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回向者としての熊谷直実〜「平家物語」敦盛挿話の虚と実

〜「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」


1)直実出家の「真実」

元暦元年(1184)一の谷の合戦で熊谷直実は平敦盛に出会い、勝負の末にこれを組み伏せました。そして敦盛の顔をみれば「我が子小次郎が齢ほどにて、十六七ばかりなるが、容顔まことに美麗」でありました。この少年一人討ったところで戦の行方に影響があるわけはない、ましてやこの少年の死を知ったら父親の嘆きはいかばかりだろうかと思って、直実は敦盛を助けようとします。しかし時すでに遅く、背後には源氏の武士たちが迫っており、直実が助けたとしても敦盛の命はない。直実は涙をふるって敦盛の首を掻き切ったのでした。

「あはれ、弓矢取る身ほど、口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずば、何とてかかる憂き目をば見るべき、情けなうも討ちたてまつるものかな」(「平家物語」)

そして直実は花のような若武者をも殺さねばならないこの世の無常を感じて出家をしたというのが「平家物語」にもある有名な話です。浄瑠璃「一谷嫩軍記」の作者並木宗輔は、この話を「本歌取り」して身替わり物の作品としたのです。ここで宗輔は、「直実の討ったのはじつは敦盛ではなく我が子小次郎であった」という一大虚構を観客に突きつけています。これは果たして、芝居の趣向に飽き足らぬ観客たちをアッと驚かせて引きつけるための仕掛けにすぎないのでしょうか。このことがまず検討されなければなりません。

直実は「源平盛衰記」にも「日本一の豪の者」として描かれています。一の谷の合戦において直実は平山武者所季重と先陣争いを演じ、平家の陣門に迫って直実は名乗りをあげたのでした。

武蔵の国の住人熊谷次郎直実、伝えても聞くらん、今は目にも見よや。日本第一の豪の者ぞ。我と思わん人々は、楯の面へかけ出でよ」

これほどの豪の者が初めて人を殺したわけでもあるまいに、敦盛一人を討ってその人生観が変わるほどのショックを受けたのでしょうか。それとも敦盛はそれほどの感慨を起こさせるほどの美少年であったのでしょうか。そうだとしても、その直実像はどこか軟弱で、感傷的に思われます。

実在の直実はもっと血の気の多い、直情型の人物であったようです。直実が出家したのは一の谷の合戦直後ではなく、8年後の建久3年(1192)のことで所領争いが発端でした。源頼朝の面前で訴訟相手と対決した直実は返答に窮して、カッとしてその場で髻を切って出家してしまったのでした。

その後、直実は出家して法然の弟子になるのですが、初めて法然に会った時の話は次のようなものです。「ただひたすら念仏を唱えれば誰でも極楽往生ができる」という法然の教えを聞いて直実は突然泣き出しました。法然が問うと、直実は「自分のように何人も人を殺してきた人間はとても極楽浄土などに行けないと思っていたのに、ただ念仏を唱えるだけでよいと言われてあまりの有り難さに泣いた」と答えたと言います。

ですから「平家物語」によって流布した直実と敦盛の物語は、明らかに後世の人々の美意識によって昇華されたものなのです。人々にとっては、直実の出家の原因は敦盛の死でなければな りませんでした。「諸行無常」は「平家物語」を象徴する言葉ですが、滅びゆくもの・散りゆくものに対する限りない愛惜の情こそが、この物語を創り上げたと言えるでしょう。それは史実よりもっともっと重い日本人のこころの「真実」です。


2)日本人のこころの「真実」

世阿弥の謡曲「敦盛」も、同じく「平家物語」を題材にしています。この作品は修羅物に分類されますが、「修羅物」と言いますのは、たとえば非業の死をとげた武将が老翁などの姿で現れ、生前の戦のありさまを物語り、やがてその本性を現して修羅道の苦しみを見せるが回向をうけて成仏するというような筋立てです。謡曲「敦盛」が他の修羅物と違う点は、ワキを蓮生法師、すなわち出家後の直実に設定したことです。ふつうの修羅物では、このようにシテの死に直接関係のある人物を持ってこないものなのです。(それではシテがワキに恨みをぶつけるような筋立てになってしまいます。)ワキがシテの修羅の苦しみを受け止めるに足る人物でなければシテが救われることはありません。ここでも直実と敦盛の切っても切れない関係を感じずにはいられません。つまり直実は敦盛の悲劇の最大の理解者であり、敦盛は出家した直実の回向によってこそ救われなければならないのです。

宗輔がこの「一谷嫩軍記」の執筆を思い立った時、彼が注目したのはこの「史実」と日本人のこころの「真実」とのギャップではなかっただろうかと思うのです。「身替わり」というのは浄瑠璃の作劇術の常套手段ではありますが、宗輔が「直実が殺したのは敦盛ではなかった」といって観客をアッと驚かせ、つぎに「殺したのは我が子小次郎であった」といって観客をしこたま泣かせようという、あざとい魂胆であったとは思いません。むしろ宗輔はもっと老獪です。日本人のこころのなかで育てられてきた直実と敦盛の物語をベースにして、そのギャップの謎解きをしてみせて、さらに虚構を持ち込むことで封建社会における人間の真実を描き出そうというのです。


3)回向者としての直実

敦盛は従五位下に叙されていましたが、彼には官位が与えられていませんでした。それで敦盛は世に「無官太夫」と呼ばれています。なぜ敦盛は無官のままであったのだろうか、この疑問に対し宗輔は次のような解答を与えています。敦盛は平経盛の子ではなく、実は後白河法皇が藤の方との間にもうけた子であった 。だからまさかの時には天皇になるかも知れない人なのでわざと無官のままにしていたというのです。義経はこのことを知っており、神の末裔である天皇の血筋を守るために「一枝を切らば、一指を切るべし」という制札を立てて謎かけをするわけです。

この制札を読んで義経の隠された意志を読み取ったのが直実でした。なぜならば直実はもともと佐竹次郎という名前で北面の武士として宮中に仕えていて、この時にそこに奉公していた相模との不義が発覚しそうになってあわや手討ちにされるところだったのを、藤の方のとりなしで逃がしてもらったという恩義が直実にはあったからです。「藤の方に恩を返すのはこの時である」と感じた直実は敦盛の身替わりに我が子小次郎を差し出すことを決意するわけです。

しかし直実の心のなかには「自分の行為はこれで正しかったのか、もしかしたら自分は義経の気持ちを読み違えたのではないか」という疑問が消えていません。そのことが我が子の首を敦盛の首として義経の前に差し出す直実の科白に表れています。

「花によそへし制札の表、察し申して討ったるこの首、ご賢察に叶いしか、但し直実誤りしか、サ、ご批判如何に」

「但し直実誤りしか」という科白には息子の死を無駄にしたくない直実の必死の気持ちが込められています。さらに、出家を決意した直実に対する義経の科白が直実の気持ちを言い当てています。

「さもありなん、それ武夫の高名誉を望むも子孫に伝えん家の面目、その伝うべく子を先立て、軍に立たん望みはホウもっとも」

武士の名誉とはその家の名誉であり、たとえ戦死したとしてもその名誉は子孫に受け継がれると信ずるからこそ、武士は勇敢に戦うことができるわけです。しかし直実の場合はその名誉を伝えるべき子を自ら殺したわけです。義経は出家する直実の気持ちを理解し、優しく受け止めます。この義経の言葉により直実は心安らかにして陣屋を出立することができるのです。

しかし宗輔は「平家物語」のイメージを利用することでさらにひとひねりを加えています。先ほど謡曲「敦盛」において修羅もののルールを破ってワキが蓮生法師(直実)に設定されているのは、「直実が敦盛の魂を回向し鎮める」役目を負っているということを書きました。この「熊谷陣屋」においても直実の役目は同じなのです。

主人の命令であるとは言え、直実が我が子小次郎を討ったというのはそれ自体間違いなく「封建社会の悲劇」であると言えます。しかし直実は悲劇の当事者として破滅することなく、その悲劇を従容として受け入れ我が子の魂を鎮め、回向することができる人物です。そのような人物は出家するしかないので す。

「熊谷陣屋」の直実とはまさにそのような人物です。そしてそのことが明らかになった時、宗輔が仕掛けた虚構は再び「平家物語」の世界に還って行くのです。ここに至って「熊谷陣屋」は単なる「封建悲劇」ではなくなります。この芝居は単なる悲劇を超越して「敦盛と直実の回向と鎮魂の物語」に転化していきます。そして、日本人の心の真実に訴えかけ ます。これが宗輔の仕掛けた「本歌取り」のマジックです。

(H13・7・22)





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