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吉之助の雑談29(平成28年1月〜6月)


○音遣いを考える・その8

ここまで音遣いのことを逍遥してきましたが、これは簡単に結論出せるようなものでないので、ちょっと脱線して本稿を締めたいと思います。先日、柳田国男の本をパラパラやっていて、こんな文章が目につきました。女性の話し言葉で「知らないワ」などとよく最後にワを付けます 。これは女言葉というわけではなく、京阪地方では男がワということも普通にあります。柳田はこれについて、末尾のワは人称代名詞で「私は」の意味だというのです。

『日本人は、何か思ったことを人に告げる場合に、ワの一語を下に沿えまして、「それを言う者は自分である」ことを明らかにする習わしがあったので、文章語ではまったく跡を潜めておりますが、和歌のみにはまだ少しばかり保存せられている「われは」と同じく、人称代名詞の一つの置き所だったのかと、私は考えております。(考えております、私は。)日本語は代名詞の不要な言語、少なくとも代名詞の使用度の少ない国のようにいう人があるのは、いわば文章の本ばかりで、日本語を学び得たと思っている先生方であります。(中略)私を文章の始めに置か ねばならぬようにしたのは、漢語か英語かは知らず、とかくに外国語かぶれのようであります。』(柳田国男:「毎日の言葉、知ラナイワ」・昭和21年)

柳田国男:毎日の言葉 (角川ソフィア文庫)

ところで柳田や折口などの本を読んで学ぶ時のコツを披露しておきたいと思います。恐らく上記の引用を読んだ時に「ワというのが人称代名詞だというのは本当のことかなあ?」というところで留まる方が結構多いと思います。しかし、この文章で本当に大事なところは、そこではないのです。そういうところはいろんな意見がありますのでね、そこはそういうものかと流しておいて、本当に学ぶべきところは「日本語を考える時に書き言葉だけで考えては駄目、話し言葉・つまり音声で考えな ければならない」ということです。そこを踏まえてから、「それを言う者は自分である」ことを明らかにする習わしがあったというところに戻って考える、そういうプロセスが必要になります。柳田はそのようなプロセスを経てワが人称代名詞だという自論に辿り着いているのですから、学ぶべきところはそこです。

歌唱あるいは舞台の台詞を考える時、声に出してみた言葉で考えるしかないのです。抑揚とかアクセントとかリズムとか、そういうことが大事だということです 。どんな場合においても、言葉は美しく発声されねばならなりません・正しい発声は美しい・美しくないならばその発声は正しくない、そういうことだと思います、吉之助は。最後に付け加えますが、西洋音楽の五線譜に日本語を乗せようとした先達・山田耕作や団伊玖磨の努力が空しかったと云うことではないのです。先達の努力は本当にいじらしいほどに尊いものです。そうした努力の積み重ねで現代日本の文化が出来ているわけです。現代の我々が早急にしなければならないことは、声に出した日本語の感覚を取り戻すことかも知れませんね。

(H28・6・26)


○音遣いを考える・その7

音遣いというのは、平たく言えば、音韻の置き方・音符に対する言葉の乗せ方ということになります。ただし正確に云えば西洋音楽のドイツ歌曲ならば音韻を音符に乗せるわけです。義太夫の場合は太夫が三味線のツボを外していくので・やっていることは逆であるように見えますが、これは太夫が三味線をはずしたところに音を置くと考えればよろしいわけですから、このこと自体に相違はないと考えます。

日本の伝統には、和歌の形式の五七五七七のように一語に一音を当てる概念が昔からあったので、西洋音楽の五線譜の楽譜に一音符一語を当てはめることに日本人はさほど抵抗を感じなかったのかも知れません。しかし、短冊に文字を書くのとは違って、歌となるといろんな問題が生じて来ます。日本語で歌を歌うと、音程面でもリズム面でも西洋音階に言葉がぴったり乗らないことがあるのです。

実際、義太夫など古い録音に合わせて唸ってみると、これは何の音だ?というような音韻に必ずぶちあたります。例えばアでもなくエでもなく、中間音のような・そうでないような。そういう音韻はひとつの音符にはまらず、捉えどころのない、非常に曖昧な音程を生じます。吉之助はクラシック音楽を聴 きつけている人間なので、このような捉えどころのない音を聴くと、脳内が宙ぶらりんになって、無調音楽を聴いている気分になったものです。このような曖昧な音韻は五線譜ではどれほど調性を工夫しても、その微妙なニュアンスを表現することはできません。(因みに武智鉄二はバルトークやシェーンベルクなど現代音楽に強い関心を持ち、それと同様な感覚を邦楽のなかに見ました。だから吉之助と同じように、武智も西洋音楽脳であった ことは間違いありません。)

どうしてこうなるかは理由がありそうです。日本語は五十音というけれど、実際にはもっといろいろな音韻があるからです。武智鉄二がこんなことを言っています。ちょっと長くなりますけれど、引用してみます。

『五十音表を見ますと、ンの字まで入れて、日本語は五十一の言葉の組み合わせだと思われているかも知れないが、実際に用いられる言葉はそうではないのです。子音の方はほとんど動きませんけれど、母音は非常に動くのです。たとえば能の発声を取りますと、能にはアという音はないわけです。純粋なアという発声はございません。一番多く使われる母音はウの音です。「これは」という場合でも「KOREWA」とは発声しません。強いて発音記号で記すと「Kouruewua」という風にみなウの音に近い感じで、オもアも、みなウの音に直して言います。アと言う時も、唇の開き方はウの形で言うのです。嬉しい時はエの口で言います。能ではこの二種類しかありませんが、歌舞伎や狂言などで、それから驚いた時とか感動した時はオの口で言います。悔しいのをこらえるとかいう時はイ。アはほとんど使わない。(中略)つまり、母音を五つの感情、「アハハ」と笑い、「イヒヒ」と笑う、「ウフフ」「エへへ」「オホホ」がそれぞれ微妙な感情、愉悦とか猜疑とか軽蔑とか抑制とかの、差異のなかで捉えて、それを本来の五音、アイウエオと掛けあわせたら5X5=25、つまり二十五種類の母音を、日本語は実際には持っているということなのです。もちろん、さらにそれがその間にいろいろな段階があるでしょうから、実際にはもっと無限に変化するでしょうけれども、基本的には抑制、悲劇的な時にはウの型になるし、喜ぶ時はア、驚く時はオという風に、母音の扱い方は感情と結びついて、様々に変化するのです。(中略)大体イタリア語は英語やドイツ語と比べて割合母音の少ない言語ですが、それでも日本語よりは多様なのではないでしょうか。英語とかドイツ語になると、ずいぶん母音の数が多くなりますが、実際の用法としては日本語も二十五の母音を持っているわけで、かなり多い方なのではないでしょうか。音遣いということを義太夫などで申しますが、これはいろいろな要素を含んでいますが、そのひとつに、やはり風情の変化にともなう母音の変化も含まれていると思います。母音を音色によって変化させて、感情が正確に伝わるように、そういう配慮がなされることになるのです。』(武智鉄二:日本語における母音と子音の問題〜創作オペラのために一課題」、昭和54年)

武智は二十五種類の母音と言っていますが、実際に発声される音韻は、個人の口腔構造や発声の癖によっても微妙に変わるものですから、変化パターンは無限にあるということです。だから音符にはまらない音韻が実はたくさんあるわけですが、そういう微妙なものも文字にしてしまうと区別されないで一緒にされてしまって、日本語は五十音だということになってしまうのです。義太夫の場合(「風」と云うと節回しのこと ばかり考えがちですが)、初演の太夫の、そのような独自の微妙な音韻の使い方も「風」の概念の重要な要素としていると考えてよいのではないでしょうか。 (この稿つづく)

(H28・6・22)


○音遣いを考える・その6

「音遣い」というのは義太夫の詞章を語る技巧のことを指し、語りの基本となる地合(じあい)に、情緒的で歌のような要素を加味し曲節に変化を与える手法とされますが、本稿ではもっと広義に、言葉のひとつひとつの音韻の微妙な取り扱いのことを「音遣い」であると捉え たいと思います。ところで、吉之助が師としている武智鉄二が、富岡多恵子氏との対談で「音遣いというのは具体的にどういうことなんですか」と問われてこんなことを言っています。

『あれはね、おなかへ力を入れますと、声帯を振動させないで声を出すようになるわけなんですね。つまり反NHKでね、声帯でものをいわないわけです。声帯の周辺の筋肉が振動して、声が出るわけ。だから声帯自体はつぶすわけですね、昔は。』(武智鉄二、富岡多恵子との対談:伝統芸術とは何なのか〜批評と創造のための対話」・学芸書林)

具体的に・・と問われているのに、武智の言うことは禅問答みたいに相手を煙に巻いている感じさえしますが、もう少し武智の話を聞きましょう。

武智:だから、おなかに力を入れて、こうやって「音」・・・それを「音」っていうんですけどね、「音」で話をする。
富岡:浄瑠璃語りっていうのは、その「音」を中心に使っている。「音」だけで語っている。
武智:そう、理想的にいえば、全部「音」。「風」っていることを節だけだと思ってんですよね、いま。節のなかに「風」があるように思ってんです。作曲自体がね、「風」だと考えている人までいるわけです。そうじゃなくて、「作曲」というものはないんで、「節付け」で、全部同じ節なんだけども、それの表現の仕方が「風」なんだということですね。
富岡:だから人によって違うわけですね。
武智:ええ、人によって違うんだけど、同時に均一化するわけです。古典的なノルムがあって、それに向かって無限に近づいていこうという考え方ですからね。それはまず肉体を除去して、神の声になることから始まるんじゃないですかね。それが音遣い。
(武智鉄二、富岡多恵子との対談:伝統芸術とは何なのか〜批評と創造のための対話」・学芸書林)

話が具体的になるどころか、「風」ということが出て、話がますます謎めいてきます。これは武智が真面目に答えていないのではなくて、こういうのを説明するのは難しいのでしょうねえ。 ともあれ弟子である吉之助は、浄瑠璃においては初演した太夫の語り口そのものを「風」とし、これを規範とする、その「風」(語り口) に少しでも近づこうとするための喉の遣い方が「音遣い」であると云うのが、武智の言いたいことだと考えています。つまり、義太夫用語としての音遣いというものは、平たく言えば、初演太夫の語り口を意識した 音韻の置き方・音符に対する言葉の乗せ方ということになると思います。これならば恐らくドイツ歌曲にもシャンソンにも同じようなものがあると断言でき ます。(この稿つづく)

(H28・6・5)


○音遣いを考える・その5

前項の通り「本来の日本語は一音符一音の枠に厳密に収まるものではない」ということです。このことは、リズム面からも・音程面からも云えます。 しかし、これは別に日本語が特殊 だというわけではありません。例えば「Ich liebe dich」なら三つ、「Je t'amie」なら二つの音符で表現できるのが当たり前であるが如くに団氏は言っていますが、ドイツ語の「Ich」という音韻・イッヒがひとつの音符に当てはめるのが本当に当たり前のことなのでしょうか。そういうことをちょっと考えてみる価値はありそうです。音韻学では「イッヒ」でひとつの音韻と理解しますが、イッヒの「イ」に音程が 当たるなら「ッヒ」の音って何なんだということです。ここに音のズレが生じてきます。そうすると音韻はひとつの点と云うよりも、或る種の長さと幅を持つ領域と理解され、ひとつの音符にイッヒの音韻を押し込めることの不自然さに気付くはずです。ひとつの音符に当てはめられるイッヒの音韻には、リズム面から見ても・音程面から見ても、微妙なズレがあるということです。このことを逆に云うならば、このズレをどう上手に生かすかが、歌を感情豊かに表現するための手立てとなるのです。そこに表現の無限の可能性があることになる。ですから音遣いという考え方は、別に義太夫節 だけの特殊な用語というわけではなく、ドイツ歌曲にもシャンソンにも同じようなものがあるのです。ただし、日本の音楽の場合には、明治になって西洋音楽の概念が突然流入して来て・そこに伝統の断絶があり・そこに接ぎ木した形で一音符一音の概念がよくやく定着してきたということなので、状況がより複雑であるということは云えます。

明治になって何が何でも西洋列強に追いつけという世の中になって、江戸時代までの邦楽の伝統が否定され、音楽面でも西洋音階の音程とリズムによる唱歌が奨励されました。このことは西洋音階に慣れない民衆に様々な波紋 とストレスを呼び起こしました。武智鉄二は、明治の地方の尋常小学校で「これは私たちの唄ではありません」と言って唱歌を歌うことを拒否した女の子の話をエピソードとして挙げています。 明治期には洋楽を聴くと頭が痛くなるとか吐き気がするという人が多かったのです。最初は民衆も西洋音楽に対する拒否感覚が先に立ったものでしたが、学校教育で一音符一語主義の唱歌に民衆はだんだん慣らされて行きます。 教育の力というものは、或る意味恐ろしいものです。歌謡曲の歌手にも音程の良い人が出て来ます。戦後の美空ひばりはその代表格ですが、そうした流れのなかで突然先祖返りみたいな現象が起きて来ます。「日本音楽の再発見」のなかで団氏は森進一の歌唱について触れているので、その部分を挙げておきます。

『たとえば森進一の「襟裳岬」なんかがその一つだろうと思いますが、歌の世界の常識では、森進一と云う人の声は常識外のものでしょう。クラシックの発声から見たら、彼の声は85%息が漏れている。声楽のレッスンなどを受けに行ったら、あなたは音楽をやめた方がいいと言われるでしょう。(中略)しかし、日本人が永年培ってきた声の美学が存在しているわけだから、そういったものと森進一の声とが続いているのかも知れない。(中略)ピアノの キーで探ってみると、「襟裳岬」の一番高いところは加線一本のAフラットと、これは素人では出ません。でもあの人の新内風の発声は下の方に共鳴音が多くある関係で、低く聞こえるのでしょう。実際は志寿太夫クラスの大変高い音を出していることが、ピアノのキーで探ってみて初めて分かりました。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

同じ対談で小泉氏も、森進一や布施明の歌は新内や清元など浄瑠璃のテクニックだということを云っています。このことは一音符一語主義で書かれた楽譜を、「に」の音を「にィ」とにじって(注:「にじる」とは押し付けて揺り動かすの意味)処理する歌唱法が出て来ます。つまり一音符一語で拾いきれない情感を、音をにじり・ ずらすことによって拾い上げるということなのです。これは彼らが新内や清元を勉強したということではなくて、日本人の感覚のなかに染みついたものが、何かの拍子に滲み出 たということなのでしょう。そのような先祖返り的な現象もありますけれど、吉之助が感じるには、昨今の歌謡曲・特にJポップと呼ばれるものはほとんど一音符一語が当たり前化しており、歌詞が持つ 息や抑揚を旋律が拾い上げるというところがあまりないようです。言葉とかけ離れたところで旋律が付けられています。こういう状況においては、詩歌という形式が衰退するのも致し方ないことであるなあと思います。(この稿つづく)

(H28・5・29)


○音遣いを考える・その4

『文芸の方をみると、江戸時代からつながってきたいろんな道が、さまざまに変身しながらも明治以後のものに生きていますが、日本の創作音楽というものはあまりにも日本の伝統を切りすぎたところから出発したために、継承発展ということがなくて未整理のままに取りのこされたという気がするのです。(中略)西洋に追いつくことに急で、追いついてどうするのかということを考えていなかった。日本に特徴的な歌謡というものについても、独自の追求度が非常に希薄なのですね。たとえば日本語をどのように音型化して行くかという問題にしても、一音符一語主義が無批判的に伝承されてきて、たとえば「私はあなたを愛します」は「ワタシハアナタヲアイシマス」と13の音符で書いて疑わない。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

例えば日本語の伝統には和歌で五七五七七という形式があったりして、明治になって西洋音楽の記譜法が輸入されても、これを割合すんなりと一音符一音で受け入れる土壌があったということです。しかし、義太夫などで「にィーー」と伸ばして「イーー」を自由に転がすのを聞いて日本人はこれをちゃんと「・・・に」と受け取るわけで、日本の伝統音楽では一音の概念が一音符に完全にぴったりと収まり切らないというのが本当のところです。これを一音符一音に無理に収めようとするから問題が生じます。現代の日本人は、なまじっか一音一音符の思い込みに慣らされてしまっているので、変な事態が起きて来ます。

例えば現代の歌舞伎でよく見られる・いわゆる「ダラダラ調の七五調」がそうです。これは七五の台詞を一音一音符で処理しており実質的に四拍子でして、それをゆっくりしたテンポと節回しで誤魔化して「こうすれば様式的 ・音楽的でしょ」としているのです。これは「ワタシハアナタヲアイシマス」と13の音符で無理に処理しているのと同じことです。それでおかしくなっているのです。

このように明治以降に一音符一語主義が無批判的に受け入れられた背景には、これは武智鉄二が「身体行動論」のなかで指摘していることですが、明治政府が欧米列強に追いつくのに必死で、西洋式の軍隊を装備していく必要があったなかで、日本人の兵士・特に農村出身者が「行進が出来ない・匍匐(ほふく)ができない・ジグザグ走行ができない」などの問題に悩まされ、日本人の身体のリズム感覚を西洋式に矯正することが急務であった、 このため日本の小学校唱歌などで一音符一音の記譜により二拍子(あるいは四拍子)のものが奨励されて来たという事情があったりします。この件については稿を改めて論じることにしますが、本稿では本来の日本語は一音符一音の枠に厳密に収まるものではないという指摘に留めます。(この稿つづく)

(H28・5・23)


○音遣いを考える・その3

前項での団伊玖磨の、「邦楽では、たとえば「・・・に」という時に、「にィーー」がいろんな形で伸びて、息を継いで、また「イーー」とつなぐのがたくさんある」という発言を考えます。 「・・・に」というのを「にィーー」と伸ばして意味が通じるというのは、どういうことでしょうか。これが言葉の一部ならば「イーー」というのは、一体何なのでしょうか。これは言葉の影・尾っぽ、あるいは言葉の裏に潜む霊魂の姿(言魂)なのか。

ところで角田忠信著「日本人の脳〜脳の働きと東西の文化」(大修館書店)という本がありますが、ここに興味深いことが書いてあります。西洋人は言葉を聞く時に、母音は右脳(つまり感情を司る部分)で・子音を左脳(つまり論理を司る部分)で処理する。ところが日本人の場合は母音も子音も同じ左脳で処理しているというのです。これは日本語では母音単音でも意味をもつ言葉がある(え=絵など)からだと推測されます。この研究が示すところは、例えば日本語の「」は子音のNと母音のIで出来ているのではなく・まさに「」という音そのものとして日本人は聴いているのではないかということです。ということは義太夫などで「にィーー」と伸ばして「イーー」を自由に転がすのを聞いても、 日本人はこれをちゃんと「・・・に」と受け取っているということになります。

角田忠信:日本人の脳―脳の働きと東西の文化

ところが、同じ対談で小泉文夫が指摘するように、「(西洋音楽教育を受けたプロの日本人歌手が日本語の歌を)西洋の発生法で歌うと、日本語のアイウエオという母音がどれも同じような響きになってしまって、そのために余計に言葉が分からない歌唱になる」という現象があります。これは恐らく西洋の発生法で歌うと、「に」が子音のNと母音のIに分解してしまって「 にィ」となり、子音が飛んでしまって言葉が分からなくなるということだろうと思います。問題はNI(に)の音韻を、音程ではなく・音韻を、楽譜の音符ひとつ分正しく維持できないというところにあります。無理に旋律に情感を込めようとして、ひとつひとつの音韻の形を崩しているのです。

西洋の声楽家が日本に来てアンコールで日本の歌を歌う時に、西洋発声法の人であるにもかかわらず、言葉がよく聞こえることがあります。ジェシー・ノーマンが来日リサイタルのアンコールで「さくらさくら」を歌ったのを聴いたことがありますが、ひとつひとつの音韻を手のひらに乗せて大事に大事に扱うように発声していました。山田耕作など一音符一語で書かれている歌を歌う 時は、これが基本なのです。そこで興味深いと思うのは、西洋音楽教育を受けたプロの日本人歌手が日本語の歌を歌う時に、素直に「に」と出せば良いのに、思わず「にィ」と転がしてしまうということです。嫌味で言うのではなく、そこに日本の伝統の根強さを見るようで、イヤ感動してしまいますね。

だから日本語の歌を正しく歌うための発声法というのは確かにあるはずですが、しかし、その一方で義太夫や長唄を聴いて「言葉が全然分からない」と言う日本人もだんだんと増えてきているようです。これは「にィーー」と伸ばして音を転がすの を、子音のNと母音のIに分解して聞いて、これを言葉だと認識しない日本人が出始めているということです。これは息の問題にもなると思いますが、「にィーー」と息を繋いでどんどん音を転がしていくことに、聴く方が緊張を維持できないということです。

この状況が長く続くと日本語のイントネーションの細かいところを解せない日本人が増えて来るのではないかと心配になってきます。多分これは日本人の脳の言語機能が変化したということではないでしょう。そんな短い年月で変化するものではないからです。多分これは「聞き方のコツをつかめば分かる」という程度のことだと思いますが、この問題の背景に「一音符一語」の思い込みが日本人の頭のなかで邪魔しているに違いないというのが、吉之助の推測です。「にィーー」を、「これは一音符ではない・一音符の範疇を越えた」と認識して、これを「・・に」と聴き取るのを放棄して、「イーー」としか受け取らないということなのです。これでは子音が飛んで耳に母音しか残らず、言葉が分かるはずがありません。つまりこれは日本の国語教育あるいは音楽教育の問題ではないかと思うわけです。(この稿つづく)

注:本稿で「にィーー」とか「にィ」とかあるのは、文字で表現するとそうしか書けないからそう書いているだけなので、音韻の表現はそんな単純ではないということだけ付け加えておきます。

(H28・5・8)


○音遣いを考える・その2

別稿「音楽と言葉」のなかで作曲家団伊玖磨の一音符一音主義批判について触れました。西洋音楽でドイツ歌曲などを習った日本人のプロの歌手が日本語の歌を歌うと、聞いていて言葉が 良く分からないと云うのです。いい音程で歌っているのだけれど、西洋の発声法だと日本語のアイウエオという母音がどれも同じような響きになってしまって、そのため言葉が分からな くなる。ドイツ語の歌曲は上手く歌えるのに、日本語の歌が駄目とは奇妙なことです。これは多分、日本語とドイツ語の歌曲では歌い方がどこか微妙に異なるということなのでしょう。

『西洋の声楽家が日本に来て、アンコールに日本の歌をよく歌いますが、向こうの発声法の人であるにもかかわらず言葉がよく聞こえますね。これは日本の声楽家への大変な挑戦状じゃありませんか。向こうの発声法でもそのシステムが本当に身体の中に入り込んでいれば、外国語である日本語を聞いた場合に、自分の発声のヴァリエーションのどこかで日本語をとらえられるのではないですか。おそらくシューベルトの歌を歌う場合とモーツアルトのオペラを歌う場合は発声法を変えているのですね。しかし、それが生半可な習得だと、硬直状態でいつも同じ発声法になってしまうのではないでしょうか。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

団伊玖磨・小泉文夫:日本音楽の再発見 (平凡社ライブラリー)

これに関連する形で団氏の「一音符一語」の批判が出てきます。

『日本語をどのような音型化してくかという問題にしても、一音符一語主義が無批判的に伝承されてきて、例えば「私はあなたを愛します」は「ワタシハアナタヲアイシマス」と十三の音符で書いて疑わない。外国の歌で「I  love you」なら三つ、「Je t'amie」なら二つの音符で表現できるのに日本語では十三音符が必要だということの不自然さに気がつけば、日本語をどう音楽化するかというシステムを作ったはずでしょう。そういうことだけでも先輩たちの手でできていたら、次の時代にまったく新しい生きた日本語の歌ができていたはずでしたね。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

それならば「ワタシハアナタヲアイシマス」はいつくの音なら良いのか、その辺は団氏の考えと吉之助は意見が若干異なるところがあ るようですが、 日本歌曲の一音符一語主義については確かに問題があるように思います。和歌の形式は五七五七七というように、一語に一音を当てる概念が昔から日本にはあったようです。それが西洋から輸入された五線譜の楽譜に安直に結びついてしまったのかも知れない、そういうことを考えるようになりました。そこで日本の音楽教育のなかで刷り込まれた「一音符一語」の思い込みが日本語の歌を窮屈にして、延いてはこれが日本の詩歌の衰退にも繋がっているのかも知れないと推論を立ててみます。

例えば小泉文夫氏の「義太夫には地合(じあい)という、節のある歌でもなく地の詞でもない中間部みたいなものがあって、邦楽では日本語を音楽的にどう処理すればよいかという技術が昔からあるのだから、そういうものを現代オペラでも実践してみたら・・・」と云う発言に対して、団氏はこう返しています。

『ぼくは「ちゃんちき」といオペラで、初めてそういうことを実践しました。従来の西洋音楽の常識だと、ひとつのフレーズの途中では息を継ぎませんね。ところが邦楽では、たとえば「・・・に」という時に、「にィーー」がいろんな形で伸びて、息を継いで、また「イーー」とつなぐのがたくさんある。それと同じように自由にブレスをしてまた同じ母音をつなげていくというのをやってみたのです。何か事柄を述べている間の旋律には抑揚とかいろんな制約があるわけです。しかし、言い終わった後の母音が延びるところでは自由な旋律進行が可能です。しかも自由に息を継いで良いといいことになれば、そこでどれだけでもファンタジーが展開できる。これはまさに邦楽の方法で・・・・」(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

団氏のこの発言は、歌舞伎を見て義太夫や清元・長唄など邦楽に或る程度触れている方なら「なるほど」と納得できると思います。現代日本の作曲家は一音符一語主義を崩そうと日夜格闘をつづけているわけですねえ。逆に云えば西洋音楽の分野ではそれほどまでに一音符一語主義の呪縛は強いということです。(この稿つづく)

(H28・5・5)


○音遣いを考える・その1

本稿は歌舞伎の音遣いのことを逍遥しながら考えるものです。最初は歌舞伎と関係がないみたいですが、そのうち歌舞伎の話題へ入って行きます。先日クラシック音楽関係の演奏会のチラシを眺めていたら、吉之助が愕然とすることが書いてありました。それは 飯田橋のトッパン・ホールのチラシに掲載されていたドイツ人テノール、クリストフ・プレガルディエンのインタビューで、彼はこんなことを語っていました。フィッシャー=ディ―スカウやプライなど偉大な 名歌手が彼の世代の聴衆と共に去り20年くらいの空白が生まれ・・・ドイツでは今学校で音楽の授業が削られ、子供が歌う機会が少なくなり・・詩自体が読まれなくなる時代となり・・ドイツ・リートの存在感が急速に失われつつある・・というのです。それでプレガルディエンらは幼稚園などへ出向いてポップスやロック以外にもこんな音楽(ドイツ・リート)の選択肢もあるんだよということを伝える機会を意識して作るようにしていますというのです。(トッパン・プレス・82号・2016年3月)吉之助がショックを受けたのは、 吉之助が今でも音楽の国だと思っているドイツでもこんな深刻な状況になっているのかということです。

吉之助のクラシック音楽歴は管弦楽とオペラが中心ですが、ドイツ・リートは昔からよく聞いています。吉之助が若い頃の偉大なドイツ・リート歌手と云えば、まずは 何と言ってもバリトンのディートリッヒ・フィッシャー=ディ―スカウそしてヘルマン・プライ、テノールならばエルンスト・ヘフリガー、ペーター・シュライヤーということになります。彼らがシューベルト・シューマン ・ブラームスあるいはヴォフルらの作品を吉之助は折に触れて聞いてきたわけですが、吉之助は今のドイツ・リートがそのようなお寒い状況になっていることを想像だにしませんでした。 これはドイツ文化の危機じゃないかと思うくらいです。そこでハッと気か付いたことは、恐らく現在の日本の状況だって似たようなもの、あるいはもっと深刻な状況かも知れないということです。

詩(言葉)と音楽の関係の、とても微妙で繊細なところが見失われつつあるようです。これは気忙しい現代という時代に深く起因することなのかも知れません。「沈黙というものがなければ言葉は深さを失ってしまう」と言ったのは 、確かスイスの哲学者マックス・ピカートであったと思います。情報が騒音の如く絶えず撒き散らされて神経をかき乱す現代では、言葉の息遣いを耳を澄ませて聞き取り深く味わうだけの余裕を人が持つことがますます 困難になっています。言葉の息遣い、それは意識して聞き取ろうとしなければ、決して聞こえないものです。

ドイツ・リートだけでなく、イタリア語でのオペラでも、日本語での義太夫節でもまったく同じことなのですが、詩(言葉)と音楽の関係は、とても微妙で繊細なところで成り立っています。理想的な 歌曲においては、言葉からこの旋律が紡ぎだされて来るのか・それとも旋律がこの言葉を呼び覚ますのか、どちらなのだろうかと思うほど渾然一体となって、その関係が実に自然発生的なものに感じられます。例えばシューベルトの歌曲をどれでも良い・1曲でも歌詞を追いながらお聞きになれば、そのことがすぐ分かるはずです。しかし、どこがどうだからそう感じられるか・・これを説明することは なかなか難しいです。これはそれぞれの言語の民族の成り立ちと精神・文化と深く関連するからです。ここはまあ人為に拠るものではないと言っておくことにしますが、この言葉と音楽の関係を意識することは再現芸術家(演奏家・歌手あるいは語り手)の場合にはつねに大事なことになります。(この稿つづく)

(H28・5・1)


○如何にして日本の伝統・文化を守るか・その2

アトキンソン氏は、日本は長年培ってきた伝統の遺産で観光大国になれる潜在能力が十分にあると言います。その潜在能力を活かす為に、観光客 (外国の方だけとは限りません・日本の方も含む)に伝統文化を体感させる様々な工夫が必要 です。ただ観光客に建築や工芸品を拝観させるだけでなく、これらの事物を通して、もっと日本の伝統の精神的なものに触れる経験をしてもらって、彼らをリピーターに仕立てなければなりません。日本ではこうした工夫と努力が足りないというのです。もちろんそうした努力をするのには更にコストが掛かります。だから入場料 を二千円でも三千円でも値上げすれば良い、それに見合う価値のある「伝統文化」を提供できれば良いのです。文化財の保存を補助金だけに期待しても到底無理です。だからアトキン ソン氏は、民間も意識を転換して補助金に頼らないようにせねばならない、日本を観光立国にして文化財保存のための財源を自ら生み出す、そうすれば結果として伝統文化の保存も 出来る、これが日本を再活性化する唯一の道だと言うのです。イギリスやフランスなどはいち早くそうしたことに気付いて観光立国化の努力を続けているそうです。アトキン ソン氏の主張には耳を傾ける価値がありそうです。

この本「国宝消滅」はアトキンソン氏の経験で書かれていますから、文化財保護・主として建築工藝のこと、いわば観光立国のハードウェアの側面から、この問題を論じています。 一方、吉之助はこの本を読みながら、ずっとソフトウェアのことを考えていました。もちろん歌舞伎・文楽・能狂言などの伝統芸能のことです。生ものとしての伝統文化の保存継承には、背景がまったく異なる複雑な問題が付きまといます。しかし、歌舞伎は、兎にも角にもまだまだ興行として十分成り立 っている(商売になる)伝統芸能ですから、日本の観光立国化ということになると、外国人観光客を日本に呼び込む旗振り役として、これから歌舞伎が果たす役割は、結構重要な鍵になるなあと思うわけです。浅草や京都に行ってから歌舞伎を見る、歌舞伎を見てから浅草や京都に行く、順番はそのどちらでも宜しい ですが、ハードとソフトの両方から観光客を伝統文化体験へ引き込んでいく、そのような循環回路が出来るのが望ましいだろうと思います。現在は歌舞伎座でも英語のイアホンガイドがありますが、さらに歌舞伎もいろいろ工夫を凝らさなければなりません。まずは歌舞伎役者さんには良い芝居をすることで貢献をお願いしたいと思います。

(H29・4・29)


○如何にして日本の伝統・文化を守るか・その1

表題は重めですが、別に結論を付けるつもりはありませんので、たらたらと進めます。最近は歌舞伎座関連の経済記事で「開場効果の反動か・景気横ばい続く」ということがよく云われます。これは実感で分かることで、三年前(平成25年4月)の第5期・歌舞伎座再開場 の時には前売切符を確保するのも大変だったのに、最近はそうでもなくなって、歌舞伎座に行ってみると空席を結構見掛けるようになりました。代わりにここ2年ほど目立って増えて来たのが、円安効果のおかげで海外からいらっしゃる外国人観光客です。これを差し引いて日本人観客だけを見れば、実数はかなり落ちているのではないか。これで円高だったら歌舞伎座の客席は大変なことなのではないかと心配になってきます。吉之助などは、昭和50年代前半の歌舞伎座ガラガラ状態が脳裏にチラッとよぎります。お若い方は想像できないと思いますが、ちょっと前にそんな時代があったのですよ。そう考えると、日本の若者の伝統芸能への啓蒙が大切なのは もちろんですが、ますます急務になるのが、如何にコンスタントに海外からのお客さんを歌舞伎座に呼び込むかということです。

そんなことを考えたのは、「国宝消滅〜イギリス人アナリストが警告する文化と経済の危機」(デービット・アトキンソン著・東洋経済新報社)という本を読んだからです。「国宝消滅」とはショッキングなタイトルですが、このくらいのタイトルでないと日本人は耳を傾けないだろうということなのでしょう。日本の文化財を如何にして守り・伝統を継承していくかを真摯に議論した本だと思います。アトキンソン氏は外資系証券会社で役員を勤め、日本で裏千家の師範を取り、その後、日本の文化財修復を手がける小西美術工藝社の社長に請われて転職 したという異色の経歴の方です。ご参考にこのサイトの記事「歌舞伎を見ないとビジネスマンが損すること」をご覧ください。吉之助自身は歌舞伎を見たことでビジネス面で徳したかどうかはよく分かりませんけれども、吉之助もこの記事でアトキンソン氏のことを知ったのです。

デービット・アトキンソン:国宝消滅―イギリス人アナリストが警告する「文化」と「経済」の危機

アトキンソン氏は経済アナリストの立場から、日本の文化財存続の危機と、日本を観光立国にすることで危機を乗り越えることを提言しています。文化財を観光財源に しようという提言は、「そんなことは国の補助金でやれば良いことだ、何でもかんでも経済合理性だけで割り切る態度は好きじゃない」と反発する方も たくさん居そうです。しかし、確かに何をするにも何かしらの金が要る。仇討するにも金が要るというのは「仮名手本忠臣蔵」も教えるところで、経済的な観点から文化財保護の現状を見てみると色々問題があぶり出されて来ます。アトキンソン氏はアナリストらしくこれらのことをデータ(実例)で教えてくれます。言われてみれば確かにその通りなのですねえ。

大事なことは、GDP(国内総生産額)は労働人口の動向に大きく関与するということです。戦後の日本の急激な経済成長は労働人口増加によるところが多いわけで、いったん人口が減少に転じ始めると経済の良好な回転が維持できなくなる、生産性を上げるだけではその問題は解決しないということなのです。ですからこの本はたまたま文化財保護のことを話題にしていますが、これは現在盛んに云われている待機児童の問題であるとか、年金・健保の問題もまったく同じ経済の歪みから発しているわけで、これが解決を難しくしているわけです。これは吉之助も、アトキンソン氏が主張する通り、「観光立国しか日本の生きる道はない」ということはどうやら正しいというか・致し方ないことなのだなあという気がしてきました。(この稿つづく)

(H28・4・26)


○「太夫」表記について

吉之助はうっかりして知らなかったのですが、昨日(16日)に大阪の国立文楽劇場に行ったら、吉之助にとっては大事なことが、ロビーにひっそりと掲示がしてありました。それによれば(要約)「このたび人形浄瑠璃文楽座太夫部一同より、芸名表記を従来の「大夫」から、流祖竹本義太夫以来の元々の「太夫」に戻したいとの申し入れがあり、これを受けて文楽協会及び国立劇場は、当月(4月)興行から以後、印刷物等において職名および芸名を「太夫」表記に変更する」とのことです。

元々江戸期には「太夫」が使われていたのがどうして「大夫」となったかについては、諸説があるようです。
語源としては律令制の位階「五位の大夫」から来るそうです。1953年から4年にかけて豊竹山城少掾の提唱により「大夫」が使われることになったという説が有力だそうです。これは掾号が朝廷(明治以降は宮家)から下される官名であったからです。「大夫」が使われ始めたのは、そんなに昔からのことじゃなかったわけですね。あるいは歌舞伎の竹本の「太夫」と区別しようという意図があったとも云われていますが、不明です。以後「太夫」と「大夫」が混在して使われましたが、近年の出版物・文献などを見るとほぼ「大夫」表記が定着した状況であったかと思います。この慣例に従い、吉之助もこれまで当サイト「歌舞伎素人講釈」では文楽語りについて「大夫」表記を採用し記事を書いてきました。

しかし、上記の経緯により、当サイトも本日以後の記事から「太夫」表記とすることに改めます。併せ機会を見て過去記事で「大夫」となっている箇所も順次修正したいと思っています 。当分・かなり長期間、サイトに「太夫」と「大夫」とふたつの表記が混在すると思いますが、ご理解をいただきたく思います。

(H28・4・17)


○菊之助の与五郎と長吉

菊之助は芸域をどこまで拡げるつもりなのですかねえ。昨年は平知盛(義経千本桜)や魚屋宗五郎を演じたのもびっくりしましたが、今回(平成28年3月歌舞伎座)の「双蝶々曲輪日記」での与五郎・長吉にも驚かされました。しかもどの役もそれなりの出来であるというのも感心するやら呆れるやらです。まあ若い頃はいろんな可能性を試してみるのも結構なことです。代々の菊五郎に兼ねるイメージがありますから、本人も兼ねる役者を強く意識するところがあるのだろうと思います。しかし、歌舞伎の将来を考えるならば、吉之助は菊之助にはもうちょっと女形を極めておいて欲しい気がするので、最近の立役傾斜気味はちょっと残念に思っています。「どの役もそれなりの出来」と書きましたけれど、もちろん現時点において課題がないわけではありません。これは菊之助の芸質 かも知れませんが、与五郎と長吉と、どちらの役にもやや怜悧な雰囲気が漂っています。意地悪な言い方をすると、ちょっと頭脳プレイ的なところが見えます。とは云え、どちらの役もこれだけの水準で演じ分けられるというのは大したもので、これも菊之助の恵まれた資質ゆえです。

角力場で与五郎と長吉を兼ねるのは良いことと思わないです(無人芝居ならばともかく今回は一座に役者がいないわけでないのに)が、これは過去に事例がよくあることですから、そのことは問わないことにします。だとすれば、このことを好意的に捉えるならば、大事なことは、上方和事のつっころばしの与五郎と威勢が良い長吉という一見すると対照的なキャラクターを演じ分けることに、どのような積極的な意味を見出すかということかと思います。つまりこの角力場の筋のなかに本来はない・兼ねることのドラマ的な必然性を舞台上にどう生み出すかということです。そのために与五郎と長吉を合わせてひとつ絵となるようなイメージが何か見出されなければならないと思います。多分それはひたむきさとか一途さというものだろうと思います。(ひたむきさ・一途さというのは「双蝶々」の重要な主題だと思いますが、このことは別の機会に論じることにします。)これを強いイメージにすれば直情さということになって、長吉になります。柔らかいイメージにすれば無垢な純粋さとなって、それが与五郎になるのです。つまり長吉と与五郎が「ひたむきさ・一途さ」ということの表と裏ということになるわけで、そこに与五郎と長吉を兼ねることの必然を見出したいと思います。こういう場合にはふたつの共通項を見出して演じる方が、異なる要素を際立たせて演じ分けようとするよりも、多分正しい演技プロセスであろうと考えます。

そこで菊之助の与五郎と長吉の二役を見るに、やはり演じ分けようとしていると思いますねえ。どちらの役にもやや怜悧な雰囲気がつきまとうのは、そのせいであろうと思います。共通項を見出して演じた方が、少しは演りやすくなるのじゃないですかねえ。同じ役者が複数の違う役を演じるということの本来の意味は、同じ人格が見た目の表面の姿だけを色々に変化させているのであり・その本質はまったく変わらないということです。つまり、それは「舞台に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。これから菊之助が兼ねる役者を目指すなかでそろそろ考えなければならないことは、どういう役を自分の本領とするかであると思います。「菊五郎」の本領が必ずしも立役である必要はないと思いますが、いずれにせよそれは菊之助が自身で決めるべきことです。

(H28・3・20)


○五代目雀右衛門襲名の雪姫

3月歌舞伎座で五代目雀右衛門襲名興行の夜の部を見てきました。暖かくなったからか吉之助が見た日は着物姿の女性客が初春興行の初日より多かったようでした。そんなこともあってかいつもの襲名興行よりも客席も落ちついた雰囲気に感じられて、これも新・雀右衛門の控えめな人柄に通じるところがあるなと思いました。雀右衛門の楚々とした美しさは誰もが認めると思いますが、これからは立女形に相応しい風格(敢えて押しの強さとでも言っておこうか)を身に着けて欲しいと思います。口上で東蔵さんが「自己主張の強い雀右衛門が見たいな」と言った通りです。今回の襲名披露の「金閣寺」では前半の雪姫の印象がやはり淡い。後半で雪姫が「父の仇」と大膳に打ってかかる場面に自己主張の片鱗が見えた気がしましたが、まだこれからです。今回の舞台は大膳に幸四郎・東吉に仁左衛門と揃ったなかなかの大舞台ですが、幕が閉まった後で雪姫の印象があんまり残らない気がしたのは、「金閣寺」では雪姫が狂言半ばで引っ込んで幕切れの舞台にいないせいがありますが、襲名披露狂言としては損なところがあった かなと思います。

たとえば今回の「金閣寺」もそうですが、特に時代狂言では立女形が受け持つ場面が狂言のなかでの主筋を占めないことが多い。しかし、「自分の持ち場においては役が持つ情念のすべてを描き出さずにおくべきか」というところが立女形にあって良いのです。その持ち場において女形は突出して良い。そのような乖離した感覚が時代狂言をバロックな感触にすると思います。歌右衛門には確かにそれがありましたし、先代雀右衛門も晩年においてはそのような大きさを身につけたと思います。雪姫であれば「爪先鼠」の奇蹟はただ起きたのではなく・雪姫の情念の強さがそれを引き起こしたのですから、縛られた雪姫の綱をネズミが切るのではなく、雪姫がネズミに綱を切らせたと「爪先鼠」の奇蹟を能動的に捉えたいと思います。雀右衛門は今回の雪姫も技芸に不足はないし、まあそんなことも立女形として回数を演じるなかで身についていくことと思います。

(H28・3・12)


○新・雀右衛門への期待

3月歌舞伎座でいよいよ五代目雀右衛門襲名興行が始まります。吉之助にとって同世代であり・ずっと芝雀の名で親しんできましたから、この場では最後ということで芝雀と呼ばせてもらいましょう。これから吉之助と共に老い・成熟した芸を見せてくれると楽しみにしていた同世代の勘三郎・三津五郎があっけなく亡くなり、若干年下になりますが福助が長期休養して、本来はこれから60代に突入し歌舞伎を引っ張る役割を担うべき昭和30年代の世代が手薄になったことは、現在は顕在化していないけれども、今後の歌舞伎界にかなり深刻な影響(ダメージ)を与えることになるだろうと思います。そこで恐らく現在40代にある若手花形と云われる世代の方へ歌舞伎の主導権が一気に移って行くことが考えられます。そうなると我が昭和30年代は谷間の世代ということになり、ちょうど先年亡くなった五代目富十郎のように芸の実力は評価されても便利に使われて・あまり良い目を見たと言えない扱いになってしまうのかなあという心配があります。それでは同世代としては面白くない。残った昭和30年代は一致団結して頑張って貰いたいのです。同じことを時蔵にも・鴈治郎にも・錦之助にも言いたいですねえ。危機感を持って欲しいと思います。まあ時蔵や芝雀は立女形が手薄な現在それなりに重宝されると思いますが、それも芸の精進あってのことです。



吉之助は歌舞伎を見始めてから先代(四代目)雀右衛門の舞台を四十年近く見てお世話になりましたが、昭和の終りから平成の始めくらいまでの雀右衛門は、見た目は綺麗だし芸もしっかりしていたけれど、パッと華が咲いたようなオーラが乏しいと云うか芸が寂しい感じがしました。そこが歌右衛門との決定的な差でした。雀右衛門も頑張っていたんだろうけれど、どうしても歌右衛門の二番手控えという印象が抜けませんでした。雀右衛門が立女形として本当に花開いたのは歌右衛門が舞台に立たなくなってから(平成5年より以降のこと)のことだと思います。それからの雀右衛門は素晴らしかったのだけれど、やはり立女形としての自覚と云うか・自信が大事なのだなあとつくづく思いますねえ。

そこで芝雀のことですが、ITの世界では芝雀はコジャックと呼ばれているそうですが、当然ですが雀右衛門によく似て綺麗ですし、芸もしっかりして・お行儀が良く・品もありますし、申し分ない素質だけれど、 あの頃の・昭和終り頃の雀右衛門の芸の印象をこじんまりとした感じと吉之助は思っています。これは褒めているのではありません。芝雀は現在でも梢(石切梶原)やお組(法界坊)などの娘役がとてもよく似合います。こういう役を勤めることがとても多かったし、娘役をやらせると最適役と思いますが、正直言えば、この数年、吉之助はこういう役はもうそろそろ似合わなくなって欲しいものだと思って芝雀を見ていたのです。娘役のサイズに芸がぴったり収まっちゃって、それで安住しちゃってる感じがしますねえ。 それと芝雀の描く娘のなかに、彼が同時代を生きている現代の生き生きした若い女性たちの息吹きがどうも見て取れない。そこが華の問題にもつながると思います。襲名披露の時姫や雪姫を演じる時にこのことは大事なことなのだから、肝に銘じて欲しいと思います。お行儀が良くて 控えめで・立役に対して出過ぎないというのだけでは、立女形としては駄目です。もう少し芸に対する貪欲さを表に出すべきです。五代目雀右衛門を襲名することで、小さくまとまっていた芝雀の芸の殻が破れる・破らざるを得ない状況に自分を追い込むことができれば良いなあと思います。要するに自信ということですかねえ。同世代として大いに期待していますから、是非頑張って欲しいものです。

(H28・2・28)


○バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレ来日公演2016・その2

1970年前後バレンボイムがイギリス室内管弦楽団とモーツアルトの協奏曲を弾き振りで録音を始めた頃にバレンボイムがこれほどの大指揮者になることを予見した人がどれだけいたでしょうか。1984年に吉之助はパリ管弦楽団と共に来日したバレンボイムを聴きました が、その頃も既にバイロイトにデビューしていたわけですが、それでもまだ「ピア二ストとしての活動の傍らでよくやるわい(もっとピアノに専念してくれないかな)」という 感じであったと思います。それが21世紀に入ったらもう押しも押されぬ大指揮者です。ピアノと交響曲とオペラのすべてにこれだけ高水準の演奏を提供し続ける演奏家がかつていたでしょうか。現在のエネルギッシュな活躍ぶりには感嘆する他ありません。

2月20日・サントリー・ホールでの演奏会は、バレンボイムの卓越した音楽性を再認識する機会となりました。モーツアルトのピアノ協奏曲第23番はバレンボイムの弾き振りによるもの。オケは最近よく聴く・ちょっと軽めの響きではなく、低重心でやや暗めの厚い響きです。バレンボイムのピアノもこれもやや暗く重めの・内省的な響き で、これも良い。しかし、全体的に若干テンポが早めの感じがしましたねえ。もう少しテンポを遅くじっくり旋律を歌わせてくれれば、この曲のメランコリックな側面が生きた気がしますが。そこはちょっと残念でしたが、それにしても素晴らしかったのはアンコールの2曲、モーツアルトのピアノ・ソナタ第10番の第2楽章と第3楽章でした。今回来日公演でのバレンボイムはどの曲 においても緩徐楽章が実に息が深いことに感心させられましたが、この第2楽章も内省的で息の深い歌い廻しが実に見事なものでした。もしかしたらロマンティックな演奏という形容がよりふさわしいかも知れません。ちょっと昔風のモーツアルト だと言えると思います。観客の途切れない拍手に即された感じで弾いた第3楽章もひとつひとつの音符を大事にした演奏で朴訥な感じなのですが、旋律が素直なだけに美しさがビンビン心に響いて来る感じで、イヤ正直なところモーツアルトのソナタでこれほど感動させられたのは久しぶりのことでした。これからはピアニストとしてのバレンボイムの成熟にも注目して行きたいところです。

モーツアルトにメロメロになったまま休憩後のメイン・プロのブルックナー:交響曲第9番に入ったせいで、後半の吉之助はもう完全にバレンボイムに打ちのめされた 気分になりました。これは第9番が緩徐楽章のアダージョで終わっている(未完)のせいもあったと思います。それほどまでにバレンボイムの振った第3楽章は素晴ら かったのです。じっくりしたテンポで歌い上げる旋律から濃厚なロマン性が渦巻くようでした。吉之助が滅多に使わない表現ですが、「神々しい」という言葉を使いたくなる演奏でした。それにしてもブルックナーは何と云う巨大な第3楽章を書いたのでしょうか ねえ。この楽章に相応しい第4楽章なんかあるのでしょうか。やはりこの曲は未完になるべくして・そうなったのだという感じがします。曲が静かに終わった時はもう動けない感じで、しばしホールが鎮まり返りましたが、この日はフライング・ブラボーもなく行儀の良いお客さんばかりでしたねえ。(最近はマナーの悪い客が多くて困るんですよ。)ベルリン・スターツカペレもこれがブルックナー・チクルスの最終日であったせいか・もう出力全開という感じで、第2楽章ではバレンボイムがオケをかなり煽る場面もありましたが、オケはとても良く鳴っておりました。バレンボイムは細部では曲想に応じてテンポを微妙に伸縮させていましたが、その変化もあざとくなく・スケール大きく仕上がりました。これは吉之助がこれまで聴いてきた演奏会のなかでも、ちょっと忘れがたいものにな りました。ホント有難うと言いたい気分でしたよ。

(H27・2・26)


○バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレ来日公演2016・その1

吉之助はリンツの聖フローリアン教会へも参ったくらいですから、ブルックナーの交響曲を愛聴すること人後に落ちないつもりですが、それでもこのオーストリアの片田舎の朴訥なおっさん(ブルックナーのこと)がどうしてこんな途法もないスケールの交響曲群を思い付いたのか、もしかしたらブルックナーはとんでもない神の如くの狂人なのかと思うことはよくあります。アルプスの高峰を見渡すような清冽な神々しい気分にされますが・いつもそんな平和な静かな気分ばかりではなく、暗闇のなかに電光が炸裂するような悪魔的で奇怪な瞬間があります。ブルックナーという人の・どういうところからこういう衝動が生じるのかはまことに興味のあるところですが、残念ながら時間もないのでブルックナーの伝記など読むところまではしていません。そういうことを忙しいせいにしているといけないと思いますが、今回(平成28年2月)ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレ来日公演を聴いて、またそういうことを思いました 。

もう二十年ほど前(1995年6月)になりますが、吉之助はバレンボイムとシカゴ交響楽団の来日公演でブルックナーの交響曲第8番を聴きました。曲の進行に合わせてテンポを巧みに伸縮させて旋律のコントラストを明確に付けた演奏で、実を言うと吉之助はテンポを頻繁に動かすブルックナーはあまり好みではないのですが、ジェット・コースターに乗っているかのように勢い良く展開する光景が、シカゴ響の合奏力ならではと云うべきですが、説得力があって・今でも記憶に鮮明に残っています。当時もバイロイトでワーグナーを次々振って八面六臂の活躍でしたが、今や巨匠としての風格漂っており何を振っても向かう所敵なしといった雰囲気です。そこで今回(平成28年2月18日:ミューザ川崎・シンフォニー・ホール)でのバレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレで同じブルックナー・交響曲第8番を21年ぶりに聴いたわけです。

これはたまたまということですが、吉之助は先月(1月)リッカルド・ムーティ指揮シカゴ響で演奏会を聴いて・まだその響きが耳のなかに残っていたせいか、今回(2月18日)のベルリン・シュターツカペレは吉之助には最初のうち若干響きが粗く聴こえました。ひとつにはホールと吉之助が座った位置のせいもあったかも知れません。サントリー・ホールならば楽器の響きが溶け合ってマイルドに調整された感じになる・言い換えると響きの輪郭が甘くなる(これはサントリー・ホールでの20日の演奏会で確認できました)が、ミューザ川崎では 楽器の響きがもう少し正直に出ます。だから吉之助はミューザ川崎の響きの方が好きなのですけどね。それにしても・しばらくは、ここは金管の強奏がちょっと濁るなあ・ここは弦は出だしをもっとニュアンス豊かにして欲しいとか、これがシカゴ響ならば・・・ということがチラチラ吉之助の脳裏をかすめましたが、第1楽章が進むにつれて・そういう不満も感じなくなりました。まあ良く云えばベルリン・スターツカペレの響きには、荒削りでも素朴な味わいがあったということが言えると思います。バレンボイムの解釈は全体的に細かなところにこだわらず・音楽の流れを大きく掴む方向にあったようで、スケルツオなど動的な楽章ではオケを煽る場面も見られました。(これは20日の・第9番でもそうでした。)金管 ・特にホルンは良く鳴っておりましたね。テンポは第3楽章まではあまり揺らす印象がしなかったのは、この20年のバレンボイムのブルックナーの大きな変化だと思います。その成果が出たのが第3楽章アダージョで、息の深いゆったりとしたテンポで実に懐の大きい音楽を作っていました。ベルリン・シュターツカペレの弦が旋律を太く歌っていたと思います。真の巨匠の音楽というべきで、これ には心底感動させられました。それにしてもこのアダージョ楽章は何という大きい音楽なのでありましょうか。若い頃の吉之助はブルックナーのスケルツオ楽章が好きだったものですが、歳を取って吉之助もやはりブルックナーは緩徐楽章が良いと思いますし、第8番の交響曲ではやはり第3楽章を頂点と見たいと思います。

今回のバレンボイムの第8番では第4楽章だけはテンポの緩急が若干大きくなり、若い頃のバレンボイム・シカゴ響の演奏を思い出しました。コーダをテンポを速めて追い込み掛けるのは まあ音楽に勢い付ける効果もあるとは思います(これをやる指揮者は多いですがね)が、ここはテンポをゆっくりインに取った方が絶対スケール大きくできるのになあなどと思いながら聴きましたが、多分これがバレンボイムらしいということなのでしょう。そういうわけで全曲通してみると若干不満を感じる箇所もないではなかったのですが、第3楽章の深さにバレンボイムの成熟を確認できたということで吉之助には十分満足できる演奏会であったのでした。

(H28・2・21)


○2月歌舞伎座夜の部:「籠釣瓶花街酔醒」

今月(2月)歌舞伎座の「籠釣瓶花街酔醒」の舞台を見てきました。菊之助の八つ橋は平成24年12月新橋演舞場が初役で 、この時以来だと思います。相手役の次郎左衛門は菊五郎から吉右衛門に代わっています。まず菊之助の八つ橋は初役の時の初々しい印象はそのままに、再演では「縁切りして次郎左衛門に恥をかかせて済まない」というところに哀しみと情味が加わって、なかなか良い出来に仕上がったと思います。前回は縁切りのところで叫ぶのがややヒステリックに聞こえて感情表出が生(なま)に思いましたが、再演ではそんな感じはなく、最後に次郎左衛門に斬られるのが心底憐れに思われました。

これは共演の吉右衛門が良いことにも拠ると思います。吉右衛門の次郎左衛門はもちろん手慣れたものであり・悪かろうはずがありませんが、吉右衛門の持ち味である実直さ・真面目さが良く生きた次郎左衛門だと改めて思いました。もしかしたら作中にある次郎左衛門の狂気というのとはやや違うかも知れません。ドス黒い怒り・それは八つ橋に対する怒りだけではなくもっと人生そのものに対する 憤りみたいなものです(それがないと花の吉原百人切りにまで至らないでしょう)が、吉右衛門にはそういう感じはありません。しかし、満座で縁切りされて恥をかかされた怒りと云うところはきっちり押さえています。田舎者の悲哀というところも良く出ています。だから縁切り場での「花魁、そりゃ袖なかろうぜ・・」という長台詞に哀れ味があって見事なものです。次郎左衛門が怒って八つ橋を斬るのもそりゃもっともだと観客に感じさせます。これも次郎左衛門の行き方としてひとつの典型だと十分納得できるものです。要するに八つ橋にも・次郎左衛門にも観客の同情があって、「どちらも悪い人ではない」というところに芝居が落ち着いています。このようなバランスの良い「籠釣瓶」は、歌右衛門での舞台でも・玉三郎の舞台でも、随分回数は見ましたけれど、あまりなかったかなという気がしました。

ひとつには歌右衛門でも・玉三郎でも、「新吉原仲之町見初め」の場が伝説化し過ぎて肥大化してしまったかな、だから八つ橋のウェイトが若干勝っていたかなということを思います。 まあそれは観客に思い入れがあるからでもありますが、菊之助の「見初め」はそれなりだと思います。悪いと言っているのではありません。これが「見初め」の本来あるべきサイズかも知れないと言っているのです。菊之助は花道での八つ橋の笑みを控え目にしたように 思いました。そのせいか等身大の八つ橋に見えました。そこから縁切り場での生身の女性としての八つ橋の苦悩が浮き上がって来たということかも知れません。ファム・ファタール(宿命の女)ではない八つ橋というところでしょうか。

(H28・2・7)


○リッカルド・ムーティ指揮シカゴ交響楽団来日公演2016

日本のクラシック音楽ファンは好みがヨーロッパの演奏家に偏りがちのようです。クラシック音楽はヨーロッパが本場だというイメージが根強いのでしょう。このためアメリカ系の演奏家は人気がいま一つ盛り上がらないようです。レコードの売り上げもカラヤンとバーンスタインでは比較にならないほどの差があるそうです。(音楽家としての評価とは無関係であることは言うまでもありません。)非ヨーロッパ系で日本で非常な人気がある例外的な演奏家はグレン・グールドくらいのもので す。しかし、第2次大戦以降は、ビジネス面で云えば音楽の本場はむしろアメリカだと言うことは疑いありません。残念ながら凄まじい反対運動が起きたために破談になりましたが、もしフルトヴェングラーのシカゴ交響楽団音楽監督就任が実現していれば、日本のクラシック音楽ファンのアメリカ評価も だいぶ変わっただろうと思いますが。

かく言う吉之助も長らくベルリン・フィルとウィーン・フィル中心の音楽歴でした(これは吉之助がカラヤン崇拝なので何となくそうなったと言っておきます)が、もちろんアメリカのオケもよく聞きます。録音を聴いていると、これはベルリンもウィーンも敵わないなあと感じることはよくあることです。そのせいかカラヤン時代ならばいざ知らず 、吉之助もいろんなオケを聴いてだんだんベルリン・ウィーン偏重ではなくなって来ました。アメリカのオケは技術のレベルが違う。そう感じることはクリ―ヴランド管でもフィラデルフィア管でもあ ることですが、何と言っても凄いのがシカゴ 交響楽団であるのは疑いありません。金管の輝かしさは言うまでもないですが、木管のニュアンスの豊かさ、弦の滑らかさかなど言えば尽せません。そういうわけで、今回(2016年 1月)久しぶりのシカゴ響来日は大いに期待してました。しかも指揮者が円熟期のリッカルド・ムーティとなれば、 これは聴かないわけに行きません。

今回のムーティ指揮シカゴ響で言えば、例えばベートーヴェンの交響曲第5番「運命」はヨーロッパのオケと比べれば、渋くくすんだ・どこか湿り気を帯びた音色ではなく、どこまでもクリアに澄んだ明るい音色であって、精神性とか哲学性とか云う言葉を使いたがる向きはアッケらかんとして深みに欠けるということを言うかも知れぬとは思います。しかし、低重心で力強い響きはそのバランスにおいて理想的で、古楽器奏法の影響を受けて響きが軽くなったヨーロッパのオケ(これはベルリン・フィルなども含む)のベートーヴェンと比べても、吉之助にとっては昔懐かしい感じがして「こういうベートーヴェンが聴きたかったんだ」という思いがするわけです。もちろんそこにはヨーロッパ(イタリア)からムーティが持ち込んだものがあるにしても、鳴るべき音がそのように鳴ってさえいればそこに正しいフォルムが現出するんだという当たり前のことが思い出されます。

このことはマーラーの交響曲第1番「巨人」やチャイコフスキーの交響曲第4番であるともっと明確に分かります。シカゴ響は排気量が大きくてサスペンションの効いた最高級車のようなもので、高速で走ってもエンジンが唸る感じがまったくないのですねえ。スーッと滑るように走って揺れをまったく感知させません。どんな早いテンポ・難しいパッセージでも涼しい顔をして弾いていて、息が荒く熱くなるということがない。シカゴ響というのはまったく次元が異なる凄いオケだなあと感嘆されられます。下手をすれば派手に鳴りまくって騒がしいだけの音楽になりそうなところですが、決してそうさせないところがムーティの手腕ということかと思います。結局、楽譜が要求するところの音符がその通りに思いっきり鳴っていることの爽快感に打ちのめされたと云うか、「あっぱれじゃ!」という満足感に浸れたのは、実に久しぶりのことでありましたね。

(H28・1・31)


○続「芝居と踊りと」・その2

舞踊と音楽は切り離すことができません。だから日本舞踊を考えるということは、日本音楽(邦楽)を考えることでもあるのです。邦楽のもうひとつの特徴は、日本の伝統音楽の基本リズムは二拍子が多く、逆に三拍子のものがとても少ないということです。これについて武智鉄二は、農耕民である日本人のリズムは二拍子で、三拍子は旋回や跳躍を得意とする騎馬民のリズムだと言っています。これは仮説ではあるのですが、だから邦楽をバックグラウンドとする日本舞踊は身体運動として二拍子的であると云えると思います。別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」でも触れましたが、2012年・13年の「日本舞踊Xオーケストラ」で取り上げられた演目を見ても、成功したと思えるものはリズムの打ちが あまり前面に出ず曖昧な印象の曲をつかったものでした。例えば「牧神の午後への前奏曲」(ドビュッシー)です。 こういう曲であると、日本舞踊と西洋音楽のリズム感のズレが顕著にならないので助かるわけです。反面、リズムの打ちが明確に出たもの だと上手く行かないことになります。例えば「ボレロ」がそうで、群舞は三拍子で「一二三一二三・・」という定間の振りで、 これはまことに珍妙なものでした。まあ良く言うならば盆踊り みたいなものです。このような三拍子の音楽を日本舞踊で処理するならば、間合いをいなすか・ずらさねばならないと思います。つまり踊りの振りを三拍子のリズムに意識的に乗せない・あるいは二拍子的に崩す技巧が必要になるのです。

ところがこの「日本舞踊Xオーケストラ」の演目を見ていると、踊り手のみなさん動きを音楽に合わせることばかり考えているよう に見えます。日本舞踊の動きに西洋音楽を引き寄せるということをもっと考えて欲しいと思います。西洋音楽と日本人の伝統的な動きとの齟齬みたいなものを意識して欲しいのです。そうすれば反義的に西洋音楽の特異性みたいなものが浮かび上って来る はずです。そうしないと「日本舞踊Xオーケストラ」の試みは、ただの和風バレエの創作 ・明治時代の鹿鳴館での舞踊みたいなものになってしまいます。それならば日本舞踊の踊り手がやる必要はない のです。そうならないためには日本舞踊のみなさんは、邦楽にせよ・西洋音楽にせよ、リズム構造・音程・旋法という構造面への理解をもっと深める必要があります。音楽というものを情緒的にしか捉えていないのではないかと思いますねえ。

しかし、優れた日本舞踊の踊り手は本能的にそのような西洋音楽とのリズム感の齟齬を感じ取るのでしょうねえ。そのようなことを思ったのは、昨年(2015年)9月に京都・泉湧寺境内での仮設舞台で井上八千代が踊った「ボレロ」でした。この舞台映像はTBSテレビが放送しましたから。ご覧になった方も多い と思います。前述の通りボレロの基本リズムは三拍子なのですが、これを二拍子を基調とする日本舞踊で処理するならば、2と3を約数とする最小公倍数は6ですから、3をひと括りとして二拍でゆったりと処理すれば6になるわけです。これが基本的な処理方法になると考えますが、八千代は大体そのような感じで踊っていると思います。もうひとつ早い二拍子 を3回打って6で納める処理方法もあると思いますが、八千代はたまに足拍子を踏む時にこの感じで処理しています。だから踊りが非常に安定して、ボレロであってもちゃんと日本舞踊になっています。これで良いわけです。 それにしても八千代の周囲で踊っている群舞はこれは何ですかねえ。まったく意味不明のバレエですなあ。これなら八千代ひとりで踊ってくれた方がずっと良かったと思います。

(H27・1・26)


○続「芝居と踊りと」・その1

本稿は別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」の続編みたいなものです。先日Eテレ「日本の芸能」で放送された一昨年(2014年)12月13・14日に東京文化会館での「日本舞踊Xオーケストラ」の舞台映像をご覧になった方も多いと思います。このところ日本舞踊を西洋音楽のオーケストラに乗せてみるという試みは色々行われていて、その話題を「芝居と踊りと」では取り上げたわけですが、「日本舞踊Xオーケストラ」という企画も回を重ねて当初の意図からだんだん焦点ボケして来た感じで、西洋音楽をバックにして日本舞踊を踊るということが単なるご趣向に落ちたようで大変残念に思いました。まあ正直に申し上げれば、吉之助があの論考を書いたのは結局こういうことになるかなという予感があったからなので別に驚きはしていませんが、どうしてこういうことになるかと云うと、実践者としての舞踊家の方々はその道のプロとして音楽に身体を乗せるということは当然出来ているわけですが、日本舞踊とは・そしてその根幹にあるところの日本音楽(邦楽)とはと云うところを理念として十分詰め切れていないことが露呈した、だから西洋音楽にただ乗っかって日本趣味を強調した衣裳で振りを付けるご趣向になってしまったということかと思います。

「芝居と踊りと」で吉之助が指摘したことのひとつは、日本舞踊が芝居掛かりになり過ぎているということです。どうしてそうなるかと云うと、邦楽のほとんどが歌詞を伴うものであるからです。そのような邦楽に根ざしている日本舞踊は、実は言葉に縛られています。逆に言えば、日本舞踊は言葉に守られて楽しているのです。だから日本舞踊は純粋な意味で振りそのものだけで何かを表現することがとても少ない。足らないところは歌詞が補ってくれると、どこかに頼るところがあるのです。折口が「芝居がかりでない方が踊りらしい気がする、芝居 がかりだと踊り自身が不純なものになる」と指摘しているのは、そこのところです。日本舞踊の方はそういうことをお考えになったことはないのでしょうかね。

前回もそうでしたが、今回の演目も言葉を伴わない純粋器楽にわざわざ筋(ストーリー)をこじつけたものが多い。例えばショーソンの「詩曲」に三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」の筋を乗せる。そうすることで踊りを分かりやすくしたつもりなのでしょう。しかし、その為に純粋な身体運動として・身体そのものに語らしむというところがなくなっています。踊りとして不純なものになってしまうのです。足らないところは筋から推し計ってくださいということになる。これでは純粋器楽のオーケストラをバックに日本舞踊をやる意味がないのではないでしょうか。日本舞踊の振り自体をもっと観念的なものに高めていく必要があります。せっかく純粋器楽を利用するならば、敢えて芝居掛かりを拒否する方向を取 った方が良い。それで成功するかはやってみなければ分かりませんが、そこを乗り越えないと日本舞踊は進化していかないと思いますがねえ。(この稿つづく)

(H26・1・16)


○追悼ピエール・ブーレーズ

先日(1月5日)にフランスの世界的な作曲家であり・優れた指揮者であったピエール・ブーレーズが亡くなりました。吉之助もクラシック音楽を聴き始めて50年近くなりますが、その頃に活躍していた当時の中堅クラスが、アバド・マゼールと来て今度はブーレーズ が次々冥界に入るとなると、さすがに気が滅入ります。作曲家としてのブーレーズは、二十世紀の最も重要なピアノ作品のひとつとも云われるピアノ・ソナタ第2番・あるいはセリー音楽の代表的作品「ル・マルトー・サン・メートル(打ち手のない槌)」などで前衛作曲家の旗手的存在でしたが、吉之助は現代音楽が苦手なので、作曲家としてのブーレーズのことはとりあえず置いておくことにします。本稿で書くのはもっぱら指揮者としてのブーレーズのことです。

若き日のブーレーズは「シェーンベルクは死んだ」とか「オペラ・ハウスを焼き払ってしまえ」とか過激な発言を繰り返して、ロペスピエール・ブーレーズとも呼ばれておりました。左翼的なイメージでしたねえ。70年初めだと思いますが、作曲家諸井誠氏がブーレーズ宅を訪れた時、書斎のグランド・ピアノの上にモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」総譜が置いてあるのを見付けて驚いたところ、ブーレーズが「モロイ、これは私のバイブルなのだよ」と言ったそうです。 このエピソードはバリバリの赤軍闘士が寝る時に聖書を読んでお祈りしてるみたいなミス・マッチングが興味深いところです。しかし、歌舞伎でも同じですが、型の裏付けがしっかり出来ていないと型破りなことはできないわけで、型がないところで 枠をはずしてみてもそれは「型なし」なのですねえ。晩年のブーレーズがモーツアルトやブルックナーなど振るのを聴くと、昔のブーレーズを知っている吉之助などは「この転向者め・・(笑)」などとチラリと思ったものでしたが、案外ブーレーズはロマンティスト だったのかもねえ。

吉之助の場合はCBSコロムビア時代の録音に鮮烈な記憶が多いのですが、何と云ってもストラヴィンスキーとラヴェルが忘れがたいですねえ。吉之助がお世話になったのは特にストラヴィンスキーの録音です。「春の祭典」(クリ―ヴランド管)はスコアのリズム分析が徹底して・醒めているのに熱いという名演。吉之助はこの録音のおかげで「春の祭典」が分かったと云っても過言ではありません。ちなみにブーレーズの「春の祭典」は放送録音も含めて遺された録音はどれも素晴らしいものです。「ペトルーシュカ」(ニューヨーク・フィル)も濃厚な色彩でありながらリズム処理で聴かせます。クリ―ヴランド管との一連のラヴェル録音も、クリュイタンスの振る透明感のあるラヴェルとはまた違った趣ですが、その精妙な感覚が素晴らしい ものです。ただしドビュッシーに関してはCBS時代のものはレントゲン写真を見るように味気なくて、晩年のグラモフォンによる再録音の方がはるかによろしいように思います。

「オペラ・ハウスを焼き払ってしまえ」と言っていたブーレーズがバイロイトでワーグナーを振るようになった(つまり1979年から81年)頃から、ブーレーズのイメージは良く云えば丸くなってきた・メジャーになってきたということかと思います。演出のパトリス・シェローと組んだ「二―ベルングの指輪」はその後のオペラ演出思想の流れを変えた画期的なもの。これは映像で遺されていますから、見ておいて損はありません。晩年の一連のマーラー交響曲録音は精緻な造形で聴いておきたいもの に違いないが、醒めている感じが吉之助にはちょっと物足りない。ファースト・チョイスとするためにはもう少しパッションが欲しいところです。いずれにせよ新録音が出る度に「どんな演奏か聴かなきゃいけないなあ」という気にさせられ た指揮者でありました。ご冥福をお祈りします。

(H28・1・9)


○亀山郁夫著:「新カラマーゾフの兄弟」のこと

昨年暮れは、思うところあって吉之助は(歌舞伎とは直截的には関係はないですが)昨年11月に刊行された亀山郁夫著:「新カラマーゾフの兄弟」を読みました。その昔は芥川賞受賞作品など もすぐ読んだものですが、この頃は不精になって新作を読むことがほとんどなくなったので、これは最近の吉之助にしては珍しいことです。7年ほど前に亀山氏の「『カラマーゾフの兄弟」続篇を想像する」」(これについては「雑談」を参照のこと)を読みましたが、このほど亀山氏がドストエフスキーの小説をベースに初めての小説「新カラマーゾフの兄弟」を書いたということを知りました。出版社の宣伝文句には「ドストエフスキーの未完の傑作、ついに完結!」とあるので、これは読まないわけには行かないなあと思ったわけです。しかし、実際に読んでみると宣伝には多少偽りがあって、これは「カラマーゾフの兄弟」続篇ではなくて、亀山氏が「カラマーゾフの兄弟」を踏まえて・設定を1995年の日本に置き換えて翻案し・これに続篇のイメージを加えた形で「新編」として書き上げたということです。そういうことではあるけれど、当然亀山氏のドストエフスキー観が反映されているわけで、これを完結した「カラマーゾフの兄弟」として亀山氏なりの解答と受け止めて良いものだと思います。

亀山郁夫:『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)

「新カラマーゾフの兄弟」は上下二巻の厖大な分量で、初めての小説でこれだけのものを書けるというのは、亀山氏も大した力量だなあと感心しました。プロットのアイデアが豊富にあっても、それだけでは小説は 出来ないものです。翻訳というのは或る種の二次創作みたいなところがありますから、数多くの翻訳を通じて亀山氏は創作のコツを習得されたということなのでしょうねえ。筋の流れとしては、夢や 幻影が頻繁に挿入されるのが必ずしも効果的と言えません。夢解きで主人公の精神状況の描写をするのはとても難しいことで、類型的処理になりかねません。その辺に筋の整理の余地はあるかなと思いますけれども、登場人物の過去・状況設定が綿密に行われていて・筋が薄っぺらい感じがしないのは驚きです。それだけ綿密に準備をしたということでしょうし、亀山氏の意気込みと云うか・決意を感じるに十分たるものです。

「完結した「カラマーゾフの兄弟」として亀山氏なりの解答」と書きましたが、「カラマーゾフの兄弟」続編についてはほとんど物証はないので・どのように内容を推理しようがその正解は分からない(正解はない)わけで、どんな回答もあり得る、いろんなことが考えられるわけで、「新カラマーゾフの兄弟」の内容が解答として正しいかどうかなんてことは、まあどうでも良いわけです。そこは亀山氏なりのイメージを楽しめば良いのです。しかし、それにしても「新カラマーゾフの兄弟」を読んで痛切に感じるのは、全編に「父殺し」の主題がとても色濃いことです。特にカラマーゾフの兄弟に相当する黒木家の兄弟の物語に併行して・これに絡む形で同時進行する大学教師Kの物語のことです。Kが亀山氏自身の投影であることは明らかです。Kはロシア文学専攻で・自分の論文に対する恩師X先生の厳しい評価に傷付くという 経緯は、亀山氏の恩師・ロシア文学者原卓也氏がモデルだそうですから、Kの物語は私小説的な面があるわけです。ですから「新カラマーゾフの兄弟」は亀山氏のドストエフスキー解釈であると同時に、あるいはそれ以上に亀山氏の父殺し(恩師殺し)の告白という様相が強いようです。これに小説の背景となっている1995年という時代が重なっています。ちなみに1995年というのは阪神淡路大震災(1月17日)・地下鉄サリン事件(3月20日)とそれと前後するオウム真理教事件が起こった年で、「新カラマーゾフの兄弟」のなかでは、これらの事件が醸し出す終末感覚が物語の通奏低音となっています。

ただ吉之助が感じるのは、父殺しの方はドストエフスキーの原作の助けもあってそれなりに響いて来るのだけれど、父殺しと1995年という時代との関連がやや弱いと感じられることです。父殺しと時代との関連は「続編」を考える時に非常に大事な点だと思われます。だから「新カラマーゾフの兄弟」でも続編に当たる部分が物足りなく、結末がやや尻切れトンボの感じがします。みんなそこを読みたいはずなのですがね。(これは小説をあくまで新編として読んでもらいたいので、あえてそのようにしたのかとも思われますが。)小説に登場する宗教団体(ただしオウムにあらず)の設定がいまひとつ微妙ということかと思います。それと読後感がダークな点がちょっと気になりますねえ。こういう納め方になるのは、ドストエフスキーの原作のせいなのでしょうかね 。もしそうであるならば、父殺しと時代との関連 をどういう風に絡めて行くか、そこが問題になると思われます。その辺については吉之助にも考えがないこともないのですが、そのうち「カラマーゾフの兄弟」の父殺しに関しては何か書いてみたいと思います。本稿は予告編ということで。

亀山郁夫:新カラマーゾフの兄弟 上(上・下2巻)

(H28・1・3)


○16年目の「歌舞伎素人講釈」

明けましておめでとうございます。サイト「歌舞伎素人講釈」は2001年1月・つまり21世紀の夜明けと同時のスタートでした。今年(2016年)でいよいよ16年目に入 ります。六代目歌右衛門が亡くなったのが2001年3月のことでした。したがって「歌舞伎素人講釈」の年月というのは吉之助にとって「歌右衛門以後」ということであったのです。歌舞伎界は十数年経過して歌右衛門以後の混沌とした様相から、新しい時代の歌舞伎の輪郭がようやく見えて来た気がします。ひとつには第5期・歌舞伎座の開場が精神的な区切りを吉之助に付けてくれました。現時点の歌舞伎は立役に関しては幸吉菊仁梅とかつてないほどの充実ぶりを見せています。彼らの今の舞台はその目にしっかり焼き付けておきたい ものです。しかし、彼らもすでに七十代であり、この幸運な状況がそう長く持つわけではありません。吉之助にとっては同世代で・共に成長して老いるつもりで見て来た十八代目勘三郎と十代目三津五郎の相次ぐ死は吉之助にとって大きな衝撃でした。それは歌舞伎界に大きな損失(空いた穴の大きさをこれからジワジワ感じることになるでしょう)を与えましたが、次代の歌舞伎を背負うと目されていた二人が去ったことで、状況が俄かに風雲 急を告げてきた観があります。本年は五代目雀右衛門(現・芝雀)・八代目芝翫(現・橋之助)とふたつの襲名が予定されています。本年から歌舞伎の若返りが一気に進むことになります。5年後の歌舞伎が一体どういう方向へ行くか、「歌舞伎素人講釈」もしっかり見届けなければなりません。

一方、吉之助自身のことを振り返ると、吉之助はこの3年で「十八代目中村勘三郎の芸」と「女形の美学」と二冊の書籍本を出すことが出来ました。これはプロデューサーである中川右介氏のご尽力の賜物です。「歌舞伎素人講釈」が形あるものとなったことは、吉之助をいろんな意味で大きくしてくれました。今ではインターネット検索で 歌舞伎を調べようと思ったら、「歌舞伎素人講釈」を踏まないでは済まないくらいになりました。これからの5年はこれまでの15年間で蓄積した雑多なものを 少しづつ整理して行く方向に持って行きたいと思います。新しい時代の「歌舞伎素人講釈」にご期待ください。

(H28・1・1)


 

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