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時代の循環・時代の連関〜歴史の同時代性を考える

平成24年9月・渋谷シアターコクーン:騒音歌舞伎「ボクの四谷怪談」

佐藤慶太(田宮伊右衛門)、尾上松也(お岩)、小出恵介(佐藤与茂七)、勝地涼(直助権兵衛)、栗山千明(お袖)他

蜷川幸雄演出

すばる 2012年 10月号(「ボクの四谷怪談」脚本掲載)


1)歴史とどう対するか

作家・橋本治氏が小説「桃尻娘」でデビューしたのは昭和52年(1977)のことでしたが、それより前に橋本氏の名前がマスコミに出たことがありました。それは昭和43年(1968)の東大駒場祭で橋本氏が描いたポスターのことです。「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーが話題になったものでした。当時吉之助は小学生でしたが、住んでいたのがたまたま井の頭線沿線だったので・この時の駒場祭を覗いたことがあるので、よく覚えています。絵柄は当時人気のイラストレーター横尾忠則に似た感じで、コピーも当時の大学生の間で人気であった高倉健や鶴田浩二演じる東映ヤクザ映画(もちろん小学生の吉之助は見たことはない)のタッチを真似たものでした。当時の駒場祭のことはほとんど記憶に残ってないですが、この橋本氏のポスターと、構内に並べて貼ってあったか・恐らく学内で上演会でもあったのではないかと思うのですが・封切られたばかりの映画「バーバレラ」(ロジェ・バディム監督・1968年)のポスターの色っぽいジェーン・フォンダ(これも当然見てないですが、今考えれば可愛いお色気ですなあ)が妙に記憶に残ってます。要するに右翼も左翼もごっちゃまぜという反体制の騒然・雑然とした・しかしどこか熱い空気が、大学闘争盛んな時代のかすかな記憶として吉之助のなかに残っているというわけ。しかし、約10年後の吉之助の大学時代にはすっかり冷えちゃって、そうした騒然とした雰囲気は世間にまるっきりありませんでしたねえ。だから吉之助は大学闘争に乗り遅れた世代です。10年早く生まれていればなあなんて思ったものですが、一体何をしただろうね。

記憶を掘り起こしてみると、いわゆる東大安田講堂攻防戦が昭和44年1月、連合赤軍あさま山荘事件が同じく昭和44年5月、よど号ハイジャック事件が昭和45年3月のことでした。これらを境に大学闘争の熱気は急速に醒めていき、それどころか運動に熱心な学生は地下で社会転覆を企む怪しい奴というイメージになってしまって、いつの間にやらあの頃の熱い雰囲気は消え去ってしまいました。連合赤軍の内ゲバ・粛清事件は学生運動の腐った部分を見せ付けられた感じで世間をすっかりシラケさせましたし、そうなるとよど号ハイジャック犯の「われわれは明日のジョーである」なんて声明はもはや空虚にしか聞こえませんでした。

国家権力により学生運動が力で抑え込まれる格好でズルズルと自滅したことは、当時の学生世代(いわゆる団塊の世代)に、右も左もノンポリにも、共通して深い挫折感・無力感を与えることになりました。これがその後の日本の行方にも大きな悪影響を与えたと思います。70年代には労働組合のストライキなどもまだ盛んに行なわれました。しかし、次第に日本全体が「お上に何を言っても仕方がない、長いものには巻かれるしかない、下手に反抗すれば馬鹿を見るのはこっちだ、ならば不満に思うところがあっても・黙って下向いて・嵐を過ぎるのを待つ方が結局は徳だ」という内向きで無関心を装う(そのくせ内心では素直に従わない)ような雰囲気になってしまいました。あれから40年の歳月が経ったわけですが、バルブ崩壊後の経済停滞とも重なって、昨今は幻滅感・閉塞感がますます強くなっています。吉之助は、その遠因がどうやら昭和45年前後にあると睨んでいるのです。

ところで橋本治氏のことに戻りますが、吉之助は橋本氏の良い読者ではないもので、文章を何度読み返しても・その意図が良く分からないことがしばしばあります。はっきり言えば、波長が合わないということです。小説は「桃尻娘」なんぞは題名だけでどうも 手が出ません。ここで吉之助が言うのは橋本氏の評論のことです。吉之助が思うところでは、橋本氏はその博識なことに驚きますが、特に着目点・問題の目の付け所が実に面白く、その指摘するところに教えられることがしばしばです。対象を斜めに斬るセンスは実に素晴らしい。ところが、その問題に対する考察と・その後の論理展開に首を捻ってしまうことがこれまた多いのですねえ。しかも、核心の箇所でそれが多い。だから評論全体として吉之助には どうも納得できないということになってしまいます。例えば「三島由紀夫はなにものだったのか」(新潮社・2002年)がそうです。「ひらがな日本美術史」全7巻(新潮社・1995〜2007)も、その博識と観察力で感嘆させられますし、問いの立て方が面白いので大変参考にしてますが、やはり細かいところで吉之助には首を捻ってしまうところがあります。

「三島由紀夫」とはなにものだったのか(新潮社)
ひらがな日本美術史(
第1巻)
(新潮社)

結局、吉之助が思うには、橋本氏が対象を斜めに斬るセンスは確かに素晴らしいのだけれど、この方は切り口も斜めに見てるのだなあということです。つまり、恐らくそれが橋本氏にとっての正面なのでしょうなあ。吉之助ならば、対象を斜めに斬 った後、その切り口をあっちこっちに向けて、こっちから見れば切り口が楕円に見えるけど・正面から見れば実はまん丸だったんだとか、こっちから見ると切り口が赤に見えるけど・向きを変えてみるとちょっと青みがかっているなあとか・ここに模様が出ているようだとか観察をするわけだけれど、橋本氏はあまりそういうことをなさらないようですねえ。対象をパッと斬ったら・後は直感でまっしぐらという感じです。そこで「浄瑠璃と読もう」(新潮社・2012年)から気になるところを挙げて、橋本氏の思考 回路を考えてみたいと思います。

橋本治:浄瑠璃を読もう(新潮社)

まずひとつめ、「菅原伝授手習鑑・四段目・安楽寺」(歌舞伎ではもうまったく上演されない場)は、菅丞相が時平の企ての一部始終を聞いて烈火の如く怒り、天拝山に登って雷神と化して都へ向かって飛んで行くという重要な場面です。ここで丞相が怒るのを見て、白大夫がビックリしてこう言うのです。「しれてある時平が工(たくみ)。今聞いたか何ぞの様に・ついど覚えぬこわいお顔。ここから睨まましても。都へは届きませぬ。」、橋本氏は白大夫が「時平がそんなこと考えてんの、初めから分かってるでしょ。今更何言ってるの?ここで睨んでも都になんか届きませんよ」と言っているとし、次のように書いています。

『白大夫の目から見れば、菅丞相という人は「自分は無実だと信じて何もしない人」で、「何だかよく分からない仰せ言をする変わった人」でもあるのだ。神格化された菅丞相の「立派さ」は動かない。しかし、白大夫の目で見れば、歴史というもの自体が「なんでそうなっているのかよく分からない荒唐無稽なもの」にもなりかねない。江戸時代の浄瑠璃作者はそういう両義性を備えていて、「歴史は歴史として動きがたいものではあるけれど、だからと言って、それをそのまま鵜呑みにして良いわけではない」という、透徹した歴史批判の牙、歴史を主体的に解釈しようとする芽を持つ。それは、とても重要なことだ。近代がこれをどれだけ受けついだのかは知らないが、近世の人間は、一方でとても合理的なのである。』(橋本治:「浄瑠璃を読もう」〜「菅原伝授手習鑑と躍動する現実」・新潮社)

これに関連する記述としてもうひとつ「義経千本桜」の箇所を見ます。「義経千本桜・五段目」では「平家を討て」という院宣は後白河法皇が出したものではなく・実は藤原朝方が仕組んだものだったという設定となっています。橋本氏は、そうすると平家側から見ると「我々には滅ぼされるべき理由がない」ことになり、義経側にも「平家を討つべき正義」がないことになるとして、次にように書いています。

『なぜ平家の一門は戦闘終結後も生き残っていなければならないのか?どうして「義経千本桜」の作者は、そのように設定したのか?それはつまり、作者たちが「平家には追われる理由がない」と考えていたからである。(中略)だからなんなのか?「義経千本桜」の作者たちが、「平家物語」は偏向していると考えたとしか思えない。(中略)「義経千本桜」は「源義経を賛美する方向で書かれた「平家物語」の書き直しだが、と同時に、「平家も悪くない」という立場で書かれた、もうひとつの「平家物語」だったりするのである。』(橋本治:「浄瑠璃を読もう」〜「義経千本桜と歴史を我等に」・新潮社)

まず「菅原伝授手習鑑」から吉之助の見方を述べますが、白大夫が丞相に対して「時平がそんなこと考えてんの、初めから分かってるのに、今更何を言ってるの?」という疑問は至極当然なことです。その問いはもっともですが、なぜ丞相は突然怒るのか。そのことを丞相の立場で考えなければならないのです。そこから菅丞相が人間から雷神へ変化していくことのきっかけを読まなければならぬと、吉之助は思うわけです。これは日本人の心のなかにある天神信仰を考えることです。

それまで時平の陰謀により筑紫に流されて・断腸の思いをしてきたにも係わらず、それでも丞相は怒りませんでした。しかし、安楽寺の場で梅王が捕らえた平馬の口から時平の企ての一部始終を聞いた途端に丞相は烈火の如く怒り出します。確かにその変化は唐突です。しかし、平馬が何を白状したか・その内容が問題です。平馬は「時平は皇位を望んでおり、邪魔になる丞相を殺そうとしている」と白状したのです。何故それまで丞相が怒らず・何故この場において今更の如く怒り出すかが、ここではっきり分かります。それは「時平が個人的な悪意で私(丞相)に事を仕掛けて来るならば、何をされようが私は我慢をしよう。しかし、帝を廃し・自分が皇位に付こうというのならば・私は絶対に許さない」ということです。つまり、丞相の怒りは個人的な怒り・恨みでは決してなく、公的な色合いを帯びているということです。

このことは非常に大事なことです。菅丞相は平安時代のひときわ重要な御霊神ですが、御霊神とは単なる怨霊とは違います。その怒りが公的な色合いを持つ・それを誰もが認めるから、御霊神ということになるのです。丞相は「霊魂帝都に立ち返り帝を守護し奉らん」と叫びます。丞相は朝廷を守護しようとしています。これは「北野天神縁起」が伝えるところとは時系列的な順序は異なりますが、結果としては丞相が「天満大自在天神」と云う称号を朝廷から頂き・北野天満宮に祭られた経過を踏まえているのです。「菅原伝授手習鑑・五段目・大内の場」でこのことが語られます。

橋本氏は丞相は「何もしない人」だと言います。「道明寺」においても丞相は能動的な行動をせず・ひたすら受身であり、確かに「何もしようとしない人」に見えると思います。しかし、その何もしないこと・受難を従容として受け入れるところに、丞相が無辜であることが示されているのです。またそこに丞相の聖性が暗示されています。(この聖性が引き起こす奇蹟が「道明寺」のドラマです。)丞相のなかに秘められていた聖性が公的な怒りによって火が付いた時、丞相は初めて現人神としての本質を明らかにします。「天拝山」は雷神としての性格を引きずってはいますが、丞相は明白に護国安全の神・学問の神・手習いの神なのです。これが江戸時代の庶民の丞相のイメージです。「菅原伝授手習鑑」は歴史における天神信仰を踏まえているのです。

吉之助がここで何を言いたいとかと云えば、これは「歴史とどう対するか」ということに係わる問題だということです。「義経千本桜」の項で、橋本氏と吉之助との立場の違いがさらに明らかになります。

「義経千本桜」が「平家物語」を本歌取りしていることは確かですが、本歌取りという行為とは何かをまず問題としなければなりません。橋本氏は本歌取りとは元歌に対する何らかの批評的な行為、恐らくパロディー的な行為だと考えている節がありますねえ。そういう風に考えると本歌取りの行為が捻じれて見えると思います。本歌取りは元歌の否定でも肯定でもありません。何を取り・何を変え・何を残したかということの元歌との連関性において・その関係を楽しむ遊戯なのです。本歌との連関性においてその改変のセンスが問われます。「歴史とどう対するか」という問題が、ここにもあります。

「平家物語」など日本古来の歴史物語というものは、世捨て人(隠者)によって書かれてきました。平安時代末期頃から盛んになった隠者という、公家や武家から社会の枠の外に出た人々が文筆に携わってこれを書き伝えました。中国の史書は史官という書記が政権の意向を受けて書くもので、常に現政権が統治することの正統性を説くためのものでした。歴史家の良心として出来事を公平に著述したいという気持ちがあっても、中国ではそれはなかなか難しいことでした。一方、日本の歴史物語は 隠者によって政治の枠組みから離れたところで成立したものなので、 案外気楽に公平な立場に立つことができます。だから、どちらの側に対しても同情があり、また同情がないということになります。もちろん思い入れ・えこ贔屓も多少あったり しますが、全体としてはどちらにも片寄らないという態度を守るように努めています。

橋本氏は「平家物語は偏向している」と言います。確かに「平家物語」は平家がこんな悪いことをしたということを沢山書いていますが、だから平家は悪であり・討たれるべきだとはしていないと、吉之助は思いますがね。平家がこんな愚かしいことをするのも・奢れる人間の哀しい性(さが)であるなあと嘆息しているのです。平家が滅びるのも歴史の理(ことわり)の結果であるのだなあとしているだけのことです。源氏が正義だとしているわけでもありません。平家が坂道を転げるように衰退への道を行くなかで、たまたま平家に引導を渡す役割を源氏が任されているにすぎない、このことを隠者は分かっているのです。場面が変われば、源氏も滅びの道を歩むことになる。それは「平家物語」後のことですが、現にそうなったわけですね。「平家物語」の作者は、散りゆく者・滅びゆく者に対して等しく限りない愛情と同情と涙を注ぎます。これが歴史物語の作者の歴史に対する態度です。源義経もそのような歴史観の下でのヒーローです。

日本の歴史書のもうひとつの特長は、類似した外国の歴史・または過去の事柄を引用し、それによって現在の事象を注釈しようとするということです。今の歴史を語るために過去の歴史に立ち返り・典拠を引くのです。この態度の背景にあるものは、歴史は循環するという思想です。単に繰り返すという意味ではなく、もっと深い意味において歴史の法則のようなものを意識しながら事象を読むのです。時代というものは循環し・積み重なり・連関するというイメージになります。現在は過去の結果としてあるものですが、過去は現在から批評される・と同時に現在は過去から批評されるということになります。安直な形においては・それは因果応報という理解に落ち着くことが多いわけですが、これも民衆のひとつの歴史理解の仕方だと言えます。

本歌取りも同じ様に考えなければなりません。「義経千本桜」は「平家物語」の本歌取りですが、浄瑠璃作者が最終的に本歌の何をどう変え・何を変えなかったかということこそが、本当の問題であるのです。そのこと自体が注釈となるのです。橋本氏は、浄瑠璃作者が「平家物語」は偏向していると考えて・平家の一門が戦闘終結後も生き残ったと自分流に書き直したと言います。しかし 変更したのは筋の途中だけではないでしょうか。最終的に知盛・維盛・教経はどうなったでしょうか。そこが大事なのです。平家はみんな消えてしまった。歴史の舞台から みんな消えてしまったのです。歴史上の人物(公人)が表舞台からひっそりと消えてしまえば、それは死んだと同じことになるのです。この結果が大事なのです。ということは、平家は滅んだということです。結果を見るならば浄瑠璃作者は「平家物語」の伝えるところを何も変えていないことが明らかです。こういう形で本歌取りの遊戯性が生きるのです。これが江戸の庶民の歴史の対し方・楽しみ方です。これこそ江戸の庶民の合理主義の産物です。

浄瑠璃作者が歴史の前提を書き変えて「・・たら・・れば」を入れて、芝居の筋を自由自在にいじくり回して楽しんでいると考えるなら、それは大きなお間違えです。歴史が教える大前提とは、「奢る平家は終に滅びました」ということです。それだけです。浄瑠璃作者は大胆な改変で発想を膨らませて筋を自在に展開しているように見えるかも知れませんが、守るべき約束は必ず守っています。芝居の筋はどれほど曲げられても、最終的に大前提に沿ったところへ収束していきます。結果的に「義経千本桜」は「奢る平家は久しからず・ただ春の夜の夢の如し」という「平家物語」の主題をリフレインしているのです。歴史における「平家物語」の思想を踏まえて「義経千本桜」を読まねばなりません。

以上はいずれ別の機会を以って・さらに三大歌舞伎の詳細な分析を行なう予定にしていますので、それをお待ちください。本稿においては、「丞相は今更何を怒ってるの?」・「源氏方に平家を討つべき正義はあるのか?」という橋本氏の問いは実に鋭い。核心を突く問いなのだけれど、橋本氏は自分の立てた問いに真正面から対していないのではないか?ということを指摘したいわけです。問いに対して斜(はす)に構えている。だから引き出された答えが捻じれて、論理が横道に行ってしまう。実にもったいないことです。

最初は吉之助も、頭の良い方のことだから・ 橋本氏はその辺を踏まえた上でわざと捻った視点を読者に提供しているのだろうと思ってました。しかし、橋本氏の著書をいろいろ読んでみると・実はそうではなくて、どうやらこういう思考回路が橋本氏にとっての正面であるらしいなあと気が付いたのです。つまり、橋本氏は浄瑠璃のなかの世界構造をまったく無視してドラマを読んでいることになります。これでは浄瑠璃の魅力の表面的なところしか論じることが出来 ません。問題は橋本氏が歴史に対して斜に構えて正対しない・あるいは正対しようとしないということにあります。吉之助としては、その遠因がどうやら昭和45年頃の大学闘争世代の挫折体験にあると睨んでいるのですがね。(この稿つづく)

(H24・10・7)


2)彼の現在は 、私たちの未来

歴史の同時代性ということを考えます。歴史家アーノルド・トインビーは、1914年・ちょうど第1次世界大戦勃発の年ですが、大学でツキジデスを講義していた時に、ペロボネソス戦争に直面していた古代ギリシアのツキジデスの時代と、今まさに世界大戦に直面しているヨーロッパの状況が類似しているという直感を得ました。この直感が後に大著「歴史の研究」として形となります。

『その時突然私の理解の眼が開かれた。われわれが現在この世界で経験しつつあるものは、既にツキジデスがその時代のなかで経験してしまったことなのだ。私は今彼を新しい認識を以って読み直しているのだ。彼の言葉のうちに含まれている意味、彼の言葉遣いに秘められている感情、それは彼を動かしてあの歴史を書くに至らしめた歴史的危機というものに、今度は私たちが当面しなければならなくなるまでは、それとして感じられなかったような意味であり、感情であった。今やツキジデスは、この地帯に精通した先達の如くに見られるのである。われわれがわれわれとして到達した歴史的経験のこの段階においては、彼と彼の同時代人は、私や私の同時代人よりも先の方を歩いているのである。実際、彼の現在は、私たちの未来となるものだったのである。ところで、このことはわれわれの世界を近代、ツキジデスの世界を古代と決めてしまうような年代表記の仕方を無意味だと悟らせた。年表の上ではどうあろうとも、ツキジデスの世界と私たちの世界とは、哲学的に見れば同時代であることが、今や明らかとなった。』(アーノルド・トインビー:「試練に立つ文明」・文章は読みやすくする 為に字句を多少いじりました。)

トインビー:試練に立つ文明

例えば吉之助もその昔はこの本を読んで・また芝居を見に行ったものですが、ヤン・コットに「シェークスピアは我らの同世代人」(1965年)という本がありました。この本のタイトルにも、実はふたつの意味があるわけです。まずひとつは「シェークスピアの登場人物も額縁のなかに収まった絵像ではなくて・我々と同じ生きた人間であるのだから、現代の我々の生きた感性で彼らのなかに息を吹き込めば良いのだ、だからシェークスピアを自分の感性で思いっきり自由に読んで良い」ということです。これはこれでもちろん正しいのですが、一般にはそこまでで終わってしまうことが多いと思います。しかし、歴史の同時代性ということを踏まえるならば、そこにもうひとつの意味があることが明らかなのです。コットはもちろんトインビーの思想を踏まえてい ます。

ヤン・コット:シェイクスピアはわれらの同時代人

そのもうひとつの意味とは、「シェークスピアの登場人物がどのように思い悩み・どのように行動し・それによってどのような結末を得たかということを現代の我々は知っており・それを思い計ることができるのであるから(つまり我々は神のような立場にたつことになる)、逆から見るならば、現代の我々はまさにその読み方によって・自分の生き方を過去のシェークスピアから批評されていることになる」という考え方です。これが歴史の同時代性ということです。つまり、「彼の現在は、私たちの未来」ということです。

そこで本論に戻りますが、・・・ということは、江戸の浄瑠璃作者は、期せずして・知ってか知らずか、トインビーに先駆けること200年前に、同時代性の視点で歴史を見ていたということになるのです。別にトインビーが同時代性を発見したのではありません。彼自身もそんなことはひと言も言っていません。それは歴史というものに謙虚に対した時に人々が自然と体得する視点なのです。

だから浄瑠璃作者が歴史の前提を書き変えて「・・たら・・れば」を入れて、芝居の筋を自由自在にいじくり回して楽しんでいると考えるのは大きなお間違えです。「菅原伝授手習鑑」では史実の菅丞相とまったく関係のない架空の三つ子の兄弟が登場して大活躍する。「義経千本桜」では死んだはずの知盛・維盛・教経が実は生きていた。これらはまったく史実を無視した出鱈目のように思えるかも知れませんが、歴史とは過去にあった出来事を綴るものだと思い込んでいるからそう見えるのです。むしろ吉之助が浄瑠璃の本歌取りを見て感嘆することは、浄瑠璃作者が如何に歴史と正しく対峙しているかということです 。

本歌取りとは元歌の否定でも肯定でもありません。元歌の何を取り・何を変え・何を残したかという元歌との連関性において・その関係を楽しむ遊戯です。本歌の何をどう変え・何を変えなかったかということで、それ自体が現在への注釈となるのです。「菅原伝授手習鑑」においては庶民が育んできた学問の神様である天神(菅丞相)信仰と、「義経千本桜」においては「奢る者は久しからず・ただ春の夜の夢の如し」という・日本人が愛してきた「平家物語」の無常の思想と正しく対峙しているということです。意味を踏み外したところで筋を好い加減に変えてはいない。押さえるポイントをしっかり押さえている。だから吉之助は、浄瑠璃作者は歴史と正しく対峙していると言うのです。

浄瑠璃作者恐るべしと感嘆するのは、いわゆる三大丸本は、大坂竹本座で延享3年(1746)から三年の間に一年一作、「菅原伝授手習鑑」・「義経千本桜」・「仮名手本忠臣蔵」の順に作られたわけですが、作が進むにつれ・本歌取りの技巧が着実に進化していることです。本歌取りの技法から見て、「千本桜」は「菅原」の成果を踏まえ・これ以前には生まれない、「忠臣蔵」は「千本桜」の成果を踏まえ・これ以前には生まれないと感じます。この順番が必然だということです。

ここで時代浄瑠璃の本歌取りに、三つのパターンがあることが分かります。まず「菅原伝授手習鑑」ではその年に大坂天満で生まれたばかりの・話題の三つ子兄弟をタイムマシンで平安時代に送り込み菅丞相を助けて大活躍させるという趣向を試みました。続く「義経千本桜」では死んだはずの知盛・維盛・教経を復活させて・決まったはずの歴史はもう一度書き直せるかというSF大命題に挑戦しました。そして「仮名手本忠臣蔵」では赤穂浪士の討ち入りした元禄時代は実は南北朝時代でもあったという・これはまさにタイムスリップで時空が重なり合ってしまうSF物語なのです。これは歴史ということを正しく分かっていなければ決して出来ない遊戯です。

いうまでもなく時代浄瑠璃だけでなく・歌舞伎でもそうですが、世界定めは大事な要素です。これで芝居の大筋の流れがほとんど決まってしまいます。他の枝葉の部分をどのような味付けに料理するかが、浄瑠璃作者の腕の見せ所になります。浄瑠璃作者は、歴史・時代とは循環し・積み重なり・連関するものだと考えます。だから過去は現在から批評される・と同時に現在は過去から批評されるという考えのもと同時代性で歴史を読もうとします。浄瑠璃作者が古今東西の古典・史書から典拠を引くのは、歴史の法則とか・人間の性(さが)とか・そのようなこの世を支配する漠然として大きな存在を意識し、これを絶えず読み解こうとしているからです。

以上が吉之助の時代浄瑠璃に対する基本的な考え方です。いずれ別の機会を以って・さらに詳細な分析を行なう予定にしていますので、それをお待ちください。本稿においては、橋本氏が歴史に対して斜に構えて正対しない・あるいは正対しようとしないということを指摘しておきます。橋本氏ほどの方ならば、「浄瑠璃を読もう・仮名手本忠臣蔵」の項で、「どうして浅野内匠頭は塩治判官で、吉良上野介は高師直でなければならないの?」という疑問を建てて、その意味を問うても良いと思うのです。しかし、橋本氏は次の一文でこれを済ませていますね。

『江戸時代の元禄に起こった事件を、「太平記」の時代の暦応元年に移している。江戸幕府が現実に起こった事件をそのままドラマ化するのを嫌ったという事情もあるが、それ以前に浄瑠璃は、「自分たちの知っていることをそのままドラマにしない」という性質を持っている。つまり、「仮名手本忠臣蔵」は「太平記」に仮託した赤穂浪士のドラマではなく、ただ「仮名手本忠臣蔵」というドラマなのである。』(橋本治:浄瑠璃を読もう〜仮名手本忠臣蔵と参加への欲望)

これは吉之助には納得いかない文章ですねえ。ちなみに「浄瑠璃を読もう」で橋本氏は、「忠臣蔵」・「千本桜」・「菅原」の順に論を進めています。この順番だけで橋本氏が浄瑠璃の世界構造を無視していることが明らかです。吉之助に云わせるならば、「菅原」・「千本桜」の本歌取りの技法を踏まえた上でなければ、「仮名手本忠臣蔵」で元禄時代が太平記の世界に設定されることの意味は理解ができないと思います。

このことは、現在の文楽・歌舞伎のレパートリーのなかで、「忠臣蔵」と同じ本歌取りの三番目のパターン、タイムスリップで時空が重なり合ってしまうSF物語で成功した作品が他にあるかを考えてみれば明らかだと思います。 浄瑠璃では、その数は非常に少ないのです。強いて挙げれば、近松半二の「近江源氏先陣館」・さらにその続編である「鎌倉三代記」ということになるかと思います。これらは本歌取りに加えて・もっと大胆な虚構が設定されていますが、通常のレパートリーではこれくらいのものかも知れません。それほど本歌取りの三番目のパターンでしっくり行くものは少ないのです。

ということは、二つ(あるいはそれ以上の)世界をタイムスリップさせて・時空をオーバーラップさせてしまう本歌取り手法というのは、技法的にとても難しいということです。重複させる時代の選び方、そのどこを置き換え・どこを変えないか、どちらの時代を活かし・どちらを捨てるか、その配合をちょっとでも間違えると、それそれの時代の違い(当然ながら時代が違えばシチュエーションの細部・その本来持っている意味合いが全然異なるわけですから)が勝手な意味を主張し始めます。そうすると筋の収拾がつかなくなります。だから本歌取りが成功する確率がとても低くなります。しかし、その配合が成功した場合には、それそれの時代の同じ部分はより強い意味を持たせることが出来、異なる部分は互いにその意味を補完し・ドラマに新たな意味合いを与えることになります。「忠臣蔵」はそのような稀有な成功例なのです。

「忠臣蔵」が「太平記」の世界に設定されたのは「塩治判官は赤穂の塩(浅野内匠頭)・高師直は高家筆頭(吉良上野介)」の連想から安直にこじつけられたもので・ドラマでは名前を置き換える・歴史の筋を変えることなんて簡単に出来るのさなどと思うならば、それは大間違いです。(これについては別稿太平記読みと忠臣蔵・あるいは「世界とは何か」などをご参考にしてください。)元禄赤穂事件は、芝居の世界では事件直後から曽我兄弟の世界・小栗判官の世界などいろいろな素材が試されて、「仮名手本忠臣蔵」が赤穂義士物の決定版となって、これ以後は「太平記」の世界が定番となります。ここまで四十七年掛かっているのです。以後の赤穂義士物は、どんなものであっても「仮名手本忠臣蔵」を踏まなければ成立しないことになります。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」も「盟三五大切」ももちろんそうです。ということは、「仮名手本忠臣蔵」の世界構造が分かっていなければ、「東海道四谷怪談」の「ないまぜ」の構造も分からないということになりますね。(この稿つづく)

(H24・10・13)


3)本歌取りの構造

橋本氏は雑誌「演劇界」で歌舞伎のイラストなど書いていたので歌舞伎に詳しい方だなとは思ってましたが、国文学専攻で・卒論は鶴屋南北論であったそうです。なるほど作家としてのルーツは歌舞伎であったということです。その橋本氏が小説「桃尻娘」でデビューする以前・イラストレーターのような仕事をしていた時期(恐らく昭和51年(1976)頃)に書いた戯曲が、「ボクの四谷怪談」 だそうです。

すばる 2012年 10月号(「ボクの四谷怪談」脚本掲載)

吉之助は橋本氏より10年遅く生まれた世代ですが、1970年代前半(昭和45年から5年間)の雰囲気はよく覚えています。まだ学生紛争はまだ完全に沈静化してしませんでした。しかし、大阪万国博(1970年)が終わると世の中は確実に冷える方向に向かっていました。ニクソン・ショックが1971年、第一次オイル・ショックが1973年のことでした。この頃は公害問題が盛んに言われました。経済成長の頭打ち・成長の弊害が見えてきて、未来は必ずしも明るいことばかりじゃないということが実感として分かってきた時代でした。

雑誌「すばる」・平成24年10月号に掲載された戯曲「ボクの四谷怪談」脚本を読みました。ミュージカル仕立ての・ごった煮ハチャメチャ様式で、そこらに70年代の行き場を見失った学生紛争世代の挫折やら焦燥やら悔恨やら諦めやらがよく出ていると思います。それはともかく、吉之助が戯曲「ボクの四谷怪談」に関心を持ったのは、作家デビュー前の若き橋本治(27・8歳の頃らしい)が鶴屋南北の「東海道四谷怪談」をどう読んだかということです。つまり、吉之助としては「東海道四谷怪談」の書替物として「ボクの四谷怪談」がどういうものか・そこに橋本氏の歌舞伎観なり・南北感なりが現れるはずであるから、それを知りたいということでした。こういう見方は作者にとっては迷惑じゃないかと思いますけれども、吉之助にとっては「ボクの四谷怪談」がエンタテイメントとして面白いかどうかは二の次なのです。

ところで、「40年の歳月を経て幻の戯曲に生命が吹き込まれた」ということで話題となった平成24年9月〜10月のシアター・コクーン(蜷川幸雄演出)での初演ですが、その上演プログラムのなかで橋本氏が妙なことを書いていますねえ。

『この作品のなかに「罪悪感」というものはありません。なにが起きても、「いいじゃん、別に」です。こんなものをやらされる役者さんは大変なんだろうなと思うのですが、勢いだけでこんなものを書いてしまった作者は、そこら辺、「ま、いいか」ととぼけます。それでも「いいじゃん、別に」だから、しょうがないです。』(橋本治:「知性なんかないさ」〜平成24年9月シアター・コクーン上演プログラム)

これは読んでてちょっと不愉快な気分になりますね。何だか内に引きこもって防御姿勢に入っているような感じがします。そのくせ丸くなった針ネズミみたいに、自己防衛に見せて・実は外界に対してバッチリ攻撃的な態度を取っているというわけ。そこに「ボクの四谷怪談」の心象風景を見ることが出来るかも知れません。あるいは橋本氏としては40年経ってもこの作品を突き放して見ることが出来ないということなのかも知れませぬ。まあ橋本氏の気持ちは分からないでもないし、プログラムに載せる作者の文章が必ずしも解題である必要はないですが、観客には誠実に向き合って欲しいと思います。

戯曲「ボクの四谷怪談」は第2幕以降は原作から次第に離れた感じで進行していきますが、大筋は南北の「東海道四谷怪談」の構造を踏襲しています。この戯曲がごった煮・ハチャメチャ様式で、初めて芝居を書いたということで多少稚拙なところはあるにせよ、それでもそれなりに格好ついて見えるのは、そのおかげです。吉之助がここに「東海道四谷怪談」の本歌取りを読もうとするのは多分作者にとって迷惑なことで、橋本氏が「「これは「ボクの四谷怪談」なんだから、ボクの勝手でいいじゃん、別にイ」と言うのが聞こえそうですが、そういうわけには行きません。いったん本歌取りをすれば、元歌のどこを書き換え・何を残したか、そのセンスを過去から問われることになるのです。これはお岩の幽霊みたいなものです。橋本氏はそこのところを「いいじゃん、別にイ」 と意識的に隠そうとしているように吉之助には思われます。それが裏腹の形で、つまり攻撃姿勢で脚本冒頭のところの設定にはっきり出て来ます。

時代:昭和51年にして文政8年でありさらに元禄14年であり、しかも南北朝時代。
場所:東京都江戸市中。

歌舞伎・浄瑠璃を知らない方には、これは度肝を抜かれる時代設定だろうと思います。こう書いてあると、これだけで万華鏡がぐるぐる回って・景色が四重に錯綜して・訳が分からない感覚にされると思います。思わず身構えてしまう。しかし、これは橋本氏の「張ったり」ですね。「ボクの四谷怪談」脚本を読むと、筋自体はそれほど錯綜してはいません。(様式はハチャメチャですが。)歌舞伎を知っていれば・こういう設定は当たり前ですから、この程度の「張ったり」は吉之助には通用しません。「文政8年でありさらに元禄14年であり、しかも南北朝時代」を確固で括って考えれえば良いのです。これは「東海道四谷怪談」で置き換えられます。結局、「ボクの四谷怪談」は「東海道四谷怪談」としか重なっていないということです。

イヤ「東海道四谷怪談」自体が「文政8年でありさらに元禄14年であり、しかも南北朝時代」という重複構造を取っているはずだと云う方がいると思いますが、もともと「東海道四谷怪談」は時代の重複構造が強くないのです。だから文政8年(1825)7月江戸中村座での初演では「仮名手本忠臣蔵」と二日掛かりで並演する形をとったのです。そうしないと重複構造を観客に強く意識付けられないということです。初演の上演形態は次の通りです。

第1日:「忠臣蔵」大序から六段目までを上演し、次に二番目狂言として「四谷怪談」序幕から三幕目の「隠亡堀」までを上演。
第2日:まず「隠亡堀」を上演し、「忠臣蔵」七段目から十段目まで、次に「四谷怪談」四幕目から大詰めまで、最後に「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)を上演。

初演以後の「四谷怪談」は単独作として上演されることになります。そのため「忠臣蔵」との関連性が弱くなってしまって、もっぱらお岩のお化け芝居の感覚で上演されていきます。現行歌舞伎での「四谷怪談」幕切れを見れば誰でもそう感じると思いますが、雪降る場面に与茂七が討ち入り装束で現れると「何これは?」という違和感があると思います。観客はもうすっかり「四谷怪談」をお化け芝居と思っていますから、お岩の幽霊が伊右衛門を誅すという形の結末を自然と期待します。ところが、芝居ではお岩の幽霊が伊右衛門を罰さず、討ち入り装束の与茂七が不義士として伊右衛門を討つ。そうすると、何だか古臭い封建思想と因果応報の枠組みのなかに強引に引き戻された感じがして鼻白む。「これだから歌舞伎は・・・ねえ」という白けた気分にさせられる。「四谷怪談」を単独として見るとそういう印象に陥り易いのです。これは「四谷怪談」単独での時代の重複構造が弱いことから来ます。もちろん作者鶴屋南北はその弱点は承知です。二日掛かり上演という不利な興行形態にしてでも「忠臣蔵」との関連を強調する意図があったのです。(これについては別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵をご参照ください。)

「ボクの四谷怪談」では「仇討ち」が重要なキーワードです。仇討ちが、何かしら熱中できるもの・生きがいみたいなものを見つけたと自分では思っている奴(与茂七)と、そうでない奴(伊右衛門・直助)を仕分ける基準みたいになっています。これはもちろんこれは学生運動に引っ掛けているわけです。当時は熱く理念を語って・片や運動に加わろうとしないノンポリ学生をすぐ批判したがる直情型の運動家が多かったのでしょうねえ。伊右衛門はそのような基準に反発する理論も熱さも持ちあわせていませんが、かと言ってそれに迎合するつもりもないという頑固さくらいは持っているのです。むしろ「ボクの四谷怪談」の方が、現行歌舞伎の「四谷怪談」より仇討ちが強調されているかも知れません。その辺に「鶴屋南北論」を卒論にした橋本氏の見識が出ていると思いますが、斜に構えて「ボクの四谷怪談」のドラマを読めば、そこにも外界への攻撃姿勢が見えるということ も言えますね。

ところで1970年代前半はアングラ芝居でよく鶴屋南北が取り上げられて・第二次南北ブームと言われたものでした。この時期には鶴屋南北は「怨念の作者」としてとらえられました。社会の不正・不公平を糾弾しこれを正そうとした若者たちの理想は、「体制」と呼ばれた社会構造のなかで押さえつけられてしまいます。さらにそうした学生運動自体も主義主張で内部分裂して互いに争いを繰り返し、自己崩壊していきます。それほどに大学闘争世代(いわゆる団塊の世代)の挫折感覚は強かったのです。こうした挫折を味わった若者たちが後に演劇に身を投じた時、南北作品の登場人物の生き様やドロドロとした怨念の渦巻く世界がリア リティーを以って迫ってきたと思います。言うまでもなく・このような読み方は、マルクスの階級闘争理論の左翼思想から出たものです。(別稿「人格の不連続性」に昭和54年の劇団青年座の「盟三五大切」を取り上げていますから、ご覧下さい。)「東海道四谷怪談・隠亡堀」での伊右衛門の「首が飛んでも動いてみせるわ」という有名な台詞が、体制からの強制に反抗して・あくなき自由を求める人間の気骨を見せるものだとされました。(ただし、この台詞は文政八年江戸中村座での初演にはないもので、翌年大坂で改作された「いろは仮名四谷怪談」で初めて登場する科白です。)

一方、「ボクの四谷怪談」での伊右衛門は主義主張のない人間で・状況に流されて生きているように見えますが、悪人というわけではありません。お岩は最初から面相が変わっていて、伊右衛門に殺されるのではなく、ということはお岩の死 について伊右衛門に罪はないのです。お岩の幽霊に追い回されながら「俺がおまえに何したんだよォ、何にもしないだろォ、何もしないからかよォ、何でだよォ、何すりゃイイんだよォ」と言って逃げ回ります。要するに伊右衛門には祟られるべき理由がないわけです。

実は原作の「東海道四谷怪談」での伊右衛門にも、状況に流されて生きているという要素があります。伊右衛門は何となくお梅に惚れられて・流れのなかでお岩を裏切り、結果としてお岩に恨まれることをしたのですが、どうも心底では「これは自分が悪いわけじゃない」と思っている節があります。詳細は別稿「伊右衛門はホントに大悪人なのか?」(「歌舞伎素人講釈」の記念すべき最初の原稿です)をご覧下さい。伊右衛門はその軟弱な行き当たりばったりの無定見な生き方ゆえに、自らの意思とかかわりなく復讐の対象に仕立て上げられ破滅していきます。お岩だと思って斬り付けてみれば、それは新妻お梅であったり喜兵衛であったりします。ここでも伊右衛門はそのつもりもないのに大量殺人者に仕立て上げられていきます。

現行歌舞伎ではお岩の怨念に相応しい悪人に仕立てる為に、そのような伊右衛門の軟弱な性格が意図的に弱められています。逆に「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞など加わえて悪の強さが強調されていきます。こうして色悪という歌舞伎の役柄が出来上がります。ですから「ボクの四谷怪談」での悪人ではなく・ただどう生きて良いか分からないという伊右衛門像はオリジナルの伊右衛門にむしろ近いものです。そこに橋本氏の南北研究の見識が見えるということです。あるいは」「反体制作家・鶴屋南北」という巷間の見方に反発して、橋本氏なりの持論を打ち出したということかも知れません。

しかし、「ボクの四谷怪談」の伊右衛門には祟られるべき正当な理由がないということで、この芝居がドラマとして弱い・つまり「怪談」として弱い・だからこの芝居はよく分からないという印象を持つ観客は多分少なくないと思います。「東海道四谷怪談」を知らない人はいても、お岩の怨霊譚を知らない方はおらぬからです。このよう にドラマが弱い印象がどこから来るのかと言えば、実はそれは「ボクの四谷怪談」のなかの時代の重複構造の弱さから来るのです。世界が明確でないということは行動判断の基準が曖昧だということです。橋本氏としては、行動(善悪)の基準なんか本作に元からない、現代(昭和51年当時)を「東海道四谷怪談」を下地にして芝居を書いただけでこれは本歌取りなんかではなく・これは「ボクだけの四谷怪談」なんだと主張すると思います。しかし、観客は決してそうは見ないということです。

吉之助の隣りで芝居を見ていた・演劇志望と思われる三人組の若者が、第1幕が終わって客席が明るくなった後、「原作知らないからなあ・・・帰ってから読まないとなあ・・」とつぶやいておりましたよ。「イヤ君たち、原作なんぞ読む必要はないよ」と声掛けたくなりましたが、ホントは作者が戯曲のなかに世界構造を明確に提示すべきなのです。これは例え現代戯曲であっても同じではないでしょうか。吉之助のお隣りの若者たちは可哀想に「昭和51年にして文政8年でありさらに元禄14年であり、しかも南北朝時代」という最初の張ったりでビビっちゃったわけです。しかし、これは作者が悪いのです。本歌を知ってないと分からないと観客が自分を責めるようでは駄目で、作品のなかで本歌取りの技法が正しく取れているならば、本歌が分からなくても観客はドラマがそれなりにちゃんと見えるものです。(本稿つづく)

(H24・10・20)


4)すべては自意識の産物

「ボクの四谷怪談」の時代の重複構造が弱い・ドラマとして弱いということは、伊右衛門にはお岩に祟られるべき理由が見えないということです。それは、ひとつにはその理由が正当か不当であるかを判断する基準が提示されていないから、そうなるのです。それは世界構造が明確でない・本歌取りが正しく出来ていないということに由来します。

しかし、そもそもそれが正当か不当であるかを判断する基準なんぞあるのだろうか?このような疑問を建てるのは、橋本氏のもっとも得意とするところであると思います。(嫌味で言っているのではありません。) 橋本氏の結論はそんな基準なんて最初からあると思ってないということになるでしょう。(これは橋本氏らしい論理展開だと言えますね。)つまり、「ボクの四谷怪談」はドラマ性に重きを置いていないということです。それで橋本氏はこの芝居をミュージカル仕立てにしたということです。しかし、伊右衛門にお岩に祟られるべき理由があるかは、やはり考えてみる価値があることです。ところで「ボクの四谷怪談」では、お岩の幽霊は伊右衛門の自意識の産物だったという結末になっています。

伊右:(あえぎながら)ヨォ、お前。お前は一体何なんだよォ。
お岩:まだ分からない?俺だよ。俺。(と、鬘をむしり取り、衣装を脱ぎ捨てる。伊右衛門と同じ若い男になる。)
伊右:(顔を上げ)お前・・・。
お岩:そうだよ、お前だよ。
伊右:俺?そうかァ・・お前は、俺、だったのかァ。
お岩:(うなづく)
伊右:(立ちながら)そうかァ、与茂七の云ってた事、まんざらウソでもなかったんななあ。(中略)そうかァ、そうか。何か分ったみたいな気がする。俺、何も気にすることないんだ。
(「ボクの四谷怪談」より)

別に衝撃の真相というわけでもなく、伊右衛門はさほど驚きも見せず、「そうかァ・・お前は、俺、だったのかァ」と言って真相をあっさり受け入れてしまいます。つまり、ここにはやっぱりドラマはないのです。いや別に伊右衛門がアッと驚いて・ショックでのたうちまわればドラマがあると言っているのじゃありません。しかし、この伊右衛門はただ何となく・状況に流されて生きているので、肝心のところに来ても「あっそうかァ」というだけで・ホントに分ってるのか、これでは怪しい。「何か分ったみたいな気がする」と言ってるところを見ると、実は分ってないのかも。・・・で君これからどうすんの?と聞いてみたくなりますねえ。

そう云えば、四谷左門が死んだ時も(伊右衛門が殺したのではなく・左門がはずみで便所のドブに落ちただけですが)、伊右衛門は「アーア、マァしょうがねえか・・」で終わりです。これは伊右衛門 に限ったことではなく、「三角屋敷」の場で直助が与茂七を殺したという告白を聞いたお袖の反応も、「エエーッ、ソォー、そうなのかァ、フーン」なのです。つまり、ここにもドラマがないのです。「ボクの四谷怪談」で見られる死は、殺人でも自死でもなく(つまり行為として起こったものではなく)、事故とか・はずみとか、どれもただ偶発的に死んじゃっただけです。これでは 誰も結果に対して責任を負いようがない。だから、きっかけがあっても、次の筋の展開が起こらないのです。橋本氏はきっかけに展開を引き起こすだけの重さを、最初から意図的に持たせていません。

ということは、お岩の幽霊は伊右衛門の自意識の産物だったということも、 実は「ボクの四谷怪談」のオチになっていないということではないですかね。吉之助は芝居を構造で読む癖が染み付いてますから、こういう時に「これは何の意味があるのか」ということをツイツイ考えてしまいます。が、橋本氏は、お岩の幽霊は伊右衛門の自意識の産物だった・「そうかァ・・お前は、俺、だったのかァ」でオチが着いたように観客に見せているだけじゃないのか。つまりこれもひとつの「張ったり」ではないかと思えるわけです。自意識かァ・・フロイトかユングみたい、何だか分かんないけど、高尚そうで、これ出しとけば 何となくオチが着いた感じしない?みんな納得でしょ?ってわけ。これで丸め込まれちゃう観客も多いのでしょうなあ。

そこで、お岩の幽霊は伊右衛門の自意識の産物(伊右衛門の自己投影ということ)だったということにすればオチが着いたように見えてとりあえず結構ですけれど、そうすると幽霊以前の・生きていた時のお岩と伊右衛門の関係は、どういう風に考えれば良いのでしょうかね。結局このことを深く考えるのは 無駄なことだと分かるのですが、この「ボクの四谷怪談」においては、生きていた時のお岩もやはり伊右衛門の自意識の産物だということですね。ということはその他の登場人物たちも、与茂七も直助もお袖もみんな、伊右衛門の自意識の産物ということになりますね。すべては伊右衛門の夢のなかのことだというわけです。そう考えれば、「ボクの四谷怪談」に元々行為はなく・ドラマもないということに納得が行きます。

だから「昭和51年にして文政8年でありさらに元禄14年であり、しかも南北朝時代」という時代設定にも、実は元から意味がないのです。重複しているのではなく、 時間軸を喪失して・溶けて混ざり合っているのです。すべてが自意識の産物だから、境目がないのです。だから感情にリアリティがなく、何でも「エーッ、あっソウ、それでいいじゃん、別にイ」となるわけです。鶴屋南北の「ないまぜ」というのはこういうものだと橋本氏は思ってるわけエ?

付け加えますが、・・だから「ボクの四谷怪談」は駄作だと言っているのではないのです。そこらに70年代の行き場を見失った学生紛争世代の心象風景が、挫折やら焦燥やら悔恨やら諦めやらがちょうど走馬灯の影絵のように動いていて、リアリティはないけど、それはそれで面白く出来ていると思います。恐らく 学生時代の橋本氏はどちらかと言えばノンポリ学生で・運動熱心な仲間から距離を置いた存在だったろうと想像します。それでもあのような空気のなかで時代と無関係に内に籠もっていられるはずがありません。周囲からは動かないように思われていても・内に沸々と溜まるものはあったに違いありません。そのような内面を「東海道四谷怪談」に置き換えたところに、当時の橋本氏独特の世界があると思います。ただし、橋本氏は本歌取りの構造が分っていない。本歌取り・ないまぜの技法が分からなければ芝居は書けてもドラマにはなりません。まあそれは橋本氏のスタンスなのだからそれはそれで結構ですし、「ボクの四谷怪談」自体が上演をもともと前提としてないものだから、まあそれも良しです。しかし、橋本氏が歴史に対して斜に構えて正対しないことについては、吉之助はやはり違和感を持ちます 。


5)40年後の現在

これ以降は平成24年9月〜10月のシアター・コクーン(蜷川幸雄演出)での「ボクの四谷怪談」初演舞台を見ての感想で、昭和51年当時の橋本氏に責任はないことになりますが、やはり書いておかねばなりません。蜷川氏演出の舞台ですが、この脚本をこういう風に見れるものにするんだねえということは感心しますけれど、全体的にまるで「三丁目の夕日」みたいであるなあと思いました。「三丁目の夕日」は西岸良平による漫画です。映画化もされたようですが、吉之助は見てません。「三丁目の夕日」は昭和30年代を舞台にしたホンワカした懐かしい気分にさせる漫画です。「あの頃は楽しかったなあ、みんな貧しかったけど、未来に夢があって。 友達はみんな良い奴で、お父さんはたくましくて、お母さんは元気で、お姉さんは優しかったなあ」というノスタルジーです。一方、この「ボクの四谷怪談」の舞台はその20年後の昭和50年代ということになりますが、「あの頃は、いやに騒がしい世の中で、夢も希望も何もなかったし、どうやって生きていけば良いか分からなくて、めちゃ苦しかったけど、今考えるとどこか熱くて・妙に懐かしいなあ」というようなノスタルジーですな。つまり「三丁目の夕日」・昭和50年バージョンというわけです。

しかしねえ、演劇というのは生(なま)演技なのですから、その芝居を上演する時点の空気をどうしても反映するものであるし、またそうすべきものなのです。「ボクの四谷怪談」のように意図的に時間軸を消し去り・時間が溶け合った芝居ならなおさらのことです。この戯曲を40年後の平成24年に上演するならば、これは「時代:平成24年にして、昭和51年にして文政8年でありさらに元禄14年であり、しかも南北朝時代」としなければならないと思います。ならば、どういう舞台を作るべきでしょうか。そういうことを考えてもらいたいのです。この蜷川 氏演出の舞台がそういう視点を取れているでしょうか。今回の上演プログラムでは、蜷川氏はこう書いてします。

『今の社会を冷静に判断すれば、「ぼくらはみんな死んでいる」と歌うほかないのも当然です。でも、そんな解説なんて、この破壊的な戯曲の前では無意味です。とことんメチャクチャなんですから。』(蜷川幸雄:「破壊的な明るさ」〜平成24年9月シアター・コクーン上演プログラム)

・・・どこかズレていると思いますねえ。昭和51年の学生闘争落ちこぼれの挫折青年と、平成24年の引きこもりフリーター青年と、表面的には似たところが確かにあると思います。しかし、平成24年の閉塞感は当時と比較にならないほど深刻で・どうしようもないものになっています。成長が頭打ちになっているというのではなく、破綻がすぐそこまで来ている状況です。 時代の切迫感がまるで違います。この時代の違いを見極めずして、表面的な類似だけあげつらわないで欲しいのです。3・11以後の現状は「ぼくらはみんな死んでいる」と明るく歌ってられるお気楽な状況ではないのではないか。これではタイムスリップして・オーバーラップした時空のズレを抉り出せません。類似点だけが取っ掛かりになるのではありません。

何より大事なことは、平成24年の状況は昭和51年の40年後の現在(結果)としてあるということです。この時代に生きた人間は、40年後の現在に対してその責任を負わねばなりません。もちろん吉之助も含めてですが。ですから蜷川氏も橋本氏も、どうして40年後にこんな日本になっちゃんたんだろ、俺たちがしてきたことって何だったんだろ、これが俺たちが望んだ・夢見た未来なんだろか?ということをキチンと整理して欲しいと思います。大学闘争世代(いわゆる団塊の世代)の挫折体験の傷がそれほどに深かったということを吉之助は認めますが、これがその後の日本全体の行方にも大きな影を投げ掛けています。だから、どんな些細なことであっても「いいじゃん、別にイ、だから、しょうがないです」などと投げやりなことを40年後の若者に言うのはやめてもらいたいのです。それは一生懸命演っている若い役者さんに対しても、舞台を見ている若い観客に対しても失礼なことです。彼らには 「お前ら何やってたんだ・おかげで俺たちの世代は割喰ってんだ」と大人を非難する権利があるのです。結局、これも歴史にどう対するかという問題に帰せられるのではないかな。

橋本氏にロックのリズムは似合いません。ロックの8ビートというのは、内に秘めた変革への鼓動を示すものです。少なくとも70年代までのロックのリズムは、それは実現するかどうかは分からない・多分実現しないだろう・それでも僕らは歩み続けなければならぬ・訴え続けなければならぬというリズムです。これは「ボクの四谷怪談」の世界から最も遠いリズムです。それにしても「ボクの四谷怪談」の・この騒がしいフィナーレは観客の歓声や手拍子を欲していると思います(ノンポリしてた当時の橋本氏もゲバ棒振り回したい気持ちが内心にはあったということなのでしょうなあ)が、吉之助が見たところでは周囲の観客はシラーッとした感じで、全然盛り上がったように思いませんでした。手拍子してたのは前列の60代かと思われる(つまり橋本氏と同世代の)おオバちゃん4人組だけ。吉之助のお隣りの若者三人組はあっけに取られて静かに見ていました。関係ないところで「いいじゃん、別に、イェーイ」で勝手に盛り上がって、これに乗れと言われても乗れませんね。橋本氏にはしんみりしたひとり語りのギターの方が似合います。かぐや姫の「神田川」のような内にこもった世界がピッタリです。鈴木慶一作曲の主題歌「君はいつも風車回して」は昭和51年の挫折青年の心象風景をよく表現出来ています。この旋律は妙に残りますね。脚本に橋本氏の音楽の細かい指定があるので仕方ないですが、もっと芝居のなかでこの旋律を生かした方が良かったかも知れません。しかし、ノスタルジーにばかり浸ってはいられません。

アングラ時代の蜷川氏演出の舞台を吉之助は知りませんが、帝劇での「ハムレット」(1978年・ 平幹二朗主演)の舞台をよく覚えています。幕が開く前にエルトン・ジョンの「王は死ぬものだ King must die」冒頭のピアノが鋭く鳴り響いた時、芝居はこうでなくちゃいかんと思いましたねえ。あのピアノの響きだけでシェークスピアの重層構造がしっかり確認できました。あの頃の蜷川氏は尖ってましたね。吉之助は、ひな壇に似せた舞台で・辻村ジュサブロー・デザインの 奇抜な衣装で繰り広げられる芝居を見ながら、歌舞伎座でこういう感じでシェークスピアを見たいと思ったものでした。やっと実現した「NINAGAWA十二夜」(2005年)はちょっと期待はずれな出来でしたが。あれから約35年ほど歳月が経ったわけですが、あの蜷川氏もノスタルジーに浸るお歳頃になったかと、残念でありましたね。

(S24・10・27)

(付記)関連原稿としてはサイトの「四谷怪談から見た忠臣蔵」、「世界とは何か」などご参考としてください。本稿の背景がよくご理解いただけます。




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