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「理を非に曲げても言わせてみしょ〜「沼津」をかぶき的心情で読む

〜「伊賀越道中双六・沼津」


1)作られた悲劇

「沼津」の幕切れ(千本松原の場)は、二十数年も逢うことのなかった親子の対面が最後の別れになるという、歌舞伎のなかでも哀切極まる場面のひとつです。今も思い出しますのは二代目鴈治郎の十兵衛と十七代目勘三郎の平作との共演による舞台です。それから同じ鴈治郎と十三代目仁左衛門の平作との舞台も良ろしゅうございましたね。どちらも十兵衛は二代目鴈治郎でありました。鴈治郎の愛嬌は「沼津」幕開きの場面に生きておりましたけれども、しかし、吉之助が忘れられないのは「千本松原」のラストシーンです。

刀を腹に突き立てた平作の横に立って、傘を差出し「股五郎が落ち着く先、サ九州相良、道中筋は参州の、吉田で逢うたと人の噂」と敵の行き先を告げる場面はじつに十兵衛の心情溢れる・泣かせる場面です。「沼津」は離れ離れになっていた親子が偶然のことから出会い、お互いがそれと分かった時には敵討ちの敵同士であったという悲劇です。十兵衛は敵・股五郎の行く先を明かすわけにはいかないのですが、親・平作の命を捨てての願いにやむなくこれを明かします。そして暗闇のなかで二人して抱き合う悲しい別れ。

この「沼津」ですが、いくつもの偶然が重なった芝居です。まず冒頭で十兵衛と平作が出会わなければこのドラマはありません。平作が木の根につまずいて爪をはがしたりしなければ、十兵衛は妙薬を使わなかったわけですからこのドラマはありません。十兵衛がお米の美しさにふらふらとして平作の家に寄ろうなどと考えなければこのドラマはありません。お互いが親子であり敵同士だと知って、十兵衛はだまって平作家を立ち去りますが、十兵衛が薬の印籠を置いていかなければこのドラマはありません。すべては「千本松原」の親子の別れのための伏線なのです。

「沼津」はわざとらしい・作為的なドラマであると言う人もいるかも知れません。近松半ニは、観客をしこたま泣かせるために起こるはずのない偶然の集積のドラマを書いたのでありましょうか。

これは半分くらい「イエス」と言ってもよいように思います。半ニはもしかしたらラスト・シーンを決めてから芝居を書き出したようにも思われます。しかし、それにもかかわらず、このラスト・シーンが鼻白むものに感じられないのは、登場人物の心情が生き生きと描き込まれているからに違いありません。「作られた悲劇」ではあるけれど、その瞬間の心情はたしかに人間の真実に触れているからなのです。


2)「理を非に曲げても言わしてみしょう」

十兵衛が平作宅に薬の印籠を置いて立ち去るのは、夫志津馬の病気をこの妙薬で治したいという妹お米の願い(そのためにお米は薬を盗もうとする)を気遣ったからでした。この印籠には敵・沢井股五郎の家の紋があるわけですから、これを見れば平作たちが驚いて追ってくることは当然考えたでしょうが、それでも置いて行かざるを得なかったのです。そこに平作の息子・お米の兄としての十兵衛の心情があり、結果としてはそれが悲劇を呼び起こします。はたしてこの印籠の紋を見て、平作は十兵衛の後を追います。

ここで平作は印籠の紋が股五郎のものと知り、さらに十兵衛を二才の時に他家へ養子へ出した息子平三郎であると知ります。そして平作は十兵衛のあとを追うわけですが、ここで息子の目の前で自らの腹に刀を突き立てる決心をする平作の心理的プロセスは十分に書き込まれているとは言えません。なんだか突然に平作は動き出すのです。

丸本を見ますと、お米が置いてある印籠を見て「コリャコレ沢井股五郎が常々持ちし覚えの印籠」と驚き、さらに平作が十兵衛が置いていった金を見て、「金子三十両、この書付けは、『鎌倉八幡宮の氏地の生れ、稚な名は平三郎、母の名はとよ』、オオ、わが子の平三であったかいやぃ」となるのですが、お米が兄十兵衛に股五郎の行く先を聞こうと駆け出そうとすると、平作はこれを止めて、お米にこう言います。「オヽもっともじゃ。が、われではいかぬわぃ。年寄つたれどもこの平作、理を非に曲げても言わして見しょう。われも続いて後から来い。どの様なことがあつてもな、必ず出なよ。」

平作には十兵衛が我が子と知れてから喜ぶ暇もありません。また我が子が敵の仲間と知って複雑な気分に陥り、その運命を嘆く暇もありません。駆け出すお米を止めた時には、平作にはもう覚悟が出来ているのです。息子十兵衛にとって股五郎が縁の深い人間であることは、その紋のある印籠を持っていたことを考えればそうと分かります。ならばその十兵衛が股五郎の行く先を簡単に教えることは考えられません。それを言わせるために、親の自分が命と引き換えにして無理矢理に白状させようというのです。もちろん十兵衛が息子だと分かった時に「しめた、これで股五郎の行方が聞きだせる」と平作が感じたとは思えません。しかし、その決心があまりに唐突なので、後で思い返してみると、ここの平作の心理の変化が分からなくなってしまうのです。

「沼津」のラストシーンを見てじ〜んと来つつも、平作の「理を非に曲げても言わせて見しょう」はじつに嫌な科白だと、吉之助もずっとそう思ってきました。これほど非人間的な科白は他の芝居でもちょっと思い当たらない気がしました。それがこともあろうに親の子に対する科白として言われているのです。もちろん平作が喜んでそうするはずがありません。十兵衛が敵の仲間だからと言って憎くてそうするはずもありません。では二十数年ぶりに息子に再会した喜びをそっちのけにして、何故、平作は「理を非に曲げても言わせてみしょう」などと言わなければならないのでしょうか。


3)平作のかぶき的心情

それは、こういう形で息子に敵の行方を白状させる方法しか平作には考え付かなかったからなのでしょう。それほどに義理や世間のしがらみというものが人を縛るものだ、ということを老人・平作は知っているからなのです。社会に生きている以上は人は義理やしがらみのなかで生きていかねばなりません。まして十兵衛は商人なのですから、普通の人以上にそうした倫理感を強く持っていることは明らかなのです。義理やしがらみ、それが平作の言うところの「理」です。それを破るためには、まず自分の身を犠牲にして十兵衛の心情に熱く・熱く訴えなければ、その「理」を打ち破ることができない、平作はそう考えたのです。逆に考えれば、それほどに息子を想う気持ちが平作に強かったということに他なりません。

平作のかぶき的心情はこうした突発した形で現れます。平作はかぶき的心情によって十兵衛の心情に熱く訴え、「平作の息子・平三郎」としての十兵衛の心情を揺さぶり、十兵衛の「商人としての義理」を破ろうとしたのです。「子としての道」と「商人としての義理」の狭間で十兵衛は苦悩して、ついに十兵衛は平作に股五郎の行方を明かすのです(もちろん傍で妹お米がそれを聞いていることを承知のうえで)。

こう考えてみますと、平作の「理を非に曲げて言わせてみしょう」という言葉はなかなかに複雑な科白であると思えてくるのです。この科白は、むしろ親子が心底から「お前を愛しているよ」と言う自由を求める平作の熱い叫びなのではないかと思えてくるのです。そして、平作はかぶき的心情によって人間を縛る社会の義理の打破を叫ぶのです。

「沼津」という芝居は平和に暮らしてきた庶民も巻き込む「敵討ち」という行為の非情さ・非人間性を訴えるものであるという見方が歌舞伎の解説書にある普通の見方です。もちろん、そういう見方もあると思います。いずれこの視点からも「沼津」を読む機会もありましょう。しかし、そうした見方で「沼津」を見るとあのラスト・シーンの感動が自分のなかでどうしても納得ができないように思うのです。いやがる息子の前で親が腹を切って無理矢理白状させるなんていう場面にどうして感動できましょうか。

そうではなくて、「二十数年ぶりに再会した親子が暗闇のなかで泣きながら抱き合う」という平作・十兵衛親子の心情だけを考えてみたいと思うのです。その瞬間の為だけにこの「沼津」という芝居は作られている、と思いたいのです。だから社会の義理もしがらみも捨て去って抱き合って泣く親子の姿に、半ニの作劇の技巧も忘れて、観客は素直に感動してしまうのではないでしょうか。こう考えて初めて、この「千本松原」の場の幕切れの感動が、自分で納得がいくような気がするのです。

(付記)

歌舞伎の雑談「沼津・十兵衛のその後」もご参照ください。

(H14・3・3)




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