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惨たらしい人生

〜「心中天網島」をかぶき的心情で読む・その2


1)「天網島」改作について

 歌舞伎でも文楽でも 近松物は人気ですが、じつは近松が頻繁に上演されるようになったのは近年になってからのことです。「かぶき的心情」から発する強烈な自己主張は個人的心情に根ざしているものだけに、他人にはなかなか共有されにくいものだろうと思います。まして時代を経た後世の人間には理解しにくいところがあります。こうした時代的心情は時代を同じくした者だけに共感できる何ものかがあるのかも知れません。

近松の世話物にしても、心中に向けてひた走る者の心理の綾が、現代人に共感をもって感じ取りにくくなっています。だから敵役の性格をより強調し て主人公を苛めてみたり・金に縛られて主人公が身動きできない状況を設定して・次第に追い込まれていくように仕掛けていかないと、主人公が心中に至る心情をなかなか観客に理解させることが難しくなっています。江戸時代においてさえ近松の作品は原作通りに上演されず・ほとんどが改作によって上演されてきたことが、近松作品の理解の難しさを示しています。

歌舞伎では「心中天網島・中の巻」は菅専助らの改作した「天網島時雨の炬燵」による上演がもっぱらでした。 冶兵衛と別れたはずの小春が、もう一度会いたいと紙屋に忍んで来ます。そこでちょうど父五左衛門に無理矢理連れ戻されるおさんとすれ違います。五左衛門は頑固な男かと思いきや・実はかつて冶兵衛に借金の肩代わりをしてもらったことがあり・その恩義を返すために・ここはおさんを別れさせて・冶兵衛を小春と添わせる腹であったという。おさんは小春への義理を立てて尼になってしまいます。こうなると冶兵衛と小春はどうしようもなく ・結局おさんへの義理立てに死のうと話合っていると、そこに太兵衛がやって来ます。そこで言争いになって・冶兵衛は誤って太兵衛を殺してしまいます。そして心中の道行きになる・・とこんな筋書きです。ほとんど原型をとどめないまでに改訂がされています。

こんな筋書きであると、冶兵衛は自らの一分(いちぶ)を立てるために心中に向かうのではなく、太兵衛を誤って殺してしまって・そのために死ぬということです。 確かに気の毒で同情すべき心中ですが、罪に追われて死ぬわけであって、逃避的であって・意志的 とは言えません。やることなすこと・すべてがうまくいがず、ズルズルと破滅に引きこまれていく・どうしようもない人生・・・とそんな感じです。因果に振り回された人生と言えなくもないでしょう。「時雨の炬燵」は「愚作」と言われてはいますが、しかし、もっぱら上演されて きたのは近松の原作ではなくて・この「時雨の炬燵」の方 です。つまり、改作が役者にも観客にも支持されてきたということです。このことも厳然たる事実です。

改作「時雨の炬燵」が作られた理由は、恐らく・近松の原作ではおさんが女同士の義理を言い出し・冶兵衛と小春が心中へ至る(追い込まれる)根拠が薄弱であると 感じられたからなのでしょう。つまりは、近松の世話物に登場する「男の一分」・「男の体面」、そしてその底流に流れるかぶき的心情が後の時代の人々にすんなり理解できないということから来ているのです。


2)義理の変質

それでは再び原作に帰り、「心中天網島」のドラマを見て行きます。網島大長寺における心中の場でも、冶兵衛・小春はすぐ死ぬわけではなくて、ここでも義理の問題が絡んできます。冶兵衛と小春が同じ場所で死顔並べて死んでは・おさんに対して「冶兵衛を死なせないために思い切る」と返事した手紙に対し嘘をつくことになる・だから別の場所で死んでくれ、と小春は言うのです。思えば、「上の巻・河庄」からのおさんの手紙に始まり、「心中天網島」全編を支配しているのはおさんの存在なのです。

『さればこそ死に場所はいづくも同じことと言ひながら、わたしが道々思ふにもふたりが死顔ならべて。小春と紙屋冶兵衛と心中と沙汰あらば。おさん様より頼みにて殺してくれるな殺すまい。挨拶切ると取り交わせしその文を反古にし。大事の男をそそのかしての心中は。さすが一座流れの勤めの者。義理知らず偽り者と世の人千人万人より。おさん様ひとりのさげしみ。恨み妬みもさぞと思ひやり。未来の迷いはこれひとつ。わたしをここで殺して、こなさんどうぞ所をかへ。ついと脇で・・』

これは小春が冶兵衛と一緒に死ぬのを拒否しているのではないのです。小春はもともと冶兵衛とは起請文を29枚も交わして・互いに死ぬ約束をしているのですし、この場に及んでは大坂商人・紙屋冶兵衛の 「男」を見せるのは心中してみせるしかないわけですから、小春はもちろん喜んで冶兵衛と心中するつもりです。しかし、それでもおさんとの約束が引っ掛かるのです。おさんに「思い切る」と返事したのを裏切ることになる ・だから一緒に死ぬけれども・別の場所で死にたい、ということです。つまり、ここで小春も・おさんと同様に「女同士の義理」を主張しているわけです。これについては冶兵衛が「何を愚痴なことを言うか・おさんは舅に取り返されたからには既に他人である・他人に何の義理立て・誰がそしろう・誰が妬もう」というのですが、小春はなかなか承知しません。

ご注意いただきたいですが、この心中直前においての「義理立て」は世間に対してするものではありません。冶兵衛と小春が一緒に死ぬのを世間が許さないということではありません。 世間に対して小春が怯えているわけでもない。小春は「世の人千人万人より。おさん様ひとりのさげしみ。』とはっきり言っています。これは小春のなかのおさんに対する信頼(あるいは連帯感)が言わせるもので、中の巻において・おさんが「子供の乳母か・飯炊か、隠居なりともいたしませう」と言ったその心情とまったく同じものです。(別稿「女同士の義理立たぬ」をご参照ください。)それはかぶき的心情から出てくるものなのです。す なわち純粋に個人的な・ 無私な心情として出てくるアイデンティティーの主張です。

一方、後世の改作「時雨の炬燵」においては、「義理」という観念を個人的な心情の発露としてではなく・世間が無言のうちに個人を縛る規制(あるいは圧力)のようなものとして捉え られています。ここで重要になるのは「恥」への意識です。世間の強制のもとにおさんは心ならずも「貞女の鑑」を演じなければならなくなり、小春は世間を気にして・愛する男と一緒に死ぬことさえ許されないのです。冶兵衛もまた自分の意志では死ぬことさえ許されない・彼は世間によって 破滅に追い込まれていきます。それが改作「時雨の炬燵」のドラマです。

近松の「心中天網島」は享保5年・1720年・竹本座での初演。その改作「時雨の炬燵」は安永6年(1777)北堀江市の側芝居上演での菅専助作「置土産今織上布」がこの系統の改作の先駆と言われます。この間に約50年の歳月があります。この歳月 の間に「義理」という観念を個人的な心情の問題から・世間から個人への縛り(規制)の問題へと微妙に変化させていったのです。この歳月が紙屋冶兵衛と小春の心中事件(それは実際にあった出来事でした)の解釈をも変えてしまったのです。かぶき的心情である「男の意地・一分」から発した義理の観念に、やがて恥の意識が入り込み・それが個人の行動を束縛し始める、そのような過程が見えます。

これは近松のオリジナル通りに上演すべきであるとか・改作の作意が低いとか「駄作」であるとか、そういうことを言っているのではありません。結局、芝居というものはそれが上演された時代の精神・心情というものと切り離すことはできないのですからこれは仕方ないところでしょう。

しかし、オリジナルの近松の登場人物はその改作と同じような行動を取っているかに見えますが、その心情はまったく異なるということを知っておかねばなりません。近松の作意を改作ものをベースにして論じることはできません。(そういうことをごっちゃにして舞台を見ただけの印象で近松が論じられていることが少なくありません。)近松を論じる時はその原作に必ず立ち返る必要があります。


3)冷徹なリアリズム

近松は心中の場面を美化することなく、驚くほど冷徹な・リアリズムで描いています。冶兵衛はまず小春を脇差で刺し殺します。その脇差は、 皮肉なことに中の巻に『にっこり笑うて行かしやんせと・下の郡内、黒羽二重、縞の羽織に、紗綾(さや)の帯・金拵(ごしら)への中脇差、今宵小春が血に染むとは、仏や知ろしめさるやん。』の文があるように、おさんが冶兵衛に渡した脇差でありました。

『ぐつと指され引き据へてものり反り。七転八倒、こはいかに切先咽のふえはづれ。死にもやらざる最後の業苦とともに乱れて。苦しみの。気を取り直し引き寄せて。鍔元まで指し通したる一刀。えぐる苦しき暁の、見果てぬ夢と消へ果てたり』

結局、冶兵衛は小春から少し離れた場所で首を吊って死ぬのですが、これは最後までふたりが義理に縛られて一緒に死ぬことが出来なかったということではありません。ふたりは死ぬ前に髪を切り・尼法師(尼と法師)の姿になってこれで世俗からは開放されたわけですが、そこで改めておさんのことを思いやり・おさんを立てるということにな ります。髪を切るということは世俗とのしがらみを断つということを意味するだけでなく、「髪(かみ)=紙=神」の因果の律を断つということでもあります。そうした状況で も改めておさんのことを思いやるということは、やはり人間として意味のあることではないでしょうか。

『寺の念仏も切回向。「有縁無縁乃至法界。平等」の声を限りに樋の上より。「一蓮托生南無阿弥陀仏」と踏みはづし、しばし苦しむ。生瓢(なりひさご)風に揺らるるごとくにて。次第に絶ゆる呼吸の道息堰きとむる樋の口に。この世の縁は切れ果てたり。朝出の漁師が網の目に見付けて「死んだヤレ死んだ。出会へ出会へ」と声々にいひ広めたる物語。すぐに成仏得脱の誓ひの網島心中と日毎に。涙をかけにける。』

近松が首を吊った冶兵衛の身体を『生瓢(なりひさご)風に揺らるるごとくにて』と描くのは、その突き放したような表現に思わず背筋が寒くなってきます。しかし、臨終の苦しみを経ないと心中の至福(そういうものがあるならばですが)は得られないのでしょう。そのためにも死の 惨たらしい瞬間を凝視することが必要なのです。「すぐに成仏得脱の誓ひの網島心中と日毎に。涙をかけにける」を心中物の定型的な結びの文句であると言う説もあるようですが、そうではないでしょう。こ こでふたりが救われないのならば、観客も救われることはないのです。


4)魂の儀式

享保8年(1723・・「心中天網島」初演から3年後のこと)に幕府は心中事件物の出版・上演を禁止し、心中者の処置を厳しくすることとしました。心中物の禁止の背景には幕府のかぶき者対策が背景にありました。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)田中圭一著・「村から見た日本史」(ちくま新書328)は、村に残された古文書から・江戸の農村の生活の興味深いエピソードを掘り起こして、為政者の側から視点でのみ書かれがちな歴史の見方に一石を投じています。この本に次のようなエピソードが載っています。

田中圭一:村からみた日本史 (ちくま新書)

同じ享保8年の4月、佐渡島・相川町で町人・伜伊右衛門と人妻はつが心中するという事件が起きました。村人たちは、この事件を「伊右衛門・おはつ心中紫鹿の子」という口説き節にさっそくにわか仕立てして、盆踊りの時に島中で踊ったそうです。 芝居や読本では心中ものが禁止されても・盆踊りならばいいだろうということのようです。厳密に言えば盆踊りも駄目だったようですが、お上も押さえられなかったのでしょう。次いで翌年には「与助・おさき」、元文4年(1739)には「馬之助・おさき」、寛保2年(1742)には「せんじろう・おさん」の心中が口説き節に仕立てられたと言います。この口説きの節が今の「相川音頭」として島に今も残っているそうです。口説き節というのは「段物」仕立てになっていて、ふたりの出会い・なれそめから最後までを切々と語ると一時間以上は掛かるという長大なものであったそうです。これに合わせて村人たちが踊る盆踊りはまさに「魂の儀式」であったのです。

このように・村で起きた心中事件を盆踊りの音頭に仕立てて村人が踊るというのは、際物的な興味からではないのはもちろんですが、たんに鎮魂のためだけでもなさそうです。ふたりの出会い・なれそめから最後までの物語を聞きながら、村人たちは心中したふたりの人生を疑似体験しているわけです。ふたりの本音に生きた人生がうらやましい・あんな風に生きたいものだと 村人たちが思ったわけではないでしょう。無残に死ななければならなくなる・あんな人生は送りたくないものだと思ったわけでもないでしょう。それは讃美でもなければ・否定でもない。しかし、村人たちは一生懸命に・ひたむきに生きた・そんな人生もあるのだということは思ったでしょう。それならみんなで送って(弔って)やろうかというのが佐渡の口説き節の盆踊りであったと思います。

面白いのは、天保の改革の時に・大変に規則に厳しいお旗本が奉行になって村にやって来たというので、今年は心中口説きはできそうにもないということになって、村人は散々考えたあげくに心中口説きをなんと「源平軍談」に変えてしまったという 話です。これは非常に興味深い話です。どうして「源平ばなし」が心中口説きの代用になるのか・・詰まらんな、と思うかも知れませんが、そうじゃないのです。心中話が源平ばなしに代わってしまうのは、じつはそれなりの内的必然があるのです。

相川町の盆踊りの「源平軍談」五段目では、自分の弓が波に流されたのを義経が危険を顧みずに取りに向かうのですが、後でお傍の者から「危ないことをして御大将が敵に討たれたらどうするのか・もったいない」と諌められた時に、義経は 「それは違う」と言って、次のように言います。

『弓を惜しむと思ふはおろか、もしや敵に弓取られなば、末の世までも義経は、不覚者ぞと名を汚さんは、無念至極ぞよしそれ故に、討たれ死なんは運命なり』

つまり、名誉を尊び・我が名を守るためなら命も惜しまないという武士の道理と、心中するふたりの男女が自分の信じるもの(アイデンティテーと言ってもいいし、自分の愛・誠ということもできます)のために命を捨てるという心中の論理とが重ねられているのです。これは両者に共通の心情・「かぶき的心情」が流れていることを意味します。だからこそ「源平ばなし」が心中口説きの代用になるのです。結局、島の人たちが盆踊りしながら感じているカタルシスというものは「 まったく変わらない」ということになるわけです。

心中することが・死ぬことが、村人たちにとって大事だったのではありません。その発端も遊女狂いであったり・不倫であったりするわけですが、それも大事なことではないのです。心中したふたりには何か大切なものがあって・それを大事にして・一生懸命に・ひたむきに生きたらしいということが重要なのです。村人たちは、かれらの惨たらしい人生に救いようのない絶対の孤独・生きることの厳しさを見ているのです。そして、彼らの人生に涙して・それを弔うことで自らも癒されるのです。近松の心中物の論理もこれとまったく同じです。

『私たち異国の学者が見る日本は綺麗過ぎる、歌舞伎の汚さ、日本文化の惨(むご)たらしさを凝視すべきだと三島はよく言っていた。最も日本的なのは心中だと言うので、私は反論した。西洋には「トリスタンと イゾルデ」があるではないかと。すると「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と彼に正された。その通りであった。』(E・G・サイデンステッカー:「鮮明な人物像」・決定版・三島由紀夫全集・月報35)

トリスタンに泣くことがなくても・冶兵衛に対しては人は泣くのでありましょう。それは近松がそこに人生の厳しさ・惨たらしさを描いているからではないでしょうか。

(H16・6・20)


 

 

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