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なぜ「鮓屋」に義経は登場しないのか

〜「義経千本桜・鮓屋」


1)「三段目」は頼朝に与えられている

昔の話ですが、歌舞伎座で「鮓屋」を見た時のことです。幕が終ると後ろに座っていたおじさんが「なんだ、義経千本桜だってのに義経が出ないじゃないか」とご不満そうにつぶやきました。「看板に偽りあり」と言いたげでありました。なるほどそう言われれば、「義経千本桜」の三段目(椎の木から鮓屋)には義経は登場しないのでした。「義経千本桜」を義経を中心に展開する筋立てと見れば、三段目は脇筋みたいに見えます。そこで本稿では「義経千本桜」における三段目の位置について考えてみたい、と思います。

まず三段目の主題ですが、義経に突きつけられた三人の偽首の謎のうち、ここで維盛の謎が解けるのです。維盛は吉野の釣瓶鮓屋の弥助として生きており、この三段目において維盛は高野山へ出家することで「平家物語」の世界へ還ることになるのです。

維盛は、小松殿と呼ばれて平家一門のなかでは「情の人」であった重盛の長男です。つまり、維盛は平家の嫡流だということです。平家に人ありと言えども維盛は格が違います。この維盛は武士の家に生まれたにしては情けない男で、維盛が指揮をとった富士川の戦いでは水鳥のいっせいに羽ばたく音に慌てふためいての負け戦。屋島にあっては妻子を都に残してきたことを悔やんでメソメソし、ついに屋島も抜け出して各地を転々としますが、寿永3年3月28日に熊野沖でひとり寂しく入水をとげます。これが史実です。

さらに大事な点は、かつて平治の乱で源義朝が平家に敗れて亡くなった時、幼い子供たち頼朝・義経兄弟は清盛にまさに殺される寸前であったのですが、池の禅尼と重盛が清盛をとりなしたことによって兄弟はその命を救われたということです。頼朝は重盛のこの恩を忘れておらず、もし重盛の息子の維盛が投降してきた時は命ばかりは助けてあげようと個人的には考えていたらしいということです。(このことは実際に維盛が熊野沖に入水したとの報を聞いた頼朝の述懐として記録されています。もっとも、もし本当に維盛が投降してきたらどうなったかは別問題です。多分、御家人たちは黙っていなかったでしょう。)以上が三段目を考える時のポイントになりま す。

ここでの問題は、どうして「千本桜」の作者は三段目において維盛と義経を絡めなかったのかということです。三段目で維盛に絡むのは梶原平三景時ですが、これは鎌倉を離れられない兄頼朝の代理なのですから、「維盛と絡むのは頼朝である」と考えてよいと思います。だからこの三段目は頼朝に与えられた場なのです。


2)権太一家の犠牲は無駄ではない

ここで頼朝(=梶原)は「何でもお見通し」の義経と同じような眼力を見せます。梶原の置いていった陣羽織を引き裂いてみれば、内から袈裟衣・数珠が出てきて、「これは維盛を出家させよとの鸚鵡返しか恩返しか、ハア敵ながらも頼朝はあっぱれの大将」ということになります。これには家族をせっかく犠牲にした手負いの権太も、「及ばぬ智恵で梶原をたばかったと思うたが、あっちが何にも皆合点」と嘆くばかりです。

どの歌舞伎の解説書を見ても「権太の死・権太一家の犠牲は無駄であった」と書いてあります。そういう見方が出るのは手負いの権太の科白のせいだと思いますが、しかしちょっと待って欲しいと思います。確かに権太は「及ばぬ智恵で梶原をたばかったと思うたが、あっちが何にも皆合点」と悔やみ嘆くばかりですが、権太一家の行為はホントに無駄であったのでしょうか。

頼朝に個人的に維盛を助けたい心がいくらあったとしても、今は組織(この時期はまだ鎌倉幕府は成立していない)を挙げて維盛の偽首の詮議中。誰かを身替わりに立てなければ、維盛とその家族を助けることはかなわないのです。頼朝にしても梶原にしても、権太の家族が身替わりになるとまでは見抜いていたとは思えません。しかし維盛を長い間かくまっていた一味が最後の場面で身替わりを立ててくるだろうことは十分に予想されることです。だとすれば、それを知って身替わりを受け入れてしまえば、鎌倉としての立場は立つ 。頼朝の願いも立つということです。むしろ鎌倉はそれを望んでいたということです。

もしホンモノの維盛が「それは私です」と言って自首してきたとしたら、その方がむしろ鎌倉は困ったと思います。その時は維盛を殺さねばならなかったでしょう。言うまでもありませんが、「維盛は熊野沖で入水して死んだ」というのが「平家物語」が伝える史実であり、この形に事を収めないと芝居は完結しないからです。

だから権太の行為・権太一家の犠牲は、主筋の維盛を救い、また、これで鎌倉の政治的立場も立った、立派に役に立ったということです。ただ権太が「ざまあ見やがれ、梶原をたばかってやったぜ。」という快感は味わえなかったというだけに過ぎないと思います。(権太の死の意味については別稿「放蕩息子の死」をご参照ください。)


3)信じあう兄弟

ここでの頼朝(=梶原)は一見すると悪役のような感じに見えるのですが、義経と対比される位置に置かれていることが分かります。頼朝は、かつて重盛から受けた恩を忘れず維盛を助けることで恩を返そうとしたということ、すべて(身替わり)を見通してこれを受け入れたことです。頼朝もまた義経と同じく、「ものの哀れを理解できる男・すべてを見通すことのできる男」として描かれているということです。

「五段目」大詰で分かることですが、「大序」において左大臣朝方から義経に与えれた院宣(初音の鼓)が「この鼓の裏皮は義経、表皮は頼朝、すなわち兄頼朝を討てとの院宣」とされたのはまったく朝方の作り話であったということが判明します。(別稿「その問いは封じられた」をご参照ください)つまり、頼朝・義経の争いはまったく朝廷に踊らされていただけであり、本当は兄弟には争う理由はなかったということになります。しかし、頼朝・義経の兄弟が結局は和解せず、義経が奥州平泉で自害して果てることは厳然たる史実なのですから、芝居での兄頼朝もまた心ならずも弟を追わねばならぬ定めに涙する人であろうと思います。頼朝もまた義経と同じく、自らの意志に任せず「自らに課せられた運命を従容として受け入れる」存在であると理解されます。

ということになれば「千本桜」の作者が頼朝を義経を虐げる者として悪意的に描くことは有り得ないと考えられます。もちろん作劇上の都合から鎌倉(頼朝)の詮議の厳しさを描くことはありましょうが、その意味からもこの「三段目」が頼朝に与えられていることは重要であると感じるのです。

「千本桜」の作者は、二段目(大物浦)において父清盛の横暴の報いに苦しむ知盛を描きます。知盛は義経によって精神的に救われ、「あなこころ安や、嬉やな」と言って死にます。三段目(鮓屋)においては父重盛の情けによって巡りめぐって頼朝に救われる維盛を描きます。(「千本桜」全体から見れば、権太の件はあくまで脇筋であって本筋ではありません。)義経も頼朝も、この「千本桜」において同じ役目を果たしていること、この兄弟は同じことをしようとしているということが分かるでしょう。

このことがあって「四・五段目」(教経の件)が来るとなれば、「千本桜」の主人公は義経なのですから最後はもちろん義経によって締められねばなりませんが、義経が「兄頼朝を討つ院宣を受けた」という汚名を着てまでも「平家追討の院宣」への正当性を守った(このことは別稿「その問いは封じられた」をご覧ください)ことの真意も察せられましょう。つまりこれは、「義経は兄頼朝を信じている、そして頼朝もまた弟義経を信じている」ということに他なりません。だからこそ、そのために「三段目」は頼朝に与えられているということだろうと思うのです。

それにしても改めて脳裏をよぎる疑問があります。「それにもかかわらずなぜ兄弟は争わなければならなかったのだろうか」ということです。これについてはこう考えなければならないと思います、そしてそれ以上は考えるべきでないかもしれません。つまり、「それがこの兄弟の運命だったのだ」ということなのです。

(H13・10・21)


 

 

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