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男性的世界と女性的世界〜四代目猿之助初役の政岡

令和3年12月歌舞伎座:「新版 伊達の十役」

四代目市川猿之助(乳母政岡・松ヶ枝節之助・仁木弾正・絹川与右衛門・足利頼兼・三浦屋女房・土手の道哲・高尾太夫の霊・腰元累・細川勝元、以上十役)、二代目坂東巳之助(八汐)、九代目市川中車(栄御前)、八代目市川門之助(渡辺民部之助)他

*本稿では、三代目・四代目猿之助が交錯しますが、ただ猿之助とのみ記する時は・それは当代を指すとお読みください。


1)男性的世界と女性的世界

「慙紅葉汗顔見勢」(はじもみじあせのかおみせ・通称「伊達の十役」)は文化12年(1815)7月江戸・河原崎座で、七代目団十郎により初演。しかし、台本が散逸してしまっており、早替り芝居の決定版が欲しい三代目猿之助もさすがに困り果てるところでしたが、奈河彰輔がわずかな資料を元にまったく新しい台本を作り上げた(つまるところはでっち上げた)のが現在の「伊達の十役」で・・ということは、別稿の如く「素性のよく分からぬ脚本のいじくり廻しは嫌い」な原典主義者の吉之助は目をひそめるところなのですが、さすがにここまで来ると痛快と云うか、エンタテイメントとして本作はよく出来ていることを認めざるを得ませんね。南北に義太夫が入るのかね・・なんてことは云わぬことにします。

ところで「伊達の十役」は三代目猿之助の伝授を受けて当代海老蔵や幸四郎も演じていますが、調べてみると意外なことに、当代猿之助が十役を演じるのは、本興行では今回(令和3年12月歌舞伎座)が初めてであるようです。そうなったのはいろいろ背景があると思いますが、他の役では甲乙付けがたいとしても、猿之助が他の二人と比べて絶対的なアドバンテージがあるとすれば・それは政岡にあることは、これは疑いのないところです。猿之助も現在は立役に傾斜しているけれども、政岡を加役としてではなく、本役として演じる技量もキャリアも持っていると云うことです。(海老蔵や幸四郎を貶めるつもりは毛頭ないので、そこのところはお察しをいただきたい。)もしかしたら叔父である三代目よりも、この点では有利であるかも知れません。

それはもちろん「伊達の十役」のメイン・ディッシュが「先代萩・御殿」の政岡であるから、大事なことになるのです。三代目猿之助は、目まぐるしい早替り芝居のなかに・じっくり芝居を見せる場面を必ずひとつ設定したものでした。「伊達の十役」では、それが政岡なのです。吉之助の記憶では、三代目猿之助の政岡のじっくりした芝居のシーンで、「何この場面は、早替わりしないの?」と言いたそうな吃驚した顔で周囲をキョロキョロ見まわしてるオジさんを客席で見掛けたものでした。しかし、この点はとても大事なことで、しっかり質量がある核(中心)を持つことで、早替り芝居のケレンの軽みが一層生きて来るということなのです。したがって政岡を本格で演じられるであろう役者を配役することで「伊達の十役」の感触がどのように変化するかというところが、興味のひとつになるでしょう。

しかし、今回は残念ながらコロナ仕様の短縮脚本で、そこのところを十分確認出来る上演形態にはなってはいません。序幕に「先代萩・御殿」に当たる場面を割り当てて、後幕に「間書東路不器用」(ちょっとがきあずまのふつつか)と云う・「伊達の十役」の筋をダイジェストした早替りの幕を新たに書き加えた形になっています。これはまあコース料理を頼んだつもりが、メイン・ディッシュが先に出てきて、食べ終わった後、前菜・スープ・デザート・コーヒーその他が大皿に載せてドッと出てきた感じであって、これではメイン・ディッシュが活きて来ない、順番が違うでしょと云う感じがしますが、このコロナ状況では文句は言えませんがね。それならば10月歌舞伎座のように・いっそのこと「政岡外伝」に仕立ててしまう手もあったかと思いますが、それでは何のことはない「伽羅先代萩」じゃないかということになるので、猿之助としては十役を出すことにこだわったということでしょう。その気持ちは分かるけどね。

まっそういうことはあるけれども、猿之助初役の政岡を興味深く見せてもらいました。そこでまず「先代萩・御殿」という芝居の構造について考えて見たいと思います。三島由紀夫が、石原慎太郎との対談のなかで、こんなことを語っていますので、この発言を取っ掛かりといたしたい。

『あれ(先代萩)は実にグロテスクな、面白い芝居だよね。僕はいつもあの芝居で感動するのは、長い長いまま炊きから、御殿の愁嘆場が済むと、女性的世界、あのネトネトした悲しみがダーッと上に去っていくんだよ。そうすると、女たちの世界がダーッと消えて下から男性的な世界がダーッと上がって来るんだ。床下の男之助のせり上げで。そうすると、今度、男の悪の世界が始まる。その興奮というのはないよちょっと。それも、始め、ネチネチ見せられるから効果がある。そんなことは決して意図してやったこともないし、誰か頭のいい奴が考えたことでもないんだね。ほんとに感覚だけだね。不思議だよ、ほんとに。』(三島由紀夫:石原慎太郎との対談「新劇界を皮肉る」での発言・昭和39年3月)

「御殿〜床下」舞台転換の秘密をこれほど適格に語ってみせたものを、吉之助は知りません。ここで女性的世界から男性的世界への入れ替わりということを三島は語っています。二つの世界が床下の男之助のせり上げでダーッと一気に入れ替わって行く。そこに象徴される御家騒動の世界の、政治闘争の下に流れるドロドロと赤黒い(それはまさに血の色である)悪と正義が入り混じった様相、これがとても大事なのです。

ここで質問が出るかも知れませんねえ。それは「伽羅先代萩」論の時に云えば良いことで、どうして選りによって「伊達の十役」論の時に吉之助はそれを云うのか?ということです。とても良いご質問です。もちろん「先代萩」論の時に言っても良いことです。しかし、「伊達の十役」では、このことをもっと強く言わねばならないのです。何故ならば「伊達の十役」では、政岡と男之助と仁木弾正を同じ役者が早替りで勤めるからです。女性的世界像と男性的世界像はその二つが真向対立するものではない、実はその二つは御家騒動の世界の表裏一体の、二つの様相に過ぎないことが、「御殿・床下」を早替りで勤めることで、より鮮烈に・より象徴的に描き出せるであろうと、吉之助は考えるからです。もちろんこれらの役を三人の役者が別々に演じても・それは表現が出来ます。事実、優れた「先代萩」の舞台であれば、それははっきり見えるものです。しかし、それは意図して出せるものではありません。同じ役者が三役早替りで勤めるならば、それをコンセプトとして筋が通ったものに出来る可能性がある。つまり三島が上記発言で「ほんとに感覚だけだね。不思議だよ」と言っていたものを明確なコンセプト(意図したもの)に出来るという目論見なのです。(この稿つづく)

(R3・12・8)


2)女形的感性で読むドラマ

一口に「男性的世界と女性的世界」と言っても、それはいろいろな見方が出来ると思います。通常よくある見方としては、封建社会の忠義の論理にがんじがらめに縛られた男がおり、例えば「寺子屋」の松王のように、男が自分の子供を主人の身替りとする、女(例えば妻千代)はその理不尽さを嘆いて封建思想の非情を訴えるという構図だと思います。男は建前の論理・女は本音の論理という形で、男性的世界と女性的世界は対立構図を見せると、まあそう云うことです。確かに「寺子屋」だけでなく・この見方で多くの作品を読み解くことができますし、もちろん「先代萩」においても、この見方は適用できます。つまり忠義・滅私奉公とは、男が支配する封建社会の根本概念(男性的論理)であると云うことです。

例えば、千松が殺された後、ひとり残った大広間で政岡は我が子の死骸を抱きしめ、最初は「コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや。」と言います。しかし、「・・・・とは言ふものの可愛やなア」から次第に政岡から 別の言葉が漏れ始め、「三千世界に子を持つた親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食べなと云ふて呵るのに、毒と見へたら試みて死んでくれいと云ふ様な胴欲非道な母親が又と一人あるものか・・」となります。これは前半の、「コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ」が建前の論理(忠義の観念の男性的論理)であって、後半の、「死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」という嘆きが本音の論理(母親の愛情の女性的論理)として吐露されることで、前半の論理が否定されるという見方が当然できるところで、多分、これが民主主義の現代では主流の見方です。

しかし、上記の見方も尊重しつつも、前半の「よう死んでくれた、出かしたナ」と、後半の「死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」の、そのどちらもが政岡の本音であると、なお吉之助は考えたいのです。男たちに建前の論理があるように、女の世界にも女なりの建前の論理のなかで生きているのです。忠義・滅私奉公確かに封建社会の男性的論理かも知れませんが、女たちがそれと無関係に「殿方はツマラナイことにこだわって無用な諍いをするものですわね」と醒めていたとは思えません。また夫や子供・親兄弟を奪われてただ泣き叫ぶだけの被害者としてのみドラマに関与するということではないと思います。夫や子供・親兄弟を介してであるにしても、女たちも封建社会の論理である忠義・滅私奉公の真っ只中に生きており、そのなかで否応なく関与を求められています。政岡や栄御前も八汐だってそうです。栄御前や八汐は悪方ではないかと云うかも知れませんが、それは政岡から見れば政治的立場が反対側だから悪だということに芝居でなっているに過ぎません。栄御前も八汐だって、彼女らの政治的信条において必死に忠義・滅私奉公しているわけです。これは沖の井だって松島だって同じことです。

と云うことは、「男性的世界と女性的世界」と言うと・何やら二つの世界を対立構図に見てしまい勝ちですが、実は忠義・滅私奉公という封建社会の論理から、男性・女性どちらの世界も支配されており、そのなかでみんな必死に生きているのです。しかし、同じものを見たとしても、男性的感性から見た世界と・女性的感性から見た世界とは、その目に映っているもの(像)はまったく異なって来ます。或いは感情の出方が全く異なってくると云うことです。ですから「先代萩」御殿から床下への舞台転換とは、女性的感性で見た闘争世界(女たちの先代萩)から男性的感性で見た闘争世界(男たちの先代萩)へ転換すると云うことに他なりません。これを歌舞伎の美学で言い換えると、「女形の世界から立役の世界への転換」と云うことになります。この点は大事なことですが、「男性的世界と女性的世界」と云う時、三島はそのような意味でそう言っていることは明らかなのです。発言の次の箇所を読めば、それが分かります。すなわち、

『・・・それも、始め、ネチネチ見せられるから効果がある。そんなことは決して意図してやったこともないし、誰か頭のいい奴が考えたことでもないんだね。ほんとに感覚だけだね。不思議だよ、ほんとに。』(三島由紀夫:石原慎太郎との対談「新劇界を皮肉る」での発言・昭和39年3月)

ということです。前半の「御殿」を忠義・滅私奉公のドラマを女形の感性で陰湿にネチネチ見せるから、床下への転換の劇的効果があるのです。同じことを女優がやっても、決して同じ感触は出せません。これは歌舞伎であるからこそ出せる。ですから「先代萩・御殿」前半の重要なポイントは、忠義・滅私奉公という封建社会のドラマを(男でも女でもない)女形的感性で読むと云うところにあります。

だから「伊達の十役」で政岡と男之助と仁木弾正を同じ役者が演じることに新しい意味を見出すとすれば、ドラマを貫く忠義・滅私奉公という封建社会の論理は(善悪を越えて)ただひとつのものであるということ、彼らはそれを三者三様それぞれの思いで受け止めながら・その実現のために必死でもがいていると云うこと、このことを象徴的に提示することが出来るということです。早替りとは「彼が舞台で見せる複数の役々はすべてひとつの人格が纏う仮の様相である」ということだからです。政岡を、加役でなく・本役に出来る役者が勤めるならば、「伊達の十役」の御殿・床下はケレンを超える可能性があるかも知れません。あくまで可能性ということですが。(この稿つづく)

(R3・12・10)


3)女形的感性のイジメ

そこで今回(令和3年12月歌舞伎座)の「新版 伊達の十役」の御殿・床下についてですが、興味深いところは多々ありますが、舞台の成果としてはまだ十分とは言えないと思います。猿之助の政岡は悪くはないと思いますが、まだ改良の余地があります。政岡が、どこか「軍国の母」のように感じられるのです。但し書きを付けますが、軍国の母が悪いと云うことではありません。封建社会の内部闘争の渦中にあって、想像も付かぬ忠義・滅私奉公の重圧を政岡親子は受けており、政岡は軍国の母となってもおかしくない状況です。創作童話「ベロ出しチョンマ」の作者である斎藤隆介氏は次のように言っています。

『ええ、私は「滅私奉公」けっこうだと思うんですよ。もともと「滅私奉公」ってものは美しいものなんです。公のためになるということは立派なことだと思うんです。だからそういうことをやった人は民話にも残されたし、物語にも語られた。例えば歌舞伎の「佐倉宗五郎」です。(中略)「滅私奉公」なんて精神をすべての人間がお互いに持ち合って暮らしたらどんなに素晴らしい社会が出来ることかと思いますよ。怖いのは、この思想がどう使われているかということ。誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けるか見分けないかと言うことです。「八郎」なんてやつはみんなのために死んだんだから、お前もみんなのために死ね、なんて言ってね。埋め立て工事に駆り出されて・人柱にすることだってね。そりゃ、やろうと思えば出来ますよ。だけどそれは作品が悪いんじゃなくて、そういう道具に使おうという黒い手がいけないんであって、人にやさしくしろってことは、大変けっこうなんです。(中略)だから、そういうこと、「滅私奉公」とか「献身」とか「自己犠牲」などということを抽象的に取り上げるってことは、意味がないんです。作品というものは、そのなかに具体的な形で意味がありますんでね。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)

そう云うことですので、軍国の母が悪いと云うことでは決してありません。ただしその忠義や滅私奉公が何に根差したものであるかが当然問題になって来ます。吉之助が気になるのは、今回の「御殿」の舞台全体が男性的論理一色で塗りつぶされた印象に思えることです。だから芝居が暑苦しい。熱気があるのは良いことだが、ちょっと押しつけがましい感じがします。(そこを評価される方も当然いらっしゃると思います。)恐らくそれは男性的論理=忠義・滅私奉公という図式から来るでしょう。しかし、吉之助の不満はまさにそこにあって、御殿での忠義の論理が女性的論理の色合いで見えて来ないことにあります。ドラマが男性の色合いで硬く映ります。熱いけれども硬く映るのです。だから政岡が軍国の母みたいに見えるのです。御殿は女形ばかりでやる女の芝居なのですから、忠義のドラマが女性の色合い(正確には女形の色合いです)で見えて欲しいわけです。だから、三島が評した「女性的世界(御殿)が男性的世界(床下)へ転換していく様相」がはっきり見えて来ない。そこが吉之助の大きな不満です。

ただし、これは猿之助の政岡のせいばかりではないでしょう。原因のひとつが、飯焚きをカットした簡略形態の脚本にあることは確かです。乳母としての・母親としての政岡の状況が描かれないまま、烈婦政岡の忠義の場面が強調されてしまうため、軍国の母の印象が強くなってしまいました。

もうひとつの原因が、中車の栄御前と・巳之助の八汐にあります。女形の経験が乏しく・しかも初役の二人にこう云うことを書くのは酷なことは分かっていますが、残念ながら、今回の「御殿」が男性的論理一色で塗りつぶされた印象になってしまったのは、栄御前と八汐の出来によるところが小さくありません。政岡への責めが単純かつストレートに過ぎます。二人とも権柄顔で、「さようでなくばなぜ(菓子を)すすめぬ」・「これでも悲しうはないか・これでもか」と声を荒らげるだけでは、どうにもなりません。栄御前と八汐は女形なのですから、すべての所作は女形的感性によって描かれねばなりません。つまりすべての所作はジワジワと・ネチネチと・内にこもったように・陰湿に描かれなくてはなりません。それによって女形でしか見せることが出来ない陰湿なイジメの場面、まさに女性的論理の御殿の色合いが生まれるのです。このために女性だけの場面がここに設定されているのです。そのことを中車も巳之助も感覚で理解せねばなりません。問題は、女形の経験不足で・女らしい身ごなしの技巧が出来ていないということではなく(もちろんそれもあるが・そのことが本質的な問題なのではなく)、女形という役どころがもつ感性の理解不足・またはそれをどう表現するかの方法論の欠如から来ます。

例えば八汐は立役が演じることが多いわけですが、どうして真女形を使わないで、歌舞伎はなぜ立役を起用するのでしょうか。それはゴツゴツした・強面で意地悪な風貌を立役に求めるからだと考えるだけでは、それは大きな間違いになります。ゴツゴツした・強面で意地悪な風貌が表わすものは何なんだ?と云うことを考えなければなりません。それは、男性から見た女性の嫌なところを表わしています。それは、男が女性を可愛い・愛しいと感じるところと正反対のもの、つまり男性からすると見たくない女性の嫌な一面を表しています。それは、ジワジワと・ネチネチと・内にこもったように・陰湿に描かれます。これが女形の表現様式なのです。「先代萩」上演史上初めて立役が八汐を演じることになった時、その立役が女形の表現様式を心得ていなかったと思いますか?優れた立役は自分が女形をやらなくても、みんな相手役の女形がどんな演技をするか・普段から観察していて、女形の感性とは何か・その表現様式ということは、ちゃんと心得ているのです。そうでなければ、相手役の女形の演技に注文も付けられません。吉之助の見た八汐で云えば、二代目鴈治郎でも・十七代目勘三郎でも・三代目権十郎でもみんなそのことを心得ていたのです。

「可哀そうに可哀そうに痛いかいのう/\他人のわしさへ涙がこぼれる。コレ政岡、現在の其方の子、悲しうもないかいの」

八汐がこう言う時、八汐が千松をいたぶり・政岡を責めさいなむことをまるで舌なめずりして愉しんでいるようです。それはジワジワと・ネチネチと・内にこもったように・陰湿に行なわれます。これは女形の表現様式から来るのです。しかも「可哀そうに可哀そうに・・」・或いは「悲しうもないかいの」という台詞を、八汐は実に悲しそうな調子で言います。まるで政岡の心のなかに分け入るように。政岡の心の内側から揺さぶりをかけるように。しかし、その一方で八汐は冷静そのものです。舞台上では八汐は政岡に背を向けていますが、これは芝居だから便宜上そうなっているだけのことで、これが現実場面ならば八汐は政岡と正対し、政岡の表情を・その目の動きひとつまでも仔細に観察して、政岡の本心を徹底的に探ろうとしているに違いありません。そんな八汐を見せてもらいたいのです。

以上のことは、中車が演じる栄御前も、栄御前は真女形が勤めることが多いですが・立役が演じる場合には、ここは八汐と同様であると考えていただきたい。余談ですが、「妹背山・御殿」のイジメ官女でも、近年はまともなものはひとつもありませんが、強面で意地悪な風貌を見せればそれでいいと思い込んでいる役者ばかりです。これも女形という役どころの方法論を理解していないから、そうなるのです。

ですから栄御前も八汐も寄ってたかって、女形的感性で政岡をじっくりイジメなければなりません。それはジワジワと・ネチネチと・内にこもったように・陰湿に行なわれます。女形的感性から発した陰湿なイジメを、政岡が女形的感性で発止と受けとめる、それによって舞台に女性的世界が現出するのです。それが「御殿」のドラマなのです。(この稿つづく)

(R3・12・13)


4)女形的感性のクドキ

さてそこで猿之助の政岡のことです。「どこか軍国の母に感じられる」と書きましたが、いろいろ研究したところが見える興味深い政岡であると思います。感心したのは、「コレ千松、よう死んでくれた、出かしゃった・・」以下のクドキの台詞を早いテンポで・息もつかせず言い切ったことです。これほどの呼吸の良さは近頃滅多に見られるものではなく、猿之助の技芸が同世代のなかで抜きん出ていることを如実に示しています。まず「出かしゃった・出かしゃった・出かしゃった・・・」と畳み掛けるプロセスが見事で、否応なく観客を高揚感へ向けて急き立てます。そこから一転して千松の遺骸を抱きしめて「可哀や・可哀や・・」と泣き叫ぶまで一気に駆け抜け、そこに破綻が見えません。演技に一貫したものが感じられ、生っちょろい哀しみにナヨナヨと揺れるところがない、骨太い烈婦政岡が描き出されました。この点を高く評価する向きは、当然いらっしゃると思います。以上のことを認めたうえで、吉之助の考えを記することにします。

猿之助の政岡を見て感じることは、封建社会の男性的論理である忠義・滅私奉公の観念を強制されるなか、政岡は母としての・女性としての感情を押し殺し、倒錯状態となって「コレ千松、よう死んでくれた、出かしやった・・」と叫び、また今度は「可哀や・可哀や・・」と泣き叫ぶということですかねえ。その読み方はもちろん大いにあり得ることです。しかし、この行き方であると、前面に男性的論理が立ってしまうわけなのです。但し書きを付けると、政岡ひとりの心理だけを分析するならば、その読み方も十分に可能だと思います。しかし、吉之助の不満は、まさにこの点にあります。猿之助の政岡であると、「御殿」が男性的世界の色合いに見えてしまうということです。だから猿之助の政岡の軍国の母に見えるのです。

前節で述べた通り、軍国の母が悪いと云うことでは決してありません。しかし、斎藤隆介氏も言うように、その忠義や滅私奉公が何に根差したものであるかが問題なのです。つまり政岡の忠義や滅私奉公が男性的論理に根差すが如く見える、そこが今回の猿之助の政岡に対する疑問です。吉之助が申し上げたいことは、封建社会のなかで女たちも必死で生きているのですから、忠義や滅私奉公の論理は決して押し付けられたものではない。それは彼女たち自身の行動論理として同化したものとなっている。だから女性的な色合いで映らなければならないということです。「御殿」は、女たちの主体的なドラマなのです。だからそのように見せて欲しいのです。

前節で触れた通り、今回(令和3年12月歌舞伎座)の「御殿」が男性的世界の色合いに見えるのには、いくつか複合的な原因があります。猿之助の政岡だけのせいではありませんが、猿之助の政岡について考えてみると、先に「出かしゃった・出かしゃった」と畳み掛ける台詞の息の良さ、演技に一貫したものがあって・骨太い烈婦政岡が描き出されたと褒めたところ、まさにそこが徹底している(し過ぎな)ゆえに「御殿」が男性的世界の色合いに見えてしまうのです。

例を挙げれば、政岡のクドキの、「出かしゃった・出かしゃった」の高揚感から「可哀や・可哀や・・」と泣き叫ぶまで確かに見事な息でありましたが、この箇所はタテ言葉なのでしょうかね?吉之助にはタテ言葉みたいに聞こえましたが、この箇所はクドキではなかったでしょうか?女形のクドキと云うのは、本来もっとヒネヒネした感覚があるものです。

ここではもうひとつ言わねばなりません。歌舞伎では、この場面は竹本との掛け合いで為されるのです。或る時には役者が人形の真似をし、或る時には人間に返って台詞を云う、そのような歪んだ空間なのです。この箇所での猿之助の台詞には「本息(ほんいき)だ」とか「義太夫味がある」とか云う誉め言葉が多分出るでしょう。確かにそうも云えます。しかし、このように一気に駆け抜けてしまうと、歪んだ空間が現出しないのではないでしょうか。この箇所は竹本の協力なしではあり得ません。当然葵太夫も猿之助の意図を受けてやっているわけで、葵太夫もいつもの感触ではなかったようですが、これでは歌舞伎の掛け合いになって来ないと思いますがねえ。これでは本行(人形浄瑠璃)の感触、モノトーンの男性的世界の色合いです。

「人形じゃアあるめいし・・」という言葉が、チラと脳裏に浮かんで来ます。クドキの掛け合いは、歌舞伎にしかない独特の手法です。歌舞伎の女形とは、男の役者が女の役をするという皮肉なもの。一方、掛け合いとは、人間である役者が人形の真似をする演技と・生身の役者としての演技が交錯するというと云う、これも実に歪んだな演技形態です。つまり政岡のクドキの掛け合いとは、まさに女形が表現する「女性的世界」の最たるものです。それはジワジワと・ネチネチと執拗に・内にこもったように・陰湿に描かれなければなりません。それが女形の表現様式なのです。具体的に云えば、竹本が作り出すリズムに丸乗りするのではなく(それでは女形が人形になってしまいます)、女形が人間に返って台詞を云う時には、意識的に竹本に反抗してリズムを引っ張る必要があります。これは言葉を引き伸ばすと云う意味ですが、あまり引き伸ばし過ぎるとリズムが崩れてしまいます。だから基調のリズムを崩さない範囲で、竹本と役者が互いに押し合い・引き合いをするのです。逆に竹本が詞章を取る場面においては、竹本が言葉を押し引きして・役者はこれに反抗する、これが掛け合い場の本当の面白さです。

今回の猿之助の政岡のクドキは、モノトーンの男性的世界の色合いになっていたと思います。良く云えば、割り切れていたということ。つまり忠義・滅私奉公=男性的論理の構図になっており、だから分かりやすかったということもありますが、そのことの良さも、悪さもあります。歌舞伎の女形と云うのは、ヒネていて・割り切れない鬱屈した感情を腹のなかに一杯持っている存在です。猿之助も女形を演じて・そこのところは良く分かっていると思います。そこを取っ掛かりにして女形は「女らしさ」の演技様式を作り上げているのですから、政岡のクドキはもっと女形的感性を前面に出した屈折したものにせねばなりません。これでクドキは、歌舞伎独特の女性的世界の色合いになるのです。

実は見る前には、吉之助は猿之助の政岡にネットリ粘った重い感触を想像していました。しかし、予想に反して、猿之助はスパッと割り切った政岡を作り上げてきたようです。まあよく考えれば、確かにこちらの方が猿之助らしい政岡なのかも知れませんねえ。多分猿之助は女形の技巧を技術と割り切っているということでしょうかね。別に吉之助はこの政岡が間違いだと言うのではありません。しかし、「御殿」が「床下」へ転換していく中で、女性的世界から男性的世界へ入れ替わってく興奮は味わえませんでした。そのためには「御殿」で女ならではの忠義の・女性的世界を、ジワジワ・ネチネチ見せ付けなければなりません。(この稿つづく)

(R3・12・16)


5)猿之助の政岡・節之助・仁木三役

それにしても「伊達の十役」の猿之助の政岡を見ながら・こんなことを考えるのは、吉之助くらいかも知れませんねえ。加役の政岡で良いならば「こんな女形の役までよくやるものだなあ」と感心しながら見ると思いますが、それならば出来が良かった・悪かったの感想で終わりだろうと思います。ですから吉之助が猿之助の政岡の観劇随想でこう云うことを書くのは、もちろん猿之助に政岡を本役にする可能性を見るからです。歌舞伎界の現状(立女形の不足)を考えれば、猿之助が将来「伽羅先代萩」で本格の政岡に取り組むことは、当然視野に入ることだろうと思います。そうなると猿之助の芸はいずれ「伊達の十役」にはまらなくなるでしょうが、しかし、まあ「伊達の十役」は所詮ケレン芝居ですから、いずれ振り捨てていかねばならぬレパートリーです。叔父・三代目猿之助はケレンから足が抜けなくなってしまったので苦しいことになりましたが、そこのところを当代猿之助はよく考えた方が宜しい。別稿「再岩藤」観劇随想でも触れた通り、猿之助はやはり「じっくり見せる」系の演目の方が向きであろうと思います。そこのところは、今回・二幕目の・連続早替りの「間書東路不器用」を見ても感じるところです。

ところで「女性的世界から男性的世界への転換」と云うことを書いて来ましたから、床下の男性的世界のことにも触れておきます。前述した通り「御殿・床下」」で、政岡と男之助(今回上演では節之助となっています)と仁木弾正と、三つの役を同じ役者が早替りで勤めると云うことは、早替りとは「彼が舞台で見せる複数の役々はすべてひとつの人格が纏う仮の様相である」と云う形而上的イメージに通じるところがあります。だから女性的世界像と男性的世界像はその二つは決して真向対立するものではなく、実はその二つは御家騒動の世界が見せる表裏一体の、二つの様相に過ぎないことを暗喩として提示することになるのです。今回(令和3年12月歌舞伎座)上演では、「御殿」の男性的論理がいささか強過ぎた印象であったので、そこのところが見え難かったのは残念ですが、そのような期待を以て芝居を見せることが出来るということは、当代猿之助ならではの愉しみということだろうと思います。

「伊達の十役・床下」の段取りに若干無理を感じてしまうのは、これは同じ役者が演じるのだから仕方ないことですが、男之助から仁木弾正への切り替えに時間が掛かることです。そこに長いツナギを入れねばならぬので、この間に芝居の興奮が醒めてしまうのを、いつ見ても残念に思います。それとツナギに長刀を持った女中が二人登場するのも違和感があって如何なものかと思いますねえ。ここのツナギは四天を出して床下の登場人物を全員男性で統一してもらいたいものです。この箇所の段取りにはなお練り上げが必要だと思います。

猿之助の節之助と仁木弾正二役は悪くない出来ですが、本役らしい政岡の大きさと較べてしまうから結果的にそうなってしまうのですが、若干スケールが小さく見えてしまうところは、ちょっと損ではありましたね。早替りでこの三役のバランスを取るのは至難なことだと思います。まあそれだけ政岡が大きかったと云うことですね。

(R3・12・17)



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