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時代物としての「俊寛」

〜「平家女護島・俊寛」


1)近松の「天皇劇」

近松門左衛門は、承応2年(1653)、越前藩士杉森市左衛門信義の五人兄弟の次男として生まれました。幼名は次郎丸、元服後に信盛。十二歳の時に父が浪人して、家族とともに京都に移ったと思われます。近松は、亡くなる10日ほど前に自ら辞世文を記し、そのなかでこう言っています。

『代々甲冑の家に生まれながら、武林を離れ、三傀(かい)九卿(けい)に仕え、しせきし奉りて寸爵なく、市井に漂ひて商売しらず、陰に似て陰にあらず、賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず。』

これによれば、近松は歌舞伎・浄瑠璃の世界に飛び込む前に、少なくとも三人の公卿に仕えたことになります。その公卿は、一条禅閤恵観(えかん)、あるいは正親町(おおぎまち)大納言公通(きんみち)とも、 また阿野家とも言われています。近松の浄瑠璃の詩章に見られる広範囲な知識というのは、公家に仕えていた時代に培われたものだと思われます。

「翁草」によれば、正親町近通が宇治加賀掾のために自ら浄瑠璃を書き起こし、その草稿を近松が加賀掾のもとに届けたことが、近松が作者の道に入ったきっかけであった、ということです。お公家さんが浄瑠璃を書いたというのはちょっと驚きですが、室町時代の末から傀儡師(かいらいし・人形遣いのこと)や浄瑠璃語りが禁中に 頻繁に出入りしていますから、お公家さんが風流の慰み事として、贔屓の太夫のために浄瑠璃を作ったということは大いにあり得る話だそうです。

三人の公卿のなかでは一条恵観が注目されます。恵観は、後陽成天皇の第9皇子で、兄が後水尾天皇でした。後陽成天皇は人形芝居をしばしばご覧になり、浄瑠璃太夫や人形遣いに「掾」号を与えるようになったのも、後陽成天皇の時からだと言われています。その子の後水尾天皇もまた文化教養の深い天皇であり、人形芝居を愛されたようですから、そのお傍近くにいた近松がその影響を受けて、有職故実や古典の素養を身につけていったのも自然なことだと思います。

さらに多感な青年時代の近松に多大な精神的影響を与えたものがあったとすれば、それは後水尾天皇を中心とした朝廷と徳川幕府との緊張した政治関係ではなかったでしょうか。 江戸幕府は朝廷の動向に神経質過ぎるほどの警戒をして、その行動を規制し続けてきました。後水尾天皇は、こうした幕府の度重なる干渉に憤り、これに反発を続けてきた天皇でした。(別稿「もうひとつの身替座禅」をご参照ください。)後水尾天皇は「紫衣事件」に抗議して自ら退位し上皇にな るのですが、その後も朝廷のなかで力を持ち続けて反幕府の姿勢を最後まで貫きます。後鳥羽上皇(承久の乱で鎌倉幕府に負けて隠岐に流された)の四百年忌の挙行など もそのひとつの例です。

このような天皇の生活・宮中の雰囲気を身近なところで窺い知ることができたことは、その後の近松の作家活動に微妙な影響を与えたと思われます。それは、近松の時代物浄瑠璃における天皇への親近感・ あるいは幕府に押さえ付けられる朝廷への同情となって現れるのです。

近松というと「世話物の作家」であるというイメージがあります。しかし、実は時代物で評判をとってこそ一流の浄瑠璃作家なのです。近松においても、その百数十編ある作品の大半 は時代物であって、世話物はそのなかの24編に過ぎません。作家・近松にとって時代物こそが本領であって、世話物は付け足しに過ぎません。

時代物浄瑠璃というのは、最初の「世界定め(時代設定)」が肝心です。そこに作家の世界観・歴史観のすべてが現れます。もちろんお役所の規制・検閲がなにかと厳しい時代のことですから、それをストレートに出すのではなくてオブラートに包んだようにして「虚構の時代設定」のなかにそれを託すわけです。

「近松の天皇劇」ということを最初に言ったのは研究者・木谷蓬吟でした。(「近松の天皇劇」・昭和22年・淡清堂)木谷蓬吟は、近松の時代浄瑠璃から天皇が登場する33編を挙げて、『後水尾上皇の幕府に対するご憤懣が、自然と近松に波及浸潤していったと推察するのも、決して架空の盲断ではあるまい』と書いています。つまり、ある 意味での「勤皇」的史観が近松の天皇劇の動機である、とするものです。これは、昭和22年という発表時期を考えますと、なんとなく時代の流れを感じさせるところがあります。

一方、これを踏まえてさらに新しい視点を加えた形で、昭和56年に研究者・森山重雄により同題の「近松の天皇劇」(三一書房)が発表されています。ここで森山重雄は、天皇の民俗学的役割に注目して、「位争いや奪権のモチーフ」の明確なものだけに絞って、木谷蓬吟より少ない15編を天皇劇として挙げています。


2)「平家対朝廷」の対立構図

本稿においては「近松の天皇劇」を論じるつもりはありません。近松の時代物が上演される機会は現在では限られていますし、文献として作品を読むのは研究者のテーマですから 、本稿で論じるにはテーマが大きすぎます。そこで本稿においては、いちばん知られている近松の時代物「平家女護島」を通して、近松の天皇史観をちょっとだけ考えたいと思います。

「平家女護島」では二段目「鬼界ヶ島の場」・いわゆる「俊寛」が突出して有名ですが、その四段目において後白河法皇が登場します。平清盛は平家の信仰する神社である厳島神社への参詣に法皇を伴って船出します。一方、 鬼界ヶ島からの帰還を許された成経・康頼・千鳥らの一行を乗せた船が登場して、これが敷名の浦で清盛の船と遭遇するのです。

清盛が厳島参詣に後白河法皇を伴ったという史実はないそうですが、「平家物語」巻40「厳島御幸」には高倉天皇が上皇になった後の御幸の始めとして厳島へ御幸されたことが伝えられています。高倉天皇のなかば強制的な譲位は、清盛には孫になる三歳の安徳天皇を位につける為のものでした。また、この厳島御幸は朝廷が平家に反抗する気がないことを公に示して清盛の横暴を和らげようとするものであった、と思われます。近松はこの史実を高倉上皇から後白河法皇に置き換えて、さらに清盛がこの機会に法皇を亡きものにしようと企んでいると設定しています。

丹左衛門の報告により、鬼界ヶ島への上使瀬尾が俊寛に殺されたことを知って清盛は激怒します。瀬尾は清盛の寵臣ですから、これを殺された清盛の怒りは法皇にぶつけられます。清盛は法皇を踏み付けてこう叫びます。

『ヤア位ぬけ殿、法皇殿。保元平治よりこのかた朝敵に悩まされ、天下暗闇っと成ったるを悉く切り鎮め、法皇と言わせた入道が恩を忘れしな。ややもすれば平家を滅ぼせ入道を殺せなんぞ、俊寛をはじめ人をかたらひ、ぬっくりとしたことたくまれし。(中略)この後平家追悼の院宣など、頼朝牛若にやられては飼い犬に手を食はるる道理。海へ投げ込み人知れず殺さんため、厳島参詣と偽り、ここまでは連れ来たれども、根性くさっても王は王、手にかくるは天の恐れ、みづから身を投げ給えば清盛に罪はなし。さあ身を投げ給え、早う早う。』

こうして法皇は清盛によって海に投げ込まれてしまうのですが、千鳥によって命を助けられます。(千鳥については別稿「今日より親子の約束、わが娘」で考えたいと思います。)

ここで清盛は法皇のことを「位ぬけ殿(高位につくに値しない人)」と嘲り、また清盛への恩を忘れた「飼い犬」だとまで言って暴言の限りを尽くしています。一方の法皇の方は、清盛に対して抵抗もせず、「天照太神に見放され奉ると思えば、世にも人にも恨みなし」と言ってひたすらに従順です。

史実の後白河法皇というのは頼朝に「日本国第一之大天狗」と評され・権謀術数にたけた生臭いほどの人物ですが、ここで近松が描いた天皇は守護され崇められるべき存在であって・自らの意思で行動する存在ではありません。ここでは 謡曲で天皇が子方で登場するのと同じく、清 く静かな神的存在として扱われていることが分かります。近松は宮中で天皇の近くで仕事をして、あるいは天皇にも接したかも知れませんが、しかし当時の人々にとって天皇は「現人神」でありますから、近松はそのイメージをしっかりと守っています。

木谷蓬吟は、この「平家女護島」(享保4年作)での清盛の暴言のような描写が近松には晩年の作品になるほど多くなっていると指摘して、それは享保に入って将軍吉宗の朝廷圧迫が激しくなっていたことに関係があると述べて、「清盛は徳川幕府の仮面である」と言っています。だとすれば、もともと朝廷に親近感が強かった近松は日ごろの幕府の朝廷に対する振る舞いに憤懣やるかたなく、それを「平家対朝廷」の 対立構図のなかに託したとも考えられるわけです。


3)時代物としての「俊寛」

「俊寛」を見る時に木谷蓬吟のこの指摘が重要であると思うのは、「清盛=将軍吉宗」であるかどうかは別にしまして、その視点から「俊寛」という芝居の時代物浄瑠璃としての骨太い構造が見えてくるからです。

現在の歌舞伎の舞台で見られる「俊寛」というのはどこか世話物的であって、ひとり島に残されてしまう俊寛個人だけの悲劇になってしまっている感じがすることです。それはそれで十分に感動的ではあ るのですが、しかしどこか世話っぽい。ところが「平家女護島」全体から見ると、この「俊寛」はただの時代物どころか大時代であって、俊寛の悲劇がしっかりと「平家対朝廷」の対立構図のなかに位置付けされていることが分かります。それを明確に意識するためには「近松の天皇劇」という視点が必要であると感じられるのです。

それは上使瀬尾が「寺子屋」の春藤玄蕃みたいな赤面の悪役になっていることにも言えます。瀬尾は清盛の執事ともいうべき身分の高い家来であり、したがって品は悪くない人間なのです。歌舞伎では俊寛の哀れを際立たせるためか、瀬尾は悪意を以って俊寛に対するような いかにも悪役で品性のない役造りがされていますが、瀬尾には流人たちのなかで特別に俊寛に対して悪意で接しなければならない理由があるわけではありません。清盛の家来だから悪人の手下には違いない のですが、規則を規則として忠実に・四角四面に実行しようとする高級官僚に過ぎないのです。

このことは俊寛の怒りを瀬尾個人に対する怒りであるように観客に見せてしまって、かえって俊寛の怒りの政治的な側面を見えなくしてしまっているように思われます。例えば 俊寛が使者瀬尾を討ち果たさんとする場面、とどめを刺そうとする俊寛を丹左衛門が止めます。

『(丹)「勝負はきっと見届けた。とどめを刺せば僧都の誤り、とが重なる。とどめ刺すこと無用無用。」(俊)「オオとが重なつたる俊寛、島にそのまま捨て置かれよ。」(丹)「イヤイヤ御辺を島に残しては小松殿、能登殿の御情も無足し、御意をそむく使の落度、ことに三人の数不足しては関所の異論かなひがたし」と呼ばはつたる。(俊)「さればされば、康頼・少将にこの女を乗 すれば、人数にも不足なく、関所の異論なところ。小松殿、能登殿の情にて、昔のとがは赦され、帰洛に及ぶ俊寛が、上使を切つたるとがによつて、改めて今 鬼界ヶ島の流人となれば、上御慈悲の筋も立ち、お使の落ち度いささかなし」と、始終をわが一心に思ひ定めしとどめの刀、(俊)「瀬尾受け取れ、恨みの刀」三刀四刀じじぎる引つきる、首押し切つて立ち上がれば、船中わつと感涙に、少将も康頼も手を合わせるたるばかりにて、物をも言はず泣きゐたり。』

この場面で丹左衛門が瀬尾と俊寛の争いを「流人と上使の私的な喧嘩」として処理しようとするのを俊寛は拒否して、改めて公の罪人として喜界ヶ島の流人になることを自ら宣言するわけです。つまり「これは 公の・政治的な闘いだ」と いうことを俊寛ははっきりと主張しているのです。ここで俊寛が瀬尾に「恨みの刀」を突き立てる時、俊寛は清盛に刀を突き立てているこころであることは疑いありません。だからこそ、四段目において俊寛が瀬尾を殺したことを聞いて清盛は烈火の如く怒り狂うのです。

謡曲「俊寛」では清盛の憎しみによって俊寛は無理矢理に島に置き去りにされるのですが、近松の「俊寛」は千鳥・成経という若い二人を救うために自分の意思で島に残ります。しかし、その決断は個人的心情だけから来るものではなくて、その 決断の背後には「平家と朝廷」の対立という政治的構図が大きくあるわけです。このことが意識された時に、近松の「平家女護島」の時代物としての骨太い構造がはっきりと見えてくるでしょう。

近松門左衛門集〈3〉 (新編 日本古典文学全集)・・「平家女護島」を収録

(H14・10・27)


 

 

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