(TOP)           (戻る)

もうひとつの「身替座禅」

〜「身替座禅」


1)江戸幕府と朝廷

元和元年(1615)、徳川家康は大坂夏の陣において豊臣家を滅ぼし、幕府の基礎を磐石のものとしました。次に幕府がとりかかったのは朝廷対策で、その最初が二ヶ月後(7月)に発布された「禁中並びに公家諸法度」でした。この法律により、公家・親王などの席次、三公・僧侶の任免・昇進、武家の官位や改元にいたるまで、朝廷の決定に対して幕府は口出しができることになりました。さらに京都に京都所司代が置かれ、これにより天皇の行動は常に幕府に監視され、外部との接触を大きく制限されることになります。幕府は、朝廷の持つ伝統的な権威が反幕府勢力に利用されることを極度に警戒したのです。その後も折りに触れ て幕府は朝廷の行動になにかと干渉してくることになります。

この「禁中並びに公家諸法度」が制定される2年前、慶長16年(1611)に16歳で即位したのが後水尾(ごみずのお)天皇です。この後水尾天皇は血気さかんなお方で、幕府の権力が朝廷に介入しようとすることに生涯かけて戦いつづけた天皇でした。その後水尾天皇に家康の孫娘で将軍秀忠の娘である和子(まさこ・後の東福門院)の入内問題が降りかかってきます。この政略結婚が決められたのは、元和6年のことです。この時、天皇は25歳、和子は14歳でした。

寛永4年7月、朝廷が臨済宗や浄土宗の僧侶に与えていた紫衣(しえ)を幕府が「勅許紫衣法度」違反だとしてこれを剥奪し、さらにこれに抗議した者たちを流罪に処すといういわゆる「紫衣事件」が起きました。天皇にとっては面目丸つぶれの事件でした。寛永6年11年に後水尾天皇は幕府に事前の連絡もせずに突然退位してしまいます。表向きの理由は健康問題とされましたが、当時の人々はみな紫衣事件が背景にあると受け取っていました。

後水尾天皇は退位した後も、上皇として朝廷の権力を握り、幕府の政策に反抗しつづけます。このように天皇と江戸幕府との関係は冷え切っていましたが、天皇は江戸から孤立無援の京都へ入内した東福門院和子を不憫と思われたか大事にされたようで、夫婦仲は悪くなかったようです。


2)狂言「花子」はなぜ秘曲なのか

本稿では「身替座禅」について考えたいと思います。この作品は狂言の秘曲と言われる「花子(はなご)」を下敷きにしたもので、岡村柿紅の作詞・作曲五代目岸沢古式部他により,明治43年・東京市村座での初演。六代目菊五郎の山 蔭右京、七代目三津五郎の奥方玉の井の舞台は大好評で、以来人気曲となっています。

さてこの原作の「花子」という狂言ですが「秘曲」とされて滅多に上演されないそうですが、どこがどうして「秘曲」なのか、なかなかその理由が分かりませんでした。型を伴った小謡の独演が重い習物として扱われているとも言われますが、どうもピンと来ません。そうこうしているうちに、それらしき理由が見つかりました。この狂言の主人公は大名ということになっていますが、この「花子」は後水尾天皇をモデルにした一種のゴシップ劇なのだというのです。天皇をモデルにしているわけですから「恐れ多い」ので滅多に上演されない、しかし、分かる人はそれを知ってみるから面白いという種類の狂言なのです。

但し書きを付けておく必要がありますが、「花子」と言う狂言自体は能の「班女」を踏まえたパロディだとも言われ、その原型は「ぢうや(十夜)帰り」として室町時代には成立していたことが明らかです。しかし、すべての能・狂言作品が室町時代にテキストが固まったわけではなくて、その多くはその後も少しづつ増補や差し替えが行われているものです。「花子」の場合も、江戸時代に入ってから当世風流行歌謡なども取り入れられたりして手が加えられているので、主人公のモデルを後水尾天皇に見立てた形で「花子」が演じられるようになったとしてもそれは不思議ではないことだと思います。

まず狂言「花子」の場合、最初の名乗りが「重い」とされているそうです。その名乗りでは「これは洛外に住居いたす者にござる」とあります。実は、これだけで聞く人にはそれが後水尾天皇だと分かるのです。普通の狂言の名乗りでは、「この辺りに住居いたす者でござる」とか「都に住居いたす者でござる」とか言います。つまり場所の設定が明確にされていません。しかし、ここでは「洛外」とはっきり指定がされています。これは「洛外」、つまり京都・左京区にある・後水尾天皇のお住いであった修学院離宮を指しているというのです。(注:修学院離宮は明暦2年(1656)頃の造営で、当時は後水尾天皇は紫衣事件で退位された後で、正確には「上皇」で した。)このことこそ「花子」の名乗りが「重い」と言われることの真の理由だと思われます。

したがって、狂言「花子」の大名は後水尾天皇(上皇)、そして奥方は江戸から輿入れした将軍秀忠の娘・和子(東福門院)だということなのです。そう考えますと大名が奥方を「怖い・怖い」というのもうなづけます。天皇にとって、和子はいわば徳川幕府から差し向けられたお目付け役であるからです。怖いといえば、これほど怖い奥方はありません。恐らく京都のお公家さんたちは、この狂言を見ながら「オホホ・・・・」とお笑いになってちょっとの間の憂さ晴らしをされたのだろうと思います。

天皇がモデルともなれば、おいそれと上演するわけにはいかなかったでしょうし、登場人物もそれなりの品格を以って演じられるべきものになっていったということは想像に難くありません。


3)もっと品位を

松羽目物の「身替座禅」を見る時にこのような知識は必ずしも必要ではないかも知れません。ただの恐妻家のお笑いでもそれは十分楽しめましょう。作者の岡村柿紅にしても大名の名前を「山 蔭右京」としていますが、修学院離宮は左京にあるのですから、あまりそういうことは意識して作っていないのかも知れません。(あるいは知っていたからこそ、わざと役名を「右京」として逃げたのか。)しかし、それは別にしても、こういう狂言ダネの場合は、やはりそれなりの品格を以って役を演じられなければならないのは確かなのです。

これは「身替座禅」だけのことではありません 。松羽目物というのは作の出所(つまり式楽である能狂言の題材であるということ)を大事にして、何よりも品位を大切にしなければなりません。能・狂言ダネの作品を演じることで歌舞伎をちょっぴり高級感のあるものにしようというのが元々の松羽目物の意図・あるいは下心なのですから。「松羽目物」というのは、「河原乞食」と呼ばれて蔑まれてきた歌舞伎役者の上昇願望の産物なのです。(これについては別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番:天覧歌舞伎」をご参照下さい。)それにしては、最近の松羽目物はちょっと崩れて庶民っぽく ・下卑てはいないでしょうか。

近年の「身替座禅」の舞台では十七代目勘三郎の山蔭右京に勝るものはないと言ってもよろしいかと思います。特に花子との逢瀬の帰り道・花道での場面で、酒にポーッと顔を赤らめてうっとりと逢瀬の喜びを思い出して「ウフフ・・」と笑う時はなんとも可愛らしいというか、こちらまでもらい笑いをしてしま いそうでした。しかし勘三郎も晩年の最後の舞台になると正直申してだいぶ崩れてしまって、下卑た感じがしていまひとつ品格に欠けました。いま舞台で見られる山蔭右京はただの好き者の恐妻家に見えかねません。

狂言 「花子」の後の出は「うつつの出」または「夢心の出」と言って大切な習いになっています。「花子」での朝帰りは、花子との逢瀬の喜びが大きい分、花子への想いが別れの寂しさをしみじみ感じさせる場面なのです。しかし歌舞伎の「身替座禅」では、「名残りの口舌酒の酔い」とか「ちろりちろりと千鳥足」などという狂言の小歌にはない文句が加わってきて、浮かれた酔っ払いの朝帰りになってしまっています。しかし、ここがいちばん歌舞伎らしくて面白いところな のですから、どちらがいいとか言えない難しいところです。「やはり落ちるところに落ちた」というところかも知れませんね。

武智鉄二が六代目菊五郎に「大名が酔っ払うのは困りますね。浅くなりますね。」と言うと、菊五郎はちょっとはにかんだような顔をして、「あれはうつつの出だから、酔っ払っているんじゃないんだ。僕はしすぎたつもりでやっているんだ。」と言い訳をしたそうですが。

もうひとつ大事なのは、奥方の描き方でしょう。いまの歌舞伎の舞台を見ると、奥方をメーキャップで可笑しくみせようとするか・いかにもごつい体格の人を当てるかして、視覚で笑いを取ろうとする傾向が強いようです。これはあまりいただけません。奥方が皇后であることを置いたとしても、賤しくも大名の奥方なのですから、狂言ダネとしては品位に多いに欠けると思います。

この奥方は決して見かけが悪いとか・気立てが悪いとかいうのではありません。「エエありように花子が許に行くというたならば、一夜ばかりはやるまい物でもないに、妾をたらいて行たと思えば、身が燃ゆるように腹が立つ」というように、奥方の怒りというのは女心を踏みにじ られ・騙された、というところにあるわけです。座禅衾をかぶった奥方が「そんなら殿様に見えますかえ」と言います。これは歌舞伎での入れ事の台詞なのですが、しかし、この台詞を能狂言に詳しい七代目三津五郎は「恋しい夫の面影に似たことさえ嬉しいという気持ち」で言うように工夫をしていたそうです。そういう可愛らしく・いじらしい女心のある奥方なのです。

そんな可愛い奥方であっても「怖い」というのが、この「身替座禅」の真意なのです。いったん事がばれてしまったら愛する夫婦でも怖い。何と言ったって奥方のご実家の権力は凄いのですから。イヤ、そこに政治の哀しくも厳しい現実が見えてくるではありませんか。


(後記)

後水尾天皇は東福門院との夫婦仲はよろしく、二皇子五皇女を設けましたが、そのうち明正天皇(興子内親王)には子供がないまま若くして亡くなり、もうひとりの皇子も夭折しましたので、皇位は側室の子である後光明天皇に譲られました。結局、公武合体の試みは東福門院の死によって終るわけです。延宝4年(1676)に東福門院が70歳で亡くなった時、後水尾法皇は思わず嗚咽を洩らし、そして法皇はその死を悼んで次のような歌を詠まれたということです。

「かかる時ぬれぬ袖やはありそ海/浜のまさごの天の下人」

別稿:写真館「身替座禅の名舞台」もご参考にして下さい。

(H14・10・13)





  (TOP)          (戻る)