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団十郎菊五郎在りし日のわが母よ〜谷崎潤一郎・「吉野葛」論


木挽町に団十郎菊五郎ありし日の明治よ東京よわが父よ母よ

谷崎潤一郎

1)妹背山のこと

谷崎潤一郎の小説「吉野葛」は、昭和6年(1931)に雑誌「中央公論」1月号と2月号に分けて掲載されました。谷崎は昭和4年に「蓼喰う虫」連載を完成、さらに昭和5年に並行して執筆していた「」連載を完成しています。「吉野葛」は、その後の「源氏物語」現代語訳の試み、さらに「細雪」の執筆という、谷崎が日本の風土・文化へ傾斜していく時期への過渡期的佳品として重要な位置を占めるものとされます。

「吉野葛」の時代設定については、冒頭に『私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが・・』と書かれています。現在は吉野山への観光客は近鉄吉野線で終点の吉野駅で降りケーブルカーで山を上って金峯山寺へ向かうのが一般的なコースですが、これは昭和3年に当時の吉野軽便鉄道(吉野鉄道)の吉野駅までの路線が開通して以降のことです。それ以前はその三つ前の六田(むだ)駅が終点で、ここが旧吉野駅でした。昭和3年以前の観光客は六田(旧・吉野)駅を降りて、美吉野橋で吉野川を渡り、そこから吉野山方面を目指したのです。小説の「私」と津村は、一般観光客と違って、六田駅で鉄道を降りてから美吉野橋を渡らず、これを右に見ながら、そのまままっすぐ吉野川を遡って菜摘方面へ向かったことになります。

「私」はこれまでに吉野に二度来たことがあって、幼少の頃、上方見物の母に伴われて群衆のなかに交じりつつ山道を右へと登ったことがあるとしています。分岐点の 美吉野橋に差し掛かった時、「私」は亡き母を懐かしく思い出します。

『近頃は、中の千本へ自動車やケーブルが通うようになったから、この辺をゆっくり見て歩く人はないだろうけれども、むかし花見に来た者は、きっとこの、二股の路を右に取り、六田の淀の橋の上へ来て、吉野川の川原の景色を眺めたものである。(中略)私の母も橋の中央に俥(くるま=人力車)を止めて、頑是ない私を膝の上に抱きながら、「お前、妹背山の芝居をおぼえているだろう?あれがほんとうの妹背山なんだとさ」と、耳元へ口をつけて云った。幼い折のことであるからはっきりした印象は残っていないが、まだ山国は肌寒い四月の中旬の、花ぐもりのしたゆうがた、白々と遠くぼやけた空の下を、川面に風の吹く道だけ細かいちりめん波を立てて、幾重にも折り重なった遥かな山の峡(かい)から吉野川が流れて来る。その山と山の隙間に、小さな可愛い形の山が二つ、ぼうっと夕靄にかすんで見えた。それが川を挟(はしさ)んで向かい合っていることまでは見分けるべくもなかったけれど、流の両岸にあるのだと云うことを、私は芝居で知っていた。(中略)その折母の言葉を聞くと、「ああ、あれがその妹背山か」と思い、今でもあのほとりへ行けば久我之助やあの乙女に遭えるような、子供らしい空想に耽ったものだが、以来、私はこの橋の上の景色を忘れずにいて、ふとした時になつかしく想い出すのである。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)


ちなみに谷崎が幼少期に母せきと一緒に吉野を訪れた事実はありません。母は生涯関西へ旅行したことがなかったと谷崎自身が別のところで書いています。また美吉野橋が完成したのは大正15年のことで、それまではここは渡し船で川を渡ったものでした。春の花見時にだけ危なげな仮橋が架けられたのだそうです。そうすると人力車に乗って橋の上から妹背山を望むようなシーンが明治半ば頃にあり得たのかなとも思えますが、まあ小説の上でのことです。つまりこのエピソードは谷崎のまるっきりの創作なのです。しかし、「吉野葛」のなかに唯一ここで「私」の母の思い出が語られることは、やはり何か意味があると考えねばならぬと思います。

ところで「吉野葛」は、小説的紀行文のような読み方をされることがとても多いようです。このため主人公「私」が作者谷崎自身と重ねて読まれて、谷崎が創作取材のために実際に吉野のどの辺まで行ったか・行かなかったかとか、友人津村のモデルとかの詮索が、これまた多い。これは作者がそのような書き方をしている、歴史的文献を散りばめ、ストーリーに真実味を持たせて重層的な構造を取るように作者が仕掛けているからです。だからそれは作者谷崎のせいなのですが、「吉野葛」をそういう風に読んで行くと、些細なことが気になって来ます。

例えば上記の妹背山の場面です。紀行文として読むと、妹背山のことは吉野の風物詩としてそんなものかと気にせずに読み流してしまうと思います。しかし、「吉野葛」の大筋を云えばそれは友人「津村」が亡き母の俤を求める旅なのですから、母の思い出は津村のことで通せば良いのです。妹背山の、「私」の母の思い出話は、小説に別にあってもなくても良いのではないか。筋の流れとすれば、むしろ余計にさえ思えます津村の亡き母の思い出は、母ー狐ー美女ー恋人のイメージで統一されています。それは小説中の歌舞伎「義経千本桜」や「葛の葉」への言及に繋がっています。しかし、「妹背山婦女庭訓」は確かに吉野に関連しますが、狐にまったく関係しませんから、この点から見ても余計に思えます

それならば妹背山の件はいっそ津村の思い出にしてしまえば良さそうなものですが、そういうわけに行きません。津村は母を幼少期に亡くし、母の記憶がほとんどない設定だからです。だから谷崎は、これを「私」の思い出にせざるを得なかったのです。そこまでしても谷崎は小説に妹背山のエピソードを入れたかった。吉之助は、そこから谷崎の「吉野葛」を考えてみたいのです。(この稿つづく)

(H29・4・3)


2) 歌舞伎座の記憶

谷崎は晩年の回想「幼少時代」(昭和30年)のなかで、明治24年3月歌舞伎座での、九代目団十郎の葛の葉の舞台の思い出を語り、このことが小説「吉野葛」のなかに反映されていることを記しています。(谷崎数えで5歳ということになります。)ちなみに第1期歌舞伎座が開場したのが、明治22年11月のことでした。

『二番目の「蘆屋道満大内鑑」は、これも前から葛の葉狐の物語を母から聞かされていたのであった。もっとも母は(九代目)団十郎の葛の葉が「恋しくば尋ね来てみよ」の歌を障子に記すのに、赤子を抱えて、筆を口でくわえて書くといっていたので、それを楽しみにしていたのであったが、私の見た時は手で書いたので、それには少し失望した。私は後に四十歳を越えてから、大阪の文楽座で図らずも文五郎の使う葛の葉を見、遠い昔の団十郎の面影を思い出すとともに、そっと私の耳もとへ口を寄せて、「ほらあれはこれこれの訳なんだよ」と囁いてくれた母の姿までが浮かんで来て、懐旧の情に堪えなかったことがあったが、私の昭和6年の作に「吉野葛」というものがあるのは、母と共に見た団十郎の葛の葉から糸を引いていることは争うべくもない。』(谷崎潤一郎:「幼少時代」)

谷崎潤一郎:幼少時代 (岩波文庫)

ここに「(母が)そっと私の耳もとへ口を寄せて、「ほらあれはこれこれの訳なんだよ」と囁いてくれた」という文章があります。一方、「吉野葛」にも母が耳元で囁く箇所があります。それは前節で引用した妹背山の場面で、「私の母も橋の中央に俥(くるま=人力車)を止めて、頑是ない私を膝の上に抱きながら、「お前、妹背山の芝居をおぼえているだろう?あれがほんとうの妹背山なんだとさ」と、耳元へ口をつけて云った」という箇所です。小説のなかに、谷崎が妹背山にかこつけて母せきの思い出をどうしても挿入させたかった強い動機がここに伺えます。

ところで吉之助が吉野を訪れたのは2月のことで、桜にはまだ程遠くせいぜい梅見頃の感じで、風は冷たかったのですが、「吉野葛」の「私」と津村を真似て、近鉄吉野線・大和上市駅から吉野川上流にある窪垣内(くぼかいと)へ向かうバスの車窓から、吉之助は妹背山を見ました。下の写真 を参照ください。左に妹山、右に背山があって、二つの山を吉野川がふたつに隔てています。なるほどこれは歌舞伎の「吉野川」の舞台面そのままです。ただし、吉野川の流れは芝居にあるような「山川のこの早瀬、水練を得たる者だに渡りがたきこの難所」と云うほどの急流ではありません。ここから上流へさかのぼるにつれ、吉野川はクネクネと大きく蛇行します。

ここで吉之助がふと疑問に 感じたことがありました。「吉野葛」のなかで、谷崎は美吉野橋から遠く眺めた妹背山の風景を

幼い折のことであるからはっきりした印象は残っていないが、まだ山国は肌寒い四月の中旬の、花ぐもりのしたゆうがた、白々と遠くぼやけた空の下を、川面に風の吹く道だけ細かいちりめん波を立てて、幾重にも折り重なった遥かな山の峡(かい)から吉野川が流れて来る。その山と山の隙間に、小さな可愛い形の山が二つ、ぼうっと夕靄にかすんで見えた。それが川を挟(はしさ)んで向かい合っていることまでは見分けるべくもなかったけれど、流の両岸にあるのだと云うことを、私は芝居で知っていた。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

と書いています。「小さな可愛い形の山が二つかすんで見えた」とありますが、吉之助の疑問は、吉野川のこの蛇行の具合からすると、実際には美吉野橋からは妹背山がよく見えないのではないか?もしかしたら谷崎はよく確認をせず想像で書いたかな?ということでした。まあ小説のことであるから、多少の潤色は仕方ないところです。しかし、「吉野葛」はちょっと紀行文めかしたところがありますから、そこがちょっと気になる。そこで翌日に、大和上市駅に近い、美吉野橋のひとつ上流の橋に行って妹背山の風景を眺めてみたのです。

ひとつ上流の橋に行ったのは、美吉野橋からであると近鉄吉野線の鉄橋が邪魔して妹背山が見えないと判断したからです。(昭和3年以前には鉄橋はありませんでした。)の写真が橋の中央辺りから吉之助が撮った妹背山の風景になります。美吉野橋からのアングルとほぼ同じになるはずです。ただし、この写真は拡大しているので、実際に見える光景はずっと小さいものです。手前にあるのが近鉄吉野線の鉄橋で、その奥に、左に妹山・右に背山が確かにかすかに見えますが、前後の山影に重なって判別がしにくい。小説にあるような「山と山の隙間に、小さな可愛い形の山が二つ、ぼうっと夕靄にかすんで見えた」という感じでないことは確かです。別に吉之助は谷崎の粗探しをするわけではありませんが、この風景では歌舞伎の「吉野川」の舞台を連想して、

その折母の言葉を聞くと、「ああ、あれがその妹背山か」と思い、今でもあのほとりへ行けば久我之助やあの乙女に遭えるような、子供らしい空想に耽ったものだが、以来、私はこの橋の上の景色を忘れずにいて、ふとした時になつかしく想い出すのである。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

と母の感慨に浸るには若干無理がある。谷崎はこの光景でホントに歌舞伎の「吉野川」の舞台を思い起こしたのか、それならば上流の妹背山の風景を採った方が良かったのではないか、これでは必然性が乏しいなあと、吉之助は谷崎の意図を訝ったのです。まあ小説だと思えば、多少の潤色は表現の綾として仕方ないが・・・とそんなことを考えたのですが、そこに冷たい風がヒューッと吹いてきて、吉之助の頬を撫でました。この時に吉之助は谷崎の「必然」にハッと思い至ったのです。そう云えば「幼少時代」のなかに、こんな一節があるのです。

『(明治24年頃の歌舞伎座に)座付の茶屋は十一軒あって、開場中は楼上に花を染めた幔幕を引いていたが、私たちは常に菊岡と云う茶屋に俥をつけた。そして座敷に一休みする間もなく、茶屋の女に急き立てられていそいそとしながら福草履を突っかけ、渡りの板を踏んで小屋に這い入った。私は又、草履を脱いで歌舞伎座の廊下へ上がると、すべすべした板の間が妙に足袋の底に冷たい感触を与えたことを思い出す。いつたいに昔の小屋は木戸をくぐった時の空気が肌寒く、晴れ着の裾や袂から、風がすうッと薄荷(はっか)のように襟元や腋の下へ沁みた。でもその肌寒さはあたかも梅見頃の陽気の爽やかさに似て、ぞくぞくしながらも心地よく、「もう幕が開いているんだよ」と母に促がされながら、慌てて廊下を走っていったものであった。』(谷崎潤一郎:「幼少時代」)

現代の空調がよく効いた第五期歌舞伎座では実感がありませんが、昔の芝居小屋は客席は兎も角、廊下は涼しくて、ひんやり感じられたものでした。吉之助の記憶でも、昔(と云ってもつい五十年前の話だが)劇場や映画館の廊下の空気はちょっと暗くて湿った重い感じだったと覚えています。谷崎の場合は「その肌寒さはあたかも梅見頃の陽気の爽やかさに似て」と書いていますが、これは谷崎のなかの華やかな芝居のウキウキした記憶がどこかに反映しているのでしょうねえ。吉之助が気が付いた谷崎の「必然」とは、このことです。吉野川の川面を撫でる肌寒い風の感触と、あそこに妹背山が見えるという事実によって、谷崎のなかに幼少期の歌舞伎座の雰囲気が一気に呼び覚まされたのです。

恐らく初めて吉野を訪れ、吉野川の肌寒い風を受けながら美吉野橋を渡った時、人力車に乗った谷崎は「御覧なさい、あちらに見えるのが妹背山です」と車夫に云われて、頭を上げてその方向を眺めたのでしょう。その瞬間、谷崎の意識は幼少期の歌舞伎座に引き戻されて、「お前、妹背山の芝居をおぼえているだろう?あれがほんとうの妹背山なんだとさ」と耳元で囁く母の声が聞こえたに違いない。

プルースト効果というものがあります。過去の記憶に結びいた嗅覚や味覚からフラッシュバックが引き起こされる心理現象のことを言います。プルーストの長編小説「失われた時を求めて・第1巻・スワン家の方へ」の冒頭部で、主人公マルセルがマドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ瞬間、その香りをきっかけに、彼の幼年時代の記憶が鮮やかに蘇って来たという有名な場面から、名付けられた心理学用語です。谷崎の場合は、彼に過去の記憶を蘇らせたものは、吉野川に吹く風の肌寒さ=幼少期の歌舞伎座の廊下の空気の肌寒さであったのです。

母に対する強い思慕は、谷崎文学の永遠のテーマと云えるものです。「吉野葛」や「幼少時代」それぞれを単独で読んでも、これは頭では十分理解できます。しかし、こうしてふたつの作品を結び付けてみると、谷崎の気持ちが切ないほどのリアリティとなって迫って来ないでしょうか。谷崎の母の記憶は、幼少期の芝居の記憶とぴったり重なっているのです。(この稿つづく)

(H29・4・8)


3)谷崎文学と伝統芸能との関係

吉之助は本稿で谷崎の母への想いを書きたいわけではありません。母に対する強い思慕は谷崎文学の永遠のテーマと云えるもので、谷崎研究でのその関係の論考は多いですから、今更吉之助が改めて論じるまでもないことです。吉之助が指摘したいのは、谷崎の母の記憶が、幼少期の芝居の記憶と分かち難く重なっているということです。つまり、芝居の思い出を引き出すと、母の思い出が可逆的に引き出される。母の思い出を引き出しても、それは芝居の思い出になる。それだけ谷崎のなかの幼少期の芝居の記憶が根源的なものであるのです。晩年に谷崎は次のように書いています。

『それにつけて思うことは、自分が小説作家として今日までに成し遂げた仕事は、従来考えていたよりも一層多く、自分の幼少時代の環境に負うところがあるのではあるまいか、ということである。(中略)余人は知らず、私の場合は、現在自分が持っているものの大部分が、案外幼少時代にことごとく芽生えていたのであって、青年時代以後においてほんとうに身についたものは、そんなにたくさんはないような気がするのである。(中略)私はまた、幼少時代に見た新富座や歌舞伎座の舞台の幻影、団十郎や五代目菊五郎等の演技の数々が、後年の私を形成する上に計り知れない影響を見逃すわけに行かない。いや、時とすれば人形町の水天宮の七十五座のお神楽や、南茅場町の明徳稲荷のお神楽堂の類までも、団菊の芝居に劣らないほど、非情に深い印象をとどめているのに、今更のように気づくのである。』(谷崎潤一郎:私の「幼少時代」について・昭和30年3月)

ですから「吉野葛」での妹背山のエピソードは、谷崎が自分の母の思い出を小説に忍ばせるために無理くりで挿入したものではなかったのです。吉野の妹背山と云えば歌舞伎の「吉野川」のことを当然思う、そこで幼少時代に見た「吉野川」の記憶を思い起こせば、そこに「ホラあそこはこれこれと云うわけなんだよ」と耳元で囁いてくれた母せきの記憶が、谷崎のなかに自動的に引き出されてくるということなのです。これは谷崎にとって、ごく自然の思考回路であったのです。作家の頭にはそのようなプロセスでシーンが浮かぶということが、吉野川の橋のうえで冷たい風に吹かれてみて、吉之助にもよく分かりました。

「妹背山婦女庭訓・吉野川」のことは「幼少時代」に言及が見えませんが、明治27年3月歌舞伎座で「吉野川」が出ているので、谷崎が「吉野川」を見たとすれば、これかも知れません。(谷崎数えで8歳ということになります。)この時の配役は、九代目団十郎の大判事、五代目菊五郎の定高でした。当然良かったでしょうねえ。本稿のタイトルは、晩年(昭和37年頃)に谷崎が詠んだ歌
「木挽町に団十郎菊五郎ありし日の明治よ東京よわが父よ母よ」から採ったものです。団十郎菊五郎と云えば母の思い出になり、母と云えば団十郎菊五郎の思い出になるのです。

谷崎文学と伝統芸能との関係は、歌舞伎はもちろんのことですが、幼少期に見た神社のお神楽などを含めて、谷崎文学の根源的なものとして、もっと深く考慮されねばならないことです。谷崎文学評論でよく云われるところは、昭和初期の、「源氏物語」現代語訳の仕事前後から、「細雪」執筆に至る時期の、「日本回帰」ということです。ところが、「蓼喰う虫」を論じた主要文芸評論をざっと読んだ感じでは、この日本回帰を作品に表層的に関連付けた感じのものが多いように思われます。

詳細は別稿「生きている人形」をお読みいただきたいですが、例えば「心中天網島・河庄」で太兵衛らに悪口を云われてじっと黙ってうつむいている文五郎が操る小春の人形を見て、『元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聴きに来る人たちの夢見る小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形のような姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いない』(「蓼喰う虫」第2章)と小説にあります。この文章にある小春の表情から日本的な静謐な美しさを見出して論じるものがとても多い。まあほとんどがそうでしょうねえ。しかし、歌舞伎や文楽を研究する吉之助からすると、これは表面的な見方に思えます。

表面的には小春の人形はじっとして動きませんが、小春の内心には、愛する治兵衛のこと、逢ったことも治兵衛の女房おさんのこと、故郷に残した老いた母親のことなど、いろんな思いが渦巻いているのです。これは、実はとても動的なシーンなのです。このことは人形を操っている文五郎のことを考えてみても分かります。人形遣いにとって、人形がじっとして動かない場面ほど辛いものはないのです。息を詰めて同じ姿勢を取ったまま、筋肉を硬直させていなければならないからです。これは実は最もエネルギーが要る場面なのです。だから谷崎が、じっと黙ってうつむいている小春の人形のことを長々描写していることには、実は理由があるのです。これは人形を見つめている主人公斯波要の内心に、いろんな思いが渦巻いていることを示しているのです。要は小春に人形に自分の心の状態に似たものを見たからこそ、当初はさほど関心が持てなかった文楽に知らず知らずのうちについ引き込まれるのです。「蓼食う虫」をを読むならば、谷崎が文楽を良く理解して小説を書いていることが、吉之助には一目瞭然です。斯波要・美佐子夫妻夫妻の心が冷めて別れたいけど別れない(或いは別れられない)、だから彼らはじっとしていて動かない、これは静的な状態であると、多くの文芸評論がそう書いています。しかし、実は、夫婦の間にいろんな思いが渦巻いており、その思いがあまりに多すぎるから動けないのです。これはとても動的な状態なのです。

「蓼喰ふ虫」の第9〜11章では要が美佐子の父親である老人と、その妾であるお久と一緒に三人で淡路に出かけて現地の民俗芸能である淡路人形を見物する挿話が綴られます。ここで要が「のどかだ、実にのどかだ」・・という言葉を連発します。そのせいで、この要の淡路旅行をのんびりした旅行だと読んでいる文芸評論が、これまた多い。しかし、別れたいと思っている妻の義父と一緒に旅行して心安らかなはずがないではありませんか。旅行中に要がずっと考えていることは、別れようか・別れまいか、このことをいつ義父に切り出そうかということに違いない。心安らかなんてことは絶対ないのです。だから余計に要は「のどかだ、実にのどかだ」という言葉を連発するのです。それは彼の内心がのどかでないからです。淡路の帰りに、まっすぐ家に帰らず、山手の愛人ルイズのところへ寄るのもそのせいです。気晴らしせずにはいられないからです。「のどかだ、実にのどかだ」というのは読み手を攪乱するための、谷崎の手練手管なのです。

だから「蓼喰ふ虫」を谷崎の日本回帰の作品と位置付けることに吉之助は異論はないですが、「日本回帰」と云う言葉をどう定義するかが問題になります。「日本回帰」と云う言葉に、じっとして動かない静的な状態をイメージすることは、伝統芸能を研究する吉之助にとっては、あり得ないことです。だから「吉野葛」も、そのような伝統芸能との動的な関係において読みたいと思うわけです。(この稿つづく)

(H29・4・14)


4)芸能の始原へ

谷崎の母せきは、大正6年5月に54歳で亡くなりました。この時、谷崎は30歳でした。その2年後の、大正8年に書かれた「母を恋(こ)ふる記」は、谷崎の母性思慕が明確に現れた最初の作品とされています。吉之助には本稿で谷崎の母への想いを論じる意図はないのですが、本論を進めるうえで 触れておかねばならないので、ちょっと寄り道しますが、「母を恋ふる記」は、谷崎自身が投影された主人公「私」が、母を探し求めて、月明かりのなかを彷徨う夢物語として展開します。やがて家の灯りが見えてきて、家のなかでひとりのお媼(ばあ)さんが台所仕事をしているのが見えます。「私」は「お母さん、私ですよ、潤一が帰ってきたんですよ」と声を掛けます。すると女は「私」をじっと見つめて、

『お前は誰だったかね。お前は私の倅だったかね。(中略)私はもう長い間、十年も二十年もこうして倅の帰るのをまっているんだが、しかしお前さんは私の倅ではないらしい。私の倅がもっと大きくなっているはずだ。そうして今にこの街道のこの家の前を通るはずだ。私は潤一などと云う子は持たない。』

と答えます。「私」はなおも細い道を歩き続けます。すると月明かりのなかに、三味線を弾きながら新内節を唄うひとりの女の姿が浮かび上がります。

『今やその三味線の音は間近くはっきりと聞こえている。さらさらと砂(いさご)を洗う波の音の伴奏につれて、冴えた撥のさばきが泉の涓滴(けんてき)のように、銀の鈴のように、神々しく私の胸に沁み入るのである。三味線を弾いている人は、疑いもなくうら若い女である。昔の鳥追いが被っているような編笠を被って、少し俯向いて歩いているその女の襟足が月明かりのせいもあろうけれど、驚くほど真っ白である。若い女でなければあんなに白い筈がない。(中略)「あ、分かった。あれは事に依ると人間ではない。きっと狐だ。狐が化けているんだ。」(中略)が、それがもしも狐だとすれば、私がうしろから歩いて行くのをよもや知らない筈はなかろう。知っている癖にわざと空とぼけているのだろう。』 (谷崎潤一郎:「母を恋ふる記」・大正8年)

「私」は女に話し掛けます。本当は「姉さん」と呼びたかったのですが、最初は彼女のことを「小母(おば)さん」と呼びます。しかし、やがて意を決して「これから小母さんの事を姉さんと云つたっていいでしょう。だって私には姉さんのような気がしてならないんですもの。きっと小母さんは私の姉さんに違いない。」と言います。すると、女は、

『なぜだい?なぜお前はそんな事を云うのだい?(中略)お前に姉さんがある訳はないじゃないか。お前には弟と妹があるだけじゃないか。お前に小母さんだの姉さんだのと云われると、私は猶更悲しくなるよ。(中略)お前は私を忘れたのかい?私はお前のお母様(っかさん)じゃないか。』

「私」はハッとして、「云われてみればなるほど母に違いない。母がこんなに若く美しい筈はないのだが、それでもたしかに母に違いない」と思うのでした。

谷崎の回想によれば、若い時の母せきは美しかったそうで、浮世絵のモデルになったこともあったそうです。「母を恋ふる記」を読んで分かるように、谷崎にとって夢に出て来る母は若く美しくなければならなかったのです。年取ったお媼さんでは駄目なのです。だから夢のなかで一人目の女は否定されて、二人目の若く美しい女の方が選択されます。

ここで吉之助が指摘したい大事なことは、谷崎の母の記憶が、幼少期の芝居の記憶と分かち難く重なっているということです。幼少期の芝居の思い出を引き出すと、若く美しい母の思い出が可逆的に引き出されて来る。若く美しい母の思い出を引き出せば、それは必然的に幼少期の芝居の思い出になるのです。だから二人目の若く美しい女の幻想的なイメージは、当然、谷崎が幼少期に見た明治の芸能の思い出を引き出します。女は、昔の鳥追いが被っている編笠を被り、三味線で新内節を唄っています。これを見て「私」は、「あれは人間ではない、きっと狐だ、狐が化けているんだ」と感じます。

鳥追いとは、正月の祝いとして鳥追い唄を唄う門付(かどつ)け芸人、つまり遊芸民のことです。「幼少時代」のなかに、寒い冬の凍った往来に乳母に抱かれて寝ていると、カラリコロリと下駄の歯を慣らしながら、新内語りが家の前を通り過ぎていく、その三味線の音を聞いていると「天ぷら喰いたい、天ぷら喰いたい」と云っているように聞こえたという思い出が出て来ます。このような光景は、明治半ばの東京の下町に日常のものとして見られたものだったと思います。それは芸能の原初段階を思わせます。江戸時代になって都市に芝居小屋というものが出来て芸能が定着する以前の芸能というものは、そこで芸を見せて稼いだらまた次の村へ渡り歩いて、決して定着することのない、永遠の放浪の旅でした。昨日はいたと思ったら、今日はもうどこかへ行ってしまっているようなものでした。そういう素朴なものと比べると、歌舞伎座での芝居はちょっと高級な、悪く云えば偉そうな芸能になってしまっています。だからもちろん歌舞伎座の記憶は谷崎にとって大事なものなのだけれど、自分の記憶のルーツをもっと辿って行こうとすると、必然的に谷崎の思考は、幼少期に見た明治の芸能の思い出から、さらにはるか昔の芸能の始原へと遡って行かねばならなくなります。

「あれは人間ではない、きっと狐だ、狐が化けているんだ」と「私」が感じるのは、とても興味深いことです。次章で考察しますが、これは 谷崎の原体験としては、六歳の時に見た九代目団十郎の「葛の葉」の思い出から来ているわけですが、谷崎の思考は歌舞伎座の追憶で終わるのではなく、その始原である信太妻(しのだづま)伝説 まで遡っているのです。

もうひとつ記しておきたいことは、谷崎の母性思慕は、若くて美しかった頃の母せきの記憶を追い求めていると云う単純なものではなさそうだということです。谷崎の弟・精二の回想に拠れば、「母はヒステリイ気味だった」、「母の病的な神経質には父も子供たちも困らせられた」とのことです。また母は長男・潤一郎より弟・精二を頼りにしており、「母に疎まれていたことを兄は薄々知っていたかも知れない」とのことです。しかし、谷崎文学に登場する母親像では、そのような母のネガティヴな要素がまったく切り捨てられています。そして母の清浄なイメージだけが残っている。と云うことは、谷崎の母性思慕は、現実の母親に対するものとは若干違っていて、谷崎によって浄化され理想化された母親像であるらしいのです。もしかしたら 幼少期の谷崎には、ヒステリイの母に対しながら、「あれはホントのお母さんではない、ホントのお母さんはきっと狐で、森へ帰ってしまって、そこで僕を待っているんだ」と云うような思いがあったのかも知れぬと吉之助は想像します。(この稿つづく)

(H29・4・20)


)しのだづま

「幼少時代」のなかで谷崎は、旧作「吉野葛」は六歳の時に見た九代目団十郎の葛の葉から糸を引いているのみではなく、その五年後に見た五代目菊五郎の「千本桜」から一層強い影響を受けたものに違いなく、もし五代目のあれをみていなかったら、恐らくああいう幻想は育まれなかったであろうと書いています。さらに谷崎は、「吉野葛」のなかで私は津村という大阪生まれの青年の口を借りてこのようなことさえ述べているとして、次の一節を引用しています。

『自分はいつも、もしあの芝居のように、自分の母が狐であってくれればと思って、どんなに安倍の童子を羨んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。が、「千本桜」の道行になると、母ー狐ー美女ー恋人ーという連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静と忠信狐とは主従のごとく書いてありながら、やはり見た目は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を狐忠信になぞらえ、親狐の皮で張られた狐の音に惹(ひ)かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会の舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

谷崎の亡き母への想いが強く感じられます。同時に、谷崎の母の思い出は、明治の昔の歌舞伎の思い出、特に狐のイメージと強く結びついています。歌舞伎の「葛の葉」と「千本桜」の思い出が、谷崎のなかで混じり合って、母ー狐ー美女ー恋人ーという連想が出来上がっているのです。そこで谷崎の発想プロセスを検証していきたいと思います。まず「葛の葉」です。これは「幼少時代」のなかに、谷崎が六歳の時(明治24年3月歌舞伎座)に九代目団十郎が演じる葛の葉を見たことが記されています。

『二番目の「蘆屋道満大内鑑」は、これも前から葛の葉狐の物語を母から聞かされていたのであった。もっとも母は(九代目)団十郎の葛の葉が「恋しくば尋ね来てみよ」の歌を障子に記すのに、赤子を抱えて、筆を口でくわえて書くといっていたので、それを楽しみにしていたのであったが、私の見た時は手で書いたので、それには少し失望した。私は後に四十歳を越えてから、大阪の文楽座で図らずも文五郎の使う葛の葉を見、遠い昔の団十郎の面影を思い出すとともに、そっと私の耳もとへ口を寄せて、「ほらあれはこれこれの訳なんだよ」と囁いてくれた母の姿までが浮かんで来て、懐旧の情に堪えなかったことがあったが、私の昭和6年の作に「吉野葛」というものがあるのは、母と共に見た団十郎の葛の葉から糸を引いていることは争うべくもない。』(谷崎潤一郎:「幼少時代」)

「吉野葛」の原点がこの九代目団十郎の葛の葉狐にあることは、谷崎の証言から明らかです。幼少の谷崎は、事前に母から葛の葉」の筋を聞かされて、芝居を見るのを随分楽しみにしていたようです。「蘆屋道満大内鑑・葛の葉」では、本物の葛の葉姫が登場して、自分が偽者で狐であることを知られてしまった以上、もはや自分はここにいることが出来ないと云うことで、葛の葉は「恋しくば尋ね来てみよ」の歌を障子に記して信太の森へ泣く泣く帰って行きます。幼少の谷崎のなかに生じたのは、「もしかしたらお母さんは狐かも知れない」という漠然なる不安であったかも知れません。そこが母ー狐の連想プロセスの取っ掛かりとなります。

ところで葛の葉子別れの芝居は、信太妻(しのだづま)伝説から来ています。「信太妻」とは、信太にいる妻、或いは信太から来た妻、どちらとも考えられます。この伝説は近世初頭の説教節「しのだ妻」によって伝えられ、その後、数種の浄瑠璃に脚色され、途中、歌舞伎になったこともありますが、享保19年の人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」に集大成されて、ここで筋がほぼ固定化したようです。幼少の谷崎が見た歌舞伎の「葛の葉」は、これでした。

「谷崎の思考は、幼少期に見た明治の芸能の思い出から、はるか昔の芸能の根源へと遡って行く」と吉之助が前節で書いたことには、理由があります。「大内鑑・子別れ」では、葛の葉狐が去る理由は、本物の葛の葉姫が登場したからですが、何となく単純すぎて、味けない感じがします。葛の葉狐が子供と別れる嘆き・悲しみは十分描かれていますが、母に去られる童子丸(後に安倍晴明となる)の気持ちが十分とは云えません。童子丸は「母さま」と泣き叫ぶだけ。これでは幼少の谷崎が「葛の葉」の芝居に感情移入しにくいだろうと、吉之助は思うのですねえ。ところが「大内鑑」の先行作と思われる角太夫節「信太妻」を見ると、葛の葉狐が保名の元を去る原因に子供が絡んで来ます。筋はだいたい次のようなものです。

或る秋の日、葛の葉が縁側で庭を眺めていると、菊の花が咲いていました。それは狐が大好きな乱菊という花で、それを見ているうちに、葛の葉は自然と狐の本性が現れて、顔が狐に変わってしまいました。傍に寝ていた童子丸が目を覚まし、お母さんが狐になったと怖がって騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて、去ってしまいました。その後、子供が母を慕うので、保名が子供を連れて信太の森を訪ねると、葛の葉が姿を見せたと云うことです。

「信太妻」にあって「大内鑑」にない件は、葛の葉が乱菊を見て狐に戻ってしまったのを童子丸が見て騒いだという箇所です。子供が原因で葛の葉は保名の元を去ったと云うことです。こちらの方が葛の葉が信太の森へ帰ねばならない理由として、葛の葉が狐であることの哀しみ、狐の業(ごう)の深さが痛切に感じられます。つまり、母子の宿命が強い主題となって来るのです。もう一度、谷崎が「吉野葛」で津村の口を借りて書いた台詞を引用します。

『自分はいつも、もしあの芝居のように、自分の母が狐であってくれればと思って、どんなに安倍の童子を羨んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。』

これだけ読むとロマンティックな甘い幻想に思えるかも知れませんが、信太妻伝説を踏まえて読むならば、津村の思いは悲痛なものです。「お母さん、僕を捨てて、どこへ行ってしまったの? もしかしたら僕が悪かったの?」と云うようなものです。狐の業の深さは、母狐だけが背負っているものではなく、子もまた同じものを背負っているに違いないからです。これは吉之助の想像ですが、幼少の谷崎が母から信太妻の話を事前に聞いて歌舞伎の「葛の葉」を見たと思えないので、恐らく谷崎は後信太妻伝説を書物かか何かで知ったのだろうと思います。これで谷崎は、母と見た「葛の葉」の思い出を核に、自分のなかの母への思慕へ向けて、或る論理的な筋道を後追いで付けることが出来たと吉之助は推測します。それが「母ー狐」の発想プロセスなのです。(この後に続く「狐ー美女ー恋人」については後ほど考えます。)

但し書きを付けますが、竹田出雲が信太妻の説話を詰まらなくしたと云う風に聞こえたかも知れませんが、そういうことではなく、説話というのはいろいろな系譜があって、それを取り込みながら流転していくものですが、文字化されることで或る種の筋の整理・辻褄合わせは避けられないところなのです。そこに江戸期の義太夫節の理に立った一面が出ているのだと思います。吉之助が指摘したい点は、谷崎の「母ー狐」の発想プロセスは、もちろん六歳の時に見た九代目団十郎の「葛の葉」の思い出から来る のですが、これだけではまだ材料が足りません。これだけだと「母ー狐」の発想は、まだ理屈で作りあげたものにしかなりません。「母ー狐」の発想をもっと実感があるものにするために、信太妻伝説へ立ち返ることが、どうしても必要となります。それは谷崎が後から仕入れた情報であろうということです。吉之助の推察ですが、それはだいぶ後のこと、多分、谷崎が成人して後のことであろうと思います。

ところで、子供の無邪気な行為が親たちを破局に導くという説話は、古今東西によくあったもののようです。折口信夫は「信太妻の話」のなかで次のようなことを書いています。

『村々の生活を規定する原理なる庶物は、てんでんに違うていた。少なくともお互いに異なる原動力の下に在るものと考えていた。こういう時代の村と村との間に、族外結婚が行われるとすれば、男の村へ連れて来られた女は、変わった生活様式を、男の家庭へ持ち込むことになる。ほかの点では妥協しても、信仰がかった側の生活は、容易に調子を合わせる訳にはいかなかったであろう。(中略)事実はそんなにまで極端ではなかったろうと思われるが、その俤(おもかげ)を伝える物語は、この秘密の尊重という点に足場を据えている。』(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年)

こうして泣く泣く子供と別かれ、村を追われた女が、昔はいたのかも知れません。一方、夫・妻それぞれの秘密が、子供のおかげで調和されていくという場合もあり得ます。いずれにせよ夫婦の間に在って何かの秘密を共有する存在が子供と云うものであるのかも知れず、ならば「母さま母さま」と呼ぶ童子丸の声は、母が去ってしまった原因が自分にあるのかも知れないと云う、何か原罪のようなものを問うているのです。(この稿つづく)

(H29・4・27)


6)しのだづま・その2

文楽には「大内鑑」(葛の葉狐)、「千本桜」(源九郎狐)、「玉藻前」(金毛狐)など、狐が主人公のものがありますが、みな畜生としての執着の強さを主題としています。畜生は人間よりも愚痴なるゆえ、愛着の念の強さは人間の百倍とされています。ですから、子別れ、夫婦の別れ、親との別れなど、愛着離苦の情を狐に託して描くわけです。

「音曲口伝書」という本にある逸話ですが、播磨少掾(二代目義太夫)が弟子の順四軒に「葛の葉・子別れ」を語れと命じて、順四軒は大喜びで語りましたが、播磨少掾は「フウ」とため息をついただけで、何も言わない。それでその理由を問うたところ、播磨少掾は「お前は去年幼女を失うて日がな涙にくれいるよう聞いていた故、さそかし親子の情うつるべしと思い望んだところ、面白う聞こえて気の毒」と答えたそうです。「面白う聞こえて気の毒」と云う師匠の言葉から、順四軒は浄瑠璃は「人情第一」を以て語るものだということを学んだのでした。同時に狐の言葉を語る時、それは「ひと雫づつ涙を拭いては名残を云う心」で語らねばならぬということです。「吉野葛」に描かれる津村の母への思慕も、或る意味、愚痴なるゆえの執着と云えるでしょう。

ところで谷崎の「私の貧乏物語」(昭和10年1月)を読むと、谷崎は最初はこの小説を「葛の葉」という題で書き始めたとのことです。

『「吉野葛」の時は、あれは早くから腹案らしいものがやや漠然と出来かけていたが、それでもそれか足かけ三年というものは頑張り通した。私は最初あのテーマを「葛の葉」と云う題で書きかけてみたが、吉野の秋を背景に取り入れ、国栖村の紙漉きの娘を使うことが効果的であることに気が付いて、五十枚まで書いて、吉野山から国栖村に遊んだ。』(谷崎潤一郎:「私の貧乏物語」・昭和10年1月)

これからすると、仮題「葛の葉」に最初吉野のことはなかったのです。最初の構想がどんなものであったかは想像しても仕方がないことですが、大阪育ちの商家の息子が幼い頃に死んでしまって顔すら覚えていない母親を慕い、その俤を追い求めるという筋だということは決まっていたでしょうが、吉野のことは、最初の構想になかったのです。

このことは、「吉野葛」を読めば、なるほどそうだったろうと分かります。それは第4章の「
狐噲(こんかい)」のことです。小説の筋が脱線して、ここで話がしばし吉野のことから離れます。津村は、吉野川の川岸で、生い立ちに纏わる母の記憶を「私」に語り始めます。津村は幼少期に「狐噲」という曲を琴で弾いていた上品な婦人の思い出を語ります。彼はそれが自分の記憶のなかにある唯一の母の俤であると信じているのです。「狐噲」は母を慕う子供の心情を歌うもので、それが狐に関係があるらしいというところから、大阪府和泉市葛の葉町にある葛の葉神社の話へと展開していきます。かろうじて狐という線で繋がっていますが、吉野には全然関係がありません。「吉野葛」が吉野紀行文の体裁を取っていることを考えれば、筋の流れから見て、これは不自然なことです。そのことから、多分、この狐噲」の辺りが、仮題「葛の葉」の元の部分であっただろうことが推測できます。

「吉野葛」のなかの、津村の母性思慕は、六歳の時に見た九代目団十郎の「葛の葉」の芝居の思い出から来ますが、「葛の葉」で描かれる子別れの主題は、葛の葉狐の情の方に重きを置いています。これを取り残された子供から立ち去った母親への情へ、情の方向を転換するためには、どうしても始原である信太妻伝説まで立ち戻らなければなりません。狐の業の深さは、母狐だけが背負うものではなく、狐の子もまた同じものを背負うからです。第4章・「狐噲」の役割がそこにあるわけですが、詳しいことは後続の章において考えることにします。本章で考えたいことは、別のことです。それは津村にとっての「葛の葉」(母)はどこへ帰ったのか、或いはどこへ帰るべきかということです。

谷崎が仮題「葛の葉」構想の段階(恐らく昭和2年か3年頃のこと)では、多分、それは決まっていなかったでしょう。筋の流れからすれば、大阪府和泉市辺りにするならば、「恋しくば尋ね来てみよ 和泉なる信太の森の うらみ葛の葉」の歌と照応することになります。しかし、これだと落ちが当たり前過ぎて、小説としてあんまり面白くありません。そうすると津村の「葛の葉」が帰る場所はどこにしたって良いことになりますが、そこで谷崎の脳裏に閃いたことがある。狐が活躍する芝居、親子の絆を描いている芝居と云うことになれば、もうひとつ、有名な芝居があるじゃないかということです。もちろん「義経千本桜」(源九郎狐)のことです。それで、津村の「葛の葉」が帰る場所を吉野に決めたというのが、吉之助が推測するところです。だから「吉野葛」という表題の意味するところは、吉野にいる葛の葉、或いは吉野へ帰った葛の葉ということになりますね。(この稿つづく)

(H29・4・30)


7)初音の鼓

前節では谷崎の「母ー狐」の発想が信太妻の説話から来ることを考えましたが、後半の「狐ー美女ー恋人」の発想が「義経千本桜・吉野山道行」から来ることは、これは誰の目にも明らかです。「幼少時代」のなかで谷崎は、もし五代目菊五郎の狐忠信を見ていなかったら、恐らく「吉野葛」の幻想は育まれなかったであろうと書いています。幼少の谷崎が見たのは、明治29年1月明治座の「義経千本桜」通しの舞台でした。この時、五代目菊五郎は忠信と権太と覚範を演じ、四代目福助(後の五代目歌右衛門)がお里と義経、五代目栄三郎(後の六代目梅幸)が静御前を演じました。この時の菊五郎の演技は幼い谷崎の印象にも強く残ったらしく、「幼少時代」のなかで菊五郎の素晴らしさを筆を尽くして書いています。ここでもう一度、「吉野葛」の一節を引いておきます。

『自分はいつも、もしあの芝居のように、自分の母が狐であってくれればと思って、どんなに安倍の童子を羨んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。が、「千本桜」の道行になると、母ー狐ー美女ー恋人ーという連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静と忠信狐とは主従のごとく書いてありながら、やはり見た目は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を狐忠信になぞらえ、親狐の皮で張られた狐の音に惹(ひ)かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会の舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

芝居の道行というのは、たいてい恋人同士の男女二人連れです。「吉野山道行」の場合は、静御前と佐藤忠信(実は源九郎狐)という二人連れで、これは源義経に忠信が頼まれて愛人の静を吉野へ連れて行くということです。だから主従の二人連れなのですが、若い男女のことですから、傍目には夫婦か恋人同士のようにほのぼのとして見えるということです。詞章も「恋と忠義はいづれが重い、かけて思いははかりなや」 とか、そんなことを観客に連想させるように書かれています。それが「吉野山道行」を華やいだものに見せています。

実は源九郎狐(忠信に化けている)は、静が携帯している初音の鼓を自分の親と慕っています。(真相は次の「川連法眼館(四の切)」の場で分かります。)だから源九郎狐が気になっているのは鼓なのですが、静から見ると、忠信の挙動が不審に思われて、何だか自分に気があるように感じたかも知れません。もちろん静には義経という男がいるのだからそこに厳密な一線はあるわけですが、男が自分に好意を持っていてくれることは、女心にも悪い気はしない。だから静も女の愛嬌ということで、何となく忠信に媚態を示す表情をしてしまうことがあったかも知れません。これは逆に源九郎狐から見ると、静はどうしてそんな表情をするんだろうとしか思えない。「吉野山道行」は、そういう二人連れの、主従の、ちょっとチグハグな旅なのです。

ところで、「母ー狐」の思いを初音の鼓が象徴していることは、「川連法眼館」を見れば、これは明らかです。「美女ー恋人」の思いの方も、まるで夫婦か恋人同士のようにほのぼのとしたムードを醸し出す「吉野山道行」から引き出されるでしょう。しかし、吉之助は、これで谷崎の「母ー狐ー美女ー恋人」という連想プロセスが完成したと考えるのは、まだ早計だと思うのですねえ。「美女ー恋人」の発想を狐に結び付けるためには、「吉野山道行」だけでは、まだちょっと無理があると吉之助は思います。そのためには初音の鼓と静御前が狐の線でもっと強く重ならなければなりません。「吉野山道行」では、まだそれは十分とは云えません。「母ー狐ー美女ー恋人」の発想を自然なものにするために、小説のなかで、もう少し論理的段階を踏んでおく必要があります。恐らく吉之助が指摘したのと同じことを、谷崎は感じたに違いありません。だから谷崎は、狐の芸能の始原へ遡って行くのです。つまり「葛の葉」で踏んだプロセスを、谷崎は「吉野山道行」でも同じように踏んでいると云うことなのです。

初音の鼓と静御前を重ねるために、谷崎がどのような苦労をしたのか。このことを検証する手がかりはあります。昭和5年秋に谷崎は再び吉野を訪れ、紹介者の伝手で吉野川を遡った菜摘村の大谷家に所蔵されている「初音の鼓」を見せてもらいに行っているからです。このことは「吉野葛・その三・初音の鼓」の挿話に取り入れられていることです。(この稿つづく)

(H29・5・3)


8)初音の鼓・その2

『私は最初あのテーマを「葛の葉」と云う題で書きかけてみたが、吉野の秋を背景に入れ、国栖村の紙すき場の娘を使うことが効果的であることに気が付いて、五十枚まで書いて、吉野山から国栖村に遊んだ。だがたった一回の旅行だけでは心もとない気がしたので、翌年の秋の来るのを待ってもう一度出かけ、今度は暫く山の中に滞在した。』(谷崎潤一郎:「私の貧乏物語」・昭和10年1月)

谷崎は昭和4年8月に吉野に滞在、さらに昭和5年10月に吉野を再び訪れ、さらに11月には奥吉野を取材したようです。「吉野葛」は翌年・昭和6年に雑誌「中央公論」1月号と2月号に分けて掲載されましたから、昭和5年秋の時点ならば、既に雑誌掲載が決まっていたはずです。原稿はまだ完成していなかったにしても、構想はほぼ固まっていたはずです。それでも行かねばならなかったということです。谷崎が菜摘村の大谷家を訪れ、同家に所蔵されている「初音の鼓」を見せてもらったのは、昭和5年11月24日のことで した。

菜摘村のことに触れておくと、現在では近鉄吉野線の大和上市駅からバスで国道を吉野川に沿って上流へ行けば二十分くらいの場所になりますが、昔はなかなか行きにくい場所であったようです。吉野川を遡ると、妹山背山を過ぎたところからクネクネと大きく蛇行してきます。菜摘の里とは、謡曲「二人静」にも歌われている菜摘川の岸のことで、「菜摘川のほとりにて、いずくともなく女の来たり候て」と謡曲にあります。「二人静」では、勝手明神の神主が女に、神事に使う若菜を摘ませる為に行かせる場所が菜摘の里になっています。若菜を摘む女の傍に、もうひとりの女が現れます。これが静御前の亡霊です。

『謡曲ではそこへ静の亡霊が現じて、「あまりに罪業の程悲しく候へば、一日経書いて賜れ」と云う。後に舞いの件になって「げに耻(はづ)かしや我ながら、昔忘れぬ心とて、・・・今三吉野(みよしの)の河の名の、菜摘の女と思うなよ」などとあるから、菜摘の地が静に由縁のあることは、伝説に根拠があるらしく、まんざら出鱈目ではないかも知れない。大和名所図会(ずえ)などにも、「菜摘の里に花籠の水とて名水あり、また静御前がしばらく住みし屋敷趾(あと)あり」とあるのを見れば、その云い伝えが古くからあったことであろう。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

史実に拠れば、静御前は冬の吉野で義経と会い、吉水院で数日間過ごしたようです。しかし、当時の大峰山は女人禁制であった為、山にそれ以上留まることが出来ず、泣く泣く義経と別れたところで、静は鎌倉方に捕らわれて、鎌倉へ送られました。しかし、どうやらこの土地の伝承では、静御前は吉野の山から菜摘の里まで逃げてきて、この地で没したことになっているようです。

谷崎が菜摘村を訪れた目的は、紹介者の伝手で大谷家に所蔵されている「初音の鼓」を見学せてもらうためでした。まさに執筆に着手しようという直前に、谷崎が大谷家を訪れたことは、とても興味深いことです。これは吉之助の想像ですが、前節で触れた通り、初音の鼓と静御前を狐の線でもっと強く重ねないと、「母ー狐ー美女ー恋人」という連想プロセスが完成しないわけです。「私」が津村に「なるほど、それが君の初音の鼓か」と感動を以て云うためには、谷崎としては、まだ心もとない。菜摘村の大谷家に「初音の鼓」が伝わっていると聞けば、是非とも行かねばならなかったはずです。伝承はあくまで伝承だとしても、初音の鼓と静御前と狐の関連をもう少し肉付けしておきたかったと云うことです。或いは場合によってはこれが「吉野葛」の筋のその後の展開に影響を与える可能性さえ考えたかも知れません。

大谷家訪問の時のことは、「吉野葛・その三・初音の鼓」の挿話に、ほぼそっくり取り入れられています。(平山城児著・「考証・吉野葛」のなかで詳しく検証がされています。)谷崎が見せてもらった「初音の鼓」は胴だけで、皮が張っていないものでした。狐の皮が張られていたかどうか分かりません。漆が比較的新しいように思われました。鼓に添えられた「菜摘邨来由(なつみむららいゆ)」と題する巻物に、静御前は菜摘の里まで逃げて来て、この近くの井戸に身を投げて没したことなどが記されていました。しかし、狐との関連は書かれていませんでした。「吉野葛」のその場面を読むと、谷崎も、何かまやかしものではなかろうかと思いながらも、ひょっとすると・・という期待をどこかでしていたようで、現物の鼓と巻物を見てがっかりした風が伺えます。

謡曲「二人静」や「菜摘邨来由」に奥吉野で没した静御前の伝承があるらしいことは、小説で「吉野へ帰った葛の葉」を描きたかった谷崎にとっては好都合だったと思います。「菜摘邨来由」に静御前の遺品とされる初音の鼓と狐との由来が何か記載されていれば、例えば出雲が「千本桜」制作の過程で参考にしたかも知れないような材料が出てくるならば、初音の鼓と静御前を狐の線でもっと強く重ねることができて、さらに都合が良いと谷崎は考えたに違いありません。しかし、残念ながら、期待は裏切られました。結局大谷氏の家で感心したものは、鼓よりも古文書よりも、そこで食した「ずくし」(干し柿)であったと谷崎は書いています。

それにしても、さすがは谷崎だなあと感心するのは、結果として谷崎の連想の肉付けに寄与しなかったわけですが、この大谷家訪問を小説の材料として無駄にしなかったことです。小説的紀行文の体裁を取るなかで、「私」と津村の道中を吉野の伝承の世界に遊ばせ、この挿話クスッと笑ってしまう味わいを醸し出すように仕立てて、次章へ巧みに筋を渡しています。「母ー狐ー美女ー恋人」の連想プロセスの完成は、次章狐噲(こんかい)」へ引き継がれることになります。(この稿つづく)

(H29・5・5)


9)狐噲(こんかい)

吉野川の川岸で、「自分のこの気持ちは大阪人でないと、また自分のように早く父母を失って、親の顔を知らない人間でないと(他人には分からない)・・」と前置きしながら、津村は自らの生い立ちに纏わる母の記憶を「私」に語り始めます。津村は幼少期に「狐噲」という曲を琴で弾いていた上品な婦人の思い出します。彼はそれが自分の記憶のなかにある唯一の母の俤(おもかげ)であると信じているのです。ここで地唄の「狐噲」のことが出て来て、津村は「狐噲」の歌詞の彼なりの解釈のようなものを語り始めます。こうして少しづつ津村の「母ー狐ー美女ー恋人」という連想が見え始めます。

『自分は今では、この節廻しも合いの手も悉(ことごと)く暗(そら)んじてしまっているが、あの検校と婦人の席でこれをたしかに聞いた記憶が存しているのは、何かしらこの文句のなかに頑是(がんぜ)ない幼童の心を感銘させ るものがあったに違いない。もともと地唄の文句には辻褄(つじつま)の合わぬところや、語法の滅茶苦茶なところが多くて、殊更(ことさら)意味を晦渋(かいじゅう)にしたのかと思われるものが沢山ある。それに謡曲や浄瑠璃の故事を踏まえているのなぞは、その典拠を知らないのでは尚更解釈に苦しむわけで、「狐噲」の曲も大方別に基づくところがあるのであろう。(中略)そののち幾たびかこの曲を耳にするに随(したが)って、それが狐に関係することを、おぼろげながら悟るようになった。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

ここまで検証してきたことを整理しておくと、歌舞伎の「大内鑑」には「母ー狐」の連想はありますけれど、子から母への思慕を引き出す為には、まだそれは十分なものとは云えません。歌舞伎の「千本桜」の初音の鼓には子から母への思慕が確かに象徴されており、「吉野山道行」の静御前には「美女ー恋人」の連想があります。これらはすべて谷崎の幼少の観劇体験から発しているものです。また、それは母せきの思い出と密接に結びついたものです。だから、谷崎のなかでは、もちろんそれなりの必然性があるのですが、津村の「母ー狐ー美女ー恋人」という連想プロセスが完成したと言い切るためには、これではまだ十分ではないのです。いちおう材料としては揃っていますが、これを小説とするには、もう少し論理的手続きを踏んでおく必要があります。そこで谷崎は初音の鼓と静御前を狐の線でもっと強く重ねて、「吉野へ帰った葛の葉」の幻想に真実味を持たせるための伝承的な根拠を、菜摘村の大谷家の初音の鼓に期待したのでしょうが、残念ながらそれは叶いませんでした。したがって、そこは谷崎が自らのペンで「吉野へ帰った葛の葉」の真実を創り出さなければならないことになりました。谷崎が古い遊女の手紙や身請けの証文などを手に入れる為に道具屋や紙くず屋を回ったのも、このためです。

吉之助は歌舞伎の研究者ですから、「母ー狐ー美女ー恋人」という連想の検証焦点を絞って本論を進めることにします。当初の仮題「葛の葉」で構想した「母ー狐ー美女ー恋人」という連想をより実感のあるものにするために、「大内鑑」や「千本桜」など、狐の芸能の始原を遡って行かねばなりません。狐の業の深さは、母狐だけが背負うものではなく、狐の子もまた同じものを背負うのです。第4章・「狐噲」で、いよいよ谷崎はその論理的な手続きに取り掛ることになります。

昭和3年秋に、谷崎は兵庫県武庫郡岡本梅ケ谷(現・神戸市東灘区岡本7丁目)に転居しますが、そこで大阪から生田流の菊原琴治検校を招き、地唄の三味線の稽古を始めたそうです。「倚松庵の夢」のなかで松子夫人は、谷崎の三味線について、もともと音感は確かであったが、器用な性(たち)ではなかった、ただ習い始めるとくりかえしくりかえし練習するので、音色も良く相当なものだったと回想しています。確かに「雪」に関しては、みなが感心するほどの腕前であったようです。後年の「細雪」のなかに、四女妙子が地唄舞「雪」を舞う有名な場面があるのは、ご存じの通りです。谷崎が菊原検校から「狐噲」を習ったのかはよく分かりませんが、兎に角、この頃に谷崎がこの曲を耳にして「吉野葛」の原型である仮題「葛の葉」の構想を温めたのだと思います。

津村が云う通り、こうした俗曲は、いろんな雑多な要素を取り込んでおり、歌詞は辻褄が合わぬところや、語法のおかしなところも多いようです。また誰を主体とした文句なのか、台詞なのか地なのかよく分からない箇所もあります。だから「狐噲」の歌詞の歌詞の解釈もなかなか難しいこととされているようです。しかし、ここはまあ小難しいことを云わずに、小説家谷崎の解釈を気楽に楽しめば良いことだと思います。谷崎が小説に引用している歌詞は、「中世近世歌謡集」(日本古典文学大系)に掲載されている「狐噲」の歌詞と細かい相違があるようですが、これも問わないことにします。(地唄「狐噲」をお聴きになりたい方はココをご覧ください。歌詞が付いているので便利です。)

「狐噲(こんかい)」は、狐会とも書き、狐の鳴き声を表すものだそうです。地唄「狐噲」は、恐らくは十八世紀初め頃の成立で、葛の葉狐の説話に取材した芝居を典拠にしていることは確かですが、「蘆屋道満大内鑑」の筋からと云うよりは、むしろそれより以前の、古浄瑠璃「信太妻」や歌舞伎の信太妻物の影響を受けていることが考えられそうです。

『「いたはしや母上は花の姿に引き替かへて」と云い、「母も招けばうしろみ返りて、さらばと云はぬはかりにて」と云い、逃げていく母を恋い慕う少年の悲しみの籠っていることが、当時の幼(いとけな)い自分にもなんとはなしに感ぜられたと見える。そのうえ「野越え山越え里打ち過ぎて」と云い、「あの山越えてこの山越えて」と云う詞には、何か子守唄に似た調子もある。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

「いたはしや」というのは、「あらいたはしやつし王殿は」(さうせう太夫)、「いたわしやしんとく丸は」(しんとく丸)、「あらいたはしや照手の姫は」(をぐり)など、中世の説教節に頻出する文句です。地唄「狐噲」が説教の流れを汲むものであることは、ここからも察せられます。「いたはしや」の意味は、他人の状態に対して心が痛むさま、憐れみを感じるさま、気の毒だ、不憫だなど。

「母を恋うる記」(大正8年)のなかで、谷崎は母の俤を、鳥追いが被っている編笠を被り三味線で新内節を唄う女に重ねて、「あれは人間ではない、きっと狐だ、狐が化けているんだ」と感じたことを書いています。鳥追いとは、正月の祝いとして鳥追い唄を唄う門付(かどつ)け芸人のこと。谷崎の幻想は、遊芸民の芸能の始原にまで遡っていきます。「いたはしや」が引き出す説教の響きは、津村を、自分の記憶の根源へ連れて行きます。津村にとって、それは狐の鳴き声で象徴されています。

「いたはしや母上は花の姿に引き替かへて」は、ああ不憫なことであるなあ、母上は、花のような美しいさまがあれほどに打って変ったように・・とでも云うことでしょうか。「花の姿に引き替かへて」は、信太妻説話を踏まえるならば、「花の美しさを見て顔を狐に変えてしまったばっかりに、こんなこと(信太の森に帰らなければならないこと)になってしまって・・・という意味にも考えられます。

「母も招けばうしろみ返りて、さらばと云はぬはかりにて」は、母狐が去ろうとしては、また振り返って子供への未練を示すという風に読めますが、津村の場合はこの母狐のさまを庭先にいて見ている童子の視点で読んでいます。「あれは人間ではない、きっと狐だ、狐が化けているんだ」と思っている童子は庭先にいて呆然としたまま、立ち去ろうとする母を見ながらこれを制止することさえ出来ないでいます。ここに津村は、「お母さん、僕を捨てて、どこへ行ってしまったの? もしかしたら僕が悪かったの?」と云う、母に対する罪悪感を重ねているのです。

「野越え山越え里打ち過ぎて」、或いは「あの山越えてこの山越えて」と云う詞には、遊芸民の果てしない旅への哀しみが聞こえて来るようです。別稿「折口信夫への旅〜「身毒丸」を巡って」を参照ください。「何か子守唄に似た調子もある」と云う津村の言葉は、どこかロマンティックに聞こえます。定着民である大阪の商家のボンボンらしい視点ですが、これは芸能の始原(揺り籠)である説教の放浪芸への憧れであると云えるかも知れません。(この稿つづく)

(H29・5・7)


10)狐噲(こんかい)・その2

「吉野葛」には地唄「狐噲」の歌詞が引かれていますが、歌詞は辻褄が合わぬようなところが確かにあります。例えば「法師にまみえ給いつつ」と云う文句が、それです。どうして唐突に法師が出て来るのか分かりません。信太妻説話の系統には法師が登場しそうな作品を認めることができないからです。ところがどういう芝居か詳細は不明なのですが、ある男が自分の母親の病気を治すために祈祷の法師を招いたところ、やってきた法師は実は母親に恋していた狐で、母親の病気の原因もその狐だったことが分かって、狐は追い払われて、何度も後ろを振り返りつつ古巣に帰って行くという筋の芝居があるようで、これが「狐噲」の元であるらしいとの説もあるようです。そうなると今度は「狐噲」が信太妻説話から離れてしまって、ますます訳がわからなります。どうも「狐噲」は、狐に関連した伝承を雑多に取り込んでいるようなのです。しかし、「吉野葛」は津村の 亡き母への思慕を軸に展開しているのですから、「狐噲」は信太妻説話由来でなくてはなりません。だから谷崎は「法師にまみえ給いつつ」の箇所を無視 して話を進めていますが、これはそれで良いのだろうと思います。

『自分は子供ながら、「我が住む森に帰らん」と云う句、「我が思ふ我が思ふ心のうちは白菊岩隠れ蔦がくれ、篠の細道掻き分け行けば」などと云う唄のふしのうちに、色とりどりな秋の小径(こみち)を森の古巣へ走って行く一匹の白狐(びゃっこ)の後影を認め、その跡を慕うて追いかける童子の身の上を自分に引きくらべて、ひとしお母恋いしさの思いに責められたであろう。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

「あの山越えてこの山越えて」の句にも同じことが云えますが、置いてきた我が子への未練をふり捨てて古巣の信太の森へ向けて一心にひた走る白狐の姿がここに見えます。白狐の軌跡を追う津村は、これを童子の視点で読もうとしています。「お母さんは、信太の森へ帰ってしまって、そこで僕を待っているんだ」ということです。そこに希望があるわけです。

ここまで津村は自らの「狐噲」解釈を語っていましたが、ここで話 が一時中断します。津村は「そう云えば、信田(信太)の森は大阪の近くにあるせいか、昔から葛の葉を唄った童謡があって、自分はそれを二つ知っている」と言い始めます。津村は、これらの唄にほのかな郷愁を感じています。まず一つ目の童謡は、

釣ろうよ、釣ろうよ 信田の森の 狐どんを釣ろうよ

と歌いながら、一人が狐になり、二人が狩人になって輪を作った紐の両端を持って遊ぶ狐釣りの遊戯です。「親子茶屋」と云う上方落語には、お茶屋遊びとして「狐さんを釣ろうよ」が出て来ます。津村も芸者遊びで「狐になった者が、唄につれておどけた狐の身振りをしながら次第に輪の側に近づいてくるのが、またまたそれが艶(えん)な町娘や若い嫁であったりすると、殊に可愛い」と語っています。もうひとつは、

麦摘(つ)ウんで 蓬(よもぎ)摘ウんで お手にお豆がこウこのつ 九(ここの)ウつの、豆の数より、親の在所が恋しゅうて 恋いしイくば 訪ね来てみよ 信田のもウりのうウらみ葛の葉

と唄いながら、大勢で輪を作り中に鬼を座らせて、豆のような小さい物を鬼に知らせないように順々に送りまわして歌が終わった時に誰の手にあるか、それを鬼に当てさせる遊びだそうです。共に大阪のわらべ遊びとして、よく知られたものだそうです。谷崎は東京生まれですから知る由もないことですが、谷崎はこれを関西移住後に知人に教えてもらって知ったようです。

谷崎がこれらのわらべ遊びを「吉野葛」に取り入れたのは、ひとつには大阪の人々の生活のなかに自然な形で信太妻説話が溶け込んでいることに、谷崎が興味を持ったことがあるでしょう。もうひとつは、狐という共通ワードを介して遊びのなかにある、「狐どんを釣ろうよ」での誰かを釣る行為、「信田のもウりのうウらみ葛の葉」で鬼に誰かを当てさせる行為に、谷崎が興味を持ったことは疑いのないところです。谷崎のなかで、これが妻恋い・或いは妻問いみたいなものに重ねられています。そろそろ谷崎のなかで、「母ー狐ー美女ー恋人」への仕掛けが動き始めたようです。(この稿つづく)

(H29・5・9)


11)狐噲(こんかい)・その3

『そんな点から考えると、自分の母を恋うる気持ちは唯(ただ)漠然たる「未知の女性」に対する憧憬、つまり少年期の恋愛の萌芽と関係がありはしないか。なぜなら自分の場合には、過去に母であった人も、将来妻となるべき人も、等しく「未知の女性」であって、それが目に見えぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。蓋しこう云う心理は、自分のような境遇でなくとも、誰しも幾分か潜んでいるだろう。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

津村はこのように切り出します。谷崎の「母ー狐ー美女ー恋人」への仕掛けが、遂に動き始めました。自分にとっては、過去に母であった人も、将来妻となるべき人も、共に「未知の女性」である。どちらも何か目に見えぬ糸で自分に繋がっている人だと云うのです。これは糸を手繰り寄せてみたら「釣れていた」という感覚と重なっています。「釣った」のではなく、それは元々繋がっていたものを手繰り寄せてみたら、釣れていただけなのです。「釣ろうよ、釣ろうよ 信田の森の 狐どんを釣ろうよ 」と云う唄を聞きながら、津村はそのようなことを考えています。津村にとって妻問い同じようなものです。それは元々何かの縁で繋がっているのだがら、糸を手繰って行けば必ず「会える」のです。

「蓋しこう云う心理は、自分のような境遇でなくとも、誰しも幾分か潜んでいるだろう」と津村は云います。吉野川の川辺で「自分のこの気持ちは大阪人でないと(分からない)・・」と津村が語った意味は、大阪の人々の生活のなかに信太妻説話がこれほど自然な形で溶け込んでいるからだと云うことなのでしょう。未知の女性に、狐(葛の葉)のイメージがあります。狐は、母にも、将来妻となるべき人にも、容易に姿を変えられます。狐のイメージは、どのどちらでもあるのです。大阪の男ならば、狐の話を聞く時、誰しもそんなことを考えるのではないか。このような論理(ロジック)を踏んだうえで、津村は自らの「狐噲」談義を再開します。

『その証拠にはあの狐噲の唄の文句なども、子が母を慕うようでもあるが、「来るは誰故ぞ、様故」と云い、「君は帰るか恨めしやなうやれ」と云い、相愛の男女の愛別離苦をうたっているようでもある。恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧にぼかしたのではないか。いずれにせよ自分は最初にあれを聞いた時から、母ばかりを幻に描いていたとは信じられない。その幻は母であると同時に妻でもあったと思う。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

「狐噲」を子が母を慕う唄であると我々は思っているが、男女の愛別離苦を唄っているようにも、どちらにも聴こえるのではないか、どちらを取ってもそれは良いのではないかと、津村は云うのです。こうなると、過去に母であった人への想いも、将来妻となるべき人への想いも、混じり合って、等しく同じものになってしまいます。「狐噲」のなかで唄われているのは、そのようなものだと津村は云うのです。そう云われると「いたはしや母上は花の姿に引き替かへて しほるる露の床の内 智慧の鏡も掻きくれて」という冒頭の詞も、母上は恋の病で伏せっているようにも聞こえて来ます。「来るは誰故ぞ、様故」とか、「君は帰るか恨めしやなうやれ」は、つれなく帰ってしまう恋人を恨んで泣く遊女の思いにも聞こえて来ます。

ちなみに「狐噲」と同時代に作られた歌謡には、「稲荷塚狐会」や「十二孝狐会」など、狐に関連しながら遊里における男女の交情を唄うものが、他にも少なくないようです。(平山城児著・「考証・吉野葛」のなかで詳しく検証がされています。)古来、狐は人間の生活にとても近い存在でした。狐は陰の獣とされており、日本では女のイメージで捉えられることが多かったようです。これら狐に関連する歌謡は必ずしもすべてが信太妻説話の系統にあるものではなく、遊女は人を騙す職業である、だから狐だという単純な発想で作られた ものがあったように思われます。当時の民衆の倫理道徳からすると、男女の交情を自由恋愛の形で大っぴらな表現することは、厳に憚(はばか)られることでした。それは遊里における男女の交情に託して表現されるならば許容範囲でした。

ですから地唄「狐噲」について、「恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧にぼかしたのではないか」と谷崎が書いていることは、文献的な根拠がないにしても、この唄をじっくり聴いて、恐らくはかなり練習もしたであろう谷崎の実感として、それなりに納得できるものです。これで谷崎の「母ー狐ー美女ー恋人」という連想プロセスが、ほぼ見えてきたのではないかと思います。(この稿つづく)

(H29・5・11)


12)狐噲(こんかい)・その4

「吉野葛」のなかで谷崎が展開する「母ー狐ー美女ー恋人」の連想プロセスが成功したかどうかは、「過去に母であった人も、将来妻となるべき人も、等しく未知の女性であって、それが目に見えぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである」という津村の主張が上手く行っているかに掛っています。その伝承的根拠として津村(=谷崎)が持ち出すのが地唄「狐噲」の解釈なのですが、この津村の論理がすんなり読者に受け入れられるならば成功です。

ここで本論3章で吉之助が申し上げたことを振り返りたいのですが、「吉野葛」を伝統芸能との動的な関係で読むとは、一体どういうことかと云うことです。津村の論理のなかで核になる箇所は、この部分です。伝統芸能との動的な関係で読むことによって、津村の論理が機能します。

『その証拠にはあの狐噲の唄の文句なども、子が母を慕うようでもあるが、「来るは誰故ぞ、様故」と云い、「君は帰るか恨めしやなうやれ」と云い、相愛の男女の愛別離苦をうたっているようでもある。恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧にぼかしたのではないか。いずれにせよ自分は最初にあれを聞いた時から、母ばかりを幻に描いていたとは信じられない。その幻は母であると同時に妻でもあったと思う。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

地唄「狐噲」は子が母を慕う唄である、相愛の男女の愛別離苦の唄である、この二つの見方がどちらも正しいと云う風に二つを並列した形で捉えるのではなく、二つを混じり合った形で捉えたいのです。もっと正確に云うと、津村がその顔を見定めようとすると、それが母の顔になったり妻の顔になったりするのです。母かと思えば妻に変わり、妻かと思えば母に変わるのです。ついでに云えば、それは母でも妻でもないものに変わる場合だってあるのです。その像は決して定まることがありません。だからこれが化ける狐のイメージになるのです。これが地唄「狐噲」を動的な関係で読む見方です。これが津村の感じ方なのです。ここから「吉野葛」が発しているのです。ですから次の津村の述懐も同様に読む必要があります。

『自分の母を恋うる気持ちは唯(ただ)漠然たる「未知の女性」に対する憧憬、つまり少年期の恋愛の萌芽と関係がありはしないか。なぜなら自分の場合には、過去に母であった人も、将来妻となるべき人も、等しく「未知の女性」であって、それが目に見えぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

津村の述懐を動的な関係で読めていないと、津村は、亡き母の代替えを、将来妻となるべき人(お和佐・未来の津村夫人)に求めていることになります。これではお和佐は納得できないでしょう。「私はあなたのお母さんじゃない」と 云うことになります。津村の考えることは、そういうことではないはずです。過去に母であった人も将来妻となるべき人も溶け合って、等しく「未知の女性」=初音の鼓となるのです。津村は、そこに化ける狐のイメージを見ているわけです。このようにして「吉野へ帰った葛の葉」の筋が形成されます。

もうひとつ、重要なことを付け加えておきます。対象を動的関係で捉える谷崎の見方は、実はとても近代的な感性の所産です。絶え間なく動く物体を私が目で見よう(認識しよう)とする時、私はその物体を直截的に捉えるのではなく、光が当たって物体が反射した光を網膜がとらえて、それで私はその物体を認識することができるのです。つまりそこに時間差が生じますから、私が認識したものは「像」に過ぎず、私が認識した時にはその物体は既に違うところへ移動してしまっているのです。ですから物体の位置は明確に捉えることは 出来ず、敢えて表現しようとするなら、それは雲のようなイメージで確率として表すしかない。これがハイゼンベルクの不確定性原理(1927年)の哲学的な解釈ですが、同時代的な気分において、谷崎はこれとまったく同じ物の考え方をしていると云うことなのです。

同様なことが、「吉野葛」のいろいろな場面で縦横に起きています。例えば谷崎の母せきの記憶が、幼少期の芝居の記憶と分かち難く重なっていることです。谷崎から 九代目団十郎五代目菊五郎の芝居の思い出を引き出すと、母せきの思い出がフラッシュバックする。谷崎から母せきの思い出を引き出しても、それは九代目団十郎五代目菊五郎の芝居がフラッシュバックする。この関係もまったく同じで、動的関係において読まねばなりません。谷崎の思考のなかで時間の軸が喪失しています。ですから縦横に谷崎の思考が動くのです。「吉野葛」のなかに散りばめられている歴史的事象、そのなかには事実もありますし、事実でないもの・ただの伝承もありますが、そういうものも小説のなかではすべて等価に扱われており、それらが渾然一体となって狐のイメージを作り出します。ひとつひとつでは狐との連関はあっても(ない場合もありますが)、それは単独では狐のイメージになることはありません。すべてが混じり合って、狐=初音の鼓のイメージが形成されます。これは重層的構図というよりも(層と云うとひとつひとつがはっきりと分かれているのであるから)、溶融構図とでも云うべきものかも知れませんねえ。

「母ー狐ー美女ー恋人」の連想プロセスが一旦出来てしまえば、「なるほど、それが君の初音の鼓か」と「私」が云うまでの筋の展開は、谷崎にとってさほど難しいことではありません。谷崎(=津村)は、さらに「恋女房染分手綱・重の井子別れ」の自然薯の三吉(狐にも吉野にも関係ない)まで持ち出して持論を強化しようとしてますが、もうこれで十分の気がしますねえ。吉之助にはもう書くべきことはないように思いますが、最後に「吉野葛」の末尾を挙げておきましょう か。

『ちょうど私がその鉄砲風呂の方を振り返ったとき、吊り橋の上から、「おーい」と呼んだ者があった。見ると、津村が、多分お和佐さんであろう。娘を一人うしろに連れて此の方へ渡って来るのである。二人の重みで吊り橋が微かに揺れ、下駄の音がコーン、コーンと、谷に響いた。』(谷崎潤一郎:「吉野葛」)

コーン、コーンは、もちろん狐の鳴き声を擬しているのですが、吉之助は芝居の幕切れの拍子木の音のようにも聞きたいですねえ。「ハ〜イ、狐のお話は、これ切り、これ切り」と云う風に。

(H29・5・12)

(付記)

*谷崎の地唄「狐噲」解釈については、別稿「雑談:伝統芸能の動的な見方について」において補足記事を書きましたので、そちらもご覧ください。

*本稿を書くに当たり、「吉野葛」に関連する土地を訪ねてきました。これについては写真館に
「谷崎潤一郎・小説「吉野葛」の世界」の題名で、その1〜6までの記事が収録されていますので、是非ご参照ください。

平山城児:考証『吉野葛』―谷崎潤一郎の虚と実を求めて

谷崎潤一郎:吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)

谷崎潤一郎:幼少時代 (岩波文庫)


 

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