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何とて松はつれなかるらん

〜「菅原伝授手習鑑・寺子屋」


1)梅は飛び桜は枯るる

「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」

これは「菅原伝授手習鑑」四段目序「配所の段」の場面において菅丞相が詠んだ歌とされています 。この歌は、史実としては菅原道真(=菅丞相)が詠んだものではないようです。しかし、慶安元年刊の「天神本地」などには菅公作として伝えられている歌なので、一般には道真の作であると信じられていたものなのでしょう。その元歌は「源平盛衰記」に見られる源順(みなもとのしたごう)が道真没後60年ごろに詠んだ「梅は飛び桜は枯れぬ菅原や深くぞ頼む神の誓ひを」であろうと思われます。

四段目切場「寺子屋」の場において、松王は我が子小太郎を菅秀才の身替りに立てるわけですが、後半にその本心を武部源蔵に明かす時に、この歌を引いて次のように語っています。

『菅丞相には我が性根を見込み給ひ、何とて松のつれなかろうぞとの御歌を、松はつれないつれないと、世上の口にかかる悔しさ、推量あれ源蔵殿。倅がなくばいつまでも人でなしと言われんに、持つべきものは子なるぞや。』(「寺子屋の段)

丞相が松王の忠義を見込んで、この歌で「梅王が筑紫へ飛び・桜丸は腹を切る・この丞相の窮地に松王だけがつれないはずはない」と言ってくれているのに、「どうして松王はつれないのか、どうして薄情なのか、と言って丞相が恨んでいる」と世間が勝手にこの歌を解釈して自分を嘲っているといって嘆いています。 しかし、世間がどう言おうが、烏帽子親である丞相の御恩を思う松王の気持ちは、藤原時平に仕える身分になっても変わらないものでした。「寺子屋」での松王の身替りの行為は「違う、この俺は決して薄情ではない、自分ほど丞相に忠義な者はいない」という・「忠義な自分」のアイデンティティーを主張する・松王のかぶき的心情から発するものであることは、別稿「失われた故郷への想い」において考察しました。

さて、菅原道真が右大臣から太宰権師に左遷されたのは延喜元年(901)正月25日のことです。この時、道真は57歳。2月1日に道真は京都を立ち筑紫に向かいます。自宅 を発つ時に庭先に咲いた梅の花を見て思わず涙して詠んだのが、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」という有名な歌です。

その後、道真に声を掛けられた梅の木が道真を慕って配所の筑紫へ一夜のうちに飛んだというのが「飛梅伝説」です。大宰府天満宮の本殿前にある白梅の巨木がその「飛梅」だということです。(ただし、国宝「北野天神 縁起絵巻」の絵を見ると、道真が「春な忘れそ」と呼びかけているのは紅梅になっています。)

ところで、「源平盛衰記」によれば、道真の屋敷には桜の木もあったのだそうです。しかし、どういうわけか道真が声を掛けたのは梅であって、桜ではありませんでした。声を掛けてもらえなかった桜は、それを恨みに思って一夜で枯れてしまったという のです。

この一連の話が「梅は飛び桜は枯るる」の歌の下地になっているわけです。「菅原伝授手習鑑」は菅丞相に忠義を尽くす三つ子の兄弟の物語ですが、この「梅は飛び・・・」の歌がまさに「菅原伝授手習鑑」の粗筋の骨格を作っていることが分かります。三つ子の兄弟の運命がこの歌のなかに示されているのです。

まず「梅は飛ぶ」、これは四段目冒頭の「筑紫配所の段」において父・白太夫の後を追って丞相が流された九州・筑紫の地に赴いて、丞相の窮地を救う長男・梅王を指しています。そして、「桜は枯れる」、これは三段目「佐太村」(歌舞伎では「賀の祝」)において丞相流罪の原因を作ってしまった桜丸が切腹することを指しているのです。

それでは一体、「何とて松はつれなかるらん」と詠われた松はどうなるのでしょうか。

室町時代に作成されたとされる「大宰府天満宮境内指図」をみると、本殿の背後に老松(おいまつ)大明神の境内社が描かれているそうです。また 、京都の北野天満宮にもその本殿の背後に末社として老松社が建てられています。その由来によれば、菅公の家臣であった島田忠臣(ただおみ)が命じられてこの地に松の種を撒いたのだといいます。菅公のご神霊が北野の地に降臨される時に多数の松が一夜にして生じたという伝説は、この事跡から来ているのだそうです。

つまり、 松王は丞相の後を追って主人・藤原時平の元を去るわけです。「あとを追う」から「追い松=老松」なのです。「追い」を吉祥語(めでたい言葉)である「老い」に読み替えているというわけです。「追松伝説」が民衆のなかに定着するのはかなり後世のことのようで慶安元年の「天神本地」からだと思われます。「天神本地」には「かやうに打ちながめ給へば、梅のあとを追い来るによって、おひ松の神と申すはこの故なり」と記されています。

このように「菅原伝授手習鑑」の三つ子の兄弟の物語には、「梅は飛び桜は枯るる世の中になぜとて松はつれなかるらん」の歌からヒントを得た・丞相の愛樹伝説の擬人化の趣向があるということです。が、それだけではなくて、その背景に日本人の梅・桜・松の樹に寄せる深い愛着の念、さらには「樹」という存在に「神性」を見ようとする日本人の感性があることにも思いが至りましょう。


2)白装束の松王夫婦

五段目「大内の段」は歌舞伎でも文楽でももはや上演されませんが、この場では桜丸夫婦の亡霊が現れて時平を滅ぼし、時平の悪事が暴かれて丞相の名誉が回復し、菅秀才は菅家相続を許されることになっています。実はこの最後の場面に松王もちょっとだけ登場するのです。どうやら松王は「四段目・寺子屋」で我が子を若君・菅秀才の身替りにした後に、その後も若君を守ってどこかに潜伏していたらしいのです。さらに白太夫・梅王も駆けつけて、丞相は天神として祭られることになって「菅原伝授手習鑑」はめでたしめでたしとなって締めくくられます。

しかし、この結末は出来としてあまり面白くないようです。まあ、時代物の五段目というのは取って付けたみたいなおざなりのものが多いので、「菅原」の場合も例外ではないようです。現在では、時代物で上演されている五段目というのは、「仮名手本忠臣蔵」の十一段目(「五段目」構成で言えばその切場に当たる)だけですが、これさえもほとんど原型をとどめていないほどに改変されています。時代物の五段目は上演されなくなってしまう必然があるというべきでしょう。あるいは作者は最初から「見取り」で上演することを見越していて・いわば「お上への便法」として天下泰平・勧善懲悪の結末を付けているだけということかも知れません。

それならばいっそのこと五段目の結末をきれいサッパリ忘れて、「四段目」だけからその後の松王がどうなったかを自由に想像してみる方が面白いかも知れません。「通し狂言」の場合と「見取り狂言」の場合では、同じ芝居でも見えるものが違ってくるということはあるものです。

丸本を見ると「死骸を網代の乗物へ、乗せて夫婦が上着を取れば、哀れや内より覚悟の用意、下に白無垢麻裃」とあって、文楽でも歌舞伎でも最後に松王夫婦は白装束姿に変わります。松王夫婦が白装束になるのは視覚面でも効果的で、「いろは送り」の哀れを誘います。「五段目」に松王が登場することを知った上では全く根拠がないわけですが、松王夫婦は「寺子屋」の場で息子小太郎の遺骸を葬った後に自害するつもりではないかと、 吉之助には思えてならないのです。

藤原時平は悪人ではありますが、それでも松王の現在の主人には違いありません。もともと松王が丞相に恩義ある身であることは時平も承知のはずです。しかし、「車引」の場を見てもわかるように、それを知っていても時平が松王をなお手許に置いているのは、松王が時平に可愛がられている証拠です。そんな主人を裏切ることは、本来ならばできないことではないでしょうか。

それでも丞相への忠義のために、一子・小太郎を身替りにたてようというのならば、このあとで松王は死なないと・松王は現在の主人である藤原時平公に対して不忠になってしまいます。ここは主人への申し訳のためにも松王は腹を切らねばならない・それでないと松王の主人への忠義が立たないと思え ます。例えば「盛綱陣屋」の佐々木盛綱は、高綱の偽首を実検して主人・時政公を裏切るのですが、この後に盛綱は腹を切ろうとします。(これは和田兵衛に寸前で 「今腹を切ったら偽首がバレるじゃないか・腹の切り時が早い」と言って止められるのですが。)

さらに牛飼舎人である松王を武士というのはちょっと変かも知れませんが、武士の名誉というのはその家の名誉であって、その名誉を伝えるべき子孫がいてこそ武士は命を捨てて戦うことができるわけです。したがって、その名誉を伝えるべき子を自ら殺す(松王の場合は殺させる)ことは武士にとっては自らを殺すに等しい行為なのです。例えば「熊谷陣屋」の熊谷直実は、我が子・小次郎を敦盛の身替わりに斬った後、出家を決意するわけです。 我が子を失った松王夫婦にとっても小太郎が失なわれてしまった以上もうこの世に望みは失われてしまったに違いありません。

こういう状況下において松王夫婦が我が子・小太郎を菅秀才の身替りに殺したとすれば、やはり夫婦にはもはやこの世に何の望みもない、死ぬか・出家するしかないように 吉之助には思えます。「寺子屋」の最後で松王夫婦が白装束になるのは、そういう夫婦の覚悟を示しているのではないかと思えるわけです。

ところで偏痴気論かも知れませんが、十一代目仁左衛門は丸本で「乗せて夫婦が上着を取れば哀れや内より覚悟の用意、下に白無垢麻上下」とあるのは、「小太郎が上着の下に覚悟の用意・つまり白無垢水上下を着ていたということで・松王夫婦が白装束を着ていたという意味ではない」と主張して、松王夫婦は黒の衣装のままで最後まで通したそうです。これはどちらにも本文が解釈できるようですが、仁左衛門の言うことにも一理ある気がします。 吉之助も義太夫 を聞いていると「哀れや」・「覚悟の用意」は小太郎の方に掛かっているような気がして、本文解釈的にはこちらを採りたいと思っています。

しかし、視覚的には松王夫婦が白装束に着替える方が、その冴えた美しさが我が子を失った親の悲しみをスッキリと描き出していて秀逸なように思われます。これは芝居というものの持つ視覚的な要素が引き出す「真実」ということでしょう。

前述のように「五段目」ではその後の松王が登場するのですが、しかし、吉之助のなかでは「四段目・寺子屋」の場で「菅原伝授手習鑑」は完結してしまっているのです。そして、その先に小太郎の後を「追って」自害する松王夫婦の姿が見えてくるのです。それは悲しい・悲しいことですが、しかし、どこかに澄み切った ・静かな感動が感じられるのです。それは、何か分かりませんけど「我々には命を賭けても守らなければならないものが確かにあるのだ」ということかも知れません。松王親子・夫婦はそれを守ったということなのだと思います。芝居というのは不思議なものです。

(H15・3・16)



 

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