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武智鉄二演出の「百合若大臣」

昭和56年8月国立小劇場:「百合若大臣野守鏡」

中村智太郎(四代目中村鴈治郎)(百合若大臣)、中村鴈之丞(中村桜彩)(女房立花、実は鷹の精)、二代目中村鴈之助(立花姫)他

(武智鉄二脚本演出、青成会公演、第9回青年歌舞伎祭)


1)百合若説話とユリシーズ

本稿で取り上げる映像は、昭和56年(1981)8月に3〜4日に国立小劇場で2日間だけ行われた青成会(せいせいかい)公演で、武智鉄二脚本演出による「百合若大臣野守鏡」という珍しい演目です。青成会とは、二代目中村扇雀(四代目藤十郎)の主宰による西の成駒屋一門の勉強会です。「百合若大臣野守鏡」 (ゆりわかだいじんのもりのかがみ)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永7年(1710)正月大坂竹本座での初演(推定)とされています。本作の歌舞伎化は江戸時代にはなく、今回の武智演出・智太郎の百合若による上演が初めてのことになります。(上演の経緯は武智の「演出者の言葉:智太郎君と百合若大臣」に詳しく書かれています。吉之助の編著「武智鉄二・歌舞伎素人講釈」に所収。)なお 本作は昭和62年(1987)5月青山劇場での近松座公演で扇雀の百合若により再演がされました。

吉之助が武智存命中にリアルタイムで見た晩年の演出作品は10本程度に過ぎませんが、吉之助が思うには、「百合若大臣野守鏡」はそのなかで最も成果を挙げたもののひとつでした。「武智版・百合若大臣」は、近松の浄瑠璃原作の三段目(玄海ヶ島の場)を踏まえて、その前後の筋を先行芸能である幸若舞「百合若大臣」などを参照しながら、ホメロスの「オデッセイア」伝説に沿ってかなり大胆に作り替えています。したがって原作に忠実な歌舞伎化ではありませんが、そこに武智なりの確かな読みと歴史観が感じられるもので、決していい加減な書き替え狂言ではないということを言っておきたいと思います。吉之助としては、「武智版・百合若大臣」を晩年の武智の業績として挙げたいと思います。

実は吉之助は昔からホメロスの叙事詩「イリアス」と「オデッセイア」(もちろん子供用に書き下したもの)が好きで何度も読み返したものでした。それで当時「武智版・百合若大臣」の舞台を見て、こんなにも「オデッセイア」に似たストーリー(百合若説話)が中世日本に伝わっていたのかと、とても感激した記憶があります。まあこれは武智がそのように書き直しているのだから当然ではあるのですが、まずは日本に伝わっている百合若説話について簡単に触れておきます。

明治39年(1906)に坪内逍遥は「百合若伝説の本源」という論文を発表し、そのなかで「舞の本」(幸若舞)や説教浄瑠璃に伝わっている中世説話「百合若大臣」の大筋が、ホメロスの叙事詩「オデッセイア」(ユリシーズ)ときわめて類似しており、百合若とはユリシーズではないかということを述べたのです。逍遥は恐らく これはポルトガルの宣教師から伝来したものであろうと推測しました。これに対してすぐ津田左右吉らによる異議がなされました。その後の研究で、ザビエルの来日(天文18年・1549) よりもずっと以前に全国各地に百合若説話が流布していたこと、また幸若舞の「百合若大臣」は、もともと神仏習合・本地垂迹思想に基づく豊後国・宇佐八幡神の前世を語る本地物語(神社の由来を語るもの)であることから、現在では逍遥の説はほぼ否定がされています。しかし、韓国や中国・インドにおいても類似の説話が見られることが明らかになってきて、東西共通の民間説話がはるか昔のシルクロードを介して 各地へ伝搬したという壮大なロマンが想像されます。そこから再び「オデッセイア」との関連が思い起こされるというわけです。武智が近松の「百合若大臣野守鏡」歌舞伎化に当たり「オデッセイア」との関連を意図的に強めたアレンジを施したのには、 このような背景があります。

室町中期の成立と思われる幸若舞の「百合若大臣」の筋を簡単に記しておきます。嵯峨天皇の時代、右大臣百合若は蒙古(むくり)征伐を命じられ、三年間の苦戦の末にこれを退治します。帰路、玄海ヶ島に休息に立ち寄りますが、眠っている間に、家臣別府兄弟の裏切りにより島に置き去りにされます。都へ帰った別府は百合若が戦死したと嘘の報告をして、北の方に横恋慕します。しかし、愛鷹緑丸が百合若生存の証をもたらし、北の方は宇佐八幡に夫の無事の帰国を祈願します。島に漂着した釣り人の舟で筑紫に戻った百合若は昔の面影はなく苔丸と呼ばれています。やがて正月の弓始めに苔丸は愛用の鉄弓を借りて我こそ百合若であると名乗りを上げ、別府兄弟を誅罰して復讐を遂げ、北の方と再会します。

ホメロスの叙事詩「オデッセイア」は、トロイ戦争でトロイの木馬の計略を発案した智将オデッセウス(ユリシーズ)が、故郷イタケへの帰還の途中、約10年の流浪を余儀なくされる物語です。オデッセウスの長い眠りは物語のなかでの重要な転換点 となっています。故郷イタケではオデッセウスは戦死したとされ、妻ペネローペイアには求婚者が殺到します。ペネローペイアは10年の貞節を守り抜いた後、夫が遺した強弓が引けた者と結婚すると宣言しますが、誰もこれを引ける者がいません。そこへみすぼらしい乞食姿の男が登場して、強弓を引いて求婚者たちを次々と射殺します。この男こそ帰還したオデッセウスであったのです。こう見ると、確かに「百合若大臣」は「オデッセイア」ととても良く似ているのです。

一方、近松の浄瑠璃「百合若大臣野守鏡」は、別府兄弟の裏切りにより百合若が島に置き去りにされる経緯は幸若舞の筋を踏襲していますが、前後の筋については御家騒動風に仕立てられていて、かなりの相違が見られます。近松の独創は、三段目・玄海ヶ島の場を百合若の愛鷹緑丸の伝説を取り入れて、これを大きく膨らませて、鷹の精が婚約者立花姫の姿を借りて現れて百合若と一子を設ける、しかし思いがけなく鷹の本性を 現したところを子供に見咎められて鷹の精はこれを恥じて姿を消すという「子別れ」の場面に仕立てたことです。この話は百合若説話にも「オデッセイア」にもまったく見られない近松の創作です。

このように近松の「百合若大臣」は三段目が情が深く素晴らしい出来ではあるものの、前後の筋が御家騒動の体裁に書き替えられて全体としては時代物浄瑠璃の定形に落ちた感があり、元にある百合若説話の骨格が見え難くなっています。そこで武智が「オデッセイア」の筋を踏まえて、大胆な書き直しを行ったということです。復活上演では、面白い場面だけ活かして余計な枝葉を切ろうとすると矛盾が生じたり筋に脈略がなくなったりするので、新たな筋を二次創作して繋ぐことが必要になる場合がありますが、武智のアレンジは武智の歴史観の確かな裏付けがあって要領がよく、段取りとして無理がない良い脚本に仕上がったと思います。 (この稿つづく)

(H29・11・21)


2)神鷹の羽の奇蹟

「百合若」説話では、鷹が重要な役割を果たします。幸若舞「百合若大臣」では、百合若が行方不明になった後、北の方は百合若の鎧と鉄の弓矢を宇佐八幡に奉納し、夫の帰還を祈ります。そして百合若の愛鷹緑丸を天に放つと、緑丸は百合若のいる玄海ヶ島にやがて飛んで着きます。百合若は指を食い切り柏の葉に文を書いて緑丸の鈴に結わえつけて空に放ちます。緑丸は三日三晩飛んで北の方の御所に着きます。これで北の方は百合若の無事を確信し、墨・硯・紙・筆を添えて再び緑丸を空に放ちます。しかし、緑丸はその重さに耐えかねて死んでしまい、玄海ヶ島の岸に流れつきます。百合若は緑丸を引き上げて嘆き悲しみます。やがて百合若は帰還し復讐を遂げた後、緑丸の供養するために鷹尾山神護寺を建立します。つまり 幸若舞は本地物(寺社の由来を語る)の体裁を取っているのです。以上が幸若舞「百合若大臣」の伝えるところですが、近松の浄瑠璃では鷹の緑丸の係わり方が大きく異なっています。

近松の浄瑠璃「百合若大臣野守鏡」では、鷹の逸話は、神代の昔に大和の国天香久山に巣をつくった雌雄番(つがい)の鷹の羽で作られた一対の鏑矢の話に作り変えられ ました。一本の矢は雄の香取丸から取った羽で作った矢で、天皇がこれを百合若に与えます。もう一本は雌の緑丸からの羽が作った矢で、これを宮中に置く。香取丸は必ず緑丸のもとに帰るとされていますから、つまり汝百合若も必ず京都に凱旋するであろうとの呪(まじな)いでした。緑丸は生きている鷹ではなくて、雌の神鷹の羽なのです。百合若の許嫁である立花姫が、百合若の行方を知るために緑丸の矢を宮中から盗み出すと、矢が鷹の緑丸の姿に変じて百合若の居場所(玄海ヶ島)を目指して飛んでいきます。玄海ヶ島に着いた緑丸は女房立花の姿に変わります。百合若は立花姫が自分の元へ来たものと思い喜んで一緒に暮らして、やがてふたりの間に還城丸という子供が生まれます。女房立花とは、立花姫の百合若への思いと、神鷹の緑丸の羽の夫婦の思いが感応して、合体して出来た超自然的な存在なのです。

さらに近松は、三段目・玄海ヶ島後半を子別れの趣向に仕立ています。この挿話もこれまでの「百合若」先行芸能に見られない、近松のまったくの創作です。女房立花が 還城丸を寝かして添い寝しているところに一羽の雉が飛んできます。ここで立花は鷹の本性が蘇って、思わず鷹の姿に変じて雉を襲って食べてしまいます。この恐ろしい光景を子供が見て泣き叫びます。立花はこれを深く恥じて、自分の素性を百合若に告白して父子の元から去ります。

子別れの趣向は、近松が古浄瑠璃の「しのだ妻」の筋から発想したものだろうと思います。角太夫節の「しのだ妻」では、或る秋の日、葛の葉が縁側で庭を眺めていると菊の花が咲いていて、これを見ているうちに葛の葉は自然と狐の本性が現れて顔が狐に変わってしまいます。傍に寝ていた童子丸が目を覚まし、お母さんが狐になったと怖がって騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて去ったという話です。(「しのだ妻」の詳細については別稿吉之助の「吉野葛・論」を参照ください。) 近松の「百合若」の子別れは、後の、竹田出雲の「芦屋道満大内鑑・葛の葉子別れ」(享保19年・1734・大坂竹本座)の原型になったものです。

ちなみに野守の鏡とは、雄略天皇が鷹狩りをした時に、逃げた鷹を野守が野のたまり水に映った影によって発見したという故事から来ており、和歌では、普通では見ることができないものを映し出す鏡の意味に使われるそうです。もうひとつの説があって、それは昔中国で徐君という人が持っていた鏡が野守の鏡で、その鏡は人の心を映し出す不思議な鏡でした。多くの人がこの鏡を欲しがったので、徐君は「これ以上持っていられない」として鏡を人知れず塚の下に埋めてしまったという故事です。謡曲「野守」は、これらふたつの説を前シテと後シテにそれぞれ振り分けて謡曲に仕立てたものです。

恐らく近松は謡曲「野守」をヒントにしつつ、先行芸能である幸若舞「百合若」の筋を大胆に作り変えたのです。たとえ遠く離ればなれになっても、互いを思いやる百合若と立花姫の「心」が、普通ではあり得ない形で遭遇して愛を確認し合うと云う、まったく新しい人間ドラマが生まれました。夫婦の澄み切った心こそが、見えない互いの姿が見える奇蹟を引き起こた野守の鏡なのです。近松が夫婦遭遇の奇蹟と子別れの人間ドラマを浄瑠璃の芯に置いて、先行芸能の「百合若」が持つ八幡縁起(本地物)の要素を遠ざけたところに、江戸期の新浄瑠璃作家としての近松の面目を見るべきでしょう。(この稿つづく)

(H29・11・22)


3)「百合若」説話のなかの愛

「武智版・百合若大臣」幕切れは近松原作とは異なったもので、幸若舞の「百合若」の筋を取り入れて、「オデッセイア」を強く意識した結末に書き直しています。百合若が行方知れずになって七年後、宇佐八幡では通し矢の催しが行われ、百人力の弓をひいた者に立花姫を与える、それがない時は別府雲足の御台となるとの約束。そこへ現れたひとりの乞食が恐れ気もなく立ち寄って弓を引き、自分が百合若だと告げます。百合若が別府兄弟を射殺し、立花姫と目出度く再会します。

「百合若」説話も「オデッセイア」も、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん )と呼ばれるものです。貴種流離譚とは高貴な生まれの人物が何かの事情で本来在るべき土地を離れ、各地を流れさまよい、散々の苦労をした果てについに元の土地に戻って昔のあるべき姿に戻ってめでたしめでたし・・となる物語のことを言います。貴種流離譚から「やつし」の発想が生まれて来ます。

歌舞伎でのやつしの芸は、一般的には、高貴な生まれの人が何かの理由で落ちぶれてみすぼらしい哀れな姿を見せる芸であると説明されています。見た目の容貌の落差を表出するのがやつしの芸で、それが観客の哀れの感情を誘うとするのです。しかし、これはやつしの表層的な理解です。決して間違いではないですが、これだけではやつしの発想が、その後、和事芸や仇討狂言に発展していくことを論理的に説明できません。正しくこれを説明するならば、やつしの芸とは、「今のわたし が見せている姿は、本当の私の姿ではない、今のわたしは心ならずも自分を偽っている」という感情を表出する芸なのです。これならば、なぜ歌舞伎に仇討狂言がこれほど多いのかも説明が出来ます。(別稿「吉之助流・仇討論・その3」を参照ください。)やつしとは、歌舞伎の発想の宝庫なのです。

「オデッセイア」の結末がこのことを教えてくれます。言い寄る男たちから10年の貞節を守り抜いたペネローペイアが、ついに断り切れなくなって、夫が遺した強弓が引けた者と結婚すると宣言します。しかし、その場にこの強弓を引ける者はいませんでした。そこへみすぼらしい乞食姿の男が登場します。誰もこの男を相手にしませんが、乞食男は強弓を引いて、求婚者たちを次々と射殺します。この男こそが帰還したオデッセウスであったのです。

英雄オデッセウスがそれに相応しい輝かしい姿でこの場に現れないことは、どこか奇妙なことです。みすぼらしい乞食姿のオデッセウスは、その場にどこか不似合であり、不釣り合いである。このことが、どこか滑稽な笑ってしまう感覚に繋がります。このように古典演劇におけるシリアスな感情は、滑稽なものとして描かれるのです。これについては別稿「和事芸の起源」も参考にしてください。ジャック・ラカンは次のように言っています。

『愛にこそ、古典喜劇の頂点が位置付けられます。愛はここにあるのです。愛はひとつの本質的に滑稽な(=コミックな・喜劇的な)原動力なのですが、たいへん奇妙なことに、(現代に生きる)我々は愛を窒息させるあらゆる種類の仕切り、ロマン主義的な仕切りを通してしか、もはや愛を見ることがありません。愛という言葉をめぐって生み出されたロマン主義的な観点の変化によって、我々はもはや、愛をそれほど容易に考えることができなくなりました。(中略)「この高貴にして深遠なモリエール、私たちはいま笑ったけれども、本当は泣くべきだったのだ。」 人々はもはや、滑稽なものが愛そのものの真正かつ胸をいっぱいにするような表現と両立し得るとは、ほとんど考えません。しかしながら、愛が告白され表明される最も真正な愛である時には、愛は滑稽なもの(=ル・コミック、喜劇的なもの)なのです。』(ジャック・ラカン:「無意識の形成物」・文章は吉之助が多少アレンジしました。)

ホメロスの叙事詩「オデッセイア」結末は、「古典における真正な愛は滑稽である」ということを示す、世界文学史上最古の例だと云えます。オデッセウスが本来あるべき姿を取り戻すために、真正な愛が必要です。だから愛を成就させるための筋の段取りとして先に滑稽があるように思えるかも知れませんが、実はそうではなく、むしろ滑稽が愛の本質と一体化しているのが古典の様式であると考えるべきです。近代人の感性は、愛を狂おしいもの、このわたしを窒息させるものと考えるようになってしまいましたから、こうした古典の感性を素直に受け取れなくなっています。

「古典における真正な愛は滑稽である」ということは、宇佐八幡の弓取りの場に乞食姿で現れる百合若大臣も、またそうです。だから武智は「武智版・百合若大臣」の幕切れを「オデッセイア」伝説に無理にこじつけて書き直したということではないのです。近松は三段目・玄海ヶ島で百合若夫婦の愛を野守の鏡の奇蹟として描いて見せました。武智は、全体の筋を「オデッセイア」と関連させることで、中世説話「百合若」のなかの愛の本質を明らかにし、近松が本来描きたかった主題を研ぎ澄ませてくれたのです。武智は、歴史観の裏打ちがしっかりした良い仕事をしてくれました。この「武智版・百合若大臣」を本興行に掛けてみても面白いのではないでしょうか。

最後に役者についてちょっと触れておきますが、鴈之丞の女房立花は智太郎を裏からしっかり支えて、さすがベテランの芸を見せてくれました。智太郎は若さを発揮して、新鮮な百合若大臣を演じてくれました。智太郎は吉之助とほとんど同世代です(吉之助の方が2つ年上)が、あれから36年後、現在は四代目鴈治郎として頑張っています。個人的なことながら、映像のなかに客席にいる若き吉之助を発見して歳月の移り変わりを思ったことでした。お互いまだまだ頑張らなきゃなりませんねえ。

(H29・11・24)


吉之助の三冊目の書籍本です。

「武智歌舞伎」全集に未収録の、武智最晩年の論考を編集して、
吉之助が解説を付しました。

武智鉄二著・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈


 

 




  
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