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歌舞伎の雑談3(平成15年1月ー6月)


○「勧進帳」の読み上げ・問答について

「勧進帳」について、ある本(名前はあえて伏す)を読んでおりましたら、こういうことが書いてありました。富樫が勧進帳を読めと言うと、たいていの弁慶役者はギクッとした表情を見せるが、ある役者(これも名前を伏す)はここでほのかに笑ったそうで、その演技が「いい」というのです。ここで富樫が「勧進帳」を読めというのは、弁慶一行を一応山伏だと認めて話しを聞こうというのだから・これは弁慶の仕掛けた罠に富樫が引っ掛かったのである ・そうなれば持っていない勧進帳をでっちあげることなど弁慶にとってはなんでもない・だから弁慶は笑うのだそうです。

吉之助が思いますには、この場面は山伏問答に向けて緊張を盛り上げていくところで、作り山伏を装う弁慶一行に対し富樫はまずは「勧進帳」を読めとの難題を吹っ掛け・さらにその内容理解を問い詰める・一難去ってまた一難・はたして弁慶はこの試練を切り抜けられるのであろうかという 緊迫した場面であろうと思います。「勧進帳」読み上げ・問答というのは、さあ待っていましたと・そんなに簡単にでっちあげられるような余裕の場面なのでありましょうか。それ なら「弁慶の仕掛けに引っ掛かった富樫」がまるで馬鹿になってしまうのではないでしょうか。

その役者さんがほのかに笑ったこと自体は「オオそのこといと易し」という感じで笑ったのならば別に悪いとも思いませんが、優れた解釈であるとも吉之助には思われません。この場面の弁慶では富樫の難しい要求に対して冷や汗を流しながらも必死で答えようとする気持ちが観客に伝わらなければならないのです。弁慶に笑う余裕があるなどとは 吉之助には思われません。

むしろ、その必死の思いが伝わるならば・弁慶一行が作り山伏であることが顕に見えてしまっても構わないとさえ思います。その必死の思いが伝わるものならば情の人である富樫はきっとそれを許すに違いないのです。この場面において観客に緊張感を持たせるために弁慶がギクッとした表情を見せるならば、それは笑うよりは多少とも意味がある演技だろうと 吉之助は思います。もっとも九代目団十郎ならば表情をキッと引き締めるくらいの演技でそれを伝えたであろうと吉之助は想像をしますが。

能の「安宅」のドラマでは勧進帳の読み上げは大して重要な場面ではないですし、まして問答の場面はありません。しかし、歌舞伎の「勧進帳」では読み上げ・問答は最初の・かつ最大のクライマックスなのです。だからこそこの狂言の標題は原作の能と同じ「安宅」ではなくて「勧進帳」の名を付しているのだと考えなければなりません。

(H15・6・15)


○盆踊りのなかの「かぶき的心情」

「江戸時代の農民は厳格な封建体制のもとで収穫物を根こそぎ取られ、生かさぬように殺さぬように・農奴的な生活を強いられてきた」というようなイメージが一般的にありますが、 実はこれはまったく 間違ったイメージなのです。最近の研究では、農民は(もちろんそれなりに制約は受けていたにしても)意外とのんびりと楽しく・余裕を持って暮らしていたらしいことが次第に明らかに なってきています。「江戸・暗黒時代説」というのは、明治になってから新政府が、「昔の農民の生活はこんなにひどかったんだ(それに比べて今の時代はこんなに良くなった) これも明治政府のおかげだ」と宣伝するために広められたものであったようです。

田中圭一氏の「村から見た日本史」(ちくま新書328)は、村に残された古文書から・江戸の農村の生活の興味深いエピソードを掘り出して、為政者の側から視点でのみ書かれがちな歴史の見方に一石を投じています。以下は、その「村から見た日本史」からのエピソードです。

享保8年(1723)に幕府は心中事件物の出版・上演を禁止し、心中者の処置に厳しく当たることとしました。これによって大打撃を受けたのは、当時の心中物作家であった近松門左衛門です。心中物の禁止の背景には幕府のかぶき者対策が背景にありました。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)

同じ年の4月、佐渡島・相川町で町人・伜伊右衛門と人妻はつが心中するという事件が起きました。早速、この事件は「伊右衛門・おはつ心中紫鹿の子」という口説き節に仕立てられて、盆踊りに島中で踊られるようになったそうです。 心中が芝居や読本で駄目なら盆踊りじゃ、ということらしいです。厳密に言えば盆踊りも駄目だったようですが押さえられなかったのでしょう。次いで翌年には「与助・おさき」、元文4年(1739)には「馬之助・おさき」、寛保2年(1742)には「せんじろう・おさん」の心中が口説き節に仕立てられたと言います。この口説きの節が今の「相川音頭」として島に 今も残っているのだそうです。口説き節というのは「段物」で、ふたりの出会い・なれそめから最後までを 切々と語ると一時間以上は掛かる長大なものであったそうです。これに合わせて村人たちが踊る盆踊りはまさに「魂の儀式」であったわけですね。

非常に面白いと思うのは、天保の改革の時に、それは厳しいお旗本が奉行になって村にやって来たというので、今年は心中口説きはできそうにもないということになり、村人は散々考えたあげくに心中口説きを なんと「源平軍談」に変えてしまったという 話です。なんだ「源平ばなし」か・・詰まらん な、と思うかも知れませんが、そうじゃないのです。心中話が源平ばなしに代わってしまうのは、じつはそれなりの内的必然があるのです。

相川町の盆踊りの「源平軍談」 五段目では、自分の弓が波に流されたのを義経が危険を顧みずに取りに向かうのですが、後でお傍の者から「危ないことをして御大将が敵に討たれたらどうするのか・もったいない」と諌められた時に、義経はそれは違うと言って、次のように言うのです。

『弓を惜しむと思ふはおろか、もしや敵に弓取られなば、末の世までも義経は、不覚者ぞと名を汚さんは、無念至極ぞよしそれ故に、討たれ死なんは運命なり』

つまり、名誉を尊び・我が名を守るためなら命も惜しまないという武士の道理と、心中するふたりの男女が自分の信じるもの(アイデンティテーと言ってもいいし、自分の愛・誠ということもできます)のために 命を惜しまず捨てるという心中の論理とが重ねられているのです。これは両者に共通の心情・「かぶき的心情」が流れていることを意味します。だからこそ、「源平ばなし」が心中口説きの代用になり得るわけです。結局、島の人たちが盆踊りしながら感じているカタルシスというものは「 まったく変わらない」ということになるわけです。

これを幕府の禁令に対する村の人たちの「ささやかな抵抗の形」と読むこともできましょう。しかし、どういう形であってもそのなかに何か楽しみを見出そうとする村の人たちの「したたかさ」・あるいは「生きる喜び」を そこに感じ取ることもできるのではないでしょうか。

田中圭一:村からみた日本史 (ちくま新書)

(H15・6・8)


○逍遥のシェークスピア翻訳について

人気作家・村上春樹が翻訳をしたサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社刊)が巷で話題になっています。これは、名訳と言われた野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」(同じく白水社刊)を約40年ぶりに改訳したものです。 吉之助も学生時代(二十数年前)にペンギン・ブックスの原書 の「ライ麦畑」に挑戦したことがあります。ただし、途中で挫折。サリンジャーの文章は俗語が多い口語体でなかなか難しかったのです。例えば「Goddam」というのは意訳すれば「こん畜生の・クソ野郎の」 というような意味の俗語ですが、こんな単語がポンポン出てくるのですね。

野崎訳「ライ麦畑」はその時の対照で読んだのですが、歯切れのいい魅力的な訳文であったのを思い出します。原作は1951年刊行(野崎訳は1964年刊行)ですが、この時代の若者たちの意識・「怒れる若者たち」などと言われた社会への反抗的な意識(と言っても若者らしく甘っちょろいのであるが)・そのちょっと尖がった 時代の空気をなかなかうまく表現していたと思うのです。

名作にいろんな訳が出ることはいいことです。しかし、今回の村上訳の登場の理由として雑誌などで「野崎訳も40年経って文体が古くなった・今では使わなくなった石原裕次郎の日活青春映画のような俗語表現がもう時代に合わなくなった」ということが言わ れていますが、 吉之助がお世話になったから言うのではないが・がぜん野崎訳を弁護したくなってくるのです。

こういう時代の雰囲気を表現した作品には、その時代にふさわしい文章表現があっていいと思うのです。ホールデン(主人公)の語り口に裕ちゃんの時代の若者の口調が使われることは、それはそれで 同時代の香りがあっていいの じゃないだろうか・それを「古臭い」だけで片付けてしまうのはちょっとね・・・と言いたくなるのです。 これは外国語の翻訳だからこういう話が出てくるわけで、時代背景が変わってきたからと言って小説「太陽の季節」 (石原慎太郎作)を書き直すべし、なんて話があり得るでしょうか。(ご注意:これは村上春樹訳の存在意義とはまったく関係ない議論ですので。)

イタリアにはこういう諺があるそうです。「Traduttore e' traditore」、直訳すれば「翻訳をする奴は裏切り者だ」です。つまり、翻訳すれば原文の意図がもう100%伝わることはないということなのです。だとすれば翻訳者は誠意を持って原作の再創造に係わらなければならないわけです。

歌舞伎に関係のない「ライ麦畑」の話を長々としましたのは、坪内逍遥のシェークスピア翻訳が、擬古文調の・古臭い歌舞伎芝居のような文体でしばしば巷の嘲笑を買ったことを思い出したからです。 逍遥の訳は、当時の自然主義の演劇を標榜する人々からは「時代遅れ」とあざ笑われました。しかし、実は逍遥はシェークスピアの生きた時代を表現するにふさわしい 日本語の文体は何かと考えたあげくに、近松の文体を基本にして・これに元禄から文化文政期までの芝居や小説の語彙を使ってその世界を表現しようと 試みたのです。(坪内逍遥:「沙翁劇の翻訳について」明治43年1月)

考えてみれば逍遥は小説の言文一致を唱える論文「小説真髄」を書いているくらいですから、シェークスピアを現代口調で訳すことなどもちろん朝飯前なのであって、その逍遥がわざわざ古臭い芝居のような訳をしたことにこそ・逍遥独自の工夫と確固とした演劇思想の裏付けがあったわけなのです。けっして逍遥が九代目団十郎かぶれであったからだけではないのですね。

(H15・5・30)


○ついにメルマガ100号発行

素人なりに「歌舞伎を考える」というコンセプトでメルマガ「歌舞伎素人講釈」の創刊号を発行したのは平成13年1月のことでした。そして本日 、遂に(というか・やっと・と言うか)第100号を発行することができました。これもひとえに読者の皆様のご支援の賜物と感謝しております。こういうメルマガは読者の「読んだよ・良かったよ」という声だけが支えなのです。

もちろん歌舞伎のことですから材料は豊富にあります。しかし、自分にどのくらい書く力量があるか分からないので最初は手探り状態でした。第39号「かぶき的心情とは何か」 あたりからは視点も固まってきたせいか書くのが楽になりました。

吉之助は勝手に「武智鉄二の弟子」を自称しています(「歌舞伎素人講釈」というタイトルは武智さんからの拝借です)が、これくらい書ければ 弟子として恥ずかしくないか・多少は武智さんにも顔向けできるかなあ、などと自惚れておるのです。

メルマガ100本のなかから「これは」というものを自分で選びますと、

「義経千本桜」のシリーズ: 第12号、第30〜第36号
「かぶき的心情」についてのシリーズ:第39〜40号
「曽根崎心中」のシリーズ:第41〜43号
四代目小団次と「三人吉三」のシリーズ:第61〜62号、第64〜67号
「摂州合邦辻」のシリーズ:第72〜78号
真山青果のシリーズ:第90〜91号

辺りはどこに出しても十分通用する内容かと自負しております。メルマガ を通覧してみると、自分の試行錯誤の跡が見えて面白いものですね。これからもメルマガはまだまだ続きます。皆様からのご感想・あるいはご希望なども聞かせていただければと思っております。

(H15・5・25)


○私の評論は詩のようでありたい

吉之助は自分が書く評論(分類するならば吉之助の雑文は多分「評論」ということになるのでしょう)は「詩のようでありたい」といつも思っています。評論というのは、決して物事を断じるものではなく、書く人の内面を語るものだと思っています。自分の書いた文章を読みますと、まあところどころはそのような箇所もあるかなと自己満足しておるのですが。

チェコの詩人ミラン・クンデラは次のように言っています。

『詩とはあらゆる断言が真実になる領域のことである。詩人は昨日、”生は涙のように空しい”と書き、今日は”生は笑いのように楽しい”と書くが、いずれの場合も彼が正しいのである。今日彼は”すべては沈黙のなかに終り没する”と言い、明日になると”何事も終らず、すべてが永遠に響き渡る”と言うかも知れないが、その双方もが本当なのである。詩人は何事も証明する必要はない。唯一の証明が感情の強さのなかにあるのだから。抒情の真髄は未経験の真髄のことである。』(ミラン・クンデラ:「生は彼方に」)

初代吉右衛門の芸・あるいは歌舞伎の女形論を書く中で、吉之助は「写実」の意味に向き合っています。人生の出来事を・人生の喜怒哀楽を忠実に描写しようと考えるならば芸術は一度は「写実」に向かわなければならない と吉之助は思います。「写実」とは極端に言えば「そっくりそのまま・あるがまま・見えるまま」ということです。この芸術の持つ必然性・方向性のもとに、吉之助は吉右衛門の芸・女形の芸の「写実」を論じております。

しかし、逆のことも言えるのです。人生の真実を・感情のなかの真実をえぐり出すためには、写実だけではどうにも描けないことがある。真実のハラワタをつかみ出すためには、あえて「反写実」に向かわなければならないことがある。芸術はその必然として反写実であり・様式を求める、とも言えます。そのどちらもが正しいのです。

いつかは「反写実」・「様式」というものの意味についても書かねばならないと思います。しかし、「写実」の意味を突き詰めるために、いまは「写実」のことだけを考えていきたいと思います。

(H15・5・17)


○初代吉右衛門の「写実」

別稿「初代吉右衛門の写実の熊谷」において『吉右衛門が「見得がないならその方がいい」と思っているように思える』と書きました。歌舞伎役者がそんな事を考えるだろうか、とお感じかも知れません。もちろん これは吉之助の想像に過ぎません。しかし、根拠がないわけでもありません。「写実」の考えを進めれば・歌舞伎役者でもそういう事を考えることがあるものだろうと吉之助は思っています。

歌舞伎ではないですが、世紀のプリマドンナのマリア・カラスがこんなことを言っています。プッチーニの歌劇「トスカ」第2幕の有名なアリア「歌に生き恋に生き」を本当は舞台で歌いたくない・カットしてしまいたい、と言うのです。

『(「歌に生き恋に生き」は)当然カットされるべきだと思います。なぜならそれは第2幕の動きを完全に止めてしまうからです。事実、プッチーニもそれを望んでいなかったと知って、私はうれしく思いました。彼は本のなかで、彼はアリアが望まれたためにそれを入れたと言っています。ただ彼もそれが動きを止めたと言っています。私の本能は正しかったのです。』(マリア・カラス〜エドワード・ダウンズとの対談から)

このオペラをご存知ない方のために書くと、「トスカ」第2幕は歌姫トスカが悪漢スカルピアに自分のものになれと脅迫されて殺人を犯すドラマチックな場面です。アリア「歌に生き恋に生き」は主人公がその悲しい状況を神に切々と訴えるもので、これはソプラノの五指に入る名アリアなのです。それだけではなくて、「歌に生き恋に生き」という のはファンにとってはまさにカラスの生涯を象徴するような曲名なのではないでしょうか。それをカラスは舞台の流れを止めてしまうから歌いたくないと言っているのです。

「ドラマの写実」を追求していくと、こういう場面に出くわすことがあるものなのです。もちろんカラスが「トスカ」の舞台でこのアリアを歌わなかったことはありません。お客が許さないですから。

吉之助は吉右衛門の場合もそんな気がするのです。九代目の型ですから歌舞伎役者・吉右衛門は当然、制札の見得をしなければ歌舞伎の熊谷になりません。しかし、写実を追及する役者なら「見得がないならその方がいい」とチラリと思ったこともあるだろうと想像するわけです。

『歌舞伎なんて、ギックリバッタリしているだけじゃないか。あんな人形の真似ばかりしていると、今に歌舞伎なんか誰も見なくなるよ。』

幼い辰次郎少年(後の初代吉右衛門)がこんなことを言ったそうです。これは小島政二郎の著書「初代中村吉右衛門」にあるエピソードです。こういうことを考える少年が歌舞伎役者になったら、きっと彼は心の奥にその問いをずっと持ち続けたに違いないと吉之助は思います。

小島政二郎:初代中村吉右衛門

(H15・5・14)


○かぶき者たちの心象風景

メルマガ第99号「かぶき者たちの心象風景」は、歌舞伎とは関係ないような歴史談義でビックリされたかも知れません。陰陽道やら風水思想が江戸や京都の都市構造に潜んでいるということは、初めて知った方は驚かれるだろうと思います。小松和彦・内藤正敏共著「鬼の作った国・日本」(カッパブックス・この本は読みやすいのでお薦めしたい)を見ますと、日本の歴史はそれこそ陰陽道やら風水やら怨霊信仰・御霊信仰ですべて解けるような感じがして面白いやら・おぞましいやらです。

しかし、別稿「忠臣蔵は御霊信仰で読めるか」でも書きましたが、何でもかんでも陰陽道やら御霊信仰で斬られますと、平安時代も江戸時代も・民衆は迷信に振り回されて怨霊に恐れおののいて生きてきたようなイメージを醸成しかねないので、はっきり言うと私は「嫌い」であります。ただし、やはりこれを知っていないと理解できない現象が確かにあるのです。

メルマガ「かぶき者たちの心象風景」で私が言いたいことは、陰陽道やら風水やらではありません。(それがもっとお知りになりたければ、小松先生・内藤先生のご本をどうぞ。)こうした思想を利用して、かぶき者たちの「囲い込み」・「差別」が暗喩として行なわれたということなのです。そして、民衆の深層心理のなかにそうしたものがイメージとして次第に入り込んでいったということなのです。

いつの時代にも・誰のこころにも「他界」はあるのです。そういうものを作らないと秩序が保てないというか・秩序のなかにはまらないものが「他界」として整理されるということです。ここで触れるべきでないことですがそうしたことは現代においてもあることでしょう。

そうした囲い込み・差別によって、かぶき者たちの心が・美意識がどういう風に歪んでいったかを想像してみてもらいたいと思います。そこに「かぶき・傾き」の本質があるのです。そして、歌舞伎の「哀しみ」・女形の「哀しみ」もそこにあるのです。このことは、メルマガ100号の「女形論」において触れたいと思います。

(H15・5・11)


○初めてみた歌舞伎の女形

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第100号は「女形論」をお届けしたいと思っております。今回はその前座ということで、吉之助の「初めて見た女形の話」を。

吉之助が初めて歌舞伎を見たのは30年前の前進座での「俊寛」であったことはどこかで書きましたが、この時の千鳥は女優さんでした。名前が思い出せないが可憐な千鳥でした。 吉之助が歌舞伎の女形を見た最初は、その前座の解説「歌舞伎の見方」(という題であったか)で出てきた先代河原崎国太郎でした、何だか気味悪い・不思議なものを見ている気分でした。前方の席であったので姿はよく見えましたが、正直言って「美しい」とは言えないものでした。この不思議なものがよくしゃべる。いや、先代国太郎はしゃべりのうまい方でしたね。

国太郎は帽子をつけた女形の正装で、町娘はこんな感じで歩く・お内儀さんはこう歩くというような仕草を解説しながらやってみせたと記憶しております。すると、その不思議なものがそれらしく見えるのですな。雰囲気というか・色気が飛ぶような気がしました。それは着物の袂や裾の線から出てくるらしい・なるほどこれが芸というものか。それでどこに秘密があるものかとじっと目を凝らしていたのでしたが、そこでフッと我に返った。「おっとまずいまずい、こんなヤバイものにはまっちゃ大変だ」・・・こういう感覚は分かりますかね。(あまり深く説明はいたしません。)

それから歌舞伎に本格的にはまり込むまでに数年、歌舞伎は断続的に見てますのでそれまでに歌右衛門も梅幸も見てるのですが、吉之助の関心はどちらかと言えば芝居の筋の方で・女形にはちょっと距離を置いていたので「女形の存在」にそう関心を持ったわけではありません。歌舞伎の女形の役割を改めて思ったのは、 御多分に漏れないようだが当代玉三郎でありました。ただし歌舞伎での玉三郎ではなくて・新劇での玉三郎です。

昭和51年2月日生劇場でのシェークスピア「マクベス」でのマクベス夫人での玉三郎です。このマクベス夫人は強烈で、主演マクベスの平幹二朗もすっとぶような名演技でした。(この舞台はNHKに映像があるので是非再放送を願いたいのですが、山川さん、よろしくお願いします。)ご存知の通り、英国でもシェークスピア時代の芝居では女形が演じたのです。玉三郎のマクベス夫人はこの役が本来は女形が演じるべき役だということを強烈に想い起こさせました。歌舞伎の女形の技術は凄いということを心底思いました。 吉之助の歌舞伎の女形への関心はここから始まったのです。

そういうことでメルマガ100号での「女形論」をお楽しみに。

(H15・5・5)


○「直感」について

20年ほど前の話ですが、小説家・中村真一郎氏が評論「頼山陽とその時代」を発表された時に、中村氏は「自分は本作を書くに当たって、山陽の手記・手紙はもちろん、手に取ることのできる関連文献にはすべて目を通した、本作に批判があるならそのすべてに目を通してから言ってもらいたい」という旨のことをある雑誌に書かれておられました。

「頼山陽とその時代」は確かに読み応えのある名著ですが、この中村氏のご発言、なかなか大した自信であります。恐らくは専門研究者からの批判が来ることを意識してのご発言なのでしょう。しかし、一般読者向け雑誌(現にこの 吉之助が目にしているのですから)でのご発言としては「ちょっと適切ではない」と吉之助は思いました。

その作品を読んで、あれこれ感じていろいろ考えるのは、それは「読者の特権」というものです。ある一行を読んだだけで「この本に書いてあることとはちょっと違うのではないか、もっと別の考えもあるのではないか」と直感することがあり得ます。その時にフッと浮かんだ疑問は大事なので して・むしろ非常に重要なポイントを探り当てていることが多いのです。この「直感」だけなら、専門家でなくても・素人読者でも等しく働かせることができます。このことを作者が「駄目だ」と 封殺してしまったら、読書の楽しみなんてないのじゃないでしょうか。もちろん「お前は間違っている」なんて抗議文を作者に送りつけるなんてことなら、これは最低の行為でありますが。

「歌舞伎素人講釈」は所詮は素人の書いているサイト・メルマガですから、その文献的知識の裏付けにおいて専門家にはるかに劣ることは当然でありますが、もしかしたらその「直感」においてのみ・多少は読む価値もあろうかなと思うわけです。「歌舞伎素人講釈」は、「直感」を大事にして・そこにこだわって思索を展開させていきたいと思います。 もちろんその直感を肉付けするためにそれなりの材料を集めなければなりません。そうやって「直感」を「確信」に変えていかねばなりません。

メルマガ95号:「何とて松のつれなかるらん」冒頭はもともと「賀の祝」を書くつもりで始めたもので、それが「寺子屋」最後の「いろは送り」をめぐる展開になっちゃったのです。これが「直感」の芋ズル式に連なっていって9 6・98号の原稿になってしまったわけです。こういうのは書いている本人も先が見えない状態で書いているので、出来てみると非常にスリリングで面白いものです。三本原稿セットで、読者の皆さんにそういう「ワクワク」がお感じいただければ「成功」ということなのですが。

(H15・4・27)


○「考える材料」としての歌舞

じつは吉之助はここ十数年はほとんど年に1〜2回芝居を見るか見ないかくらいで す。先日、ある方から「芝居を見ないのは、今の歌舞伎に失望しているからですか」というメールをいただきました。なるほど、そういう風にも見えるかも知れませんね。いや、 深い理由があるわけではなくて、仕事が忙しいやら何やらで芝居に行く時間が取れないからだけのことです。

しかし、よく考えて見ますと吉之助は東京に住んでいるのだから、見ようと思えば芝居を見れないこと もないわけです。「それでも何としても芝居が見たい・・」というほどの積極的な気があまり起きないのは事実かも知れません。勘三郎が亡くなり・歌右衛門が病気で芝居を休み勝ちになったのと、仕事が忙しくなってきたのがちょうど重なったということでしょう。まあ、 吉之助の場合は十年ちょっとですがホントに根詰めて一生懸命に昭和歌舞伎の終わりを見ましたから、その記憶で持っているということです。

歌舞伎のサイトの場合は今の芝居・役者のことに触れないのはアクセスを稼ぐにはハンデなのですが、「歌舞伎を考える」というコンセプトでやっているサイトですから別に不都合はないのです。舞台を見てない分、想像力・妄想力は一層羽ばたくので、 吉之助の頭のなかで歌舞伎はいろいろと形を変えて純化しちゃっているところがあるかも知れません。昔は舞台で見えなかったことがメルマガ書きながら十数年も経ってようやく見えてくるということもあるもので、これだから考えるのは面白くて止められないというところです。

吉之助の場合は目下のところは芝居を見に行けない分、昔見た歌舞伎を「考える材料」として反芻しながら楽しんでいるということであります。もっとも雑誌やテレビで最新の情報はチェックしていますから、今の歌舞伎への関心が衰えたことは決してありません。「浦島太郎」のサイトではありません、念のため。

(H15・4・23)


○近松の「関八州繋馬」

近松座公演:5月2〜4日(国立劇場)・6〜8日(南座)
近松門左衛門作「関八州繋馬」
中村鴈冶郎(小蝶亡霊後に土蜘蛛の精)

「関八州繋馬」(享保9年・1724・1月竹本座・人形浄瑠璃初演)は近松門左衛門の最後の作品で、「将門の世界」が舞台になっています。偶然でしょうが、鶴屋南北の最後の作品「金幣猿島都」(文政11年中村座初演)も「将門の世界」が舞台です。 平将門といえば天下を揺るがした謀反人であり、有名な御霊でもあります。その将門を「世界」にとるのは、スケールが大きい芝居が出来る可能性がありますが、同時に「反体制」のシンボルを 題材に取るのは、作者にそれなりの作意があるとも考えられます。また、それを題材にするリスクも覚悟しなければなりません。

木谷蓬吟は、その著書「近松の天皇劇」(昭和22年・淡清堂)において、『後水尾上皇の幕府に対するご憤懣が、自然と近松に波及浸潤していったと推察するのも、決して架空の盲断ではあるまい』と書いており、近松は晩年に至って幕府批判の筆致を次第に強めているとも分析しています。(別稿「時代物としての俊寛」を参照ください。)

近松の生涯を見てみますと、その前後から近松の体力は急激に落ちて作品の数が減ってきますが、享保8年に幕府により心中物の出版や上演が禁止されたことが近松の創作欲を削いだとも考えられます。あるいは幕政への憤懣があったのかも知れません。

謀反人の娘として抹殺された小蝶の霊が、大文字焼の火のなかから現れるという幻想的な場面は評判を呼びましたが、大坂の「大」という字が燃えるのは不吉だという風評が流されました。その直後に、大坂が火事に見舞われて本作は葬り去られることになってしまいます。それがある筋の意図的なものであったどうかかはともかくとして、晩年の近松は失意のうちに死んだわけです。近松が亡くなったのは、本作初演の同じ年(享保9年)11月22日のことでした。享年72歳。

近松座での久しぶりの「関八州繋馬」上演は期待したいと思います。

(H15・4・17)


○お初・徳兵衛の「かぶき的心情」

メルマガ97号「純粋にせられた死」は、今からちょうど300年前の元禄16年(1703)4月7日の大坂・曽根崎の森で心中したお初・徳兵衛の「かぶき的心情」についての考察です。

実説では徳兵衛は25歳・お初は21歳であるそうです。その年の節分にお初は豆を21取って食べた、という話があるそうです。近松は、お初の年を19歳に設定して、 二人を「厄年(大厄)」の組み合わせにしているわけです。

近松門左衛門がどこまで実説を取材し参考にしているのかは分かりませんが、実説にあって近松が採用していない点は、お初に豊後の客からの身請け話が持ち上がっていたらしいこと・徳兵衛は平野屋主人の養女と縁組して江戸の支店にやられる話になっていたらしいこと、などです。いずれにせよお初・徳兵衛の心中も、当世流行のありふれた心中には過ぎなかったのでしょう。この・いかにも二人が心中に追いやられそうな設定を採らずに、近松は「自分たちの意地のために心中する」設定を作り出したのです。

『いとしぼげに、微塵訳は悪うなし・頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども・証拠なければ、理も立たず、この上は、徳様も死なねばならぬしななるが、死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず・いつまでも生きていても同じこと・死んで恥をすすがいでは。』

天満屋の場において、縁の下に隠れる徳兵衛に足先で心中の決意を即す・このお初の台詞にこそ、「曽根崎心中」大ヒットの秘密があると思います。

(H15・4・13)


○踊り手の至福について

「僕は二度死にたいと思ったことがある。『道成寺』の踊りでね、鐘の中に入るまでが非常によく出来た。このまま本当に死んだら極めていい心持ちだろうと思って鐘を上げるのをよせと言った。三味線が鳴り出しても鐘を上げるのが非常に不気味なんだ。後がもう先の通りに出来るかどうか分からない。・・・馬連良さんならこの話をしても通じると思うんだ。そういう時に死にたいな・・・という気持ちがですね。」(昭和17年12月「中央公論」六代目菊五郎・京劇俳優の馬連良による対談より)

別稿「菊五郎の道成寺を想像する」において引用しました六代目菊五郎の発言です。先日、ある本(著者名は伏す)をめくっておりましたら、この六代目の発言について『あまりにうまく踊れたので(六代目は)思わず狂気にかられたのである』と書いてありました。「狂気」・・? 吉之助はそれはちょっと違うのではないかと思いました。これは狂気ではなくて、芸術家の・踊り手の「至福感・恍惚感」というべきものだと思います。

何をやってもそれがピッタリとツボにはまる、何をやっても形が決まる、観客席から舞台の背景のすみずみまですべてが見える、音楽でさえも自分の体から湧き出ているように感じる、そういう瞬間においては、その踊り手の意識は異常なくらいに鋭敏になっていて・踊っている自分の姿が脳裏に見えるほどに彼はむしろ冷静なのです。そういう瞬間は滅多に来るものではありませんが、その瞬間に彼は「もう死んでもいい」と思うのです。

そういう踊り手の至福感というのは、実は「死の感覚」というものと隣り合わせにあるものなのです。第三者的に見ればそのことが見えることがありますから、それは「狂気」にも見え、そら恐ろしくもなるのでしょうが、しかし、演じているものから見れば、絶対にそうではないのです。それは、まったく懐かしい・狂おしいほどに・それだけの価値がある幸福な瞬間なのです。

舞台に立つ人だけでなく・スポーツの経験のある人も似たような経験をしたことのある人はいるだろうと思います。文章を書いていても指先から文章が生まれるような気がすることはあります。そういう時の文章はいい 。熱気があって着想がいいんです。

「狂気」などという言葉だけで片付けてしまわないで、芸術家にはそういう瞬間があるということを知っておいて欲しいと思います。その瞬間を求めて彼らは芸を磨いているのですから。

(H15・3・21)


○珍版・「仮名手本手習鑑」

メルマガ95号では「菅原伝授手習鑑」を取り上げています。ところで、安永3年(1774)7月に江戸・中村座において珍しいお芝居が掛かっています。「仮名手本忠臣蔵」と「菅原伝授手習鑑」が同時に楽しめるという珍版・「仮名手本手習鑑」です。

詳しい筋は分かりませんが、菅原の登場人物で忠臣蔵をみせたもので、丞相を判官・時平を師直・源蔵を由良助・松王を義平・梅王を若狭助・桜丸を勘平に当てはめたのだそうです。屋姫に横恋慕した 時平のいたぶりに丞相が怒って刃傷に及び、切腹の場に駆けつけた源蔵に丞相が手渡すのは伝授書なら ぬ九寸五分・・・というのですが、いかがでしょうか。

これは初代桜田治助の作。「劇神仙書入」によれば「奇妙ナル趣向ナレドモ、サノミ当リハナカリシトナリ」だそうです。

(H15・3・15)


○伝統の根源としての「善」

『明治中葉の「開化」の生活が後 ずさりをして、今のあり様に落着いたのには、訳がある。古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、いわば無駄とも思われる様式の、由来不明なる「為来り(しきたり)」によって、純粋にせられる事が多い。その多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与える。門松を立てた後の心もちの「やすらい」を考えて見ればよい。(中略) 生活の古典なるしきたりが、新しい郷党生活にそぐわない場合が多い。度々の申し合わせで、その改良を企てても、やはり不便な旧様式の方によりを戻しがちなのは、そのなかからそのなかから「美」を感じようとする近世風よりは、さらに古く、ある「善」ー少なくとも旧文化の勢力の残った郷党生活ではーを認めているからである。この「善」の自信が出てきたのは、辿れば辿るほど、神の信仰に根ざしのあることが現れてくる。』(折口信夫:古代生活の研究・折口信夫全集・第2巻)

我々が古来の「仕来り」に美や安らぎを感じるのはそれが我々にとっての「善・良きこと」であるからだ、と折口信夫は言っているのです。この文章にはハッとさせられます。「伝統」の根源は「善」の観念である、なるほど「善」であるか、これは素晴らしい気付きでありました。

我々日本人にとって異教徒の行事であるクリスマスやバレンタイン・デーがまるで日本古来の行事でもあるかのように我々の生活に定着してしまったのも、その「仕来り」の根源にある「善」の観念が、恐らくは我々のこころのなかに何がしか・古き良き生活への「親しみ・郷愁」に似た 親しみを呼び起こすのであろう。そんな気がしてなりません。

このことは、伝統芸能を考えるうえでのヒントにもなるかと思います。

(H15・2・21)


○久しぶりの芝翫型の熊谷

当月新橋演舞場での「熊谷陣屋」において、橋之助が珍しい芝翫型の熊谷直実を演じています。芝翫型の熊谷は、二代目松緑が昭和30年に演じてから 実に48年ぶりとのことです。 団十郎型はもちろん優れた型ですが、誰が演ってもいつも団十郎型の熊谷では詰まりません。これは「陣屋」に限りませんが、歌舞伎の硬直化を防ぐためにもいろんな解釈の幅があった方がよろしいかと思います。

芝翫型は本行に近いやり方で、つまり団十郎型以前の古い型ということです。九代目団十郎はこれを土台にして、そこに明治になって流入した新しい人間解釈を加えて型を構築し直したのです。団十郎はいいとこ取りで型をいじっておりません。改変する視点がしっかりしているのです。だからこそ、団十郎は後世の「規範」たり得るのです。逆に言えば、団十郎が変えた部分に団十郎の新しい部分の息吹きがあり、そこから原型である芝翫型の真髄(古いこと必ずしも悪きにあらず)が想起されるということです。今回、芝翫型を見ることで団十郎型の新しさも改めて認識されましょう。

こういう機会に「型の比較」をしてみるのは非常に役に立つことです。しかし、「歌舞伎素人講釈」をご覧の皆様には、「この部分はこの型が素敵だ・あそこの箇所はあの型が効果的だ」という部分選択をしないようにしていただきたいと思います。すべての型はひとつの視点(作品・役柄の解釈)から発するもので、いいとこ取りはできないものなのです。(舞台を見ていないので申し訳ありませんが)聞く所では今回の橋之助の熊谷は特に後半において団十郎型の折衷が見られるようですが、これはやはりまずいです。この点は注意してご覧になられた方がいいでしょう。

団十郎型というのは、熊谷直実の個人の悲劇にスポットを当てて、その視点から「陣屋」を再構築したものと言えます。そこに団十郎型の新しさがあるのです。芝翫型では、時代物浄瑠璃が持つ重層的・複合的な構造が見られます。熊谷のみならず、幕切れのすべての人物(相模・藤の方・弥陀六・義経・そして姿は見えないが敦盛も)の思いがそれぞれに渦巻きながら、オペラの六重唱のような効果を示すのです。この違いが今回の舞台で確認できれば大成功だと思います。

(H15・2・15)


○「滑稽な巨人」・坪内逍遥と歌舞伎

「団菊以後百年」を考えるということで、このところ、明治大正の歌舞伎についての文献をかじっています。そのなかでも坪内逍遥の文章が大変に面白く、その周辺を漁っています。

坪内逍遥と言えば、近代文学の創始者として評論「小説真髄」や小説「当世書生気質」を著した人であり、また、歌舞伎好きにとっては新歌舞伎の草分けである「桐一葉」・「沓手鳥孤城落月」の作者でありますが、実は逍遥は明治創世期の欧米文学の優れた研究者であって、戦前はシェークスピアの翻訳を読みたければ逍遥のものしかなかったわけです。「逍遥選集」を繰ってみて、その知識・活動の多岐にわたることを知って、改めて明治の先達の凄さに驚嘆しました。

そんなところに面白い新刊が登場しました。津野海太郎著「滑稽な巨人・坪内逍遥の夢」(平凡社・2400円)という本です。本書では逍遥の大真面目な行動が、周囲から「滑稽 ・奇矯・時代遅れ」と受け取られてしまう・その感覚の「ずれ」を紹介しながら、逍遥という人間を描くと同時に、明治・大正という・欧米の新しい思想を吸収し揺れながら変質していく日本を描いています。本書は演劇的な観点からは逍遥を描いてはいませんが、しかし、逍遥の行動は多分に「演劇的」です。そこに逍遥の本質があるように思われます。それほどに、恐らく体の芯から 逍遥という人は「歌舞伎好き」なのです。

九代目団十郎に心酔した逍遥は朗読の名手として有名で、早稲田大学でのシェークスピア講義は名物でありました。その朗読というのは、歌舞伎の声色を交えて浄瑠璃風に、時に身をよじりながら娘役を演じるというもので、見ようによっては「古色蒼然」・「何だ、これは」というようなものであったようですが、 しかし、逍遥の歌舞伎に関する文章などを読んでみると、何となくこれは「分かる」。他人には滑稽・時代遅れと笑われようが、そうしなければシェークスピアを演れないというのも、何となく「分かる」ような気がするのです。いずれ逍遥と歌舞伎についてもメルマガの題材としたいものと思っています。

(H15・2・9)


○今月の芝居:新橋演舞場・「曽根崎心中」

中村鴈治郎(天満屋お初)・中村翫雀(平野屋徳兵衛)

今月は歌舞伎座の豪華な「千本桜」通し・演舞場での久しぶりの芝翫型による「熊谷陣屋」(橋之助)というのも、もちろん気になりますが、一本ということならばやはり「鴈治郎お初上演50年」という触書の「曽根崎心中」ということになりましょうか。

近松門左衛門原作・宇野信夫脚色の「曽根崎心中」は昭和28年8月新橋演舞場で、二代目鴈治郎の徳兵衛、二代目扇雀(現三代目鴈治郎)のお初で初演されました。「曽根崎心中」は今でこそ人気狂言ですが、それまでは歌舞伎でも・文楽でもほとんど上演がされていなかったのです。これは「曽根崎心中」だけのことではなくて、近松というのは「日本のシェークスピア」などと言われてやたら 名声だけは高いのですが、舞台で上演される作品となるともっぱら改作物(例えば「河庄」は近松半二の改作)であって原作通りというのは少ないのです。

この場合も宇野信夫による脚色によるものですが、しかし、宇野信夫は近松の原作の台詞をよく活かして、勘所では原作の義太夫を使って音楽的な効果も活かしながら、テンポ良い脚色に成功していると思います。 この宇野版「曽根崎心中」は、特にお初が徳兵衛の手を引っ張って天満屋を逃げ出して花道を駆け入る場面が、観客に新鮮な感動・衝撃を与え て、初演は大変な話題になりました。普通はこういう場面では男が女の手を引いて駆けるのが正しいのです。それが昭和28年の初演以来、こんな逆の型になって定着してしまったわけですが、本当はこれは観客の熱気にあてられてしまったお初・徳兵衛のハプニングの産物であったというのは実に面白い話です。(別稿「曽根崎心中での男・徳兵衛」をご覧下さい。)

「曽根崎心中」の花道の引っ込みで観客が受けた衝撃・興奮は、戦後の雰囲気(男女同権・婦人参政権)などの女性意識の向上と密接に結びついています。と同時に、「曽根崎心中」のなかでお初が持つ役割というドラマの本質的な部分にも関連しているのです。お初が徳兵衛の手を引っ張って駆けるのは、劇的必然があるのです。だからこそ、単なるハプニングとして一時的な話題として終るのではなく「型」として定着したということなのです。

今は亡き二代目鴈治郎の徳兵衛も目に浮かびますが、これは孫の翫雀が見事に引き継いでくれています。お初は初演以来変わらぬ扇雀。(三代目鴈治郎というより、この場合は扇雀と呼びたいですね。)立派に成駒屋の家の芸になっています。

(H15・2・1)


○作品と時代・役者と時代

メルマガ第91号では「真山青果と二代目左団次」を取り上げております。演劇に限らず、音楽でも絵画でも・すべての芸術作品はそれが成立した時代の空気と無関係ではあり得ません。その作品の生まれた時代を 知れば、その作品の本質をより深く味わうことができます。

また歌舞伎の場合は作品と役者とがより深く関連していますから、作品から役者を知ることもできますし、また役者から作品を読むことだって可能になってきます。初期の黙阿弥は四代目小団次と切り離して考えることはできません。活歴と九代目団十郎との関係も同様に考えられます。

メルマガでも触れた二代目左団次の「突然の泣き」について、それは「左団次の役になりきれない・感受性の乏しさから来る」と書いてある論文(筆者名は伏す)がありました。ホントにその通りであるならば、左団次を論じる価値などありません。ホントにそうならば、明治・大正の新歌舞伎運動は逍遥・綺堂や青果ら・作者の側からのみ論じられれば良いのです。そして、たまたま初演の光栄にあずかった「下手な」役者として左団次の名前を付せば良いのです。

だが、それは絶対に間違いです。作者も・そして観客も、そんな魅力のない役者から決して触発されることはなかったでしょう。そんなことは左団次の実際の舞台を見ていなくたって分からなければなりません。

左団次の芸の何かが作者を・観客を触発したのです。青果も左団次も・そして観客も同じ時代の空気を吸い、そしてなにか同じものに突き動かされたのです。時代を共有する者たちだけが持つ何か大事なものがあるのです。左団次はそれを 確かに持っていたのです。だからこそ「大統領!」という掛け声さえ掛かったのです。それが一体何なのかを追い求めることこそが、演劇史を考えるときのポイントです。

それが分かってくれば、当代猿之助がやろうとしていることの意味・あるいは玉三郎・勘九郎の魅力も分かってきます。彼らの挑戦もまた「平成」という時代と切り離すことはできないのですから。

(H15・1・23)


○「今、世襲を考える」とはどういうことなのか

日本実業出版社から「世襲について〜芸術・芸能篇」という本が昨年(2002年)12月に出版されました。これは、「21世紀の今、なぜ世襲なのか」というテーマで のシリーズ本で、「歴史・国家篇」では家門を守る血統のダイナミズム、「事業・経営篇」では創業者の志を継ぐ精神などを論じているとのことです。

日本実業出版社はビジネス書を得意とする出版社ですから、目に見えないもの(芸あるいは心)を如何にして受け渡すか・受け継ぐかという観念的問題、あるいは修行過程・特に家庭教育における実践的問題などを分析しながら、古典芸能における「プロジェクト・X」を示してくれるのか、と勝手に期待しましたが、しかし、本書は非常に期待はずれでした。

数ある伝統芸能のなかでも特に歌舞伎にページが割かれていますが、まあ、「歌舞伎400年」とこれから始まる襲名ラッシュの前座的紹介本みたいなものですね。歌舞伎の紹介 などではなく、あ くまで「古典芸能を考えることの効用」を論じていただきたかった。

本書において「襲名」やら「家の芸」などを紹介していますが、市川団十郎家・十二代においてさえも実は流れがブツブツ切れている、守るべきもの・継ぐべきものは実は切れているのです。九代目団十郎は七代目の実子ではありますが、芸脈としては切れている・九代目は幼い時に養子に出て父親から直接的な指導を受けていないのですから。 九代目は常に「親父は並の俳優です」と言ってはばかりませんでした。そういう時に「伝統を継ぐ」とはどういうことなのか・「それでも伝統的であろう」とすることはどういうことなのか、「守るべきもの」とは何なのか、そのこと こそが問題なのです。だからこそ、それを論じることがビジネスにも通じるのです。

猿之助が言っているように、「歌舞伎役者の家系は血がつながっていると一般の人は錯覚しているけれども、うちみたいに六代直系というほうがむしろ異常なんです」ということなのです。 本書は、猿之助が言う「一般の人の錯覚」をそのまま持ち込んだまま・問題意識のないままで書かれていると思います。「梨園の奥さんは大変」なんてぬるい文章をビジネス書で読みたくはありません。

過去との「絆」を失ってしまった現代において「世襲」を論じることがどういう意味があるのか。現在の歌舞伎ブームが、それが単なる物珍しさからではなくて「伝統への回帰」を示す現象とするならば、そのなかに「社会再生・活性化」を即すヒントが何かあるのではないか ・そう考えてこそ現代において古典芸能を見る意義がある・そういう問題意識を持って本を書いていただきたかったです。

(H15・1・19)


○二代目左団次・必死の洋行

二代目左団次についてはいずれメルマガでも取り上げるつもりですが、取材がてら、その周辺を「雑談」でも載せたいと思います。

左団次が松居松葉(しょうよう)とともに西欧の演劇を学ぶために洋行したのは、明治39年(1906)12月から翌年8月までのことです。この時、左団次は27歳。明治37年に父・初代左団次を亡くし、若輩の身で明治座を引き継いで2シーズンを経たが、前途は厳しい。そんななかでの洋行は、イメージ的には「逃避」という感じに見えたのかも知れません。

明治40年2月に出版された森暁紅(ぎょうこう)の「芸檀三百人評」を見ますと、左団次の項には、『無事二興行御片付けのうえいよいよ劇道視察としてご出発なされ、今頃はもうせいぜい亜米利加っ子とお成り遊ばしてのことなるべく、お髭もたいぶ伸びたこととお察し申し候。ここにちょっと御願い申し置き候は照り焼きをソースで食うような名人となってお帰りなさらぬ様その事に候』と書かれています。 全然期待されていないというか、揶揄嘲笑という感じですね。当時の左団次の洋行はそういう捉え方をされていたのでしょう。

洋行した左団次は松葉のガイドでフランス・イギリス・ドイツ・イタリアなどを周遊して(最後にアメリカを経由して帰国)、片っ端から芝居を見て回ります。夕方ある町に着くと その晩に劇場で芝居を見て、よく朝は次の町に移動して、またその晩はそこの町の劇場で芝居を見るというような旅であったそうで、風景・名所旧跡などは全然見ていない、と左団次は回想しています。さらに演劇学校に行って演技の指導をしてもらったり、名女優サラ・ベルナールに会ったりもしています。まさに西洋演劇漬けの旅行であったわけです。(小山内薫・「演劇新潮」での左団次との対談による・明治41年出版)

言葉を知らない左団次がどういう風に芝居を見たかというと、劇場に入る前に松葉に脚本を読んでもらって、大体の筋を理解してから芝居をみたそうです。そして、芝居を見ている間は、松葉とはお互い口を利かないという約束をして芝居を集中して見たそうです。筋を理解したあとは、自分の俳優としての感性だけで舞台から伝わってくるものを必死で吸収・理解しようとしたということでしょう。

なるほど自由劇場での翻訳劇上演や・数多い新歌舞伎の上演など、後の左団次があるのはこの「必死の洋行」あってこそなのだ、と思わずうなってしまいました。しかし、左団次も凄いですが、ガイド役の松葉も凄い人物だと思いますね。

(H15・1・12)

○二代目左団次・必死の洋行〜サラ・ベルナールの印象

明治40年8月23日、欧米から帰ったばかりの左団次と小山内薫との対談から。(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」より)

「サラ・ベルナールに、あなたはイギリスの芝居をどう思います?と聞きますと、ベルナールの答えるには、イギリスの芝居は荒削りでいけませんと申しますから、何故だと聞きましたら、イギリスの役者は稽古を60日か70日しかしないからと申しました。」
「して見ると、自分はそれ以上やるんだね。」
「それで私も、それじゃあなたは幾日いくらいやるんですと聞いたら、大抵150日くらいはやりますと言っていました。6・70日の稽古で荒削りなら、日本の役者の稽古なぞは、まるで木材をそのまま転がして置くのと同じです。稽古の一事を以っても、西洋の役者がどのくらい芸に熱心だか分かります。」

・・・・・・・・・

「サラ・ベルナールの芝居をみたかね。」
「「レ・ブッフォン」というのを見ました。」
「巧かったかね。」
「声のいいのには、実は感心しました。」
「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 」

ここで「腹から声を出す」ということを左団次が言っておりますのも、非常に興味が引かれます。これなども、六代目菊五郎とはまったく違うルートから(菊五郎の場合は「九代目団十郎の肚芸」から)「息を積む」修練のヒントを得たのであろうと感じるのです。 この件については、いずれ機会があれば考えてみたいと思います。

(H」15・1・15)

○二代目左団次の洋行・その3:歌舞伎役者の目

再び、明治40年8月23日、欧米から帰ったばかりの左団次と小山内薫との対談から。(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」より)

「(「ノートルダム・ド・パリ」(ユーゴー作)の舞台を見て)何しろ大芝居なのには驚きました。ほとんどツケを打たぬばかりでした。坊さんのクロウド・フロロがエスメラルダを口説いて刎ねられた後、一睨み大きく睨んで引っ込むところなどは大芝居でした」
「一体西洋の芝居は幕切れが非常に良いね。」
「そうです、ほとんど木を打たぬばかりです。ちゃんと何処で幕を下ろすという型が極まっているのです。」
「日本の芝居の幕切れには木を打つが、木を打っても一向クギリのつかないのが多い。西洋の芝居の幕切れは木こそ打たないが、ちゃんとクギリがついているように思うがどうかね。」
「本当にそうです。」

この頃の西欧演劇はイプセンの芝居が一世を風靡していた時代ですから、 現代のロンドンやパリで見られる舞台とはかなり違う感じです。左団次の感想を見ると、私たちが思い描いている西欧演劇のイメージよりずっと芝居掛かっている(つまり写実的であるというより様式的に近い)・意外と歌舞伎に近いものがあったようにも思われます。

私たちは、明治時代に西洋演劇の思想が日本に流入してきて・いわば水のなかに油が入り込んできたような印象を持ちがちです。それはなるほど当時の歌舞伎役者にとってショックではあったのでしょうが、しかし、現代から見ると別の見方もできるように思われます。若き左団次は歌舞伎役者としての目で、西洋の舞台のなかに「歌舞伎が進むべき道」のヒントを確かに見た、と感じるのです。

ここで左団次が感心した「西洋の芝居は幕切れがいい、ほとんど木を打たぬばかりだ」という点は、非常に面白いと思います。その後に左団次が初演した作品群を見ますと、その感想が活かされているように思えます。

(H15・3・8)


○「団菊以後100年」

今年(2003年)は「歌舞伎400年」のイベントがいろいろと華やかに行われることと思いますが、今年は重要な節目がもうひとつあります。それは「団菊以後100年」ということです。1903年(明治36年)の2月18日に五代目尾上菊五郎、そして9月13日に九代目市川団十郎が相次いで亡くなっています。おそらくこちらの関連のイベントもあるかと思います。

歌舞伎の創始者・出雲のお国と言ってもイメージは漠としていますし、400年前ではさすがに実感はありません。歌舞伎400年イベントと言っても「お祭り」にしかならないでしょうが、「団菊以後100年」というのは、それとは意味合いが違います。この問題を考えることは、今の歌舞伎を考えることでもあるからです。

実際、団菊が相次いで亡くなった時の衝撃というのは我々の想像をはるかに超えたものであったようです。

『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』と伊原青々園は、「団菊以後」で書いています。

この衝撃から歌舞伎はどう立ち直り、新たなる方向性を見出していったのか、まずはきっかけを二代目左団次・そして六代目菊五郎に求めて考えてみたいと思っています。とは言え、本サイトのような素人サイトには自ずと限界がありま す けれど、この1年は、断続的になりますが、折に触れてこのことを考えたいと思っています。

写真館「二代目左団次の綱豊卿」「二代目左団次の仕事」もご参考にしてください。

(H15・1・5)


○今月の歌舞伎:歌舞伎座・「助六由縁江戸桜」

市川団十郎(助六)・中村雀右衛門(揚巻)・市川左団次(意休)他

「歌舞伎400年」の幕開けにふさわしく、1月の歌舞伎座は玉三郎の「道成寺」とか菊五郎の「弁天小僧」とか話題の演目が並んでおり、前評判も上々であるようです。そこで、今回はそのなかから「助六」を選んでみました。

昨日・大晦日に、テレビで京都・南座の顔見世での中継録画の「勧進帳」をやっておりました。当代(十二代目)団十郎の弁慶ですが、テレビを見ていていかにも「カブキの弁慶じゃなあ」という感じがしまして嬉しくなりました。細かいところはともかくとして、さすがに団十郎は荒事である歌舞伎十八番の雰囲気をしっかり押さえているのですね。これを見ちゃうと、他の弁慶は「活歴っぽく」見えてしまいます。

荒事というのは若衆の芸で、単に力強いだけではなくて多少の稚気とおおらかさがなければなりません。思慮深い弁慶ももちろん結構ですが、それだけだと荒事の弁慶のこころが見えてきません。「勧進帳」は初代・二代目から伝わるもの(つまり元禄時代頃の作品)ではなくて七代目の新作(天保時代の作品)なのですが、だからこそ「勧進帳」は市川家の家の芸たる・歌舞伎十八番を名乗ることができるわけです。

「助六」も同じこと。昨今はどちらかと言えば優美さに傾きがちな「助六」ですが、これも歌舞伎十八番なのですから、そこに荒事たる助六(実は曽我五郎)の片鱗が見えて欲しいものです。明日(2日初日)からの団十郎の「助六」の舞台に期待したいと思います。

(追記)写真館「名優たちの助六」もご参考にしてください。

(H15・1・1)


   

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