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身分問題から見た歌舞伎十八番

その4:天覧歌舞伎


1)天覧歌舞伎

天覧歌舞伎は明治20年(1887)4月26日から4日間にわたり、麻布の井上馨外相邸の茶室開きの余興として行なわれました。天覧歌舞伎は「演劇改良運動」の一環として随分前から劇界からはその挙行が希望されていたものでした。これが興行師守田勘弥らの努力によってようやく実現したのでした。出演した役者は九代目団十郎を始めとして、五代目菊五郎、初代左団次らで、演目は次のようなものでした。

第1日(主賓:天皇):勧進帳・高時・操三番叟・猟師の月見・元禄踊・曽我十番切・山姥

第2日(主賓:皇后):寺子屋・伊勢三郎・土蜘蛛・徳政の花見・静忠信・元禄踊

第3日(主賓:内外高官):寺子屋・伊勢三郎・花見の賑わい・高時・元禄踊

第4日(主賓:皇太后):勧進帳・靱猿・忠臣蔵三・四段目・吉野落・六歌仙

「演劇改良運動」とは、歌舞伎を江戸時代の価値観と美意識を引きずった古い演劇(旧劇)であるとして否定し、これを新しい時代にふさわしいものに「改良」しようとする演劇運動でした。明治という時代のキーワードは「文明開化・殖産興業」です。明治とは、江戸の思想・風俗を遅れたものとみなしてこれを否定して、西欧列強にいかに追いついていくかを最大の課題とした時代でした。歌舞伎は「江戸の残渣そのもの」だとみなされていたのです。民衆に影響力のある芝居(歌舞伎)を「改良」して、娯楽を通して民衆に新たな倫理観・価値観を浸透させていこうというのが、「演劇改良」運動の理念でした。これに賛同し、運動の先頭に立ったのが九代目団十郎だったのです。

団十郎以下芝居関係者は斎戒沐浴してこの上演に臨みました。「勧進帳」上演においては内務省参事官末松謙澄が「お上に恐れ多いことがあってはならぬ」というので散々に手を入れた台本が使われました。たとえば、「判官御手を取り給い」という文句について、弁慶の手を「御手」とはおかしいというので「判官やがて手を取り給い」と書き直したりしました。(これは後に新聞など各方面から糾弾されました。)また、ツケや大太鼓も恐れ多いということで禁止されました。当時の新聞にも「間の抜けたるは、演劇中ツケなしにて、大太鼓を用うるを禁じたれば、市川家の大目玉を何ほどむき出しても白眼に張り合いがなかろう」と書かれています。左団次の富樫は冒頭の名乗り「加賀の国の住人・・」で緊張の余り声が震えてしまったといいます。また、団十郎の弁慶も勇み立って「(花道が短かったため)ヤッとひとつ飛んだら揚幕へ入ってしまった」といいます。

明治天皇は帰りの車中で「近頃珍しきものを見たり」と仰せであったとの話を聞き、団十郎以下の役者たちは感激したと言います。また、二日目「寺子屋」の終盤では皇后はじめ女官たちが泣き始めたため、この公演を舞台裏で監督していた末松があわてて「コレお泣かせ申し上げては恐れ入る、注意せえ注意せえ」と制したという話も残っています。

恐らく団十郎は素直に、そして生真面目なほどに「歌舞伎を新しい時代にふさわしいものに作り変えよう」という使命感に奮い立ったものと思います。同時に、団十郎の気持ちの根底に「自分は河原者だ」という身分コンプレックスがなかったわけではないと思います。だからこそこれを払拭して、これを機会に歌舞伎役者の社会的地位を向上させて、役者ではなく俳優として「文化人」になろうという意図があっただろうと思います。事実、井上伯らの援助によって団十郎は河原崎座再興以来抱えていた莫大な借金を返済することができ、その後はかなり裕福な生活ができるようになりました。「天覧歌舞伎」以降の歌舞伎役者の社会的地位は著しく向上したということが言えると思います。


2)九代目団十郎の演劇運動

話はさかのぼりますが、明治11年6月7・8日に、興行師守田勘弥は新富座を改築して盛大な開場式を行ないました。この開場式は日本の演劇史に記すべきものですが、これはまさに文明開化一色で塗りつぶされたものでした。式に出席した歌舞伎役者はすべて燕尾服を着用しました。この時に九代目団十郎が役者代表として述べた式辞は福地源一郎(桜痴)が起草したものですが、内容は団十郎の主張そのままと言えます。その内容の概要を現代語に書き直すと、大体次のようなものです。

「演劇(歌舞伎)はもともと世情に左右され易いものではあるが、勧懲の機微を写して観客を感動させるものであるから、そこで描き出される喜怒哀楽によって演劇は社会に貢献することができるのである。ところが最近の劇風と言えば、世俗の濁りを取り込み、かの勧懲の妙理を失って、いたずらに狂奇に陥っている。この団十郎は深くこれを憂い、皆と共にこの風潮を一洗することをしたいと思う。ご来場の紳士諸君に、演劇もまた無益の戯れではないと言われるように、演劇を明治の太平を描き出すに足るものとしたい」

岡本綺堂はこの時期の演劇改良の空気について次のように回想しています。

『この時代には改作論や修正論がしばしば繰り返されて、新聞紙上を賑わしていた。たとえば、かの「忠臣蔵」の7段目で、おかるの口説きに「勿体ないが父さんは、非業の最期もお年の上」というのは穏やかでない。これを「勿体なや、父さんはお年の上に非業の最期」と修正しろと言うのである。私の父はその新聞記事を読んで、「わからない奴には困るな」と冷笑していた。しかもこういうたぐいの議論がだんだんと勢力を張って来たのは、争うべからざる事実であった。』(岡本綺堂:「ランプの下にて」・演劇改良と改作)

当時は娯楽の王様といえば「歌舞伎」でありましたから、人々の関心も高く、それだけにこうした議論にも熱が入ったのでしょう。

「歌舞伎を新しい時代にふさわしいものに作り変えよう」という団十郎の意志は、舞台ではまず二つの形を以って現れました。

ひとつは、史実を重視し衣装・小道具なども考証し、時代にふさわしい思想を持った歴史心理劇として演じようとする、いわゆる「活歴」です。その最初の試みは明治2年(1869)8月守田座での「桃山譚」(地震加藤)ですが、「活歴」という言葉は仮名垣魯文が、明治11年10月の新富座で演じられた「二張弓千種重藤(にちょうゆみちぐさのしげとう)」での批評のなかで使った「活歴史」という言葉から発したものです。「活歴」とは「生きた歴史」という意味ですが、もともとは団十郎の大真面目な態度を皮肉ったものでした。

団十郎の活歴の評判は芳しいものではありませんでした。明治14年新富座での「夜討曽我」では団十郎の曽我五郎は演出を一新し、例によって史実そのままを標榜して腹巻に小手脛当、革足袋に武者わらじという、鎌倉武者そっくりの風俗で登場しました。一方で、十郎役の宗十郎は旧来のままの扮装を主張して頑として譲らず、こちらは素足に素襖、袴の股立ちをとり土踏まずを藁で結んだ扮装でした。この舞台に大向うもあきれて「弟は火事見舞い、兄は水見舞い」という声がかかったと言います。つまり「兄弟の扮装が調和がとれず演出がチグハグだ」というわけです。これでは観客の評判がいいわけはありません。

もともと団十郎に確固とした演劇理念があったわけでもないので、こうした不評が続くとさすがの団十郎も次第に活歴に対して熱が冷めていくことになります。明治18年に「素豆腐のような活歴をやめてカッポレでも踊れ」と罵倒された時、翌19年1月に団十郎は「カッポレ」を踊っています。しかし団十郎が活歴離れをはっきりを見せ始めたきっかけは壮士芝居の川上音次郎一座が日清戦争を題材にした戦争劇で評判をとって歌舞伎座で興行することになり、歌舞伎座での座頭である団十郎が追われる形で明治座で出演する破目になったことでした。これは前年11月に団十郎が菊五郎と一緒に演じた「海陸連勝日章旗」が大コケして、その責任をとらされたものです。つまり団十郎の活歴は川上音次郎の戦争劇に完敗したわけです。

結果的にはそのおかげで団十郎は晩年にいたって古典を演じることが増えてきて、「熊谷陣屋」などの名演出が残されることになったと言えます。その解釈に間接的ではあっても、演劇改良運動の影響を見ることができます。団十郎得意の「肚芸」というものも、また明治というこの時代の空気なくしては論じられません。


3)松羽目の舞台

団十郎の「演劇改良」のもうひとつの試みは、能様式・あるいは能題材を採ってこれを模倣した歌舞伎、つまり「松羽目もの」を盛んに演じたことです。これは従来の支配階級の式楽であった能のスタイルを借りて「いかにも高尚で・かつ高級感のある」歌舞伎を作り上げようという意図でした。能取物でさえあればそれだけで高尚に見えて、だれもこれを「低俗」だとか「時代遅れ」だとか言わないだろうということなのです。天覧歌舞伎の演目に能取物が多いのもそうした団十郎らの意図が反映されていると考えられます。

明治になって団十郎により「舟弁慶」(明治18年新富座)、「紅葉狩」(明治20年新富座)、「素襖落」(明治25年10月歌舞伎座)などの作品が作られました。また五代目菊五郎も「土蜘蛛」(明治14年新富座)、「茨木」(明治16年新富座)といった作品を演じています。

しかし何と言っても、「松羽目もの」の代表的・かつ最高の演目が七代目団十郎の作り上げた「勧進帳」であることは疑いありません。その能掛かりの舞台は格調において比類がなく、「勧進帳」のなかで弁慶が見せる身を捨てての忠義、これが明治という時代の「忠臣愛国」の理念に合致したということを見逃してはなりません。団十郎は「勧進帳」を以って新しい時代の歌舞伎を象徴させようとしたと言えると思います。

「勧進帳」は七代目団十郎が荒事の弁慶像にあきたらず、「新しい家の芸」を打ちたてようとして創り上げたものでした。さらにその意図には「能に少しでも近づきたいという、歌舞伎役者の願望・憧れ」が秘められていました。しかし、「勧進帳」は七代目による初演の時にはその能掛かりのスタイルが観客に受け入れられず、その評判はあまり芳しいものではありませんでした。七代目は「勧進帳」を初演を含めて三回しか演じていません。しかし長唄の作曲は優れていたので、初演から10年くらいあたりから安政・万延頃から次第に人気が出てきて、大名や裕福な商家のお座敷などで長唄「勧進帳」は盛んに演奏されて人気曲になっていました。

「勧進帳」は九代目団十郎によって演出が磨き上げられて、明治になってから、やっと人気作になったと言えます。その「勧進帳」を天下に披露する最高の機会こそが天覧歌舞伎だったのです。天覧歌舞伎を機にして歌舞伎役者の社会的地位も向上していきます。そして歌舞伎の代表的演目として「勧進帳」の評価は揺るぎないものになったのです。七代目団十郎が「勧進帳」に込めた遺志ーその「上昇志向」は、息子九代目によってここに実現されることになったと言えます。

(参考文献)

西山松之助:「市川団十郎 (人物叢書)」

岡本綺堂:「明治劇談 ランプの下(もと)にて (岩波文庫)

(H13・8・26)


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