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「一谷嫩軍記・三段目・熊谷陣屋」床本


「三段目・熊谷陣屋」床本分析

「制札の見得」を考える

幽霊の御講釈


時代物浄瑠璃は構造が複雑で読むほどに疑問が出てきます。この「熊谷陣屋」も通し狂言として見る場合と・見取り狂言として見る場合では見えてくるものが違ってきますが、本稿ではあくまで歌舞伎の見取り狂言「熊谷陣屋」を理解するためのガイドとして、床本を熊谷直実を中心に読んでいくことにします。

三段目の切場「熊谷陣屋」は、文楽ではふたつの場面に分れます。まず「熊谷桜の段」・次に「熊谷陣屋の段」です。


熊谷桜の段

この場面は歌舞伎の舞台では省かれますが、「熊谷陣屋」を理解するのに重要な部分を含んでいます。

まず女房・相模が陣屋へ到着する場面があることです。もとより陣屋は直実の居宅ではありません。それは戦場にある戦士の仮宿舎なのです。どうしてそこに東国武士の女房がいるのか、その不自然さが分からなければなりません。さらに藤の局の登場によって、藤の局と熊谷夫婦との関係が語られていることが非常に重要です。すなわちここで敦盛の身替りとして直実が我が子を斬ることの事情が知れるのです。

もうひとつは、梶原平次景高が直実の挙動に不審を抱き陣屋へ来ることです。これにより、後の場面での熊谷の物語り・義経の首実験は、すべて梶原の監視があることを意識して行なわれていることになるわけです。さらに梶原は敦盛の石塔を建てた弥陀六を引っ立てています。この石屋の親父が実は大変な人物であることが後で分かります。


1)冒頭部・制札の件

行く空も、いつかは冴えん須磨の月。平家は八島の浪に漂ひ、源氏は、花の盛りを見る中に勝れて熊谷が、陣所は須磨に一構へ、要害厳しき、逆茂木の中に若木の花盛り、八重九重も及びなき、それかあらぬか人毎に、熊谷桜といふぞかし。花折らせじとの制札を読んで行く人読めぬ人。一つどころに立集り、
「さても咲いたり咲いたり。花より見事なこの制札、弁慶殿の筆ぢゃげな。さっても見事ア一つも読めぬ」
「ヲヽあれはの、義経殿がこの花を惜み、一枝切らば指一本切るべしとの法度書」
「ヤア花の代りに指切ろとは、首切る下地ヲヽ怖はや。見てゐる中も虎の尾を踏む心地する皆ござれ」
と、花に嵐の臆病風ちりぢりにこそ別れ行く。

ここで「一枝切らば指一本切るべし」の制札の謎が観客に提示されます。この制札にどんな意味が隠されているかは今は分かりません。「熊谷陣屋」はこの制札の謎をめぐるドラマなのです。


2)女房相模の到着

はるばると、尋ねてこゝへ熊谷が妻の相模は子を思ひ夫を思ひの旅姿、陣屋の軒をこゝやかしこと尋ねしが、幕に覚えの家の紋。
「嬉しやこゝ」
と内に入る。折節家の子堤の軍次立出でて、
「これはこれは奥様か」
「ヲヽ軍次そなたも息災さうな。マアめでたいめでたい。熊谷殿や小次郎も変ることはないかの。早う逢はせてたも」
「ハイ旦那は今日御廟参。小次郎様は先頃より御前勤めで御下りなし。マアマア長の御旅路お疲れをお休め」
と、挨拶とり とりなるところへ、

直実が国元出立の時に、陣中へは便りも無用と言っておいたにも係わらず、女房相模は須磨の浦の陣屋をはるばる訪ねて来てしまいました。人知れず事を運ぼうとしている直実にとってはまずこれが予想外の出来事です。さらに予想外のことが起きます。敦盛の母・藤の局の登場です。


3)藤の局の登場・熊谷夫婦との関係

敦盛卿の御母藤の局虎口の難を遁れ来て、こけつ転びつ花の蔭、陣屋をめがけ走着き、
「跡より追手のかゝる者影を隠して給はれ」
と、険しき体に驚きて相模は傍へ走り寄り、見るに見かはす互ひの顔。「ヤアお前は藤のお局様ではないか」
「さういやるそなたは相模ぢゃないか。テモ久しやなつかしや」
「おゆかし様や」
と手を取って
「マアこなたヘ」
と伴ひ入る、親しき体に心を利かし軍次は勝手へ入りにけり。 相模はやがて手をつかへ、
「誠に一昔は夢と申すが、大内に御座遊ばす時、勤番の武士佐竹次郎殿と馴染め、御所を抜出で東へ下り、お前様のお身の上を承れば、御懐胎のお身ながら平家の御家門、参議経盛様方へ縁づき給ふとの噂、その折は世盛りの平家、御威勢は益々と蔭ながら悦びましたに、この度源平の戦ひ。御一門もちりぢりと聞くにつけ、アヽこの藤の方様はなんとなされたどう遊ばしたと、一人苦にしてをりましたに、マア御機嫌なお顔を見て、おめでたやお嬉しや」
「ヲヽそなたも無事でマア嬉しい。懐胎で出やった時の子は姫ごぜか男の子か。息災で育ってゐるか」
と、ちょっと寄っても女子同士(どし)問うつ問はれつ年月に、積る言の葉繰返し嬉し涙の種ぞかし。 藤の方涙ぐみ
「世の盛衰は是非もなや。その時産落したは無官の太夫敦盛とて、器量発明揃うた子を、こんどの軍に討死させ、夫は八島の波に漂ひ、我のみ残る憂き難儀浅ましの身の上」
とかこち給へば、
「お道理お道理。以前の御恩もあり、連合ひにも語りお身の片付後世の営み、お心任せに致しませう。以前は佐竹次郎と申して、北面同然の武士只今にては、武蔵国の住人私の党の籏頭、熊谷次郎直実と人も知った侍」と、聞くより御台は、「ヤアそなたの連合ひの佐竹次郎、今では熊谷次郎といふか」
「アイ」
「スリャアノ熊谷次郎はそなたの夫よな。ハア」
はっと吐胸の気をしづめ、
「なんと相模。以前大内にて不義顕はれ、佐竹次郎と諸共禁獄させよとの院宣。自が申宥め御所の御門を、夜の内に落してやったを覚えてか」「アッアその時の御恩、なんの忘れませうぞいな」
「ムヽその恩を忘れずば、助太刀してそちが夫熊谷を自に討たしてたも」
 「エヽイそりゃ又何のお恨みで」
「サア最前も話した院の御所のお胤、無官の太夫敦盛をそちが夫、熊谷が討ったわいの」
「エヽそりゃまあ誠でござりますか」
「ムヽスリャそなたは何にも知らぬか」
「サアはるばると東より、今来て今の物語、聞いて吐胸の誠しからず追付け夫が帰り次第、様子を尋ぬるその間暫くお控へ下され」
と、詞を尽し理を尽し、宥むる折に表より、
「梶原平次景高所用あって推参」
と、呼ばはる声。
「ヤアなに梶原とや、見付けられては御身の大事。まづまづこちヘ」
と御台の手を取り一間へ伴ひ入りにける。

藤の局と相模の会話は意外な展開を見せます。この二人の会話で分かることは以下の事実です。

熊谷次郎直実はその昔、佐竹次郎と名乗り宮中を守る武士でした。ところがそこで相模と恋仲になってしまったのです。これは禁中でのご法度でありました。まさに処罰されようという時に藤の局が助けてくれて、二人は東国へ下ることができたのでした。この時に相模は懐妊しており、この時に生まれた子供が小次郎です。

一方、藤の局は院の御胤を懐胎したまま平経盛へ嫁ぎそこで敦盛を産みました。つまり敦盛は天皇の子供であって特別な存在であることが観客に知れます。同時に敦盛と小次郎は同年であることも分かります。

観客は「須磨の浦で直実が討った敦盛は天皇の子であったか」とここでまず衝撃を受けることになります。このことが直実が我が子を敦盛の身替りに討つことの背景になっているわけです。


4)梶原の登場・弥陀六の登場

さらに事を複雑にする訪問者が相次ぎます。石屋の親父・弥陀六を引っ立てて登場する梶原平次景高です。

程もあらせず入来る梶原平次景高。我慢に募る横柄顔。挨拶もなく座に付けば、堤の軍次立出で、
今日は主人直実志あって廟参。御用あらば某に仰せ置かれ下され」と、地に鼻付くれば平次景高。
 「ナニ熊谷殿は他行とな。ソレ家来ども。その石屋の親仁め引立て来れ」
「ハッ」
と答へて科もなき白毫の弥陀六を、平次が前に引据ゆれば、
「ヤイなまくら親仁め、おのれ何者に頼まれ、敦盛が石塔は建てたやい。平家は残らず西海へぼっくだし、誂ゆべき相手なければ、察するところ源氏の二股武士が、頼みしに違ひはあるまい。サア真直に白状ひろげ、偽ると鉛の熱湯、脊骨を割って流し込む」
と、 脅しかけても正直一遍。
「テモさても御無理な御詮議。先程も申した通り石塔の誂人(あつらへて)は敦盛の幽霊。五輪のことはさておき一厘も手附は取らず、建つるとそのまゝ石塔の喰逃げ。せめて人魂でも手附に取ったら、小提灯の代りにいたしませうに、冥途へ書出はやられず、本のこれが損しゃう菩提。有りやうの申上げ願以此功徳施一切。かくの通りでござりまする」
と取じめなき、
「アヽ何おっしゃっても糠に釘」
と、軍次が詞に平次は悪智恵。
「大かた石塔を建てさせたわろも合点々々。熊谷戻らば三つ鉄輪(がなわ)の詮議。まづそやつめを引立て来れ」
と、一間へ入れば家来ども、石屋の親仁をむりやりに引立て、奥へ連れて行く。

梶原は悪役で、頼朝と義経兄弟の仲を裂こうと画策している人物です。梶原は弥陀六に敦盛の石塔を建てるのを頼んだのは誰なのかを不審に思っています。そして直実そして義経に二心(ふたごころ)があるのではないかと疑っているのです。弥陀六は石塔を頼んだのは敦盛の幽霊だなどと言ってしらばくれています。

梶原は奥へ引っ込みますが、舞台でこの後起こることはすべて梶原に聞かれているということを意識しておかねばなりません。


熊谷陣屋の段

1)直実の帰還

ここで熊谷直実の登場となります。 この熊谷の出の場面は、豊竹山城少掾が、もっとも精魂を打ち込んで語る場面であり「このマクラの一節さえ満足に語りこなせれば・それだけで十二分の成功です」と語っているほどの重要な詞章です。

先の軍次の科白から「直実は志あって廟参」と分かります。直実は須磨の浦で討った敦盛(じつは小次郎であるが)の墓に参った帰りなのです。

相模は障子押開き、
「日も早西に傾きしに夫の帰りの遅さよ」
と、待つ間程なく熊谷次郎直実。花の盛りの敦盛を討って無常を悟りしか、さすがに猛き武士も、物の哀れを今ぞ知る思ひを胸に立帰り、妻の相模を尻目にかけて座に直れば、軍次はやがて覆ひになり、
「先達て平次景高殿、何か詮議の筋ありとて御影の石屋を引連れ御出であり、奥の一間に御待ち」
と、委細を述ぶれば、
ムウ詮議とは何事ならん。アいやその方は一献を催し、梶原殿を饗(もてな)し申せ。サ早く行け早く行け。テサテ何を猶予する」
と、叱りちらされ是非なくも、相模に顔を見合して心を残し入りにけり。


2)相模との対話・藤の局との対面

首実検という「大仕事」を控えている直実にとって横に相模がいることは、厄介なことです。が、さらに熊谷の予想外の人物が横から飛び出してきます。それが藤の局です。熊谷にとっては大恩ある人です。一気に場面は緊迫します。

跡見送りて熊谷。
「コリヤ女房。その方はこゝへ何しに来たやい。国元出立の節、陣中へは便も無用と、堅く言付けおいたるに、詞を背くといひ、あまつさへ女の身で陣中へ来ること、不届至極の女め」
と、不興の体に相模はもぢ もぢ、
「そのお叱りを存じながら、どうかかうかと案じるは小次郎が初陣。一里いたら様子が知れうか、五里来たら便があろかと、七里歩み十里歩み、百里あまりの道をつい、都迄ムホヽヽヲヽしんき。上って聞けば一の谷とやらで今合戦の最中と、とり どりの噂ゆゑ子に引かされるは親の因果。御了簡なされ下さりませ。してマアこの小次郎は息災でをりますか」
と、 問へば熊谷詞を荒らげ、
「戦場へ赴くからは命はなきもの。堅固を尋ぬる未練な性根。もし討死したらわりゃ何とする
「いゝえいな。小次郎が初陣に、よき大将と引組んで、討死でも致したら、マ嬉しいことでござんしょ」
と夫の心に随ひし、健気な詞に顔色直し、
「ホヽ先づ小次郎が手柄といっぱ、平山の武者所と争ひ抜駆けの高名。軍門に駆入っての働き、手疵少々負うたれども末代までの家の誉」
「エヽしてその手疵は急所ではござりませぬか」
「ソヽヽソレソレまだ手疵を悔む顔付。ガもし急所なら悲しいか」
「イヽエなんのいな。かすり疵でも負ふほどの働きは、でかしたと思うて嬉しさのあまりお尋ね。その時お前も小次郎と、一緒にお出でなされたか」
「ホヽ危しと見るより軍門に駆入り、小次郎をむりに引立て小脇にひんだき、わが陣屋へ連れ帰り 某はその軍に搦手の大将、無官の太夫敦盛の首討ったり」
と、話にさてはと驚く相模。後に聞きゐる御台所わが子の敵と在りあふ刀。
「熊谷やらぬ」
と抜くところ鐺(こじり)掴んで、
「ヤア敵呼ばはり何奴」
と、引寄する。女房取付き、
「アヽコレこれ聊爾なされな。あなたは藤のお局様」
と聞いて直実びっくりし、
「ハヽヽヽハヽアコハコハ思ひがけなき御対面」
と飛退き、敬ひ奉れば、
「コリャ熊谷。軍の習ひとはいひながら、年はも行かぬ若武者をようむごたらしう首討ったなア。サア約束ぢゃ相模。助太刀して夫を討たせ。サなんと なんと」
と刀追取りせり付け給へば、
「アイあい」
あいと返事も胸に迫りながら、
「エヽこれ直実殿。敦盛様は院のお胤と知りながら、どう心得て討たしゃんした。様子があらうその訳を」
と、いふも 切なきうろうろ涙。


3)直実の物語り

大事の首実検を前にして、直実はともかくも目の前のふたり(藤の局と相模)を得心させねばなりません。そこで直実は須磨の浦での戦のありさまを語って聞かせます。

「ヤア愚か愚か。この度の戦ひ敵と目ざすは平家の一門。敦盛はさて置き、誰彼と鎬(しのぎ)を削るに用捨がならうか。イヤナウ藤の御方。戦場の儀は是非なしと御諦め下さるべし。が、その日の軍の概略(あらまし)と敦盛卿を討ったる次第、物語らん」と座を構へ
「さても去んぬる六日の夜、早東雲と明くる頃一二を争ひ抜駆けの、平山熊谷討取れと、切って出でたる平家の軍勢。中に一際勝れし緋縅。さしもの平山あしらひ兼ね浜辺をさして逃出す。ハテ健気なる若武者や、逃ぐる敵に目なかけそ。熊谷これに控へたり。返せ、戻せ。ヲヽイ、おいと、扇を持って打招けば、駒の頭を立直し、波の打物二打三打。いでや組まんと馬上ながらむんずと組み、両馬が間にどうど落つ」
「ヤアヤハなんとその若武者を組敷いてか」
「されば御顔をよく見奉れば、鉄漿(かね)黒々と細眉に年はいざよふわが子の年ばい。定めて二親ましまさん。その御歎きはいかばかりと、子を持ったる身の思ひのあまり、上帯取って引立て塵打払ひ早落ち給ヘ」「と勧めさしゃんしたか。そんなら討奉る心ではなかったの」
「ヲヽサ早落ち給へと勧むれど、アイヤ一旦敵に組敷かれなに面目に存へん。早首取れよ熊谷」
「ナニ首取れというたかいの、 ヲヲマ健気なことをいうたなう」
「サウその仰せにいとゞなほ、涙は胸にせき上げし、まっこの通りにわが子の小次郎、敵に組まれて命や捨てん。浅ましきは武士の習ひと太刀も、抜兼ねしに、逃去ったる平山が、後の山より声高く熊谷こそ敦盛を組敷きながら助くるは二心に極りしと呼ばはる声々。ハヽア是非もなき次第かな。仰せ置かるゝことあらば言伝へ参らせんと申上ぐれば、御涙をうかめ給ひ父は波濤へ赴き給ひ、心に 掛かるは母人の御事。昨日に変る雲井の空定めなき世の中をいかゞ過ぎ行き給ふらん未来の、迷ひこれ一つ熊谷頼むの御一言。是非に及ばず御首を」
と、話す中より藤の局。
「ナウさ程母をば思ふなら経盛殿の詞に就き、なぜ都へは身を隠さず、一の谷へは向ひしぞ。健気によろうたその時は、母も倶々悦んで、勧めてやりし可愛やな」
覚悟の上も今更に、胸も迫りて悲しやとくどき、歎かせ給ふにぞ、御尤とは思へども、
「イヤ申しお局様。御一門残らず八島の浦へ落行き給ふ、中に一人踏留まり、討死なされた敦盛様数万騎に勝れた高名。たゞし逃げのび身を隠し、人の笑ひを受け給ふが、お前の気ではお嬉しいか御未練な御卑怯な」
と諫めに熊谷
「ヲヽでかしたでかした。 コリャ女房。御台所この所に御座あってはおためにならぬ。片時も早くいづ方へも御伴せよ。サヽ早く行け早く行け。我も敦盛の御首実検に供へん。ヤアヤア、軍次はをらぬか早参れ」
と、呼ばはる声と諸共に一間へ、 こそは入相の、鐘は無常の、時を打つ。


4)青葉の笛

直実は首実験の用意のために奥へ引っ込み、後に藤の局と相模が残ります。藤の方は、我が子敦盛の形見の青葉の笛を取り出して吹きますと、不思議や敦盛の影が障子に映ります。

陣屋々々の灯火にいとゞ、悲しさ藤の方。
「アヽ思ひ出せば不憫やなア。今はの際までも肌身放さず持ったるはコレ、この青葉の笛。われとわが身の石塔を建てゝ貰うた価にと、渡し置いたこの笛のわが手に入りしも親子の縁。魂魄この世にあるならばなぜ母には見(まみ)えぬぞ。聞えぬわが子やなつかしのこの笛や」
と、肌に付け身に添へて尽きせぬ、思ひやるせなき。
「コレ申しその笛がよい形見。経陀羅尼より笛の音を手向けるが、直ぐに追善。敦盛様のお声をば聞くと思うて遊ばせ」
と、すゝめに随ひ藤の方涙にしめす、歌口も、震うて音をぞ、すましける。 親子の縁の、絆にや、障子に映るかげろふの姿はたしか敦盛卿。藤の局は一目見るより、
「ヤレなつかしのわが子や」
かけ寄り給ふを相模は抱留め
「香の煙に姿を顕はし、実方は死して再び都へりしも、一念のなす所。あるまい事にはあらねども、訝しき障子の影。殊に親子は一世と申せば。御対面遊ばさば御姿は消失せん」
「イヤなう四十九日が其間魂中有(ちゅうう)に迷ふと聞く。せめては逢うて一言」
と振放し障子ぐわらりと明け給へば、姿は見えず緋縅の鎧ばかりぞ残りける。
『はっ』
と計りに藤の方、相模も倶に取付いて
「扨は鎧の影なるか。恋しと迷ふ心からお姿と見えけるか」
と倶にこがれて正体も泣きくどくこそ哀れなれ。

この「青葉の笛」の場面はダレ場になりやすくてなかなか難しいところです。岡本綺堂は「太夫に休息を与えるために宗輔はこんなダレ場を書いたのだろう」と皮肉を書いていますが、それはないでしょう。

まず弥陀六が敦盛の石塔を立てたのは「敦盛の幽霊に頼まれた」と言っていますから、これを生かしたのでありましょう。さらに、この場面ではまだ観客は直実の討ったのは敦盛だと思っていますから、有名な「青葉の笛」と幽霊の話を絡ませて、次の首実検への 観客の興味をそそる目的であったでしょう。

いずれにせよ、ここで障子に敦盛の影が映ったのは、後で考えて見れば、母親の吹く笛の音に敦盛が思わず飛び出してしまったということなのです。


5)敦盛の首実検・相模の嘆き

ここから「熊谷陣屋」のクライマックスの首実検です。

時刻移ると次郎直実、首桶携へ立出づれば、相模は夫の袂を扣へ
「コレ申し是が親子御一生のお別れ。せめて御首になりとも。御暇乞」
と願ふにぞ、藤の局も涙ながら
「ナウ熊谷。そちも子のある身でないか。野山の猛き獣さへ子と悲しまぬはなき物を。親の思ひを弁へて情に一目見せてたも」
と、縋り歎かせ給へども、
「イヤ実検に供へぬ中内見は叶はぬ」
とはね退け突退け行くところに、
「ヤア熊谷暫し 暫し。敦盛の首持参に及ばず、義経これにて見ようずるわ」
と、一間をさっと押開き立出で給ふ御大将。はっと次郎直実。思ひ寄らねば女房も、藤の局も諸共に呆れながらに平伏す。 義経席に着き給ひ、「ヤア直実首実検延引 といひ、軍中にて暇を願ふ汝が心底いぶかしく密かに来りて最前より、始終の様子は奥にて聞く。急ぎ敦盛の首実検 せん
と、 仰せを聞くより熊谷は
「はっ」
と答へ走り出で、若木の桜に立て置きし制札引抜き恐れげなく義経の御前に差置き
「先(さい)つ頃堀川の御所にて、六弥太には忠度の陣所へ向へと花に短冊。又この熊谷には敦盛の首取れよとて、弁慶執筆(しゅひつ)のこの制札。則ち札の面の如く御諚に任せ、敦盛の首討ったり。御実検下さるべし」
と、蓋を取れば「ヤアその首は」とかけ寄る女房。引寄せて息の根とめ、御台はわが子と心も空、立寄り給へば首を覆ひ、
「アヽコレ申し、実検に供へし後は、お目にかけるこの首。イヤサコレお騒ぎあるな」
と熊谷が諌めにさすがはしたなう、寄るも寄られず悲しさのちゞに砕くる物思ひ。 次郎直実謹んで、
「敦盛卿は院の御胤。此花江南の所無は、即ち南面の嫩一枝をきらば一指を切るべし。花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」
と言上す。 義経欣然と実検ましまし、
「ホヽヲ花を惜む義経が心を察し、アよくも討ったりな。敦盛に紛れなきその首。ソレ由縁の人もあるべし。見せて名残りを惜ませよ」
と、 仰せを聞くより
「コリャ女房。敦盛の御首、ソレ藤の方へお目にかけよ」
「ム、アイ」
あいとばかり女房は、あへなき首を手に取上げ、見るも、涙にふさがりて、変るわが子の死顔に、胸はせき上げ身はふるはれ、持ったる首のゆるぐのを、うなづくやうに思はれて、門出の時に振返りにっと笑うた面ざしが、あると思へば可愛さ不憫さ声さへ喉に、つまらせて、
「申し藤の方様。お歎きあった敦盛様のこの首」
「ヒャアこれは」
「サイナア申し。これよう御覧遊ばして、お恨み晴らしてよい首ぢゃと、褒めておやりなされて下さりませ。申しこの首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様。その時お前も御懐胎。誕生ありしその子が無官の太夫様。両方ながらお腹に持ち国を隔てゝ十六年。音信不通の主従がお役に立つたも因縁かや。せめて最期は潔う死になされたか」
と、怨めしげに、問へど夫は瞬きも、せん方涙御前を恐れ、よそにいひなす詞さへ、泣音血を吐く思ひなり。


6)義経・弥陀六との対面

真相を知った梶原が鎌倉へ注進と駆け出すところを、弥陀六が石鑿(ノミ)を投げて梶原を殺します。この弥陀六が実は、かって幼い頼朝・義経ら兄弟を助けた弥平兵衛宗清であったのです。義経はこれを見抜いて宗清に声を掛けます。しかし、宗清は自分の助けた頼朝兄弟が平家をまさに没落寸前に追い込んだことを悔やみ嘆いています。

折節風に誘はれて耳を突抜く法螺貝の音。喧(かまび)すく聞ゆれば、義経は勇み立ち
「ヤア ヤア熊谷。着到知せの法螺の音、出陣の用意々々」
と、仰せに直実畏り急ぎ一間に入りにけり。最前より様子を聞きゐる梶原平次一間の内より躍り出で、
かくあらんと思ひしゆゑ。石屋めを詮議に事よせ窺ふところ、義経熊谷心を合せ敦盛を助けし段々。鎌倉へ注進
と言捨てかけ出す後より、はっしと打ったる手裏剣は骨を貫く鋼鉄(はがね)の石鑿。うんとばかりに息絶ゆる。
「スハ何者」
といふ中に、立出づる石屋の親仁。
「ハヽアお前の邪魔になる、こっぱを捨てゝ上げましたわい。さて制札の御講釈。承ってまづ安堵。もうお暇」
と立行くを
「ヤア待て親仁。コリャ弥平兵衛宗清待て」
と義経の詞にびっくり。はっと思へどそらさぬ顔。
「ハレやれとつけもない。御影の里に隠れのない白毫の弥陀六といふ男でえす」
「テヘヽ。誠や諺にも、至って憎いと悲しいと嬉しいとのこの三つは、人間一生忘れずといふ。その昔母常盤の懐に抱かれ、伏見の里にて雪に凍えしを、汝が情を以て親子四人が助かりし嬉しさ。その時はわれ三歳(さんざい)なれども面影は目先に残り見覚えある眉間の黒子(ほくろ)ナコリャ、隠しても隠されまじ。重盛卒去の後は行方知れずと聞きしが、ハテ堅固でいたな満足や」
と、 聞くより弥陀六つか つかと立寄り、義経の顔穴の明くほど打眺め、
「テモ恐ろしい眼力ぢゃよなア。老子は生れながらに聡く、荘子は三つにして人相を知ると聞きしが、かく弥平兵衛宗清と見られし上は、チエ、義経殿。その時こなたを見遁さずんば、今平家の楯籠る鉄拐が峰鵯越を攻落す大将はサあるまいもの又池殿といひ合せ頼朝を助けずば平家は今に栄えんもの。エヽ宗清が一生の不覚。これにつけても小松殿御臨終の折から、平家の運命末危うし。汝武門を遁れ身を隠し、一門の跡弔へと、唐土(もろこし)育王山(いおうざん)へ祠堂金と偽り、三千両の黄金と、忘れ形見の姫君一人預り、御影の里へ身退き、平家一門先立ち給ふ御方々の石碑。播州一国那智高野、近国他国に建置きし施主の知れぬ石塔は、皆これ弥平兵衛宗清が、涙の種とサ御存じ知らずや、今度敦盛の石塔誂へに見えし時も、御幼少にてお別れ申せしゆゑ、御顔は見覚えねども、心得ぬ風俗は、ヒャ世を忍ぶ御公達ならんと思ふより、心よく受合ひしがさては命に代りし小次郎が菩提のため、この浜の石塔は敦盛の志にてありけるか。ヘッエ、いかに天命帰すればとて、わが助けし頼朝義経この両人の軍配にて、平家一門御公達一時に亡ぶるとは、チエヽ、是非もなき運命やな。平家のために獅子身中の虫とはわが事。さぞ御一門陪臣の魂魄。我を恨みん浅ましや」
と、ある いは悔み、あるいは怒り涙は、滝を、争ヘり。 もとより聡き大将義経。
「ヤア ヤア熊谷。障子の内の鎧櫃。ソレこなたへ」
「はっ」
と答へて次郎直実。出陣の出立と好むところの大荒目鍬形の兜を着し、抱へ出でたる鎧櫃。御目通りに直し置く。
「コリャ親仁。その方が大切に育つる娘へ、この鎧櫃届けてくれよ。コリャ弥陀六」
「ヤア弥陀六とは、ムフウ宗清なれば平家の余類源氏の大将が頼むべき筋は、ムヽムヽヽヽヽヤ面白い。弥陀六頼まれて、進ぜましょわい。したが娘へは不相応な下され物。マア内は何でござります。改めて見ませう」
と蓋押し明くれば敦盛卿。
「ナウなつかしや」
と藤の方。かけ寄り給ヘば蓋ぴっしゃり。
「アヽイヤ イヤイヤこの内には何にもない何にもない。ヲヽマ何にもないぞ。ハアこれでちっと虫が納った。イヤナウ直実。貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」


7)直実の出家

義経の掛けた制札の謎を解き、我が子小次郎を敦盛の身替りに立てた直実は、この世の無常を悟り出家を決意します。

といふに相模は夫に向ひ、
わが子の死んだも忠義と聞けばもう諦めてゐながらも、源平と別れし なか、どうしてまあ敦盛様と小次郎と取換へやうが」「ハテ最前も話した通り、手負と偽り、無理に小脇にひんばさみ連帰ったが敦盛卿。又平山を追駆け出でたを呼返して、首討ったのが小次郎さ。知れた事を」
と鋭なる、 話に相模はむせび入り、
「エヽ胴慾な熊谷殿。こなた一人の子かいなう。逢 おう逢おうと楽んで百里二百里来たものを、とっくりと訳もいはず首討ったのが小次郎さ。知れた事をと没義道(もぎだう)に、叱るばかりが手柄でもござんすまい」
と声を上げ泣き、くどくこそ道理なれ。心を汲んで御大将勇みを付けんと「ヤア ヤア熊谷。西国出陣時移る用意いかに」
と仰せに直実。
ハヽ恐れながら先達て願ひ上げし暇の一件、かくの通り」
と兜を取れば、切払うたる有髪の僧
義経も感心あり、
「 ホヽさもありなん。それ武士の高名誉を望むも子孫に伝へん家の面目。その伝ふべき子を先立て軍に立たん望みは、ホウ もっとも。
コリャ熊谷願ひに任せ暇を得さするぞよ。汝堅固に出家をとげ、父義朝や、母常盤の回向も頼む」と親しき御諚。
「ハヽア有難し」
と立上り、上帯を引っぽどき鎧をぬげば、袈裟白無垢相模これはと取付くを、
「ヤアなに驚く女房。大将の御情にて、軍(いくさ)半ばに願ひの通り、御暇を賜りしわが本懐。熊谷が向ふは西方弥陀の国。倅小次郎が抜駆けしたる九品蓮台。一つ蓮の縁を結び、今よりわが名も蓮生と改めん。一念弥陀仏即滅無量罪。十六年も一昔。ア夢であったなア」
とほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日影に融ける風情なり。
「長居は無益」
と弥陀六は、鎧櫃に連尺をかけた思案のしめくゝり。
「コレ コレコレ義経殿。もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」
「ヲヽヲ、ヲヽホそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」
「実にその時はこの熊谷。浮世を捨て て不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役」
「ヲヽこの弥陀六は折を得て、又宗清と心の還俗」
「われは心も墨染に、黒谷の法然を師と頼み教ヘをうけんいざさらば。君にも益々御安泰。お暇申す」と夫婦づれ、石屋は藤のお局を伴ひ出づる陣屋ののき。「御縁があらば」と女子同志「命があらば」と男同志
「堅固で暮せ」の御上意に
「ハヽハヽア」
有がた涙名残りの涙。又思ひ出す小次郎が、首を手づから御大将。
この須磨寺に取納め末世末代敦盛と、その名は朽ちぬ黄金札、武蔵坊が制札も、花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔。
「さらば」
「さらば」
「おさらば」
の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く。

熊谷直実が花のような美しい若武者平敦盛を討ち取って無常を悟って出家したという挿話は日本人の心のなかに長く生きてきました。その「平家物語」の有名な挿話そのままに、作者並木宗輔の仕掛けた壮大な虚構(偽史)は正史のなかに収攬されていくのです。


 

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