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世話物のなかの時代

平成22年9月・新橋演舞場:「伊賀越道中双六」〜「沼津」

二代目中村吉右衛門(十兵衛)、五代目中村歌六(平作)


1)世話物のなかの時代

「ハテ、どこに誰が聞いてゐまいものでもなけれど、十兵衛が口から言ふは、死んで行くこな様への餞別、今際の耳によう聞かつしやれや。股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。道中筋は参州の吉田で逢うた、と人の噂」

「沼津」幕切れの親子の別れの場面での十兵衛の床本の台詞です。離れ離れになっていた親子が偶然のことから出会い、お互いがそれと分かった時には敵討ちの敵同士であったという悲劇です。こんなに愛し合っているのに・この親子はどうしてこんな哀しい別れ方をせねばならぬのか・・・と切なくなります。そこに敵討ちという行為の非人間性が浮き彫りにされるということです。それにしてもこの「沼津」という芝居はいくつもの偶然が積み重なって・幕切れの親子の別れに至るという・実に作為的な悲劇です。(これについては別稿「理を非に曲げても言わせてみしょう」をご参照ください。)恐らく浄瑠璃作者・近松半二は「沼津」を幕切れから構想し、幕切れに向けて段取りを積み上げていったのだろうと思います。

ということは「沼津」は幕切れがすべてだということです。大詰・千本松原での「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という十兵衛の台詞に向けて悲劇が構築されているということです。しかし、吉之助が思うには、近年の「沼津」の舞台はどれもこの大詰・千本松原の感動がいまひとつではないかと思うのですねえ。小揚げが楽しい舞台はいくらもあります。平作内もそれなりに良いものは多いと思います。しかし、どの舞台も千本松原の感動がいまひとつなのです。最後に親子の別れの切なさがもっと強く、ワサビのように鼻にツーンと来るようであってもらいたいなあと思います。今回の・平成22年9月・新橋演舞場での「沼津」の舞台もその例外ではなく、やはり千本松原が物足りません。それは何故かと言うと「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」での台詞の時代の表現が十分でないからであると思います。ここを工夫すれば舞台の印象はガラリと変わると思うのですがねえ。本稿ではそのことを考えます。

歌舞伎の表現の妙味というものは「世話と時代の生け殺し」であるということは、よく言われることです。基調が世話であるなかに時代の重い表現をグッと入れて色合いを変える。あるいは基調が時代のなかに世話の軽味をサッと織り交ぜて流すといった工夫です。これが十分でないと、歌舞伎の面白さというのが出て来ません。「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」というのは世話場のなかの時代の台詞です。だから、この台詞は「沼津」 の幕切れの感動を左右する大事の台詞です。もちろん「沼津」は世話物であり、十兵衛も平作も武士ではありません。ところが、武士でもないふたりの背後に敵討ちという時代の論理が圧し掛かって来ます。敵討ちの敵同士だという意識が、離れ離れになっていた親子が再会の喜びを素直に分かち合うことを完全に阻んでしまっています。逆に父親は自ら腹を切って・息子に敵の行方を無理矢理に白状させるような事態になってしまいます。このような悲劇を作為的だと感じて好まぬ方は少なくないと思いますが、生まれ育った社会環境であるとか・柵(しがらみ)であるとか、自分の力でどうしようもない大きな力によって左右されるという意味において、人間の生というもの自体が何かの力で作為的に動かされているものだと言えるのはないでしょうかね。儒学者の息子であった近松半二はこのことを明確に意識して作為的な悲劇を書いたと思います。

それでは近年の役者が「沼津」大詰・千本松原において時代の要素を意識していないかと言えば、決してそんなことはないでしょう。敵討ちという・封建社会の非人間的論理が市井の人間に襲い掛かって来るということは、どの役者も十分過ぎるくらい意識していると思います。問題はその意識のベクトル(方向性)の持ち方にあると思います。近年の役者は、誰でもそうだと思いますが、 沢井家に恩義がある十兵衛は股五郎の行方を明かしたくない、明かしたくないのだけれど、目の前で父親が腹を切って・敵の行方を明かせと責める、だから父親に対する愛情から・親に対して不孝をするわけにいかないから、明かしたくないけれども・十兵衛はやむなくこれを明かすという風に解釈していると思います。そこに十兵衛の悲劇を見ているのです。つまり、「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という台詞を言う時の十兵衛役者の気持ちに、時代への意識がネガティヴな方向に作用しているということです。「私はホントはそれを言いたくない・しかし私はそれを無理に言わされる」ということです。

このような読み方は、時代の解釈として決して間違いということでもありません。そういう解釈ももちろんあり得ることです。「私はホントはそれをしたくない・しかし私はそれをさせられる」という悲劇は、確かに浄瑠璃・歌舞伎にはとても多いように見えます。「寺子屋」でも「熊谷陣屋」でも、そういう解釈ができるかも知れません。時代物の悲劇を「私はホントはそれをしたくない・しかし私はそれをさせられる」という風に読むことは、封建社会の論理・あるいはもっと大きな歴史の律の論理が作品世界の前提としてあって、そのような抗し難い圧倒的な存在に対する・個人というちっぽけな存在を考えれば当然なことに思われますから、さほど違和感なく悲劇を解析できるだろうと思います。ですから階級闘争理論によって歌舞伎を読むということも、時代物の場合にはまあ割合とすんなりと来るわけです。

しかし、世話物の場合には「私はホントはそれをしたくない・しかし私はそれをさせられる」という風に悲劇を意識すると、逆に解釈に無理をきたすことが少なくないのです。それは何故かと言えば世話物では、時代物と比べれば、作品世界のなかでの社会の論理・歴史の論理という雰囲気がはるかに希薄であるからです。そうしたものは作品の前提として顔を出していないことが多く、時代はドラマの転換点の・核心になるところに突然に・まったく唐突に・主人公も観客も予期しないところで・急に顔を出す場合が多いのです。そして、それがその後のドラマの展開を決定的に左右します。それが世話物のなかの時代なのです。「沼津」における時代もそういう形で出て来ます。それではそのような世話物の悲劇をどう読めば良いかということですが、これはかぶき的心情において読まなければならないのです。すなわち、「許されないこと・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」ということです。時代への意識を、主人公に一線を越えさせることへのポジティヴな方向に読まなければならないのです。このことが十兵衛役者の「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という台詞をどのように変えるかをさらに考えます。(この稿つづく)

(H23・5・15)


2)やってはならないことを私はやる

呉服屋十兵衛は沢井家に数年来出入りしていた商人でした。沢井家主人城五郎から股五郎を匿(かくま)ってくれと頼まれて、十兵衛は「多年の御恩報じなれば、ちつとも御心置かれますな。町人でこそあれ心は金鉄。二人や三人は苦には致さぬ。腕に請け合ひけちりんも、掛値は申さぬ」と言って承知します。(円覚寺の場)この時に股五郎が沢井の家に伝わる南蛮伝来の妙薬の入った印籠を十兵衛に手渡します。股五郎が印籠を十兵衛に渡したということは「俺の命をお前に託したぞ」ということです。これが後の「沼津」の場で登場する印籠なのです。

股五郎が印籠を十兵衛に渡して助力を乞うたということは、つまり、これは男と男の契約ということです。町人が武士から見込まれるほどですから、十兵衛は相当に男気のある男なのです。江戸初期の仇討ちというのは追う側と追われる者の意地の張り合いでした。元々の争いの原因が何か・どちらが悪かったかなんてことは全然関係ないところで、双方の一族郎党が一団となって「この者が討たれれば(あるいは返り討ちされれば)我々一族の名折れになる」と言って二手に分かれて熱くなって喧嘩する「かぶき者」の一大イベントであったのです。そのような仇討ちの渦のなかに、よせば良いのに町人の十兵衛が自ら飛び込んでいくわけです。仇討ちと言えば武士のイベント、町人の自分に大きな火の粉が飛んでくることはあるまいと、十兵衛は思っていた のかも知れません。しかし、結局、これがとんでもないことになるのです。

江戸初期は男の一分(いちぶん)を重んじた時代でした。男と男の契約ということがとても重い時代でありました。股五郎が「俺の命をお前に託したぞ」と言って沢井家の紋の入った印籠を渡したということは、この契約を破るということは絶対に許されないということです。沢井家が許さないということではなく、世間が許さないのです。契約を破ってしまったら、もう真人間としてこの社会で生きていけないということです。そのような厳しい倫理道徳の世界に十兵衛は生きています。まして十兵衛は世間の信用が命よりも重いとする商人ですから、そのような観念が人一倍強いわけです。しかし、ホントに白刃の危険にさらされるとすれば、そこは町人のこと、そこまでの覚悟は出来てはいないかも知れません。いざとなればガタガタ震えてしまうかも知れません。

しかし、「沼津」幕切れ・千本松原の場で、十兵衛は平作に「股五郎が落付く先は九州相良・・」と秘密を明かしてしまいます。平作が十兵衛が生まれる間もなく里子に出されて生き別れた実の親であり・その親が敵の行方を教えてくれと命を捨てて頼むから・やむなくこれを明かすわけです。これが「沼津」のドラマの核心ですが、股五郎の側から見れば・これは男と男の契約を破棄したということです。もちろんそのことを承知の上で・十兵衛はこれを明かす(つまり契約を破棄する)わけですが、十兵衛はもう人間としてこの社会で生きていけない・死ぬしかないということを覚悟して、平作に股五郎の行方を明かすということです。このことは後段・伏見の場を見れば、はっきりと分かります。十兵衛は志津馬の前に飛び出して・わざと斬られます。そして、死ぬ寸前に政右衛門に股五郎一行の道筋を明かし、妹お米のことを頼んで絶命します。つまり、これは自裁ということです。このような決着の付け方しか十兵衛には もはや残されていなかったということです。だとすれば十兵衛が「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」ということを、どれほどの決意を以って言ったかは想像に難くありません。

一方、十兵衛の脇差で自らの腹を刺して・「おりや、こなたの手にかかつて死ぬるのぢや。こなたと俺とは敵同士、この親仁を殺したれば、頼まれたこなたの男は立つ。コレこの上の情けには、平作が未来の土産に、敵の在処を聞かして下され」と息子を責める平作のことを考えてみます。確かにずいぶんと酷い話なのですが、結局分かることは、この親父はこの方法しか考え付かなかったのだろうということです。(別稿「理を非に曲げても言わせてみしょう」をご覧下さい。) 十兵衛が世間の義理に縛られているのと同様、こんな片田舎に暮らす平作もまた仇討ちの論理に強く縛られています。そのために生き別れになった親子が素直に名乗ることさえ許されないのです。

ですから「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という十兵衛の台詞は、「世間が許さない・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という能動的な・ポジティヴなベクトルにおいて読まなければならないのです。平作・十兵衛の親子は、かぶき的心情によって世間の義理や柵(しがらみ)といった人間を縛る非人間的な存在の打破を叫ぶのです。(この稿つづく)

(H23・5・24)


3)「沼津」は仇討ち物である

平成22年9月・新橋演舞場での「沼津・千本松原」での吉右衛門の十兵衛を見ますと、全体に泣きが強過ぎるように思われます。「股五郎が落付く先は九州相良・・」と言う間にも、泣きの感情がこみ上げてきて言葉がうまく出てこない、苦しくて身もだえしてしまう、そのような十兵衛なのです。生き別れて・ひょんな形で再会した親父さんが目の前で腹を切って死にかけていて、悲しい。しかも、自分が仇討ちの敵の側にあって、死んでいく親父さんがその敵の行方を明かせと責めるから、辛い。あんなこんなで、敵の行方を明かさなきゃならぬから、泣けてくる。まっ、そんな感じでありましょうか。確かに「悲しい・辛い・泣きたい」という気持ちは舞台から伝わってきます。だから一応の芝居にはなります。しかし、大事なことは、この場面においてこの親子が対峙しているものは一体何かということなのです。それがこの場面を悲しく・辛く・泣きたいシーンにしているはずです。その正体が全然見えて来ません。吉右衛門は目の前の親父さんひとりを相手にして泣いてますね。

「ハテ、どこに誰が聞いてゐまいものでもなけれど・・・」という時から「沼津」の芝居がまったく違う局面に入ったということが、何だかふにゃふにゃして明確に見えてこないのです。台詞が泣きでブツブツと中断して・よじれたりして、キッパリしない。あるいは、脇差を腹に刺して突っ伏している親父さんの両肩を抱きかかえて台詞を言う時の十兵衛の形ですが、意識が親父さんの方だけに行っていますから、形が世話(写実)に崩れてしまっている。親父さんに網 笠を差し出して「股五郎が落付く先は九州相良・・」という形も同様にキッパリしない。

ただし、これは実は吉右衛門だけの問題ということではありません。最近の「沼津・千本松原」はそのような形で処理されることが多いようです。例えば平成22年12月・京都南座での「沼津」の仁左衛門の十兵衛も、性根の捉え方は似たところにあって、やはり泣きが強い十兵衛になっています。仁左衛門も目の前の親父さんひとりを相手にして泣いてますね。それは時代の感覚を「私はホントはそれを言いたくない・しかし私はそれを無理に言わされる」というような・ネガティヴな方向に取るからです。ここに現代の歌舞伎の世話物悲劇の捉え方の共通した問題が潜んでいると思うのです。

まあ、ともあれこれもひとつの解釈としてはあるということではあります。そのような解釈の根拠となるものは、恐らく見取り狂言(ひと幕物)としての「沼津」は世話物であるというところにあるのだろうと思います。封建論理に本来無縁であるはずの庶民さえ巻き込んで彼らを翻弄する・仇討ちという・この非人間的な論理ということになりましょうか。そのために世話物の本質、写実である・自然であるということが、演技様式的にことさらな意味を持ってくるわけです。泣きの十兵衛はそのような根拠を持っているのです。なるほどそれも分からないことはないですが、吉之助に言わせれば、その考え方は筋の枝葉・シチュエーションにこだわりすぎているのです。シチュエーションが「沼津」の悲劇だと思っている。だからそういう解釈になるのです。

これについては、吉之助はこのように申し上げたいと思いますね。確かに「沼津」は世話物であることに間違いありません。しかし、同時に仇討ち物でもあるのです。実説の荒木又右衛門の伊賀上野の仇討ちということを忘れるとしても、あるいは「伊賀越道中双六」全体の流れを忘れて・見取り狂言としての「沼津」だけを見るとしても、仇討ち物であることを忘れてしまったら、「沼津」のドラマの本質は見失われてしまうのです。逆に言いますと、そのドラマの本質がしっかり掴めてさえいれば、「沼津」が仇討ち物であることの意味が、クドクドと粗筋など説明しなくても・パッと感覚で分かるということです。それは、つまり、「ああ、彼らはそういう厳しい現実のなかで必死で生きていたんだ」ということなのです。この点をしっかり押さえて置きさえすれば、「沼津」は正しく描かれるということです。

現代から見れば、封建制で仇討ちが横行した時代の悲劇なんて・「何を馬鹿やってんの」ってなもんで、ちゃんちゃらオカシイと思います。こういう芝居を真面目に見るのは馬鹿らしいと感じるのも、当たり前だろうと思います。彼らがそのように感じるのは、お芝居の筋の枝葉・シチュエーションだけを見ているからです。しかし、「彼らはそのような厳しい現実のなかで必死で生きていた」ということをしっかり描けていれば、「ああ、たとえシチュエーションは異なっても、いつの時代にも同じような悲劇はあるものなのだなあ」と、観客は素直に感じるものだと思うのです。現実に現代にも似たようなことがたくさんあるからです。そのためにはシチュエーションを消し飛ばさねばなりません。そのためには時代の感覚を「世間が許さない・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という能動的な・ポジティヴなベクトルにおいて表出せねばならないのです。(この稿つづく)

(H23・5・29)


4)大事なことは世話と時代の生け殺し

「沼津・千本松原」において「世間が許さない・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という時代の感覚を如何にして描き出すか。それは結局、「沼津」での十兵衛の悲劇を共感できるものにできるかという問題なのです。同情ではなく、共感です。十兵衛を「封建倫理に振り回された可哀想なひとだなあ」と見るのではなく、「覚悟して人の在るべき道に殉じた人であったのだなあ」と見るというのでは違うということです。

吉之助が生(なま)で見た十兵衛では、二代目鴈治郎の演じた十兵衛が、時代の感覚を能動的なベクトルで実感させる十兵衛であったと思います。昭和43年1月歌舞伎座での映像(二代目鴈治郎の十兵衛、十七代目勘三郎の平作、吉之助が生で見たのはもうちょっと後の時代の鴈治郎ですが)が手元にあるので、これを見てみます。鴈治郎は「ハテ、どこに誰が聞いてゐまいものでもなけれど・・・」という台詞を言い始める時に、父親の両肩をがっしりとつかんで・正面を向いて胸を張り、さらに踏ん張った左の脚をほぼ直角に大きく左に張り、舞台正面から見て身体を精一杯大きく見せた構えを取っています。編笠を平作に差し出してすっくと正面に決まる鴈治郎の形が、これも実に良いですねえ。鴈治郎は決して武張っているわけではないのに、勘所をさりげなく時代に決めているので、その印象が隠し味となって強く残るのです。鴈治郎は台詞の調子も時代の方に取り、憂いや泣きの調子をまったく入れません。その台詞は平作に対して(あるいは傍で聞いているお米に対して)言われるというより、自分を鼓舞し・叱咤するために言われていることが明らかです。つまり、それは時代の表現なのです。

鴈治郎は小柄な人でした。これは役者としては・特に時代物を演じる場合には不利な条件です。しかし、画面を見ると、立派な体格をしている吉右衛門や仁左衛門より身体がずっと大きく見えます。映像で比較するとよく分かることですが、吉右衛門も仁左衛門も平作の方に気が入って・平作を抱く形が舞台正面から見て身体が斜めに崩れており、形が世話に流れています。平作に網笠を差し出す時の決めのポーズも世話に崩れています。つまり、大きな身体を大きく使えていないということです。感情を表現しようとして身をよじるのもいけませんね。それに全然違うのが、台詞の調子です。吉右衛門も仁左衛門も台詞に泣きが入っており、「言おうとしても言葉が出てこない」という感じを表現することに意識が行っています。だから必然的に台詞の調子が弱くなってきます。まあ良く言えば表現が情の方に傾いているということです。多分「沼津」は世話物だという意識がとても強いのでしょうねえ。だからこの場面の切なさがツーンと鼻に来る厳しい表現にならないのです。

鴈治郎の台詞を更に聴いて見ます。鴈治郎の十兵衛は「世間が許さない・明かしてはならないことを・自分の責任において私は言う」ということを、ある決意のもとに言おうとしているのです。ですから、その台詞は腹から搾り出すように・強い調子で言われます。そのように自分を鼓舞しないと、その台詞(股五郎の行き先を明かすということ)は決して言えぬということです。さらにここがポイントであると思いますが、そうではあっても十兵衛は武士ではなく・商人なのですから、覚悟があると口では言っても・やっぱり死ぬことは身が震えるほど怖いということです。だから台詞の基調は時代であっても、完全な時代の表現にはできないということなのです。「沢井股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」までは鴈治郎の台詞の調子は時代の方に強く言いますが、「・・道中筋は参州の吉田で逢うた、と人の噂・・」では声の調子が途端にワナワナと震え出し・テンポが早くなって、最後まで強く言い切ることが出来ません。そして十兵衛はたまらなくなって「(親仁さん)これで了見して下んせ」で突っ伏してしまいます。覚悟を以って股五郎の行き先を明かしたものの・迫り来る運命の刃を感じて、十兵衛は身が縮む思いなのです。侠気がある男ではあっても、所詮十兵衛は町人なのです。そして「親父さん、これで了見して下んせ」と突っ伏して、ここで初めて十兵衛は平作の息子に返ります。このような十兵衛の心の動き・心理の綾が、鴈治郎の映像を見れば生々しく実感として分かります。

ところで最後の「親仁さん、これで了見して下んせ」というのは歌舞伎の入れ事で、丸本にはないものです。しかし、この台詞を入れたのは歌舞伎の知恵だと思いますねえ。確かに文楽の方が時代の厳しさが沁みますが、股五郎の行き先を明かしてしまえばもう時代はスッ飛んでしまって、二人の間に何も制約はありません。この歌舞伎の工夫はなかなか情味があるもので、後の十兵衛の「・・・親仁様、親仁様、平三郎でござります」への段取りがとても取りやすくなると思います。これを工夫した歌舞伎の狂言作者は十兵衛の心理をとても良く理解していると思います。

もうひとつ付け加えると、鴈治郎はこの場面を大時代に演じているわけではなく、もともと上方和事を本領とする役者ですから、時代の強さが持ち味の柔らかさに抑えられてちょうど良い塩梅になって来るのです。吉右衛門や仁左衛門の場合は体格も良く・時代物が得意な役者ですから、あまり時代に張ってしまうと十兵衛が武士に見えかねないでしょう。あくまで十兵衛は町人ですから、さりげなく要所を決めることで時代の感覚を出す・そういうことを心掛けてもらいたいのです。それはホンのちょっとの工夫です。まず台詞に泣きを入れず、泣きで身をよじるような表情を見せないことです。次に平作を抱くところ、網笠を差し出すところはしっかり正面向いてまっすぐ立つことです。それだけで千本松原の印象はぐっと締まって来るでしょう。

「沼津」は全体としては確かに世話場ですが、それを悲劇に彩るものは時代です。世話場の悲劇においては、そのようなものは最初から顔を出していることはないのです。それはドラマのある局面において、突然ぬっと顔を出し来て、登場人物をアッと言う間に連れ去ってしまいます。後には愁嘆場だけが残されます。だから愁嘆場を世話の悲劇だと誤解する人が多いようですが・そうではなくて、登場人物が何と対峙しているのかを見詰めなければなりません。歌舞伎においては、そのようなドラマの様相は世話と時代の生け殺しによって表現されます。基調が世話であるなかに時代の重い表現をグッと入れて色合いを変える、あるいは基調が時代のなかに世話の軽味をサッと織り交ぜて流すといった技法です。吉右衛門や仁左衛門も、そのところをもうちょっと工夫すれば、「沼津」の十兵衛の悲劇はもっとくっきりと彫りの深いものに出来ると思うのですがねえ。

(H23・6・12)


 

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