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守らなければならないものがある

〜「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」


1)「一谷嫩軍記」の構造

「一谷嫩軍記」は宝暦元年(1751)12月・豊竹座での初演です。この作品には「二段目・組討」や「三段目・熊谷陣屋」などの優れた場がありますが、全体の構成は複雑に過ぎて戯曲としての緊密さにはやや難ありともされています。立作者の並木宗輔がその年の9月に三段目(「熊谷陣屋」)を完成した辺りで物故したと思われるため、それで多少趣向倒れになったところがあるのかも知れません。

この「一谷嫩軍記」は、平大納言時忠が頼朝・義経兄弟の仲を裂き源氏を壊滅に追い込もうと画策するが失敗に終るというのが全段の縦の線になっています。これを軸にして「平家物語」で有名な・熊谷直実と敦盛の物語、さらに岡部六弥太と平忠度の物語を並行して展開していきます。ただし、ふたつの物語はほとんど別個の展開をしていて、今では六弥太の物語の方は忘れられたものになっています。

六弥太と忠度の物語は、千載集に読み人知らずとして忠度の「さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな 」という短歌が載ったという「平家物語」の有名な挿話が素材になっています。この話は江戸の民衆は誰でもよく知っている話でした。この挿話が民間にどれくらい普及していたのかと言うと、明治時代にはキセル(無賃乗車)のことを「薩摩守(さつまのかみ)」と言って誰でも通じたということで想像していただきたいと思います。(「平薩摩守忠度=ただのり」であります。)

一方の熊谷直実と平敦盛の物語も「平家物語」では特に有名な挿話です。そこで本稿においては、「一谷嫩軍記」の全段の縦線である平大納言時忠の陰謀と義経、さらに直実・敦盛の物語との関連を考えてみたいと思います。

平大納言時忠には二人の娘がありました。ひとりは義経の御台所になっている卿の君です。もうひとりは今は平経盛の養女になっていて・敦盛の許婚である玉織姫です。時忠はこの二人の娘を利用して源氏の内部撹乱を企むのです。まず時忠は卿の君を餌に梶原平次景高と計って義経を殺そうとします。この計画は義経に立ち聞きされてしまって、そのため卿の君が申し訳に自害することになります。(初段中・北野天神)また、時忠は平山武者所に玉織姫をやろうとするのですが、玉織姫はこれを拒否して敦盛とともに一谷へ出陣してしまいます。(初段切・敦盛出陣)

ですから現行の歌舞伎の舞台で「組討」や「陣屋」だけを見ていますと、平山武者所も梶原平次景高も、義経を疑う猜疑心の強い頼朝が差し向けたお目付け役みたいに見えますが、実はそうではないのです。これでお分かりの通り、「組討」の場で熊谷に対し「平家方の大将を組敷きながら助くるは二心に紛れなし」と罵る平山、「陣屋」において義経に対し「義経熊谷心を合わせ敦盛を助けし段々鎌倉へ注進」と駆け出す梶原の方が、実は平時忠に操られている二股武士であったと言うことです。このことは初段において観客にも明らかにされています。「一谷嫩軍記」はこの時忠の陰謀の網を潜り抜けながら・義経がどうやって敦盛を助けるのだろうかという展開になっているわけです。

結果を言えば、「陣屋」において梶原平次景高は弥陀六の投げた石ノミによって殺されます。また、「五段目切・扇ヶ谷」で平山武者所は六弥太に攻められて殺されます。そして時忠も義経にまさに殺されそうになるところに蓮生法師(つまり出家した後の熊谷直実です)が登場して「大納言の官位ある時忠を私刑にはできない・この法師が都に連れ帰って禁中のお指図を仰ぐ」と言って時忠を預かることですべてが決着します。

大まかに「一谷嫩軍記」の筋を追ってみました。これを見ますとこれによく似た構造の作品を思い出します。それは「義経千本桜」(延享4年竹本座初演)です。「千本桜」も頼朝追討の院宣であると言って義経に渡された初音の鼓は実は左大将藤原朝方(ともかた)の陰謀であったというのが最後に分かる構造になっています。(別稿「その問いは封じられた」をご参照ください。)これは「嫩軍記」でも同じだということです。ただし、「嫩軍記」ではそのことは初段から明らかにされて物語が展開するわけですが。恐らく「嫩軍記」と同じく、「千本桜」の発想の大筋も並木宗輔(=竹本座在籍時は並木千柳)が作ったのであろうことがここからも分かります。

このような作品構造をみると、「頼朝と義経兄弟の諍いはあれは何だったの?」ということにならないでしょうか。もちろん頼朝と義経は兄弟喧嘩をしたあげく・義経は平泉衣川の戦いで寂しく死んだというのが歴史上の事実であります。しかし、並木宗輔はその事実は否定せずに、「頼朝・義経兄弟の間には何もなかった・本当は争いなどなかった・ただ二人の間を裂こうとした何ものか(陰謀)が彼らの周囲にあった」という設定をしているのです。


2)敦盛はなぜ救わなければならないのか

「初段・堀川御所」において義経は熊谷直実に高札を渡して次のように言います。

「義経花に心をこめ武蔵坊弁慶に筆を取らせし高札『此花江南所無也(こうなんのしよむなり)一枝折盗(せつたう)の輩(ともがら)に於ては天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らば一指を剪るべし』この禁制の心をさとし若木の桜を守護せんもの、熊谷ならで他になし、その旨きっと心得よ」

「熊谷陣屋」は直実がこの義経の掛けた謎をどう解いたのかという物語です。直実の身辺には、もちろん敦盛を助けなければならない理由が設定されているのですが、このことは別稿「回向者としての熊谷直実」に書きましたからそちらをご参照下さい。どうして義経がそのような謎を掛けて・兄頼朝との不和にもなりかねない危険を冒してまで敦盛を守ろうとするのでしょうか。その理由は「初段切・敦盛出陣」にあります。敦盛の出陣に際し、父・平経盛は息子に次のような告白をするのです。

「口外へ出さねば知る人あるまじ、そもこの敦盛卿はわが子にてわが子に非ず、元この御台藤の方は法皇に宮仕へ、御寵愛深うして御胤を身に宿せしが、人の妬み強ければと先祖平の忠盛へ白河院より下されし祇園女御の例に任せ、懐胎の身をそのまゝ某が宿の妻に賜りて出生ありしこの敦盛、わが子として育てしが、院参の折ごとに人無き間には妹が子の歌によそへて御尋ね、浅からぬ御いつくしみ、かく由緒ある敦盛なればいかなる高位高官も望の如くなるべけれども、官位を受けては臣下の列、重ねて帝位を踏む事叶はず、かく御寵愛深き敦盛、まさかの時は春宮(とうぐう)にも立て給はん御心やと叡慮を量り今日まで、わざと官位の望もせず、さてこそ無官の太夫と呼ばせしぞや」

すなわち敦盛は後白河法皇の御胤なのであって、まさかのときには皇位を継ぐ可能性もあるのでわざと官位に付けることをせずに・「無官の太夫」としていたのだというわけです。当時は天皇と言えば「天子さま」・つまり神様と同然でありました。高貴な天皇の血筋を守る、このことが義経が敦盛を守ろうとする理由なのです。これは現代においてはいろいろ議論もあるところでしょうが、昔の人にはそれなりの理屈であったのでしょう。誰にだって命を掛けても「守らなければならないもの・尊いもの」はあるだろうと思います。「嫩軍記」の場合はそれが敦盛であったということだと思います。

ある論文(名前はあえて伏す)を読んでいましたら、「平家の奉じる安徳帝に対し・源氏は敦盛を新帝候補として確保する必要があった・だから義経は危険を犯して敦盛を守ったのである」と書いてあったので大変に驚きました。そういう見方もあるものでしょうか。もしその解釈が正しいのなら、「陣屋」幕切れで義経が敦盛を鎧櫃に入れて弥平兵衛宗清(弥陀六)にあっさり渡してしまう理由をご説明いただきたいものです。これ以降に敦盛は登場しないのですから。義経がいわば「手中の珠」である敦盛をあっさり手離してしまうのは誰だって意外に思うでしょう。だからこそ、宗清も「コレコレコレ義経殿、もしまた敦盛生き返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」と問うているので す。

もちろん敦盛が兵をかり集め平家を再興して・源氏追討を図るなんてあろうはずもないことです。そんなことがないことを義経は確信しているのです。(いや、 敦盛がそんなことをしないことは知っているのです。)だからこそ「ヲヲそれこそ義経や兄頼朝が助かりて仇を報いしその如く天運次第恨みをうけん」と義経は言うのです。もちろん、もしそんなことが起こるならば、義経にはその天運を甘んじて受け取る覚悟はあることでしょう。


3)義経の役割・熊谷の役割

歴史上の事実として死んだとされた人物が「実は生きていた」とした設定の場合、お芝居(あるいは物語)を納める方法はどうあるべきでしょうか。史実は絶対的な前提として動かせないものです。だから登場人物を史実(つまり「死んだ」という事実)のなかに戻してやらなければ、時代物戯曲(あるいは歴史小説)はその枠のなかに納まらなくなってしまうのです。このルールを外してしまうならそれはただの架空のホラ話です。

「実は生きていた」という人物を史実のなかに納める方法は3通りあります。ひとつの方法はその人物を再び殺してしまうことです。これは「千本桜・大物浦」において入水自殺を遂げる平知盛がその代表例でしょう。ふたつめの方法は、歴史の大舞台からは消して人知れず・ひっそりと名も無く・どこかで暮らしていることにしてしまうことです。これは同じく「千本桜・五段目」で義経によって小原の里に送り届けられる安徳帝が代表例です。みっつめは、名前を変えて・まったく別人に成りすまして・第2の人生を送るという方法です。これはお芝居では適当な例を思い付きませんが(正体を現してしまえばそれで終わりのわけですからね)、例えば「源義経が大陸に渡ってジンギスカンになった」あるいは「明智光秀が生き延びて・家康の側近天海大僧正になった」という類の俗説がいい例でありましょう。

「嫩軍記」の敦盛の場合は、ふたつめの方法(歴史の大舞台から消して人知れず・ひっそりと名も無く・どこかで暮らしていることにしてしまう)ということです。こうして尊い天皇の血筋・そして平家の血筋は人知れず守られていくことになります。

「平家の落人部落」伝説が各地に残っているのはご存知の通りです。それが真実であるかどうかは置いても、民衆はあれほどに栄耀栄華を誇った平家の人々があっけなく滅んでしまったことに不思議な運命と無情を感じて・その運命を哀れみ・そして生き延びた人たちがどこかに暮らしている(あるいは生き残っていて欲しい)と思ったのでありましょうか。そこに民衆の思いの暖かさ・情けの深さを感じます。「嫩軍記」の敦盛がどこかで生き残っているかも知れないという設定は、そうした民衆の琴線に触れるものがあるのです。花のように優雅で美しい若者・敦盛がもし生きているならば、再び世に出ることはなくとも・どこかで生きているとするならば・・・そう想像しただけでも民衆の心は癒されるのです。そして、もしかしたらその蔭で身を挺して「守るべきもの」を守った人たちがいただろうことも思いやったに違いありません。

「千本桜」においては安徳帝は義経によって小原の里に送り届けられて・そこで静かな平和な生活を送るのでありましょう。「嫩軍記」においては、敦盛は義経によって弥平兵衛宗清に預けられて・静かな平和な生活を送るのでありましょう。「千本桜」と「嫩軍記」での義経の役割は共通しています。義経だけが「実は生きていた」という人物(この人物をそのままにしては物語は決して終れないのです)を史実の世界に戻すことができるのです。

死んだはずの人物が「実は生きていた」という形で蘇るのはこの世に何かの因縁があるからです。あるいは自分が歴史上の役割を終えたということを自覚できていないからです。そのような人物を納得させて(つまり自分はもうこの世にいてはならない人間であることを分からせて)史実のなかに帰さなければなりません。

それを働きかける人間は、相手の因縁を理解して・相手の気持ちに感応できる人間でなければなりません。そういう人間に対しては相手が心を開いて・自分が死んだという事実を悟って、彼は史実のなかへ自分で納得して戻っていくのです。義経はこの世の無常と哀れを知る男ですから、それができる人物なのです。義経はそういう神通力のある人物なのです。(このことは別稿「義経は無慈悲な主人なのか」をご参照ください。)

「嫩軍記」での熊谷はいわば義経の意思を体現した人物です。「代行者」であると言ってもいいと思います。熊谷は義経の意思(それは制札の謎掛けによって熊谷に示された)を読み取り、その意志を忠実に実行するのです。熊谷は主人義経に命令されて・強制されて動くのではありません。それが自分の役割であると信じて自発的に動くのです。熊谷には大切なものを守らなけばならない役割があるのです。

ここのところが分からないと「嫩軍記・熊谷陣屋」を単なる封建悲劇であるとしか読めないでしょう。義経は「冷徹な政治的人間・政略家」であり・家来熊谷とその家族を非情にもその政治的犠牲に強いたなどと読むのは・それもひとつの解釈だと認めないものでもないですが、そういう風に読むのは寂しいな・悲しいなと思いますねえ。もしそうならば「熊谷陣屋」は名作として長く人々に愛され・心のなかに生き続けてはいけなかったでしょう。

幕切れ近く、宗清(弥陀六)が義経に対し「もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」と言うと、義経は「ヲヲそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」と言います。これに対し、直実は次のように言います。

「実にその時はこの熊谷。浮世を捨てゝ不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役・・・・われは心も墨染に、黒谷の法然を師と頼み教ヘをうけんいざさらば。」

出家した熊谷(蓮生法師)は敦盛(実は我が子小次郎)の回向のためだけに出家するのではありません。熊谷は「平家物語」の世界に係るすべての人々の回向を決意するのです。直実は「その役目を受ける価値のある男」だと義経に見込まれたのです。そして直実はその期待に見事応えたのです。そのことは「平家物語」を通じて、敦盛・直実の挿話が人々にあれほどに愛されたという史実によって証明されています。

お分かりの通り、民衆が敦盛のことを語る時、熊谷のことに触れないことは決してありません。民衆の心のなかで敦盛と熊谷はつねに対でもって語られるべき存在なのです。お芝居で敦盛が「実は生きていた」という設定をする時に、その経緯に熊谷が絡んでいない設定はまったく意味がないと言うべきです。また敦盛が再び史実に戻っていく時には、熊谷もまた一緒に行動しなければなりません。敦盛と熊谷はつねに行動をともにせねばならないのです。このことは時代浄瑠璃を作る場合の鉄則であると考えるべきです。ここで守るべきものとは「平家物語」を通じて民衆が愛してきた心情・心の真実です。

義経は「実は生きていた敦盛」を宗清に預けて史実のなかに帰しました。熊谷は出家して史実のなかに自ら入って行くのです。敦盛と熊谷のふたりは民衆が心のなかに持っている「平家物語」の史実のなかに戻って、そこにふたりして納まるのです。最後に納まるべきところに登場人物が納まったことを知って観客は安心するのです。スリリングな歴史推理を楽しませてくれながらも、作者・並木宗輔は決して民衆の心の真実を損なうことはしなかったのです。守られるべきものは守られたのです。

(H15・11・23)


 

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