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「歌舞伎素人講釈」観劇断想・3  (平成28年〜 29年)

*観劇随想のうち単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。


○平成28年1月歌舞伎座・「雪暮夜入谷畦道・直侍」

七代目染五郎の直侍・七代目芝雀の三千歳

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(片岡直次郎)、 七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(三千歳)


黙阿弥の「直侍」は前半の蕎麦屋で生世話を見せ、後半の大口寮では余所事浄瑠璃で情緒たっぷりに見せるという風に上手い具合に芝居が出来ているなあと感心しますねえ。しかし、ともすれば大口寮は詩情に流されそうな危険もあるようです。これは清元の音楽性に引っ張られるからです。しかし、ここでの清元は芝居の伴奏音楽・つまりオケピットに入ってドラマに寄り添った音楽を奏でているのではなく、あくまで余所事浄瑠璃・つまり隣の家からこっちの事情に関係なく勝手に流れてくる音楽なのですから、そこに裂け目が見えなければならないはずです。そのことは「筆売幸兵衛」で幸兵衛が一家心中しようとする傍らで無神経に流れる余所事浄瑠璃を考えてみれば分かります。裂け目が幸兵衛の心を掻きむしり、幸兵衛はついに発狂してしまいます。だとすれば「直侍」で流れる余所事浄瑠璃はどんな役目をしているのでしょうか。清元の醸し出す情緒に乗って・しっとりどこか舞踊に近い趣で様式的に形を決めて見せるのがよろしいのでしょうか。そうではないことは明らかです。「直侍」の裂け目がどこにあるのか、そのことを考えてみたいと思います。

直次郎は「年が明ければ夫婦になろうと約束したが、悪事が露見して一緒になれないから、取り交わしている起請を返し、今夜別かれてしまおう」ということで危険を冒して大口寮に来ているわけです。もちろん「別れる」というのは直次郎の本心ではありません。直次郎は三千歳とずっと一緒にいたいのですが、ここで交わされる直次郎と三千歳の会話は「別れる・別れない・別れるなら殺してくれ・それはできない」という会話です。まったく浮いた会話ではありません。ふたりの会話の内容とは全然関係ないところで清元が流れます。しかし、清元がふたりの心を操るのか、ふたりの心が清元を操るのか、芝居と音楽が次第にシンクロしたような奇妙な感じになってくるのですが、それは完全にシンクロしてはならないのです。これは舞踊ではないからです。役者の台詞と動作は写実の方を向いていなくてはなりません。それでないと裂け目が生まれません。そこに黙阿弥の余所事浄瑠璃の皮肉があります。あくまで世話を活かすための清元なのです。

染五郎の直次郎は、そこのところ・写実と様式のバランスがなかなか良い具合に仕上がっていて感心しました。全体的にはおそらく仁左衛門の直次郎を写したものだろうと思いますが、染五郎の場合は台詞が低調子であることがよく効いています。髪結新三でも直次郎でも、五代目菊五郎系統の役の台詞は低調子が基調であると云うことが、改めて確認できました。芝雀の三千歳もどこか寂しげで・憂いを含んだ趣が良いですねえ。そこにこの女の幸薄い人生がリアルに浮き出て見えました。久しぶりに黙阿弥の良い舞台を見て、吉之助は何だかホッとした気分になりましたよ。

(H28・1・9)


平成28年2月歌舞伎座 ・「籠釣瓶花街酔醒」

五代目菊之助再演の八つ橋

二代目中村吉右衛門(佐野次郎左衛門)、五代目尾上菊之助(八つ橋)


今月(2月)歌舞伎座の「籠釣瓶花街酔醒」の舞台を見てきました。菊之助の八つ橋は平成24年12月新橋演舞場が初役で、この時以来だと思います。相手役の次郎左衛門は菊五郎から吉右衛門に代わっています。まず菊之助の八つ橋は初役の時の初々しい印象はそのままに、再演では「縁切りして次郎左衛門に恥をかかせて済まない」というところに哀しみと情味が加わって、なかなか良い出来に仕上がったと思います。前回は縁切りのところで叫ぶのがややヒステリックに聞こえて感情表出が生(なま)に思いましたが、再演ではそんな感じはなく、最後に次郎左衛門に斬られるのが心底憐れに思われました。

これは共演の吉右衛門が良いことにも拠ると思います。吉右衛門の次郎左衛門はもちろん手慣れたものであり・悪かろうはずがありませんが、吉右衛門の持ち味である実直さ・真面目さが良く生きた次郎左衛門だと改めて思いました。もしかしたら作中にある次郎左衛門の狂気というのとはやや違うかも知れません。ドス黒い怒り・それは八つ橋に対する怒りだけではなくもっと人生そのものに対する 憤りみたいなものです(それがないと花の吉原百人切りにまで至らないでしょう)が、吉右衛門にはそういう感じはありません。しかし、満座で縁切りされて恥をかかされた怒りと云うところはきっちり押さえています。田舎者の悲哀というところも良く出ています。だから縁切り場での「花魁、そりゃ袖なかろうぜ・・」という長台詞に哀れ味があって見事なものです。次郎左衛門が怒って八つ橋を斬るのもそりゃもっともだと観客に感じさせます。これも次郎左衛門の行き方としてひとつの典型だと十分納得できるものです。要するに八つ橋にも・次郎左衛門にも観客の同情があって、「どちらも悪い人ではない」というところに芝居が落ち着いています。このようなバランスの良い「籠釣瓶」は、歌右衛門での舞台でも・玉三郎の舞台でも、随分回数は見ましたけれど、あまりなかったかなという気がしました。

ひとつには歌右衛門でも・玉三郎でも、「新吉原仲之町見初め」の場が伝説化し過ぎて肥大化してしまったかな、だから八つ橋のウェイトが若干勝っていたかなということを思います。まあそれは観客に思い入れがあるからでもありますが、菊之助の「見初め」はそれなりだと思います。悪いと言っているのではありません。これが「見初め」の本来あるべきサイズかも知れないと言っているのです。菊之助は花道での八つ橋の笑みを控え目にしたように思いました。そのせいか等身大の八つ橋に見えました。そこから縁切り場での生身の女性としての八つ橋の苦悩が浮き上がって来たということかも知れません。ファム・ファタール(宿命の女)ではない八つ橋というところでしょうか。

(H28・2・7)


○平成28年3月歌舞伎座・「祇園祭礼信仰記・金閣寺」

五代目雀右衛門襲名の雪姫

五代目中村雀右衛門(七代目中村芝雀改メ)(雪姫)、九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(松永大膳)、 十五代目片岡仁左衛門(此下東吉)

(五代目中村雀右衛門襲名披露狂言)


3月歌舞伎座で五代目雀右衛門襲名興行の夜の部を見てきました。暖かくなったからか吉之助が見た日は着物姿の女性客が初春興行の初日より多かったようでした。そんなこともあってかいつもの襲名興行よりも客席も落ちついた雰囲気に感じられて、これも新・雀右衛門の控えめな人柄に通じるところがあるなと思いました。雀右衛門の楚々とした美しさは誰もが認めると思いますが、これからは立女形に相応しい風格(敢えて押しの強さとでも言っておこうか)を身に着けて欲しいと思います。口上で東蔵さんが「自己主張の強い雀右衛門が見たいな」と言った通りです。今回の襲名披露の「金閣寺」では前半の雪姫の印象がやはり淡い。後半で雪姫が「父の仇」と大膳に打ってかかる場面に自己主張の片鱗が見えた気がしましたが、まだこれからです。今回の舞台は大膳に幸四郎・東吉に仁左衛門と揃ったなかなかの大舞台ですが、幕が閉まった後で雪姫の印象があんまり残らない気がしたのは、「金閣寺」では雪姫が狂言半ばで引っ込んで幕切れの舞台にいないせいがありますが、襲名披露狂言としては損なところがあったなと思います。

ところで歌舞伎の「金閣寺」のいつものやり方では幕切れに雪姫は出ませんが、人形浄瑠璃の「金閣寺・幕切れは「十河軍平、狩野直信、雪姫も立帰り」とあって、軍平(正清)と一緒に雪姫も直信も舞台に再び戻るのです。ですから今回は雀右衛門襲名披露のことでもあるし、幕切れに雪姫がいる形で締めれば良かったのにと思います。

今回の「金閣寺」もそうですが、特に時代狂言では立女形が受け持つ場面が狂言のなかでの主筋を占めないことが多い。しかし、「自分の持ち場においては役が持つ情念のすべてを描き出さずにおくべきか」というところが立女形にあって良いのです。その持ち場において女形は突出して良い。そのような乖離した感覚が時代狂言をバロックな感触にすると思います。歌右衛門には確かにそれがありましたし、先代雀右衛門も晩年においてはそのような大きさを身につけたと思います。雪姫であれば「爪先鼠」の奇蹟はただ起きたのではなく・雪姫の情念の強さがそれを引き起こしたのですから、縛られた雪姫の綱をネズミが切るのではなく、雪姫がネズミに綱を切らせたと「爪先鼠」の奇蹟を能動的に捉えたいと思います。雀右衛門は今回の雪姫も技芸に不足はないし、まあそんなことも立女形として回数を演じるなかで身についていくことと思います。

(H28・3・12)


○平成28年3月歌舞伎座・「双蝶々曲輪日記・角力場」

五代目菊之助の与五郎と長吉

五代目尾上菊之助(山崎屋与五郎・放駒長吉二役)、 三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(濡髪長五郎)


菊之助は芸域をどこまで拡げるつもりなのですかねえ。昨年は平知盛(義経千本桜)や魚屋宗五郎を演じたのもびっくりしましたが、今回(平成28年3月歌舞伎座)の「双蝶々曲輪日記」での与五郎・長吉にも驚かされました。しかもどの役もそれなりの出来であるらしいのも感心するやら呆れるやらです。まあ若い頃はいろんな可能性を試してみるのも結構なことです。代々の菊五郎に兼ねるイメージがありますから、本人も兼ねる役者を強く意識するところがあるのだろうと思います。しかし、歌舞伎の将来を考えるならば、吉之助は菊之助にはもうちょっと女形を極めておいて欲しい気がするので、最近の立役傾斜気味はちょっと残念に思っています。「どの役もそれなりの出来」と書きましたけれど、もちろん現時点において課題がないわけではありません。これは菊之助の芸質かも知れませんが、与五郎と長吉と、どちらの役にもやや怜悧な雰囲気が漂っています。意地悪な言い方をすると、ちょっと頭脳プレイ的なところが見えます。とは云え、どちらの役もこれだけの水準で演じ分けられるというのは大したもので、これも菊之助の恵まれた資質ゆえです。

角力場で与五郎と長吉を兼ねるのは良いことと思わないです(無人芝居ならばともかく今回は一座に役者がいないわけでないのに)が、これは過去に事例がよくあることですから、そのことは問わないことにします。だとすれば、このことを好意的に捉えるならば、大事なことは、上方和事のつっころばしの与五郎と威勢が良い長吉という一見すると対照的なキャラクターを演じ分けることに、どのような積極的な意味を見出すかということかと思います。つまりこの角力場の筋のなかに本来はない・兼ねることのドラマ的な必然性を舞台上にどう生み出すかということです。そのために与五郎と長吉を合わせてひとつ絵となるようなイメージが何か見出されなければならないと思います。多分それはひたむきさとか一途さというものだろうと思います。(ひたむきさ・一途さというのは「双蝶々」の重要な主題だと思いますが、このことは別の機会に論じることにします。)これを強いイメージにすれば直情さということになって、長吉になります。柔らかいイメージにすれば無垢な純粋さとなって、それが与五郎になるのです。つまり長吉と与五郎が「ひたむきさ・一途さ」ということの表と裏ということになるわけで、そこに与五郎と長吉を兼ねることの必然を見出したいと思います。こういう場合にはふたつの共通項を見出して演じる方が、異なる要素を際立たせて演じ分けようとするよりも、多分正しい演技プロセスであろうと考えます。

そこで菊之助の与五郎と長吉の二役を見るに、やはり演じ分けようとしていると思いますねえ。どちらの役にもやや怜悧な雰囲気がつきまとうのは、そのせいであろうと思います。共通項を見出して演じた方が、少しは演りやすくなるのじゃないですかねえ。同じ役者が複数の違う役を演じるということの本来の意味は、同じ人格が見た目の表面の姿だけを色々に変化させているのであり・その本質はまったく変わらないということです。つまり、それは「舞台に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。これから菊之助が兼ねる役者を目指すなかでそろそろ考えなければならないことは、どういう役を自分の本領とするかであると思います。「菊五郎」の本領が必ずしも立役である必要はないと思いますが、いずれにせよそれは菊之助が自身で決めるべきことです。

(H28・3・20)


○平成28年4月歌舞伎座:「彦山権現誓助劔〜杉坂墓所・毛谷村」

十五代目仁左衛門の六助・孝太郎のお園

十五代目片岡仁左衛門(毛谷村六助)、片岡孝太郎(お園)


「毛谷村」を初めて見る方は、この芝居がいきなり板付きの剣術試合で始まるので・前の部分を大幅カットしたのかと驚くと思います。実は原作(人形浄瑠璃)がこうなっているのですが、この時期の人形浄瑠璃(初演は天明6年)は趣向本位の芝居をテンポアップして見せたのです。そこが本作が大ヒットした所以であるのでしょう。とは云え、「杉坂墓所」は大したドラマもない場ですが、「毛谷村」の筋を通すためにあった方が観客に親切というものです。これからはこの場割りを定型にした方が良いと思いますね。

さて仁左衛門の六助は東京では初めてということで期待しましたが、まあそれなりに良いものですが、吉之助の期待が若干大き過ぎたかも知れません。仁左衛門は六助がこれで三演目ということですが、ここまで回数が少なかったということは、恐らく仁左衛門も六助が仁として必ずしもしっくり来ないと感じていたせいかなと思いました。六助は気分の良い役ですが、もちろん仁左衛門は役の雰囲気を押さえて、観客の心を掴んでいます。だからこの六助も見た感じは決して悪くありませんが、仁左衛門はキリッと締まった役は良く似合うのだけれど、人柄が良い役を演じると表情が緩むというか、どことなく締まりがなく見える時がありますねえ。六助は弾正に額を割られても怒らないほど柔和な男ですが、武術の達人なのですから、決して隙を見せない男です。六助の柔和な表情は余裕から来るものです。だから六助は人柄の良い柔和な印象だけでは駄目で、朴訥としたところにキリリとしたものが感じられねばならないと思います。

仁左衛門は全体に「六助を世話に軽いタッチで」と考えているように思いますが、そのせいか台詞廻しが高調子で水っぽく感じられます。だから偽虚無僧(お園)を「なんとでごんす、梵論字どの」と糺す場面が締まらない。太鼓を叩いて弥三松をなだめながら仔細を語る長台詞は、もっと腹から声を出さないと息が詰んだ感じがしない。これでは丸本物のノリ地の面白さが出ません。短剣を構えているお園を相手に話しているのだから、そこに武術者の鋭い目配りが感じられなければなりません。ここは楽しい場面なのではなく(観客にとってはそうですがね)、緊迫した場面なのです。だから六助の演技は、この箇所を頂点にするようにそこまでを構築せねばなりません。仁左衛門の六助は、そこに不満があります。それと仁左衛門は台詞が高調子だし・お園が息子の孝太郎だから声質が似ていることもありますが、六助とお園との掛け合いでは、女形の高調子に対して・六助は声を低めに取った方が掛け合いの面白さが出るし、お園が引き立つのです。そうすると六助の基調の声の調子をどこら辺に置くべきか自ずと分かるのではないか。せっかく息子を相手役にしてるのだから、そこのところを考えて欲しいものです。そういうわけで仁左衛門の六助に関しては、まだまだ役として掘り下げる余地がありそうです。

対する孝太郎のお園は、相手が六助と知って娘の性根に戻って態度が砕ける替わり身の巧さ、動作の斬れの良さ、台詞の息の良さ、どこを取っても素晴らしい出来です。これだけかつきりとしたお園が演じられるとは、頼もしいことです。

(H28・4・24)


○平成28年5月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪・大川端」

歌舞伎のアンサンブル

五代目尾上菊之助(お嬢吉三)、十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(お坊吉三)、四代目尾上松緑(和尚吉三)


今月(5月)歌舞伎座の団菊祭の夜の部の「三人吉三巴白浪・大川端」を見て何か書こうと思いましたが、黙阿弥の七五調の様式については、7年前(平成21年歌舞伎座)の同じ演目(和尚吉三の松緑以外の配役は異なります)で書いた観劇随想(別稿「様式的に写実する」)と あまり変わらぬのでここでは繰り返さないことにします。本稿では歌舞伎のアンサンブルということについて考えます。これがピアノ三重奏曲ならば、ピアノとヴァイオリンとチェロの三人の奏者が一体となって繰り広げる至芸のなかに、確かにひとつの曲のイメージというものが立ち昇るはずです。ひとつの イメージの構築に向かって各奏者は息を合わせななければならないし、或る時は自己主張をし、或る時は引いて相手を立てる、あるいは互いに寄り添う、それがひとつの目的に向かって何かを作り出していく時の奏者の態度です。これがアンサンブルというものです。

日本の伝統芸能(邦楽や能狂言・歌舞伎など)にはアンサンブルという概念は存在しないと云われますが、それでも「息を合わせる」という考え方は何となくあるわけで、それがなければ複数の演者での芸能が成立するはずがありません。アンサンブルということをそのような緩い概念で取るならば、歌舞伎にもアンサンブルというものは間違いなくあるのです。例えば「勧進帳」の山伏問答で弁慶が高調子で出る・富樫が低調子で出る(まあ逆でもよろしいですが)という音楽設計も、アンサンブルです。大事なことは、二人の役者がどのようなリズム設計で対話のひとつの流れを構築していくかという暗黙の合意です。

世話物で六代目菊五郎が舞台で振り返った時に、振り返った目線の先に相手役がいないと、六代目は怒ったものでした。六代目は振り返った時の形を決めているのですから、決めた形の視線のその先に相手役は位置していなくてはならない。この考え方もアンサンブルですね。もしかしたら六代目の場合は西洋演劇思想の影響がなかったわけではないでしょうが、こうした考え方が江戸の昔に全然なかったとも思われません。座頭のもと、ひとつの芝居を作り上げる過程には暗黙のうちに、ここは自分を主張して・ここは相手を立てる・あるいは互いに協調するという、そういうものが一座の共通の合意としてなければ良い芝居は出来ません。

もっとも歌舞伎の場合は、演出家が存在する他の演劇ジャンルと比べれば、ひとつの演出コンセプトに全員を縛りつけるほど強権的なところがなくて、その辺がとても緩い。みんなが好き勝手にやってるようで、どこかに暗黙の合意があり、何となく同じ方向に行っているという感じです。そこらに伝統芸能の古風な味わいがあるとも云えますがね。まあ 今まではこれで済んでいたわけです。しかし、西洋演劇思想の洗練を受けた現代において、歌舞伎もこのままで居れないことは確かです。「歌舞伎にも演出家を」という声は時折ありますが、いろいろ因襲があって難しい世界ですから、外部の人間が入って歌舞伎役者に演技や台詞廻しなどの注文をすることは難しい。ならば座頭格の役者からでも、伝統の継承を兼ねて、指導という形ではなく・もっと強力な演出の 概念を歌舞伎に導入した方が良い。歌舞伎はもうそのような時期に来ていると思います。

そういうことを思うのは、今回の海老蔵のお坊・菊之助のお嬢・松緑の和尚の三人吉三について、歌舞伎の行く末を占う試金石と大いに期待しましたが、舞台を見ると台詞廻しが三人三様 、方向性がバラバラで、感覚の統一がないのを見て、とてもがっかりしたからです。三人が伝統の継承ということを意識してないはずがないですが、歌舞伎のアンサンブルということを、もう少し考えて欲しいのです。吉之助から見ると三人とも黙阿弥の七五調の正しい様式が取れていると思えませんが、そのことはここでは置きます。(別稿「様式的に写実する」をお読みください。) 何でも結構ですが、三人が話し合って、どれかひとつのスタイルに作り上げようくらいの姿勢は見せてもらわないと、これではとんだ虫拳の三すくみです。黙阿弥の様式感覚・音楽感覚なんてものを、実感するところまでとても行きません。ここは菊五郎でも吉右衛門でも、責任ある立場の方の演出で、ひとつのスタイルに持って行くようにしていただけないものでしょうか。

(H28・5・4)


○平成28年5月歌舞伎座:「時今也桔梗旗揚〜馬盥の光秀」

四代目松緑の馬盥の光秀

四代目尾上松緑(武智光秀)、九代目市川団蔵(小田春永)


天正10年(1582)6月2日に明智光秀が主人織田信長を討った・いわゆる本能寺の変について、なぜ光秀は謀反に及んだかは諸説があって、戦国史最大のミステリーとも云われています。信長と光秀の政治的信条が違い過ぎたとか何か理由があったに違いないですが、まあ史実は本稿では置きます。どうも「馬盥の光秀」は鶴屋南北が書いた歴史劇のように見られがちですが、南北がこの芝居を書いた江戸期(本作初演は文化7年(1810)7月市村座)には主殺しというのは理由の如何を問わず封建道徳下の最大の罪とされたわけで、江戸期には光秀というのは悪人の最たるものでした。まあ政治的・経済的理由で光秀が謀反をするならば、多分どんな理由を付けても、当時の倫理感覚として観客は光秀に同情するわけに行きません。しかし、これが男の一分(いちぶん)に関わることならば、これはプライドの問題になるわけで、もしかしたら江戸の観客が「それなら光秀が怒るのがもっともだ」と言い出す可能性があったと思います。

だって歌舞伎にはそういう芝居がいっぱいあるのです。例えば男伊達ならば男の一分を傷つけられたら怒って相手を叩き斬る理由がある。助六がそうだし、番隨長兵衛もそうです。元禄期の男伊達から化政期の南北とは時代がかなり下っているけれども、江戸の観客はそういう風に「馬盥の光秀」を見たと思います。光秀の諫言を受け付けないで主人春永が怒るということならば、家来である光秀はどんな仕打ちも耐える。光秀は、主従関係とはそういうものだと覚悟しています。しかし、パワー・ハラスメントの人格攻撃ならば、光秀が怒るのは当然です。これは男の一分の問題なのです。

そこのところ松緑の光秀を見ていると納得できる雰囲気があって、「馬盥の光秀」での春永と光秀の関係は、要するにウマが合わないということだなと思えました。松緑の光秀は、なかなか良く考えていたと思いますが、声を低めに抑えて陰鬱な光秀に見えました。真面目にキチンとお仕事はするけれど、どこか暗くて面白くない・お付き合いが巧くない人いますね。春永からすると、こういう奴は特に理由がなくてもイジメたくなる。これも光秀の役作りのひとつの行き方だと思います。松緑は幕切れの花道の引っ込みも気合が入ってなかなか良かったと思います。

ただし、松緑と云うよりも・これは一座の問題と云うべきでしょうが、本能寺馬盥の場だけを見ると、芝居のテンポが最初から最後まで同じ調子で続いて一場が単調に感じられます。この芝居の核心は最後の光秀の退出です。ですからこの部分にクライマックスを持って行くために、どのように芝居のテンポ設計を構築するかが大事です。そうすると妻皐月の切り髪の件までを、出来るだけ早めのテンポで淡々と済ませて、光秀の退出をじっくりと重く見せる方が良いように思います。今回の舞台は切り髪の件までが長く重苦しく感じられました。

春永のイジメに耐えに耐え・ついに堪忍袋の緒が切れて・・・だからそこまでの過程を粘るように執拗にやろう・・という、その考えも分からないことはないです。しかし、春永の前半のイジメについては、光秀はどんなことであっても それは家臣の務めだとして受け入れたと思います。光秀がこういう男だから、春永とすればますますイジメがエスカレートするわけですがね。つまりそこまでに光秀が怒る理由がないのです。だからそこまでにドラマがないことになります。こういうところは段取りなんだから、サッサと済ませれば良いのです。(ぞんざいにやれば良いと言っているのではありません。緊張感を以て簡潔に済ませよと言っているのです。)妻の切り髪の件に至って光秀はムカッと来ます。かつて光秀が浪々の身で困窮していた頃、妻皐月が切り髪を売って生活を助けたという。他のことならば兎も角、これを嘲笑われたら「こやつ人でない、主人でない」となるのは当然です。これが光秀が謀反を考えるきっかけとなるのですから、切り髪を見て箱の蓋を持って極まる見得を境に、芝居の色合いがはっきり変わります。ここからがドラマの核心です。
ここで芝居のテンポを切り替えればそれが明確になります。芝居のテンポ設計に一考ありたいと思います。局面の変化を明確に描き切ること、芝居ではこれが大事なのです。

(H28・5・17)


○平成28年5月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」

四代目松緑の源蔵・十一代目海老蔵の松王

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(松王)、四代目尾上松緑(源蔵)他


折口信夫が「手習鑑雑談」(昭和22年10月)のなかで「義理と忠義をふりたててはいるが、源蔵は根本的に無反省で許し難い人物である」と書いています。吉之助は折口に同意ではないのですが(吉之助が折口と意見が合わぬのは珍しいことですね)、言いたいことは分からぬでもありません。折口がそう感じるのは、歌舞伎の源蔵を見ると「せまじきものは宮仕え」の台詞は随分感じ入ったかに言いますが・結局小太郎を斬ってしまうからで、それなのに源蔵の罪悪感がよく見えないからです。しかし、源蔵には間違いなく罪悪感があるはずで、これからずっと源蔵は子も同然である弟子子を斬った罪を負って生きて行くはずです。だから源蔵の人格に納得性を持たせようとすれば、すべては「せまじきものは宮仕え」の台詞に向けて構築されねばならぬと思います。そのためのひとつのやり方として「松王の時代に対し源蔵は世話を基調に置くべき」と考えますが、まあこれは役者のニンにも拠ります。しかし、「せまじきものは宮仕え」が真実に響かない源蔵ではまずい。源蔵はなかなか難しい役なのです。

折口信夫全集 第18巻 芸能史篇 2 (「手習鑑雑談」所収)

そこで松緑の源蔵ですが、平成27年3月歌舞伎座所演と同じく、持ち味としては時代の方へ寄っており、これはこれで松緑のニンとして良いですが、源蔵が肩を落として「せまじきものは宮仕え」という時に台詞が真実に響いて来ないのは松緑も同じです。「・・ことによつたら母諸共」という時の血走った眼付きに「何としても若君を守らねばならぬ」という決意が確かに見えます。この点ではなかなかの源蔵ですが、前回よりも「せまじきものは宮仕え」と言う時の意気消沈した源蔵との落差が強過ぎるように思われます。悲嘆の感情を込めたつもりでしょうが、松緑のように時代に寄った源蔵ならば、ここはまったく逆でありたいと思います。「せまじきものは宮仕え」こそ強く言わなればならない台詞です。「してはならない行為だということは分かっている・それでも俺はこれをせねばならぬのだ」というところに源蔵の性根を置いた方が良い。次いでに言うと、先ほど「肩を落として」と書きましたけれど、この時の松緑は首が前に出て猫背になって・ずいぶんと形が貧相です。しゃきっと背を伸ばして「せまじきものは宮仕え」を強く言う。それだけで源蔵の印象が随分と変わると思います。

海老蔵ですが、一時は台詞が持ち直したかと思いましたが、この1年ばかりを見るとイントネーションに自己流が強くなって・また台詞廻しが悪化しているようです。夜の部のお坊吉三の七五調の台詞もとても良くありません。特に母音の発声が明瞭ではない。早めに「あえいうえおあお」の基礎から直した方が良いと思います。それと、どこもかこしも台詞の末尾を張り上げれば歌舞伎になるというものでもありません。例えば後半の松王の「持つべきものは子でござる」という台詞ですが、こんな風に張り上げてしまったら会話が終息してしまって、次に千代が「持つべきものは子なるとは、あの子がためによい手向け」と台詞を継ぐことができなくなってしまう。そういうことも少しは考えて欲しいと思います。総体に自らの悲愴感に酔った松王だと云えるでしょうか。まあそれで性根をはずしているわけではないが、恐らく松王はもう少し覚悟の決まった男だろうと思います 。

(H28・5・22)


○平成28年8月歌舞伎座:「山姥」

武智演出・三代目扇雀の八重桐

三代目中村扇雀(荻野屋八重桐)、三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(煙草屋源七実は坂田蔵人時行)


武智鉄二演出の「嫗山姥」初演は昭和58年(1983)第2回近松座公演(三越ロイヤル・シアター)でのことで、八重桐を演じたのは藤十郎(当時は先代扇雀)でした。吉之助はもちろん見ましたが、あまりに昔のことで細部が思い出せません。今回(平成28年8月)の当代扇雀の舞台を、あの時もこんなだったかなあと懐かしく思い出しながら見ました。吉之助が武智を勝手に自分の師匠にしているのは、ご存知の通りです。吉之助は晩年の武智演出をリアルタイムで数点見ました。しかし、いわゆる「武智歌舞伎」と呼ばれるものは、正確には昭和24年から27年頃に武智が関西で行なった歌舞伎再検討公演のことを指し、晩年の演出作品は含まないと考えるべきです。それでもそこに武智歌舞伎であることの何かがあるだろうと思って、吉之助は晩年の演出も期待して見たものでした。しかし、正直申すと、晩年の武智は好々爺になって役者との妥協も多かったようで、往年の斬れ味(これも想像するしかないが)はなかったかなあと思います。個人的に吉之助が出来が良いと感じた武智演出としては、昭和56年8月国立小劇場・青成会公演での「百合若大臣野守鏡」(主演は現・鴈治郎、当時は智太郎、後に近松座公演で再演)を挙げておきたいです。残念ながら、この「嫗山姥」は印象が薄いのは仕方がないところです。

例えば兼冬公館に八重桐が登場すると、源七(実は八重桐の夫蔵人)が慌てて下手へ逃げてしまって八重桐の廓噺の間は舞台に居ませんが、 丸本では「ヤア離別せし女房。南無三宝と木隠れの・・」とあるが、源七は舞台にずっと居るわけです。ここでお姫様が八重桐の身の上を尋ねるので、八重桐は昔は自分は遊女だったと明かし、そこで「坂田某」との馴れ初めを語り始めますが、これはもちろんその場に夫が居て・それを聞いていたたまれなくするように当て付けで語られているわけです。それなのにその場に肝心の源七が居ないのでは困るなあ・・というような指摘を、当然、若き日の武智ならば批評に書くに違いない。ところが、晩年の武智がそれをやっちゃうわけです。もしかしたら源七役者が間が持てないとか色々あったのかも知れませんが。

幕切れの荒れの八重桐が荒事のむき隈のような化粧をしているのも、気に入りませんねえ。こういう場面に江戸荒事の所作が混じるのは、近松物として時代的 ・様式的にもおかしいことです。八重桐は夫の無念が胎内に入って・常の者ではない状態になっていますが、あくまで女形なのですから、そこに自ずと慎みが出 なければなりません。まるで御霊のような処理をするのは歌舞伎の実に安直なパターン発想だ云々・・・ということも、若き日の武智ならば当然言ったと思います。そんなこんなで武智崇拝の吉之助としては頭を抱えてしまうわけですが、この「嫗山姥」演出を見て「何だ、武智歌舞伎はこんなものか」と思わないでいただきたいです。

当代扇雀の八重桐ですが、一生懸命やっていることは認めますけれど、肝心の廓 の仕方噺が水っぽいですねえ。ここが武智が演出で一番力を入れた箇所であったことは明らかで、八重桐の仕方噺は、近松が初代藤十郎との提携で磨いた「しゃべり」の技術を人形浄瑠璃で試したものです。もちろん地芝居とは違って、義太夫付きの しゃべりは音曲ですから、音程も付くしリズムも付きます。そこが難しいわけですが、逆に云えば、義太夫に導いてもらうコツをつかめば地の台詞でしゃべるより楽だとも云えます。扇雀の八重桐のしゃべりは素に感じられ て、義太夫と噛み合ってないです。所作も角々の決まりが流れています。これはあくまでしゃべりながらの振りであって、踊りではないです。これでは廓噺の面白さは出ません。もっと義太夫をよく聴いて、自分の方から義太夫に台詞を絡めて、間を作っていかなければなりません。押しが必要なのです。そこのところの工夫が付けば、もっと 情味のある八重桐になると思いますがねえ。橋之助の源七は柔らかさを出そうと努めているのは分かるけれども、まだ身から滲み出るようなものになっていません。和事に意識過剰のようですね。声を細く作っているのが不自然に感じます。もっと自然に構えればそれで十分だと思います。

(H28・8・29)


○平成28年9月歌舞伎座:「一條大蔵譚」〜檜垣・奥殿

深化した大蔵卿〜二代目吉右衛門の二年ぶりの大蔵卿

二代目中村吉右衛門(一條大蔵卿)、二代目中村魁春(常盤御前)、五代目尾上菊之助(鬼次郎)


今回の舞台も申し分ない出来でありました。吉右衛門の大蔵卿については二年前・平成26年4月歌舞伎座の観劇随想で触れたので、今回の観劇随想は書くか・どうしようかと思いましたが、当然行き方は前と同じにしても、今回の大蔵卿に一層の深化が見えた気がしたので、やはりここに備忘録的に記しておこうと思いました。今回の吉右衛門の大蔵卿を、何と評したら良いでしょうかねえ。「円熟の・・」という褒め言葉では足りない感じがしますねえ。もっと上を行っている気がします。「枯淡の・・」と書いてしまうと、なんだか到達点が見えてしまったようでどうも気がひける。まだまだ吉右衛門の芸の伸びしろを期待したいからです。そのような大蔵卿でありましたねえ。



素晴らしかったということならば、二年前の前回もまったく不足のない・素晴らしい大蔵卿でした。前述した通り、
「現在の自分は不本意ながら本当の自分を偽っている・今生きているのは虚構の人生である」という行き方はまったく同じなのですが、今回、吉之助が唸らされたのは、この技巧的な役を、技巧で見せるようなところをまったく感じさせず、自然さのなかに大蔵卿のアンビバレントな二重性を浮き上がらせて見せたことです。これは恐らく二年前の舞台を見た方でないと感知できないと思えるような差異です。しかし、この差異の意味が大きいのです。

奥殿での、大蔵卿の正気と作り阿呆という、アンビバレントなふたつの側面は、多くの場合、カチャカチャとチェンネルを切り替える感じで繰り出されるわけです。これを大蔵卿のデジタル処理とでも言っておきましょう。例を挙げれば、故・十八代目勘三郎の大蔵卿がそうでした。もちろんそれはそれで面白いし・優れたものなのですが、今回、吉之助が感心したのは、吉右衛門の大蔵卿は、ちょっと目を離した瞬間にもうすでに別の表情になっている気がしたことです。正気と作り阿呆が混じり合っている。どちらが真か嘘か分からない。と云うよりも、どちらも真かも知れないし、あるいはどちらも嘘かも分からないという感じです。吉之助は、これを大蔵卿の無段階的アナログ処理と呼ぶことにします。今回の吉右衛門の大蔵卿は、二年前には吉之助がそこまで気付かなかったことが、はっきり前面に出 て来た気がしました。これはもちろん技巧なのでしょうが、これを技巧と感じさせないところの、技巧を越えた技巧なのです。幕切れの、勘解由の生首を抱いて笑いながら(それは現実のシーンならばまったく正視できないグロテスクな場面)に、滑稽さと痛快さと自嘲とペーソスが入り混じる、実に見事な演技を見せてくれました。そこに大蔵卿が置かれた状況が見えて来ます。

最後に付け加えると、若手がこの吉右衛門の大蔵卿を見て・いきなりこの演技を真似ようとしたら、決して良いことにはならないと思います。技巧的にかなり高度であるからです。吉右衛門の高度な技芸に裏打ちされた解釈を学ぶことは容易ではありません。修行のなかで芸が踏むべき過程というものがあるのです。でも、いつかはこの吉右衛門の域にまで到達したいという気持ちを持ってもらいたいものです。吉之助も40年超歌舞伎を見続けて良かったなあと思うのは、こういう舞台に出会った時ですね。

(H28・9・11)


○平成28年11月歌舞伎座:「毛抜」

七代目染五郎の粂寺弾正

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(粂寺弾正)


「毛抜」は歌舞伎には珍しく(科学そのものとは云えないけれど)科学めかした推理劇みたいなところがありますが、それは江戸庶民の感性の明晰さを反映したものですね。染五郎の粂寺弾正のパッとした明るさは、「毛抜」によく似合います。

染五郎の弾正は機嫌良く演じているのは、よい点です。台詞を高調子に取って歯切れよく悪くはないですが、所々で台詞が伸びますねえ。例えば若衆秀太郎に振られて観客に向かって、「これはみなさま近頃面目次第もございません」という台詞は、末尾を引き延ばして声を張り上げたのでは元禄歌舞伎の様式になりません。と云うか、この芝居を復活した二代目左団次の様式になりません。ここはトントンと二拍子のリズムを守って言うのが正しいのです。またその方が軽い愛嬌を交えた感じにもなると思います。台詞の抑揚も、鎌倉権五郎や曽我五郎のような典型的な荒事とはちょっと具合が違うので、弾正の場合は声を張り上げたりしません。台詞の音量は同じレベルに置いて、あまり小細工をしない。その方が役を線が太い印象に出来ます。

秀太郎にチラと目をやって「これはこれはそこもとが民部どののご舎弟でござるか」と云う間合いなども、チラと目をやりオオッというゆったりした間合いがあって、「これはこれは・・」とならねばならない。そこら辺に元禄歌舞伎の大まかな味わいが出るわけです。元禄歌舞伎は狂言の間合いが基本にあるのですから、その点を学べば染五郎は柄は悪くないのですから、良い弾正になると思いますが。

(H29・9・17)


○平成28年11月歌舞伎座:「元禄忠臣蔵・御浜御殿綱豊卿」

十五代目仁左衛門の綱豊・七代目染五郎の助右衛門

十五代目片岡仁左衛門(徳川綱豊卿)、七代目市川染五郎
(十代目松本幸四郎)(富森助右衛門)


仁左衛門(綱豊卿)と染五郎(助右衛門)の組み合わせは、東京では平成19年6月歌舞伎座以来です。この舞台のことは別稿「指導者の孤独」で触れました。今回見た感じでは、そこに約10年経ったなりのものが見えるとしても、前回書いた印象とそう大きな相違はなかったと言わざるを得ません。これはちょっと残念な気がしますね。どちらかと言えば問題は染五郎の助右衛門の方にあるでしょうが、御座所での対話の過程がまだ十分でありません。助右衛門が激昂して「あなた様はつくり阿呆の真似をあそばすのでございますか」と言い返す件、あるいは最後で「恐れながら、お敷居を越えます」と叫んで綱豊の足元へ駆け寄る件に至る流れの構築がスムーズでなく、いささか唐突に見えるところも同じです。

別稿「中車の助右衛門」の時に書きましたけれど、綱豊と助右衛門の関係は、赤穂浪士の動静を知ろうと盛んに探りを入れる綱豊と、それを気取られまいとする助右衛門という二元構図に読む限り、「御浜御殿」はいつまで経っても「元禄忠臣蔵外伝」ですね。昭和15年の「御浜御殿」初演において観客が舞台を見る時、内蔵助役者の二代目左団次が綱豊を演じているのですから、内蔵助と綱豊は重なって見えて来るわけです。青果は当然そのことを計算に入れて書いているのです。染五郎の助右衛門への不満は、助右衛門が(舞台に登場しない)内蔵助の煮え切らない態度にイライラしていること、そのような自分の気持ちをどこへ持って行ったら良いか分からないで内心とても焦っていること、そのような気分が染五郎の身体全体から発散されていないことです。

いずれ染五郎は綱豊を持ち役にすることでしょう。助右衛門役は染五郎にとって将来の綱豊のための修業だと思いますが、対話を受ける綱豊卿の身になって、御座所での対話の過程をよく研究 して欲しいと思います。ひとつ申し上げたいですが、恐らく染五郎は世評台詞がよく廻る若手役者とされていると思いますが、最近の舞台、例えば8月歌舞伎座の「権三と助十」(助十)、9月歌舞伎座の「らくだ」(紙屑買久六)でも、台詞は確かに早口で回しているけれど、本人は滑らかにしゃべっているつもりでしょうが、言葉が滑って吉之助には明瞭に聴こえませんね。台詞の速度はもっと遅くて良いですから、言葉の一句一句をもっと明瞭にお願いしたい。特に青果劇ではそこが大事なのです。

仁左衛門の綱豊は、持ち役としてほぼ完成されたものと云えます。吉之助は昭和55年12月歌舞伎座での初役以来見てきましたが、変わらず若々しく見事な台詞廻しです。前回 (平成19年歌舞伎座)の綱豊について、吉之助は台詞の末尾が伸びる傾向を指摘しましたが、今回はそこもほど良く抑えられて、なかなか良い綱豊になりました。吉之助は今回見ていて、どこか昨年10月歌舞伎座の「大蔵卿」の舞台に似た感じに思いました。あの時、吉之助は歌舞伎の大蔵卿が持つ過剰性のことを書きました。仁左衛門の大蔵卿はスカッとカッコ良過ぎて作り阿呆を楽しんでいるかに見えかねないところがありました。綱豊卿もそんなところがないではない。青果劇の過剰性は台詞の二拍子のリズムに現れます。この見事な綱豊にさらなる新境地を求めるとすれば、そこをどう処理するかですかね。

(H28・11・24)


○平成28年12月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」

二代目松也の源蔵・六代目勘九郎の松王

二代目尾上松也(武部源蔵)、六代目中村勘九郎(松王)他


千秋楽近くに舞台を見ましたが、初日から20日ほど演じて大分要領を得てきたか、みな神妙に勤めて、まあそれなりの出来であったと思います。義太夫狂言のコクとか云うものは、もっと年期を経て備わってくるものです。今はこれで良いでしょう。感心したのは、松也の源蔵の「せまじきものは宮仕えじゃなあ」の台詞に実感がこもって、なかなか良かったことでした。吉之助が40年超歌舞伎を見てきて思うには、この台詞が良い役者はそう多くはないです。この台詞では変に構えてしまって、却って真実味から遠くなってしまうことが多い。なぜかと云えば、源蔵が封建思想と身替りという非人間的行為に対して強い抗議の姿勢を示しながら、結局は小太郎を斬ってしまうからです。そのような矛盾した(と表面的にはそう非難されて仕方がない)行動をとってしまうことで、この台詞は何か嘘臭いというか・偽善の台詞のように聞こえて源蔵役者がどうしても引けてしまう、そういうところがあるのかも知れません。ある時代においては、この台詞が省かれることが多かったのも、そんなところから来ています。しかし、源蔵役者は「せまじきものは宮仕えじゃなあ」の台詞から逃げてはならないのです。源蔵はすべての責任を引き受ける覚悟でこの台詞を言うのです。そういう源蔵でなくてはなりません。(これについては別稿「せまじきものは宮仕え」をご覧ください。)この台詞が良く出来たということは、松也の感性の素直さを示していると思います。

勘九郎の松王に関しては、ちょっと気に掛かります。やるべきことはそれなりにやっているし、ところによっては「ほう」と思う箇所もあります。しかし、全体的に陰鬱な感じがして、どこかぎこちない。これは本人の生真面目な性格に拠るのでしょうが、役の気分というものを頭で捉えているようなところがありますね。(これは故・十八代目勘三郎も、似たようなところがありました。)松王を我が子を身替りの犠牲に差し出さねばならない悲劇に苦しむ父親だと考えるならば、「そりゃどうしたって愉快に演じられるわけがないですよ」と云う感じなのです。松王の乖離感覚というものを、そのような陰鬱な気分として理解しようとしているように思われます。確かにそこに勘九郎という役者の真実があるのでしょう。現代人としてそれは理解できます。しかし、それでは芝居の慰みにはなりません。真実を肚のなかに落とし込んで、慰みにして返さなくては。「難波土産」で近松門左衛門が「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり」と言っている、その慰みのことです。

気に掛かると云えば、同じ月での「二人椀久」の舞台を見ても、勘九郎が踊る椀久が、これもまったく同じで陰鬱そのものの印象です。松山太夫(玉三郎)とのツレ舞いが、玉三郎が微笑を浮かべて踊っているのに、不思議なほどに浮き立たない。椀久の表情が硬くて、全然楽しそうに見えない。「私が一緒に踊っている松山は幻なのです。私は翻弄されている。これが虚しくなくて何としましょうか」という感じです。これは良くないことです。確かに松山が消え去った後の幕切れは寒い風が吹くようであって良いですが、ツレ舞いが楽しくなければ慰みにはなりません。虚しさを肚のなかに落とし込んで、慰みにして返さなくては。このところの勘九郎は、演技にちょっと迷いが生じているように思われます。そういう時には深く思い悩むことはやめて、芝居の慰みということを考えて、役の気分をもっと大きく捉えることです。それが出来れば、大きく変わって来ると思いますが。

(H28・12・28)


○平成29年1月歌舞伎座:「井伊大老」

九代目幸四郎の井伊大老

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(井伊直弼)、 五代目中村歌六(仙英禅師)、五代目坂東玉三郎(お静の方)


歌舞伎の演目は数あれど、動きがない舞台面なのに「井伊大老」ほどしみじみと静かな感動が湧き上がる演目は他にないと、吉之助は思いますねえ。北条秀司の名作「井伊大老」は昭和31年3月明治座での初演。井伊直弼は八代目幸四郎(後の初代白鸚)、お静の方は六代目歌右衛門でした。この舞台はもちろん吉之助は見ていませんが(まだ生まれてない)、幸い昭和56年11月歌舞伎座での同じ配役を見ることが出来ました。ちなみにこの時の興行は初代白鸚・九代目幸四郎・七代目染五郎・三代の襲名披露興行で、白鸚は15日まで勤めて・翌日から休演(代役は吉右衛門)で、これが白鸚最後の舞台となったものです。

この時の舞台は素晴らしかったです。主役ふたりが良かったのはもちろんでしたが、十七代目羽左衛門の仙英禅師が良かった。禅師が去って直弼とお静の場面になっても、禅師が残していった余韻がずっと漂っていて、それが最後の場面の感動を深くする出汁みたいな味わいを醸し出していました。羽左衛門の舞台と云うと、吉之助はまずこの役を思い出しますねえ。

今回(平成29年1月歌舞伎座)の、幸四郎(直弼)・玉三郎(お静)・歌六(禅師)の舞台については、実はかなり期待しました。見終わって、一応の成果は挙げていて悪くない舞台です。が、ちょっと史劇っぽくて、感触としてはやや淡いかな。もちろんこうなるのは幸四郎の持ち味として当然であって、こういうのは吉之助も嫌いではないですが、「井伊大老」に関しては吉之助も脳裏に白鸚を重ねてしまいます。息子が父親の口跡を真似する必要はない、息子は息子なりの直弼像を作れば良いということは、吉之助もよく分かっています。しかし、吉之助は時折「白鸚はこの台詞はこう言ったのじゃなかったかなあ」ということをツイ考えてしまいました。まあそれだけ幸四郎に白鸚の再現を強く期待しておったということですよ。期待する価値が十二分にあると思っているのです。新歌舞伎としては、もう少し濃厚に粘りがあっても良いかなあと思います。これは玉三郎のお静にも言えることです。

36年も前のこと故、吉之助も記憶が薄れて「この台詞を白鸚はこうしゃべった」と云うような具体的なことが書けません。しかし、「元禄忠臣蔵」の内蔵助など新歌舞伎での役どころでの白鸚から類推するに、白鸚は台詞の色合いの変化を意識的に強く付けて台詞をしゃべったと思います。但し書きつけておくと、台詞の色合いの変化というのは、声色(こわいろ)を遣うということではありません。顔の表情・声の調子も含めて、台詞の表情をトータルに変えるということです。「意識的」ということは、自然な変化と云うよりは、様式的な変化であったということです。そこが新歌舞伎様式の感覚につながります。白鸚はそのような台詞の技術にひときわ長けた役者でした。だから東宝歌舞伎で女優と共演することが多かったのに、台詞が水っぽくならなかったということだと思います。

北条秀司の「井伊大老」には、真山青果物のような二拍子のリズムで熱く強く語る台詞がありません。だから様式感覚を取りにくいようですが、コツが分かれば、そう難しいことではありません。例えば禅師が残した笠を眺めて直弼が「いや(禅師は)戻られまい」までを写実に言い、(少し間を置いて)声のトーンをちょっと落としてテンポを引き延ばして「一期一会、禅師は別れを告げて行かれたのじゃ」を言う。ここで注意すべきは二拍子の基調を守り、詠嘆調に陥らないことです。或いはお静が盃を落としたのを見て直弼が「静、お前、最前、禅師から何か聞いたのではないか」という台詞なども、ここは臭くなるくらいに調子を落とした方が良い箇所です。そういうところに新歌舞伎様式を出すツボがちりばめられています。北条秀司は白鸚を念頭に直弼の台詞を書いているのですから。幸四郎の直弼はそういうところがちょっと淡い。だから芝居は淡々と進むけれども、もう少し色合いの変化が欲しくなるのです。

それと些細なことのようですが・気になるのは、直弼が「静」と呼びかける時の、「シズ」の言い方ですねえ。「シズ」と2拍子で言うと調子が強く、ちょっと情が薄く聴こえます。ここは「シィズゥ」と若干伸ばしてもらいたいですねえ。二拍子のリズムをちょっと破たんさせても良いです。その呼びかけにさりげなく情を込める、ちょっと甘えた感じにしても良い。吉之助の記憶が正しければ、そういう風に白鸚は言ったと思うのです。もしかしたら幸四郎は臭いと云われるのを避けてるのかも知れませんが、写実のなかに様式の切れ目を入れる白鸚の技術を取り入れれば、幸四郎はこの舞台をもっと新歌舞伎にできると思うのですが。

(H29・1・7)


○平成29年1月大阪松竹座:「勧進帳」

八代目芝翫襲名の弁慶

八代目中村芝翫(三代目中村橋之助改メ)(弁慶)、十五代目片岡仁左衛門(富樫)

(八代目中村芝翫襲名披露)


新・芝翫は昔から芝居好きの名子役としてよく知られていましたし、先輩の貴重な舞台を傍で随分見てきたと思います。だから芝居の骨法というものを肌で知っているわけで、実際、芝翫の演技は安定していて、大きく外すことはありませんでした。故・勘三郎の新作歌舞伎に付き合っても、そのはしゃぎぶりに当てられて芸の品位を下げる役者も少なくなかったなかで、芝翫(それと故・三津五郎)は自分のペースをしっかり守るところがあったと思います。そういうのは、結構大事なことなのです。

10月から始まった襲名披露興行でも、熊谷直実や佐々木盛綱は形容も悪くないし安定感もあるし、そういうところは二代目松緑や初代白鸚など名優たちの舞台を知っている強みが光ります。「・・らしさ」というところは、確かに掴んでいる。後は演技の冴え・メリハリですねえ。芝翫の演技は良く言えば「太い」ということでしょうが、悪口を云えばややメタボ気味のところがある。もう少し台詞や動作に緩急の工夫が欲しい。そこが「画竜点睛を欠く」ということになるので、そこを突き抜ければ芝翫はひと皮剥けると思います。

そこで今回(平成29年1月大阪松竹座)での弁慶ですが、これも形容は悪くありません。史劇風の弁慶が多いなかで、芝翫の弁慶は如何にも歌舞伎らしい風貌です。これは貴重です。山伏問答も、これは共演の仁左衛門の富樫のおかげもありますが、大筋においてアッチェレランドのテンポ設計がしっかり取れています。これは近年の「勧進帳」上演では珍しくまともな問答で(逆に云えばそれくらい昨今の山伏問答は満足できるものが少ないということで)、そういうところに芝翫の蓄積が出ていると思います。海老蔵などは、そういうところをちょっと見習って欲しいなあという気がします。ただ芝翫は、まだ「・・らしさ」に頼っている感がしますねえ。つまり弁慶らしい形容の良さに頼っていると云うこと。決して悪くはないが、もっと良く出来るのではないかという気がします。もう少し肚を生(なま)に出しても良い。どこがどうしろということは細かいことになるのでここでは書きにくいですが、敢えて 「・・らしさ」の殻を破った心理描写の熱いところを試みても良いのではないか。逆にそういう点では、海老蔵からも学ぶところがあるかも知れませんね。

(H29・1・23)


○平成29年1月大阪松竹座:「雁のたより」

上方喜劇の感覚

四代目中村鴈治郎(髪結五郎七)、片岡孝太郎(花車お玉)他


「雁のたより」は天保元年・大坂角の芝居での初演。役者の味で見せる他愛のない上方喜劇と言いたいところですが、作者金澤竜玉というのは実は三代目歌右衛門のペンネームで、初演の髪結五郎七は歌右衛門自身が演じたのだと聞くと、俄かに興味が湧いてきますねえ。歌右衛門の屋号は三代目までは成駒屋ではなくて加賀屋。三代目は「嫩軍記」の直実など立役を得意としましたが、道化方から若衆・女形まで幅広く勤め、さらに所作事にも優れた、まさに兼ねる役者の典型でした。その歌右衛門が演じた五郎七という役は、二枚目にして三枚目、もしかしたら一筋縄ではいかぬ役なのかも知れません。

鴈治郎のことですが、襲名して2年経って吉之助もやっと「ガンジロさん」とスンナリ出るようになりました。襲名の時と比べるとだいぶ余裕が出てきたようで、丸い福々しいお顔がとぼけた良い味 を出すようになって来て、この方向で地歩を固めつつあるようです。ガンジロさんとなった以上は上方狂言の継承・復興に頑張って欲しいし、この「雁のたより」の五郎七も、他愛のない上方喜劇と考えれば、それなりの出来だと思います。

そこでちょっと三代目歌右衛門が演じた二枚目にして三枚目という髪結五郎七について考えてみたいのですが、お殿様のお妾さんが惚れるほどの良い男、最後の最後に分かるのは元は武家の御曹司だったということなのだから (筋立てのいい加減さはここでは置いておきましょう)、五郎七という役は武士の性根を内に秘め、キリッとしたところがあって、芯の強さを持つ役どころであると推察できます。芯の強さを真っ直ぐに出さずに曲げて出す、シリアスさを滑稽に紛らせる、そういうところが欲しいわけです。これについては別稿「上方和事の行方」で触れた通りです。鴈治郎は、とぼけた滑稽味は出せるようになってきました。さらに滑稽さを取っ掛かりにして、役のなかにあるシリアスさをどう処理すべきかを考えてもらいたいのです。このことが「今の自分は真実の自分ではない」という上方和事の本質に通じます。(だから三代目歌右衛門はちゃんと和事の公式を踏まえて五郎七のキャラクターを設定しているわけで、いい加減に書いていないことが、これで分かるでしょう。)

この点で孝太郎の花車お玉は、上方喜劇の感覚をさすがによく掴んでいます。これは孝太郎のセンスの良さもありますが、女形の技巧というものが既に様式に通じるものであるからだろうと思います。(女形もまた、「今の自分は真実の自分ではない」 存在なのですから。)鴈治郎の場合は、役者の愛嬌とでも云うか、上方喜劇の感覚は役者の味がさせるものとまだ考えているように思いますねえ。それだと役者個人の資質に帰せられてしまって、様式にならないのではないですか。「雁のたより」を他愛のない上方喜劇ということで済ませるのならば、このままで良いです。しかし、髪結五郎七の役作りが、治兵衛にも忠兵衛にも通じるということが分かって来れば、これで済ませるわけには行きません。「雁のたより」を役者の味で見せる芝居ということで済ませるのではなく、技巧で見せる芝居という風に捉えてもらいたいのです。シリアスさを滑稽に紛らせる技巧を様式にするのが、和事なのです。大分いいところまで来ているのだから、もうちょっとなのだから、頑張って欲しいものですね。

(H29・1・26)


○平成29年2月歌舞伎座:「絵本太功記・尼ヶ崎閑居」

「太十」の難しさ

八代目中村芝翫(武智光秀)、二代目中村魁春(操)、四代目中村鴈治郎(十次郎)、片岡孝太郎(初菊)他


「絵本太功記・十段目・尼ヶ崎閑居」、通称「太十」は、立役から若衆・姫・女房・老婆まで役柄が揃って声域に幅があるので、昔から素人義太夫では教材としてよく取り上げられたものでした。同じ理由から地方の地芝居(農村歌舞伎)でもよく上演がされま した。だから「太十」は巷ではよく知られた演目なのですが、その割に大歌舞伎での上演頻度が低いようです。「寺子屋」や「熊谷陣屋」は年に一度か二度はどこかで必ず出ますが、「太十」は3年か4年に一度くらいの頻度です。確かに「太十」は役者が揃わないと出せない演目であるかも知れませんが、それよりも演じる役者の側から見て、何となく演り難い理由があるのかなあとも思います。

そこで吉之助が役者の立場になって考えてみるに、「太十」には皐月・操・初菊・十次郎のクドキ・見せ場がそれぞれ用意されているのだけれど、その役の見せ場の時には他の役者はじっと黙って正面向いて座っていなければならない時間が結構長いように感じられるのです。複数の役者ががっぷり四つに組んで火花を散らすという場面があまりない。個々の役者の演技のモザイク的な組み合わせというのが、「太十」という芝居の印象になるかなと思います。逆に云えば、 それだから素人歌舞伎では出しやすい演目だと云うことになるわけでしょうけれど、大歌舞伎の場合には、緊張感を以てすべての役者が同じ方向に向いていないと舞台の空虚さがひどく目立つということになりかねない。「太十」は結構難しい芝居なのかも知れません。そう考えてみると、確かにこのところ腹応えのする「太十」の舞台を見ていないような気がしますねえ。

杉山其日庵は「浄瑠璃素人講釈」のなかで「この段は、剛毅憤懣の気が充満した光秀で、聴衆が泣くように書いたものであることをよく会得して、その他は、光秀を泣かざるを得ざるように仕向ける責め道具に配せられた人形ばかりであることを忘れずに語る」ということを言っています。皐月・操・初菊・十次郎らの役割はただひとつ、寄ってたかって光秀を泣かせること。自分の持ち場で交互順番に光秀を責めたてて、主殺しの報いの恐ろしさを思い知らせることだということです。別稿「勇気の人・武智光秀」に書いた通り、本作の光秀は悪逆非道の主人・小田春永を民を休むる為に討つと決意した人物ですから、主殺しの汚名を受けることはもとより覚悟の上のことです。光秀は必死で剛毅の姿勢を守っています。しかし母親を自らの手で殺してしまう羽目となり、また最愛の息子も失うこととなり、これが自分の行動の報いかと思わず涙が流れてしまう、そのような悲劇的状況に光秀を追い込むことが、光秀以外の他の役に課せられた役割なのです。すべての役が同じ方向を向いて演技をしないと、芝居の隙が露わに見えてしまって緊張感が失われるということです。これを役者のアンサンブルと云って良いものか、或いは全体で醸し出す芝居の佇まいとでも云うべきかなと思います。これがバッチリ決まれば、「太十」は実に大きな芝居に出来ます。

浄瑠璃素人講釈〈下〉 (岩波文庫)

というわけで、「太十」はもちろん光秀が主役に違いないですが、光秀以外の他の役もみんな大事なのです。そこで今回(平成29年2月歌舞伎座)の「太十」ですけれど、芝翫の光秀始め、個々の役はまあ取り立てて悪いわけでもないですが、グッと腹に応えるという感じにはまだ行かないようです。芝翫の光秀は、やっぱりこういう時代物の太い役柄がこの優には似合うなあと思います。だから、どっしりした時代物の感触が味わえないのは、芝翫のせいということではなく、やはり芝居全体の佇まいにおいて問題があるということです。誰かが緊張感に欠けるということでもなく、何というか、舞台全体の息の深さと云うか詰めと云うか、あるいは器の大きさみたいなものですかねえ。そういうものがもう少し欲しい。もっともこれは平成の歌舞伎が抱える問題と云うべきで、今回の舞台に限ったことではありませんが。「太十」のような芝居だと、そういうことが露わに見えてしまうということなのです。

(H29・3・7)


○平成29年2月歌舞伎座:「梅ごよみ」

丹次郎の和事

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(丹次郎)、 五代目尾上菊之助(芸者仇吉)、六代目中村勘九郎(芸者米吉)


原作は江戸末期の為永春水の人情本「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」で、通称「梅暦」。色男の丹次郎と女たちとの三角関係を描いたものです。庶民の実生活に即した春水の人情本は読者から熱狂的な支持を受けましたが、天保の改革では幕府から風俗を乱すという理由でら睨まれて、春水は捕えられて、本書は絶版を命じられました。そのせいか歌舞伎での上演は少なかったようで、明治3年3月中村座で黙阿弥の「梅暦辰巳園(うめごよみたつみのその)」が目立つくらいで、それ以前だと 大阪で「春色梅花暦(しゅんしょくうめごよみ)」があるそうで、これがどうも「梅暦」の最初の歌舞伎化らしいですが、詳しいことは吉之助には調べが付きませんでした。現在上演されるのは昭和2年7月歌舞伎座で、「研辰の討たれ」で知られる木村錦花の脚色で初演された「梅ごよみ」(丹次郎が十五代目羽左衛門、仇吉が六代目梅幸、米八が七代目宗十郎、この舞台は良かったでしょうねえ)で、今回の上演もそれに拠っています。

ここで興味深いことは、深川芸者の意地の張り合いという、如何にも江戸らしい題材なのに、最初の歌舞伎化が、東京ではなくて大阪だったということです。大阪での舞台は想像するしかないですが、恐らく取っ掛かりは色男の丹次郎という役の和事的処理にあったと思います。別に「梅暦」の系譜があるわけではないけれど、今回の「梅ごよみ」も、これは昭和2年の初演だから古典とは云えないかも知れませんが(新歌舞伎とも云えませんが)、染五郎が演じる丹次郎は、伝統的な和事のつっころばし風に処理されています。これは恐らく初演の十五代目羽左衛門もそうだったでしょう。そのせいか丹次郎の感触が、先月(1月)大阪松竹座で吉之助が見た雁のたより」の髪結五郎七と何となく似ていると感じられます。これは決して偶然ではなく、歌舞伎役者には芸の引き出しを以て或る種のパターン思考で役どころを処理する習性がありますから、二枚目の色男・優男という発想から必然的に似た感触になっていくのです。そうすると吉之助としては、鴈治郎の五郎七に書いたのと同じようなことを、染五郎の丹次郎にも書かねばならないことになります。

念のため記しておくと、上方の「雁のたより」と江戸の「梅ごよみ」をごっちゃにして論じていると思われるでしょうが、手法はちょっと異なるようだけど、上方であろうが江戸であろうが、和事の本質は同じところにあるというのが、吉之助の考えなのです。芝居だとよく分からないところがありますが、原作だと丹次郎は、鎌倉恋ヶ窪の遊女屋「唐琴屋」の養子だが、武家の隠し子ということになっています。もちろん江戸の吉原を鎌倉恋ヶ窪に置き換えているわけです。)これは「雁のたより」 の五郎七とよく似た素性です。丹次郎が女性にモテてモテて仕方ないのは、もちろん色男・優男だからに違いないですが、決してそれだけではない。そこに「今の自分は真実の自分の姿ではない」という気分があるのです。和事の主人公というのはひ弱で頼りなくて、ちょっとしたことでヒーヒー言いますが、それでも決して物事を投げるところがありません。そこに丹次郎の芯の強さとシリアスさがあるわけで、実はそれが女性たちを惹きつけているのです。だから守ってやりたくなるのです。こうして頼りなさが滑稽味を帯びて来ることになります。シリアスさを滑稽に紛らせる、そういうところが和事では大事なのです。詳しいことは別稿「和事芸の起源」や「上方和事の行方」などで触れましたから、そちらをお読みいただくことにしてここでは繰り返しませんが、どうも染五郎の丹次郎は、和事の色男・優男のイメージをまだ表層的にしか受け止めていないようです。だから丹次郎がその存在だけで女たちを振り回す芝居にはなっておらぬ。ドラマの求心力が丹次郎にないと、「梅暦」の本当の面白さは出て来ないと思います。恐らくこれから染五郎は和事の役どころを任される機会がますます多くなると思いますから、そこのところは心得てもらいたいものです。

今回(平成29年2月歌舞伎座) の舞台を見ると、深川芸者の意地の張り合いと恋の駆け引きを見せる他愛ない笑劇ということならば、それなりに楽しく見せています。そういうことは別にして、吉之助が感じるのは、全体に芝居のタッチがいかにも軽いということです。軽いから観客に受けているということも吉之助は理解はしてますが、このタッチの軽さは吉之助には気になります。正直言うと、これではまだホントの意味での歌舞伎芝居の感触になっていないと思います。素でやっているように感じられます。(これは雁のたより」 も同様であったと思います。)この芝居を本物の歌舞伎にしていくためには、それぞれの役者がフォルムへの意識をもっと強く持たねばなりませんね。本稿は丹次郎の和事芸で論じたので染五郎について書きましたが、もちろん染五郎だけのことではありません。フォルムを様式にしていくのが、歌舞伎なのです。

(H29・2・21)


○平成29年3月歌舞伎座:「助六由縁江戸桜」

十一代目海老蔵、四年ぶりの「助六」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(助六)、五代目中村雀右衛門(揚巻)


海老蔵の助六は、平成25年6月歌舞伎座以来、ほぼ4年ぶりということになります。日本テレビの 恒例の正月特番「市川海老蔵にござりまする」を本年正月に見て、この10年くらいの海老蔵の舞台を思い返したのですが、市川宗家の歴史の重圧ということはもちろんですが、彼の人生はジェット・コースターみたいに変転が激しくて、いろんな試練が立て続けに降りかかって、まったく大変なことであるなあ、海老蔵はこれに耐えてよく舞台に立ててるもんだと思いました。詳細は書かなくても、みなさん週刊誌などでよくご存じのことですから、省きます。吉之助は、ここ10年の海老蔵の舞台に、不安定な危なっかしさ、特に台詞面においてそんなことを感じることが多々あったのは事実ですが、背景にこんなことがあれば、そりゃあ誰でも不安定になるよなあ・・と思いました。吉之助だったらホント寝込んじゃいますねえ。海老蔵は今はとにかくじっくり守りに入って内面を磨くべき時期かなと思いますが、最近の海老蔵の活動を見ると急いてる感じがしなくもない。そこがちょっと心配になりますが。

ところで海老蔵の助六のことですが、初演の平成12年1月新橋演舞場での鮮烈な印象からすると、この10年くらいの助六は、見るたびに迷いを感じるというか、よく云えば試行錯誤の助六、悪く言えば自分を美質を見失っている助六と云う印象でした。同じことが、「勧進帳」の弁慶についても云えます。どちらも市川家の代名詞と云うべき役です。そういうわけで、久し振りの海老蔵の助六は、期待しながらも不安半ばで見たというのが正直なところでしたが、今回(平成29年3月歌舞伎座)の海老蔵の助六は想像していたよりも随分良かったというのが、吉之助の印象です。

良かったのは、発声が客席にそれなりに良く通っていたことです。前回の不安定で聴きづらい発声からすれば、かなり改善しました。落ち着きが出てきたようで、台詞を急かず、ゆっくり言っているので、言葉がよく聞き取れました。もちろん台詞の抑揚やリズムの課題はまだまだあります。ただし、台詞の抑揚の癖にある種の方向性が見えつつあるようです。海老蔵ももう中堅どころであるわけだから、それならばそれで、海老蔵なりの言い回しというものを工夫せねばならない段階に来ているようです。これは更なるトレーニングが早急に必要です。「助六」の眼目である出端の立ち姿はスッキリとして、これは前回よりもずっと良くなりました。立ち姿に関しては、まったく期待通りと言って良いです。如何にも江戸一番のいい男でしたねえ。海老蔵はそろそろ混迷の時期を抜けて、新たな時期の入り口に差し掛かっているということではないかと思いました。

良いと云えば、初役の雀右衛門の揚巻もなかなか良かった。雀右衛門はインタヴューで、「父(先代)が勤めたことを少しでもコピーできれば。少しでも父のような風情を出せるようにしたい」と語っていましたが、それは十分できていたと思います。これは虚心で挑んだ結果ですが、風格を感じさせるなかなか良い揚巻でしたね。吉之助は、別稿「新・雀右衛門への期待」のなかで、「もうそろそろ娘役が似合わなくなって来て欲しい」と書いたのですが、今回の揚巻がこれまでの芸の殻を破って、さらなる芸の高みへ飛躍する機会となることを期待します。

(H29・3・17)


○平成29年3月歌舞伎座:「明君行状記」

四代目梅玉・五代目亀三郎による「明君行状記」

四代目中村梅玉(池田光政)、五代目坂東亀三郎(九代目坂東彦三郎)(青地善左衛門)


真山青果の「明君行状記」は昭和12年1月東京劇場の初演で、配役は二代目左団次の光政・初代猿翁(当時は二代目猿之助)の善左衛門でした。この戯曲が雑誌に発表されたのはそれより随分前のことで、大正15年でした。と云うことなので青果は左団次劇団の上演を前提に書いたのではないのですが、戯曲を読めば台詞に左団次劇のリズムが出ていることは歴然としていますね。ただし、青果によれば、これは飽くまで自分の失敗作で、三幕目になればどうやら見物は見てくれるけれども序幕二幕の出来は散々だと自分は思うところで、今回(昭和12年)初演が好評であったのは、「まったく左団次君や猿之助君ら俳優のお手柄で、私は決して作品そのものの成功と考えていない」と書いています。(「明君行状記」作者覚書・真山青果全集・第18巻)

青果によれば、発表後間もなく岡鬼太郎(だと青果は推測する)から大谷竹次郎に、あれを初代吉右衛門にやらせてみたいが、あのままでは見物に分かりにくいので、お止め場で善左衛門が鉄砲を打ち込む短い序幕を付け加えて欲しいという注文が出たそうです。青果はその注文も無理からぬと思いながらそのままにしていました。昭和12年の左団次での上演の話が出た時も、青果は序幕を書き直すならばともかく、今のままでは困ると再三断ったそうです。しかし、その時はもう配役も決まって準備が進んでおり、「松竹の使用人たる私としてはそうそう我儘も云えず」ということで上演の運びとなったと云うのです。

初演の経過は「なるほどそんなところだろう」と思うところが確かにあります。序幕を読むと、命を掛けて名君と崇められている池田光政公の本性を知りたいという善左衛門の気持ちが、理屈では理解できるけれども、素直にハイそうですかと納得できないところがある。それはお止め場で善左衛門を咎めた足軽を斬ったこと、その後の屋敷で下郎林助を結果として死なせてしまったせいです。主従二人の関係はこの結末で丸く収まって良いかも知れないが、身分の低い死んだふたりのことが捨て置かれている。そこがちょっと引っ掛かる。穿って読むと、これは「 俺はお殿様のお気に入りなんだから許してくれるに違いない」という甘えが前提の我儘に見えかねない。だからそのように見せないように、もう少し善左衛門の心情を掘り下げる必要がある。そこが不足している点が、青果自らが本作を失敗作とするところでしょう。

ちなみに執筆に当たり青果が参照した史料は、「有斐録」と云う本です。これは名君池田光政公に関する逸話を集めたもので、つまりこれが「明君行状記」です。この本 は主君賛美の色が強過ぎだとの評価があるそうですが、それは兎も角、「有斐録」をパラパラめくると善左衛門の名前が何箇所か見えます。善左衛門が光政のお目見え宜しかった人物であることも、分かります。本作のネタである「(善左衛門が)切腹間もこれなくと存じ、この間に二羽とも料理仕り候てたべ候由、申し上げければ、如何様さうあらうと仰せて、御笑ひ遊ばされ候由」という逸話が出て来ます。ただし、善左衛門の気持ちの詳しいところは「有斐録」では分りません。寛永当時の竹を割った直情的な気風からすれば、善左衛門の行動はさほど深く考えた行動に思われません。罪は罪として処断されるならば、これを恐れる気など微塵もないということだったと思います。一方、「名君と崇めるべき人物なのか、殿の本性を知りたい、命を掛けた俺の問いに殿がどう答えるのか知りたい」と云う、戯曲に描かれた主君に対する懐疑的かつちょっと捻じれた思いは青果の解釈で、これはまったく二十世紀初頭のものであると云える。だからこそなおさら善左衛門の心情を細かく書き込んでおく必要がある。

しかし、結局、青果の懸念に反して初演が好評であったということは、それまでの青果と左団次劇団との長い信頼関係の賜物であったと云うべきです。脚本の不足なところを役者のセンスが補ったということです。いやまったく芝居というのは、脚本だけで出来ているわけではないですねえ。善左衛門の気持ちがピュアなものであることに、観客に疑いを持たせなかったのは、善左衛門を演じた猿翁の、二拍子の急き立てるリズムの台詞回しの功績でしょう。二拍子の急き立てるリズムは、胸に詰まる思いを吐き出さずにはいられないというリズムです。その思いはピュアで、一本気で、ひたすらに無私なものです。二代目左団次の二拍子のリズムなしで初演は成功しなかったでしょう。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)

今回(平成29年3月歌舞伎座)上演では、まず亀三郎の善左衛門がなかなか良い出来ですねえ。台詞が明晰で、二拍子のリズムがしっかりしているので、青果の論理性が生きています。青果劇が理屈っぽいという印象に陥らないようにするには、言葉を明晰にすること。青果劇が押しつけがましいという印象に陥らないようにするには、二拍子のリズムの打ち込を深く取ることです。亀三郎の善左衛門はこれができていて、梅玉の老獪な光政公によく対抗出来ています。青果劇における梅玉の上手さは云うまでもないことです。

真山青果全集〈第3巻〉(「明君行状記」所収)

(H29・4・12)


○平成29年4月歌舞伎座:「伊勢音頭」

もう少し季節感が欲しい

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(福岡貢)、 四代目市川猿之助(仲居万野)


最近は劇場の空調が効いているせいか、演目立てにホントに季節感がなくなりました。冬に「紅葉狩」が出たり、秋に「吉野山」が出たりするのだから、まあ4月に「伊勢音頭」が出てもどうってことはないですが、この「伊勢音頭」というのは代表的な夏狂言なんですよね。だから暑っ苦しい雰囲気くらいは出してもらいたいわけです。浴衣姿で団扇パタパタやってれば夏だと云うのでは、困ります。夏狂言の「夏」たる所以は、主人公が遂に切れて怒り出すまでの、虐められて耐えに耐え抜くイライラした場面にあるのです。つまり、虐めのプロセスが暑苦しく、それが拭ってもぬぐっても暑さがまつわりつく日本の夏にどこか似るのです。主人公福岡貢は仲居万野にいじられてもなかなか怒りません。これは別稿「ピントコナ考」で触れましたが、傍から見て怒って当然と思うところで怒らず、なお優柔不断な態度をしていることは、観客からすると「おい貢、何んで怒らへんねん、はっきりせんかい、阿呆ちゃうか」ということになるのです。そこがイライラした夏の暑さに似るわけですが、そこで遂に貢がブチ切れて刀を振り回すから、観客はスカッとする。夏狂言はそのような造りになっているのです。

まず猿之助の万野について触れますが、貢に対する敵意・悪意がストレートに過ぎます。台詞がべりべり早すぎて、だから解りやすいと思う方もいるかも知れませんが、これでは夏芝居になりません。誰をお手本にしたのですかねえ、何だか故・勘三郎の万野に似た感じがしますが、ここはもっと陰湿に、ねちっこくやらねばなりません。どうして貢を虐めるのか訳が分からない、もしかしたら万野は貢に気があるので嫌がらせするのかと思うような感じでねっとりと嬲る、そこが夏の暑苦しさに似るのです。六代目歌右衛門か多賀之丞の万野の映像があるならば、是非見て研究して欲しいものです。これを見れば、腕の立つ猿之助ならば、俺ならばああやって貢をいびりたい・こうやっていじめたいと、いろいろ工夫したくてたまらなくなると思いますがねえ。芸には、まだまだ上があるんです。

染五郎の貢は、総体としては悪くはないです。しかし、万野が悪意を露わにしてぶつかって来れば、貢の方も頭に血が上った体で受けざるを得なくなるのは仕方のないところです。このため怒りのプロセスが単純になっています。貢が本当に怒るのは、お紺の縁切りまで取って置かねばなりません。染五郎の貢は、「万呼べ」の辺からもう切れて見えますねえ。貢が優柔不断な態度を取ってなかなか怒らないのは、見栄とかテレと云うような表面的なことではありません。これはもっと深く、貢が御師(おし・おんし)に設定されていることの本質に根ざしています。貢は今は伊勢御師ですが元武士であり、主筋である万次郎に尽くします。つまり貢はその本質によって自分を偽っており、「今私が見せている態度は、私が本当に感じていることとは違う」という、或る種のちぐはぐ感を呈するのです。このことは別稿「ピントコナ考」に詳しく述べましたから、そちらをご覧ください。

なお、これは今回に限ったことではなく、歌舞伎の「油屋」の舞台で気になることですが、いつ頃からこうなったのか分かりませんが、万野に偽文を投げつけられて貢が思わず立ち上がる時のツケは不要じゃないかと思いますね。この強いツケの打ち方ならば、ここで貢は切れてしかるべきです。しかし、この後にすぐ「女を相手に大人げない・・」と言っている通り、この時点での貢はまだ切れていません。それなのに、このツケはまるで時代物の如くの強い打ち方です。これは吉之助にはとても違和感があります。本来、世話物では、形を決める時にツケを入れないものです。最近は黙阿弥物でもツケを盛大に打つので、役者も観客も感覚が麻痺していて、困ったことだと思います。これでは形を決めることと、見得との区別が付きません。「油屋」のことで云えば、貢は、お鹿にイライラさせられ、万野にいちゃもんつけられ、お紺に縁切りされてと、三段階で痛めつけられて、最後に切れるのです。歌舞伎の「油屋」での貢の怒りのプロセスについては、もう少し工夫の余地があるようです。そのために「伊勢音頭」がどうして夏狂言なのかということに思いをはせてもらいたいものです。

(H29・4・18)


○平成29年4月歌舞伎座:「熊谷陣屋」

九代目幸四郎の直実について

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(熊谷直実)、四代目市川猿之助(相模)、十一代目市川高麗蔵(藤の方)、四代目市川左団次(弥陀六)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(源義経)


このところの幸四郎の舞台は芸の円熟への確かな道程を歩んでいると感心することが多いですが、そのなかで「熊谷陣屋」と「勧進帳」はやはり幸四郎に取って図抜けて重い、それゆえ意識過剰になってしまうほど大切な演目であるのだろうとお察しをします。特に熊谷に関しては、祖父七代目幸四郎と共にもうひとりの祖父初代吉右衛門の代表的な当たり芸でもあり、父初代白鸚(八代目幸四郎)も得意芸としたとなれば、重さは格別なものでしょう。吉之助が何を云いたいのかといえば、直実と弁慶の二役に関して、吉之助から見るとどうでも良い些細な箇所を、幸四郎はちょこまかいじり過ぎるということです。心理表現をもっと精緻に、或は観客に分かりやすくという意図だと理解はするけれども、却って役の自然な大きさを損なっている。そこに幸四郎のこの二役についての意識過剰を見る気がします。両役ともに、もうそろそろ役の性根を自然に大掴みにするところが出て良い頃だと思います。

例えば熊谷が花道を組み手して出てきて、七三で立ち止まり腕を解くと、右手にかけた数珠が刀の柄に当たってチリーンと微かに鳴る、オッと数珠を持ったままであったかと、それをさりげなく懐に収め・・というのは、熊谷が数珠を持っていることに観客の注意を向ける意図であるのは、もちろんよく分かります。しかし、映画で遺っている初代吉右衛門の最後の「熊谷陣屋」(昭和25年)を見れば、初代吉右衛門の熊谷は花道七三で止まることさえせず、チラッと数珠を見せるだけで、歩きながら数珠を懐に収めてしまいます。気付かぬ観客は気付かぬままでしょう。あの箇所は所詮、その程度の場面なのだと思うのです。熊谷役者が本気で工夫して汗せねばならぬところが別にあるはず。吉之助から見ると、幸四郎はどうでも良いところに凝り過ぎに思われます。逆に云えば、そのくらい幸四郎は何とかこの役を洗い上げたい使命を感じていると云うことでしょう。しかし、あんまり洗剤を使い過ぎると布地を痛める場合もあるのでは?

これは前回所演(平成26年11月歌舞伎座)には感じなかったことですが、今回の前半は熊谷の間が若干詰まった感じがしました。(後半は役が入れ込むせいか目立ないが。)これは熊谷の演技を小気味良く見せる長所もあるので必ずしも悪いことではないのですが、床の語りの末尾と熊谷の台詞の頭がわずかに被さる場面が四か所ほど見えました。熊谷の台詞の間合いがほんのわずか早いと感じます。例えば床の「(小次郎は息災でいますか)と問へば熊谷声荒らげ」の「げ」に、熊谷の「戦場へ赴くからは命はなきもの」の台詞の頭 の「せ」がわずかに被ります。これは良くありません。吉之助などは聴いていてウッと息が詰まります。吉之助は最初たまたまかと思ったのですが、どうも幸四郎は意図的に被せているようですねえ。これは義太夫の間合いではありません。恐らく相模を頭から押さえつけようとする熊谷の心が現れていると云うことだと思いますが、義太夫狂言の骨法は守ってもらいたいものです。

熊谷の幕外の引っ込みのことですが、杉贋阿弥も『(九代目)団十郎は調子と云い形と云い、自己本位に出家を夢と観じているので、こう悟ってしまうと「柊に置く初雪の」でボロボロ泣くのが揺り返しめいて連続しない(中略)、団十郎はとかく悟り過ぎて困る』と書いているくらいで、まあ九代目団十郎型の本質はそういうものです。(これについては別稿「型とは何か〜 八代目芝翫襲名の熊谷」で詳しく触れました。)そういう意味では、九代目団十郎型の、幕外引っ込みの自己本位の本質を、幸四郎の熊谷ほど拡大して生(なま)で見せてくれている役者はありません。しかし、そこは型の創始者が本当は隠して欲しい部分かも知れないということも、幸四郎も少しは考えてみても良いのではないか。吉之助も幸四郎の熊谷は何度見たことか、そろそろ心(情)と形容(型)との理想の配合のバランスを見出して欲しいと思って見てきましたが、「未だ結論を見いだせず苦悩しているなあ」と云うのが、正直な感想です。そこに幸四郎の熊谷という役に対する意識過剰を見る気がするのです。しかし、もうそろそろ吹っ切れて欲しいなあと思います。

(H29・4・24)


○平成29年6月歌舞伎座:「御所桜堀川夜討〜弁慶上使」

五代目雀右衛門のおわさ

二代目中村吉右衛門(武蔵坊弁慶)、五代目中村雀右衛門(おわさ)


弁慶は女っ気が全然ない硬派のキャラクターですが、本作(御所桜堀川夜討・三段目切)では、弁慶の人生ただ一度の房事という意外が明かされます。しかもその時に相手(おわさ)が懐胎して生まれた娘が信夫で、その娘を主筋の卿の君の身替りに斬って、決して泣かぬ弁慶がここでは男泣きに泣くという意外に意外が重なるところがこの芝居の趣向で、それで昔から人気がある場です。しかし、奥の一間に潜む弁慶が障子越しに信夫を斬って状況が動き出すまでの前半が平坦で、芝居の作りとしては決して上等と行かぬところがあると思います。そこをドラマにするのがおわさの存在で、狂言回しに見えるおわさがドラマの厚み(十七年という時間の重み)を背負っていますから、実はおわさが芯なのです。だからおわさが良くないと弁慶の悲劇性が見えて来ません。おわさは世話の役ですから、本作は舞台面としては時代物の風ですが、芝居としては世話場で、これで「御所三」の通称にふさわしい三段目の風に見合うのではないかと考えます。

「御所三」は頻繁に掛る芝居ではないし、上記の通り作劇上の問題が若干あるので、この弁慶の悲劇(同時におわさの悲劇でもあります)を観客がどのくらい受け入れるものかと心配になりましたが、今回吉之助が見た感じでは観客はよく反応してして、信夫の身替りの意味がちゃんと伝わっていると感じました。日本人的な感性はまだしっかり生きているようだなあと安心しました。そういうものが観客に伝わったのは、吉右衛門の弁慶の風格の大きさもさることながら、雀右衛門のおわさの演技に拠るところが大きかったと思います。

成駒屋(六代目歌右衛門・七代目芝翫)の型では、「そんならお前は、その時のお稚児さんであったかいな」という箇所で、満面に笑み(というか恥じらい)を浮かべて全身グニャグニャに溶けて見せて、そこからハッと「そんなら(斬ったのは)お前の子じゃござんせぬか」と色を変える、その変化が理屈を越えて技巧的で何とも面白かったものでした。京屋(四代目雀右衛門も当代も)は、そこのところは控えめに見せます。どちらにもそれぞれの良さがありますが、多分京屋の型が作本来に近いでしょう。派手さはないですが、こちらの方が実があると感じます。今回の舞台でも、当代雀右衛門の芸風の手堅いところが生きて、しっかりとおわさのドラマが構築できています。だから観客に「御所三」の悲劇がよく伝わりました。襲名して1年ほどになるわけですが、雀右衛門は着実に芸が深化して名前にふさわしい大きさが備わってきたようで、これは嬉しいことでした。

(H29・6・25)


○平成29年6月歌舞伎座:「鎌倉三代記・絹川村閑居」

配役バランスの妙〜五代目雀右衛門再演の時姫

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(佐々木高綱)、 五代目中村雀右衛門(時姫)、二代目尾上松也(三浦之助義村)


雀右衛門の時姫は昨年3月歌舞伎座の雀右衛門襲名時が初役で、今回が再演となりますが、共演(前回は吉右衛門の高綱、菊五郎の三浦之助)が幸四郎の高綱、松也の三浦之助に変わっています。当然、芝居の印象も変化しています。これは別に演技の良い悪いを言うのではなくて、配役によって、芝居のなかでの役のバランスが自然と変化するものですから、それにつれて芝居の印象も微妙に変化するものです。それが配役バランスの妙というものです。今回の配役であれば、高綱の比重が突出して、「絹川村閑居」が高綱の芝居の印象が強まるのは、これは当たり前のことです。

高綱は前回の吉右衛門も素晴らしかったですが、幸四郎の高綱も、前半藤三郎の時の軽妙さ、後半高綱に戻っての古怪さへの変化の大きさが大したものです。まことに歌舞伎らしい高綱です。高綱というのは宿敵北条時政を討つ執念に凝り固まった男で、その目的のためならば何だって利用するのです。「盛綱陣屋」では自分の息子を犠牲にしてしまいますが、その続編「鎌倉三代記」では時政に近づくためならば自分の身体に入れ墨を入れるのも厭わないし、さらに今度は時姫を親殺しに巻き込もうとするし、考えてみればその執念たるや凄まじいものです。目的達成のために策を弄するのか、策を弄したいがために目的があるのか、自分でも見境がなくなっている男なのです。しかも、その執念が実を結ばない(大阪夏の陣は豊臣方の敗北で終わる)ことを我々は知っていますから、虚しいものに感じられます。つまり高綱と云う男は倒錯しているのです。「地獄の上の一足飛び」で高綱が幽霊の振りをして見せる・いわゆる地獄見得ですが、これは形自体が馬鹿々々しいもので、これを奇知と見なすことももちろんできますけれど、この見得本来の意味を技巧として浮き上がらせることが出来るのは、これは幸四郎ならではです。

松也の三浦之助は、これはもちろん円熟した菊五郎のたっぷりした大きさの三浦之助と比較することはできませんが、松也は松也なりの若さを武器に散り行く若者の儚さを表現して、これも決して悪くはないものです。初役として十分なことは出来ており、役を重ねれば三浦之助は松也のものになることでしょう。

雀右衛門の時姫も、悪くないです。襲名から1年経って、余裕が出てきているようです。しかし、吉之助は同じ月(平成29年6月歌舞伎座昼の部)の「弁慶上使」の雀右衛門のおさわにとても感心したので、今回の時姫にちょっと期待し過ぎたかも知れませんが、松也の三浦之助の若さの方に自分のサイズを合わせようとしていたようにちょっと感じますねえ。それは雀右衛門の美しさならば、容易いことだと思うけれども、ここは敢えて姉さん女房のように見えて良いのではないか。雀右衛門の名前にふさわしい大きさを出して良いと思うのですねえ。吉之助が「絹川村閑居」を初めて見たのは、昭和58年11月歌舞伎座でのことだったと記憶します。この時の時姫は先代(四代目)雀右衛門・当時63歳、三浦之助が先代(八代目)福助(現・梅玉)・当時37歳でした。この年齢差は、今の雀右衛門と松也に近いと思いますが、歌舞伎はそんな年齢差を何とも感じさせない演劇なのですから、遠慮せずにもっと姉さん女房してください。雀右衛門はもうそういう立場に来ていると思います。

(H29・7・6)


〇平成29年6月歌舞伎座:「一本刀土俵入」

四代目猿之助のお蔦・九代目幸四郎の茂兵衛

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(駒形茂兵衛)、 四代目市川猿之助(お蔦)


序幕・取手宿・安孫子屋前の場での、猿之助のお蔦がなかなかユニークでした。この四十数年結構なお蔦をいろいろ見ましたが、大体、荒んだ生活はしてるが健気に生きて人情に厚いところもある女という線でのお蔦が多かったと思います。まあそれもそれなりですが、この猿之助のお蔦はひときわ陰が濃いと云うか、この女は寂しくって寂しくって、逆に云うと人恋しくて仕方がないのだろうと、この女の不幸な生い立ちが思いやられる感じがしますねえ。そんな女が通りがかったみずぼらしい関取(茂兵衛)にふと優しい言葉を掛けてやりたい気分になった、ただしそれはほんの一時の気まぐれに過ぎないので、言った本人もすぐ忘れてしまうほどのものなのですが、しかし、多分、その時のお蔦は無性に寂しい気分であったのだろうと察せられると、まあそんなことを考えさせるところが興味深いところです。これが猿之助のお蔦の読みであるならば、なかなかのものだなあと感心しました。

ただし、これには一長一短があるようです。この場のお蔦は生活感がちょっと強過ぎるようで、疲れて老けた印象がします。これは恐らく声の作り方のせい、トーンを低めに取り過ぎているせいです。ところが二度目の出(大詰・お蔦の家)では、トーンをちょっと高い方に移していて、このためお蔦が 若返ったように感じます。これでは前と後の場のお蔦の印象がつながらず、約十年の歳月の経過がうまく見えて来ない。これは前後のお蔦の印象を仕分けようとして、却って上手の手から水が漏れた印象がしますね。

もうひとつ、前の場のお蔦が疲れた印象が強いせいで、後の場で、辰三郎が戻って来るまでのお蔦に、娘と小さな幸せを守って健気に生きてきた印象がすることです。そう云えば今月のチラシ解説に
「・・それから10年の歳月が経ち、お蔦は船印彫師の辰三郎と一緒になり、娘と侘しく暮らしていました」と書いてありますが、ちょうどそんな感じですねえ。しかし、この解説はまったくの間違いで、芝居を見ればお蔦は「お君ちゃんはどんな父さんだか知らない筈だ。お前が生まれた時はもういなかったんだもの」と娘に言っているのです。つまり、お蔦が茂兵衛に出会った時には、辰三郎は既にお蔦の元にいなかったわけです。あの時点のお蔦の寂しい気分の背景にそれがあったことが察せられます。だから、この約十年、お蔦とお君はずっとふたりだけで生きてきたことが明らかです。安孫子屋がなくなってお蔦は旅籠酌婦の仕事もなくなり、飴売りをしてやっとこさ生計を立てていたわけで、かなりの苦労をしてきたはずです。ですからやはり後の場のお蔦の方にもっと疲れた感じがなければならぬと思います。10年の歳月を隔てて、お蔦の印象に一貫した印象を与えるためには、
声のトーンの置き方・口調にあまり小細工をせぬ方が良い。その辺を改良すれば、お蔦は猿之助の持ち役になる可能性を秘めていると思います。

幸四郎の駒形茂兵衛については、申し分ない出来です。吉之助は別稿「幸四郎の筆売幸兵衛」のなかで、幸四郎の世話物には十七代目勘三郎の匂いがすると書きましたが、今回もそんな感じがしましたねえ。茂兵衛の最後の台詞「駒形のしがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」の末尾もスッキリして良かったと思います。

(H29・6・23)


○平成29年7月国立劇場:「鬼一法眼三略巻〜一条大蔵譚」

五代目菊之助初役の大蔵卿

五代目尾上菊之助(一条大蔵卿)


このところ菊之助は新たな役に挑戦する機会が多いようです。そのなかにはエッ?と驚く役もあったけれども、まあやって見なければ分からないこともあるわけで、その意欲を買いたいと思いますね。ところで今回の初役の一条大蔵卿について、菊之助は岳父・吉右衛門の指導を受けたということです。最初に吉之助が思ったことは、正気の場面の大蔵卿に関しては菊之助なら颯爽としたところが期待できるとして、菊之助は芸質として怜悧なところがあるし、大蔵卿の阿呆と正気の描き分けに頭脳プレーみたいなところが出てこないか、ちょっとそこを心配したのですが、まったく杞憂に終わりました。吉右衛門の教えるところを消化して、よく自分のものに出来ています。初役でこれだけ出来れば大したものだと思います。

昨年(平成28年9月歌舞伎座)吉右衛門が同じ大蔵卿を演じた時のことは別稿(深化した大蔵卿)で触れました。このなかで吉之助は、大蔵卿の阿呆と正気の描き分けについて、カチャカチャとチャンネルを切り替えるが如きのデジタル処理と、阿呆と正気が入り混じった無段階的アナログ処理ということを書きました。吉右衛門の大蔵卿が後者であることは言うまでもありません。これは解釈としてどちらが正しいとか間違っているということはないのです。もちろんそれは演じる役者の芸質に拠ります。観劇随想の最後に「若手がこの吉右衛の大蔵卿をいきなり真似ようとしたら決して良いことにならないでしょう」と吉之助が書いたのは、吉右衛門の高度な技芸に裏打ちされた解釈を理屈だけ表面的になぞってしまうと、型のあざとさが鼻に付くことになるので、そこを注意して欲しかったからです。なぜならば作中の大蔵卿の生き方自体があざといからです。大蔵卿には時勢に対して自分を偽って生きているという自責の念があります。このあざとさを、シリアスな方向にどういう風に持って行くかということが、吉右衛門の大蔵卿の勘所なのです。

「阿呆を装っているけれども、実は俺には大望があるのだよ」としてしまえば、大蔵卿のスタンスを正気の方に置くことが出来るから、役者はいくらか気が楽に演じられます。スカッとした大蔵卿に仕上げられます。しかし、この場合、役が滑稽な方に傾斜することにも陥り易い。故・十八代目勘三郎の大蔵卿は若干そういうところがありました。まあそれもまた面白いことに違いないですが。もちろん吉之助はそういう切り口を否定するわけではありません。

一方、阿呆と正気とどちらが大蔵卿の本性だか分からないということになれば、これははるかに難しい。つまり阿呆を装って時勢に背を向けていなければ生きて行けない男の憤懣とか悲哀とか云うもの、これを描かねばならないのです。考えてみれば、現代社会においても、我々はそういう生き方をせねばならない場面があるのではないでしょうか。この時、「大蔵卿とは自分だ」と感じる瞬間があるはずです。吉右衛門の大蔵卿はそういう切り口に迫っているのですから、吉右衛門の型の手順を表面的になぞるのではなく、型の心を考えて演じなければならないのです。菊之助はそこのところをしっかり把握出来ていると感じ入りました。あとは回数を演じることで、役は練れて来ると思います。

菊之助の大蔵卿は、手順として吉右衛門をそっくり踏襲したわけではなく、そこのところは結構自由に変えていたと思います。しかし、型の心、性根の置き方というところは、しっかり取っています。これは恐らく吉右衛門が、性根の根本をきっちり押さえて細かいところは自由に任す、そういう教え方をしたと思います。まさに「教えも教え、覚えも覚えし」、見事な芸の受け渡しを見せてくれて、嬉しくなりました。奥殿の大蔵卿では、菊之助は阿呆と正気の切れ目が際立たない、変化を抑え気味の演技であるとお感じの方もいるかも知れません。しかし、そこのところを際立たせないところが、吉右衛門の大蔵卿の型の心の核心なのであって、菊之助はこれを基礎に自分なりの手順で大蔵卿を処理しています。菊之助が もし阿呆と正気の切れ目を鮮やかに見せようと色気を出せば、演技は頭脳プレーの感を呈したでしょう。

幕切れで大蔵卿が笑いながら勘解由の生首を弄ぶ場面、これは一体どういうシーンでしょうか。これはものすごく歪んだシーンです。普通の時代物ならば、幕切れの主人公は本性に立ち返って絵面でキッと決まるものです。しかし、大蔵卿はそうなりません。そうさせてもらえないと言っても良い。そうさせてもらえないところに大蔵卿の特殊性があるのです。大蔵卿の本性って何?阿呆と正気って何?生き難い時代に生きるってどういうこと?そのような哲学的な考察まで至らせる要素を、大蔵卿という役は持っているということです。

(H29・7・11)


○平成29年7月歌舞伎座:「矢の根」

三代目右団次の「矢の根」の五郎

三代目市川右団次(曽我五郎)


「矢の根」の曽我五郎は右団次が演じていますが、市川宗家の海老蔵が同座しているのに歌舞伎十八番を任せてもらえるのだから、市川家一門として重宝されているということだと思います。右団次は筋隈もよく 似合って体付きも五月人形みたいだし、動きもキビキビして、荒事らしいところを見せています。台詞を高調子に置くのは、荒事であるからそこは良い点ですが、ちょっと単調に聴こえますねえ。

 例えば柱巻きの場面での「東は奥州北ヶ浜」ですけれど、右団次は、

「ヒー/ガー/シー/ハー/オー/シュー/キー/ター/ガー/ハー/マー」

に近い感じに、どの音も同じ音程の高調子に置いてます。これだと二拍子の強弱が活きて来ませんから、台詞がのっぺりと一本調子になってしまいます。それと台詞の末尾を引き延ばすと、二拍子が死んじゃいますねえ。これは荒事の様式ですから「ヒガ/シハ/オウ/シュウ/キタガ/ハマ」が基調のリズム(二拍子)になりますが、二拍子の頭にアクセントを置いて、強弱を付けるのです 。関東方言は頭打ち(一拍目にアクセントが付く)だからです。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)アクセントを赤字で示すと、

ガ/ハ/ウ/シュウ/キタガ/マ」

になりますけれど、もうちょっと荒事らしく工夫をするとすれば、最後の「キタガ/マ」でちょっとリズムを破綻させて、

ガ/ハ/ウ/シュウ/キタ//マ」

とする。この場合、台詞のなかでは「キタ/」が音程が一番高くなります。伸ばしたみたいに聴こえますけれど、実は音を引き延ばしているのではなく、二拍子をしっかり守っているのです。(ここは二拍分伸ばしたテンポ・ルバートであると解釈しても良いで しょう。)だから台詞のなかに強弱のリズムと、音程の高低、息の緩急があるのです。そういう工夫が付けば、台詞がキリッと引き締まって来ると思います。荒事らしい見掛けしているのだから、台詞が良くなれば、見栄えがすると思いますがねえ。

(H29・7・26)


〇平成29年7月歌舞伎座:「盲長屋梅加賀鳶」

十一代目海老蔵初役の道玄

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(按摩道玄)


吉之助は近年の黙阿弥上演は感触が時代の方向へ重ったるくなっているので、「もっと世話に・写実に」ということを何かにつけて書きたくなります。若手の歌舞伎らしさの感覚が、南北も黙阿弥も新歌舞伎も区別が付かない、一様なkabuki感覚になりつつあります。そのなかで一番危機に瀕しているのが黙阿弥ではないかと思いますが、しかし、今回(平成29年7月歌舞伎座)の海老蔵初役の道玄を見ると、これは独自の道を行くものと云うか、また不思議な道玄ですねえ。

確かに存在感がある道玄だとは云えます。ただし舞台に立っているのが道玄ではなくて海老蔵だなあという感じがします。何だか素で立っている感じです。印象からすると大きいのですが、かと云って時代というわけでもなく、パサパサの感覚で演技に粘りっ気が乏しい。だからと云って世話というわけでもなく、様式ということがあまり思い浮かばない道玄なのです。海老蔵が何も考えてないということではなく、海老蔵のなかにある様式感覚が役と波長が合ってないということでしょう。役者の仁のことを云えば、海老蔵は道玄よりは松蔵の仁だろうと思います。それは兎も角、敢えて海老蔵が生世話の代表的な役である道玄を演ろうというならば、それなりの設計図が必要になるでしょう。

まあ歌舞伎というのは役者の味でするものであるし、観客が反応しているのも海老蔵という役者の華ゆえだと思います。しかし、「もっと世話に・もっと写実に」というアドバイスを海老蔵に入れるのは、その大きさを小器用さで損なってしまいそうで、適切でない気がします。そこで、もし「加賀鳶」初演の道玄が五代目菊五郎ではなくて、九代目団十郎であったならどんな道玄が出来たかみたいなことも想像しながら、海老蔵にどんなアドバイスが必要か考えてみることにします。本来ならば押し引きの感覚(世話の活け殺し)と言いたいところですが、敢えて押しの要素だけでも考えてもみたらどうでしょうかね。まずはそこから始めてもらいたい。そうすれば、もっと演技に粘りっ気が出てくると思います。

それは何でもないことです。例えば質見世のゆすり場で松蔵に痛いところを指摘されて道玄が思わず煙管をポロリと落とす場面では、海老蔵は松蔵に言われる間もなく煙管もパッと落としてます。何だかタイミングを計っているようで、「ここは煙管を落とすお約束だ」と決めつけてる印象がします。アッサリ悪事を割っていて、観客に分かりやすい演技かも知れないが、「みなさん、ここが面白い箇所です、さあ笑ってください」と云う感じで、役よりも役者が素で出ています。こんな箇所ばかりが「加賀鳶」の見せ所だと思われても困るのだが、ここは敢えて海老蔵の仁ならばここでもう少し間を引っ張る、ぐっと息を溜めて「畜生」という感じで松蔵を睨みつけて煙管を思わずポロリと取り落とす、そのくらい間を引っ張ったって良いのです。瞬間的に時代の方向へ演技を引いて、煙管を落とすきっかけで演技をサッと元に戻す、息の間合いで芝居っ気も出るし、海老蔵が持つ存在感を活かすことが出来ます。観客を笑わせないことを考えてもらいたい。そんなことを云いたい箇所がいくつもあります。

黙阿弥の面白さは、世話と時代の感覚の揺れ動きにあります。それは役者の仁によって変わるのは当然のことで、自分なりの揺れの波長パターンが在って良いのです。だから海老蔵は海老蔵なりの道玄を作れば良いのですが、結局、大事なことは演技の押しと引きの間合いの感覚なのです。それが様式になります。海老蔵は肝心のところでそこの工夫が足りません。早くそういうセンスを見出して欲しいと思います。

(H29・9・5)


○平成29年9月歌舞伎座:「ひらかな盛衰記・逆櫓」

充実した「逆櫓」

二代目中村吉右衛門(船頭松右衛門実は樋口次郎兼光)、五代目中村歌六(権四郎)ほか


今月(9月)歌舞伎座の「逆櫓」は、充実した舞台になりました。松右衛門内は平成20年9月歌舞伎座の時と同じ配役ですが、この時の舞台については吉之助は観劇随想で全体の感触が幾分時代に寄って重いということを書きました。「ひらかな盛衰記」はもちろん時代物ですが、「逆櫓」は三段目、つまり時代物のなかの世話場です。名もない庶民が政争・戦乱に否応なく巻き込まれて行くことの悲劇を描くものです。ですから、各役共に演技の基調をもう少し世話の方に置いて、そこに時代の斬り込みを 鋭くいれてもらいたいと注文を付けたわけです。それから9年の時間が経過したわけですが、今回(平成29年9月)の舞台では吉右衛門(樋口)・歌六(権四郎)・東蔵(およし)・雀右衛門(お筆)とも、さすがにみなさんそれぞれ一段と技芸が上がったことが確認できました。今回は、余計な力が入るところがなく、それが世話の感触に通じるところのテンポの良さ、軽やかさを演技に与えています。これでこそ三段目の感触になります。このような着実な技芸の深化が見えたことは嬉しいことです。長いこと芝居を見続けて来た甲斐があったと云うものです。

吉右衛門は、昨年の「一條大蔵卿」と云い・本年の「弁慶上使」と云い、近年の充実振りは目覚ましいものがあります。今回の樋口も素晴らしい。吉右衛門は樋口の見顕わしで門口で外をグッと見込む形、「樋口の次郎兼光なるわ」の見得など実に大きくて立派なものです。これはまあ吉右衛門ならば これくらい当然だろと云うところですが、今回良くなったのは、上手一間から若君を伴って登場し・やがて樋口の本性を顕わす場面で、台詞が決して重くならず、世話の松右衛門を基調に置いたことがよく分かる台詞廻しであったことでした。この世話の基調があってこそ見得による時代の表現がグッと生きて来るわけです。一方、権四郎に亡き孫の笈摺を捨てようとするのを「なんの誰が笑ひましょ」と止める台詞はしみじみと情がこもって これも良いもので、ここは歌六の権四郎も良くて、ホロリとさせるいい場面になりましたねえ。

(H29・9・19)


○平成29年9月歌舞伎座:「彦山権現誓助剣・毛谷村」

七代目染五郎の六助・五代目菊之助のお園

七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(毛谷村六助)、 五代目尾上菊之助(お園)


花形ふたりの共演で期待しましたが、機嫌よく演じている雰囲気は伝わってきますが、如何せん水っぽい感じで、そこにちょっと不満が残ります。正直申して、染五郎・菊之助ならば、ここはもうちょっと仕出かして然るべきと思います。もちろん型通りのことはちゃんと演っていますが、何と云ったら良いですかねえ、竹本から遊離して芝居をやっている印象がします。役者は木偶ではないですから糸に丸乗りすることは戒めなければなりませんが、竹本から離れてしまってはいけません。竹本、特に三味線が指し示すリズムと音程をしっかり押さえて演技が出来るように、もっと高次の段階においては役者の方から竹本と対話するようにリズムを押して行かないと義太夫狂言の本当の面白さは出せないと思います。染五郎・菊之助ともにそこに不足を感じます。

染五郎の声はもともと低調子なのだからそれで行けばよいのに、六助の人柄の良さを出そうと云う心か、台詞を高調子に取っていますが、これは台詞の調子を下げた方が竹本と調和するはずです。竹本と遊離した印象がする一番の原因はそこでしょう。虚無僧の正体を見透かして「なんとでごんす梵論字どの」から、太鼓を叩きながらお園へ物語する段取りが、せせこましい。演技のリズムが浮いた感じがします。物語は物「語り」なのですから、リズミカルにやると云うのではなく、リズムをしっかり押さえて語る。こういうところをゆったり演じられれば六助と云う人物の大きさと余裕がもっと出て来ると思うのですが。

お園は虚無僧姿の時に娘の本性を垣間見せる必要は必ずしもない(四代目雀右衛門もここはほぼ男で通したと思います)ですが、相手が六助と分かってからのお園は、やはり娘への変わり目をはっきり見せて、六助への情(と云うか媚態か) を出さないと面白くならないと思います。菊之助のお園がやや性根違いの印象がするのは、女武道というところを強く見過ぎに思えることです。クドキにカラミを使うのはそれはそれで良いけれども、段取りがこれも何となくせせこましい。ここは性根を娘の方にきっちり置いて、あらイヤだ思わず男勝りが出ちゃったわという感じにゆったり間合いを取って演じれば、それで良いのではないでしょうか。

(H29・9・22)


〇平成29年11月歌舞伎座:「雪暮夜入谷畦道・直侍」

七代目菊五郎の直侍

七代目尾上菊五郎(片岡直次郎)、五代目中村時蔵(三千歳)


最近の黙阿弥芝居は様式感覚が崩れていて、役者が台詞を七五に割ってダラダラしゃべるのを見せられて、ガッカリすることがホントに多くなりました。生世話は写実を旨とするという大事なことが忘れられているのです。しかし、久し振りの菊五郎の「直侍」では、さすがにそういうところがまったくありません。力を抜いた自然体のさりげない演技に見えますけれど、実は世話の息が行き届いて、まことに至芸と云うべきです。若手役者は菊五郎の演技をよく見て、世話の感覚をものにしてもらいたいと思います。全体的にもアンサンブルがよく取れて、良い舞台に仕上がっています。

例えば丑松との割台詞は、確かに台詞は七五に割れるように書かれています。しかし、それは役者に調子よくしゃべってもらえるようにするための黙阿弥のご親切なのですから、そこをあからさまに出して七五にしゃべっては何にもなりません。役者の方はそういうところを隠して如何に写実の息でしゃべって見せるかということ、そこが芸なのです。それでも勘所で様式感覚がフッと自然に浮き上がって来るように台詞が書かれているので、そこをサラりと写実に返してみせる。そういう風に時代(様式)と世話(写実)の感覚の間をユラユラするのが、黙阿弥の様式なのです。菊五郎(直次郎)と団蔵(丑松)のやり取りでは、そこの具合いが上手くて、久し振りに世話物らしい場面を見た気分になりました。

時蔵の三千歳も派手過ぎることなく、情愛の深いところを見せて、大口寮もしっとりといい場面になりました。ここで情緒纏綿たる色模様を見るのもまあ良いですが、本来ここはどこか暗い湿っぽさを帯びた場面だということが、この舞台を見ていると実感できます。

ところで、吉之助が見た日には、菊五郎にしては珍しいアクシデントがありました。三千歳宛に書いた書状を渡して欲しいと直次郎が丈賀(東蔵)に頼む場面で、直次郎が懐に手を入れて、「あっ、無い」と叫んだのです。直次郎がどこかに書状を落っことして来たらしいのです。丈賀が「えっ?」と驚くと、直次郎はニヤニヤして「イヤ、うそうそ」と言いながら、空手で手紙を渡しました。「あいよ」と丈賀がそれを受け取るふりをして、芝居はそのまま淡々と進みましたが、まあその流れの自然なこと。こういうアクシデントでさえ、ああいい芝居を見たなあという気にされられてしまいます。

(H29・11・19)


〇平成29年11月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵・五・六段目」

十五代目仁左衛門の勘平

十五代目片岡仁左衛門(早野勘平)、片岡孝太郎(お軽)


東京では久しぶりの仁左衛門の勘平は、浅葱の衣装が映えて、幸薄い若者が死んでいく哀れさを儚く美しく見せました。歌舞伎の六段目は、舅殺しの嫌疑がもうちょっと早く晴れていれば、勘平は義士の仲間に入れてもらえて、念願の討ち入りに参加できたのに・・可哀想になあ・・という仕立てですから、仁左衛門の勘平はそこのところは十分です。変わらぬ高水準の出来で、美しいのに文句を云うのも何ですが、感触がちょっと優美に過ぎる気がしますねえ。仁左衛門の身体から滲み出て来るものと、六段目が求めるものとが若干異なる気がします。哀愁ではなく、陰惨さが欲しいと思うのです。

ひとつには仁左衛門の台詞が高調子であるせいがあると思います。勘平は度重なる不運続きで義士の仲間から外されてしまいそうで大いに焦っています。だから勘平の気分は真っ暗闇なわけで、そこに勘平が更なる悲劇に見舞われる遠因があります。「いろは評林」にも六段目は「しゆみし場」であると書かれています。しゆみし場と云うのは、陰気で滅入る場ということです。これが六段目のムードなのですから、やはり勘平の台詞は低調子に取った方が良い。「これはこれは御両者には見苦しきあばら家へ・・・」などは高く張らずに、もっと低調子に取った方が良いです。仁左衛門が高調子であることは彼の持ち味に違いないですが、義太夫狂言の場合にはちょっと不利に出る場合があるようです。例えば「大蔵譚」の大蔵卿、「毛谷村」の六助なども、もう少し意識的に調子を低めに抑えた方が渋味が出て来ると思いますけどねえ。

今回の「六段目」は普段見る音羽屋型をベースにしながらも、ところどころ異なるところがあって、例えば勘平が衣裳を浅葱の御紋服に替えるところで、お軽に大小を要求しないなどの相違があります。(二人侍が来訪時に、勘平が押し入れから大小を取り出します。)見ていてどういう意図なのかと思ったのだけれど、これについては筋書の「今月の役々」で仁左衛門が、私の勘平は十五代目羽左衛門の型ですと語っています。つまり同じ音羽屋型でも六代目菊五郎の型とはちょっと違うんだということを言いたいのではあろうけれど、逆に菊五郎型の段取りの洗練されたところが再確認できた気がしますねえ。ちょっと中途半端な印象がします。浅葱の御紋服が仁左衛門によく似合いますから、それをやらないのは損であるとは思うけれど、以前「鮓屋」の権太で試みてくれたように、いっそ上方のやり方で「六段目」をやってくれた方が面白かったかなという気もしますが。

(H29・11・16)


〇平成29年12月歌舞伎座:「源平布引滝〜実盛物語」

六代目愛之助の実盛

六代目片岡愛之助(斎藤実盛)、四代目片岡亀蔵(瀬尾十郎)他


愛之助の実盛がなかなか良い出来です。角々の形もよく決まっていました。総体は仁左衛門写しですが、仁左衛門の実盛の爽やかなところをよく写しながらも、やや色合いが暗めに仕上がったところを評価したいと思います。生締めの色気と共に、実盛の横顔にフッと差す陰りが表現できていました。愛之助の仁が役に合っていることもありますが、愛之助が声の調子をやや低めに取っていることが大きいと思います。実盛の横顔に差す陰りとは、平家全盛の世にあって源氏でありながら平家の禄を食んでいるということの不本意、さらに源氏再興の企てに参加するには自分はいささか歳を取り過ぎたという哀しみ(これは舞台の実盛が直接表現するものではないですが、謡曲「実盛」によって実盛という人物に終始付きまとうイメージなのです)ということです。だからせめてこの場において誕生したばかりの駒若君(後の朝日将軍・木曽義仲)を助けることで自分は歴史のなかの捨て石となろうということです。だから実盛に爽やかさは必要ですが、爽やか過ぎるとちょっと不満が出て来ることになります。実盛の陰りが見えてこないからです。

別稿「渋い実盛」でも触れましたが、贅沢な不満ではありますが、仁左衛門の実盛はちょっとカッコ良すぎるかも知れません。「げにその時(24年後の篠原の戦い)はこの若が、恩を感じて討たせまい」と葵御前が言いますが、観客のみんなが「そうだよ、こんないいヒトは討っちゃイカンよ」と思ってしまう実盛なのです。だけど24年後に太郎吉(後の手塚太郎)に討たれなければ「実盛物語」は完成しないわけですから、やっぱり観客は実盛の運命を頭の片隅に置いておかねばなりません。それが生締めの実盛の横顔にフッと差す哀しみを見詰めるということなのです。そこのところ愛之助の実盛はなかなか良い塩梅に仕上がったのではないでしょうか。

民間伝承に拠れば、篠原の戦いで実盛が乗っていた馬が田圃の稲の切株に躓いて転び、このため手塚太郎に討たれたことを怨みに思って、実盛は死後に稲を害する害虫となったと云われています。実盛虫と呼ばれるものがそれで、民衆はその年の豊作を願うお祭りを、不幸な死を遂げた人の霊を慰める御霊信仰に結び付けたのです。実盛送り(または実盛祭)と呼ばれる、稲に害を及ぼす害虫を外に送り出す虫送りのお祭りが、全国各地の農村に今でも残っています。藁人形を作って悪霊に見立て、鉦や太鼓をたたきながら行列にして村境に行き、これを川に流します。歌舞伎の「実盛物語」も、そのような民俗的な陰の要素を引きずっているのです。例えば小万を蘇生させる時に九郎助が傍らの井戸の底に向かって小万の名前を叫ぶ場面などがそうです。仁左衛門型では舞台に井戸を出さないようですが、この場面は出してもらいたいものです。

愛之助の台詞は仁左衛門写しで悪くないですが、例えば九郎助に言う実盛の台詞「争(あらが)ふと踏込んで家捜し、ためになるまい」の末尾で「まい」を落とさず、「ためになる」で間を取って「ま」で声を高く張り上げて「い」で落とす妙な台詞廻しが見られて、オヤッと思いますねえ。多分、九郎助に対して決め付ける心なのでしょう。しかし、仁左衛門はこんな台詞廻しはしてません。「ま〜い〜」と張って引き延ばさないのは未だしもですが、これはちょっと荒事風味に聞こえます。これでは義太夫狂言になりません。この台詞廻しは直してもらいたいです。しかし、今後の修業次第で実盛は愛之助の持ち役になると思えるので、頑張って欲しいですね。

(H29・12・27)


〇平成29年12月・ロームシアター京都:「義経千本桜・渡海屋〜大物浦」

八代目芝翫襲名の知盛

八代目中村芝翫(三代目中村橋之助改メ)(渡海屋銀平実は平知盛)、五代目中村時蔵(女房お柳実は典侍の局)

(八代目中村芝翫襲名披露狂言)


襲名はいろんな意味で役者を大きくしてくれるものですねえ。昨年(平成28年)10月歌舞伎座から始まった八代目芝翫襲名披露興行も今回の京都顔見世(南座が改修で休館中のためロームシアター京都での興行)でひと巡りとなり、吉之助も芝翫という名前がしっくりと来るようになって来ました。今回の知盛は、八代目芝翫襲名披露興行の締めくくりにふさわしい良い出来となりました。

新・芝翫はもともと描線の太い芸風で時代物役者の柄であり、本人もそちらの方面へ活路を見出したい意向であろうと思います。いくつかの襲名演目で吉之助が注文を付けたかったのは、別稿「八代目芝翫襲名の弁慶」でも触れましたが、線が太いのはもちろん良いところなのだけれど、もう少し演技に緩急のメリハリが欲しいという点でした。時代物と云っても、どこも同じ感じで重くやれば良いというものでもないので、そこに時代世話の微妙な緩急があるわけです。そこが改善されれば演技にもっと冴えが出て来ると思うわけです。

そこで知盛のことですが、「渡海屋〜大物浦」という芝居は歌舞伎でも文楽でもそんな感じがするのですが、中間部、ちょうど知盛の見顕わし辺りにちょっとダレる部分がある ようで、全体の芝居が妙に重ったるくなる舞台が少なくないと吉之助は思っています。これは、多分、謡掛かりの題材でもあり、壇ノ浦での平家滅亡の物語が脳裏に重なって来る、恐らくこれ以上に劇的で大時代なものはないと言って良い芝居でもあるので、描線を太く、荘重にと云うところを気にし過ぎるせいだろうと思います。そこが知盛という役の難しいところです。それで新・芝翫の知盛についても、渡海屋での中間部がそのような重ったるい感じに陥らないかと云うことをちょっと心配をして舞台を見ましたが、幸いこれは杞憂に終わりました。成功の要因は、前半の渡海屋銀平の世話の描写がよく出来ていたからです。相模五郎・入江丹蔵を押さえ付けての銀平の台詞もきっぱりしていますが、過度に重く時代っぽくならないから良いのです。後半・大物浦での入水の場面が良いことは、芝翫とすれば当然のことです。全体にテンポがしっかりして、余裕さえ感じさせる 安定感のある知盛に仕上がりました。知盛という役が芝翫のニンに合っているのですねえ。これから芝翫が時代物役者として大成するのが楽しみです。

時蔵の典侍の局についても、同じことが云えます。前半のお柳の時がとても良いから、後半の典侍の局が生きて来るわけです。安徳帝を抱いての「如何に八大竜王・・・」の台詞も立派でよかったですね。この二人で安定した、歌舞伎らしい「渡海屋」が見られて、ちょっとホッとしたと云うのが、正直な気持ちです。

(H30・1・6)



 

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