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歌舞伎の雑談2 (平成14年8月ー12月)


○もうすぐ「歌舞伎400年」

慶長8年(1603)5月6日、西洞院時慶(にしのとういんときよし)の記す「時慶卿記(ときよしきょうき)」によれば、「女院御所へ女御殿お振舞ひあり。ヤヤコ跳りなり。雲州の女楽なり。」とあります。同じ日の、舟橋秀賢の記す「慶長日件録」の項 には、「於女院、かふきをとりこれあり。出雲の国の人。」とあります。

これよりちょっと前からのことと思われますが、歌舞伎を創始したと言われる出雲のお国が、どういう素性の女性かはよく分かってはいませんが、京都・北野天満宮や四条河原などでお国が演じた「かふき踊り」という官能的な前衛踊りはたちまち人々の話題をさらったのでした。

これを以って、1603年を歌舞伎発祥の年とするわけです。平成15年は2003年ですから「歌舞伎400年」というわけです。おそらく来年はこれにちなんだ行事がいろいろ行われるでしょうね。

また、延喜3年(903)2月25日は、「菅原伝授手習鑑」の主人公である菅原道真が九州・大宰府で亡くなった日で、つまり来年は菅公没後1100年でもあります。メルマガでも「菅原」を集中的に取り上げなくてはなりませんね。

さらにちょうど100年前の明治36年(1903)は、今の歌舞伎役者にとっての「神様・団菊」が亡くなった年です。2月18日に五代目菊五郎、9月13日に九代目団十郎が相次いで亡くなっています。二十世紀の百年というのは、まさに「団菊以後」の苦難を乗り越えようとする 試行錯誤の時代であった、ということを改めて感じます。このことは、今後サイトの記事において断続的に考えていきたいと思っております。

「忠臣蔵」300年の平成14年(2002)を締めるメルマガ89号では、「忠臣蔵」の忠孝思想を「太平記読み」の視点から考える試論です。お楽しみに。

(H14・12・20)


○「故郷に帰ったつもりで」

今月(12月)は歌舞伎座で三島由紀夫の「椿説弓張月」が上演されるそうです。これは昭和44年11月、つまり自決の1年前に国立劇場で初演されたものですが、歌舞伎座では初の上演となります。しかも、初演ではできなかった宙乗りでの幕切れを加えたということです。

ここで昭和32年5月「演劇界」での特集「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」での2先生の発言を引用します。

郡司正勝:「あれが歌舞伎だとすると、ぼくは天明の歌舞伎を感ずるんですよ。黙阿弥じゃなくて、かえって天明時代のものを感じるな」

利倉幸一:「今の歌舞伎役者に三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりもっと前のものだっていう、そういう程度のことがもし分かっているとすれば、もっともっと面白くなると思いますね」

これは三島の「鰯売恋曳網」(昭和29年11月)についての発言です。もちろんこの時点では「椿説弓張月」はまだ出来ていないのですが、しかし、上記のご指摘はほぼ「椿説弓張月」にも通じるでありましょう。三島が「鰯売」のユーモアを歌舞伎役者がうまく処理できないと不満を言うと、郡司先生は「それは黙阿弥のテクニックでやってるからでしょう」と看破しています。

「椿説弓張月」においても、三島は古典劇の面白さを出そうとして、わざと擬古典的な手法を駆使しています。こういうときには新しいものをやってるんだ・新しいものをみせてやろうという意識では処理できなくなってしまうのです。「故郷に帰ったつもりでやればいいんだがねえ」(郡司正勝)新しいものを古く見せる、これが歌舞伎役者には意外と難しいのですね。

三島が絶賛した玉三郎の白縫姫は初演以来の33年ぶり。初演の時は高間太郎を演じた猿之助が、今回は為朝。(初演の為朝は八代目幸四郎)その成果を期待したいと思います。

(H12・12・3)


○「市村座」という時代

別稿「市村座という伝説」にて、六代目菊五郎と初代吉右衛門を中心とする明治から大正にかけての歌舞伎の流れを考えています。

明治という時代のキーワードは「西欧に追いつけ」ということでありました。とにかく列強の侵略に押し潰されないためにも西欧文化の吸収が急務であったのです。だからそれを阻む ような旧来の慣習・伝統は否定されました。江戸の昔を懐かしむ、などということは本心にあっても公には言えない時代であったのです。演劇においても、歌舞伎(旧派)に対し新派が勃興した時期です。五代目歌右衛門でさえも新派をやろうとしたり、二代目左団次が「ガブリエル・ボルクマン」(イプセン作)を上演したりしています。

そのような時代に興行師田村成義は市村座において、あえて旧守の姿勢をとったのです。 それは時流に意識して背を向けたということではありません。田村が市村座で実現しようとしたのは、団菊(九代目団十郎・五代目菊五郎)において示された新しい時代の歌舞伎の規範であったのです。 きちんとした形で演出・演技を整理して引き継いでいけば、必ず歌舞伎は生き残る、といった確信のようなものを感じます。

このことは、現代の歌舞伎のあり方を考える時にも重要な示唆を与えてくれるものと思います。

(H14・11・24)


○蝋燭の光

本日の朝日新聞夕刊によりますと、国立科学博物館が「江戸のモノ作り」研究プロジェクトの一環として、自然の光や蝋燭の光で江戸時代の歌舞伎の舞台を再現して、その舞台効果を科学的に解明しようとの調査が行われるとのことです。

今回、岐阜県福岡町の常盤座で行われた調査によれば、100匁(375グラム)の和蝋燭25本での明るさは15ルクス程度で、役者の顔や衣装の色がはっきり見えたというのは、観客のアンケートの半分くらいに留まったとのこと。予想通りとは言え、昔の舞台はかなり暗かったであろうことが改めて分かります。自然光においても舞台の方が客席より暗くなってしまうのも、小屋の構造からすればこれも当然であったでしょう。

このような薄暗い舞台であれば多少のお化粧の粗・あるいは顔の皺はあまり目立たなかったであろうし、逆に原色に近い色彩をとらないと衣装は引き立たなかったでありましょう。蝋燭の光で見るお芝居は幻想的な雰囲気を見せるかも知れませんね。

照明の変遷(自然光・蝋燭から電気へ)が、観客の美意識に与えた影響というのはおそらく非常に大きなものであったでしょう。興味あるプロジェクトで今後の報告が期待されます。

(H14・11・13)


○八重垣姫の性根について

先に五代目歌右衛門の芸談として『姫らしい品位と高尚な色気を見せることが大切で、決して蓮葉な真似をしてはいけません』という言葉を紹介しました。このことは重要なことでして、八重垣姫はやることは大胆で、蓑作が恋しい許婚に似ていると見るや「見初めたが恋路の始まり、後ともいわず今ここで・・・」などと言ったりしますが、要するに世間知らずのお嬢様の怖いもの知らずなのです。もちろん全体の性根はお姫様の品位を保たねばなりません。そ れでいて突飛な感じでその大胆さが現れるのです。だから お姫様の大胆さというのは未熟さと裏腹だと言えます。(「鎌倉三代記」の時姫もそうですね。)この難しさが八重垣姫の「三姫」たる由縁でありましょうか。

人形遣いの名人の吉田文五郎がこう言っています。『八重垣姫は勝頼の妻だっさかい、ここ(「十種香」)はどこまでも妻らしゅうするところだっせ。それに勝頼の居やはる前だすさかい、決して一人芝居をする所やおまへん。』( 「文五郎芸談」)

ここは八重垣姫の性根を考えるうえで大事なところです。「十種香」の場では八重垣姫はもちろん主役でありますが、この場には夫である勝頼(=蓑作)がいるわけですから、ここは勝頼の妻らしく夫を立てていかねばなりません。決して一人芝居をしてはならないのです。

(H14・11・6)


○「二十四孝」のロマンティック

近松半二の「本朝二十四孝」ですが、武田信玄と長尾(上杉)謙信の川中島合戦の世界を下敷きにした作品です。その人物関係は入り組んで複雑で、それを読み解くだけでひと苦労です。そのなかの「四段目」:謙信館の場が、「十種香」・「奥庭」として独立して人気狂言になっていますが、これらの場は「二十四孝」の本筋からは離れるもので、むしろ作品の複雑な政治的背景を 忘れて見た方が楽しめるかも知れません。

要するに、大事に大事に育てられてきた深窓の令嬢が、隔離された状況で恋しい殿御に対するイマジネーションを肥大化させていくことによって生じる奇跡 だと思ってみれば、ある意味では十分でしょう。死んだと信じていた許婚とそっくりの男がそこにいる・許婚は生きていると直感した時に八重垣姫のなかで閉じ込められていたものが一挙に吹き出す。奔放であられもない口説きも狐火の不思議も、恋の一念が親たちの政治の枠組みも突き破るという物語 なのです。

信州の諏訪湖では湖面に張った氷が春になって暖かくなって膨張して盛り上がり「御渡り」と呼ばれる裂け目を生じます。これが神様が通った跡だとして有難がられています。春を告げる神事でありますが、「奥庭」はこの現象を取り上げています。恋しい殿御の危機を救わんとする姫に妖狐の霊力が乗り移るのです。

ですから八重垣姫は口伝では「姫らしい品位と高尚な色気を見せることが大切で、決して蓮葉な真似をしてはいけません」(五代目歌右衛門談)という役なのですが、実はそう言いながらやっていることは じつに大胆で蓮葉と言ってもいいほど なのです。だからこそ観客は高貴なお姫様も殿御を想う気持ちは私たちと変わらないのねぇなどと思って見ていたのでありましょう。

(H14・11・4)


○「世話物」と「時代物」

『なぜ九段目が封建悲歌として、代表的な重さを持っているのであろうか。私はそれを登場人物が中流階級に属する人々だからと言いたい。』(加賀山直三:「九段目随想」:雑誌「幕間」昭和29年9月)

加賀山氏によれば、大石家も加古川家も、教育のある・武家とは言ってもまず中流の下位か中位の階層であるから、広い目でみれば、やっぱり大多数の・庶民に属する家なのだろうと言います。今どき学校出の会社員をインテリ層だと言えないのと同じことだというのです。さすれば「忠臣蔵」のドラマもそうした大多数の・庶民のドラマであるからこそ、観客に対してそれなりの重量感・あるいはリアリティを持つのでありましょう。

こういう見方は、昭和29年という時期を考えると・もしかしたら戦後の民主主義の風潮の洗礼を受けた見方かもしれませんが、しかしちょっと新鮮な感じがして、教えられることが多いと思います。「時代物」の芝居を見ながら、江戸時代の町民たちが、「武士というもんはえらい窮屈なものだんな・武士なんぞにはなりたくないもんや」と思って冷ややかに見ていたとは思えません。やはり自分たちと同じ世界と同じ共感と涙を以って芝居を熱く見ていたに違いないからです。

「世話物」は江戸の庶民のドラマであり・「時代物」は(庶民とは無縁の)武士の世界を描くものだというように、我々は知らず知らずのうちに「士農工商」の身分の構図をここで連想してしまいがちです。しかし、「世話物」・「時代物」はもちろん微妙な色合いが違うわけですが(そこが大事なところでもありますが)、しかし、ドラマとしての本質的なところではそう違いがあるわけではないのですね。そう考えてよろしいのかなと思っております。

(H14・10・31)


○「忠臣蔵」300年

「忠臣蔵」の季節がやって参りました。それも今年は「討ち入り300年」ですからいつもとは重みが違います。赤穂浪士・大石内蔵助良雄(よしたか)以下同志47名が吉良上野助邸に討ち入りその首をあげたのは、元禄15年(1702)12月14日のこと、今からちょうど300年前 のことです。

よくもまあ飽きずに・・・と思うほどに赤穂浪士の討ち入り事件は、300年の長きにわたって歌舞伎に限らず講談・映画などさまざまな芸能に取り上げられてきました。討ち入りをめぐる人間像のなかに日本人の琴線に触れる何ものかがあるに違いありません。「忠臣蔵」を考えることは、日本人を考えることなのかも知れません。

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の舞台は何度も何度も繰り返し上演されるなかで、「太平記の世界」に時代設定を借りた架空の物語から、史実の赤穂浪士討ち入り事件にできるだけ近づけようとする意図のも とに少しづつ手が加えられてきました。それも故なきことではありません。

例えば「四段目」は歌舞伎では「通さん場」とも言われ、厳粛な場となっていますが、ほとんど浅野家法要の場に化しています。 薬師寺次郎左衛門が赤面で演じられることも最近はなくなりました。あの赤面は「忠臣蔵」が時代物であることを否応なく意識させますし、それは足利家の(つまりは徳川幕府の)お裁きの不当を主張するものであったと言えるかと思います。薬師寺が赤面でなくなり写実になったかわりに、舞台が儀式化して政治性が失われてしまっています。

こういうのを「原作通りに演じるべきだ」とか「歌舞伎素人講釈」は書かねばならないのかも知れませんが、そんな野暮は申すつもりはありません。原作と舞台のギャップのなかには、そういう改変をせざるを得なかった必然 、役者あるいは観客の欲求というものがやはり存在するわけでしょう。そこに「日本人にとっての忠臣蔵」を論じるきっかけ・メルマガのネタもあるわけです。

近くメルマガにおいて、「忠臣蔵」を取り上げる予定ですのでご期待ください。

(H14・10・26)


○「楼門」のこと

「楼門」で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな・・」というシーンは歌舞伎らしい絵面の場面として有名ですが、九代目団十郎はチョンと浅葱幕が落ちてからゆっくりと客席を見回して、かなりの間あって「絶景かな・・」と言ったそうで、それがなんともスケールが大きくて見事であったそうです。

一方、九代目の先輩格に当たる四代目芝翫の五右衛門は、浅葱幕が落ちるとすぐに「絶景かな・・」を言ったそうです。ある人がそれを尋ねたところ、芝翫はこう答えたそうです。「そりゃあ団十郎がまずいんだ、俺は幕のなかで景色を見ちゃってんだ。」

団十郎の場合は、客席を風景に見立ててじっくりとそれを楽しむ風情を見せて、それからおもむろに「絶景かな・・・」と言うわけです。心理主義的というか、そこに「肚芸」を得意とした団十郎独特の「手順」というものがあったということなのでしょう。

芝翫の場合は、悪く言えばそれほど深くは考えていないわけですが、芝翫は押し出しの効いた役者でありましたし、その単純さが歌舞伎のおおらかさに自然につながっていくということでしょう。

しかし、この「楼門」のエピソードに関する限りは芝翫の勝ちのような気がしますね。吉之助は「楼門」の舞台は五右衛門が浅葱幕が落ちてから「絶景かな・・」というまでの間は、今の役者で見るとちょっと長過ぎで間が持ちきれていないような気がしています。

(H14・10・14)


○近松の「虚実皮膜論」の周辺

近松門左衛門の「虚実皮膜論」(きょじつひまくろん・「ひにくろん」とも読む)は、近松の芸能についての考えを知る上での重要な資料ですが、そのなかに次のような文が出てきます。

『芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。あるほど今の世実事によくうつすを好む故、家老は真(まこと)の家老の身ぶり口上をうつすとはいへども、さらばとて真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂白粉(べにおしろい)をぬる事ありや。また真の家老は顔をかざらぬとて、立役がむしゃむしゃと髭は生(はえ)なり、あたまは剥(はげ)なりに舞台に出て芸をせば、慰(なぐさみ)にあるべきや。皮膜の間といふが此 (ここ)也』

この文を読んで、そういえば歌舞伎の舞台に出てくる侍は、みな月代(さかやき)を剃り際鮮やかに剃りあげていて、ちょっと左右が不対称であるとか・髪が薄くなってもうちょっとで髷が危ないなんて侍は出てこないなあ、と思ったのでした。もちろんこれが芝居というものです。近松の言う通り、「それらしく」するのが芝居の慰みというものでしょう。

実際には、当時も髪の毛にお悩みの方は大勢いたでしょうし、チョンマゲというのは頭皮・頭髪には結構負担のかかる髪型なのではないでしょうか。当時は、侍にとって月代を剃るのは最低限の礼儀でしたし、町人も月代を剃りました。武士で月代を剃らないのは浪人か病人に限られていました。月代を剃ると頭が冷えて体に良くないので、病人は月代を剃らなくても良かったのです。

しかし髪の毛が薄くなってチョンマゲが結えなくなってしまうと、武士は隠居するしかなかったのだそうです。カツラという便利なものは当時はありませんでした。今でもお相撲さんは髷が結えなくなると引退だそうですが、頭髪の管理は武士にとって出世にもかかわる深刻な問題であったのですね。

(H14・10・5)


○歌舞伎の幕の開閉について

ご存知の通り、現在の歌舞伎の定式幕は下手から開いて上手から閉じます。文楽では逆で、上手から開いて下手から閉じます。このことですが、上方の歌舞伎では大正頃までは文楽と同様に上手から幕を開けたもので した。江戸歌舞伎では、いつ頃から幕が下手から開くようになったのか定かではないようですが、かなり昔から下手から開くようになっていたようです。したがって、上手から幕が開くのは上方式であると考えてもいいと思います。

上手から幕が開く(つまり下手から閉じる)というのは、実は非常に意味があることなのです。床(竹本)は舞台上手に位置しているわけですが、義太夫狂言は本来は竹本によって義太夫が音楽的に終結されるのを以って芝居は終了されるものでなければなりません。つまり上手から幕が閉じられてしまえば、音楽は終了を待たずに遮断されてしまうわけですから、このやり方はホントなら「いけないこと」なのです。

それでは江戸歌舞伎ではどうして上手から幕を閉じるようになったのかというと、推測するに、例えば「四段目」の由良助の門外の憂い三重での引っ込みなど、幕外の花道の演技が結構早くから多用されていたからなのだろうと思います。歌舞伎ではやはり役者が主であって、どうしても竹本は従なのでありましょう。これは仕方ないところかも知れません。

幕の開閉に関して、こういう事件が起きています。多分、大正14年(1925)12月・京都南座のことであったと思いますが、「熊谷陣屋」で七代目幸四郎が団十郎型で熊谷を演じました。幕切れに僧形の熊谷が花道に向かうところで幸四郎が幕引きと衝突して転倒する事件が起き たのです。この時の幕は下手から閉じられました。東京のように上手から幕が閉じられればこのような衝突は起きようがありません。

この時の衝突は単なるハプニングだったのかも知れませんが、何となく上方の役者たちの団十郎型に対する反感みたいなものが背景にあったようにも感じられます。(当時は初代鴈治郎の全盛期であり、この時も「組討」の敦盛で鴈治郎が出演しています。)非常に興味深い 事件であると思います。

(H14・9・22)


○「型」の概念の時代性について

「鮓屋」において、いがみの権太を原作の吉野のならず者ではなくて江戸前のすっきりした渡世人に変えてしまったのは三代目菊五郎でした。これは歌舞伎の「同時代化」という試みで、文化文政期には盛んに行われたものでした。(別稿「南北を同時代化の発想で読む」のシリーズをご参照ください。)これは現代ならば、いわば権太を 擦り切れたジーパン姿で金髪のプータローに仕立てたようなもの。こんなことをすれば現代ならば「これは歌舞伎じゃない」と非難轟々でしょうが、たぶん文化文政期にはそういう声はなかったでしょう。「面白い」とか「面白くない」という議論はあったでしょうが。

歌舞伎というものが時代の中にあってその骨格を育んでいる時期においては、「伝統」とか「型」などという意識はあまりなかっただろうと思います。というより、この時期は「伝統」そのものを生み出す時期でありますから、創造の軌跡がそのまま伝統になっていったわけです。歌舞伎の同時代化の試みも、その「伝統」のなかに吸収してしまうようなダイナミズムが歌舞伎のなかに存在していました。

歌舞伎が時代から・庶民の生活感覚から遊離し出した時から「伝統」や「型」は次第に意識され始めたのです。「型」というものが明確に意識されるようになったのは、 おそらく明治半ば以降、九代目団十郎以降のことと考えてよろしい、と思います。それはそんなに古いことではないのです。

浄瑠璃においても「風」というものが言われるようになったのは明治になってからのことで、つまり本サイトの題名のヒントにもなった杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」からです。もちろんそれまでにも「風」という概念はあったのですが、あまり公に論議されないものでした。

もちろん「型」の概念自体は歌舞伎の世界に昔からあるものです。しかし現代においては、「型」というものが歌舞伎を縛り始めるというか・「型」というものに縛られないと歌舞伎ではなくなってしまうような感じというか・そこに歌舞伎であることの「拠り所」を求めなければならないように「型」そのものの持つ意味そのものが変化しているのです。それは歌舞伎と時代との関係によるということなのです。

そう考えますと現代の歌舞伎において「型」の持つ意味は日ごとに重要さを増しているということが改めてお分かりいただけるのではないでしょうか。

(H14・9・14)


○「正しい型」

こうしたサイトをやっておりますと、現行の歌舞伎の舞台ではこういうカットがあるとか、文楽では歌舞伎と違ってどういう演出があるとかいう話も出てくると思います。例えば「合邦庵室」の最後の方に2箇所のカット(メルマガ77号)がありこれを復活すればどういう風になるのかなあ、とか、「朝顔日記」の深雪のような非人姿の玉手御前のイメージ(メルマガ73号)を想像するのは楽しいことですし、また作品を考える上で非常に有効なことです。

本サイトでは、「こういう着想を取り上げて(あるいは戻して)「庵室」の新演出をすべきである」という主張をしているわけではありません。原作にはこういう部分があって現行の歌舞伎の舞台ではカットされていて理解しにくいけれども、あの登場人物がこうした行動をするのはそのせいなんだよ ・ここが変えられているんだよ・ということを知ってもらいたいという意図です。

舞台を見ながらここはこういう風に演りたいものだなあ、こういう台詞回しの方がいいのになあ、とかいうことは吉之助はしょっちゅう想像します。吉之助が舞台に立つことなどあり得ませんが、想像するのはこれは観客の特権というものです。この楽しみは芝居好きならどなたもお分かりいただけましょう。

しかし、「正しい型とは何なのか・守らねばならないものは何なのか」、この疑問を歌舞伎を演じる者は自身に常に問いかけねばなりません。これをしなければ、やりたい放題になってしまいます。守るべき芸の骨格は崩れてしまいます。自身の芸の工夫が「正しいのか・正しくないのか」、その基準は自分のなかで芸の骨格を時間をかけて作り上げていくことでしか得られません。

正しい「型」を守る方法はこれしかありません。これについて郡司正勝先生がこう仰っています。

「あれは違うよと、俳優さんはみんなそういう意識を持っていると思います。あんなことをやっては、あれは違うよ、という意識はある。最後の一線、最後の踏みこたえる線はそれしかないの。」(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」より:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)

(H14・9・11)

○亀治郎さん、まだ早うござる

歌舞伎界に「勘九郎と亀治郎・天才説」というのがあるそうです。亀治郎の最近の舞台は知りませんが、確かに初舞台 (昭和55年7月:歌舞伎座「義経千本桜」の安徳帝)からして芝居好きな・利発な子という感じでしたから、天才説もさもあらんかとは思います。

その亀冶郎が8月に京都造形芸術大学内・春秋座において自主公演「亀冶郎の会」を主催し、「摂州合邦辻」の玉手御前を初役で演じたそうです。吉之助は残念ながらその舞台を見ておりませんから、その演技・解釈について述べるつもりはありま せん。

ただ報道によれば、亀冶郎は自分で台本補綴と演出をしたと聞いています。「意欲的でたいへん結構」と言いたいところですが、大変失礼ながらそんなことをするのはまだまだ早いと思います。まずは誰かに型を教わって演じてみて、それから何十年後かにやりたいことをすれば良い。せくことはない。役者の道程は長い。歌舞伎の長い歴史からすれば十年なんぞは一瞬なんです。

亀冶郎は、演じるに当たって鴈治郎に型は教わらなかったが役のハラを教えてもらい、台詞の息は綱大夫に教わったといいます。入手できるビデオは全部見て、台本・解釈 については型の研究会の協力を得たそうです。やるべきことは全部やっ た、全身全霊・誠心誠意で挑戦したと言うでしょう。それはそれでいいです。たしかに本人に先人の遺した型をないがしろにするような傲慢さがあったとは思いません。しかし、何かが 間違っていると思います。

亀冶郎の若さならば、まず現行の玉手御前の型をしっかりと教わり、演じてみてそのこころを習得すべきだと思います。鴈治郎なら、歌右衛門の型でも梅玉の型でも知っているだろうし、武智歌舞伎(武智鉄二演出)の型だって教えてもらえたはずだと思います。そういうものをしっかり学んで・演じてみて、試行錯誤の果てに年月を掛けて自分の型を熟成させていくべきなのです。そうした人だけに新しい型を創り出す資格があるのです。

頭だけで考えていても伝統に立脚した型は作れません。あそこをつまんで・こちらをもらってなんてのは型ではありません。 そういうことをするのは伝承芸能たる歌舞伎の本義からはずれるのです。たとえ学問として立派な解釈でも歌舞伎の型とは言えません。 伝統の裏付けのない解釈は、決して歌舞伎にはならないのです。(今回の舞台を見て言っているのではありませんので、あくまで一般論です。) だからまずは「本格の芸」を追及すべきなのです。

古典を習得する機会が多いとはいえない猿之助一座にあっては、勉強会においてまずやるべきは「古典とは何か・本格とは何か」を学ぶことではないでしょうか。亀冶郎さんは才能のある人だと思いますから、次回は「本格の芸」に挑戦してもらいたいと思います。

まあもっともご本人はこういう批判は当然お覚悟のことでしょうね。さすがに澤瀉屋らしい挑戦心だと言うこともできるでしょう。しかし、吉之助が見た限りでは公然たる批判を新聞・雑誌では見かけませんので、一人ぐらいはこういうことを言う人も必要だろうと思います。ちょうどメルマガで「型を楽しむ」というテーマをやっている最中で もあり、歌舞伎の型の問題を考えるいい機会かなと思います。次週メルマガは、「型を楽しむ」の第2回です。

(H14・9・2)


○小説・落語の歌舞伎化作品

このところ歌舞伎や浄瑠璃のオリジナル作品ではなくて、小説や落語など他のジャンルから来た舞台化作品が上演されています。例えば7〜9月歌舞伎座の「真景累ヶ淵」・「怪談乳房榎」・「怪談牡丹 燈篭」などの一連の三遊亭円朝の落語の歌舞伎化作品、あるいは曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」・井上ひさしの「手鎖心中」の歌舞伎化作品などです。

こういう時にオリジナル作品を読む・あるいは聴いて、舞台化作品との細部の違いを比べて見ますと、面白いことが発見できるかも知れません。

それぞれの芸術・芸能で得意の描写手法というのがありますから、原作では面白かった部分でも舞台で視覚化が難しいのでバッサリとカットされているところがあるかも知れません。落語や小説での細密な情景描写・心理描写は、舞台はもっとも不得意とするところですから、そういう部分は台詞にしないと観客に分かってもらえません。そのために原作にはない人物を登場させて主人公に絡ませるなどという場合もよくあります。全然原作にはない場面が見せ場になっていることもあります。

そういうところを見比べると、劇作者の苦労・工夫もよく分かるし、その作意の高い・低いということも感じられたりします。しかし、どちらかと言えばその「作意の低さ」という方を強く 感じることの方が多いかも知れません。これは芝居 (舞台芸術)というものの持つ本質に関わる問題を含んでいるようにも思われます。

西欧のオペラの場合でも、名作小説(あるいは芝居)のオペラ化と言いますと、「原作の通俗化・あるいは二流化」と見られたものでした。その精神性において原作の高さまで比肩し得るオペラというと歌劇「オテロ」(原作シェークスピア・脚本ボイート・作曲ヴェルディ)くらいのものでしょう。 そういえば名作小説の映画化などというのも、大抵つまらないですね。

どうもその作意の低いところばかりが目に付きますが、もちろん芝居でないと出来ない場面もあるかも知れません。「泣かせる場面」なんてのは歌舞伎・お芝居の得意なところです。どうも芝居というのはその本質が「観客の情に直接訴える」というところにあるような気がします。その点で芝居というのはつねに「俗」と隣り合わせにあるものなのでしょう。

(H14・8・31)


○「合邦」と説経「愛護の若」

今回の「合邦」に関する一連のメルマガでは、玉手御前の性根を説経「しんとく丸」との関連から考えてきました。「合邦」では 説経「愛護の若」(継母が義理の息子に恋するという話)も重要な要素ですが、吉之助はこの要素は「合邦」における本質的な要素ではないと思っているので、今回は論理の混乱を避けるためにあえて切り捨てた次第です。

しかし、モドリの劇的効果を高めるうえでも玉手の恋は「真」に迫っていなければならないのはいうまでもありません。「庵室」の 玉手の狂いの場面で、「せっかく艶よう梳きこんだこの髪が、どう酷たらしう剃られるもの、今までの屋敷風はもう置いてこれからは色町風、随分派手に身をもって俊徳さまに逢うたらばあっちからも惚れてもらう気」という部分は、浄瑠璃で聴いていても艶めいて迫力のある箇所です。

山城少掾の古い録音を聴いていますと、「惚れてもらうキィ」と「キィ」が高い金属音で、はっとするほど印象に残ります。この部分は、歌舞伎の六代目歌右衛門も憑かれたような演技で、まことに凄かったと思いました。「背徳・不道徳の喜び」というか魅力があって、 現代的な観点から見ますと「合邦」のこうした味わいに関心が行くのは仕方ないところかもしれません。

しかし、「愛護の若」は説経の題材ですから見掛けは不道徳でも、道成寺伝説と同じく・人間の業の深さを説いた仏教説話的なものだろうと思います。もちろん「愛護の若」の観点から「合邦」を読むことも面白いことなので、いずれメルマガでも機会を見て取り組みたいと思っています。

(H14・8・18)


○上方風の「六段目」について

7月の国立劇場では扇雀が上方風の「五・六段目」を演じて好評であったようです。今度は11月には鴈治郎がやはり上方風の演出で「忠臣蔵」の7役を演じるとのことです。東京においては上方風の「忠臣蔵」を見る機会はあまりありませんから貴重な機会ではあります。

ところで型の問題ですが、当然ながら東京と大阪ではどこがどう違うとか、見た目の差異は気になるところです。例えば、東京での「与市兵衛住家」は平舞台ですが、上方では二重屋台の出べそだったりします。上方では勘平は客席に背を向けて腹を切りますし、「色にふけったばっかりに・・・」の台詞もなかったりします。ただし、上方の場合はどれが定型ということはありません。それぞれの役者によって工夫が違いますし、同じ役者でもやる度にどこか変えていることが多い。上方では同じことを続けていると「工夫をしない」と非難されるのです。

先日の「歌舞伎の雑談」において「上方演出の定本化」ということを提唱しました。つまり、ホントに「上方らしい」差異をセールス・ポイントとしてまとめた方がいいだろうということです。これは多少逆説的なところがあって、昨今の観客の歌舞伎の見方を考えるとその方が親切でないのか、ということを考えた故のことでした。7月国立での批評を見ても、「東京と上方とどちらの方がいい・悪い、形がいい・悪い」的な批評が散見されます。どちらかと言えば、「手順」の差異に関心が行っているようです。

しかし、本サイト「歌舞伎素人講釈」を熱心にご覧いただいている皆様には、「型」というのは「心」なのであって、見た目がいいとか・悪いとか、そんなことは二次的なことだということを知っておいて欲しいと思います。「型」というのは手順ではありません。手順はあくまで「心」を表現する手段に過ぎないのです。

今回の上方風の「六段目」で言えば、「これほどまでに忠義な自分」が理不尽な運命によって不忠者に仕立てられていくという勘平の無念・怒りというものが、その「型」の原点になっています。すべてはそこから組み立てられています。

東京の音羽屋型の場合は、無実の罪によって追い立てられていく勘平の運命の哀れ・はかなさ、に発想の原点が置かれています。これは、どちらがいいとか・悪いとかいうことではありません。脚本の解釈の違いということです。

この解釈の違いをお分かりいただいた上で、「型」の差異を味わっていただければ、舞台の面白さは二倍にも三倍にもなりましょう。

(H14・8・10)


○「合邦庵室」における日想観

暑い日が続きます。実は吉之助は暑いのが大の苦手。頭が回らないので筆がなかなか進みません。今回の「雑談」はメルマガ作成の周辺を披露することでお茶を濁したく思います。

吉之助は気が散るタイプで、原稿書く時にあっちやこっちや複数の原稿をいじり回します。それでほとんど同時に原稿数本があがることもよくあります。ここしばらくのメルマガですが、谷崎潤一郎・折口信夫・ 説経浄瑠璃・・と脈路なく飛んでいるようですが、あとで見渡すと、実は「合邦庵室」の周辺を旋回しているわけなのです。これは、まあ意図しているとも言えるし、結果としてそうなっているわけです。

ところで、今回の「合邦庵室」ですが、説経の「しんとく丸」の系譜であることはどんな歌舞伎の解説書にも書いてあることです。「しんとく丸」というのは大坂の天王寺の秘蹟譚でして、これは「天王寺の西門は極楽へ通じている」という信仰から西門から夕日を拝むという「日想観(じっそうかん)」という思想からきています。謡曲「弱法師」ではこの「日想観」の見事な昇華が見られます。

それなら説経「しんとく丸」の血を受け継いでいるはずの歌舞伎の「合邦庵室」はどうなのでしょうか。「日想観」の片鱗でも見られるでしょうか。歌舞伎の解説書にはこういうことにあまり触れていません。むしろその興味は同じ 説経の「愛護の若」(つまり後妻の義理の息子にたいする恋)の方に傾きがちで、ギリシア神話の「 パイドラ」やラシーヌの戯曲「フェードラ」との関連などが議論されています。

しかし「しんとく丸」と「愛護の若」は同じ説経でも主題がまったく違いますし、これをひとつの作品に取り入れてしまったところに作者の問題もあったりしますが、私自身は「合邦 庵室」においては「玉手御前の邪恋」はしょせん作劇上の仕掛けに過ぎないと思っています。つまり、「合邦庵室」の本来の主題ではない、ということです。もちろん「合邦 庵室」本来の主題は「しんとく丸」の方にあるのです。

然るに、「合邦庵室」において説経「しんとく丸」の根本思想たる「日想観」がどう反映されているだろうかという問題について、一般的な歌舞伎の解説書は無関心であり過ぎるように思うわけです。今回の一連のメルマガは、この問題を明らかにすることを目標に書き進めています。まだ次号(第75号)までの原稿までしか出来てないのですが、そのことをちょっと念頭に入れてこれからのメルマガをお楽しみいただければ、と思っております。

(H14・8・2)


       

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