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初代吉右衛門の写実の熊谷

昭和25年4月・東京劇場:「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」

初代中村吉右衛門(熊谷直実)、六代目中村歌右衛門(相模)、七代目沢村宗十郎(藤の方) 、十七代目中村勘三郎(義経)、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(弥陀六)  他


1)線の細い役者

坪内逍遥が大正8年に記した文章には初代吉右衛門のことが次のように書いてあります。

『(吉右衛門)丈の芸を役者錦絵にたとえてみる。構図も旨い。筆力もある。肖像画としても佳い。書家の個性も出ている。色彩も間然とするところがない。けれども線がおそろしく細い。あんまり細すぎる。』(坪内逍遥:「女形の前途と歌舞伎の前途」・大正8年12月)

武智鉄二が初めて吉右衛門の舞台を見た時の印象は「何という小さな・何という貧弱な役者か」というものであったそうです。その後に「しかし、 声の方は、これは吉右衛門は鮮やかなものであった・・・云々」と続くのですが。(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」:昭和53年7月)

吉之助が昭和25年の吉右衛門の「熊谷陣屋」の映画を初めて見た時に思ったのも「こんな線の細い役者だったのか」ということでした。これは吉之助の知っている・実弟の十七代目勘三郎や娘婿の八代目幸四郎(初代白鸚)・あるいは二代目松緑の熊谷と比しても線が細いようです。孫である現(二代目)吉右衛門や現(九代目)幸四郎などの体格のいい熊谷と比べたらこれは確かに「貧弱」と言うべきかも知れません。

初代吉右衛門は六代目菊五郎と並んで「菊吉時代」を作った名優であって(つまり我々からすると神様みたいなもんだな)・その本領は時代物にあったということはご承知の通りです。時代物を得意としているのならその役者は「押し出しが利いている」ものでしょう。そういう思い込みがあったせいか・吉之助は雑誌などで吉右衛門の写真はそれなりに数多く見ていたにもかかわらず、吉右衛門の「線の細さ」には思いが至ったことがありませんでした。動く映像を見て初めてこのことに気が付きました。

それにしても吉右衛門についての文章は数多いのですが、吉右衛門の欠陥である「線の細さ」に触れたものはあまりないように思います。しかし、これは大変重要なことなのであって、同時代に「押し出しの利いた」ライバルが数多くいたにもかかわらず・ その線の細さのハンデを補って・なおかつ時代物の第一人者と言われたことにこそ吉右衛門の真の偉大さがあると吉之助には思われます。その秘密をこの「熊谷陣屋」の舞台映像に見た気がしました。


2)吉右衛門の「新しさ」

吉右衛門の熊谷は、吉之助には「新しい」と感じられます。吉之助が実際の舞台で見たどの熊谷役者よりも「新しい」ように思われます。これは奇妙なことです。昭和25年というと 吉之助はまだ生まれていませんし、吉之助の見た歌舞伎の舞台はどれも吉右衛門の舞台よりさらに20数年以上経っているからです。しかし、それでも「新しい」と感じる・その印象のひとつは、どうも吉右衛門の容貌の線の細さから来るようなのです。

確かに吉右衛門の熊谷の線は細い。けれども・スッキリしていてリアルなのです。吉右衛門の熊谷には、我々が歌舞伎の時代物には付き物と思い込んでいる「大仰なところ ・芝居掛かった重さ」があまりありません。人形味と言いますか・古怪な印象があまりなくて、もしかしたら吉右衛門の熊谷をスケールが小さいとか・歌舞伎味が薄いと感じる人もいると思います。しかし、吉右衛門は押し出しが利いていない分、人物がかえって等身大に見えてくるように思えます。 歴史上の大人物ではなく、すぐそこに立っている生身の人間としての実感があるのです。

つまり、リアルで写実であるということです。吉右衛門は容貌の押し出しの不足を補うために、近代的人間としての熊谷直実を舞台に写実に・細密に再現することで勝負したのです。それは明治時代後半の自然主義の演劇の流れと無縁ではないのでしょう。吉右衛門は、近代的自我の観点から熊谷直実の人間像を見直し、その生命を九代目団十郎の型に盛ったのです。

『吉右衛門にいたって「型」を活かして、裏付けるに力強い精神を以ってした。多くの場合空なる誇張と目せられたある種の「型」は、吉右衛門によって吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け尽くして、古き「型」に新しき生命を持った吉右衛門の努力は、旧型になずむを棄てて、われから古(こ)をなさんとする意気を示すものである。』(小宮豊隆:「中村吉右衛門論」・明治44年・1911)

もし吉右衛門が押し出しの利いた役者であったならば・吉右衛門はこのような一時代を画した名優にはならなかったかも知れない・線が細いというハンデが名優:吉右衛門を生んだのかも知れない。そんなことを考えました。


3)見得のための見得ではない

吉右衛門の熊谷がリアルである・写実であるというのはどういうことかと言うと、例えば、熊谷の物語での「後ろの山から平山が・・・」で扇を掲げての見得、あるいは首実検での制札の見得にしても、見得が見得として目立つことがないことです。悪く言えば、見得が前後の動きの流れのなかに埋没してしまって、その形が際立つことがないのです。もうちょっとたっぷりと芝居っ気を以って大きい見得を見せてくれてもいいのではないか・・・という感じもしなくはない。どちらかと言えば淡白な感じです。

「見得」というのはもっとも歌舞伎らしい演劇技法ですし、たっぷりと大きな見得がもたらす演劇的カタルシスは独特なものがあります。しかし、その反面、見得は写実の演技の流れを中断するものであって、その表現の指向するところは様式・反写実的だということが言えます。

吉右衛門の熊谷を見ていると、吉右衛門はもちろん歌舞伎役者ですから「型として決められている見得」は手順としてその通りにやってはいるのだけれど、「見得のための見得にはしたくない」という意識がはっきり見える感じがします。 感情の最高に高まったものが形として極まったものとして「見得」があるという感じでもありません。見得をその前後の写実の動きの流れのなかにできるだけ違和感なく納めたいという感じです。もしかしたら吉右衛門は「見得がないならその方がいい」と思っているようにさえ思えます。


4)花道での吉右衛門

「そもそも熊谷の山は物語でも何でもなく、じつは出と引っ込みにあるのだ。直実は仏心に始まって仏心に終る。・・・要するに『陣屋』は花道の芝居である」と杉贋阿弥は「舞台観察手引草」に書いています。まさにその通り・九代目団十郎型の熊谷のエッセンスがその花道の演技にあるのですが、吉之助もこの贋阿弥の文章を読みながら、あの名優・吉右衛門の熊谷ならどんなものであろうかといろいろ想像したものでした。

しかし、吉右衛門の熊谷の出は吉之助の想像よりはるかにアッサリしたものでした。普通の熊谷役者であると、沈痛な面持ちでゆっくりゆっくりと歩み・花道七三あたりでふと立ち止まって陣屋傍まで来たことを知り・ハッとした表情をして・手にした数珠をおもむろに袖中に隠す・・などという思い入れを込めた芝居をするのではないでしょうか。吉右衛門の場合は、七三では止まりません。花道を歩きながら手にした数珠をさりげなく袖中に納めてしまう・その仕草は見逃してしまいそうなほどに目立ちません。余計な芝居を一切しないのです。

幕切れの引っ込みでも同じです。普通の熊谷であると、陣触れのドンチャンの音に武士の心に思わず返って・ダッと立ち上がって刀の柄に手を掛けようとするが・ハッと我に返って・いやいや自分はもう出家した身ではないかという風な思い入れ、そしてその陣触れの響きを耳にして戦いの日々を回想して・周囲を見回しながらつらそうにすすり泣く熊谷が多いかと思います。どちらかと言えばそのような「泣きの熊谷」が多いようです。ところが吉右衛門の熊谷はそうではないのです。

吉右衛門の熊谷は、陣触れの音に最初はほとんど反応していないように思われます。熊谷は仏の道に身を捧げる決意をしているわけですから、ドンチャンの響きをもはや過去の遠い響きとして・出家した今の自分には関係ないものとして無視するかのように熊谷は歩みを始めようとするのです。しかし、やはり断ち切れない。息子を斬ったあの瞬間が脳裏に一気に蘇ってくる。そして、そのつらい記憶を振り切って・俗世から逃げ出そうとするかのように走り去る。それが吉右衛門の熊谷なのです。

これはどちらがいいとか・正しいとかいう問題ではありません。それぞれがその役者の人生観あるいは作品の読みというものを反映したものなのですから。しかし、言えるとすれば・ 吉之助が普通に見られる熊谷役者の演技として挙げた例は、その感情の綾の表現が「説明的・解説的」なのであって、その感情の局面の変化を観客に分かるように克明に視覚化しようとすることでかえって写実から遠のいてしまっている感じです。

吉右衛門の熊谷ならば、芝居掛かったところは最後の最後までありません。ウワッと脳裏に・息子を斬ったあのおぞましい記憶が蘇って来て・どうにも抑制が効かなくなる・その最後の瞬間まで吉右衛門の「芝居」は押さえられているのです。それまでの演技 が実に淡々としています。それはホントにそっけないように・物足りないように感じられるほどです。


5)時代物の写実

吉右衛門の熊谷は九代目団十郎型の大筋を踏襲しているけれど、おそらく九代目そのままの手順ではないのかも知れません。しかし、表現のベクトルとしては間違いなく同じ方向を向いていると感じられるのです。そして、九代目がもし大正・昭和を生きたなら・九代目も吉右衛門と同じようにやったのではないかと感じられるのです。それは九代目の創造精神のプロセスを吉右衛門も同じように辿っているからに違いありません。「型」のこころを継ぐ・「古き型に新しい生命 を盛る」というのは、こういうことなのだと思います。だから吉右衛門は「新しい」のです。

八代目三津五郎が若い時に六代目菊五郎の「忠臣蔵・六段目」を見て思わず「六代目の勘平って新劇みたいですね」と口走って、父親(七代目)に「馬鹿っ、あれが歌舞伎だよ」と叱られたという笑い話があります。この吉右衛門の「熊谷陣屋」を見ると この話は分かるような気がします。吉右衛門の熊谷にも同じような感じがあるのです。それは演技が心理主義的で「写実」であるということです。

菊五郎の勘平は「世話物の写実」・吉右衛門の熊谷は「時代物の写実」であると感じます。「菊吉時代」を作った両雄は、同じ時代の空気を吸い・共に新しい歌舞伎の創造を目指したのでありましょう。

小宮豊隆: 中村吉右衛門 (岩波現代文庫―文芸)

小島政二郎:初代中村吉右衛門

(追記)

別稿「初代吉右衛門の写実」「初代吉右衛門の写実の松王」も参考にして下さい。

(H14・2・3)


 

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