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似てはいても別々の二人

平成17年(2005)7月歌舞伎座:「NINAGAWA十二夜」

五代目尾上菊之助(斯波主膳之助/獅子丸実は琵琶姫の二役)、五代目中村時蔵(織笛姫)、七代目尾上菊五郎(捨助・丸尾坊太夫)、四代目尾上松緑(右大弁安藤英竹)、二代目市川亀治郎(四代目市川猿之助)(腰元麻阿)、四代目市川左団次(左大弁洞院鐘道)、二代目中村錦之助(大篠左大臣)他

(シェークスピア原作・今井豊茂脚本・蜷川幸雄演出)


1)この瞬間を忘れない

シュークスピアの喜劇「十二夜」のなかで最も素晴らしく・かつ音楽的な場面はどこだと思いますか。吉之助はそれは最終場において・ヴァイオラ(変装してシザーリオ)とセバスチャンの兄 妹が再会するシーンだろうと思っています。1933年のある晩、ヴァージニア・ウルフは初めて「十二夜」の舞台を見て・その感動を記しています。

『言葉にひとつの魂と同時にひとつの肉体が与えられる。役者が間を置いたり・樽の上に倒れたり・手を差し伸べたりすると平板な字面がぱっくりと割れる。まるで氷河の割れ目か断崖によって引き裂かれるようにすべての均衡が変ってしまう。難破してお互いに死んだと思っていた兄と妹・セバスチャンとヴァイオラが実の兄弟と分かり、黙して無限の喜びにひたり見つめあったまま立ち尽くす。その時の長い間合いによって生み出されるものこそ恐らくこの劇で最も印象深い効果だ。本で読むならば読者の目がこの瞬間をすっかり読み飛ばしてしまったとしても不思議ではない。しかし、舞台を見る観客はここで立ち止まり・それについて考える。そして、思い当たることは肉体の為と同時に精神の為にもシェークスピアはものを書いたということである。』

これに類似した素晴らしい場面をオペラに探すならば、それは作曲リヒャルト・シュトラウス/台本ホフマンスタールによる楽劇「薔薇の騎士」第2幕での銀の薔薇の献呈の場面において・豪商の娘ゾフィーと若い貴族オクタヴィアンが最初に出会って運命に打たれたように陶然として見詰め合うシーンです。オクヴィアンはオペラではズボン役と称され、女性歌手が若い男性の役を務めるものです。この場面のシュトラウスの音楽は透明な弦のピアニシモの響きに乗って・木管によって奏でられる銀の薔薇のモティーフが煌めくように美しいのです。この場面の二人の歌詞は次のようなものです。

(ゾフィー)私はもとの宿命へ帰らなければならない。たとえ途中で死ななければならないとしても。でも私は死なないのだ。それは遠い遠い道のりです。この幸福な瞬間に時間と永遠とがある。わたしは死ぬまでこの瞬間を忘れない 。
(オクタヴィアン)今の私は誰なのだろう。私はどうしてこの人のところに来ることになったのだ。どうしてこの人が私に会うことになったのだ。私が男でないのなら、私はここで消えてしまいたい。この幸福の瞬間よ、私は死ぬまで忘れない。

プラトンの「饗宴」のなかで、アリストファネスがこんなことを語っています。もともと人間は神によって一体の形で創られたのであるが、後に神々が人間の完全な幸福を妬んで男と女に切り離してしまったのであるとこの寓話は男性と女性の合体を望む・人間の深層心理的願望を説明しているのです。「十二夜」と「薔薇の騎士」のふたつのシーン、これら若い男女はその思いがけない運命に陶然として見つめあっていますが、やがて溶け合ってひとつになり・新たな理想のひとりの人間として生まれ変わるかのように思われます。もちろん実際はそうなるはずもないことですが、観客の深層心理的願望として間違いなくそれがあるのです。それがこれらの場面が観客にもたらす視覚的暗喩です。

その視覚的暗喩はひとつには美しい男女が向かい合って・黙したまま見つめあい・ただ陶然と同じ舞台面に立ち尽くすことによって得られるのですが、「薔薇の騎士」では美しいふたりの女性歌手によって歌われることによってその効果はさらに純粋なものに高められています。「十二夜」の場合は・それは通常は若く美しい男女の俳優によって達成されるわけですが、もしふたりの少年俳優(シェークスピアの時代にはヴァイオラもセバスチャンも少年俳優が演じたのです)によって演じられたならば、もっと容易に・もっと効果的にその視覚的暗喩が得られたに違いありません。この部分は歌舞伎ならばこその効果が生かせるところだと思います。


2)「似てはいても別々の二人」

ところで「十二夜」では男装したヴァイオラ(すなわちシザーリオ)とセバスチャンの兄妹はそっくりで見分けがつかないことになっています。「ひとつの顔、ひとつの声、ひとつの服、だが別々の二人!自然の作りなした魔法の鏡、あり得ないものがある」、「どうしてあなたは二人になったんです?ひとつのリンゴを二つに割っても、この二人ほどそっくりではない」というほどのそっくりです。周囲の人々の驚きと困惑のなかで・その騒ぎもまったく耳に入らずヴァオラとセバスチャンは再会の喜びにただ見つめ合うのです。

ふたりの兄妹は見分けがつかないほどの「そっくり」ですが・舞台では二人の役者がそっくりである必要は全然ないのです。もちろん背丈身体つき雰囲気は似ていた方がよろしいでしょうが、顔が似ている必要はないと思います。衣装が同じならばそれでよろしいのです。衣装が同じなら二人は「似ていなくてもそっくりな二人」ということになるのが演劇の視覚的暗喩です。

今回の・平成17年7月歌舞伎座での「NINAGAWA十二夜」では、このヴァイオラとセバスチャンの再会シーンはひとり二役の早替わりで処理されました。歌舞伎に脚色翻案されていますから ・ヴァイオラ(男装してシザーリオ)は琵琶姫(男装して獅子丸)・セバスチャンは主膳之助という役名になっていますが・これを菊之助がひとり二役で演じます。若く美しい菊之助はヴァイオラにぴったりですが、肝心の再会の場面でひとり二役ですからふたりが同時に同じ舞台に向かい合って見つめ会い・語り合うという場面がありません。菊之助にそっくりの吹き替えが使われていますが、あくまで吹き替えの扱いであって効果的ではない。また獅子丸と主膳之助の衣装は色がそれぞれ違っています。役を替わったことが観客にはっきり分からなければ早替わりは意味がないからです。だから原作に比較的忠実なこの翻案のなかで・この再会の場面が最も改変されています。これでは「ひとつの顔、ひとつの声、ひとつの服、だが別々の二人」という核心の台詞が生きてこない。つまり、獅子丸と主膳之助は「似てはいても別々の二人」なのです。これでは視覚的暗喩が動き出さないのです 。

舞台において二人の登場人物が「そっくり」ということはどういう意味を持つのでしょうか。そのために同じ役者が一人二役で演じる「必然」があるのでしょうか。ここでふっと思い出すのは猿之助のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の初演(昭和61年・1986・浅草演舞場)のパンフレットに作者の梅原猛氏が「ヤマトタケルの兄弟は双子で容貌そっくりという設定になっている・だから早替わりする必然がある」と書いていたことです。当時は猿之助の活動をケレン歌舞伎だとして揶揄する向きがいましたから、それで梅原氏は猿之助を応援すべく・早替わりを演劇的必然とする芝居を書いたということらしいのです。まあ・それはちょっと別の話ですが、しかし、違う登場人物(違う人格)はそれぞれ別の役者が演じるのが本来の演劇のルールです。双子でそっくりなら・一人二役早替わりの演劇的必然があると本当に言えるのでしょうか。

そのためには一人二役の持つ演劇的暗喩を考えてみる必要があります。例えば「桜姫東文章」の清玄・権助の双子の兄弟のようにそれぞれに男性の精神と肉体(あるいは善と悪)という対立構図が読み取れるケースです。この二役は「桜姫東文章」初演では七代目団十郎が演じました。あるいはそっくりの双子ではなくても二人一役の暗喩が利用される場合もあります。例えば「東海道四谷怪談」での小仏小平とお岩、ふたりはどちらも伊右衛門に対する犠牲者という類似項において「そっくり」と言えるのです。小平は「薬下せえ」と言って現れ、伊右衛門に刀で追い払われれば消えてしまう程度の弱々しさ、お岩の方はどこまでもつきまとってくる執念深さという違いはありますが、どちらも伊右衛門に恨みを持っており・これら二役は並列構造にあります。もうひとつはある人物が別の人物にその演劇的な役割を全面的に預け渡す場合です。例えば「東海道四谷怪談」の大詰において・お岩の刑執行代行者として登場する佐藤与茂七です。「東海道四谷怪談」初演のお岩・小平・与茂七は三代目菊五郎によって演じられました。

以上のことから、一人二役に演劇的暗喩を与えようとするならば・それは対立あるいは並列・または預け渡しなどの構図を取る必要があると考えられます。「そっくり」という要素もそういう暗喩を取らないならば演劇的な必然性はあまりないのです。(別稿「兼ねることには意味がある」をご参照ください。)

『確かにお兄様は私という鏡のなかに生きている。目鼻立ちも私と瓜ふたつ、いつもこういう色や型の服、こういう飾りをつけていた。だって、これはお兄様を真似たんだもの。』(ヴァイオラの台詞・第3幕第4場)

当然ながら今回の芝居では省かれていますが、このヴァイオラの台詞の持つ意味は重要です。この「十二夜」での獅子丸(変装したヴァイオラ)と主膳之助(セバスチャン)の運命の再会シーンにおいては、同じ色と型の衣装と飾りをつけた二人が同時に同じ舞台にあって・しっかり向き合うことで、その暗喩が完成すると思います。その暗喩の示すところは「宿命の二人がついに再会し・そして二人はついにひとつに溶け合うであろう」ということです。それを暗喩するのが衣装なのです。すなわち、この二役は同じ衣装を着たふたりの役者で演じることが望ましいと思うわけです。

「十二夜」を歌舞伎でやるなら・容貌がそっくりな兄妹は一人二役の早替わりで処理するのが伝統的で歌舞伎らしい手法だと考えるのは・なるほどひとつのアイデアですが、この場面の処理として一人二役が適切だとは吉之助には思えないのです。歌舞伎には双面の趣向もあります。「法界坊・両面月絵姿」で登場する・あの奇怪な法界坊と野分姫の霊は、おくみと見分けがつかないことになっています。この趣向が成り立つのもふたりの衣装が同じ、ただそれだけなのです。

歌舞伎で「十二夜」を演る場合にはヴァイオラとセバスチャンの二役を別々に演じるのは、もうひとつ重要な意味があると思います。それは歌舞伎におけるジェンダーとは衣装である・男と女を分けているのは衣装に過ぎないということを象徴的に示すということです。実は男と女だけではなく、歌舞伎の役々はすべて衣装でキャラクターが位置付けられているのですね。しかし、シェークスピアを歌舞伎で演るならばジェンダーの問題は特に重要なテーマなのです。歌舞伎の女形によってシェークスピア劇の少年俳優の存在をシミュレーションすること、これこそシェークスピアの「十二夜」を歌舞伎で演る意義でしょう。それでなければ新劇で男性俳優がヴァイオラを演るのとあまり変らないと思います。

とにかく「似てはいても別々の二人」では演劇の暗喩は十分に働かない。ひとり二役の手法が暗喩が観客に働くことを阻害しているように思われます。この菊之助ひとり二役の発想が今井豊茂の脚本から来たのか・蜷川幸雄の演出から来たのかはよく分かりません。まあ、そういうことには初めから関心がなかったのかも知れません。歌舞伎の面白さが生きたであろうに惜しいことであるなあと思いました。

菊之助には古(いにしえ)のシェークスピア劇の少年俳優を想わせる瞬間が確かにありました。しかし、願わくば琵琶姫と獅子丸の声のトーンはできるだけ同じ高い調子に統一した方がよろしいようです。獅子丸(シザーリオ)が時折女形の声色になって・ハッと我にかえって偽りの男声に戻すという技巧を多用しています。それは確かに歌舞伎の女形の技巧であって・観客はよく反応して喜んでいますけど、ジェンダーを意識させ過ぎで・そのために若衆の面白さをかえって損なっています。そんなジェンダーの境界をわざわざ自分で引いてみせる必要はありません。(女形のジェンダーへの自意識過剰を感じさせるという点で非常に興味深いということは言えますがね。)

獅子丸は女形に近い声色で・思いっきり「変成男子」であってもいいのです。なんでこんなナヨナヨしたのに織笛姫(オリヴィア)は惚れるのかと男たちが思うくらいでもよいのです。その方が若衆の女形の面白さ・菊之助の持ち味がもっと出たと思います。そうすることで織笛姫が獅子丸と間違えて婚約してしまった主膳之助を拒否せずに受け入れることの必然も生まれるのです。見掛けはそっくりですが、一方の獅子丸は決闘をビクビク怖がり・もう片方の主膳之助は逆に腕力を振り回わします。その違いにこそ「魔法の鏡は真実を映していたらしい(つまり織笛姫が正真正銘の男・主膳之助と婚約したのは偶然ではない、そして自分が本当は女である獅子丸に惹かれたのも偶然ではなかったとの意味)」という左大臣(公爵)の言葉の真意があるのです。

しかし、以上のような感想もシェークスピアの原作と引き比べてのこと。シェークスピアの芝居を日本に置き換えて歌舞伎に翻案するのはいろいろ厄介な所も出てくるであろうに・大変なことであったと思いますが、今井豊茂の脚本はなかなか上手いものであると感心しました。上記の吉之助の見方からすれば原作にはない序幕の船上の場はなくもがな。幕切れに琵琶姫が女性に戻って登場するのも気にはなりますが、歌舞伎の予定調和とすれば・この結末はあり得るかなとも思います。蜷川幸雄の演出はマジックミラーをうまく使って芝居の面白さを満喫させ、冒頭の左大臣邸の場面などハッとするほど美しかったと思います。歌舞伎役者たちも普段の古典でもこれくらい楽しそうに演じて欲しいものだと思うほど生き生きしています。エンタテイメントとして素敵な出来に仕上がりました。

(H17・7・10)

シェイクスピア全集 (6) 十二夜(松岡和子訳)

(後記)

別稿「シェークスピアの喜劇「十二夜」を記号論で読む」「演劇におけるジェンダー」もご参考にしてください。

*平成19年(2007)7月歌舞伎座の再演については別稿「暗喩としてのシザーリオ」をご覧下さい。
 

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