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身分問題から見た「歌舞伎十八番」

その3:「勧進帳」


1)松羽目の舞台

天保11年(1840)3月江戸河原崎座で「勧進帳」は「歌舞伎十八番の内」と冠して初演されました。この時、能の観世流宗家・観世清孝がお忍びでこの芝居を見物に来ました。幕が開いてすぐに、清孝は扇子を口に当てて「プッ」と吹き出したといいます。上演が終って清孝が芝居茶屋へ戻ると、そこへ突然、七代目団十郎(当時は海老蔵)が現れました。どうやら団十郎は茶屋衆に「家元が来たら知らせるように」とあらかじめ手配をしていたようです。そして、「時に伺いますが、中幕があいて何かお笑い遊ばしてお顔へ扇をお当て遊ばせましたがあれはどういたしたものでございましょう」と団十郎が聞いたので、清孝は大いにあわてました。それからは団十郎が何を聞いても清孝はただ「結構だ」というばかりであったといいます。団十郎は「かりそめにもあなたさまから結構だというお声がかりを頂戴しますれば、明日からよい心持ちで芸ができます」と言って帰りました。

この話で「観世清孝が吹き出した」というのは、幕が開いた直後のことでしたから団十郎の弁慶を笑ったわけではありません。松羽目の舞台装置を見て、清孝は吹き出したのです。この時の松羽目は現行の上演のような能舞台を模して大きな松が描いている書割ではなくて、正面には大きな一本松ではなくて小さな松が何本か描かれた襖を描いた幕にしたもので、つまり能舞台ではなくて座敷という設定であったようです。どうも貧相な感じは否めませんが、これは歌舞伎で能舞台を模して上演禁止になった例が過去にあったからでした。

清孝が「プッ」と吹き出したというのはこれは無理もないという気がします。彼はその松羽目の舞台を見て、そこに「能に近づきたくても近づけない歌舞伎役者が精一杯背伸びしたような気持ち」を見たと思います。

「勧進帳」初演の評判は決して良いとは言えないものでした。評判記「役者舞台扇」には「おいらたちはやっぱりたて狂言がおもしろい。あまり弁慶にばかりこられたせいか ひと言もいつもほどたましいがないように思われた」と書かれています。団十郎は嘉永5年(1852)に再び「勧進帳」を演じ、この時は「一世一代」を称していますから、この作品に掛ける意気込みは相当なものであっただろうと思います。しかし、どちらかと言えば江戸時代には、「勧進帳」は節付けが名曲であるために長唄の方が芝居より評判が良かったようです。

どうして初演の観客の評判が良くなかったのか、は考えてみなくてはなりません。まずそれまでの能取物は「道成寺」にしても原作の能の舞台をあまり意識させることはありません。それは完全に歌舞伎作品として消化されているものになっています。「勧進帳」は違います。「勧進帳」は逆に観客に能の舞台を意識させるように作られています。明らかに、武家の式楽である能につきまとう「高尚趣味・高級趣味」をその内に包含し、能役者のようになりたいという「上昇願望」が明確に現れています。このことは初演時の観客にもはっきり分かったでしょう。だからこれが観世清孝を思わず吹き出させ、江戸の庶民には内心反発を感じさせたものと思います。

もちろん「勧進帳」は能「安宅」そっくりそのままを真似したというわけではありません。むしろ、歌舞伎化するに当たり団十郎は十分に作品構造を研究し、それ以上のものを作ろうとしたと言えると思います。当時、能役者と歌舞伎役者との交流は禁じられていましたから、仕方ないので団十郎は大工に変装して観世流の舞台を見たとの逸話も残っています。しかし観世宗家が団十郎の初演の舞台を見に来ているわけですし、団十郎に能役者との交流がまったくなかったということは考えられません。当時、謡本は盛んに出版されており誰でも読めました。また「芝居囃子日記」によれば、大名のお抱え能楽師は仕事がないときには芝居小屋の囃子部屋に忍び込み、しばしばアルバイトをしていたことも記されています。非公式な交流は結構あったと考えられます。また、ツテがあれば能役者に稽古をつけてもらうことも可能であったと思われます。

団十郎は当時の講談での呼び物であった「弁慶と富樫の山伏問答」を講談師燕凌(えんりょう)と南窓を招いて実演させ、これを芝居のなかに取り込みました。その他の工夫により、「勧進帳」は原作の「安宅」よりはるかにドラマチックで引き締まった構成に仕上がっています。その結果、団十郎はこれまでとはまったく違う「能でもなく歌舞伎でもない」芝居、いわゆる「松羽目もの」という新しいジャンルを創り上げたのです。そのため当時の観客にはその革新性ゆえに容易には受け入れられなかったのかも知れません。

しかし、当時の庶民の気持ちも一応心に留めておきたいと思います。江戸の庶民は「これは俺たちの弁慶とは違う」と感じたのです。確かに「勧進帳」の弁慶は江戸庶民のためのものではありませんでした。団十郎は「自分のための新しい弁慶」を創造したのです。


2)歌舞伎十八番とは

団十郎が天保11年(1840)に「勧進帳」を上演した時の口上には

「私祖先より伝来の歌舞伎十八番の内安宅の関勧進帳は、元祖(初代)団十郎才牛が初めて勤め、二代目団十郎栢莚(はくえん)までは勤めましたが、その後打ち絶えておりました。私はその復活を長年考え古い書物などを調べたりしていましたが、その度その調べがつきましたので、幸い初代の百九十年となりますので、代々相続の寿二百年の賀取越として、勧進帳を勤めることと致します。」

とあります。確かに、弁慶は荒事の役どころとして市川家代々にとって重要なキャラクターでした。団十郎はこれより前に、弁慶役を三度勤めています。まず文化12年(1815)8月の「安宅松」での弁慶、次に文化8年(1825)の顔見世での鬼若丸後に弁慶、そして天保10年(1839)の「御贔屓勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」での俗に言う「芋洗いの弁慶」です。

「御贔屓勧進帳」は安永2年(1773)に四代目団十郎の弁慶、五代目団十郎の富樫で初演されたものです。「富樫に見咎められた弁慶は木に縛り付けられますが怪力で縄をぶつ切り、雑兵と大立廻りを演じてその首を次々に引っこ抜き天水桶に叩き込み、金剛杖で芋洗いをする」という筋書きの「芋洗いの弁慶」などは、じつに荒事らしいおおらかさがあって、もし「歌舞伎十八番」が市川家の荒事の集大成だというならそのままこれを「十八番の内」にしてしまっても本来は良かったはずです。

しかし周知のように団十郎はそれをしませんでした。というより、従来の団十郎の家の芸とされた「荒事の弁慶像」を否定して、まったく新しいスタイルの「勧進帳」を創り上げようとしたのです。「初代より伝わる勧進帳を調べて復活しました」と口上には述べていますがホントはそうではなかったということなのです。団十郎は新作ではあるが相当な自信作であったこの「勧進帳」に、いわば箔をつけるために「家の芸」(つまり「歌舞伎十八番」というキャッチフレーズ)を標榜したに過ぎないと考えられるのです。

歌舞伎十八番のうち、団十郎は「助六」・「鳴神」などは「十八番」の名前を冠して上演もしています。しかし、十八番のなかには「不動」のように単独の芝居で成立しないものもありますし、団十郎もその大半は演じていません。また台本さえも残っておらず、絵番付け・錦絵その他で筋を推測するしかないものも多くあります。このことからも、縁起のいい「十八」という数字に狂言の数を無理やりに合わせただけというのが真相ではないでしょうか。井原青々園は「歌舞伎十八番のうち十七番までは勧進帳のつきあいで出世したようなものだ」と言っていますが、その通りだと思います。


3)「十八番」制定当時の七代目団十郎の状況

それでは七代目団十郎がどうして「歌舞伎十八番」の制定を思い立ったのかを考えてみたいと思います。

まず七代目団十郎はじつは歌舞伎の本に書かれているような「うまい役者」ではなかったらしいということがあります。若い頃の団十郎の周囲には名優がゴロゴロといました。たとえば実悪の名人五代目幸四郎(鼻高幸四郎)・世話の名人三代目菊五郎(梅寿菊五郎)・踊りの名手で三代目三津五郎(永木の三津五郎)・大坂から下ったこれも踊りの名手であった三代目歌右衛門(加賀屋歌右衛門)、「目千両」と呼ばれた名女形五代目半四郎(杜若半四郎)などです。このような名優のひしめく中で、必死で自分の位置を守ろうとしてきたのが団十郎であった、と言えると思います。団十郎は何よりもまず「努力の人」であり、努力して歌舞伎史に「名優」の名をなした人でした。団十郎自身が自分を「うまい役者ではない」と感じていたらしいことは、天保3年、彼が長男に八代目団十郎を譲った時の口上で、団十郎自身が「親に似ぬ子は鬼子と申しまするが、(八代目が)私の下手に似ませぬように鬼子になりまして、ゆくゆくはご贔屓を持ちまして名人のなかに入りまするように、ひとへに願い上げ奉ります」と言っていることでも分かります。

さらに「勧進帳」初演(天保11年)前の十年間を見ますと、三代目三津五郎(天保2年)・五代目幸四郎(天保9年)・三代目歌右衛門(同じく天保9年)・三代目菊五郎(天保10年)と、これらの大物役者が次々と亡くなっています。ここから見ると、団十郎は自ら望むか望まぬに係らず、自然と劇界の頂点に押し出されていったことと思います。そのことが団十郎に「市川家十八番」でなく、「歌舞伎十八番」を名乗らせたと思います。それは言われるように団十郎の奢りであったかも知れないし、あるいは「俺が歌舞伎を引っ張らねば」という責任感の現れであったかも知れません。

また、こういうことも考えられます。代々に伝わる市川家の権威は七代目団十郎の時代(天保期)には荒事などという荒唐無稽な芸だけでは時代遅れと取られて、世間にもはや通用しなくなっていました。「荒事は筋が単純でつまらない・時代遅れの芸である」という声はその頃の評判記にはよく出てきます。団十郎はある意味であせっていたと思います。だから団十郎は新作「勧進帳」によってその芸の行詰まりを打開し、新たな芸の可能性を開拓しようと試みたのです。

そして新作「勧進帳」を家の芸の中核に据えることで、新たな時代へ向けて市川家の権威復活を図ろうとしたとも考えられるのです。だからこそ能掛かりの舞台がその権威付けのためにも必要であったということなのです。この団十郎の遺志は息子の九代目団十郎により明治になって明確な形をとって実現したと言えると思います。

(参考文献)

西山松之助:「市川団十郎 (人物叢書)」(吉川弘文館)

「身分問題から見た歌舞伎十八番・その4:天覧歌舞伎」において、さらに九代目団十郎と「勧進帳」について考えたいと思います。
 

(H13・8・19)


  

 

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