって仲蔵は月代(さかやき)の伸びた白塗りの着流しの浪人姿に定九郎を拵えて大当りを取ったのです。当時は禄をあぶれた浪人侍が社会問題化していた 時代でした。こちらの方が当時の観客にはリアルで・かつ刺激的であったということです。考えようによってはトンだ発想なのですが、「これは歌舞伎じゃない」という議論は当時はありえなかったのです。

この「浪人姿の定九郎」は現代化の手法でありまして、欧米演劇の舞台でよく見られる「ハムレット」を現代風俗でやろうというのと同じような趣向です。Tシャツ・ジーパンのハムレットがオフィーリアに向かって「尼寺へ行け」などと言う舞台を見ると多少の違和感はありますが、次第に何となくそれなりに見えてくるのだから舞台とは不思議なもので・こうなると違和感は新鮮さと裏腹に感じられてくるのです。

それでは同じように「忠臣蔵」を現代風俗でやったらどんなものでしょうか。不採算会社を潰された社員たちが親会社の本社オフィスに乗り込んで悪徳専務を切るという趣向で・これを「忠臣蔵」の台本そのままでやるとする。精神としては歌舞伎そのものかも知れませんが、みなさんはこれを「歌舞伎」だと言いますか。「これは歌舞伎じゃない」と多分言うでしょうね。 吉之助もそう思いますよ。しかし、ジーパン・ハムレットは見れるのに、 背広のサラリーマン内蔵助はどうして駄目なのでしょうね。

あるいは現代の「忠臣蔵」の舞台で見る定九郎を原作通りにと言うことで・ドテラの山賊に戻す・こんな試みは如何でしょうか。これは理屈ではあるのですが、多分、ここだけ変えると他の場面との齟齬が目立ってくるでしょう。「五段目・六段目」の音羽屋型の発想は仲蔵から出ているのですから、ドテラの山賊の定九郎さえも「これは歌舞伎じゃない」ということになる危険性がある。色悪風の定九郎と違って・どてら姿の定九郎は野暮ったくて歌舞伎らしく見えないかも知れません。ホントはこれがオリジナルだったんですがね。(別稿「仲蔵の定九郎の型はなぜ残ったのか」をご参照ください。)

何が言いたいのかお分かりでしょうが、江戸の昔には自由自在・やり放題で許されて・それでも歌舞伎であったことが、現代ではどうもそうではないようだということです。 「江戸の昔の歌舞伎ではいろんなことを実験して・どんどん新しいことに挑戦ができた」のはその通りです。しかし、自由自在・やり放題にしたら、現代では歌舞伎は歌舞伎ではなくなっちゃうのです。それは何故なのか。それは歌舞伎がはっきりと「古典」化しているからです。もっとはっきり酷な言い方をすれば、歌舞伎はもはや時代を共有できない演劇になっているのです。この認識から型の議論が出発 します。

余談ですが、現代演劇での歌舞伎作品上演の試みはいろいろあると思いますが、劇団山の手事情社のサイトにおいて同劇団の舞台が動画で見られます。興味深いですから、是非ご覧下さい。(サイトトップから劇団資料・公演ポートレートへ移動)

http://www.yamanote-j.org/

例えば「狭夜衣鴛鴦剣翅(さよごろもおしどりのつるぎば)」(並木宗輔作)をご覧いたただけば、何とも不思議なエキゾチックで無国籍風の衣装。これは確かに「歌舞伎」ではないかも知れないが(劇団の方はもとより 「歌舞伎」と呼んで欲しいなどと思っていないと思いますけど)、何とも刺激的です。しかし、吉之助はご本家の歌舞伎にこういう舞台を作れる可能性はもはやない・「歌舞伎」の名前では同じようなことはもうできないということを痛切に感じざるを得ないのです。

(H16・11・26)


○古典劇における「趣向」と「型」・その6:古典劇に対する態度

昨今の情勢はよく知りませんが、70年代にはバッハをジャズ・スタイルで演奏する(ジャック・ルーシェ・トリオの「プレイ・バッハ」)とか、シューベルトをビートルズ風にアレンジするというような試みがはやりました。エマーソン・レイク&パーマーの「展覧会の絵」なんてのもありましたね。例えばバッハの聞きなれた旋律をショパン風に・ジャズ風に・あるいはビートルズ風にうまくアレンジするのはどこに秘訣があるのか・要するにその様式(フォルム)の特徴の何かをつかんでいるわけです。

クラシック音楽を勉強する時に「どうしてバッハはバッハらしく・ベートーヴェンはベートーヴェンらしく弾かねばならないのか」などという素朴な疑問にぶち当たることがあります。この答えですが、作曲者の様式(フォルム)を厳格に守るのが「クラシック(古典的)な態度」なのであり・これが守られていない演奏はクラシック 音楽ではないのです。作曲家の様式 を絶対的な規範として守るのがクラシック音楽なのです。このことを考えてみたいと思います。

ご存知と思いますが「サマー・タイム」というジャズの名曲があります。例えばビング・クロスビーなら小粋に軽めに仕上げるでありましょうか。フランク・シナトラならバラード調に濃厚にでしょうか。 ドリス・デイなら、エラ・フィッツジェラルドならなどと色々想像しますが、歌い手それぞれの個性がそこに発揮されているでしょう。第一にアレンジがそれぞれ全然違います。基調になる ビートやキー・歌いまわしも歌い手によって違います。それは歌手の個性に合わせて決まるのです。つまりポピュラー音楽では歌い手の個性が様式(フォルム)なのです。

実は「サマー・タイム」という曲は、ジョージ・ガーシュインの歌劇「ポーギーとベス」のなかのナンバーでして本当はれっきとしたクラシック音楽であります。これをクラシックの歌手が歌うと、もちろんポピュラーの歌手とは全然感じが違います。これはどちらがいいかという議論ではありません・そういうお好みの議論はしておりません。クラシックでは歌手の個性に合わせてキーを変えたりアレンジをしたりすることは絶対にあり得ません。歌手は作曲者の指定したオペラの様式(フォルム)を守って・あるいは自分の個性を様式に同化させて歌うことを強いられるのです。様式の作りだす枠のなかで精一杯の個性を発揮するのです。これがクラシック音楽の在り方です。

これを歌舞伎に当てはめますと、役者の個性にはめた演出はポピュラー音楽的であって、これは吉之助の言うところの「趣向・刹那的演出」です。作品解釈からくる演出はクラシック音楽的なものであって、これが「近代的な意味での型・普遍的な演出」であります。この在り方は相反するものとも言えるし・互いに引き合っているとも言えます。どんな再現芸術もこの矛盾を内包していますし、この二つの要素が歌舞伎に存在するのは確かです。しかし、歌舞伎を「古典劇(クラシック)」と規定するならば、やはり「趣向」に作品が持つ様式(フォルム)を破壊するような重い比重を掛けるわけにはいきません。「趣向」は 作品のなかでそのあるべき分(ぶ)をわきまえねばなりません。「趣向」は料理のスパイスであって、スパイスだけでは料理になりません。スパイスが効き過ぎれば様式(フォルム)という味は破壊されるのです。 様式(フォルム)は厳格に守らなければならない、これが「古典劇」に対する態度です。

様式(フォルム)とは何かを追い求めるのは大事なことです。いわば「様式」とは「神さまの心」です。先人たちの残した何物かなのです。七代目三津五郎は決して舞台を投げなかった・そのことを聞かれて、三津五郎はこう言ったそうです。

『あたしゃネ、死んだ人に見てもらっているんだよ。うちの親父(十三代目勘弥)、堀越のおじさん(九代目団十郎)、成駒屋のおじさん(四代目芝翫)、寺島のおじさん(五代目菊五郎)、この人たちが後ろで見ていると思ったら、怠けるなんてできませんよ。』(武智鉄二/八代目坂東三津五郎:「芸十夜」)

過ぎ去った先人の芸への尊敬と憧れとそれを受け継ぎ・残し、少しでもそれに近づいていこうとする気持ちが伝統芸能を受け継ぐ者の気持ちを高めるのです この気持ちだけが様式を守る砦(とりで)なのです。(この項つづく)

(H16・11・22)


○古典劇における「趣向」と「型」・その5:「型」とは心(こころ)である

九代目団十郎はその生涯に20回(興行)弁慶を演じています。九代目は演る度にどこかを変えて演じたそうです。その結果、父・七代目の演じた舞台とはかなり違ったものになってしまいました。現行の「勧進帳」は恐らくは九代目最後の明治32年(1899)4月歌舞伎座を原 型としており・これを七代目幸四郎を始めとする弟子たちが洗い上げて・完成させたものです。

ここで、写真館「勧進帳の元禄見得」に掲載しました明治5年(1872)守田座での35歳の九代目の「勧進帳」の弁慶の写真をご覧下さい。この弁慶の元禄見得 の写真を見ると、弁慶は右腕を明瞭に振り上げて・手首を返して巻き物が上になっていることがはっきり見て取れます。現行の「勧進帳」の元禄見得では右腕をほぼ水平に突き出して・巻物が下になりますが、この写真は・それ以前の弁慶の元禄見得の形を示すものです。

まずこの解答を先に示した上で、天保11年(1840)3月河原崎座における七代目団十郎初演オリジナルの「勧進帳」を想像する時、どんな思考プロセスを辿ればよいかを考えたいと思います。「歌舞伎十八番」は市川家の荒事の集大成だと言いながら、「勧進帳」は能係りで高尚で荒唐無稽なところがない・ 他の演目とはどこか毛色が違います。このことから初演の「勧進帳」は現行の舞台よりはるかに荒事味が強かったのではないかと想像ができます。荒事こそが市川宗家の権威の「拠り所」であるからです。ここが仮説の前提になります。荒事のイメージはキビキビした動き・特に跳躍のようなシャープな動きにそれが出ます。見得で言えば力感があること・ピーンと張ったような見得が荒事らしいと想像されます。そういう眼で現行「勧進帳」の元禄見得の形を見ると、確かにどっしりした安定感・重量感はあるが・動的な力感が感じられない。そこで「こ こが臭い」と眼をつけます。他の荒事の元禄見得をチェックしてみ ると、「暫」の鎌倉権五郎・あるいは「車引」の梅王の元禄見得では彼らの右腕は拳を振り上げて手首が返っています。これは相手をまさにぶん殴ろうとしている形かも知れません。つまり、相手を威嚇する形なのです。なるほどこの形が原型かも知れないと察しがつくのです。その推察プロセスが正しいのは写真をご覧になればお分かりでしょう。

逆になぜ九代目がこのように元禄見得を変えたのかも逆のプロセスを以て考えられます。まず弁慶が右腕を振り上げて手首が返っているのは弁慶が「どうだ、文句があるか・やるならぶん殴るぜ」と富樫を威嚇しているわけです。富樫を脅して関を通ろうというわけです。 なるほど七代目の弁慶はいかにも荒事味の強い弁慶なのです。しかし、九代目の描く弁慶は思慮深く智恵ある弁慶です。弁慶はあくまで富樫を威嚇するのではなく、正体がばれた時はその時だが・あくまで正真正銘の山伏として堂々と関を通ろう しているのです。だとすれば、ここで荒事っぽい元禄見得はちょっと似合わない。そこで九代目は元禄見得を本来の形から安定感・重量感のある形に変えてしまったわけです。現行の元禄見得の形は弁慶の思慮深さ・沈着さを示しているのです。

しかし、この九代目の発想は実は七代目が能係りの松羽目の舞台を発想した時にそのコンセプトのなかに萌芽としてあったものです。その萌芽を九代目は発展させたのであって、自分勝手 なアイデアで変えたのではありません。ここが大事なところです。(別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番・勧進帳」をご参照ください。)以上のことから分るのは、七代目の元禄見得も・九代目の元禄見得も、それぞれの作品解釈・弁慶の性根の 正確な把握として出ているものだということです。初演の七代目も・変えた九代目もどちらもいい加減な態度で型を創ったり・変えたりしていないのです。だから、その発想プロセスを正しく辿れば原型に戻すことができる・あるいはさらにその延長線上を辿れば型を発展できるということです。武智鉄二が「勧進帳」の型の再検討を行なった時に九代目は七代目の型のここを直したのではないかと考え・その発想を逆にしてみればそれがピタリとはまる、九代目はさすがに筋目がいいという感想を書いています。

もちろん九代目は20回も弁慶を演じ、そのたびに演出を変えています。その詳細は分りません。恐らく試行錯誤のなかで九代目も行ったり来たりしたのでありましょう。実は九代目が元禄見得をいつ変えたかは文献的には分らないのです。しかし、それもその20回全体を大きく「流れて捉えて」・大まかに九代目の発想を読んでいけば、九代目が型を変更した背景が明確に見えて来ます。「高尚化・能楽に近づこうという意識・そして人間弁慶のドラマを描こうとする意図」が必然の流れ(ベクトル)であったことが理解できるのです。これこそが「型」の正体です。七代目三津五郎が「型とは心(こころ)だよ」と言ったのは、そういうだったのだと分ります。

九代目の20回の試行錯誤(このそれぞれを「趣向」を呼ぶことにします)は・その時限りで終わったものの方がずっと多かったのですが、それらの趣向はやはり後世に「九代目型」として残るには何かが足らなかったに違いありません。残 された「趣向」(それは現在は「九代目型」と呼ばれている)には何かがあったのです。その差はどこから来るのでしょうか。

「趣向」を検討する時には、その「趣向」単体だけを見ているのではその良し悪しは決して分りません。しかし、それを流れで捉えれば、その「趣向」が指し示す方向性(「理念のベクトル」とでも言おうか)が見えてきます。それが様式(フォルム)と一致しているかどうかが問題なのです。どんなに効果的であり・どんなに客受けがしようと・様式に一致しない「趣向」は消えるしかないのです。それを無理に型にしようとすると様式が次第に崩れていくのです。このことを肝に銘じなければなりません。(この項つづく)

(H16・11・13)


○古典劇における「趣向」と「型」・その4:型の絶対性と危うさ

吉之助がここで展開している論議の大前提を再確認しておきたいのですが、江戸時代の歌舞伎で言っている「型」の意味と、現代の歌舞伎の「型」の意味はまるっきり違うということです。通常は「型」という言葉は両方の意味のどちらでもいいように混同されて使用されています。しかし、歌舞伎を「古典劇」と規定すると、そういう曖昧な使い方は許され ません。「型」を作品全体を貫く「解釈・演出」でなければならないと明確に規定する必要があります。本論はその前提に立っていますので、そうお読みください。

「型の周辺・その7」において、歌舞伎において「型」が意識されるようになったのは明治半ば以降・九代目団十郎の死後からのことだと申し上げました。一方、杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」によって義太夫の「風」の概念は初めて世に出たのです。其日庵の言うことは即ち「名人芸妙の風を守るべし」ということです。「浄瑠璃素人講釈」の出版は昭和元年(1926)ですが、原稿は雑誌「黒白」に連載されたものですから成立はそれ以前 (大正10年前後)のことです。同じような時期にこういう「型」や「風」の議論が登場してくるのは偶然ではありません。それは、文楽あるいは歌舞伎のような江戸時代の芸能が時代から遊離してしまった・すなわち「同時代劇・現代劇」ではあり得なくなったこと に起因するのです。

「型」の議論の問題は、これも「型の周辺・その6」に引用しましたから・そちらをご参照いただきたいですが・郡司正勝先生が指摘しているように「歌舞伎というものの性質が、半分現代に足突っ込んで、半分古典だというところがある。能みたいに、もう生きた社会から離れてしまえば、これは狂いようがないのです。歌舞伎だけはどんどんどんどん広がって本質が流動して流れていきますから」というところにあります。つまり、はっきり言えば問題は「俺は完全に死んでいない」と歌舞伎本人がまだ思っているということです。「歌舞伎は古典劇である」と規定することは、ある意味で「引導を渡す」ということです。「型」を考えるということは歌舞伎に死亡宣告したうえで・改めて蘇生術を施すということかと思います。「明治36年に歌舞伎は一度死んだ」・この史観のもとに「歌舞伎」を考えるところから、型の再検討は始まるのです。

例えばメルマガ137号「古き良き江戸の夢」に書きましたが、明治23年に五代目菊五郎が「直侍」を写実に戻そうとしたのを・黙阿弥が「もう、いいんだよ。あれでいいんだ。」と言って止めたとするならば、この推測が正しいなら・あの時点で江戸歌舞伎は同時代劇であることを止めたのです。黙阿弥の心に潜む「絶望」を感じないでしょうか。それと同時に黙阿弥が「写実」の代わりに「様式」を選び取ったのなら、 その後の歌舞伎が「様式」によってしか生き残れないことを見抜いた黙阿弥の嗅覚の鋭さを感じないわけにいきません。そして明治36年、九代目団十郎・五代目菊五郎が相次いで亡くなって、歌舞伎がもはや同時代劇ではないことは明白になったのです。

余談ですが、歌右衛門は「歌舞伎は死んだ」と考えていたとは思いませんが、「女形は時代遅れで気持ち悪い」という現代人の眼を意識して・その意識と必死で戦ってきたのです。ある意味で「死地」に自分を追い込んでいたと 言える。今の若手役者さんたちはそうではないでしょう。父親たちの作った評価の上に乗っかって「歌舞伎は江戸時代は現代劇だった・昔は何でも挑戦できた」と公言できるのですから幸福であるし「楽」なのです。しかし、やっぱり「だった(過去形)」なのです。歌舞伎は平成 においても現代劇でしょうか。現代には(残念ながら)それにもっとふさわしい同時代演劇があるだろうと思うし、そういう演劇的模索がされていると思います。歌舞伎にはそれとは違う役割が課せられるのです。

これも「型の周辺・その7」に書きましたが、二長町市村座の若手役者たち・つまり六代目菊五郎や初代吉右衛門あるいは七代目三津五郎といった役者たちが「九代目はこうやった・五代目はああやった」ということだけを手掛かりに自分たちの歌舞伎を作り上げていったことの危機感を想像してください。「九代目のやった通りにしないと・歌舞伎だと言われない」ということの重圧感を想像してみてください。もちろんそのなかでの葛藤はありました。初代吉右衛門は九代目の「馬盥の光秀」の型を「私にはやれません」と一座の仲間に泣いて土下座して自分の思うところをやったのです。(別稿「初代吉右衛門の馬盥の光秀」をご参照ください。)「九代目の型」が厳然として基準としてそそり立っているからこういう事件も起こるのです。

歌舞伎の「型」は、明治36年九代目団十郎の死後から・それまでとは全く違う意味を持ち始めたのです。歌舞伎の型とは、そうでなければ歌舞伎には見えないような・とりあえずそうしていれば一応歌舞伎に見えるような・そういうものです。そこに彼らの拠り所がある。こういう「型」の概念は江戸時代にはありえないのです・何をやったって当時はそれは歌舞伎だったのですから。この「型の絶対性」が・じつに曖昧で頼りないのだが確かにそれは「絶対性」なのですが、それが現代の歌舞伎を「古典」ならしめているのです。これがなければ歌舞伎は もうとっくの昔に滅びていたでしょう。

こんな頼りないものに「伝統的たる拠り所」を求めざるを得ないことの危うさを思いやる必要があります。だから、「古典劇」としての歌舞伎を確立する時には、まず九代目団十郎・五代目菊五郎の歌舞伎を再確認し、この「絶対性」をより強固なものにすることから始めなければならないのです。(この項つづく)

(H16・11・10)


○古典劇における「趣向」と「型」・その3:古典再検討の可能性

アングラ演劇の串田和美氏が歌舞伎に参画するならば、期待されていることは「硬直した歌舞伎に生気を吹き込むこと」でありましょうが、その方法論はふたつあり得ると思います。

ひとつは「演劇の一時性」を呼び覚ますことでありましょう。つまり、趣向を追い求めるということです。ただし、「趣向」には趣向の分(ぶ)というものがあるのです。そこをわきまえている必要があります。あえて「一回性(それ切りで終わり)」にこだわる必要がある・つまり歌舞伎に使い捨てされるのを「それで善し」とせねばならないのです。その覚悟があるかということです。私はこれを「 終わりの美学」と申しております。

「夏祭・エンディング」の4回の流れを見れば、「次は串田・勘九郎は何を仕掛けるか」という泥沼に入りかけているのがよく分ります。表面的にはいろいろやっていますが・本質的には同じ趣向の周囲を回っているのです。次はもっと凄い エンディングを見せなければお客は喜んでくれません。今回の大阪松竹座だけをみればそれは確かに「NY凱旋」の趣向だとしても、まあ それは言えないこともないかも知れません。ならば次は 「夏祭・エンディング」で何をやりますか・次に歌舞伎座でこれをやれますか。そこまで考えれば、おのずと答えは出るのです。もう「これっ切り」にすべきなのです。

串田氏・勘九郎はあえて「趣向」を趣向で留めることも「仕事」とせねばなりません。「夏祭」は今回限りで封印する・そして今度は別の作品で「趣向」を生かす。そういう勇気が必要なのです。そうすれば彼らの「仕事」全体が生きてくるのですよ。

串田氏に期待される方法論がもうひとつあります。それは現代劇の視点から「古典」を読み直すということです。例えば私は繰り返し誉めましたが、その「照明の使い方」です。あるいは公開講座でも申し上げましたが、「三人吉三」のお嬢吉三の大川端の長台詞で「御厄しませう厄落とし」と声が掛かる時にお嬢がビクッと反応する仕草です。これは歌舞伎の在来型の「批判型」たり得ているのです。 (「型の周辺・その九:批評としての型」をご参照ください。)同じく「三人吉三」エンディングの紙吹雪での立廻りも・ちょっとやり過ぎのところはあるが・「批判型」たり得ています。(別稿「空間の破壊」をご参照ください。)こういうところに串田氏の可能性があるだろうと思うのです。

それじゃ「夏祭・フリーズ」は批判型ではないのかという質問が出そうですね。あの趣向は時代との同時性が強すぎるのです。対象(在来の型)を批判するというものではなく・自己主張が強過ぎる。だから批判型になり得ないのです。

このような考察は「観念的に過ぎる」と思われるかも知れませんが、そこまで理念を構築して・「変えていいもの」と「変えてはいけないもの」を厳密に区別していかないと、小手先の趣向から本体の様式 全体が崩れていくのです。(この項つづく)

(H16・11・6)


○古典劇における「趣向」と「型」・その2:演劇の「一時性」

舞台での演技は・そこで表現された瞬間に消えていく、そういうものであります。それは観客の「記憶」という形で保存されるしかないのです。(録音とかビデオとかは別次元の話です。)つまり、二度と同じ瞬間はやってこないのです。このことは「人生の時間は巻き戻すことはできない」という真理にも重なります。その真理のもとにあるのが「舞台芸術」というものです。(音楽も同様であります。)「一時性」は演劇の大事な要素です。このことが「 近代的な意味での型・永続性のある演出」と「趣向・刹那的な演出」との関わりになってきます。

古典劇というのは演劇の「一時性」からちょっと離れたところに立つわけですが、もちろん「一時性」の宿命から逃れることはできません。現代劇は時代との同時性が「売り」ですから、そのスタンスを即興性・あるいは趣向に強く求めざるを得ないのです。だから時代とともに その大半が消えていくものであります。ごく少数のものだけが時代を代表する遺産として残ります。

逆に言えば、現代劇においても表現の永続性を目指すという方向性は・表現の完璧さを求めるという意味で常にあるものです。つまり、様式化への憧れはそれが芸術である限りは現代劇のなかにも 必ずあるのです。しかし、そのために表現が定型化するならば、彼らはこれを「悪しきもの・怠惰なもの」としてこれを嫌うということです。それは「一時性」を失うということでもあるからです。いずれにせよ「趣向」が現代劇の大きな要素です。

古典劇からみれば、「型・演出」はそれを古典ならしめる拠り所であり・「趣向・刹那的な演出」はそれにより演劇の「一時性」を想起させるものであると言えましょう。いわば、趣向とはスパイスであります。趣向だけでは古典劇にはならないし・配合を間違えれば様式を壊すことになる。この危険性を認識せねばなりません。

本年10月・大阪松竹座での串田和美演出・勘九郎主演「夏祭浪花鑑・NYバージョン」について考えてみます。

2年前の大阪平成中村座の「串田演出・夏祭」ではエンディングで舞台奥が開き・勘九郎が外の公園を走り回って喝采を巻き起こしました。吉之助はなんとなく「お里が知れたな」とも思ったけれど、たまにはこういう趣向もよろしいかなと思いました。その次が、渋谷コクーンでの「夏祭」エンディングでのパトカー登場であります。この幕切れについて、ある評論家先生が「あのエンディングは昔のアングラ演劇にはよくあった手法でしてね・昔の芝居を知っている人間には新鮮でも何でもないです」と講演会で発言したのを聞きました。歌舞伎であんなことをして・・とは仰いませんでしたが、それに近かったと思います。 吉之助も半分くらいは同意でしたが、初めてあの幕切れを見た若者たちには 新鮮な驚きであったろうし・まあいいかというようなところでありましたね。趣向が作品の本質を突くということも、それは確かにあるものなのです。しかし、これがこれからも続くとマズイなと思ったので、メルマガに「このパトカーの幕切れは多分「古典」にはならないし、またしてはなりません」と書いたわけです。(別稿「空間の破壊・三人吉三」をご参照ください。)

吉之助には大体こういう流れになることは分っておったのです。「夏祭・エンディングで串田・勘九郎は次は何をやるか」というパターンにはまり込んだのです。こうなると、次はもっと違うこと・凄いことをやらないとお客は喜んでくれません。このパターン化は「型」化の一歩手前なのです。本来「趣向」であるべきものが 「型」化していく方向が見えたのです。NYの「夏祭・フリーズ」も、ああまたねという感じでしたが、それでもNYでのことでもあるし・まあいいかと言うことで書いたのが「夏祭とウエストサイド物語」の記事です。こういう趣向もNYという都市の背景があるから許されるのです。今回 (つまり4回目)の大阪松竹座に至っては、もうこのエンディングが「ご恒例化」しておるなという感じですね。

「型の周辺・その7」において型を「流れ」で捉えるということを申し上げました。大阪平成中村座から今回の大阪松竹座まで「串田版・夏祭・エンディング」の4回を流れで 捉えば、その流れは完全に「型」の方向を示しているのです。今回のお鯛茶屋に外人が登場して「ニューヨークからついてきました」と言うなんぞは、完全に「エンディング」のための段取りでしょう。「趣向」がひとり歩きを始めています。これはもはや「趣向」でもなく・完全に「型・演出」であり、しかも、本来あるべき位置を逸脱している。これ以上の逸脱は「歌舞伎」を標榜するならばもう許されないと思います。( 念のため付け加えますが、これは「芝居として面白いか」という問題とは全然別の議論であります。)

「趣向」を趣向に留める方法はただひとつ、「もうこれ切り」にすることなのです。「NYに行って勘九郎の夏祭見たよ」・「へー羨ましい、私も見たかったなあ」と語り草にして・それで人々の記憶のなかにだけ留めるのが「趣向」の役割なのです。それならば舞台芸術の「一時性」のなかでの「華(はな)」で終わるのです。そういう「 終わりの美学」を勘九郎は知るべきかなと思います。(この項つづく)

(H16・11・4)


○古典劇における「趣向」と「型」・その1:「武器」としての様式

本稿は別稿「型の周辺」の続編です。そこで論じたことを前提として確認しておきます。江戸時代における「型」の在り方と・現代における歌舞伎の「型」の在り方は違うということです。現代における歌舞伎の「型」は全体を貫く「演出」でなければならない。なぜならば現代における歌舞伎は「古典劇」だからであるということです。それを踏まえて「趣向と型」の問題を逍遥してまいりたいと思います。

ドイツの小都市バイロイトはワーグナーの聖地でありますが、彼の地の「ヴァーンフリート」(ワーグナー住居の名称)に、ワーグナーが自作を演出した時の舞台模型(ごく小さなものですが)などが展示されています。これは文献的に貴重なものでして・ もし上演されるものなら是非見てみたいものだと思いますが、今後も絶対に上演されることはないでしょう。もはや「神話」になったとさえ言えるヴィーラントの「新バイロイト」の 象徴主義の演出ももはや文献でしか見られません。解釈主義の先駆けとなったシェローの演出も見られない。吉之助が見た83年のホール演出も見られません。演劇ならば70年代のロイヤルシュークスピア劇場での「夏の夜の夢」のP・ブルック演出が忘れられませんねえ。これももはや見られない。新しい演出にとって代わっているのです。

こういうことはヨーロッパの古い石作りの町並みを見ているだけでは想像も付きません。欧米での舞台芸術の在り方は、先人のものを乗り越え・塗りつぶしていくことです。そうやって彼らは前だけを見て進むのです。マーラーは「伝統的であるということは怠惰である・だらしないということだ」とまで言い切りました。

欧米人が歌舞伎の何に衝撃を受けるのか、それを知っていないと絶対に分りません。彼らは歌舞伎に舞台芸術の全く違う在り方を見るのです。400年の歴史のなかに蓄積された技術・歴史のなかで練り上げられた演出、そうした ものを残していく芸術の在り方に驚嘆し・感動し、ある時は羨ましがるのです。羨ましく思う方はたいていは舞台人ですが。つまり、歌舞伎が「古典(クラシック)」であるということ、これが彼らの感動の源泉なのです。欧米の舞台人がなぜ歌舞伎を「羨ましい」と感じるかと言えば、欧米の舞台芸術の在り方が舞台人自身にかなりプレッシャーになっていることがあります。こういうクラシックな在り方があるのなら・ 自分たちはもっと自由に演技ができるはずだと彼らは思うのですね。

お分かりかと思いますが、これは我々日本人が「様式(フォルム)」というものをイメージする時と全く逆の感じ方なのです。我々はしばしば「様式」をある種の制約と感じます。それを打ち破る力(ちから)が時には必要だと感じます。しかし、彼らは「様式」のなかに身を任せ・その枠のなかで自在に泳ぐことの自由を感じるのです。(ご注意いただきたいですが、欧米演劇に様式がないのではありません。彼らは様式を自分の個性の名のもとで打ちたてようとするのです。もっと大きな枠組みとしての演劇様式が与える安心感を彼らは羨むのです。)ブルーノ・タウトに日本人が桂離宮の美を教えられたように・我々は 今また歌舞伎の魅力を見直さなければならないのかも知れません。現代における「古典劇」としての歌舞伎はその表現ベクトルを変えることで「様式」を武器にできるのかも知れないのです 。

このことは「趣向と型」の問題を考える時に大きなヒントになります。冒頭において、現代における「型」を全体を貫く演出であると規定しました。「型」は様式(フォルム)であると考えていいのです。それならば「趣向」は一時的な・刹那的な演出であると言うことができます。大まかな分類ですが、アドリブを含めた反様式的表現を「趣向」に含めます。そうしますと「古典劇」での趣向と型の問題は、結局、様式を 壊すか・これを守るかということになるのです。(この項つづく)

(H16・10・31)


○趣向と「型」

勘九郎の「夏祭」NY公演において、ヘリの爆音が鳴り響くなかNY警官が舞台になだれ込み・ライフルを構えて「フリーズ!」と叫ぶ幕切れについては別稿「夏祭とウェストサイド物語」で も触れました。ニューヨークでの上演ならではの趣向と申せましょう。しかし、その衛星舞台中継を見ていて奇妙なことに気が付きませんでしたか。銃を構えた十人くらいの警官たち が団七や徳兵衛の方に銃口を向けずに、銃口があっちやこっちや全然見当違いの方向を向いておりました。これはどういう意図なのか、きちっと団七・徳兵衛の方に銃口を定めないと 最後が締まらないじゃないかと私は感じました。

勘九郎の説明では、これは四次元空間なので・江戸とNYの空間がダブっているのだけど・NY警官には団七たちの姿は見えていない・だから警官たちは見えないものにやむくもに銃を向けているということでした。なるほどねえ、そういうことですか。しかし、「フリーズ!」で舞台全員が動きをピタリと止めてしまうと・江戸の時空とNYの時空がピッタリ一致してしまったように私には見えましたけどね。

まっ、それはともかく、この幕切れはNYだからこそ成り立つ幕切れです。逆に言えば、他の都市でこの幕切れをやるのは意味がないのです。他の都市でならば別の幕切れを考えるべきです。

ところで、勘九郎が「NY凱旋公演・NYバージョン」としてこの「夏祭」の幕切れを10月の大阪・松竹座で再現したそうですね。そっくりそのままでもないようですが、NYから外人さんまで呼んで「NYの興奮をもう一度」という趣向です。大変失礼ですが、こういうことはあまりしてもらいたくないと思います。「NYの幕切れ」はNYだけの「花火」で終わらせてもらいたかった。どんな素晴らしいアイデアであっても「型」にしてもらいたくないのです。

勘九郎さん、趣向と型とを混同してはいけませんよ。趣向とは・その場(その興行)その場で即興的に繰り出されるアイデアです。渋谷コクーンでパトカーを出す幕切れ・NYで外人警官を出す幕切れはそれぞれの都市の バックグラウンドを持っていて・それはそれで結構なアイデアだと思いますが、所詮は「際物(きわもの)的演出」であることを意識せねばなりません。こういうものを「型」にしてはならないのです。それでは大阪ならではの幕切れはどんなものにすべきだろうか?そういうことを真剣に考えなくては。

NYの興奮を追体験したいお客さまもそれは確かにいらっしゃるでしょう。しかし、こういうものは「一時(いっとき)の花火」にしなければならないのです。あの時にNYの中村座にいればよかったなあ・・・そう強烈に思わせておいて・それっきり で終わらせる、それがその場1回限りで終わってしまう舞台芸術の「美学」というものではないでしょうか。

(注)本稿に出てくる「型」の問題については、別稿「型の周辺」をご覧下さい。

(H16・10・29)


○「伝統の力・古典の魅力」

先日、TVインタヴューで勘九郎が平成中村座のNY公演の裏話を語っておりました。永山松竹会長にこのアイデアを相談したところ、永山氏がNYは世界一劇評が厳しいところで・そんな冒険は失敗するから絶対認めないと言ったので勘九郎と喧嘩寸前になったというのです。結局、永山氏は勘九郎の熱意を買ってこれを認めるわけですが、勘九郎は「これが成功しなかったらもう舞台には立たない」と決死の覚悟でNY公演に臨んだそうです。まあ、多少の誇張があるのかも知れません。永山氏の心配は実は「採算」の方だったのかも知れませんが、平成中村座のNY公演が勘九郎にとって「決死の冒険」であったのは事実のようです。

しかし、平成中村座のNY公演がそんな「決死の冒険」だと関係者が案じていたとは意外だなあ、というのが吉之助の感想です。これまでの歌舞伎の海外公演というのは概ね どれも大好評、昭和57年(1982)の歌右衛門・勘三郎らによる大歌舞伎のNY公演も大成功であったのです。平成中村座に至っては「江戸の舞台空間をNYに再現」しようというのだから大成功は最初から約束されたようなものと 吉之助は思っておりました。何を危惧する必要があったのかと吉之助は思うのですが。

どうして松竹関係者が平成中村座のNY公演の成功を危惧したのでしょうか、吉之助はこんなことを想像します。確かに歌右衛門・勘三郎らの大歌舞伎NY公演は大成功でした・しかしそれは「正統の・ちゃんとした歌舞伎」であった ・平成中村座は「実験歌舞伎・いつもの歌舞伎ではない」・だからこれを見てNYの観客が「これはホンモノの歌舞伎じゃない」と言い出すのではないかという心配ではなかったかと思うわけです。インタビューを聞いても勘九郎にもそういう不安がなかったわけではなかったように思われました。

確かに日本においては平成中村座を「あれは歌舞伎じゃない」とか言う輩もいるのでありましょう。しかし、NYの観客は「正統の・ちゃんとした歌舞伎」も知らないわけだから別に気にすることもないわけです・・というよりNYの観客は先入観のない・曇りのない目で平成中村座の「歌舞伎のカブキたる 部分・」をしっかりと見たということではなかったでしょうか。勘九郎のNYでの成功はそういうことであったと思うわけです。何も心配することはなかったのです。

事実、NY公演での現地の批評を見ますと、例のNY警官が登場して「フリーズ!」云々というエンディングなどに全然目もくれず、勘九郎のお辰の任侠・ 泥田での団七と義平次の立廻りの様式などのドラマ論を展開していて、しっかりドラマを見ていることが分かります。大歌舞伎とか・平成中村座とかには関係なく、彼らは「カブキ の本質」をしっかりと見極めたと思います。

西洋の観客が歌舞伎になぜ敬意を払うのでしょうか、このことを考えてみる必要があります。彼らは歌舞伎に・西洋演劇とは手法は全く違うけれど・確固とした伝統に裏打ちされた「古典 演劇」を見るのです。そういう確固たる「伝統」に対して彼らは無条件に帽子を取るのです。「型の周辺・その2」で紹介した・カラヤンが歌舞伎を見て「歌舞伎は私の理想だ、完璧ならば何も変える必要はないはずだ」と無邪気に感激したというエピソードもそういう理由に因ります。

NY警官が登場して 「フリーズ!」という幕切れは確かにニューヨークっ子に親しみを覚えさせて・いいサービスになったでしょう。日本人はそういうところばかり面白がっていますが、しかし、それで彼らが「カブキ・ワンダフル!」と言ったわけではないのです。歌舞伎は自らの持つ「伝統の力・古典の魅力」にもう少し自信を持った方が良いと思いますね。

(H16・10・27)


○「浄瑠璃素人講釈」の復刻

本サイト「口上」に 記しましたが、このサイトの「歌舞伎素人講釈」という題名は杉山其日庵(そのひあん)の著書「浄瑠璃素人講釈」をもじったものであります。「浄瑠璃素人講釈」は古本屋でも長らく入手困難になっていましたが、このたび岩波文庫から復刻がされました。

其日庵は『此冊子を読まんとする人は先づ第一に此「はしがき」を能く読まれたい』として、本書の執筆動機を書いています。この 「はしがき」 をじっくりお読みいただきたいと思います。

『即ち現今は、斯界に衰微荒廃の暮鍾が鳴つて居る時である。夫を回復するには、修業を烈敷する外はないのである。修業を烈敷するには、芸妙が解らねばならぬ。芸妙が解つて来ると、名人が出来て来る。名人さへ出来れば.満天下に流行の実が挙るのである。 其芸妙とは、何であらうか。即ち名人優越の風である。其優越の風は、ドンな物であるか、其学的材料が、古来より口伝斗りで、今は少しも無いのであるから、自得の外得られないのである。而して其修業の資料は.元々口移しの仕事で、咽と腹と頭の働きで、空気の顫動させ方、即ち声の働きを、定規とせねばならぬ物が、筆や墨で、決して書き顕はされる物ではない、是を芸道の妙風と云ふのである。』

ここで其日庵は「風」という概念を挙げています。「型の周辺・その7」において現代の「型」の概念は明治36年以降・すなわち九代目団十郎の死後に生まれたものだと書きました。浄瑠璃における「風」の概念も同じことが言えます。もちろんそれまでにも「風」という概念はありましたが、あまり公には議論されないものでした。それは本書「浄瑠璃素人講釈」によって初めて世に出たのです。今でも文楽の関係者は「風」ということを言うと、「風?そんなもんはおまへん」とあからさまに嫌な顔をする人が少なくありません。ともかくも目に見える歌舞伎の「型」と比べると、音曲の「風」はさらに曖昧で訳がわかりません。それを追求しようというのが「浄瑠璃素人講釈」なのです。

と言っても堅苦しい本ではなくて、そこで紹介される三代目大隅太夫、摂津大掾らの名人たちのエピソードは読んで面白く・どこを開いても何か発見がある本です。注釈付きで現代仮名遣いにして読みやすくなっていますので、歌舞伎・文楽を深く学んで行こうとする方には是非ご一読をお勧めしたいと思います。

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

浄瑠璃素人講釈〈下〉 (岩波文庫)

*なお、本書はWebサイトでも読む事ができます。サイト「音曲の司」の「情報資料室・芸談」のコーナーをご参照ください。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Kumiko.Tada/ongyoku/index.htm

(H16・10・20)


○型の周辺・その9:批評としての型

「型の周辺・その8」で書きましたように、これからの型の再検討は「標準(古典)となるべき型」の吟味をベースにして入っていく必要があります。「熊谷陣屋」の場合であれば、今後の「陣屋」の型の論議は否応に係わらず九代目団十郎型をベースにせざるを得ません。他の型を検討する価値があるかは、団十郎型の批判型となり得るかどうかで決まるのです。批判型というのは対象を「否定する」という意味ではなくて・「批評する・クリティカル」な型という意味です。それによって 逆に古典(団十郎型)の意義をえぐり出すことができなければやる意味がないのです。それが出来ないなら団十郎型を演じる方がいいです。いいものは変える必要がないからです。

そうした観点から今回の鴈治郎型を見てみます。相模を花道に同道する事は、自分だけの感情にひたり過ぎの団十郎型への批判たり得ています。これにより「直実個人のドラマ」は本来の「平家物語の世界」に若干引き寄せられることになります。その点は評価できます。しかし、それならばやはり直実は相模と一緒に揚幕に入るべきでした。相模を先に揚幕に入らせて・後でいつもと同じ熊谷ひとりの引っ込みを見せたのでは団十郎型の批判としての一貫性は失われると思います。 (別稿「熊谷の引っ込みの意味」をご参照ください。)

昨年新橋演舞場で芝翫型を演じた橋之助の場合を見てみます。芝翫型の直実が制札を上に向けて担ぐのは、制札に自分の行動の拠り所があるからです。もちろん我が子を殺さねばならない苦しみは誰よりも直実が一番感じています。それでも直実が身替わりの行為をとるのは制札の命があるからだという・制札の「絶対性」が示されています。「制札を担いで三段に突く芝翫型は形が不安定・橋之助は三段につかずこの方が形がいい」と書いている批評がありました。しかし、直実が不安定な形で制札にすがりつくのは「直実の内心の葛藤」を形象化する意図があると見ることができると思います。そこに団十郎型の批判たる芝翫型の意味を見出さねばなりません。橋之助のように制札を三段につかず身体から離して堂々と持ったのではその批判たる意味が見えてこない。形のいい・悪いの問題ではないのです。(別稿「制札の見得を考える」をご参照ください。)

このように現代においては古典(標準)となる型をベースにして・そこから型の問題を突き詰めていく必要があります。でないと、それこそ「バラエティに富んだ工夫がどんどんされるべき ・なんでもあり」みたいな議論になってしまって収拾がつかなくなってきます。九代目も六代目も自分で型を工夫した・だから俺だって・・・と思うのは自然なことです。しかし、ちょっと待ってもらいたいですね。はっきり申し上げると「時代が違います」。役者が型に安住せず・自分の納得できる演技を見出そうという気概を持つのは大いに結構。大事なことは、心のなかに「常に振り返るべき基準」をしっかり持っているかどうかです 。それがなければ歌舞伎の型はどんどん崩れていくしかないでしょう。

さて、「型」の周辺はひとまずここで区切りをつけることとします。機会を改めまして、また「型」の問題を考えてみたいと思います。最後に郡司先生の言葉を引いておきたいと思います。

「あれは違うよと、俳優さんはみんなそういう意識を持っていると思います。あんなことをやっては、あれは違うよ、という意識はある。最後の一線、最後の踏みこたえる線はそれしかないの。」(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」より:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)

(H16・10・17)


○「型」の周辺・その8:型の再検討について

「型」が古典化するなかで・型の再検討はどうなされるべきか。それを具体例で考えてみたいと思います。

平成16年9月御園座における「熊谷陣屋」において、三代目鴈治郎が恐らくは九代目団十郎型をベースに丸本解釈を取り入れて・独自の型を演じたということが伝えられています。残念ながら私はこの舞台を見ておりませんので、詳細は分りません。こういう試みはもちろんあっていいことです。ただし、慎重にされねばならないことです。

九代目団十郎型は九代目の直実の型は発展途上・まだ検討する部分があるということを「 型の周辺・その7」において書きました。九代目の型の眼目は「花道の引っ込み」にあります。そ こがすべてだと言っていい。花道七三で「十六年はひと昔、夢だ夢だ」と言って坊主頭を撫でる団十郎の演技について、杉贋阿弥は「調子といい形といい、自己本位に出家を夢と観じているので・・・団十郎はとかく悟りすぎて困ると思った」と書いています。これを読む限り・九代目の直実は自己陶酔的ヒロイズムに陥った感じなきにしもあらず。九代目型の再検討 をするならば、ここにこそ取っ掛かりがあるのです。

ともあれ初代吉右衛門によって九代目の型はほぼ固定されたと思いますが、三代目鴈治郎の型はどうでしょうか。鴈治郎の型は伝え聞くところでは、「別れてこそは」で熊谷夫婦はふたりして花道へ七三へ行き・そこで幕となる。この後、幕外でドンチャンとなって熊谷キッとなるのを相模が止め、熊谷ハッとして二人して泣き笑い。相模が本舞台の陣屋へ思いが行くのを熊谷が制して相模は涙を呑んで一人先に入る。ひとり残った熊谷も本舞台へ行こうとするが、ドンチャンに耳塞いで七三にうずくまる。しばらくして熊谷は気を変えて立ち上がり足早に揚幕に入るということだそうです。

舞台を見ないで直感だけで申し上げますが、花道まで直実が相模を連れて行くのは非常にいい着想でした。それならば・そこまでやるなら直実は相模と一緒に揚幕に入るべきでした 。 相模を先に去らせて・後から直実がひとりで入るのは、最後の最後で印象が中途半端になっちゃったと思うのです。

丸本の「陣屋」終結部は『すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔、さらば、さらば、おさらば、の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く』と申します。つまり、鎧櫃のなかに入った敦盛を背負った弥陀六と藤の方はあちらへ・直実と相模はこちらへ別れて去っていく、という構図になって います。どこにも直実は相模と途中で分かれるとは書いてありません。相模は法然の住む黒谷へ直実と一緒に向かったと考えていいと思います。

熊谷にとっての相模とは何でしょうか。かつて宮中に勤める武士であった時、そこで見初めたのが相模です。宮中での色恋沙汰はご法度、その禁を犯しての大恋愛です。それをとりなして関東へ逃がしてくれた藤の方には大恩がある、これが直実が我が子を敦盛卿の身替りにする伏線なのはご承知の通りです。「陣屋」でも直実は戦場にまでのこのこやって来た相模を追い返すことができません。おまけに相模が不憫で・なかなか真相が打ち明けられないでいます。相模は直実にとって・それほどに大事な可愛い恋女房なのです。

直実が義経の許しを得て・出家を決意し陣屋を去る時、直実がまず思いやらねばならぬのは相模のことではないでしょうか。「エヽ胴慾な熊谷殿。こなた一人の子かいなう」とまで恋女房になじられて、それを置いて直実がひとり諦観の情に陶酔していていいはずがありません。直実ほどに女房を愛している男なら女房を先にどこかに去らせて・ひとり感傷に涙するなんてことはあるまいと思うわけです。直実は相模と手を取り合って恥も外聞もなく一緒に泣けばよろしいのです。そして一緒に花道を行けばよろしい。これから直実が責任を以てケアせねばならないのは相模の人生なのです。そこから直実の新たな歩みが始まるべきではないでしょうか。

戦前にこういう直実はあり得なかったでしょうが、現代ならこそこういう直実があっていいのではないでしょうか。こういう視点があるなら九代目型をあえてぶち壊す・いや再検討する価値があるというものです。これからの「型の再検討」はこのような一貫した作品視点のもとに行なわれなければならないと思うわけです。もちろん鴈治郎さんの型も発展途上ではありましょう。再演を期待したいと思います。 (この項続く)

(H16・10・13)


○「型」の周辺・その7:型を「流れ」で捉える

「型の周辺・その3」において、「型」というものが明確に(あるいは真剣に)意識されるようになったのは明治半ば以降九代目団十郎死後のことであったと書きました。明治36年(1903)に五代目菊五郎・九代目団十郎が相次いで亡くなった後の歌舞伎界の状況は、我々が想像できないほどお先真っ暗であったようです。

『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』(伊原敏郎:「団菊以後」)

井原敏郎(青々園):団菊以後 (1973年) (青蛙選書)

このような危機感のなかで・若い役者たちは、「九代目は・五代目はこうやった」ということだけを手掛かりに二十世紀の歌舞伎を必死に作り上げていったのです。九代目・五代目が演ったように演らないと歌舞伎に見られないという危機感、逆に言えば・その通りに演じていればとりあえず文句は言われないという安心感、これが現代の「型」の概念の基礎なのです。

もちろん「型」という言葉は江戸の昔からありました。誰それはああやった・こうやったという型の記録は確かにありました。しかし、そうした江戸時代の「型」の概念と・現代の「型」の概念はまったく違うし、同じであってはならないのです。現代においては、誰それはああやった・こうやったということだけを列記するだけでは「型」を考えたことにはなりません。

当然のことですが、九代目団十郎には「自分が後世の規範になる型を残す」という意識はなかったようです。九代目の「勧進帳」は演るたびにどこかが違っていたそうです。九代目直伝を自称する役者が複数いて・演ることが全然違 っているということがあります。何故かと言うと九代目に教えてもらった時期がそれぞれ違うのだそうです。それなら九代目の型とは何なのか。最後の型が最良のものだと言えるのか。もし九代目がもっと長生きしていれば また違うことをしたかも知れないじゃないか。だとすれば九代目の型をもっと「流れ」 として捉えてもいいのじゃないか。つまり九代目の型を「考え方の筋道」として考えるということをしてもいいのじゃないかと思うわけです。そういう議論がこれからの「型」の議論 にならねばならないのです。

記録を見ると九代目が最後に「熊谷陣屋」を演じたのは明治31年10月歌舞伎座のようです。現行の「団十郎型」と言われるものは、これが基礎になっています。もし九代目が長生きして・もう一回・さらにもう一回熊谷直実を演じていたらきっと違うことをしたであろう・ 九代目はどう演じたであろうかということを考えてみることは価値があることなのです。 そんなこと何の根拠があると言うなら話は終わりです。考えることに意味があるのです。

私は九代目の直実の型は発展途上・まだ検討する部分があると思っています。別稿「熊谷陣屋における型の混交」はこのことを取り上げています。「陣屋」の登場人物のなかで直実だけにスポットを当て・その人間的苦悩に焦点を当てた・その型は、明治の演劇改良思想の洗礼を受けた自然主義の発想から成り立っています。この発想を延長していけば・直実の化粧の疳筋は 自ずと消えるべきであるということを申し上げております。九代目があと何回か直実を演じていれば疳筋は必ず消えたでありましょう。そのような議論を積み上げつつ・定型となる「型」を作り上げていく、現代においてはそういう作業が必要だと思うわけです。(この項続く)

(H16・10・10)


○「型」の周辺・その6:型から演出へ

『問題は、つまり歌舞伎というものの性質が、半分現代に足突っ込んで、半分古典だというところにもあるんですね。能みたいに、もう生きた社会から離れてしまえば、これは狂いようがないのです。文楽の場合も割合にそうだと思う。だからそれだけのファンなり見物がいつでもついていく。若い人もいつでもついていくと。そうなればいいんだけど、歌舞伎だけはどんどんどんどん広がって、本質が流動して流れていきますから。だけど、逆にここら辺で古典化させなくちゃあ。国の文化の財産がこんなものかと言うことになってしまう。』(郡司正勝:対談「国立劇場の三十年」:歌舞伎・研究と批評・第18巻)

歌舞伎というのは興行として十分に成り立ち・まだまだ「生(なま)」な芸術なのです。歌舞伎はその歴史のなかでざまざまな形態を吸収してきた「したたかさ」を持っているのだから、これからも歌舞伎はどんどん変わっていけるという考え方も・もちろんありましょう。しかし、歌舞伎が庶民の生活感覚とこれだけ離れてしまうと、 現代のそうした時代の「したたかさ」を背負うのはほかにそれにふさわしい芸能があるのだろうという気がいたします。異論もありましょうが、歌舞伎はそろそろ古典化の道を歩まなければならない時期に来ていると思うわけです。

「型の古典化」というものは、まず「型もの」としてほぼ定型化されている作品、例えば「熊谷陣屋」でも「寺子屋」でも結構なのですが、その型を作品解釈・演技論の観点から再吟味して理論化して・演出として固めるという 作業から始める必要があります。瑣末的な部分にこだわる「型」ではなく、作品視点が一貫した「演出」に仕上げていくこと、これが「型の古典化・標準化」の大事な作業になります。もちろん「熊谷陣屋」なら九代目型だけでいいというものでもないと思います。複数あってよろしいと思いますが、そこに演出視点の裏づけがなくてはならないと思います。

「寺子屋」の場合を見てみると、松王が戸浪に突き当たり「無礼者め」と叫ぶとは丸本にはありません。しかし、これがないとどうも歌舞伎という感じがしないのですな。考えてみると「寺子屋」の登場人物のなかで松王(言ってみれば時平のお抱え運転手であります)は一番身分が低いようです・それが一番いい衣装を着て一番偉そうな顔をしております。歌舞伎の場合はもうそこまでは仕方ないようです。そこまでは仕方ないから許す。しかし、これ以上の仕勝手がないようにしなければいけません。

舞台をひとつの視点(型)においてまとめ上げる作業は、今でもそうですが・座頭格の役者のすることです。まだまだ部外者の入れぬ魑魅魍魎の世界です。しかし、「型の古典化・標準化」というのはある意味で「卓上の理論」であってよろしいのです。こういう「演出」(あえて型とは言わず演出と申し上げましょう)が古典として固まってくれば、それを飛び越えて新しい冒険も出来るというものです。困った時にはまたそこへ立ち戻ればいいわけですから。(この項つづく)

(H16・10・7)


○「型」の周辺・その5:正しい筋道としての「型」

『余は旧劇と称する江戸演劇のために永く過去の伝統を負へる俳優に向かって宜しく観世金春諸流の能役者の如き厳然たる態度をとり、以って深く自守自重せん事を切望せん事を切望して止まざるものなり。元来江戸演劇は時代の流行に従ひ情死喧嘩等の社会一般の事件を仕組みて庶民の娯楽に供せし通俗なる興行物たりしといへどもこれは全く鎖国時代の事にして、今日の如く日々外国思潮の襲来激甚なる時代においてかくの如き自由解放の態度はむしろ全体の破壊を招かんのみ。江戸演劇は既に通俗なる平民芸術にはあらで貴重なる骨董となりし事あたかも丹絵売(たんえうり)が一枚幾文(いくもん)にて街頭にひさぎたる浮世絵の今や数百金に値すると異なることなし。』〔永井荷風:「江戸芸術論」・江戸演劇の特徴・岩波文庫)

この文は永井荷風が大正3年に記したものです。その頃にして荷風が危惧するような事態が既にあったのでしょう。いずれにせよ現代において荷風の指摘したことがより重みを増しているということは確かです。

型を考える上で大事なことは「正しい筋道とは何かを知っている」ということです。別の言い方をすれば理論・あるいは理屈と言ってもいいです。それが分った上で「理屈ではそうなんだけと、それは私の柄に合わないのでこう変えています」というなら、それはいいのです。杉山其日庵が摂津大掾に「寺子屋」を教わっていた時のこと、其日庵が「健気なヤアツーウウアアーアア」(後半のモドリの松王が死んだ小太郎のことを言う台詞)と語ったら大掾がこれを制してこう言ったそうです。

「なぜそんな所で売りに来やはります。みっともないじゃおまへんか。年取ってどうにか前をせねば商売ができぬ私などの高座でする悪いことばかり覚えはってはドモなりませんな。アンタには本当の長門はんの浄瑠璃の息込みで教えてあげたいと思いまして、一々調べたうえでお聞かせ申しておりますがナ。少しは気を止めて聞いとクンなはれぬと困りますがナ。」

摂津大掾でさえも芝居では客のこともあるので多少受けを狙うところもしたということを自嘲的に告白しているわけですが、しかし、何が正しいか・本道かということをもちろん大掾はちゃんと知ってやっているということです。そして人に伝授するという時は、責任を持って正しいことを伝授する・そういう気構えがあるということです。

もちろん型を変える時には・それを変えることの必然(どうしようもなくて変えるという理由)をしっかり把握しておく必要があります。それが分っていれば、型を元に戻すことが楽になるわけです。「正しい筋道は何か」をわきまえもせず・自分勝手な好みと都合でやり方を変えるのが一番いけません。こういうのを「役者の仕勝手」と申します。実はこういう仕勝手が細かいところで非常に多いのです。特に近年はビデオがあるから始末が悪い。死人に口なし、先代○○衛門はこうやっていたというのがそのまま罷り通ることになります。

だからこそ現代において「型の固定化・古典化」が急務なのです。ある「型」の意味を作品解釈・演技論の視点から吟味し突き詰めておく必要がある、そして危急の時にはそこに常に 原点に立ち戻る。そういう態度が必要になってくるわけです。(この項続く)

(H16・10・3)


○「型」の周辺・その4:型の古典化のこと

晩年の三島由紀夫が武智鉄二との対談でこんなことを言ってます。

『僕は前から思っていますが、武智さん演出で見たい歌舞伎がひとつあるんです。それは「盛綱陣屋」なんですよ。というのは「盛綱陣屋」くらい僕はつまらない芝居はないんですよ。あれは団子(だんご)です。団子という五つのエピソードがつながって、みんな同じ大きさで、串で刺してあるんですよ、今やっている(歌舞伎の)「盛綱陣屋」は。篝火の件、微妙の件、盛綱の件・・・みんな同じ重さで、クライマックスもなければ何もないんですよ。よくあんな退屈なものをものを見てると思う。だけど原作を読んでみると、決してそんなことはない。(歌舞伎では首実検の場面を)27分やった人がいるんですってね、なんて バカでしょう。』(三島由紀夫・武智鉄二:「現代歌舞伎への絶縁状」・昭和45年2月)

非常に興味ある発言です。歌舞伎の「盛綱陣屋」を見ているとなんだかダラダラした芝居(特に真ん中あたりの微妙の件がだれる)に見えますが、文楽で観ると決してそんなことはありません。それに文楽では首実検の場面はあっと言う間に終ってしまうのです。歌舞伎では首実検の場面が最大限に引き延ばされてい ます。ここだけで一番大きい団子ひとつ分になっているのです。そこに文楽と歌舞伎の発想の違いが現れています。

歌舞伎の盛綱の場合ですと、盛綱はもちろん首を見てそれが偽首であることをひと目で見破るのですが、「弟・高綱は一体何を画策しているのか」という風に考え込む思い入れあって・さらに揚幕の方を見やり「さては死んだことにして身を隠し北条殿を狙おうとの魂胆よな・小癪な奴め 」というような感じでニヤリと笑い、 次に傍らで腹に刀を突きたてて伏している小四郎に気付いて驚き、「そうすると小四郎が切腹したのは・・」とまた考え込み、それでやっとこさ偽首を高綱の首だと言って北条殿を欺く決意を固めるという段取りになりましょうか。盛綱の思考過程を分解して段階的かつ説明的に延々と首実検を演じるわけです。そこが表情と肚芸での見せる役者の仕所ということになっています。

そんなものパッと演っちゃいえばよろしい・長々とやるなんて何てバカでしょうと三島が言うのはそれはそれで一理あるのですが、しかし、逆に言えばこういう場面を27分も掛けて場を持たせる役者がいたというの も大したものです。こういうところを芸の見せ場として局所拡大してみせるところが義太夫狂言の面白さだということもあるのです。芝居の面白さというのはなかなか理屈通りにはいかぬもので 、そういう三島さえ自作の「椿説弓張月」では本筋に関係ない琴責めを延々と描いているくらいです。

「封印切」の忠兵衛と八右衛門の上方漫才みたいな掛け合いもそうです。アドリブで相手がこう言ったらああやり返す・そういう台本にないやり取りが上方歌舞伎の面白さですが、実は全然原作の近松とは関係がありません。やればやるほど近松から離れていく 。しかし、カットしたらお芝居の面白さがなくなってしまう、そういう場合もあります。そうなると「歌舞伎の古典たる基準をどこに置くか」というのは難しい問題に思えてきます 。

これはこう考えるしかないと思っています。歌舞伎が時代と共にあり・その骨格を育んでいた時代にあっては、それは何を やっても歌舞伎であったのです。「鮓屋」の権太を原作の吉野のならず者ではなくて江戸前のすっきりした渡世人に変えてしまったのは三代目菊五郎でした。これは歌舞伎の「同時代化」という試みで、文化文政期には盛んに行われたものでした。これは現代ならば、いわば権太を 擦り切れたジーパン姿で金髪のプータローに仕立てたようなもの。江戸のこの時代にはそれでよかったのです。しかし、現代ではそうはいかないわけです。渋谷の劇場で金髪ジーパンの権太をやってそれが歌舞伎かと言うと、観念的には分るけど・やはりそれを「歌舞伎」と呼んではならないと思いますね。それは別の形でやればいいのです。(注:これは勘九郎のコクーン歌舞伎や平成中村座のことを言っているのではありませんが、ある一線は引かれるべきでしょう。)

だからやみくもな原作回帰がいいとは思いませんが、もうこれ以上は崩さないという歯止めがどこかに欲しいわけです。だからこそ「型の古典化・固定化」が急務なのです。そして、その型の作品論的・演技論的な観点からの吟味が徹底してされるべきだろうと思っています。そこを出発点としていろいろな冒険が可能になると思うわけです。

盛綱の首実検の演技の良い悪いが時間の問題でないのは明らかですが、そもそもそんな27分も持たせる技量の役者がそういるはずもありません。役者が正しい基準を持ってさえいれば、首実検はドラマのなかであるべき長さに自然と落ち着くでありましょう。(この項つづく)

(H16・9・30)


○「型」の周辺・その3:「古典」ということ

「型の周辺・その2」において「標準(スタンダード)としての古典」ということを書いたので、「古典」ということについてもう少し考えてみます。

吉之助は趣味としてはクラシック音楽歴の方が歌舞伎より長いのですが、いわゆるクラシック音楽というのを英語で「Classical Music」というのはもちろんそれで通じますけれども、エッ?という顔をされる場合もないではありません。「Popular Music」と対立させた概念としてクラシック音楽をいうならむしろ「Serious Music」と言った方がいいのです。クラシック音楽で「Classical」と言いますとハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンなどの古典楽派の作曲家たちを指します。それ以前の作曲家はバロック音楽、それ以後をロマン派音楽というのはご承知の通りです。古典 楽派はそれ以後の音楽の形式の基礎を固めた作曲家たちです。

欧米の「古典」のイメージは常にギリシア文化に回帰します。アテネのパルテノン神殿のあの完成された美、規則的に立ち並ぶエンタシスの白い石柱の列のイメージです。様式的なものにまで高められた完全美です。黄金分割の絵画が美しいのは何故かという疑問はあり得ません。美しくあるためにその絵は黄金分割の比率で描かれているのです。そういう美の法則に裏打ちされたものこそが「古典(Classic)」です。

音楽で言えば、しっかりと楽譜に指定されたテンポを守り(つまりイン・テンポ)で形式(フォルム)を厳格に守ろうとする態度が「古典的」という印象を与えます。逆に曲想に合わせてテンポを自由に伸縮させて情感を込めようとする態度は「ロマン的」であると言えます。

「標準(スタンダード)としての古典」ということを歌舞伎で使う場合には、同じことを意識しておく必要があります。日本語の「古典」という概念は欧米から導入されたもので、意外と新しいものではないでしょうか。

歌舞伎の「型」というものも実は比較的新しい概念です。「型」というものが明確に(あるいは真剣に)意識されるようになったのは、おそらく明治半ば以降、九代目団十郎死後のことと考えてよろしいのです。それはそんなに古いことではないのです。浄瑠璃でも「風」ということが言われるようになったのも明治以降のことでした。

「型」とは、その演技・解釈が伝統に立脚したものだと主張できる根拠です。あるいは、そう演じなければ歌舞伎ではなくなってしまうような・逆に言えば そうやってさえいれば・とりあえずは歌舞伎に見えるような拠り所であり・道しるべです。歌舞伎がそのような・ある意味では頼りないものに拠り所を預けていること自体が、歌舞伎が時代から・庶民の生活感覚から離れていることの証拠だと言えます。だからこそ現代において「型」の重要性が増しているのです。

もちろん「型」という言葉自体は江戸の昔からあったものです。しかし、江戸の時代の「型」の概念と・現代における「型」の概念がまったく違うものであるはずはないし、同じであってはならないのです。現代の役者は「その型は拠り所たり得るか」ということをこれまで以上に強く意識しなければなりません。そこに過去と繋がる「よすが」を求めなければなりません。つまり、それは「その型は標準としての古典たり得るか」ということになります。このことを踏まえてさらに型の周辺を逍遥していきます。

(注:音楽において「古典楽派」を言う時には、それはギリシア・ローマ美術への回帰を叫ぶ美術史上の「古典派」とは異なるというのが一般的解釈です。それはクラシック音楽が中世キリスト教会のグレゴリオ聖歌を源としており・直接的にはギリシア・ローマへのつながりを持たないからです。それにも係わらず音楽で「古典楽派」を称しますのは、音楽の概念において美を構成する法則に裏づけされている音楽を「古典(クラシック)」と見て・その基礎をモーツアルト・ベートーヴェンが築いたと後世の人々が考えたからです。そこでイメージされるものは美術史上の「古典派」と概念的に何ら変わりはないことを申し上げておきたいと思います。それでなければ、あの見事な構成美に裏打ちされたモーツアルトの交響曲第41番を人々が「ジュピター」と愛称することはあり得ないのです。)(この項づづく)

(H16・9・27)


○「型」の周辺・その2:スタンダード(標準)としての古典

本稿では結論めいたことは考えずに「型」の周辺を逍遥しようとしております。

三島由紀夫監修により戦後始めての「桜姫東文章」上演がされたのが昭和34年11月歌舞伎座のことです。桜姫は六代目歌右衛門、清玄/権助が八代目幸四郎でした。日程から見ると11月4日か5日のことですが、ちょうどウィーン・フィルと来日公演中の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが・結婚したばかりの夫人と歌舞伎座を訪れています。「桜姫」終演後にカラヤン夫妻が歌右衛門の楽屋を訪ねた場面がNHKのニュースでも取り上げられました。残されたビデオでは「岩淵庵室」の場面がちょっとだけ見られます。カラヤンが歌舞伎を見たのは多分この一回だけであったと思いますが、後年カラヤンはこんなことを言っております。

「歌舞伎は私の理想だ、完璧ならば何も変える必要はないはずだ。」

このカラヤンの発言はロジャー・ボーンの評伝「カラヤン・帝王の光と影」(時事通信社刊)に出てくるものです。著者ボーンが歌舞伎をどの程度知っているのかよく分らないところがあります(能と混同している感じがある)が、ボーンは次のように書いています。

『歌舞伎と同様オペラも、三十曲か四十曲が何年ものあいだ繰り返し上演されている。もはや一種の儀式となっていて、知り尽くしているものが繰り返されることから楽しみが生じ、伝統的な衣装と装置を用いて新しい歌手が役割を演じ、新しい指揮者が指揮台に上がることに魅力が感じられるのだ。カラヤンの歌舞伎への傾倒ぶりが(カラヤン演出の)「薔薇の騎士」に見られる殺風景な装置、堅苦しい演技、音楽への厳格なまでの執着に現れているのではないだろうか。(中略)カラヤンの「薔薇の騎士」はあまり滑稽ではなかった。』

じつはカラヤンのこの発言を読んだ時は思わず笑ってしまいました。カラヤンの歌舞伎観劇の時に脇で一生懸命解説した方の知識の受け売りだろうとは思いますが、しかし、これはカラヤン芸術のある一面を示しているように思われるのです。カラヤンはオペラのスタンダードなレパートリー(概ね四十曲程度)をウィーン・オペラとミラノ・スカラ座それにニューヨークのメトロポリタン歌劇場が歌手と装置を提携し融通しあうことで、完全なプロダクションを創り出そうと計画した人でした。(その計画は結果的に頓挫しましたが。)彼は恐らくオペラの演出が音楽からどんどん離れて一人歩きしていく風潮を危惧したのです。そして「音楽にすべてが描かれている・演出は音楽だけのために奉仕しなければならない」という信念のもとに自ら理想的な演出を志したのです。歌舞伎の解説を聞きながら「これだ、これが私の目指す芸術の在り方だ」とカラヤンが無邪気に興奮したであろうことを 吉之助はじつに微笑ましく思います。

「型の周辺・その1」に書きましたとおり、さまざまな解釈を受け入れて・その違いを楽しむのは高級な知的お楽しみなのですが、しかし、そういう余裕を持つには自分のなかに揺るぎない「古典のスタンダード(標準)」を持っていなければなりません。どうもカラヤンは歌舞伎がそういう「古典のスタンダード(標準)」として固まったものだと受け取ったようです。実際の歌舞伎はまだそこまで完全に固定しきっていない・興行として十分成り立っているだけにまだまだ芸術としては「生(なま)」なわけです。現代における歌舞伎の「型」の問題は、「いかにして歌舞伎は固定化するか・歌舞伎はいかにして古典たり得るか」という問題であると考えています。

ちなみに吉之助は1983年ザルツブルクでのカラヤン演出の「薔薇の騎士」(R・シュトラウス作曲・ホフマンスタール作詞)の生の舞台を見ております。作者により「薔薇の騎士」は3幕の喜劇と確かに記されていますが、しかし、ボーンが書いたように滑稽であることがこの作品の本質であるとは思いませんね。たとえ喜劇で味付けられているとしても、終幕の元帥夫人の退場は人生の哀愁に満ちたものです。(この項続く)

(H16・9・22)


○「型」の周辺・その1:「演出家の時代」

全然歌舞伎と関係ない話から始めますが、「型」の周辺を考えようと思っているのです。

その昔は、あるオペラの演奏をキャッチフレーズ的に言い表す場合に、例えば「カラスのルチア」・「デル・モナコのオテロ」というように歌手の名前を冠したものでした。それが私が音楽を聴き始めた 1960〜70年代には指揮者の名前で呼ばれるようになります。例えば「カラヤンの薔薇の騎士」・「ショルティのリング」といった具合です。これはスター指揮者の台頭と・個性的な歌手が少なくなって小粒になってきたせいもありますが、音楽は指揮者の一貫したコンセプトのもとに統一されるべきものという考え方が強くなってきたせいでもあります。そして、今やオペラは演出家の名前で呼ばれるようになっています。「シェローのリング」・「クップファーのオランダ人」と言った具合です。現在のオペラはまさに「演出家の時代」と言っていいのです。

そのきっかけは1976年から80年に掛けてバイロイト音楽祭で制作されたパトリス・シェロー(フランスの演出家・映画監督)による「ニーベルングの指輪」四部作(ブーレーズ指揮)の実験的な舞台です。その舞台はゲルマン神話が近代社会の階級対立に置き換えられ、冒頭のライン河の場面には巨大なダムが登場し、その初日は大ブーイング、警官隊が出動するほどの大騒ぎになりました。それ以後は作品を現代の視点からどう解釈し・どう解体し・何に置き換えるか、というのがオペラ演出の主流になっているのです。「フィガロの結婚」の舞台がニューヨークのハーレムに置き換わり、「オテロ」が現代の異文化対立の視点から読み込まれるということになります。

吉之助がバイロイトに行ったのは1983年のことで、ピーター・ホール(イギリスの演出家)演出の「リング」(ショルティ指揮)はまさにシェローへのアンチ・テーゼで、ワーグナーの描いた神話そのままをそっくり視覚化しようというものでした。本水やら本火を使用するその舞台は初めての「リング」体験者には分り易くて有難い演出でしたが、正直言って知的衝撃はなかったかも知れません。今となってみれば歴史的に忘れ去られた演出だと言えます。

はるばるヨーロッパに旅行すれば「伝統的な」舞台芸術を鑑賞したいと日本人は思うものでしょうが、オペラに限らず演劇でもそんなロマンチックで優雅な伝統的な舞台には残念ながらなかなか出会えないようです。革新的・実験的な舞台が非常に多いですし、そういう舞台を見てブーを言ったり・応援したりして楽しむというのがヨーロッパの日常的なオペラ/演劇生活というものののようです。

もちろんこういう風潮に批判的な人々もおります。そういう方は保守的なブルジョア層に多いようです。もともとオペラ観劇は王侯富豪の社交の一種です。休息時にロビーに出てみれば、宝石衣装を綺麗に着飾った男女がゆっ たりとロビーを練り歩く、それが社交儀式であるのが理解できます。そういう方々は高い料金を払っても・○○国立歌劇場とか保守的な舞台が見られる劇場に行きます。そういう保守的劇場と・そうでない実験的劇場は完全に一線が引かれていると考えていいようです。

しかし、さまざまな舞台解釈を見て議論して・その違いを楽しむというのは、かなり高級な知的お楽しみであることは間違いありません。また、ある演出以外を否定してその他を全然受け入れないということもなくて、違う解釈をそれはそれとして受け入れる余裕というものも持っているのです。欧米の人々はいわゆる「古典」についてひとつの揺るぎないイメージというものを持っているのでしょう。そういう教養の土壌が欧米にはあるのです。

何が言いたいのかお察しいただけるかと思いますが、歌舞伎の「型」が様々なものが試されていた時代がかつてあって・それがひとつの型に収斂(しゅうれん)されていく・というよりも他の型が排除されていく過程には、「伝統」というものの在り方と・それを受け入れる観客と芸能との係わり合いがあるのです。その周辺をもう少し考えてみたいと思います。(この項続く)

(H16・9・19)


○野村萬斎のオイディプス王

アテネ・オリンピックの併催文化イベントとして、本年7月1日〜3日にアテネの古代劇場ヘロデス・アティコスで行なわれた蜷川幸雄演出「オイディプス王」の模様がテレビ放映されました。まだビデオを断片見ただけの感想ですが簡単に記しておきます。

吉之助も二十年ほど前に芝居をよく見ていた頃には蜷川さんの演出の舞台はよく見ました。最近は「ニナガワ・カブキ」という言葉はあまり使わないようですが、当時はよくそういう呼ばれ方をしたものです。新宿花園神社境内でやった野外劇「王女メデイア」( 平幹二朗主演)などを思い出します。蜷川演出の基本は群集です。蜷川さんはよく「まず群集ありき・主役なんてそこから浮き上がってくるだけにすぎない」と言っているそうですが、とくにかく群集処理が圧倒的にうまいのです。しかし、これは非常に残念だと思うのですが、群集の台詞がいつもほとんどどなり声・がなり声なんですね。恐らく切迫感か焦燥感を出すために意図的にそう指導されておられるのだろうと思うのですが、これが吉之助にはちょっと不満でした。主役が群集のなかから浮き上がってくるというよりは、何と言うか・「浮いている(初めから別物)」のようにさえ感じました。まあ、これもある程度意図的なのかとも思いますが。

残念ながら今回の「オイディプス王」もコロスの台詞は聞いていて非常に疲れます。「うわあ何と言う悲劇じゃあ」と熱く叫ばなくても・もっと抑えた淡々とした台詞で悲劇の色合いを出せると思いますが。しかし、別の意味から言えば、野村萬斎のオイディプスは実に素晴らしく群集から「浮いている」。もう周囲と「モノが違う・格が違う」のが歴然としているのです。この優(ひと)が凄いと思うのは、台詞の緩急のうまさもさることながら・それに合わせて声色を自在に変えるところです。声色を駆使する、これにはなかなか出来ることではありません。いや、感心いたしました。いつもの悲劇を背負うオイディプスの重みより独特の軽みを感じさせるのもそれなりと思いました。

(H16・9・11)


○「夏祭」と「ウェストサイド物語」

勘九郎がニューヨークに平成中村座を持ち込んで本年7月に上演した「夏祭浪花鑑」は大好評でありました。この平成中村座の建てられたリンカーン・センターの敷地からほど近くが 「ウェストサイド」と呼ばれる地区になります。はっきり言いますと、あまりいいお土地柄とは申せません。この地区を舞台にしたミュージカルに「ウェストサイド物語」 があるのはご存知であろうと思います。

「ウェストサイド物語」の初演は1957年9月のことです。同名映画(1961年)も大ヒットしました。劇団四季代表の浅利慶太氏が、その昔・「ウェストサイド物語」の初演後しばらくのことらしいですが、虎ノ門の米大使館に本作の日本上演をしたいと相談に行ったそうです。応対した係員は顔をしかめて、 「そんな下らん作品よりも「オクラホマ」 か「南太平洋」にしたらどうか」と言ったということです。「ウェストサイド物語」はアメリカ社会の恥部を描いた作品なのです。

「ウェストサイド物語」というと、最も知られたナンバーは「トゥナイト」でありましょう。トニーとマリアの人種差別を超えた純愛。しかし、それだけが「ウェストサイド物語」であるならば・この作品が 与えた社会的衝撃は理解ができません。「ウェストサイド物語」は「ロミオとジュリエット」の大枠を借りた悲恋物語仕立てになってますが、実は社会的プロテストを多く含んでいる作品なのです。それはこの時代によく言われた「怒れる若者たち(アングリー・ヤングメン)」という時代の気質に密接に繋がっています。そういう観点から見れば、本作で最も衝撃的なナンバーは「アメリカ」と「ねえ、クラプキ警部さん」に違いありません。

「アメリカ」ではプエルトリコ移民の女たちが「アメリカは素晴らしいところだわ」とその憧れを歌うと・男たちが「お前が白人だったら、そう なんだけどな」と言って笑い飛ばします。それでは本作に素晴らしいアメリカ文化を享受する豊かな 白人が登場するでしょうか。そんな白人など全く登場しません。ジェット団の連中は・白人ではあっても落ちこぼれの不良連中です。その落ちこぼれが相手がプエルトリコだと言って優越感を感じているだけのことです。「ねえ、クラプキ警部さん」では、今度はその彼らが「俺たちは社会的病気なんだ、どこへ行っても厄介 物扱いだ、どうすりゃいいんだ」と歌うのです。

ここで主人公のトニーを考えてみます。トニーはいまは小さいコーヒーショップでアルバイトをしている真面目な青年ですが、もとはジェット団のメンバーで・リーダーのリフが兄貴分として慕っている存在です。ということは明記はされていませんが、トニーはジェット団の前リーダーだということです。だとすれば、喧嘩っ早くて・切れ易く、悪いことを随分やった男に違いないのです。トニーはジェット団から完全に手が切れていません。もちろん喧嘩してジェット団を離れたわけではないので・仲間が慕ってくればそれなりに相手をしてしまいます。仲間たちは堅気になったトニーがうらやましくて仕方ないのです。離れようとしても昔の仲間がすり寄って来ます。結局、 トニーは以前のしがらみから抜けられません。彼はジェット団とシャーク団の諍いを止めようとしますが、弟分のリフが殺されると・カッとなってべルナルドを刺してしまいます。映画のトニー役(リチャード・ベイマー)は 風貌が純朴過ぎますね。あのイメージに騙されてはいけません、もっともああでないと映画にはなりませんがね。どうしようもない不良が足を洗って堅気になろうとして・そこで人種差別を越えた純粋な恋をして・黙って見てればいいのに仲間の争いを止めようとして・そういう似合わないことをしようと したから 殺されるというのが「ウェストサイド物語」のもうひとつの側面です。

まったく似たようなことが「夏祭浪花鑑」にも言えます。団七も徳兵衛も江戸歌舞伎に取り上げられて「男伊達」らしく格好よく洗い上げられた役になっていますが、じつは彼らは大阪の市井の最下層の男たちです。

団七九郎兵衛はもともとは浮浪児であって・いかさま師の老輩義平次に拾い上げられて育てられて・そこの娘と出来てしまい、肴のふり売りしたりしていたものが喧嘩で名を売って、色町で武家奉公人を斬って入牢したという設定になっています。また徳兵衛も備中玉島を脱走して一時は非人の群れに入った喰いつめ者で、喧嘩の尻押しに買われたり・いかさま師のようなことをしてきた男です。

義平次にとって団七は浮浪児であったのを拾い上げてやったことでもあるし・娘の連れ合いでもあるし、団七を応援してやればよさそうなものなのですが、これが全然そうではないのです。この根性の捻じ曲がった老人は「お前ばかりにいい目見させてたまるか・格好付けやがって誰の世話になったんじゃい」という感じで団七の足を引っ張 り続けるのです。義平次には底辺を這いずり回った人間の強烈な僻みと妬みと醜さがあって、そこから抜け出そうとする団七を邪魔することしか考えていません。そのしがらみが結局、団七を絡め取ることになるわけです。

そう考えてみると、ニューヨークで「夏祭」を上演するというのは悪くないアイデアでしたね。ニューヨークの観客が警官が登場して銃を構える「夏祭」のエンディングをどう感じたでしょうか。「ウェストサイド物語」とイメージが重なってくれましたかね。団七も徳兵衛も社会の底辺にうごめくアウトローだということは感じてもらえたのではないでしょうか。

(H16・9・7)


○初代白鸚の弁慶

「勧進帳」についてのふたつの論考:「勧進帳のふたつの意識」「弁慶の肚の大きさ」を サイトにアップしました。どちらも勧進帳読み上げと山伏問答のドラマの重要性を考えるものです。それではこの点において・理想的な弁慶役者は誰だと吉之助は考えるのか、そういう質問があるかも知れないので・ここに書いておきます。

吉之助が思うには、読み上げ・問答において初代白鸚(=八代目幸四郎)の弁慶が最も優れていたと感じています。幸い白鸚の弁慶は多くの映像・音声資料が遺っています。そのどれも言葉が明瞭であること・台詞の緩急が自在なこと・全体のアッチェレランドのテンポ設定が見事な点において非常に参考になります。

手許に昭和36年2月歌舞伎座の「勧進帳」の舞台のビデオがあります。七代目幸四郎追善興行で三兄弟出演で話題の興行でしたが、この月の14日に幸四郎が突然東宝への移籍を発表して・大騒ぎになったといういわくつきの舞台でした。この時の富樫の十一代目団十郎(当時は海老蔵)も戦後の代表的な富樫であります。観客の興奮を誘う見事なテンポ設計の読み上げ・問答です。さすが兄弟だけに息がピッタリです。

ところで、この舞台ビデオを見ていて「ほほう・・」と思ったのは、意外に白鸚が表情を作ることです。心理主義的というか・説明的に思うくらいに分りやすく表情を変化させるんですね。もう少し抑えたほうが・・という気もしますが、等身大の弁慶像を作ろうとしているように感じられました。戦後の昭和30年代という時代を感じさせて新鮮な感じがしました。なるほどこの演技の延長線上に今の幸四郎の弁慶がいるのだなあということを感じました。

(H16・9・4)


○「桜姫東文章」の記号論

今週のメルマガ第133号「連関性の喪失」は、「桜姫東文章」の記号論です。本文を清玄で筋を通した都合上、割愛した部分を補足しておきます。

「東文章」の登場人物には他にも残月・長浦のような興味深いキャラクターがいます。残月は長谷寺にあって清玄の次のランクに位置する高僧であります。ところが、これが清玄を追い落として自分が寺のトップになろうという企みを持ち、またその一方で桜姫の局である長浦と関係を持っているという生臭坊主です。残月・長浦のコンビは、これは明らかに清玄・桜姫のカリカチュア(戯画化)であって・劇中においてコミカルな要素を担っているわけです。

しかし、興味深いことに彼らは劇中において清玄・桜姫のコンビと対比的に配置されている重さを持っているようでいて・実はそうではなく、途中でいつの間にやら消えてしまう人物たちです。恐らくどこかでしたたかに生きているのでありましょうね。しかし、芝居から見れば彼らは本筋を担っているわけではなく て、劇のバランスをひっくり返し・雰囲気をかき回す役目を与えられている記号に過ぎないわけです。用がなくなればいらなくなるのです。

同じことが権助にも言えます。「連関性の喪失」において触れたように・権助は清玄と対比されるべき位置に置かれているのですが、実は清玄と同等の重さを持っている役ではないのです。このことは最後に分ります。権助も用がなくなれば・桜姫に簡単に殺されて消えていくしかないわけで、キャラクターとして完全ではないのです。権助は清玄が「男性」として取り落とした要素だけを担った「分身」であるからです。だから、清玄がこの世にある時には桜姫を清玄から引き離す反対の極としての役割を機能できるのですが、しかし、清玄が死んだ時(そして幽霊になって肉体を失った存在となった時)に権助が象徴していた男性の「肉体」としての機能は失われる(つまり用なしになる)ということになるのです。

清玄と権助がふたりして男性のイメージを分担して・つまりひとりの役者がこのふた役を兼ねて・桜姫に対抗しなければならないのは、そういう理由です。こうしたことはお芝居の登場人物を記号に還元する作業によって見えてくる わけです。

(H16・8・29)


○「四谷怪談」端折り上演

今月(8月)歌舞伎座・第3部は勘九郎がお岩さまを演じる「東海道四谷怪談」通し上演です。この公演はまだ見ていませんが、しかし、「通し上演」とは銘打っていますが 、 開演は午後6時・終演は午後9時40分と時間が限られているせいで事実上の「端折り上演」のようです。三角屋敷は「舞台番」なる役が登場して粗筋を説明して済ましてしまうのだそうです。端折るくらいならいっそのこと説明なしの方がスッキリ すると思いますが、これが隠亡堀と蛇山庵室の舞台転換の「つなぎ」なんだそうで、考えたもんだが、あきれます。「四谷怪談」はお化け芝居の夏狂言だから8月興行にはピッタリかも知れませんが、こういう場割りを定型にして欲しくないと切に願うものです。

三角屋敷が上演されることが近年はホントに珍しくなりました。これでは「四谷怪談」が形骸化して・現代では「お岩さまのコワーイお化け芝居」だけの意味しか持たなくなってしまいます。端折ると言えば夢の場もあまり上演されないようです。あそこで綺麗なお岩さまを見せておくことは意味があることですし、夢の場が舞台転換して蛇山庵室の百万遍につながっていくところなど・南北の作劇術の妙という気がしますが、こういうところさえ生かさないのです。

別に「四谷怪談」をいまさら「忠臣蔵」に関連つけて上演すべしとは言いません。しかし、「四谷怪談」のこういう場割りでは、ただ主筋をおざなりに追っているだけで、観客を恐がらせるだけの仕掛け芝居という印象にしかならないでしょう。これでは「四谷怪談」の本質を誤解させるばかりです。鶴屋南北が幽霊というものをキーワードにして 、時代に鋭く切り込んでいった、その批判精神、そこがこの芝居の本質なのです。「四谷怪談」は歌舞伎の大切な財産なのですから、大事に扱って欲しいと思うのです。

(H16・8・22)


○「桜姫の世界」と密教思想

「桜姫東文章」の清玄だけでなく、歌舞伎には破戒僧を主人公にしたお芝居が多いことは言うまでもありません。雲絶間姫に色仕掛けで迫られて通力を失う鳴神上人などはその典型であります。その歌舞伎十八番の「鳴神」の解説で必ず引き合いに出されるのが久米仙人のお話です。久米仙人は実在の人物ですが、伝説によれば吉野の龍門嶽で修行し仙人となり空を飛んでいたところ・下界で洗濯をしていた若い女性の脛を見て動揺・そのため通力が無くなり墜落したとのことで、この話は「今昔物語」 によってよく知られています。

この久米仙人に縁(ゆかり)のあるお寺が奈良県橿原(かしはら)市にある久米寺です。久米寺は現在は真言宗御室派のお寺ですが、推古天皇の勅願により聖徳太子の弟君の來目(くめ)皇子の建立になるとも伝えられる 古いお寺です。このお寺には真言密教の根本経典となる「大日経」の経典が昔から納められて埋もれており、これが入唐前の空海(弘法大師)によって「発見」されることになります。ここで大日経をあらかじめ学んでいたことが空海の長安での日々を有益なものにします。そういうわけで久米寺は真言密教にとって重要なお寺なのです。

ここで大事なことは、久米仙人の墜落のお話はお堅いお坊さんも女性の色香には迷うものだという下世話なお話ということではなくて、実は「妙適清浄の句、是(これ)菩薩の位(くらい)なり。欲箭(よくせん)清浄の句、是菩薩の位なり。蝕(しょく)清浄の句、是菩薩の位なり。愛縛清浄の句、是菩薩の位なり。」という密教の教えと無縁ではないということです。「女の色香に迷うとは修行が足らん」ということではなく・それも 有情の有様としてあるがままに受け入れるべきということかと思います。もっとも久米仙人の話が民衆に親しみを感じるというのはその心の迷いに人間の弱さというか・どこかユーモラスなものを感じるということなのでしょうが、そういう解釈もまた良しです。

「桜姫の世界」の成立過程においても、このような密教思想がその根本にあると考えてよろしいのだろうと思っております。

(H16・8・19)


○「桜姫という業(ごう)」

今週のメルマガ132号「桜姫という業(ごう)」は鶴屋南北の「桜姫東文章」に関する論考です。

「江ノ島児ヶ淵の場」の南北の着想は、万治2年(1659)に出された中川喜雲の「鎌倉物語」に出て来る児ヶ淵伝説に拠っています。「鎌倉物語」が伝えるところによれば、若宮別当僧正院の白菊という稚児が建長寺の僧に見初められ、その情の恩に対して江ノ島児ヶ淵より身を投げ、建長寺の僧もその後を追い身を投げたと言います。つまり、衆道の後追い心中です。建長寺は臨済宗(禅宗)のお寺であります。

南北はこの後追い心中を取り上げて、しかも不心中に作り変えてしまいました。相承院の稚児白菊丸が投身したあと、長谷寺の所化自休は岸壁の波に恐れをなして身を投げることが出来ず、死に損ないます。死に損なった自休・すなわち後の清玄阿闍梨はその法罰を受けるのであるかも知れません。

別稿「桜姫という業」において、桜姫の変転の有様は真言密教の教えそのものであるということを考えました。清玄はこの世の律の恐ろしさをまざまざと実感できる人物でなくてはなりません。そのために も清玄は密教の僧でなければならないのです。実説の禅宗の僧が真言宗の僧に入れ替わるのは必然があるのです。鎌倉長谷寺は真言宗豊山派のお寺であり、阿闍梨とは密教を修行し・灌頂(かんじよう)を受けた僧のことを言うのです。

吉之助は仏教について通り一遍の知識しか持ち合わせていないので、「東文章」における清玄の装束や仕草がどの程度密教の作法に則っているのかがよく分りません。清玄が「南無阿弥陀仏」などと唱えているのを見ると、南北は分っていないのか・ワザと宗派をぼかそうとしているのかとも思います。しかし、「東文章」の根本に流れるものが密教思想(あるいはその周辺のイメージ)であることは間違いないように思われます。

このことから歌舞伎での「桜姫の世界」の成立を密教思想の影響において論じることができるだろうと推測しています。同じ南北の「隅田川花御所染(すみだがわはなのごしよぞめ)」・通称「女清玄」]・文化11年・1814)など 「桜姫物」の先行作を合わせて検討してみると面白いかも知れません。「桜姫の世界」と密教の関連については空海の真言密教そのものよりも、むしろ「真言立川流」という・真言の正系であると称しつつ出現し・明治維新頃まで続いた性的宗教との関連を想像した方がよいかも知れないという気もしますが、いずれにせよ 吉之助の想像です。これから歌舞伎を研究される方には面白いテーマだと思います。

(H16・8・15)


○勘九郎の「夏祭」イン紐育

勘九郎がニューヨークに平成中村座を持ち込んで上演した「夏祭浪花鑑」がNHKハイビジョンで生中継されました。(現地時間7月24日夜)芸に対する目の肥えているニューヨークっ子にも歌舞伎は衝撃を与えたようで、勘九郎も本望であったことでしょう。もっとも外人が「カブキ、ワンダフル」というのは予想は付きましたけどね。幕切れにNY警察の警官たちが舞台奥から登場して団七・徳兵衛にピストルを突きつけるのは、昨年渋谷のコクーンでのパトカー登場の焼き直し(発展)ですが受けておりましたね。しかし、 吉之助はそれよりも身体の大きい警官役の外人たちが勘九郎と舞台に並んで・かしこまって正座して「まず今日はこれ切り」をやったのが楽しかったです。

串田和美演出については別稿「空間の破壊」での「三人吉三」の舞台の印象とほぼ同じですが、改めて感心したのは照明の使い方がうまいことです。演技の振りや台詞回しは通常の歌舞伎とほぼ変わらないのですが、照明のおかげで陰影がついて・立体感が出て・グッと印象が強くなりました。串田氏は従来の歌舞伎の良さを認めて型をホントに大事に扱っていますね。それはもちろん素晴らしいことなのですが、しかしこの試みが今後も続けられるならば、役者の演技・科白回しにもいずれは冒険をしてもらいたいと思うのです。

昭和5年のことであったか、六代目菊五郎が「野崎村」の新演出を出した時のこと、菊五郎の楽屋に新派の英(はなぶさ)太郎が訪ねた時に・菊五郎が「どうだった?」と聞きました。「芸の上手下手は別として、あれなら新派の役者にも出来ますね」と答えると、菊五郎はウッと言う顔をして・しばらく黙っていたが「他山の石として聞いておこう」と言ったそうです。

さすがの菊五郎も英太郎の率直な感想にギクッとしたようです。しかし、菊五郎が歌舞伎の演出を再考した事はもちろん意義あることなのです。むしろ、これは菊五郎しか出来ないことなので・もし外部の人間がこれをやったら袋叩きであったでしょう。(武智鉄二の例を挙げるまでもありません。)だから、串田氏が役者の動き・科白回しに手を付けないのは賢明だと思いますが、これは多分、勘九郎がやるべき領域なのでしょう。「こんな舞台なら新劇役者が演ったって同じだ」という批判が出ても、勘九郎が共同演出に名を連ねて・一度はそこまで徹底してやってみる必要があると思っています。

義平次を演じた笹野高史はこの老人の汚らしさ・醜さをよく出して好演です。しかし、そのことは置いて・憎まれ口を言えば、確かに歌舞伎役者に義平次ができる人が払拭していることはあると思いますが、あえて外部に人を求めてそこまでリアルにこだわるならば、やはりコテコテの河内弁がしゃべれることが義平次役者の必要条件であるかなと思うのです。(関西生まれの人間にはちょっと気になりました。)

(H16・7・29)


○「自由主義者・助六」

今度の日曜日のメルマガ第130号・「悪態の演劇性」は「助六」についての論考です。ところで太宰治というとあまり歌舞伎とはご縁はない作家のように思いますが、「パンドラの匣(はこ)」(昭和20年)にこんな文章があるのをご存知でしょうか。ちょっと長めになりますが、その部分を引用します。

『自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何なる理由からか、ひどく声をひそめて尋ねる。「フランスでは、」と固パンは英語のほうでこりたからであろうか、こんどはフランスの方面の知識を披露する。「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌してずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、をはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいです。」「なんだ、あばれんぼうか。」とかっぽれは案外だというような顔で言う。「ええ、まあ、そんなものです。たいていは、無頼漢みたいな生活をしていたのです。芝居なんかで有名な、あの、鼻の大きいシラノ、ね、あの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。時の権力に反抗して、弱きを助ける。当時のフランスの詩人なんてのも、たいていもうそんなものだったのでしょう。日本の江戸時代の男伊達とかいうものに、ちょっと似ているところがあったようです。」「なんて事だい、」とかっぽれは噴き出して、「それじゃあ、幡随院長兵衛なんかも自由主義者だったわけですかねえ。」「そりゃ、そう言ってもかまわないと思います。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀の頃のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川戸助六鼠小僧次郎吉も、或いはそうだったのかも知れませんね。」「いったいこの自由思想というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。」』(太宰治:「パンドラの」」)

「かぶき者は自由主義者・その本質は反抗精神」と、太宰はかぶき者の精神を見事に看破しています。安土桃山の開放的な空気・広い世界を知ってしまった人々にとって、江戸時代初期は狭い空間のなかに突然押込められたようなような圧迫感を感じさせたかも知れません。そのやり場のないエネルギーが、かぶき者の派手な化粧や粗暴な振る舞いになって噴出するのです。それが「かぶき的心情」です。歌舞伎素人講釈では、さまざまな作品を分析しながら・この「かぶき的心情」をさらに掘り下げていきたいと思います。

(H16・7・16)


○なぜ弁天小僧は「小僧」なのか

本日のメルマガ第129号:「荒事における稚気」において、荒事芸の「童子の心」について考えました。童子の持つイメージが「祭祀性」を呼び起こすのは不思議な現象 です。これに関連して・メルマガでは文章の流れから割愛しましたが、その性格を考えるうえで「稚気」が重要な要素になる役をもうひとつ挙げておきたいと思います。それは「弁天小僧」です。

弁天小僧・「浜松屋」で女装して強請騙りを働くならず者がなぜ「小僧」なのでしょうか。じつは荒事芸が稚気を必要とするのと同じような要素が弁天小僧にもあるのです。弁天小僧の「小僧」は「幼な神」 を意味するという説があります。神と言っても泥棒のことのだから「安い神」なのですが。なぜ泥棒が「神」に通じるのかは幕末という袋小路に入ったような時代の雰囲気が分らないと理解 ができません。これについては別稿「小団次の西洋・四代目小団次と黙阿弥」をご参照ください。ここでは弁天小僧の「稚気」の要素を指摘するだけに留めます。

黙阿弥の「青砥稿花紅彩画」全体を通じて弁天小僧は「トリックスター」です。派手に自由奔放に動き回って・状況をかき回して・芝居の筋を展開させる仕掛け人です。それが「童子のイメージ」につながるのです。実際、弁天小僧は根っからのワルではなくて、ワルを覚えたての子供に過ぎません。「浜松屋」を見れば、弁天小僧は娘姿で現れ・盗みをワザと見つけられ・店の者に叩かれる役であって、それをネタに南郷が強請るという算段です。正体を見破られた弁天小僧はワルぶって啖呵なんか切ったりしますが、所詮は使いっ走りに過ぎないわけです。「子供のワル」という感じが初演で大当りを取った十八歳の五代目菊五郎の弁天小僧の重要な要素だろうと思うわけです。(先日、4月歌舞伎座の勘九郎の「弁天小僧」は茶目っ気と悪戯心のある弁天小僧であったと思うのですが、 吉之助がここで言っている「稚気」とは方向が微妙に異なるのですね。)

火事や地震と同じく、泥棒も「世直し」のなにかを予感させるものでありました。だからこそ、幕末の江戸においてあれほど白浪物が流行したのです。しかし、白浪物でその「祭祀性」を明確に 指摘できるものはないかも知れません。あるならばそれは弁天小僧とか鼠小僧・因果小僧とか「小僧」と名の付く泥棒たちであるかも知れません。弁天小僧という役を「稚気」の観点から考えてみることは意味あることだと思います。

(H16・7・5)


○漱石の歌舞伎観

夏目漱石は芝居は好きじゃなかったようで、歌舞伎について書いた文章は少ないようです。漱石は歌舞伎について『極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応じるために作ったもの』と書いております。(明治42年5月・「明治座の所感を虚子君に問われて」)

漱石は明治23年に第1高等学校を卒業・そのあと東京帝国大学で英文学を学ぶのですが、実は漱石は建築学がやりたかったのだそうです。それを親友に相談したら「日本のような国に英国のセントポール寺院のような建物が建てられるわけがない。だから建築家の仕事はない。文学者なら多少の見込みはあるだろう」と言われたのだそうです。それで漱石は英文学に進んだ わけですが、やりはじめて「しまった」と思ったらしい。それは英文学がよく分らなかったからです。その辺が漱石先生の「憂鬱」の根源のひとつにもなっているらしいのですが、ここでは割愛。

漱石の評論を読んでいますと、この人は理科系の人だなあという感じが確かにします。対象の「構造」への関心が非常に強いわけです。漱石の「文学論」(明治40年)の目次を見ると驚嘆します。「文学的内容の分類 ・文学的内容の数量的変化 ・文学的内容の特質 ・文学的内容の相互関係 ・集合的F」・・まるで理科の教科書です。

ところで、明治42年5月明治座を見た感想を記したものがあります。(明治42年6月・「虚子君へ」)この感想がなかなか面白く、なるほど「猫」の先生の言いそうな台詞だなあと思いました。

『私にはやっぱり構造、たとえば波乱・衝突から起こる因果とか、この因果と・あの因果との関係とかいうものが第1番に眼につくんです。ところがそれがあんまりよく出来ていないんじゃありませんか。あるものは私の理性を愚弄するために作ったと思われますね。太功記などはまったくそうだ。あるものに至っては、私の人情を傷つけようと思って故意に残酷に拵えさせたと思われるくらいです。切られ与三郎の、そうもっともこれは純然たる筋じゃないが、まあ残酷なところがゆすりの原因になっているでしょう。』

作品構造をやたら気にする点は吉之助も似たようなところがあるので、親近感を感じますね芝居の内容自体は漱石はあまりこれを評価していないようです。

『芝居を賞玩するに、局部の内容を賞玩するのと、その内容を発現するために用うる役者の芸を賞玩するのと、ほとんど内容を離れた、内容の発現には比較的効用のない役者の芸を賞玩するのと三つあるようですね。こうなっても芝居の好きな人は、やっぱり内容に重きを置いていないようじゃありませんか。お富が海へ飛び込むところなぞは内容として私は見るに耐えない。演り方が旨いとか下手いとかいう芸術上の鑑賞の余地がないくらい厭です。ところが芝居の好きな人には私の厭だと思うところはいっこう応えないように見えますがどうでしょう。』

これは吉之助には漱石の言いたい気持ちがよく分る気がします。しかし、漱石先生は理屈っぽいねえ。

『(「馬盥の光秀」で)光秀が妹から刀を受け取ってひとりで引っ込むところは、内容として不都合がない。だから芸術上の上手下手をいう余地があったのです。あそこはあなたがたも旨いと言った。私も旨いと思います。ただし、あすこの芸術は内容を発現するための芸術でしょう。』

『(「太功記」)十段目に初菊があんまり聞こえぬ光慶さまとか何とかいうところで品(しな)をしていると、私の隣の枡にいたお婆さんが誠実に泣いていたのには感心しました。あのくらい単純な内容で泣ける人が今の世にもあるかと思ったら有難かった。と言ってあすこが詰まらないんじゃない。かなり面白かった。けれどもその面白みはあの初菊という女の胴や手が蛇のように三味線につれてヒナヒナするから面白かったんで、人情の発現として泣く了見は毛頭なかったんです。』

主筋に直接関連のない枝葉の芸も・歌舞伎はそういう所が目に付くものですが、漱石はこれが非常に気に触っているようです。そういうものを面白く感じるセンスもあるのですが、どこか醒めていて斜に構えている 気難しいところがまた興味深く思いました。近代人・漱石の一面が見える感じですね。

(H16・7・1)


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