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玉手御前のもうひとつのイメージ

〜「摂州合邦辻」


1)「合邦辻」と非人討ち

「合邦の辻」という地名は、大坂・天王寺の西門からほど遠くないところで、一心寺の前の広い路に当たります。昔はここに天王寺の学校院があり、「学校の辻」とも言われていたそうです。寛永年間のことのようですが、このあたりで非人の仇討ちがあったということです。この実説の詳細は伝わっていないようです。この話をもとに寛政4年に辰岡万作が「忠孝誉両街」という狂言を大阪角の芝居に書下ろしたという記録がありますが、この「合邦辻の非人討ち」はもっぱら貸し本屋の写本(小説)として世に宣伝されました。

ところで「合邦辻」という地名が題名に付いた芝居というと、まず菅専助の「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」(安永2年人形浄瑠璃として大坂・北堀江座初演)・次に鶴屋南北の「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」(文化7年江戸市村座初演)が思い出されます。南北の「絵本合法衢」の大詰の仇討ちの場はまさに合邦辻の閻魔堂の前であり、つまり「摂州合邦辻」の合邦庵室と同じ場所なのです。南北は「貸し本屋の小説を元にしてこの芝居を書いたと言われています。

南北の「絵本合法衢」という作品名を初めて知った時に、これは「摂州合邦辻」の書き替え物かと吉之助は一瞬思ったのですが、もちろんこれは間違い。どちらも「合邦辻」の地が重要な舞台になっていますが、内容に関連は全く見えません。しかし、それでは両作に本当に繋がりがないのかというと、そうとも言い切れないと思うのです。どちらも「合邦辻」を題名に引いており、これを耳にすれば当然、観客は「合邦辻の非人討ち」を頭に思い浮かべると思われるからです。大坂の観客ならばなおさらそうではないでしょうか。

「摂州合邦辻」は説経の「しんとく丸」の系統から来たお芝居ですから、敵討ちの場面は全然出てきません。本稿は「摂州合邦辻」という・一見すると非人討ちとはまるで関係ないように見える芝居の、非人討ちとの関連を考えようというものです。これにヒントを与えてくれそうな評論はほとんどありません。こういうことは歌舞伎の研究者はあまり考えないものなのでしょうか。確かに文献的には根拠のないことなのですが、ただひとり、民俗学者・折口信夫だけが「玉手御前の恋」において、この関連を考察しています。以下それに沿ってこの問題を考えたいと思います。


2)「お辻」の名前について

「仇討ちもの」というのは歌舞伎には欠かせないジャンルですが、「非人仇討ち」というのはそのなかでも古い系統になります。例えば、敵を追う者が非人の身分に墜ちて辛酸を舐める・あるいは返り討ちにあったりして・そして苦難の果てにやっと敵を討ち果たすというような芝居です。非人討ちのなかでも最も有名なのは「花上野誉碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)」(天明8年初演)での田宮坊太郎の仇討ちです。この田宮坊太郎というのは、まさに仇討ちのためだけに生まれてきたような人で、敵を追いまわす長い人生の果てに、やっと敵を討ったと思ったらほどなく死んでしまうのです。この芝居の有名な「志渡寺(しどうじ)」では、坊太郎の乳母「お辻」が活躍し、幼い坊太郎(口がきかない病であった)のために水垢離(みずごり)を取り火物断ちをしたりします。

この坊太郎の乳母「お辻」ですが、じつに芯のしっかりした女性で、全身全霊を以って愛する坊太郎を守り抜きます。水垢離したり火物断ちして積極的に、大願成就のために命をかけて神仏に働きかけるその姿は、まさに女武道そのものです。(「女武道」については別稿「源之助の弁天小僧を想像する」をご参考にしてください。)「誉碑」は「合邦辻」より後の作品ですが、「合邦辻」に前後して登場する「誉碑」の先行作では「お辻」が乳母ではなく母親として登場して返り討ちにあうのですが、やはり芝居のなかで女武道的な活躍をするそうです。このことから折口信夫は次のように推論しています。

「女武道の型に這い入る女の物語の要素が、合邦辻で行なわれた仇討ちと結びついて、合邦の玉手御前・すなわち合邦娘お辻ができているのではないだろうか。このお辻という名前は「誉碑」の乳母と同名であって、表面は関係がないが、同じ名を付けるような同じ刺激が働いているのだろう。そういう心理的要素をやはり考えてみなければならない。」(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

「誉碑」の乳母お辻と「合邦辻」の合邦娘お辻(玉手御前)は同じイメージの役なのではないかという、この指摘は非常に重要であると思います。ここで「お辻」という名前が孕む女武道のイメージと、「合邦辻」という地名が持つ非人討ちのイメージが交錯するのです。


3)「女武道」と「非人」のイメージ

このことはいろいろなことを考えさせます。まず考えられることは、玉手御前がわが身を犠牲にして「愛する」息子(義理の息子の俊徳丸)を守り抜くという献身的な行為が「女武道」に通じる、ということでしょう。偽りの恋を仕掛け、わが臓物を突いて生き血を注ぐことによって最後に俊徳丸を蘇らせる玉手の行為は、確かに自分を犠牲にして坊太郎を守り抜く乳母お辻の姿そのものなのです。

玉手御前の役柄は形を変えた「女武道」である、というのは非常に重要な認識であると思います。精神の錯乱したように見える玉手の恋狂いは、女武道の観点から見直してみる必要があるのではないでしょうか。本来の女形の本質からは逸脱した行為であり、また同時に強い自己主張を持つ行為であるからなのです。(玉手が俊徳丸を「愛する」ことの意味については、別の機会に論じたいと思います。)

次に考えられるのは、玉手御前の「非人」のイメージです。玉手は頬かむりして、合邦庵室にやってきます。この頬かむりというのは普通の女性の服装ではありません。「それをしている女は乞食に多い」と折口信夫は指摘しています。父・合邦道心が玉手に向って「そのざまになってもまだ俊徳様と女夫になりたいと言うのか」と言うのは、玉手の非人乞食の服装のことを言っているのではないかと折口は書いています。

「今までの玉手を見慣れているし、これが写実の玉手になってはつまらないと思うであろうが、ただし、肩当てをして非人の着物を着て出て来ても、見苦しうはないし、美しくもできると思う。そしておそらく作者の計画では、女乞食、少なくとも「朝顔日記」の乞食になった朝顔の姿くらいにはなってもいいのだろうと思う。そこまで還元してゆくと、もっと玉手御前の哀れが効いて来ると思う。」(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

現代の舞台で見る玉手御前は、俊徳丸を追ってたった今、お屋敷を抜け出してきたような感じです。それはそれで美しく舞台にも映えますから決して悪いものとは言えません。その凛とした風情が美しく、いかにも武家女房の気丈な性根を表しているようでもあります。それもまた良しです。しかし、「それでも哀れな玉手ではない」と折口は書いています。

折口信夫は「哀れな玉手」にこだわっています。錯乱した恋に乱れる玉手御前の姿に、水垢離を取り火物断ちをしてひたすらにその「宿命」に献身する「誉碑」のお辻の姿が重なります。その悲壮さ・哀れさこそが、世の人々を熱狂させ・あるいは涙させた「非人仇討ち」の本質なのです。先に「女武道」との関連を言及しましたが、そこで示される強い自己主張も外(世間)に対してではなく、実は内(自己)に対して行われているのです。それはわが身に降りかかった「宿命」に対して必死でもがき・苦しみながらも、ひたすらに真摯に生きようとする人々の姿でもあります。

だとすれば、「狂恋」に身を焼くように見える玉手の姿は、実は現代の我々が考えているよりも、ずっと宿命的でひたすらに哀しいものなのかも知れません。そこに玉手御前という役どころの別の一面が見えてくるように思われます。そういう玉手御前は現実の舞台で見ることはできないかも知れませんし、もし舞台で見たとしたらそれは歌舞伎じゃないように見えるかもしれませんけれど、頭のなかで想像してみることは十分に意義のあることだと思うのです。

(H14・7・21)


(後記)折口信夫は「玉手御前の恋」の最後の方で次のように書いています。

「我々が人形芝居や舞台を見て受ける印象は、平凡だけれど力強いものを受ける。江戸時代の女は、今と違って、社会的にも宗教的にも宿命を負うているので、玉手が自分と同じように苦しんでいる女に向って、強く生きて美しく死んでいくものだ、詩人的な言い方をすると、哀れな死を遂げた屍がこれだ、と人が言うように生きなさい、と我々に言ってるのだと感じても、その受け入れ方は誤りではないと思う。凡庸な作者がそんなことを言うのでは反発する心が起こるが、玉手が・作品の上の主人公がそう言うのなら、不都合ではないと思う。」(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

*折口信夫:「玉手御前の恋」(折口信夫全集 第18巻 藝能史篇2 (中公文庫 )に収録。)

根拠はありませんけれど、この折口信夫の「玉手御前の恋」は谷崎潤一郎の随筆「いわゆる痴呆の芸術について」(昭和23年)あたりへの内心の反発が、その執筆動機のようにも感じられます。(別稿「谷崎潤一郎:東京と上方と」をご参照ください。)戦後ちょっと経って、旧来の日本文化を性急に否定しようという風潮がちょっと収まって来たころを狙って書かれているように思います。いずれにせよ教えられるところの多い名評論であると思います。「玉手御前の恋」は、「折口信夫全集」第18巻に所収されています。




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