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熊谷の引っ込みの意味〜団十郎型の劇的効果

〜「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」


1)音楽劇としての切場

「そもそも熊谷の山は物語でも何でもなく、じつは出と引っ込みにあるのだ。直実は仏心に始まって仏心に終る。・・・要するに『陣屋』は花道の芝居である。」と杉贋阿弥は「舞台観察手引草」に書いています。まさにその通りで、九代目団十郎型の最大の特色がこの幕外の直実の花道の引っ込みにあると申し上げてよかろうと思います。

団十郎型以前の古い型(たとえば芝翫型)においては、舞台は登場人物全員の引っ張りで幕となるかたちでした。これを団十郎は、直実だけを花道に残して幕にして、この後、花道の引っ込みをたっぷりと見せるようにしたのです。これに比べれば、「制札の見得」で制札の向きが上か下かとかいうのは大した違いではないのでして、この直実の花道の引っ込みに団十郎型のすべてが集約されていると言えると思います。

しかしこの団十郎型の花道の引っ込みは芝居の本来の約束からすれば間違っているのです。それを承知で団十郎はこのやり方を強行したのだと思います。本稿ではこの事を考えてみたいと思います。

「熊谷陣屋」は「一谷嫩軍記」という義太夫狂言の三段目切に当たります。切場の終わり、すなわち段切においては義太夫の音楽は三味線のシャンの音で終結します。同時に演技もそこで終結されねばなりません。それが音楽劇(音楽によって劇全体の流れが支配されているドラマ)というものの規則です。したがって、音楽と演技の流れを一致させて、ドラマを終結に持っていくためには、引っ張りの見得(絵面の見得)で静止の形で幕を引くのが正しいやり方なのです。

役者が花道へ移動して幕外で引っ込みをするというのは、切場ではない場面、すなわち三重やオクリという形で義太夫が未完結のままとなる場面でないと音楽的には許されないのです。たとえば同じ「一谷嫩軍記」でも「須磨浦(組討)」は二段目の大端場で、義太夫は「涙、ながらに(三重)」と三重の形で未完のままで終りますから、役者は幕外を引っ込むことが許されるのです。事実、昔はこの場面で熊谷は敦盛の首を持ち、馬の手綱を持って花道を引っ込んだのです。(この引っ込みがされなくなったのは、「陣屋」での団十郎型の引っ込みとダブってしまうからでしょう。)

「陣屋」の幕切れは引っ張りで終るのが本来であるというのは丸本を読んでも納得できます。大序(もはやこの作品の大序が上演されることはありませんが)において義経が「一枝を折らば一指を切るべし」という制札を熊谷に与えて、「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」と言ったその謎が、この三段目切場で解明されるのです。さらにこの場に登場する弥平兵衛宗清(弥陀六)により、討ちては討たれ・討たれてはまた討つという、源氏と平家の永劫の争いが示唆されます。そして藤の方と相模のふたりの女たちの想い。それぞれの想いが交錯するなかで大団円を迎えるというのが「陣屋」の劇構造なのです。オペラで言えば五重唱での壮大なフィナーレとなるところです。やはりこの場は登場人物全員の引っ張りで幕とするのが自然なのだろうと思います。


2)幕切れの団十郎型の意味

このように「陣屋」は本来は引っ張りで幕とすべきなのです。それではこうした約束事を無視してまで、団十郎が直実の花道引っ込みで描き出したかったものは何なのかを考えてみたいと思います。

この「陣屋」幕切れでは、直実の無情の想いだけではなく、母親としての相模の悲しみ、宗清の修羅道の悲しみ、それらの悲しみを受け止めて清める義経の想いなどが交錯しています。本来はこうしたさまざまな登場人物の交錯する渦が大きな壮大な叙事詩的フィナーレを作っていますので、そのなかでひとつだけをピックアップすることはできないはずです。しかし、団十郎はあえて直実ひとりに焦点を当てて、この芝居を「直実だけの芝居」にしてしまったのです。

これは「主役を張っている直実役者のエゴだ」と、そういう見方も可能かも知れません。直実の花道引っ込み自体は団十郎以前にも先例はあったようですから、あるいはそうした安直な発想がこの型の原型であったのかもしれません。直実役ばかりが引き立って、気持ちよく幕にしてくれないこの型は義経・宗清・その他の役者たちには恐らく評判が悪かったことでしょう。しかし、団十郎がこの型を取りあげた時に「陣屋」幕切れはそれまでとはまったく違う意味を持つことになりました。

確かにこの「陣屋」幕切れでドラマのすべては完結しているのです。しかしあえて言えばまだ終っていないものがあります。あるいはここから新たに始まったものがあるというべきかも知れません。それは「熊谷直実が出家して蓮生法師として新たな歩みを始める」というということです。

「直実はあの敦盛の事件をきっかけにこの世の無常を感じて出家したのだ」という日本人の心のなかにある「真実」を満たしたい、そしてこのことを明確に舞台に形象化させたい。このことに気が付いた時、「陣屋」幕切れは音楽的には完結していても、芝居としてはまだ終っていない、団十郎はそう考えたに違いありません。そのために幕外での直実の花道の引っ込みが考えられたのだと思います。

花道七三から引っ込みまでの直実の仕草・表情のなかには、直実役者の人間性や人生観が否応なしに現れる、そんな気がします。花道七三で直実が「十六年はひと昔、夢だ夢だ」と言って坊主頭を撫でる団十郎の演技については、贋阿弥は、「調子といい形といい、自己本位に出家を夢と観じているので・・・団十郎はとかく悟りすぎて困ると思った」と書いています。どうも褒めている感じではありませんが、これを読む限り、団十郎の直実は自己陶酔的な感じなきにしもあらずです。しかし、そうした自己陶酔的なヒロイズムがないと我が子を身替わりにするなどという行為は到底できないような気もしてくるのです。

直実と敦盛の物語は「平家物語」の諸行無常のテーマを彩るひとつのエピソードに過ぎません。また、この「陣屋」も本来の姿は本歌取りの仕掛けのなかで「平家物語」の世界に回帰していく形になっています。しかし団十郎はそれに満足できなかった。そこから「生身の人間のドラマ」を抉り出そうとした。それが団十郎が幕切れの直実の花道の引っ込みで描き出したかったことです。

こうした解釈は明治に入って演劇改良運動の先頭に立った団十郎が、その活動を通して身に付けてきた近代精神から古典を読み直すという行為のひとつの現れだと考えるべきだろうと思います。今日の「陣屋」はそのほとんどの上演が団十郎型に拠っていますが、もちろん団十郎型だけが絶対的な解釈ということではありません。芝翫型やその他の型がほとんど絶えた形になっているのは残念なことです。しかし、この団十郎型だけが名解釈として今日残ったということに、歌舞伎のこの百年間の様々な意味(良い意味も悪い意味も含めて)を考えてみなくてはならないと思います。

(追記)

あわせて「団十郎の熊谷を想像する」をお読みくだされば、団十郎型の本質についてご理解いただけます。
 

(H13・7・29)




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