(TOP)             (戻る)

九代目団十郎の熊谷を想像する


1)九代目団十郎の熊谷

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」(大正15年11月刊)と言えば、本サイト名の由来にもなりました浄瑠璃研究必携の名著であります。その「熊谷陣屋」の項で其日庵は、摂津大掾・三代目大隅大夫・三代目越路大夫といった明治・大正にかけての浄瑠璃の大名人たちの「陣屋」を聴いて「いまだ一も会心の域に至るを覚えぬ」と書いています。さらに「彼らの浄瑠璃はその巧拙は別として、熊谷が源平時代の豪勇として勇気一遍の人としか聞こえない、庵主の考えはこれとは異なる」と其日庵は言います。

其日庵が言うには熊谷直実という人間は「もとより武辺の人なれど、すこぶる人情にもろき性質の人」であり、妻相模に対しても「武士道のために倅を殺したから左様心得よ」と言えばそれで済むのに、「これを明言したらばさだめて妻が悲嘆することを思いやり、それさえ明言し得ぬほどの弱虫である」。しかし、前述の大名人たちでさえも熊谷の容貌や言動の勇ましいことにとらわれて、多情多涙の内面を腹芸で十分に描けていないと言っています。

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

これは吉之助の憶測で根拠はありませんが、其日庵は九代目団十郎の「熊谷陣屋」の舞台を見たのではないかと思います。団十郎の名を書けないのは浄瑠璃の世界では「歌舞伎の真似はいけない」とされていますからそれで書かなかったかなと推測しています。其日庵自身は歌舞伎界との交流もあり、その舞台にも当然親しんだものと思います。したがって、団十郎の舞台が其日庵の熊谷観に影響を与えているのではないかと思うのです。

それまでの歌舞伎の「熊谷陣屋」の舞台は人形浄瑠璃の影響を強く残した舞台でした。それは現在ではほとんど上演されませんが四代目芝翫型として今日に伝わっています。団十郎はこれを主役熊谷の視点から見直してまったく新しい型を作り上げました。これが九代目団十郎型で、現在上演されるほとんどの「陣屋」の舞台はこれに基づいています。「熊谷陣屋」は晩年の団十郎の一連の古典再検討の代表的なものとされています。

九代目団十郎の熊谷については写真も残っていますし、型の記録・劇評・評判記などもあります。しかし、団十郎の白黒写真を見てもどうも舞台のイメージが湧いてきません。また劇評も後世の人が読んでイマジネーションを掻きたてられるようなものもこれまた少ない感じです。しかし、その中で最も優れた評論を挙げるとすれば、杉贋阿弥の「舞台観察手引草」だと思います。贋阿弥の評論は「経験より観たる三座の熊谷」という副題で、七代目幸四郎・四代目市蔵・二代目左団次が明治45年(1912)3月に三座競演した舞台を比較論評したものですが、明治36年に亡くなった団十郎のことを引き合いに出しながら、結果として「団十郎型とは何か」を考えさせるものになっています。そこで、本稿ではこの「舞台観察手引草」をネタにして、団十郎の熊谷の舞台を想像したいと思います。


2)団十郎型は花道の芝居である

「舞台観察手引草」の冒頭において贋阿弥は、「形容における(四代目)芝翫、精神における(九代目)団十郎、この二個の宝を失って以来、熊谷らしき熊谷はまずその跡を絶ったと言ってよかろう」と書いています。それほどに素晴らしい団十郎の熊谷はどんなものであったのでしょうか。贋阿弥の文章には団十郎型の本質を見事に言い当てた次のような表現があります。

『そもそも熊谷の山は物語りでも何でもなく、実は出と引っ込みにあるのだ。直実は仏心に始まって仏心に終る、これを一篇の首尾照応とするので、(中略) 要するに、「陣屋」は花道の芝居である。』

まさにその通り、団十郎型の本質は熊谷の花道の出と引っ込みにおいて、我が子を殺した無常と諦観の気持ちをいかに表現するかにあると言えます。特に花道の出の部分が難物でありましょう。すなわち、本文で申せば、

『相模は障子押し開き日も早や西に傾きしに、夫の帰りの遅さよと、待つ間ほどなく熊谷の次郎直実、花の盛りの敦盛を討って無常を悟りしか、さすがに猛き武士(もののふ)も、物の哀れを今ぞ知る、思ひを胸に立ち帰り、妻の相模を尻目にかけて座に直れば』

というマクラの部分であります。この部分については山城少掾も「全くこのマクラの一節さえ満足に語りこなせれば、それだけで既に十二分の成功だと存じます。いわばこの一段の情景と人物描写の根幹がこの一節に尽きているからでございます」と言っています。


3)団十郎型の本質とは

「無常を悟りしか」の床で、熊谷は水晶の数珠を手に掛けて腕を組んで、目を閉じながら静かに花道を歩いてきます。そして「思いを胸に」で熊谷は花道七三で立ち止まり、ゆっくりと組み手を解き、数珠を右の袂に入れて、袖を突っ張って本舞台に掛かる間に床が重い調子で「立ち帰り」と語ります。ここで熊谷が立ち止まり、形を直して歩みを進める、この「間」が団十郎は実に良かったと言います。

ここで熊谷が花道を出てくる時に数珠を手にしているのは、熊谷は実は我が子の菩提(この時点では観客は熊谷の殺したのは敦盛だと思っている)を弔いに行った帰りだということを示しています。相模は夫が遅い遅いと言って待っていますが、果たして熊谷は我が子の墓の前で泣いていたのか、それはともかく、墓前で長い時間を過ごしていたに違いありません。その気持ちのままで陣屋までの歩みを進めながら、やがて陣屋の前に差し掛かりフッと我に返った熊谷は、数珠を袂に入れ気持ちを変えて陣屋に入ります。

さらに「妻の相模を尻目にかけて」が難物です。ここでの「尻目にかけて」というのは熊谷が相模を無視したというのとは違います。陣屋に戻った熊谷がふと見やると、国許に残してきたはずの妻相模が来ているではないか。熊谷はぐっと詰まる。我が子のことが心配で駆けつけてきたのであろうが、その我が子小次郎はすでにこの世のものではない、不憫な・・・という気持ちが熊谷の中にこみ上げてきます。相模を哀れに思う気持ちを押し殺して陣屋に上がるのが「尻目にかけて」なのです。芝居では「妻の相模を」で袴の下前をポンと叩いて、「尻目にかけて」で高二重に上ります。

この熊谷が袴の下前をポンと叩く場面、通常の熊谷役者の演技を見ていますと、思いがけない場所に妻が現れたことへの「いらだち」とでも言うか、妻を威嚇するような感じがなくもありません。しかし団十郎の演技なら恐らくそこに、妻を哀れを思う気持ちを振り切ろうとするような思い入れがあったに違いないと思うのです。

ここまでの熊谷は無言の演技です。その歩みのうちに万感の思いを込めて、その視線・表情のなかに心理の襞を描きだそうという、まさに団十郎得意の「肚芸」の見せ場であります。贋阿弥は「フワフワとついてきた満場数千の魂をば、数珠とともに我が袂に収めてしまうまでの魔力、いな自信が無くては、所詮勤め得るものではない」と書いています。なるほど団十郎の熊谷とはそういうものであったのかと思うのです。

このように団十郎型というものを逆から読んでいきますと、次のようなことが言えると思います。熊谷の心理の綾・感情の振幅というものは、我が子の死を悲しむ気持ちとその死を嘆く妻の姿を見るのが耐えられないという気持ちの揺れから来るものなのです。団十郎型はこうした熊谷の気持ちの揺れを増幅させ、形象化させたものと言えます。本稿冒頭で引用した其日庵が書いたように、団十郎型で描かれた熊谷像は「すこぶる人情にもろい・弱虫・多情多涙」の人物なのです。このことが団十郎型の熊谷の本質なのです。

(参考文献)

杉贋阿弥:「舞台観察手引草」〜「経験より観たる三座の熊谷」

山口廣一:「文楽の鑑賞」〜熊谷陣屋の段(豊竹山城少掾口述)

(追記)

併せて別稿「熊谷の引っ込みの意味:団十郎型の劇的効果」もお読みいただければ、団十郎型の本質についてご理解いただけます。

(H13・7・15)


 

 

 (TOP)             (戻る)