(TOP)     (戻る)

型とは何か〜八代目芝翫襲名の熊谷

平成28年10月歌舞伎座:「一谷嫩軍記・熊谷陣屋

八代目中村芝翫(三代目中村橋之助改め)(熊谷直実)、二代目中村魁春(相模)、五代目尾上菊之助(藤の方)、 五代目中村歌六(弥陀六)、二代目中村吉右衛門(源義経)

(八代目中村芝翫襲名披露)


1)「型とは心です」

武智鉄二が武智歌舞伎で初めて「勧進帳」を演出した時(昭和25年5月)の話ですが、九代目団十郎の型は筋道がしっかりしているので、「勧進帳」の型を分析して気になるところを戻せば、もとの七代目団十郎の演技解釈に正しく行き着くことが出来るという印象を持ったというのです。つまり 九代目団十郎は先人の型をいい加減に変えていない、変えるにしてもそこに一定の理屈が必ずあるということです。七代目の弁慶は荒事の弁慶、これに対する九代目の弁慶は智の弁慶と云えると思います。また七代目の弁慶は能の観世流を基としていますが、九代目は金剛流の小書きに沿ってこれを改訂しているということがあります。だから九代目の発想の筋道を掴んで、「九代目はここを変えたな」と思うところを戻せば、ちゃんと元の型に戻るというわけです。これは伝承芸能にとっては大変に有難いことです。伝承芸能にとって大事な事は、「筋目が正しいかどうか」ということだからです。武智は「やっぱり九代目を経ていない歌舞伎は駄目だねえ」と盟友八代目三津五郎と語り合ったということです。

歌舞伎の型の本などを読むと、○○郎はこうやった・○○衛門はああやった・○○助にはまた別のやり方があって・・・なんて記述が列記されていると思います。昔は役者によって色々なやり方があったのですねえ、今はやり方が揃ってしまって、あまり違いが見えないようですが。あっちの型の方が面白そうだとか、こっちの型の方が形容が良さそうだから好きだなとか、そういうことを考えるのは楽しいものですが、ホントはどっちだって良いことなのです。正しくは、そういうものは型の手順あるいは段取りと言うのです。そういうものをいくら列記したところで、それだけでは型を考えたことになりません。型を考えるきっかけにはなりますがね。

それじゃあ「型とは何か」ということですけれど、吉之助が言うよりも、八代目三津五郎の思い出話の方がずっと説得力があるでしょうから、それを挙げておきましょうか。或る時、父親(七代目三津五郎)が何気なく「型とは心ですよ」と言ったので、びっくりしてしまったというのです。

『これが六代目(菊五郎)の口から出たのなら不思議はないが、父の口からそんな答えが出て来るとは夢にも思わなかった。私は、型とは形とか、形容とかいうと思っていた。それは私の認識不足だったのだ。型とは心を離れて存在しないのだ。どこでどういう形をしたとか、どうしたかということより、何故そういうことをするか。型の心を見失った場合、役の上の混乱が出て来る。これは見物には判らない。役者自身も熱演している時には気が付かないが、その芝居が済んで、二・三か月もするとはっと気が付くことがある。ただ、有難いことに、昔からある型通りにやっていれば、役者も見物も、役者の不勉強や不用意も気が付かずにいることもある。歌舞伎の型、それは「ひとつひとつギリギリのところまで、苦労と工夫によって産まれたものなのだが、演じる方も見る方も、もう一度あの型がなかったらと思って、見直し、考えたらどうだろうか。伝承芸というものは、それが正しい伝統かどうか、見よう見真似では駄目で、そこに口伝とか秘伝とかいうものが生まれて来る余地があるので、正しい言い伝えがあるのとないのとでは、見た目は同じでも、心が伝わらない。それが父の言った「型は心」ということなのだ。』(八代目坂東三津五郎:「型とは心」・雑誌「演劇界」増刊・歌舞伎読本・3・昭和47年12月、読みやすくするために 吉之助が文章を若干直しました。)

吉之助は、歌舞伎初心者の頃(つまり四十数年前だな)にこの三津五郎の文章に出会い、「型とは心です」ということだけ信じて歌舞伎を見てきました。以来、吉之助は、「○○郎はこうやった・○○衛門はああやった」という事象を型だと考えたことはないのです。そういうものは型の手順と呼びます。○○郎はこうやった、それならば彼がそう演じた背後に、役に対する○○郎のどのような解釈(心)があったのだろうかということを、吉之助は想像します。型の心を考えることが、歌舞伎の型を考えるということなのです。

残念ながら、そのようなことを具体的に考えさせてくれる型は、決してそう多くはないようです。そう感じるのは、残念ながら吉之助の想像力が不足しているせいもあるでしょう。口伝・芸談が限られていることもあるかも知れませんが、大抵の場合、それらは演技の枝葉に関する手順に過ぎないのであって、その発想が役あるいは作品全体の理解に及んでくるものが少ないように思います。そうしたものは筋目がはっきり見えません。だからそういうものは「型とは心です」という観点から見るならば、どっちでも良いものに思われます。

しかし、三代目菊五郎の「鮓屋」の権太や「六段目」の勘平の型は、間違いなく「型とは心です」ということを考えさせる 数少ないものであるし、九代目団十郎の「熊谷陣屋」の型も、間違いなくそうです。特に「熊谷陣屋」は、対照される四代目芝翫型が文献でも検証できるので、「型とは心です」ということをじっくり考えることができる数少ない作品であると云えます。(この稿つづく)

(H28・10・16)


2) 芝翫型と団十郎型

「熊谷陣屋」の型としては、大きく分ければ、現在は定型となっている九代目団十郎型と、これは現在はあまり演じられることがない四代目芝翫型の二つがあるということは、よく知られています。四代目芝翫型は、江戸期の名優・三代目・四代目歌右衛門を経て、明治期の四代目芝翫が磨き上げたものとされますが、大筋において人形浄瑠璃の演出を踏襲し、これに歌舞伎味を加えたものと云えます。九代目団十郎型については、古くは七代目団十郎が幕切れの花道の引っ込みを試みたという記録があり、発想はこれに端を発していることは間違いないですが、九代目団十郎がどのような経過を辿って現在知られる型に到達したのか、詳しいことは文献的にはよく分からないのです。ただし九代目団十郎型を見れば分かる通り、そこに見えるものは、熊谷個人の心情にスポットを当てた近代的人間理解です。つまり明治という時代との関連がとても強いものです。

そこで「熊谷陣屋」の上演記録を見ると、九代目団十郎が熊谷を演じたのは明治3年5月市村座が最初のことで、次が明治7年7月河原崎座、この後にしばらく間が開いて、明治21年10月中村座、明治23年京都祇園館、明治24年5月歌舞伎座、明治28年10月明治座となり、最後に演じたのが明治31年10月歌舞伎座となります。現行の九代目団十郎型は、最後の明治31年10月歌舞伎座の舞台を元にしていると思われます。それにしても吉之助は、明治7年から明治21年までの約14年間のブランクが気になります。言うまでもなくこの時期は、九代目団十郎が演劇改良運動に熱を上げて、活歴など盛んに演じていた時期です。演劇改良運動とは、平たく言えば荒唐無稽な歌舞伎をもっと正しい理屈ある芝居に改良し、近代社会にふさわしいものにしようというものでした。しかし、明治も20年を半ば過ぎると九代目団十郎もだんだん熱が醒めてきて、演じる作品を見ても古典回帰の傾向が顕著になってきます。「助六」でも「勧進帳」でも、現在定型となるものは、この時期の九代目団十郎の舞台が元になっています。明治28年10月明治座で九代目団十郎が演じた熊谷は、「役者の手本」と絶賛されるほどの出来となりました。

だから団十郎型は、明治20年代になって大よその骨格が出来、明治28年10月明治座でほぼ現行のものとなったと想像が出来ます。それは団十郎型が、明治期の演劇思潮に洗われた後でなければ出て来ないものであることが明らかであるからです。ですから、その背後にある九代目団十郎の型の発想プロセスを逆手に取って「九代目はここを変えたな」と思うところを戻せば、ちゃんと元の型に戻るのです。それがほぼ芝翫型であると考えて良いのです。

ここで「演じる方も見る方も、もう一度あの型がなかったらと思って、見直し、考えたらどうだろうか」という八代目三津五郎の言葉を思い出してもらいたいのです。吉之助が言いたいことは、「歌舞伎の型はどのようにして生まれるか」を考える時、改訂前の芝翫型と・改訂後の団十郎型を比べることができることが、どれほど有難いことかと言うことです。それは九代目団十郎の発想プロセスを辿ることが出来るということです。つまり模範解答を読むようなものです。こういうことを検証できる演目は、歌舞伎でも決して多くはありません。

ですから熊谷の制札の見得で芝翫型は制札を上にして掲げ・団十郎型は下に持つ、そのような知識も大事には違いありませんが、制札が上か下かなんてことは、ホントはどっちだって良いことなのです。そういうものは型の段取りであって、形容そのものに型の心はないのです。芝翫型の制札の見得は飛脚が鋏箱を担いでいるみたいで恰好が悪いとか・団十郎型は形容に安定感があるとか、歌舞伎の型の本を見るとそういうことを書いてあるのが多いですが、そんなこともどうでも良いことです。見た目であっちが面白いとか・こっちの方が形が良いとか、そのようなレベルで型を変えるならば、それは役者の仕勝手と呼ぶのです。九代目団十郎の発想プロセスは筋目が正しいものなのですから、その筋目を読まなくてはなりません。それが型の心を考えるということなのです。(この稿つづく)

(H28・10・23)


3)「陣屋」の団十郎型

「舞台観察手引草」の冒頭において贋阿弥は、「形容における(四代目)芝翫、精神における(九代目)団十郎」と評しています。芝翫型の方はしばらく置くことにして、まず団十郎型について考えてみます。というのは、現代の我々にとって「陣屋」の標準は団十郎型なのですから、そこから九代目団十郎の発想の筋目を逆に読む、型の心を考えるには、そういう作業が必要になるのです。贋阿弥は、団十郎型について重要な指摘をしています。

『そもそも熊谷の山は物語りでも何でもなく、実は出と引っ込みにあるのだ。直実は仏心に始まって仏心に終る、これを一篇の首尾照応とするので、(中略) 要するに、「陣屋」は花道の芝居である。』 (杉贋阿弥:舞台観察手引草」)

団十郎型の「陣屋」は花道に始まり花道に終わる。主人公直実の仏心を描くことに集中したもので、極端なことを云えば、すべての場面は最後の直実の幕外の引っ込みの為にある、すべての登場人物は最後の直実の幕外の引っ込みの為にあるということです。つまり明確なプランのもと段取りが作り変えられているのです。たとえば「一谷嫩軍記・ 三段目(熊谷陣屋)は、浄瑠璃では次のような文句で締めくくられます。三味線のシャンの音で音楽として終結するものです。これは芝翫型でも同様で、舞台上のすべての人物の引っ張りの絵面で終結することにより、ドラマに区切りがつくわけです。(サイトの「義太夫狂言を読む・熊谷陣屋・床本検討」を参照ください。)

「この須磨寺に取納め末世末代敦盛と、その名は朽ちぬ黄金札、武蔵坊が制札も、花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔。「さらば」「さらば」「おさらば」の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く。」

音曲としての浄瑠璃は三味線のシャンの音で音楽として終結します。これは歌舞伎の芝翫型でも同様で、舞台上のすべての人物の引っ張りの絵面で終結することにより、ドラマに区切りが付 きます。ところが団十郎型ではその前の文句を抜き出して、これを一番後ろへ持って行き、音楽的に未決着なものにしています。ここが団十郎型では幕外の直実の花道引っ込みの場面になります。

「十六年も一昔。ア夢であったなア」とほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日影に融ける風情なり。」

これは本当に驚くべき改変で、こういうことが誰でも簡単に出来るものではない、誰にでも許されるものでないことは明らかです。何よりも、このような処置を押し通すには、竹本連中はもちろん、共演の役者まで も説得せねばなりません。在来型で舞台上のすべての人物の引っ張りの絵面で終わるならば、共演の役者は気分良く芝居を勤められます。ところが団十郎型では「ハイみなさんご苦労さん」で幕が閉められて、後は幕外での団十郎の直実だけの芝居です。美味しいところはみんな団十郎が持っていって、他の役者は刺身のツマの扱いです。団十郎の指示を受けた役者たちが気分を害しただろうことは容易に想像が付きます。軍次役の三代目歌六は団十郎に反発して鎧姿(それが在来型での扮装でした)で舞台に出ると主張して、団十郎と大喧嘩になりました。そのような雰囲気のなか、直実の花道引っ込みを押し通したということだけで、当時の劇界での九代目団十郎の位置がどれほど強いものであったか察することが出来ます。

このように考えると、「陣屋」の団十郎型は、まさに演出と呼ぶべきものだったことが分かります。舞台のすべてが、登場人物も竹本も、ひとつの演出コンセプトのもと動くべしという、明確なものがここに見えます。団十郎型は明治という時代の関連がとても強いという理由のひとつが、ここです。これが演劇改良協会の演劇理念の影響であったと明確には言えませんが、明治20年代の団十郎が古典劇へ回帰するに当たり、演劇改良運動が団十郎に影響を与えないほうが不思議です。名優というものは、その時代に発し・その時代の空気に触発されて・その時代に生きるものです。だから「陣屋」の団十郎型を見ることは、明治の歌舞伎を感じることだということです。

ここが大事なところですが、歌舞伎の型の本には、○○郎は扇を左手で高く上げた・○○衛門は右手に持った・○○助にはまた別のやり方があって・・とか、そのような細かい手順が書いてあると思います。そういう手順も歌舞伎の型の一部には違いありません。多くの方が、そういうのを「型」と呼んでいます。しかし、それは正確に云うならば、型の手順です。大事なことは、○○郎が扇を左手で高く上げる形をするのは、その役(あるいは作品)のどのような意図に拠るのだろうかということです。それが八代目三津五郎の云う「型の心を考える」ということです。ということは、「型の心」というのは、歌舞伎の用語で言えば「役の性根」みたいなものになるでしょう。広義に云えば、その役(あるいは作品)の解釈ということになります。

残念ながら伝統芸能には、演出コンセプトという明確な概念が存在しません。しかし、演出というような明確な形ではないけれど、漠然とした形ならば、それは伝統芸能にもあったはずです。それは座頭格の役者のもと、みんなで力を合わせてひとつの舞台を協力して作り上げていく、共通のイメージとしてあったのです。だからその共通のイメージを背景にして、それぞれの役者の役者の工夫が集積されて来ました。それら工夫のそれぞれを我々は「型」と呼んだりします。しかし、正しく型の心を考えるならば、背景にある共通のイメージを読まなければなりません。

現代においては、我々は近代演劇理念のもと芝居を見るわけです。吉之助は演出コンセプトなんてものを歌舞伎に押し付けることは決してしませんが、吉之助は現代人ですから、作品や役の読み筋を理解しないで芝居を見ることは出来ません。そういう観点から歌舞伎の型を眺めれば、そのようなことを具体的に考えさせてくれる型は、決して多くはないようです。(型として駄目だということではなく、要するに小手先の工夫に過ぎないものは、作品全体・あるいは役全体の解釈に係わって来ないのです。)そのような漠然としたものから、作品や役の読み筋を掴まねばならぬわけです。まあそこが吉之助にとっての、伝統芸能を見る楽しみということでしょうか。それにしても、「陣屋」の団十郎型には演出コンセプトみたいなものが、かなりはっきりした形で見えるということは、とても興味深いことですね。(この稿つづく)

(H28・10・30)


4) 「陣屋」のふたつの読み方

「熊谷陣屋」には、大きく分けてふたつの読み方ができると思います。ひとつは、忠義という封建倫理からドラマを読むことです。無冠の太夫敦盛卿は院の御胤であるから、誰にとってもこれは守らねばならぬという前提がまずあります。 また直実夫婦には、敦盛の母北の方に恩義があります。このことを踏まえ、義経は「一枝を切らば、一指を切るべし」の制札を渡し、暗に直実に行動を指示します。忠義の名において直実が我が子を身替わりにせねばならない理由が三重に張り巡らされて、これをやり通さねば武士の忠義はないというところに直実は立たされています。読みようによっては、「陣屋」は 忠義賛美の芝居に読めます。

もうひとつは、我が子を犠牲にせねばならない直実の苦しみに焦点を当てた読み方です。身替りに対する湧き上がる疑問が、直実を出家に追い込みます。これを突き詰めると、忠義という封建倫理が、身替わりという非人間的行為を個人に強制する存在に見えてきます。現代には主従関係 ・滅私奉公という概念がありませんから、観客はこちらの読み方の方が共感しやすいでしょう。そうすると「陣屋」は忠義批判・封建思想の批判であるという見方になっていきます。義経は直実にわが子の身代わりを明確に命令することもせず、制札で暗示するだけで自ら手を汚すことく敦盛を救うという目的を完遂します。義経は計算高い冷徹な指導者であると書いてある劇評も、そんなところから出るものかと思います。

このふたつの読み方は、忠義という軸において相反していますが、このふたつの読み方は、もちろんどちらも間違いではありません。そのどちらの視点が欠けても「陣屋」の読み方になりませんが、どちらか片一方の読み方だけでは「陣屋」は正しい様相を呈さないのです。つまり、武士として忠義を貫こうとすれば親としての愛情を裏切る、親としての愛情を取るならば武士としての忠義を踏みにじることになるということです。ラカン流に言えば、ふたつの感情のなかで引き裂かれているということです。

ゲーテの「ファウスト」に「ああ私のなかにはふたつの魂が住んでいる」という台詞があるように、「引き裂かれる」とは、とても近代人的な・浪漫的な心理表現です。しかし、引き裂かれる感情の大事な点は、その二面性にあるのではありません。ファウストという人間がふたり居るのではない。ゲーテが言いたいことは、個人の感情がふたつの様相のなかで揺れ動き、決して分離することがないということです。つまり「陣屋」の場合で云えば、直実が忠義の方に動 くならば、なおさら親の感情に強く引っ張られ、反対に直実が親の情の方に傾くならば、今度は忠義の感情が強く疼き始めるということです。感情は常に揺れ動き、安定することは決してないのです。「陣屋」とは、そのようなドラマです。

大事なことは、「陣屋」のふたつの読み方を統合し、ひとりの人間のなかにどのように引き裂かれた直実の状況を現出させるかということです。相反するものに折り合いをつけて 矛盾しないように納めるということではありません。ひとりの人間のなかに揺れ動く感情を 強く封じ込めるということです。その配合の具合によって、忠義の色が濃い直実、肉親の情が強い直実など、いろいろな色合いの直実が出来ます。歌舞伎に出てくる悲劇はみなそのようなものです。作品に対して真摯に対するならば、当然、そのような型に仕上がると思います。

団十郎型は明治期の、個人の心情にスポットを当てた近代的人間理解の産物であるということは、先に書いた通りです。写実に重きを置いた団十郎型に、引き裂かれた直実の状況が見えることは、 これはスンナリ理解が行くと思います。しかし、それよりも昔の「陣屋」の型には、ここではその代表として芝翫型を挙げておくことにしますが、引き裂かれた状況がないので しょうか。決してそんなことはありません。いかにも大時代の、赤っ面に赤地錦の裃袴、黒ビロードの着付けといった直実の扮装は古色蒼然として、視覚的に封建思想 の権化が蘇ったような印象を受けるかも知れませんが、実はその背後に引き裂かれた状況が強く疼いていると見るべきです。むしろ仏心に浸り気味の気配のある団十郎型より、もしかしたら芝翫型の方が、直実の引き裂かれ度合いが強いのかも知れませんね。(この稿つづく)

(H28・11・4)


5)制札の見得の考察

ショパンの舟歌は吉之助の好きな曲のひとつですが、先日アルフレッド・コルトーの古い録音(1951年)を聴いていたら、ショパンが楽譜で強音(フォルテ)で指定している最終音を、コルトーが弱音(ピアノ)で弾いていたのに吃驚しました。しかもそれがとても素晴らしい効果を挙げていました。後で調べてみると、晩年にイギリスでショパンが舟歌を弾いた時にやはり最終音を弱音で弾いて聴衆に大きな感銘を与えた記録があることを知りました。恐らくコルトーの解釈は、この逸話を根拠にしていると思います。(興味がおありの方はコルトーの舟歌をここで聴いてみてください。)

ここで分かることは、フォルテとピアノという音の物理的な大きさが問題なのではなく、音の意味合いが大事だということです。それは曲全体との関係によるのです。関係性が意味を与えるのです。関係性が成立するならば、フォルテをピアノに変えても、強調という意味合いにおいて、それは同様の見事な効果を挙げることができるということです。ただし作曲者の指定を変えることは、演奏者が自分勝手に「俺はそのように感じるからこう変えた」と主張するだけでは駄目で、作曲者の意図を十二分に吟味したうえで、慎重の上にも慎重に行われなければならぬことです。実際、作曲者の指定を変えてそれと同等かそれ以上の効果を上げることができる場面は、非常に稀なものです。

同様に歌舞伎の場合でも、型を変えることは慎重に行われなければなりません。それは芸の怖さを知り尽くしている名優だけに許されるものです。しかし、そもそも名優というのは、従来型でも難なくできちゃうので、それで問題が生じないから、あまり型を変えることをしないものです。だから明治の劇聖・九代目団十郎が「陣屋」の型を変えたのは、そこに明治という時代を背景にした「やむにやまれぬものがあった」と捉えるべきです。

新・芝翫がインタビューで語っていることですが、昭和3 9年に2代目松緑が芝翫型の熊谷を演じて以来50年近く途絶えていたのを、平成15年2月新橋演舞場で芝翫(当時は橋之助)が復活させたわけですが、この時、芝翫は2代目松緑の遺した書き抜きを借りて、これを吉右衛門と一緒に読んで演技をしながら「ここはこうだろう、ここはこの方が良いだろう」と相談して手順を作ったとのことです。現代においては「陣屋」は団十郎型で演じられるのがほとんどですから、現在に芝翫型を演じることは、従来の型に戻す(復活する)と云うよりも、まったく新しい型を創造する感覚に似たものがあるかと思います。ただしまったく新たなところから作るのではなく、文献的な根拠があるわけだから、これは心強いことです。作業の過程で、吉右衛門も芝翫も、型の再創造というまことに貴重な体験をしたと思います。型は、文字で読んだだけでは分かりません。実際になぞって、やってみなければ分からないことです。

ところで「陣屋」の直実の制札の見得は、芝翫型は制札を上にして掲げ・団十郎型は下に持つという違いがあるわけですが、吉之助はもちろん舞台には立ちませんが、実際に 段取りをなぞってやってみると、形容は違えども型が表現するものは同じものに吉之助には思われるのですねえ。制札の見得の大事なところは、制札を身体に引き付けて構える・制札にすがる感覚で構えることです。制札を上にする・下にするというのはどちらでも良いことなのです。

ここに掲げる写真は、「形容の熊谷」と称された四代目芝翫の直実です。押し出しの立派さが納得できます。この写真は舞台写真ではなく、カメラマンの前でポーズを取った スチル写真ですが、制札を身体に引き付けて構えていることが確認できます。

何故制札を体に引き付けて構えるのかは、見得の形だけでは分かりません。義経が与えた「一枝を切らば、一指を切るべし」の制札の意味を直実をどう捉えて行動したかを考えなければなりません。義経の問いかけに対して、直実はわが子を敦盛の身替りにすることで答えました。この答えがいま出されようとしています。首実検で直実が、「敦盛卿は院の御胤。此花江南の所無は、即ち南面の嫩一枝をきらば一指を切るべし。花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」と言う通りです。直実には確信があります。しかし、それでも直実の心のなかに「自分の判断は正しかったのだろうか、これで良かったのだろうか」という不安・或は疑問がよぎ ります。首桶のなかの首を見て驚いた相模がすがって来ます。この場面での見得が表現するものは、「俺の行動の根拠はこれだ」という必死の思いです。直実の確信は、この制札にしかない。考えてみれば、まことに頼りない 根拠です。ですから直実はすがる思いで制札に構える、この答えが正しくなければ、直実の思いはすべて無に帰するからです。

芝翫型の制札の見得は飛脚が鋏箱を担いでいるみたいで恰好が悪いとか・形が不安定だと書いてある歌舞伎の型の本が少なくありません。しかし、制札にすがる感覚で構える ところに、直実の揺らぎそうな気持ちが表現されているわけだから、形は不安定なものになって当然ではないでしょうか。歌舞伎の見得の形は、ガラスケースに収まった五月人形 のポーズみたいに安定したものだと決めるつけるのは、大きな誤解です。そのような形は死んだ形です。カメラマンの前でポーズを取った四代目芝翫の写真で判断しても、型の心を想像できなければ、何にもなりませんね。

制札の見得の大事なポイントは、制札を身体に引き付けて構える・制札にすがる感覚で構えるということです。これは型の心を踏まえるならば、身体の動きから湧き出てくる内的な感情から自然とそうなるのです。制札を身体から離して持ったのでは、駄目です。例えば左手を横に突き出し制札を持つ。そうすれば飛脚が鋏箱を担いでいるようには見えないから、身体が正面に置けて、確かに形が良いかも知れませんが、描く「心」がまったく違って来ます。相模に対して「俺は制札が命じる通りにやったんだ、文句があるか」と頭から押さえ付ける感じになります。そこに直実の気持ちの揺らぎや疑問が感じられません。これでは完全に性根違いになってしまいます。このような直実が「陣屋」の主題を体現していないことは、論じるまでもないことです。

一方、団十郎型の制札の見得を見てみます。ここに掲げる写真は、昭和の代表的な直実役者であった初代吉右衛門です。(ただし、これもカメラマンの前でポーズを取ったスチル写真であることにご注意。)ここでも制札を身体に引き付けて構えていることが分かります。実際になぞってやってみると、結局、団十郎型でも制札を身体に引き付けて構える・すがるのが核心です。それが表現するものは、芝翫型とまったく同じで、直実の制札にすがる思いです。だから、これを制札を身体から離して持ったのでは、やはり性根違いです。

もうひとつ、制札の見得の大事なポイントを挙げておきます。見得をする時、直実はどこを睨むかということです。まず歌舞伎の見得についての十三代目仁左衛門の談話をご覧ください。

『目を剥いたとき一点をグッと睨むのですが、ただ客席に向かって無意味に睨むのではなく、そこにちゃんと理屈がなくてはいけません。目標があるわけですね。例えば「絵本太功記」十段目の光秀の初めの大見得のところ、「現われ出でたる武智光秀」のチョボにのって竹薮を踏み分けて出て、笠をあげて大見得をするところ、あそこはこの家のなかに真柴久吉がいるのだという心で・久吉に対して・舞台上手に対して見得をする心であって、正面切ってお客の方へ見得をするものではないんです。』(十三代目片岡仁左衛門談話・歌舞伎のアングル・季刊雑誌「歌舞伎」・第6号・昭和44年)

仁左衛門の言う通り、歌舞伎の見得は正面切ってお客の方へ見得をするものではなく、ちゃんと睨む目標があるのです。そこに理屈がある。目標がない見得はあり得ません。このことは、現在の歌舞伎を見ると、制札の見得に限らず、ほとんど守られていませんね。みなさん正面切ってお客の方へ気持ち良さそうに見得をしておられます。五月人形のような 安定したポーズをカッコ良く決めるのが見得なのではありません。

ところで上の初代吉右衛門の直実の写真ですが、視線 は花道の向こうの揚幕辺りを見ているようですが、これはカメラマンの前でポーズを取ったスチル写真(死んだ形)なのですから、これは参考に してはいけません。ほとんどの役者がこの形を真似してるようですけど、正しくないです。遺されている昭和25年・東京劇場での「陣屋」の記録映画(左の写真)をよく見てください。初代吉右衛門は視線を右下にいる相模に向けて睨んでいるでしょう。これが正しいのです。考えてみれば、これが当然ではないでしょうか。直実が一世一代の大勝負に出ようとしているところで、首を見た相模が取り乱して騒ぐ、これを押しとど めるのが、制札の見得ですが、その最中にも直実の心は揺らいでいます。直実の必死の思いは相模に向けられます。ここで失敗すれば、息子の犠牲が無に帰するからです。但し書きしておくと、これは直実が自分の信念の正しさを相模に押し付けているのではなく、直実の気持ちを共有してくれるのは女房である相模だけだからです。だから制札の見得は、相模に向けて見得するのが正しいのです。

ところで制札を上に向けても下に向けても同じならば、元々上向きだったものをどうして九代目団十郎は下向きに直したのか、その必然はどこにあるのか?ということが気になりますねえ。そこは吉之助も随分考えました。制札が逆さなのは、そこに制札への懐疑があるのかということを思ったりもしましたが、作品の主題を考えると、そこまでの懐疑はどうも考えにくい。制札の見得を何度なぞってみても、制札の向きの違いに意味はないと断じざるを得ません。吉之助の想像 するのは、九代目団十郎は、時代物の分野では当時最大のライバルであった四代目芝翫とまったく違った型を作り上げたかった、だから元々上向きだったものを下向きに変えてみたに過ぎなかったと思うのですが、もちろん九代目団十郎に根拠がなかったわけではありません。この場面で制札を下に向ける型が昔からあったのです。九代目団十郎はこの型の制札を下に向けるやり方を拝借したのだろうというのが、吉之助の推察です。

この写真は大正13年12月・京都での初代鴈治郎の直実。ご覧の通り、制札を逆さに構えていますが、三段に突かず、これは明らかに平舞台にいる相模から敦盛(=小次郎)の首を隠しているのです。相模の方を睨んで見得していることも確認できます。この形 は制札の見得のバリエーションとして昔からあったものです。

ちなみに熊谷の制札を使う見得を発明したのは三代目歌右衛門だと言われています。それ以前の歌舞伎の型では、首桶の蓋をあけて・二人の女性が「ヤアその首は」と駆け寄ってくると、熊谷は扇を開いて首を隠したのだそうです。したがって、制札を逆さに突くという形はもともと首を隠すという発想から来ていることは間違いありませんが、九代目団十郎はこの制札を下に向けるやり方を拝借して、自分の型に応用したというのが、吉之助の考えるところです。

もう一度確認をしておくと、制札を上にする・下にするというのはどちらでも良いことで、制札の見得において大事なことは、制札を身体に引き付けて構える・制札にすがる感覚で構えるということです。芝翫型でも団十郎型でもどちらも目指しているものは同じです 。気持ちが揺らいでしまう直実にとってこの制札が最後の拠り所だということです。(この稿つづく)

(H28・11・10)


6)芝翫型の熊谷

「陣屋」の団十郎型は明治という時代との関連がとても強いもので、「演出」と呼ぶべきものであったということは、先に書きました。もともと歌舞伎には演出というものがありませんでした。座頭の指揮の下、何となく同じ方向を以て役者たちが各自の工夫を持ち寄ってひとつの舞台を作り上げていく。昔は、そのような過程で集積された演技の段取りを「型」と呼んだのです。もちろんその裏付けとして型の心・つまり解釈がありました。しかし、明治になって近代演劇理念が入り込んでくると、どのようなコンセプトで作品や役を解釈するかということが前面に出てきます。まず解釈があって、その心理表出として演技があるという風に、関係が逆転してくるのです。それによって型の在り方も変わってきます。そのような新しい時代の歌舞伎の「型」の概念になるものが、「陣屋」の団十郎型なのです。(注:江戸期の型でも、三代目菊五郎の「六段目」の勘平・「鮓屋」の権太の型などは、演出の先駆けと云えるようなものです。)

団十郎型が演出であることが明確に出ているのは、「陣屋」を主人公直実の悲劇であると解釈し、直実の心情を写実に描くことに集中している点です。逆に、それ以外の要素、例えば青葉の笛・相模の嘆き・弥陀六の懊悩の件などは、省きはしないけれども印象が淡くなる、つまり筋のウェイトとしては軽くなります。すべてが直実の心情を描く方向で整理されています。贋阿弥は、団十郎型について、「陣屋」の山は物語りでも何でもなく、実は出と引っ込みにある、要するに「陣屋」は花道の芝居であるとまで言い切っています。ただし贋阿弥はこうも書いています。

『(幕切れの花道引っ込みで)成田屋の「夢だ夢だ」とクルクル頭を撫で廻す型は、熊谷自身の飄逸な趣に偏して「ほろりとこぼす」と下から出る弦のツボに落ちない。「十六年はひと昔」は小次郎を観じて無常に泣くのだが、団十郎は調子と云い形と云い、自己本位に出家を夢と観じているので、こう悟ってしまうと「柊に置く初雪の」でボロボロ泣くのが揺り返しめいて連続しない(中略)、団十郎はとかく悟り過ぎて困ると思った。』(杉贋阿弥:舞台観察手引草」)

まさにその辺が団十郎型の弱点となるでしょう。しかし、作品をひとつの視点で斬ろうとすれば当然取り落とすところもあるもので、それを恐れていては良い仕事はならぬものです。直実個人の心情に重点を置いて作品を解釈したところに、団十郎の近代的視点があるのです。

一方の芝翫型は、「陣屋」上演史の過程で集積された演技の段取りの集大成と見なされます。つまり演出という考えが入る以前の歌舞伎の「型」だと云えます。作品をひとつの視点から斬ろうとしたものではありません。だから部分部分で良いところがあっても、それがすべて同じ方向を向いているわけではなく、コンセプトとして一貫性が見えにくい。これは古典歌舞伎の型の大半が、そういうもので した。

例えば芝翫型での直実の化粧ですが、顔は薄肉と云うよりほとんど赤面に近くて、これに芝翫筋と呼ばれる疳筋を眉尻と目尻にかけて強く入れます。この化粧は、例えば今月(平成28年10月)歌舞伎座の昼の部での「公平法問諍」(「極付幡随長兵衛」の劇中劇)での 、つまり元禄期の坂田公平の荒事化粧とほとんど変わりないものです。だから如何にも古風で大時代的な様式美で、或る意味で歌舞伎らしい感覚になります。これは、要するに「源平盛衰記」にも「日本一の豪の者」と書かれた強者のイメージをまとったものです。あるいは情け容赦なく敦盛卿を討った無慈悲な男というネガティヴ・イメージを背負った赤面と言えるかも知れません。昔の歌舞伎は直実という役をモドリの感覚で読もうとしたのかも知れませんねえ。ただし「陣屋」を通して見ると、後半に僧形となった時に、この直実の赤面はかなり違和感があります。つまり「陣屋」のドラマを通してみた時に、この赤面はどうも据わりが悪くなる。(ちなみに吉之助は昨今の団十郎型の直実役者の化粧が赤味を濃くして、疳筋を強く引く傾向がありますが、ここに芝翫型の感覚が混じっていることを、別稿「熊谷陣屋における型の混交」で指摘しています。このような化粧を団十郎型でするのが間違いであることは、団十郎型が写実のコンセプトに立脚したものだということが理解すれば、すぐ分かることです。)

一方、今回の新・芝翫による「陣屋」を見ると、首実検を終えて・直実が相模に小次郎の首を手渡す場面が、とても興味深いものです。団十郎型だと首を盆に乗せたまま相模の方へ押し出しますが、芝翫型では直実が小次郎の首を頬ずりするような感じで抱きしめ、相模に直接手渡しをします。この場面は、直実の気持ちがよく表れて、その生々しく暖かい感覚にグッと来ますね。「形容の芝翫」と云うけれども、芝翫型が形容ばかりに頼っているわけでないことは、ここで分かります。この場面を今回の舞台の最大の収穫としたいと思いますが、ただし、この段取りに見えるのは写実の感覚で、そうなると如何にも歌舞伎らしい直実の赤面がやはり据わりが悪く見えてきます。要するに、芝翫型と呼ばれるものがバラバラな型の歴史的集積であることがいろんなところで露呈してくるわけです。

ちなみに、この直実が小次郎の首を直接相模に手渡す段取りは、これは団十郎型にあっても良い場面だと思う、感覚的にも写実のコンセプトに似合うだろうに、どうして九代目団十郎は採らなかったのかなあということを、吉之助はちょっと考えます。肚芸で何事も簡潔に処理しようとした当時の団十郎の芸風からすると、この段取りはややセンチメンタルに過ぎたのかも知れませんねえ。団十郎としては、直実の心情にひとり浸りたかったということでしょうか。(この稿つづく)

(H28・11・20)


7)陣屋の幕切れについて

贋阿弥は、団十郎型の「陣屋」の山は直実の出と引っ込みにある、要するに「陣屋」は花道の芝居であると言っています。幕切れの花道の憂い三重の引っ込みが団十郎型のすべてだと言っても良い ほどです。団十郎型のコンセプトは、「陣屋」を主人公直実の悲劇と解釈し、直実の心情を写実に描くことです。ここを逆に返せば、どのような「陣屋」の姿が現れるでしょうか。「陣屋」 床本を見ると、幕切れは以下の通りです。

『十六年も一昔。ア夢であったなア」とほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日影に融ける風情なり。「長居は無益」と弥陀六は、鎧櫃に連尺をかけた思案のしめくくり。「コレ コレコレ義経殿。もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」「ヲヽヲ、ヲヽホそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」「実にその時はこの熊谷。浮世を捨てて不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役」「ヲヽこの弥陀六は折を得て、又宗清と心の還俗」「われは心も墨染に、黒谷の法然を師と頼み教ヘをうけんいざさらば。君にも益々御安泰。お暇申す」と夫婦づれ、石屋は藤のお局を伴ひ出づる陣屋ののき。「御縁があらば」と女子同志「命があらば」と男同志「堅固で暮せ」の御上意に「ハヽハヽア」有がた涙名残りの涙。又思ひ出す小次郎が、首を手づから御大将。この須磨寺に取納め末世末代敦盛と、その名は朽ちぬ黄金札、武蔵坊が制札も、花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔。「さらば」「さらば」「おさらば」の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く。』

弥陀六の「コレ コレコレ義経殿・・」の詞章から「陣屋」がエンディングへ向かって段取りを始めていることは、読めばお分かりだと思います。大事なことは、「陣屋」は「一谷嫩軍記」の三段目切場ですから、「・・出でて行く。」で曲が完全に終結することです。次の場にオクリにしない(曲の最後の文句を引継ぎで次の場に残さない)のです。この形であると、幕外花道に直実がひとり立つ幕切れが取れないことが明らかです。そこで九代目団十郎は、詞章を入れ替えて、「十六年も一昔。ア夢であったなアとほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日影に融ける風情なり」を最後に持って行くことで、陣屋」を音楽的に未解決の形に意図的に壊しています。そして、憂い三重の引っ込みで余韻を残して芝居を終結させます。

これは交響曲の終結を、古典的な形式で云えば壮大なコーダで金管を高らかに鳴らして力強く締めるところです。例えばベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の第4楽章を思い起こせばよろしい。一方、それが後のロマン派になると、意表をついて木管で密やかに締めたりするのも出てきます。これは例えばブラームスの交響曲第3番の第4楽章を思い起こせばよろしい。これは余韻を残した形によって、古典的な形式感を意図的に壊しているわけです。これが憂い三重の引っ込みの役割です。

それでは憂い三重の引っ込みによって意図的に壊された「陣屋」の古典的な感覚とは何であろうかということが問題になってきます。舞台上に、義経を中心に上手に藤の方と弥陀六、下手に直実と相模・そして軍次がおり、壮大な六重唱によって歌い上げられるものは、「すみ所さへ定めなき有為転変の世の中や」という仏教の無常観です。こうすることで直実がわが子を犠牲にして出家したという虚構が、直実が無冠の太夫敦盛卿を討って出家したという歴史的事実に収斂されて、「平家物語」という大きな構図のなかに取り込まれて行きます。但し書きを付けますが、直実が出家したこと自体は史実ですが、原因は領地争いの裁判に負けて憤激したということにあって、敦盛を討って無常を感じたのが出家の原因ではなかったのです。しかし、「平家物語」を通して後世の日本人は花のような若武者を討って直実が無常を感じて出家したと信じました。だから、吉之助はこれを歴史的事実と云っています。「然り、これはこうでなければならない」という日本人の心の真実としてあるのです。

つまり九代目団十郎は、「すべては平家物語の世界に帰る」という古典的構図を崩してしまったのです。もう少し突っ込んで言えば、「平家物語」の背後にある無常観を体現する義経を頂点と した構図を壊したのです。だから(直実個人の心情に重きを置く)九代目団十郎のコンセプトを逆に返すならば、「陣屋」幕切れでの直実のウェイトが当然下がることになります。その代りウェイトが重くなるのが、弥陀六(弥平兵衛宗清)です。

その昔・平治の乱で父・義朝が敗北した時、頼朝や義経は平清盛によって処刑される寸前であったのですが、これを清盛に取り成して命を救ったのが、池禅尼と宗清でありました。その情けが巡り巡って、遂に平家に仇なすことになってしまいました。(一の谷の戦いはまだ源平合戦の途中ですが、ここでは既に平家が滅びる運命が定まったが如くに書かれていることに注目ください。)宗清はこのことを強く悔やんでいます。一方、義経は宗清に恩義を感じています。まさにすみ所さへ定めなき有為転変の世の有り様を体現するのが、宗清と義経の生涯なのです。義経が身替りによって命を助けられた敦盛の行く末を宗清に託したことは、直截的には義経が命を助けてもらった恩義を宗清に報いたということかも知れませんが、これは もっと深い意味があると考えるべきです。宗清と義経のこれまでの生涯に、温情があり憎しみがあり、その他諸々の生々しい感情が渦巻く果てに今現在の彼らがあるのです。 床本での三人を台詞を見てみます。

宗清「コレ コレコレ義経殿。もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」
義経「ヲヽヲ、ヲヽホそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」
直実「実にその時はこの熊谷。浮世を捨てて不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役」

つまり義経は宗清に敢えてもう一度同じ役割を与えたということです。敦盛が再び立ち上がり源氏を打ち滅ぼすような 事態が起こるのでしょうか。義経はそれを天に任せてみようと云うのです。もしそうなるならば、それが私に定められた運命なのだろう。この時、義経の脳裏に、自分が兄頼朝に疎まれて奥州に寂しく散る未来がよぎったかどうかは分かりません。しかし、義経の未来が明るいものではなかったことを、後世の観客は知っています。「有為転変の世の中や」という状況が、今度は義経を襲います。江戸の庶民の義経信仰(判官贔屓)は、ここから生まれるのです。一方、直実は回向者・いわば事実を語り伝える者としてその埒外に立ちます。三人の台詞には、このような平家物語の世界が裏打ちされています。

団十郎型の憂い三重の引っ込みでは、このような「平家物語」の 世界構図が背後に押しやられています。但し書きを付けますが、完全に消し去られているわけではありません。団十郎型の幕切れでも、これを余韻として感じさせる演技は可能だと思います。例えば記録映画に遺された昭和25年東京劇場での・初代吉右衛門の直実の演技 を参照してもらえば、そのことは分かると思います。(この稿つづく)

(H28・11・30)


8) 新・芝翫の直実

団十郎型の直実ひとりの花道引っ込みでは、「平家物語」の世界構図が背後に押しやられています。一方、登場人物が舞台に横一線に並ならんで引っ張りの形で終わる芝翫型では、直実ひとりが出過ぎることなく、全員で「花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中や」の詞章で芝居を収めることによって、「平家物語」の背後にある無常観を体現する義経を頂点と した構図で終わります。芝翫型であると、『・・お暇申すと夫婦づれ、石屋は藤のお局を伴ひ出づる陣屋ののき。「御縁があらば」と女子同志「命があらば」と男同志 (中略) 互ひに見合す顔と顔。「さらば」「さらば」「おさらば」の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く。』と床本詞章にあるように、弥陀六と藤の方が上手に・直実と相模が下手に立ち、それぞれがこれから新たな歩みを進めていくことが、よく分かります。

これはどちらの型が正しいかとか面白いかとか云う問題ではなく、「熊谷陣屋」から何を読み取り・何を描きたいのかという解釈の問題であると考えた方が良いです。団十郎は、「熊谷陣屋」を捻じ曲げたのではなく、近代的人間理解により直実ひとりに焦点を当てた新演出を提示したということなのです。ともあれ現行歌舞伎のデフォルトはあくまで団十郎型なのですから、吉之助は、芝翫型を反・団十郎型ということではなく、団十郎型の創意のベクトルをあぶり出すための批判型であると位置付けたいのです。吉之助は、今回(平成28年10月歌舞伎座)の八代目芝翫襲名披露での芝翫型での「熊谷陣屋」上演の意義は、そこにあると考えます。芝翫型の幕切れだと直実が全体のなかに埋もれてしまって、せっかくの襲名披露狂言なのに直実が目立ってこないという損なところが確かにありますが、視点を変えれば、これが「熊谷陣屋」のなかでの直実の元々の姿であったのだなあということが実感できます。それがこの目で確かめられることは有難いことです。これは新・芝翫に感謝せねばなりませんね。

新・芝翫の良いところは、時代物役者らしい形容の大きさです。見得も大きく、太い印象の直実ですが、惜しむらくは、どこもかしこもテンポが一様に伸びた感じがします。演技や台詞にもっとメリハリが欲しいと思います。確かに芝翫型は「人形味があって、いかにも古風」というところが売りかも知れませんが、現代人にも通用する真実味でアピールすることを考えないと、形容だけの芝居になりかねません。多分その取っ掛かりは女房相模の扱いにあるでしょう。首実検の後直実が相模に小次郎の首を手渡す場面が印象的であることは先に述べました。直実の相模に対する情愛の描写に更なる工夫ができるならば、芝翫型はもっと良いものにできると思います。

ところで芝翫型では直実と相模が下手に立ち「さらば」「おさらば」で幕になりますが、この後、黒谷の法然の元へ向かおうとする僧形の直実の後ろを女房姿の相模がノコノコ付いていく のを想像すると、確かに奇妙ではあります。団十郎型で直実が相模を置き去りにするのは、そんなところが理由かも知れません。それにしても相模はこれからどうするのでしょうか。このことは以前から気になっていたことですが、丸本(浄瑠璃原本)のなかに答えがありました。実は文楽の床本(現行上演台本)に抜けている詞章が、丸本にあったのです。

『十六年も一昔。ア夢であったなア」とほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日影に融ける風情なり。そうじやそうじや我が子の罪障消滅の加勢は是と切ったる黒髪、詞(ことば)はなくて御大将藤の局も諸共に、御涙にぞくれ給う。「長居は無益」と弥陀六は、鎧櫃に連尺をかけた思案のしめくくり。・・』(丸本詞章)

赤字で示した部分が床本で抜けている箇所です。読めばお分かりの通り、これは相模も髪を切って出家するということです。これならば相模は直実の後ろを付いて行けます。こうして夫婦はふたりして黒谷の法然の元へ向かうわけです。文楽でこの件がカットされたのは、多分、ドラマがエンディングに向かおうとしている流れに棹を差す感じがすることに理由があるのでしょう。しかし、作者(並木宗輔)は相模のことを忘れていたわけではなかったのです。やはり作者は作品をいい加減に書いていないのだということが、改めて分かります。別に吉之助は、新・芝翫にこの場面を入れろと言ってるわけではないのです。吉之助が言いたいことは、これから芝翫型を確たるものにする為には、工夫すべきところは直実の恋女房相模に対する心遣いですよということです。そここそ団十郎型の弱みなのですから。

(H28・12・20)


  (TOP)     (戻る)