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「熊谷陣屋」の時代物の構造〜十五代目仁左衛門の熊谷直実

令和2年12月京都南座:「一谷嫩軍記」〜熊谷陣屋

十五代目片岡仁左衛門(熊谷次郎直実)、五代目中村歌六(弥陀六)、初代片岡孝太郎(相模)、八代目市川門之助(藤の方)、二代目中村錦之助(源義経)


1)仁左衛門の熊谷直実

本稿で紹介するのは、令和2年12月京都南座での十五代目仁左衛門による「熊谷陣屋」の映像です。仁左衛門の熊谷は九代目団十郎型をベースとしていますが、例えば制札の見得で通常は逆さにした制札を三段に突くところを屋台縁端に突く(これは二人の女性の視線から首を隠すという心です)など、細かいところに相違がいくつかあって、そこに仁左衛門独自のこだわりが見えます。しかし、仁左衛門の熊谷の性根を読むうえでとりわけ重要な箇所は、熊谷が首実検で義経に贋首を差し出す寸前、「花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」の台詞廻しであろうと思います。

この場面での仁左衛門の台詞廻しに、我が子を身替わりに討った熊谷の苦渋の表現が他の熊谷役者の誰よりも強く出ています。「・・俺は苦しかった、とても辛かった。しかし、貴方さま(義経)の言い付け通り、敦盛さまの身替わりとして息子を討ちましたぞ。これで御意に叶いましたか」という感じで、熊谷がその場に泣き伏すかと思うほど、痛切かつ必死の思いが伝わって、そこがひときわ印象に残ります。仁左衛門の熊谷はこの箇所を起点として、そこからそれ以前(陣屋への帰還から制札の見得まで)とそれ以後(首実検から花道引っ込み)の熊谷を組み立てたのだろうと思います。

ところで杉山其日庵は「浄瑠璃素人講釈」のなかで、熊谷という人間は「もとより武辺の人なれど、すこぶる人情にもろき性質の人」であり、相模に対しても「武士道のために倅を殺したから左様心得よ」と言えばそれで済むのに、「これを明言したらばさだめて妻が悲嘆することを思いやり、それさえ明言し得ぬほどの弱虫である」と書いています。その通り、熊谷を多情多涙に描くことには、吉之助も大いに賛成です。しかし、そこは「肚」(内面)として描くべきであろうと思います。今回(令和2年12月京都南座)の仁左衛門のように、熊谷がこれほど感情の揺れを露わに見せてしまうと、我が子を身替わりに討たざるを得なかった父親の苦悩を思いやればこれも道理ではあろうけれども、全体の流れに納まりが悪い箇所がいくつか出てしまう気がします。そこの兼ね合いが「陣屋」の難しいところであるなあと改めて感じます。

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

例えば前半の物語の最後で熊谷が敦盛を討つ様子を聞いた二人の女性が泣き崩れるのを、「エエ戦場の慣れえだわエ」と一喝する場面です。この台詞は歌舞伎の入れ事ですが、通常は頭から押さえつける強い調子で言われます。しかし、今回の熊谷の性根であれば、「エエ戦場の慣れえだわエ」を言うとしても、ここは言い終わって腹の底から湧き上がって来る苦渋を堪えるが如く長く目を瞑って黙り込む感じがあっても良いように思います。ここでの熊谷は二人の女性と悲しみを共有しても良いと思えるのです。けれども仁左衛門はこの箇所をいつもの通りに演じています。だから二人の女性に対して熊谷が威圧的で・情がないように見えます。

或いは制札の見得にも、しっくり納まらないものを感じますねえ。熊谷の行為(敦盛の身替わりに我が子を身替わりに討つ)の拠り所が、この制札の文面です。首実検という究極の場面で、熊谷は制札に縋(すが)らざるを得ません。つまり制札の見得のなかに、熊谷の確信か根拠か・あるいは「お題目」に過ぎぬかも知れませんが、とにかく熊谷が信じるものが形象化されています。ところが今回の熊谷の性根であると、「陣屋」の劇的構造の要であるはずの制札の見得の意味が揺らいで見えて来ます。

もちろんこれらの場面は、熊谷が自分の弱さを見せないように、ことさら居丈高に振る舞っていると云う解釈も出来ます。しかし、これだと熊谷の表現が強くなったり・弱くなったりして一貫せず、人物像がブレて見えてきます。ここに封建道徳の時代に生まれた丸本時代物を、近代の自然主義の演劇思想で読み解こうとすることの、齟齬とまでは云わぬまでも・居心地の悪さを感じざるを得ません。ちなみに九代目団十郎が最後に熊谷を演じたのは、明治31年(1898)10月歌舞伎座でのことでした。杉贋阿弥は「舞台観察手引草」のなかで九代目団十郎の幕切れ引っ込みの熊谷を、「調子といい形といい、自己本位に出家を夢と観じているので・・・団十郎はとかく悟りすぎて困ると思った」と評しました。これは確かに団十郎型のひとつの問題点です。このようにセンチメンタルに諦観の情に浸るところは、団十郎型のなかに潜在的に存在するものに違いありません。だから仁左衛門は団十郎型のそんなところに強く感応しているわけです。今回の仁左衛門の熊谷でも、幕切れの憂い三重の引っ込みがしっくり納まっているのは、そんなところに理由があるでしょう。

しかし、九代目団十郎の時代(明治31年)には、江戸期生まれの人々が大勢存命で、「陣屋」の背景にある封建思想がまだ実感としてしっかり生きていました。またその後は、これに替わる形で明治の時代の忠君愛国思想(この場合の「君」とは国家元首としての天皇)が団十郎型の精神的なバックボーンとなって行きます。これにより熊谷直実は、由良助・弁慶と並んで、劇聖・九代目団十郎の最も成功した役とされました。ここでの「陣屋」は、「たとえ苦しくとも・辛くとも、国家存続と隆盛のために国民はその身を捧げよ」というメッセージとして、団十郎型のなかのセンチメンタルな要素が、いわばこの封建悲劇のワサビの如く機能したわけなのです。

しかし、戦後日本の民主主義の時代はそのような精神的バックボーンを失ってしまいました。だから団十郎型が持つセンチメンタルな要素が、贋阿弥が指摘した通り、熊谷が自己本位に諦観するところが宙に浮いた如く見えて来ます。ワサビが主題になってしまったわけだな。それは「陣屋」の時代物の構図が見失われているからです。ここが団十郎型の真の問題であろうと思います。今回の仁左衛門の熊谷においても、団十郎型に独自の手直しを加えてはいるものの、そんなところがないわけではない。現代は新たに、時代を超えた普遍的な「熊谷陣屋」像を打ち立てなければなりません。その性根は「ご主人大事」というところにはないだろうと思います。(別稿熊谷陣屋における時代の表現」を参照ください。)(この稿つづく)

(R2・12・31)


2)「陣屋」の時代物の構造

「自己本位に出家と夢と観しているので、団十郎はとかく悟りすぎて困る」、贋阿弥が指摘した通り、これが団十郎型の本質であり、まさに近代演劇的かつ斬新なところです。そして、またそこが弱点でもあるわけです。「陣屋」のなかで、熊谷が息子を主筋の身替わりに殺すことの父親としての苦しみ・葛藤が克明に描かれるのは当然のことですが、吉之助が一番気になる点は、「陣屋」では首でしか登場しませんが、ここで身替わりになって死んでいった当の本人・小次郎の気持ちが忘れられていませんかということです。だから熊谷の悲しみが「自己本位」に見えて来るのです。

須磨浦で小次郎は「心に掛かるは母人の御事」と吐露しましたが、「早首取れよ熊谷」と逡巡する父親に対し決断を促しました。これは熊谷が「物語」のなかで藤の方と相模に向けて語ったことですが、熊谷が実際にあった光景を敦盛のことに置き換えて・その通りに語ったと考えるべきです。つまり小次郎は敦盛の身替わりになることを覚悟し、未練なところをまったく見せず、潔く討たれたのです。このことは非常に大事なことです。

熊谷は息子の首をあくまで敦盛の首だと言い張って最後までこの嘘を押し通さねばなりません。もし世間に(或いは頼朝に)これが贋首だと知れてしまったら、息子の死を無駄にすることになります。だから熊谷は、苦しくとも・辛くとも、父親の情に浸るわけに行きません。熊谷が嘘を付き通すことで、「陣屋」のドラマは、「平家物語」が伝えるところへ収束していくことになるのです。こう書くと、「陣屋」の首実検で義経に首を受け取ってもらえれば・熊谷が嘘を付くのはそこでお終いじゃないのかと云う方が出て来るでしょうねえ。首実検は形式上のこと、内々のことです。世間に贋首を世間にバラそうとした梶原平次景高は、弥陀六が始末してくれました。他の・首実検に居合わせた人たちには、誰もこの秘密をバラす人はいません。「陣屋」の舞台の目撃者としての観客もこれもまた同様ではないでしょうか。(バラす方いますか?) 秘密は末代までも伏せられます。これで「陣屋」の結末は、「平家物語」が伝えるのと同じことになるのです。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになる、これが「陣屋」の時代物の構造です。「陣屋」とは、日本一の豪の者と云われた熊谷が出家することになる意外ないきさつを描くドラマなのです。こうなると「陣屋」での熊谷と息子・小次郎は、もはや殺す親と殺される子というウェットな関係ではなく、立派な男対男の骨太い関係であると言わねばなりません。彼らは壮大な歴史的虚構を構築するための同志なのです。ところで三島由紀夫が次のような文章を書いています。

「私が同志的結合ということについて日頃考えていることは、自分の同志が目前で死ぬような事態が起こったとしても、その死骸にすがって泣くことではなく、法廷にいてさえ、彼は自分の知らない他人であると証言できることにあると思う。それは「非情の連帯」というような精神の緊張を持続することによってのみ可能である。(中略)氏が自己の戦術・行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも革命を意識する者にとっては、けだし当然のことである。自らの行動によってもたらされたところの最高の瞬間に、つまり劇的最高潮に、効果的に死が行使できる保証があるならば、それは犬死ではない。」(三島由紀夫:「我が同志感」・昭和45年11月)

ちなみに「我が同志感」は三島自決後に発表された遺稿のひとつですが、上記の文章での三島の考え方に根源的な影響を与えたのは、間違いなく歌舞伎であったことがこれで分かると思います。三島が少年時代に見た「陣屋」や「寺子屋」の舞台から来ることは、別に文献的論証を行わなくても、歌舞伎ファンには自明の理なのです。「寺子屋」においても小太郎は「若君の御身代わりと言い聞かしたれば、潔ふ首差しのべ、にっこりと笑うて」死んでいった、この源蔵の証言に疑いを挟む余地はまったくありません。ですから「陣屋」の熊谷は多情多涙の人物ではありますが、その性根は「肚」(内面)として描くべきことです。そういう意味において、団十郎型は明治31年10月歌舞伎座の時点で完成したわけではなく・まだ発展途上であって、九代目がもし長生きして再度熊谷を演じたならば更なる深化を遂げていた可能性を秘めたものであったと考えたいですね。(この稿つづく)

(R3・1・4)


3)制札が指し示すもの

「一谷嫩軍記」が持つ時代物の構造とは、すべては「平家物語」から発し、浄瑠璃作者がどんなに奇想天外な趣向を凝らして・途中の筋がどれほど脱線しようとも、物語は最後に必ず「平家物語」の示すところに落ち着くということです。「義経千本桜」も同様であることはお分かりだと思います。「千本桜」大序冒頭で、源平合戦で死んだはずの知盛・維盛・教経は実は生きていたと云う大胆な虚構を提示されます。しかし、二段目・大物浦で知盛が、三段目・鮓屋で維盛が、四段目・吉野山で教経が、一人ずつ「平家物語」の世界へ戻って行きます。結果として「平家物語」が語るところと何ら変わらない形に納まります。つまりまったく「歴史は変わらない」のです。「嫩軍記」・大序で、義経は熊谷に対して次のように言います。

『熊谷は搦手(からめて)の経盛敦盛固めたる須磨の陣屋へうち向かい、若木の桜を汝が陣屋、義経花に心をこめ、武蔵坊弁慶に筆を取らせしこの高札、此の花江南所無(こうなんしょむ)なり、一枝折盗(せっとう)の輩(ともがら)においては、天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らば一指を剪るべし、この禁制の心を諭し、若木の桜を守護せん者、熊谷ならで外になし。其の旨きつと心得よ。』「一谷嫩軍記」・大序・堀川御所)

この制札の謎を解くのが「陣屋」のドラマです。しかし、ここで考えねばならない大事なことは、「一枝を伐らば一指を剪るべし」という制札の文言が指し示すものは何かということだと思います。このことは、時代物の構造を踏まえれば、すぐわかります。制札の文言は、「平家物語」・巻九・「敦盛最後」が語るところを示しているのです。すなわち、

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」(「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾)

と云うことです。須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて出家することになる、これが制札の預言が指し示すものです。ここで但し書きを付けますが、「預言」は予言とはまったく違うものです。予言とは、未来に必ず起きることを先立って言い立てること。つまり誰某の意志に係わりなく、それは必ず「成る」ものです。ここでの人間は神に操られる木遇に過ぎません。一方、預言とは、神は在るべきことを示唆するだけで・事を成すことはなく、人間が自らの意志を以てその事を「為す」のです。事がそのように為されることによって、神の正しさが証明されます。同時に人間の崇高さ・あるいは愚かしさが浮き彫りにされることになるのです。この違いはホンの紙一重の違いのようですが、実は決定的な違いです。

このことをはっきり見せてくれる芝居を一例として挙げると、それはギリシア悲劇の最高傑作・ソポクレスの「オイディプス王」です。オイディプスに対する神託は、「お前は父を殺し、母を娶ることになる」というものでした。オイディプスは神託の成就を避けるためにあらゆる努力をしましたが、それは無駄なことでした。事の成就を知ったオイディプスは、自らの目を潰してしまいます。この時、オイディプスは次のように言います。

『アポローンだ、友よ、アポローンだ、私のこのまままがしい苦難を成就したのは。だが、誰でもない、私が哀れにも、この手で目を突いたのだ。何を見たとて目を喜ばせるものの何ひとつない私が。』(「オイディプス王」)

「それを定めたのはアポローンだ、だが自分の目を潰したのは、この私だ」と云うのです。オイディプスは、成就したことの結果の一切をこの身に引き受けて、自らの意志で自分の目を潰したのです。このことによってアポローンの神託の正しさが証明されました。同時に自分の意志で自らの目を潰したことで、オイディプスは「神に翻弄されるが儘の木遇になる」ことを拒否したのです。オイディプスの崇高さが、ここにあります。この理解を踏まえて、オイディプスの言葉を借りて「陣屋」の熊谷の気持ちを表現するならば、

「それを定めたのは制札だ、だが自分の息子を殺して出家したのは、誰でもない、この私(熊谷)だ」

ということになります。これで熊谷は、オイディプスに比肩する悲劇の主人公となると思います。ところで、多分、ここで「それを定めたのは義経ではないのか」という質問が出るでしょうね。そうではありません。それを定めたのは「平家物語」が定めるところの歴史の律であって、義経ではありません。義経は、歴史の律が定めたメッセージを熊谷に伝えるだけの役割です。このようにして浄瑠璃作者は、「平家物語」の定める通りに、熊谷を出家せねばならない状況へと追い込んで行きます。

巷間の歌舞伎の劇評・解説では、「熊谷は主人義経の命令によって我が子・小次郎を敦盛の身替わりにやむを得ず殺した」と書いているものばかりが目に付きますねえ。義経は何か命令したんでしょうか?義経に忖度して熊谷が勝手に動いたのでしょうか?

「嫩軍記」では、「無冠の太夫敦盛は院(後白河法皇)の御胤であった」と云う意外の設定になっています。敦盛に官位が与えられて来なかったのは、天皇に変事が起これば代わりに敦盛が立たねばならぬこともあり得るからだと云うのです。官位が与えられるということは、天皇の臣下になることを意味するからです。当時の概念では天皇は現人神でした。だから院の子である敦盛を、何としても守る必要がありました。誰も抗弁できない・絶対の前提を、浄瑠璃作者は突き付けて来ます。これがまず前提の第一です。次に熊谷の女房相模は、その昔・法皇の側室であった藤の方に仕えていました。ところが相模は、北面の武士であった熊谷(当時は佐竹次郎と名乗っていました)と恋愛関係に陥ってしまいました。宮中での恋愛はご法度でしたから、二人はあやうく手討ちになるところでしたが、藤の方の計らいで、東国に逃げ延びることが出来て、それで熊谷と相模は夫婦となることが出来たわけです。これが前提の第二です。浄瑠璃作者は、用意周到に熊谷夫婦を恩義でがんじがらめにしているのです。(注:この経緯は「菅原」の源蔵夫婦とよく似ているでしょう。)それゆえ藤の方が産んだ敦盛を守ることが出来るのは、藤の方に恩義ある熊谷夫婦しか考えられません。義経に云われなくても、間違いなく熊谷は自発的にそうしたはずです。

義経は、何となくこのことを感じ取っているのですねえ。義経には物事の先行きを読むことが出来る不思議な能力(神性)が備わっているのです。(注:これはすべての「義経物」に共通する事項です。)だから義経は「この禁制の心を諭し、若木の桜を守護せん者、熊谷ならで外になし」とスラッと漏らしたのです。これは「熊谷、君はきっとそうすることになるんだよね」と言った程度のものです。義経は命令したのではありません。ただ預言しただけのことです。しかし、言われた熊谷は心中を見透かされてハッとしたことでしょう。だから熊谷が忠義を尽くした相手は、義経ではありません。熊谷が忠義を尽くした先は、藤の方・さらにその先にいる後白河院であるということになります。もっと大きな視点で考えるならば、「平家物語」が定めるところの歴史の律・歴史の真実に対して「忠」であったと云うことになると思います。

歴史書を見ると、実在の熊谷直実が出家したのは、実は領地争いでの訴訟のいざこざが原因で、口下手な熊谷が頼朝の面前でしどろもどろになったあげく、怒って髻(もとどり)を切ってしまったからなのだそうです。それが史実のようですが、ツマらぬ真実ですねえ。それが事実であっても、そんなものは歴史が教えるところの「真実」ではありません。日本人の心のなかの真実とは、「平家物語」が伝える通り、「須磨浦で敦盛を斬った熊谷はこの世の無常を感じて後に出家することになった」ということです。ですから「陣屋」の熊谷は、歴史の律に対して「忠」なのであり、自らの意志に拠り・出家する運命を選び取って去って行くのです。(この稿つづく)

(R3・1・7)


4)義経による首実検の意味

義経は不遇な幼年時代を送り、成人して華々しい戦功を挙げたにも係わらず・兄・頼朝に疎まれ、奥州平泉に追われて寂しく死にました。義経の流転の人生は、「猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」という「平家物語」の理をそのまま体現したようなものです。だから伝統芸能での義経は、「もののあはれ」に感応する不思議な能力(神性)を備えた人物となりました。能や歌舞伎で義経を子方・女形が勤めて優美な姿を見せるのは、義経に菩薩のイメージを重ね合わせたからです。「嫩軍記」も「千本桜」も「勧進帳」もみな、この共通したイメージで読まねばなりません。「陣屋」の首実検の場に登場した義経は次のように言います。

「ヤア直実首実検延引といひ、軍中にて暇を願ふ汝が心底いぶかしく密かに来りて最前より、始終の様子は奥にて聞く。急ぎ敦盛の首実検せん」

須磨浦で敦盛を討った時、熊谷は勝鬨(かちどき)を上げています。だからこのことは誰もが知っており、もちろん義経の耳にも入っています。ところが、熊谷はなかなか敦盛の首を持って義経の元に現れません。そうこうしているうちに熊谷から暇願いが提出されました。熊谷の心に何か迷いが生じているようなのです。そこで義経は熊谷の様子を確かめに陣屋に秘密裡にやって来ました。義経は「始終の様子は奥にて聞く」と言っています。奥の一間で義経は、熊谷が藤の方と相模に語った「物語」の一部始終を聞いていたのです。

さらにこれも「始終の様子は奥にて聞く」に含まれることで・とても大事なことは、首実検の場に現れる前に、義経は敦盛と対面していたということです。藤の方が青葉の笛を吹いた時に・敦盛は懐かしさのあまり駆け寄ろうとしました(この姿が障子に映ったのです)。しかし、これを義経が押し留めて・鎧櫃のなかに敦盛を収めたのです。首実検が終わり・弥陀六の件が済んだ後、義経が「ヤアヤア熊谷、障子の内の鎧櫃、ソレこなたへ」と指示しています。丸本では熊谷が鎧櫃を持って出ます。弥陀六に渡された鎧櫃のなかには敦盛が入っていました。とすれば、義経は「軍中にて暇を願ふ汝が心底いぶかしく・・」と言って現れますが、既に自身で敦盛が無事なことは確認済みですから、義経はもう首実検をする必要がないはずです。それでは、何のために首実検が行われるのでしょうか。

このことは義経が「もののあはれ」を知る男であることを承知していれば、察しがつくはずです。義経は、その首が贋首か本物か、果たして熊谷が本当に小次郎を身替わりに討ったかどうかを確認しに来たのではありません。「この禁制の心を諭し、若木の桜を守護せん者、熊谷ならで外になし」ということに疑いがあろうはずがありません。必ずその通りになることなのです。義経が首実検しに陣屋を訪れたのは、敦盛の身替わりになって死んだ小次郎の首に「礼」を与えるためです。「有難う、君の犠牲のおかげで歴史は変わらない、君の首を敦盛のものとして須磨寺に葬らせてもらうよ」ということを直に告げるためです。ですから首実検では、義経は小次郎の首をしっかり見詰めて、

「ホヽヲ花を惜む義経が心を察し、アよくも討ったりな。敦盛に紛れなきその首。ソレ由縁の人もあるべし。見せて名残りを惜ませよ」

の台詞を言わねばなりません。これが敦盛の身代わりになることを受け入れて潔く死んだ小次郎に対する礼なのです。小次郎のためにも・そして熊谷のためにも、上記の義経の台詞がまことに大切になります。小次郎が身替わりに潔く死んでくれたおかげで、本物の敦盛が救われた、院の御胤はこれで守られた、そして小次郎の首が敦盛のものとして須磨寺に葬られることで、「平家物語」が伝える所の歴史(未来の歴史)はまったく変わらぬことなく納まることになるからです。義経が直々に慈悲の言葉を首に投げかけることで、たったそれだけのことで、小次郎の犠牲がねぎらわれます。殺した父親・熊谷もこれで救われます。それは義経が「もののあはれ」を解する男であるからです。伝統芸能における義経の役目を理解していれば、このことは明らかであると思います。

いつもの「陣屋」では熊谷役者が自己本位に諦観の念に浸って、まあ父親の気持ちとしてそれは分かるけれども、「身替わりになって潔く死んだ当の本人・小次郎の気持ちがどこかに忘れられていませんか」と先に申し上げたのは、そこのところです。(この稿つづく)

(R3・1・10)


5)首実検での義経と熊谷

今回(令和2年12月京都南座)での仁左衛門の熊谷ですが、九代目団十郎型をベースとしていますが、細かいところに相違がいくつか見られます。そこに仁左衛門独自のこだわりがあるわけです。(仁左衛門は「渡海屋」や「鮓屋」でも在来型に独自のこだわりを見せています。)制札の見得で通常は逆さにした制札を三段に突くところを屋台縁端に突くとか、出家を申し出て墨染の衣に着替える時に通常は鎧を先に脱ぎ兜を最後に取るところを・仁左衛門はまず最初に兜を取って剃りあげた頭を見せるなどの違いが見えます。ただし、これらについてはまあ段取りに好みはあれど、役の性根に係わるところでは大きな相違ではないと云えます。しかし、首実検を終えた後・熊谷が首を相模に渡す時、通常熊谷は首を乗せた盆を縁先へ押し出して相模に渡しますが、仁左衛門は首を抱いて相模に手渡しする、これは現・芝翫が襲名の時(平成28年10月歌舞伎座)に見せた段取りとも似ていますが、小次郎に対する思い・相模に対する情が滲み出て、ここはなかなか感動的な場面になりました。これは首実検で首が敦盛のものだと公に認定された後でのことですから、十分納得できるところです。

ただし本稿冒頭でも触れましたが、首実検で熊谷が義経に首を差し出す寸前、「花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」の台詞廻しに、熊谷がその場に泣き伏すかと思うほどに痛切かつ必死の思いを込めるのは、仁左衛門がこうしないとこの役は演れないという気持ちは重々お察しはしますが、あまりに気持ちが生(なま)過ぎると云う気がしました。ここはもう少し抑えた方が良いのではないか。

別稿「世話物のなかの時代」でも触れましたが、実際、時代物では「私(主人公)はホントはそれをしたくない、しかし、私は他者に強制されて・無理にそれをやらされる」という風に見えるドラマがとても多いのです。それは封建社会の論理(主従関係)、大きな歴史の律みたいなものがドラマの骨格として在り、そのような抗しがたい圧倒的な存在と比べて、個人はまったくちっぽけで頼りないものであるから、「私は他者に強制されて・無理にそれをやらされる」と解釈しても、ドラマ的にさほど無理が生じないようです。しかし、この見方であると主人公は「被害者」の色合いを呈してしまいます。主人公に「ホントは俺はこんなことはしたくなかったんだ、だから俺には責任はないんだ」と云う言い訳を与えることになります。ですから、解釈上の立場の違いという面もあるので・吉之助は一概にこれを間違いと決め付けるつもりはありませんが、歌舞伎素人講釈の「かぶき的心情」の考え方からすれば、時代物のドラマは(時代物においても・世話物においても同様に)、「許されないこと・やってはならないことを、自分の意志・責任において私はやる」という風に、「時代」への意識を、主人公に一線を越えさせるポジティヴな方向で読む方が良いのです。つまり、

「それを定めたのは制札だ、だが自分の息子を殺して出家したのは、誰でもない、この私(熊谷)だ」

という読み方をすることで、熊谷はギリシア悲劇のオイディプスにも比肩できる時代物悲劇の主人公にすることが出来ます。上記の吉之助の考え方からすれば、仁左衛門の「御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」の台詞廻しは泣き過ぎる、おセンチに過ぎるようです。同様のことが、幕外の憂い三重の引っ込みにおいても云えますねえ。熊谷はもう既に出家(蓮生法師)としての道を歩み始めています。陣触れ太鼓の響きも今は遠い幻の如くに聞こえる・・・しかし息子を殺してしまった悲しみはなおも自分の胸を苛む・・という風にお願いしたいですねえ。吉之助には、映画でしか知りませんが、初代吉右衛門の憂い三重の引っ込みが今なお懐かしい。

もうひとつ付け加えますが、芝居は主人公だけで出来上がるわけではありません。今回(令和2年12月京都南座)の「陣屋」では、錦之助の義経の出来がまったく良くありません。このおかげで首実検での仁左衛門の熊谷が、かなり損をしたと思いますねえ。錦之助は風姿爽やかで、見掛けは義経に相応しいです。しかし、錦之助はまったく武人の義経で・台詞の調子が強過ぎでデリカシーの欠片も見えません。「もののあはれ」に感応する男の感受性というものを正しく理解して欲しいですねえ。もっと柔らかみと、心の底で涙する慈悲の心がなければ、伝統芸能の義経になりません。七代目梅幸の素晴らしい義経の映像が遺っていますから、それを見てもっと研究して欲しいものです。(この稿つづく)

(R3・1・13)


6)再び制札が指し示すものについて

団十郎型の「陣屋」は幕切れを改変し・幕外の熊谷の引っ込みで締めますから、弥陀六(=弥平兵衛宗清)の比重が軽く見えますが、本来の弥陀六は熊谷と共に「陣屋」の時代物悲劇を背負う重い存在であると云うべきです。その昔・平治の乱で源義朝が敗れた時、清盛が幼い頼朝や義経など子供たちを後々の禍となるのを恐れて処刑しようとしたのを、可哀そうだと嘆願して助けてやったのが池の禅尼と宗清でした。ところが後にその頼朝が挙兵し、義経が攻め手の大将となって平家を滅ぼしてしまいました。「こんなことを自分がしなければ、平家は滅ぶこともなく・今も栄えたものを・・」と弥陀六は悔やみ・自分を責めていました。弥陀六はまさに修羅の苦しみに苛まれていたのです。しかし、義経から受け取った鎧櫃のなか(敦盛がはいっている)を確認した弥陀六は、熊谷に次のように言います。

「この内(鎧櫃)にはなんにもない。ヲヽマなんにもないぞ。・・・ハアこれでちっと虫が納った。イヤナウ直実。貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」

弥陀六は積年の苦しみをちょっと晴らすことが出来ました。ここで弥陀六は熊谷に身替わりの犠牲を払ってくれたことの礼を言うわけですが、「貴殿への御礼はこれこの制札」とは、一体どういう意味なのか。このことを考えてみたいのです。どうして制札が熊谷への「返礼」になるのか。このことは巷間の歌舞伎解説では、まったく顧みられていないようですが、しかし、この詞章はとても大事だと思います

弥陀六が制札を受け取ったことで、「一枝を伐らば一指を剪るべし」と云う制札の文言を、今度は弥陀六が引き継ぐことになるのです。制札の預言が指し示すところに拠り、熊谷は息子・小次郎(一指)を身替わりにすることで院の御胤である敦盛(一枝)を守りました。今は義経によって小次郎の首は敦盛のものと認められた。つまり熊谷により「一枝(敦盛)は伐られた」というのが、公的見解です。だから弥陀六に渡された敦盛は、歴史の舞台から消えなければなりません。敦盛が再び歴史の舞台に躍り出ることはない。これで死んだと同じ事(一指を剪る)になって、「一枝を伐らば一指を剪るべし」の預言が守られることになります。これが弥陀六の、熊谷への「返礼」なのです。「平家物語」が語るところの歴史の真実は何も変わりません。したがって、この後に弥陀六が、

「コレ義経殿。もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」

と言いますが、これは時代物の定型の締めで(音楽で云えばコーダ・つまり独立した終結部ですから)、弥陀六が最後に自分の主題を回想して・ちょっと言ってみただけのことです。もはや宗清のなかに、敦盛を助けてもらった恩を源氏に仇で返そうなんて心が、毛頭あろうはずもありません。弥陀六も敦盛も、熊谷父子に感謝しつつ、歴史の舞台から静かに消えていくことを選んだのです。これで制札の預言が成就されたことになります。弥陀六に対して義経と熊谷が応える詞章も大事です。

「ヲヽホそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」
「実にその時はこの熊谷。浮世を捨てゝ不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役」

「天運次第恨みをうけん」という詞章は、その後、兄頼朝に疎まれて奥州平泉に寂しく死す義経の運命を暗示します。鎌倉幕府の源氏の将軍も三代で滅びることは、ご存じの通り。一方、熊谷はその後黒谷の法然のもとで正式に得度することになります。平家と源氏の行く末を見届け、諸行無常の有様を見届けて、これを弔うのが蓮生法師の役割です。「陣屋」を見る観客は、この未来を知ったうえでこの芝居の結末を眺めるのです。こうして「陣屋」の悲劇は、「平家物語」・「義経記」が語るところに落ち着き、義経を頂点とする・弥陀六と熊谷との三角の構造で締められることになります。これが本来の「陣屋」の時代物のドラマ構造です。

今回(令和2年12月京都南座)の「陣屋」は団十郎型で・熊谷の心理描写の方に偏っているので弥陀六の比重はどうしても軽くならざるを得ませんが、それでも団十郎型には「陣屋」のドラマ構造を破壊しようと云う意図はまったくないはずです。弥陀六役者の出来が良ければ、このことが観客にもはっきりと分ると思います。今回の歌六の弥陀六は、とても味わい深いですねえ。義経を助けたことを悔やむ長台詞も良いですが、熊谷に対する「貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」の台詞が、心によく沁みます。これならば熊谷は後顧の憂いなく出家の道を歩むことが出来ます。

*追記:仁左衛門は翌年(令和3年)3月歌舞伎座で「熊谷陣屋」をほぼ同じ顔触れで再演しました。この時の観劇随想も参照ください。

(R3・1・15)



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