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「熊谷陣屋」における時代の表現〜時代と世話を考える・その3

〜「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」


○今回の題材は「熊谷陣屋」です。「陣屋」は代表的な時代物ですね。

「歌舞伎素人講釈」では熊谷直実に焦点を合わせた分析を何度か行ってきました。これは現行の九代目団十郎型の「陣屋」が直実中心に組み立てられている以上当然のことですが、「陣屋」が時代物たる要素はむしろ直実の周囲の人物たちを考えていくとよく分かってくると思います。ところで「陣屋」の直実の性根はどんなところにあると思いますか。

○やはり我が子小次郎を敦盛の身替わりに立て・斬らざるを得なかったことの苦悩・哀しみということでしょうかね。

その点は大事なことですね。子を失った親の苦悩・この世の無常ということがありますね。これは古今東西誰にでも理解できる心情ですから、我が子を失って泣く直実に感動しない観客はいませんね。逆に言いますと、 観客としても感情移入がし易いということでもあります。このことを更に考えてみると直実の心情をじっくりと突き詰めて・観客に対して訴えかけようとしていくと、直実という役はだんだん実事(じつごと)に近くなっていくということでもあります。直実は表現ベクトルとして等身大の表現を志向して・時代から離れて リアルに向かおうとする要素を内在している役なのです。

○熊谷直実は典型的な時代の役柄だと思いますが、時代から離れていこうとする要素を持っているのですか。

このことは映画に遺された初代吉右衛門の見事な直実の舞台(昭和25年)を見れば実感できると思いますよ。九代目団十郎型を突き詰めれば突き詰めるほど、表現は写実に・実事に近くならざるを得ません。その心情をリアルに生き生きと表現するためには芝翫筋の隈取りは薄くなっていき、大仰な時代の動きは可能な限り抑制されなければならないのです。杉贋阿弥は九代目団十郎の幕切れ花道での熊谷について「調子といい形といい、自己本位に出家を夢と観じているので・・・団十郎はとかく悟りすぎて困ると思った」と評していますが、これが良くも悪くも九代目団十郎型の直実に内在する傾向だと言うことです。

○直実は実事の役であるということですか。

九代目団十郎型を検討する場合には、直実は大時代の役柄でありながら・つねに実事を志向すると考える必要があると思います。直実の角々の時代のアクセント、例えば物語りでの見得であるとか・制札の見得などのことですが、それらは直実を時代の方向へ引き戻そうとするものなのです。直実という役が時代の本領を思い返す場面であると言うことも出来ますね。

○つまり直実の周囲の人物たちは直実を時代へ引き戻す者たちなのですね。

その通りです。本当は直実は我が子を身替わりにした哀しみにひとりで浸っていたいのです。義経への首実検さえ済ませればすべてが終わる ・そこまでひとりで静かにさせて欲しいというのが直実の本心です。ところが、藤の方や相模や梶原など・いろんな予想外の人たちが次々に出てきて・あの時のこと(つまり小次郎を斬ったこと)を直実に思い出させるのです。そのつらい局面が直実の引き裂かれた時代の表現となって現われると、そう考えれば良いと思いますね。

○例えば直実が陣屋に帰還して・関東にいるはずの相模の姿を認めた時ですね。

妻の相模を尻目にかけて座に直れば」の場面の演技です。「陣中へは便りも無用」と言っていたのですから、陣屋まで来てしまった女房を直実は叱り付けてもいいはずです。しかし、直実にはそれができないのです。女房への憐憫の情がこみ上げて来て、思わず直実は思わず「尻目にかけて」しまうということになります。ここで時代がチラリと現われます。

○あるいは藤の方が直実に切り掛かる場面ですか。

「ハハ、アコハコハ思ひがけなき御対面と飛退き、敬ひ奉れば」の場面の演技です。歌舞伎のこの場面は三味線のリズムに乗って・人形味のある演技を見せるわけですが、まさに藤の方は直実夫婦にとって恩義ある人であり・ドラマのすべては十六年前の藤の方との関係から始まっているのですね。そう考えればこの場面に直実の糸に乗った演技はただ義太夫狂言らしい面白さを見せるということだけではないのです。実事からかけ離れた様式の演技・つまり写実でないところの不自然な演技を見せることの意味が分ってくると思います。

○それは直実に「あの時のこと」を思い出させるのですね。

その通りです。その時に我が子小次郎を斬った時の記憶がよぎる。こうして直実は本領である時代物の方向に引き戻されるのです。つまり、実事に向かおうとする表現と時代に向かおうとする表現というふたつの方向に直実は引き裂かれるということです。

○ふたつの表現に引き裂かれると言うことは直実にとってどういう意味があるのでしょうか。

このように考えれば良いと思います。直実は「十六年は夢だ」と自己本位に詠嘆して・感傷に浸っていたいのだけれど、それは許されないということです。なぜならば親である直実自身が我が子を身替わりに斬ったのですから。直実はその責任を取らねばならないのです。だから直実自身としては感傷に浸りたいのだけれど、そのことを直実のなかで常に思い返さざるを得ないように芝居が仕組まれているのです。

○その最初のクライマックスが直実の物語りなのですね。

直実の物語りは二重の意味で引き裂かれています。ひとつには、普通の物語りというのは本当にあったことを回想し語るわけですが、直実の場合は嘘の物語りなのです。つまり、藤の方を前にして・須磨の浦で敦盛を斬った情景を説明するという物語りですが、実は斬ったのは我が子なのです。更に奥では義経・梶原が直実の話にそれぞれ耳を澄ませているので・これに聞かせるという状況もあります。そして、横で聞いて同情の涙を流している相模に対しては嘘を言って済まないという気持ちがありますね。もうひとつは観客に対して「須磨の浦」の場面をリフレイン(繰り返す)するということです。これは二段目「須磨の浦」での出来事を観客に思い出してもらうということですが、一番大事なことはこの芝居の根本にある「平家物語」の世界を再確認するということだろうと思いますね。

○ここで「平家物語」の世界を再確認するということはどういう意味があるでしょうか。

並木宗輔の仕掛けた「陣屋」の虚構(トリック)は「須磨の浦で直実の斬ったのは敦盛ではなく・我が子小次郎であった」というものです。これは正史をひっくり返す大胆な設定です。しかし、宗輔の目的は「平家物語」の逸話をひっくり返そう・あるいはパロディにしようということではないのです。むしろ、その逆です。「平家物語」の伝えるところの直実・敦盛の逸話の真実を科学的に解き明かし、これを強化しようというものです。これは江戸時代の人々の歴史推理(ミステリー)の楽しみなのです 。

○「陣屋」の最後で直実は出家して「平家物語」の伝えるところと合致するわけですね。

首実検で・その首は敦盛のものと義経に認められた・直実は出家したということで,「陣屋」の結論は「平家物語」の伝えることと完全に合致するのです。つまり、須磨の浦で直実の斬ったのはやはり敦盛であったことにな ります。直実が出家したのも花のような若武者敦盛を斬って無常を悟ったからだと言うことになるのです。それは表向きだけのことだと仰るかも知れませんが、それが芝居の結論として認識されるべき事柄です。ということは、ドラマのなかではいろいろ紆余曲折あったけれども、最終的に「平家物語」の伝えることはすべて肯定されて、すべては「平家物語」のなかに絡め取られてしまうということなのですね。

○直実の物語りは「平家物語」の大前提を再確認するものだということですね。

物語りは直実がこれから向かおうとする結論を示唆するものです。これは何者にも覆されてはならない真実として在るのです。だから、その真実はこの直実が・我が子を犠牲にしてでも守ってみせるということです。「陣屋」とはそういう芝居であると考えれば良いと思います。

○物語りはいかにも義太夫狂言らしい派手さと面白さがある場面ですね。

これはこじつけに聞こえるかも知れませんが・まさに結果論ですが、歌舞伎の義太夫狂言において・生身の役者が音楽に合わせて・人形の真似をしてぎこちなく機械的に動いてみせるという・そんな不自然な奇異なことをしてまで も・歌舞伎は人形浄瑠璃の骨格をなぜ残さねばならなかったのかということを考えなければならないということです。歌舞伎の直実の物語りはそのことを考える好材料なのですね。 逆にそこから義太夫(人形浄瑠璃)の物語りというドラマ技法の時代の表現の本質が浮き彫りにされてくると思います。それは三味線の作り出す明確に刻まれる小気味良いリズムから来る感覚です。

○首実検の場面に移りますが、ここでの義経の登場は如何でしょうか。

義経は「ヤア直実首実検延引といひ、軍中にて暇を願ふ汝が心底いぶかしく密かに来りて最前より始終の様子は奥にて聞く」と言っていますね。つまり、義経には全部見通されているわけです。次いでながら、義経は「汝が心底いぶかしく」と言っていますが、これは義経が直実を疑っているのでは ありません。大序・堀川御所で義経が直実に対して言った「この禁制の心をさとし若木の桜を守護せんもの、熊谷ならで他になし」の言葉にはいささかの揺るぎもないのです。義経の「汝が心底いぶかしく」は背後で聞き耳を立てている梶原を警戒して言われているものですね。義経の役割はすべての事態を見通している・そして結果を確認して「然り」と受け取る。ただそれだけなのです。

○義経はこの「陣屋」という古典劇の他者的存在ですね。

その通りですね。しかし、「義経千本桜」と同じく・ここでも同じく・もっと大きい他者的存在を想定しておかねばなりませんね。それは「平家物語」全体を貫いているところの無常の歴史観です。漠として大きく・この世の中全体を貫くものです。義経はそのなかに住む神々のひとりなのかも知れません。この「陣屋」には興味深いことがありますね。

○興味深いこととは何ですか。

普通だと・主人公は他者的存在に対峙する形で自分の心情を吐露する・そこに熱いドラマがあるわけですが、「陣屋」の直実の場合はそうではないということです。義経と直実のあいだには強い信頼関係が見られます。それは信仰とも言うべきものです。義経に対する時の直実の態度はどこまでも謙虚そのものです。しかし、ただ一箇所だけ直実が揺れる心情 を義経に対して見せるところがあります。

○それはどこの箇所でしょうか。

「敦盛卿は院の御胤。此花江南の所無は、即ち南面の嫩一枝をきらば一指を切るべし。花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」と言う直実の台詞です。ここに直実の必死の気持ちが一瞬現われます。義経にすがろうとする気持ちの表れでもあります。あなたの言葉どおりに我が子を討ちましたが・これで私の判断は間違っていたでしょうか・と言うのです。しかし、これも直実の義経への疑いとして言われているものではありません。どこまでも自分の行為についての評価を義経に誠実に乞うものなのです。小次郎の首を見せる場面で時代の表現が瞬間的に出ますが、これは揺れる自分の弱さに対して向けたものかも知れませんね。

○首実検の場面での制札の見得などドラマティックな時代の表現は義経に対するものではありませんね。

直実が義経に対して尖った時代の表現をぶつけることは決してないのです。時代の表現は首を見て慌てふためく藤の方と相模に対してのものなのです。あくまでも沈着冷静に行動しようとしている直実に揺さぶりを掛けて・その心情を炙(あぶ)り出そうと いうのが、この場でのふたりの女性の役割です。九代目団十郎型の制札の見得においては、制札を下にして三段に突き、つまり制札にすがって重心を制札に預けるかたちで見得をします。ここでの直実は息子を身替わりにせざるを得なかった悲しみ・自分の行為がこれでよかったのか・正しかったのかという想いを振り切るかのように、制札にすがるのです。直実が制札にすがる時、直実の哀しみを救いとって・清めてくれる人物はもちろん義経以外にはあり得ません。

○終盤になって弥陀六が登場します。

芝居が絡み合った筋の総まとめにいよいよ入るわけです。弥陀六が登場すると「陣屋」の芝居は直実の筋から離れていく感じがしますが、むしろ弥陀六の背負っているものの方が「一谷嫩軍記」全体から見れば本筋なのです。弥陀六(=弥平兵衛宗清)は義経から敦盛を受け取って・どこかへ消えていきます。つまり、直実の捧げ物を受け取って・「平家物語」のなかに納める役割なのですね。

○敦盛を弥陀六に渡してしまえば直実の役割は無事終わるわけですね。

歌舞伎の九代目団十郎型は最後に・直実の幕外での花道引っ込みというクライマックスを持っていますが、文楽で見ますと幕切れは直実夫婦と弥陀六・藤の方、そして義経の五人で締めるのです。オペラならば壮大な五重唱のフィナーレというところです。こういう形で「陣屋」が古典的に締められると、直実の哀しみの比重が軽くなってしま う部分があるかも知れませんね。すでに芝居は「平家物語」のなかに絡め取られていますから、直実は主役の座を降りて・舞台では見えない他者的存在が主役を勤めるということ になるでしょう。それが丸本に則した形での「陣屋」の本来の構造です。九代目団十郎はその構造を壊しているわけです。

○そうなると九代目団十郎型での直実の花道引っ込みをどう考えればいいでしょうか。

ふたつの見方があり得ると思います。ひとつは他者的存在が芝居を締める・古典的な幕切れを九代目団十郎の型は破壊しているということです。主役の座を神ではなく・人間が奪い取るために、古典的構図を敢えて壊したと言うことです。そこに九代目団十郎の近代的感性が感じられますね。もうひとつ、直実を主役として・直実の心情を読み直した時、九代目団十郎はこの幕切れは何かが足らないと感じたのかも知れません。

○九代目団十郎は何が足りないと感じたのでしょうか。

「平家物語」は敦盛を斬ったことでこの世の無常を感じた直実が出家したことを伝えています。とすれば直実・敦盛の挿話は直実の出家で終わるのではなく・それは蓮生法師の新たな歩みの始まりでもあるのです。直実を主役として・直実の心情を読み直した時、直実はこれでなければ演じられないと九代目団十郎は考えたのだと思います。この花道引っ込みで初めて直実は思う存分自分の哀しみに浸 ることができるのです。この九代目団十郎型の幕切れは「平家物語」の世界を破壊してはいません。直実が芝居の虚構を棄てて・「平家物語」のなかに素になって戻っていくような気がしますね。

(後記)

別稿「回向者としての熊谷直実」「守らなければならないものがある」もご参考にしてください。

(H18・12・3)


 

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