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生きている人形〜谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」論

*本稿は谷崎潤一郎の「蓼喰う虫」を読み解くのが主目的ですが、同時に谷崎から見たところの文楽人形論でもありますので、そのようにお読みください。


1)自動人形のイメージ

『オッフェンバックは、しばしば非難されてきたように、心理学的な論理や芸術的推進力には頓着せず、要するに「幕間劇」しか作らなかった。このことは、極度の、つまりは美学的な、シニシズム(冷笑主義)の結果に過ぎないとも言える。自分自身の芸術の法則をもあざ笑う自由思想と自己嘲笑の結果だったのである。しかし、彼が深く優しい心の持ち主であったということは、最後の作品「ホフマン物語」の舟歌だけでも分る。「ホフマン物語」において手本にされたドイツ・ロマン主義は、パリのデカダンスによって甘く味付けされ、洗練されて、素晴らしく感動的な歌を歌い始める。ここでは、現代的国際都市の急進主義が、消え去ってしまった愛を嘆いている。女性は人形か・娼婦である。真実愛する女性はすでに死の手中にある。』(エゴン・フリーデル:「近代文化史」)

オッフェンバックはカンカン踊りのオペレッタ作曲家としてあまりにも有名です。歌劇「ホフマン物語」(1881年・パリ初演)は彼の唯一のオペラであり、これが彼の最後の作品でもあります。原作は19世紀ドイツの幻想文学のE.T.A.ホフマンの「砂男」などの小品から採っています。歌劇「ホフマン物語」は主人公ホフマン三人の女性と次々に恋に落ちますが、いずれも夢破れてしまうという物語です。この第2幕でホフマンが恋してしまう女性オランピアが実は自動人形です。オランピアは物理学者スパランツァー二の作り出した自動人形です。オランピアは美しい眼をした人造美人で・機械仕掛けで上手に歌を歌い・踊りをしますが、話しかけると「ウイ(はい )」としか返事をしません。スパランツァー二は金目当てでオランピアとホフマンを結婚させようと画策しています。スパランツァー二は「物理学がすべてじゃよ、君。オランピアは高くついたんだ。」などと言いますが、恋で眼がくらんでしまっているホフマンは「物理学と彼の娘と何の関係があるんだ?」とまったく無頓着です。それがホフマンに悲運をもたらします。

ここで自動人形について考えてみます。人間の働きを真似する人工の仕掛けを創ろうとする願望は昔からあったものです。古くはギリシア神話にも機械仕掛けの人形が登場します。しかし、自動人形が最も流行したのは時計技術が発達してきた18世紀のことで、王侯貴族は精巧な自動人形を収集して居室を飾り、その優美な動作を楽しむと共に、権力と冨の象徴として誇示しました。当時の有名な自動人形の製作者ラ・メトリはフリードリッヒ大王の寵愛を受けました。訓練された軍隊、長期間の教練に熱心であったフリードリッヒ2世は自動人形に取りつかれていました。産業革命以前の自動人形は、「服従させうる・自分の意思にひたすら従順な存在」として為政者の願望と結びついていました。

19世紀に入ると自動人形に別の意味が加わります。それは機械・つまり科学の持つ分かりやすさです。科学には秘密を持ちません。設計図さえあれば誰でもカラクリが理解できて・同じものが大量に作れるのです。自動人形がみんなのものになるのです。このことがフランス革命後の啓蒙思想と結びつきます。自動人形の大量生産を可能にするのは、豊富な資金力とそれに裏付けられた生産性です。それがブルジョワジーが享楽の産物として夢見た自動人形として「ホフマン物語・第2幕」に出てくるものです。「ホフマン物語」のオランピアは、オッフェンバックの時代の新興ブルジョア令嬢たちが急拵えの教養と作法で社交界へ大量に送り出されるのを皮肉ったものとも言われています。お人形のお定まりの行動パターンは令嬢たちが受けたマナーの訓練の成果です。行動を標準にまで高めた社会はそれを楽しみ・評価するけれども、実はそれには心はこもっていなくて・氷のように冷たく死んでいるというわけです。

「ホフマン物語」の詩人ホフマンは自動人形のオランピアに恋してしまいますが、バラバラにされたオランピアを見てホフマンは愕然としてしまいます。そんなホフマンを周囲の人々は嘲笑します。ここでのオランピアは見掛けは美しく魅力的であっても実体がない不毛の存在と見なされます。人形に恋してもその恋は決して成就することはありません。しかし、もしかしたらホフマンはそれが決して成就しないことを無意識のうちに感じて、恋に憧れ恋に恋していたのかも知れません。そうやってホフマンが次々恋していくなかに自動人形がいたのです。(この稿つづく)

(H22・5・10)


)自動人形のイメージ・続き

19世紀末西欧の人形のイメージをもう少し考えてみます。プルーストの「失われた時を求めて」のなかのエピソードですが、「私」(マルセル)と恋人アルベルチーヌとの会話のなかである可愛い少女のことが話題になった時、アルベルチーヌが「そうね、あの子は可愛いムスメのような感じだわ」と言うのを聞いて、「私」は彼女が「ムスメ」という言葉を知っていたことにちょっと吃驚します。

『明らかに、私がアルベルチーヌを知るようになった頃は「ムスメ」というのは彼女には未知の語であった。そのまま事態が正常に進んだのであったら、そんな語を彼女が知ったはずがない、というのが本当だろう。そして私にとってもそれについては気になることは何もなかっただろう。というのもこれ以上に身の毛立つ語はないからである。この語を耳にすると、人は口のなかに氷の大きなかけらを入れた時のように歯が浮くのを感じる。しかし、アルベルチーヌを見ていると、いかにも美しいので、そんな「ムスメ」という語さえ、私にはどうしても不愉快になれないのであった。』(マルセル・プルースト:「失われた時を求めて〜ゲルマントの方・U)

ここで使われている「ムスメ Musume」という言葉は日本語の「娘」から来ています。「ムスメ」は19世紀末のパリでよく知られた言葉だったそうです。これについては海野弘氏が「プルーストの部屋」のなかで詳しく解説されていて・それがとても参考になります。その発端はロティの小説「お菊さん」(1887)にあるそうです。

海野弘:プルーストの部屋〈上〉―『失われた時を求めて』を読む

『ムスメというのは若い少女または非常に若い女を意味する言葉である。それは日本語のなかでも一番愛らしい言葉だ。そこにはムウ(彼女たちがするような、かわいく、おかしなムウ、つまりしかめ面)や、特にフリムウス(彼女たちがするようなフリムウス・シフォネ、つまり愛嬌のある顔)があるような気がする。』(ピエール・ロティ:「お菊さん」)

ロティはムスメという言葉の響きにムウとかフリムウスという言葉を重ねてイメージしているのです。さらにムスメという言葉に人形(ブウべ)のイメージが重ねらます。ロティは日本に着くとすぐに周旋屋に若い女を紹介してもらいます。金で買われてくるムスメがお菊さんです。ムスメ とは外国人に快楽を奉仕する人形なのです。

『そうだ。・・・皮膚の黄色い、髪の毛の黒い、猫のような目をした小さい女をさがそう。可愛らしいのでなくちゃいかん。人形(ブウべ)よりあまり大きくないやつでね。 君に部屋を貸してあげよう。青い花園のなかの、植え込みのこんもりした、紙の家だよ。花のなかで暮らすんだ。そこいら一面に花が咲いて、毎朝花束(ブウケ)で いっぱいになるんだ。君なんか見たこともない花束(ブウケ)で。』(ピエール・ロティ:「お菊さん」)

もちろんこれは欧米男性が日本女性に抱く自分勝手なイメージに違いありません(つまり異文化論としても読むことも出来るわけです)が、19世紀西欧の歪んだ精神状況をそこに垣間見ることができて実に興味深いものです。「ムスメ」という人形はちゃんと肉体を持っていて、金さえあればその恋を自分のものにできるからです。実体があって・しかも手が届く範囲にあるところの自動人形なのです。つまりそれはホフマンの自動人形オランピアへの願望と深いところで重なっているということです。このことは19世紀末西欧を見れば理解ができます。今はパリのシンボルとなっているエッフェル塔が作られた時の1889年パリ万国博覧会を見たジョルジュ・ヴァルベールは次のように記しています。

『人々はシャン=ド=マルスの機械館を見てまわる。唸り吼え、ヒューヒューと音を立て、何かを吐き出しながら、激しい動きによって正確で一部の狂いもない作品を完成するこの飼い慣らされた怪物の間を歩きまわる。人々は機械の時代が、何よりも人類を賞賛する方向へ向かったことに驚くだろう。機械の世紀には、それが減退させたはずの、自我崇拝がこれまでにないほど発展した。いかなる時代も、自我がこれほど大きな主張をし、これほど大きな場所を占め、これほどひけらかされたことはなかった。しかしまたこれほど個人の自由な発展の邪魔をし、個人が作りあげるものにおける個性を損ない、思うように人格を形成したいという望みを裏切った時代もまたなかった。我々が生きている社会は我々を横並びに並ばせる。誰か別の人間と取り替えることは少しも難しくない。我々は自分を複雑にし、歪め、よじり、また元に戻し、自分の言葉や思考をこねくりまわすのが好きだ。我々は単に複雑な存在であるだけでなく、いつも何かに駆り立てられている。すべてが我々の我を膨らませ、絶え間なく我々の感覚を多様化させ、変化させようとする。我々は不可能を信じることができず冒険を試みる神経症患者のようであり、あまりに軽いので止まる枝をたわめることもないまま、名付けることも、見つけることもできない何かを捜し求めるためにすぐにまた飛び立っていく鳥のようだ。』(ジョルジュ・ヴァルベール:「機械の世紀」・1889年)(この稿つづく)

(H22・5・15)


3)動かされる人形

人類の歴史において・科学が与えた三つの衝撃があったということがよく言われます。ひとつはコペルニクスの地動説、ふたつめはダーウィンの進化論、みっつめがフロイトによる無意識の発見です。まずコペルニクスの地動説は、教会が説くところの・神は人間と地球を宇宙の中心に位置付けたとする世界観を根本的にひっくり返しました。ダーウィンの進化論は神は自分の姿に似せて人間を作り・生命体の頂点に置いたとする考えを 覆しました。そしてフロイトの無意識の発見は、人間というのは自分の意識しないところの何かによって縛られ・動かされる人形に過ぎないことを教えたのです。

ジークムント・フロイトが著書「夢判断」を出版したのは1899年1月のことでした。しかし、フロイトの無意識の発見は突然のひらめきによって生まれたわけではなくて、実はフロイトの思想は極めて19世紀末的な感性の産物なのです。ひとつには産業革命の進行により道具のように扱われ酷使される市民、国家体制の強化と相次ぐ戦争によって落ち着いた生活を奪われた市民のイライラした気分・抑圧された精神の軋(きし)みということです。それが「まるで我々は人形同然じゃないのか」という空虚な感情を生み出します。前項で引用したヴァルベールの文章を思い返してください。

『機械の世紀には(中略)自我がこれほど大きな主張をし、これほど大きな場所を占め、これほどひけらかされたことはなかった。しかしまたこれほど個人の自由な発展の邪魔をし、個人が作りあげるものにおける個性を損ない、思うように人格を形成したいという望みを裏切った時代もまたなかった。(中略)我々は自分を複雑にし、歪め、よじり、また元に戻し、自分の言葉や思考をこねくりまわすのが好きだ。我々は単に複雑な存在であるだけでなく、いつも何かに駆り立てられている。』(ジョルジュ・ヴァルベール:「機械の世紀」・1889年)

ヴァルベールが感じていることは、私たちを駆り立てるものは何か・私たちは何を求めて生き・何ゆえ苦しむのかという問題です。ヴァルベールは外的な要因だけではなく、その内的な要因についても目を向けています。このような19世紀西欧の時代の思いの行き着くところにフロイトの無意識の発見があったことが分かると思います。またこのことは音楽でも文学でも絵画でも同時代の西欧芸術作品をあたってみればさらに強く実感できます。とすれば、自動人形のオランピアに恋してしまう詩人ホフマンとはただ美しい幻想に惑わされて・見えるべきものが見えなかった哀れな男に過ぎなかったのでしょうか。まだ見ぬ日本の娘に人形のイメージを重ねるロティという男は、金銭で性的支配欲を満足させる道具を求める傲慢で嫌らしい男に過ぎなかったのでしょうか。そうではありません。そうではなくて、実は彼らは自分の姿を自分と似た存在(人形)に知らず知らずのうちに重ねているのです。似たような存在同士が引き合っているということです。そう考えると、ホフマンはオランピアに操られている人形に、ロティはお菊さんに操られている人形に見えてこないでしょうか。人形と対している時にだけ彼らは自分が生きていると(つまり自分は人間であって人形ではないと)感じるのです。

『幻想のなかでは、主体はしばしば気付かれぬままになっています。しかし、主体は夢のなかであれ夢想のなかであれ、多少とも発展した何らかの形態においてはつねに存在しています。主体は幻想によって規定されたものとして自らをそこに位置付けているのです。幻想が欲望の支えです。対象は欲望の支えではありません。主体はたえず複雑さの度合いを増していくシニファンの集合との関係で、欲望するものとして自らを支えています。このことは主体が身にまとっているシナリオという形でよく見て取ることができます。シナリオのなかで主体はどこかにおり、もはや真の姿を見せない対象との関係で分裂し、分割され、通常は二重化されています。』(ジャック・ラカン:「精神分析の四基本概念」)(この稿つづく)

(H22・5・29)


4)揺れる感覚・揺れるリズム

19世紀末から20世紀初頭(ちなみに1900年が明治33年ということになります)は民衆を取り巻く環境が大きく変化した時代であったことは既に述べた通りですが、これは決して西欧に特徴的なことではなく・日本においても同様なことでした。1900年の時点で日本は既に日清戦争を経験し、さらに4年後にはロシアと戦争することになります。民衆に求められたのは国家に奉仕することでした。これは明治維新の時に民衆が抱いた夢とはかなり様相が違ったものだったのです。坪内逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物のを表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

「ひと言を以って言えば・無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代」と逍遥は書いています。これこそ20世紀初頭の時代的気質とも言えるものでした。実はこの気分は色合いを変えてはいても、21世紀の現在も続いているものです。「無解決の時代、不安の時代」の気分は、揺れるような・震えるような感覚で表現されます。高揚するようだけれどすぐに収まる・沈静するようだけれどもまたソワソワしてしまう、そのような落ち着かない気分なのです。その表現はひとつの定まった方向に収斂することなくフワフワとして、明確な形をとることがありません。

音楽で言えば、それは早くなったり・遅くなったりするリズム、音量が大きくなったり・小さくなったりすることを頻繁に繰り返す旋律です。この時代の代表的な音楽作品としてストラヴィンスキーのバレエ音楽「ぺトルーシュカ」を挙げておきます。「ぺトルーシュカ」は興行師ディアギレフの主宰するバレエ・リュッス(ロシアバレエ団)により、天才的ダンサーであるニジンスキーの振り付けで1911年6月パリで初演されました。見世物小屋の人形ぺトルーシュカは、魔術師によって命を吹き込まれてバレリーナの人形に恋をしますが、ムーア人の人形に邪魔されて・殺されます。ペトルーシュカは人形ですが、人間と同じ感情を持っています。引き攣るようにぎこちない人形の機械的な動きが、人形の体の中に閉じ込められて・その殻を突き破ろうとする人間的な感情を表現しています。冒頭の「謝肉祭の市場」の揺れるリズムをお聞きください。賑やかでワクワクする見世物小屋の始まり 始まり。人形たちが心を持って動き出す。愉しいメルヒェン的なお話であるかのように見かけは作られてはいますが、その内容は実に20世紀初頭の気分そのものなのです。実は「人形」というものは、国家社会機構のなかに組み込まれて・パーツと化してしまった個人を象徴しています。もちろん個人には命があり・感情がありますが、それを主張することは許されないのです。ぺトルーシュカが恋をすることは許されません。そして社会の枠組み(見世物小屋)のなかで個人の生きた感情をとことん主張するならば人形は殺されるということです。

揺れるリズムは早くなったり・遅くなったりしますが、結局、ひとつの方向に定まらないのです。興奮と沈静を交互に繰り返しますが、結果としてそれは何も生み出すことはありません。しかし、内側から何かを生み出し・何かしら方向性を見出そうという意志を伝えるリズムです。つまり、それは内側から「もがき」・「あがく」リズムなのです。内側から盛り上がろうとすると、これを抑えようとする正反対の力が外側から働きます。逆の見方も可能です。外側からの力と折り合いをつけて沈静しようとしても、今度は内なる衝動に突き上げられて興奮せざるを得なくなるのです。いずれにしても彼は自分の意志だけで自由に動くことはできません。それでリズムが早くなったり・遅くなったりするのです。

別稿「アジタートなリズム」において歌舞伎の台詞のリズムを考えました。かぶき的心情のアジタートな気分を表す最もストレートな表現は、タンタンタン・・・と早いリズムで聴き手を急きたてていくリズムです。あるいはアッチェレランド(次第にテンポを加速する)のリズムです。当然ながら、そのような単純直截的なリズム表現が 初期の歌舞伎の台詞のリズムで した。元禄の江戸荒事の様式がそれです。しかし、もう少し時代が後になりますと表現が成熟して・洗練されてアジタートの表現に、揺れるようなリズムが登場します。「アジタートなリズム」で吉之助は黙阿弥の七五調とはそのような揺れるリズムの表現であることを指摘しました。歌舞伎のアジタートな表現が行き着いて・爛熟したリズム こそ黙阿弥の七五調なのです。そこに黙阿弥の七五調が幕末に登場しなければならぬ必然があるわけです。しかも、明治元年が1868年であることでも分かる通り・それは西欧の状況とは無関係であるにも係わらず・時代的にとても似通ったところで起きているということが興味深いのです。(このことは別稿「歌舞伎とオペラ」も参考にしてください。)同じことを西洋音楽のなかに見てみれば、揺れる感覚が登場するのはその典型は十九世紀後半のウィンナ・ワルツあるいはバルカローレ(舟歌)のリズムであるということになります。かくして揺れる気分は十九世紀後半から20世紀初頭にかけての全世界を覆うところの時代的気質を表現する様式となるわけです。(この稿つづく)

(H22・6・12)


5)レアリストの眼

谷崎潤一郎の小説「蓼喰ふ虫」は昭和3年(1928)12月3日から翌年6月17日まで83回に渡って「大阪毎日新聞」・「東京日日新聞」に断続的に連載されました。「蓼喰ふ虫」は言うまでもなく谷崎の代表作ですが、それまでの悪魔的とか耽美的などと言われた初期の作品群・例えば「痴人の愛」(大正13年)などから作風を一変し、その後の「盲目物語」や「吉野葛」(ともに昭和6年)さらに「細雪」(昭和18年〜23年)に至る作品群、すなわち静的な美しさを生命とする作風への転換点に位置する作品であるとされています。ところで随筆「陰翳礼賛」(昭和8年)のなかで谷崎は「美は物體にあるのではなく、物體と物體との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える」ということを書きました。「陰翳礼賛」は谷崎の日本への回帰を表明した重要な文章であると位置付けされています。これは「蓼喰ふ虫」執筆とほぼ同時期であり、作中に登場する文楽人形の挿話などもなるほどこれも日本回帰ということかと何となく納得してしまいそうです。しかし、作家篠田一士氏は岩波文庫「谷崎潤一郎随筆集」解説のなかで「その後、谷崎文学に親しむにつれ、日本への回帰といった、軽薄な殺し文句は上っ面もいいところ、作者の真意を損なうこと甚だしいものと確信するに至ったのである」と書いています。

『(「陰翳礼賛」のなかで)作者は日本の生活様式だけを尊しとし、これを守りつづけるべしとは一言も口にしていないのである。伝統的な生活様式のなかに、どんな知恵、どんな美が見出されるにしても、それらは日一日と、くずおれ、消え去りつつあることを、なににもまして、レアリストの谷崎潤一郎が知らないはずはない。ただ彼は、そうして滅びゆくものを嘆く抒情には無縁で、むしろ滅びゆくものをいとおしみながらも、滅びゆくものは滅びるままにするしか仕方あるまい、それより来るべき新しき事態に対して、われわれ日本人はどのように対峙し、これに適応すべきかを明快に解き明かしたのが、「陰翳礼賛」の逆説的な真意なのである。』(篠田一士 編・「谷崎潤一郎随筆集」解説・岩波文庫)

ここで「レアリストの谷崎潤一郎」という指摘が重要であると思います。なるほど谷崎はレアリストなのです。だとすれば冷徹なレアリストの視点で「蓼喰ふ虫」を読むならば、例えば次の文章をどのように読んだら良いでしょうか。

『ふと要は、ああいう暗い家の奥の暖簾のかげで日を暮らしていた昔の人の面ざしを偲んだ。そういえばああいう所にこそ、文楽の人形のような顔立ちを持った人たちが住み、あの人形芝居のような生活をしていたのであろう。どんどろの芝居に出てくるお弓、阿波の十郎兵衛、順礼のお鶴などというのが生きていた世界はきっとこういう町だったのであろう。現に今ここを歩いているお久なんかもその一人ではないか。今から五十年も百年も前に、ちょうどお久のような女が、あの着物であの帯で、春の日なかを弁当包みを提げながら、やっぱりこの路を河原の芝居へ通ったかも知れない。それとも又あの格子のなかで「ゆき」を弾いていたかも知れない。まことにお久こそは封建の世から抜け出してきた幻影であった。』(「蓼喰ふ虫」第10章)

主人公斯波要は文楽の人形に見られる「概念としての昔の女の面差し」を懐かしんで、その幻影を現実の女性に重ね合わせようとするかのようです。これは谷崎の永遠女性への憧れと言われるものです。確かに永遠女性は谷崎文学を貫くテーマではあります。しかし、吉之助はこれを純粋にロマンティックに見ることはできないのです。レアリストの谷崎が永遠女性という言葉を使うならば、その女性の面差しはどこか歪んでいなければならぬのと思うのですねえ。本稿冒頭にエゴン・フリーデルの文章を引きました。「ホフマン物語」の詩人ホフマンが愛した女性は人形(オランピア)か・娼婦(ジュリエッタ)であり、真実愛する女性(アントニア)は死の手中にあり、その愛は決して成就することはなかったのです。同じようなことが谷崎にも言えます。大事なポイントは谷崎は20世紀初頭の時代的気質のなかに生きた作家であったということです。表向きは日本回帰というような様相をしていても、その裏に冷徹なレアリストの眼が潜んでいるに違いないということです。(この稿つづく)

(H22・6・27)


6)「蓼喰ふ虫」を揺れるイメージで読む

「蓼喰ふ虫」の主人公である斯波要と美佐子の夫婦は、傍から見るとまったく問題がないように見える夫婦ですが、実は性格の不一致という問題を抱えています。ふたりは合意の上で離婚することに決めていますが、息子・弘への気遣いか世間への気兼ねか、それをなかなか実行できないままウジウジしています。主人公の要自身はこのように言っています。

『僕にはどうなるか全く分からない。分かっているのは、別れなければならない理由は余りに明らかに備わっている、(中略)すでに夫婦ではなくなっている、と云う事実だ。僕も美佐子もこの事実を前において、一時の悲しみを忍ぶか永久の苦痛を耐えるか、どっちとも決断が附かずにいる。決断は附いているんだが、それを実行する勇気がないので迷っているんだ。』(「蓼喰ふ虫」・その5)

小説はこの状況のまま終始します。最後の場面ではいよいよ夫婦は別れるかという感じになりますが、結論が出たわけではありません。ところで「蓼喰ふ虫」については名作であるだけにいろんな方の評論が出ていて・吉之助も多くの評論に目を通すことが出来ました。吉之助がそれらを読んでとても不思議に思うのは、そのどれもが斯波夫妻のこの状況を静的な・動かないイメージで読んでいることです。確かに小説は離婚するのかしないのか・どちらつかずのまま・筋としては大きな展開を見せません。しかし、吉之助は昭和3年(1928)に書かれたこの小説は動的な揺れるイメージで読むことが大事であると思うのですねえ。20世紀初頭の時代的気質において読まねばならぬのです。無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代ということです。夫婦は離婚に踏み切るかどうか・ウジウジ悩んで動かないように外見的には見えますが、実はその内面がどうしようか・ああしようか・こうしようかと激しく波の如く揺れ動いているのです。そのような読み方をする評論がまったく見当たらないのが不思議です。これはひとつには中期以降の谷崎が日本的な美しさに回帰したという思い込みに原因するのではないかと吉之助は睨んでいます。例えば吉田精一氏は次のように書いています。

『谷崎氏の作品の生命は、その静的な美しさにあるというのが定石である。(中略)「蓼喰う虫」もそういう、動きよりも状態の描写に重点を置いた作品である。しかし、この作品が、動きを中心に展開する初期のものよりも遥かに動的な印象を与え、後期のもののように、揺るぎない造型性が精巧な絵巻の外観を呈するのと異なっているのは、言わばこの作品に捉えられた瞬間の性質に掛かっていることなのである。』(吉田精一・新潮文庫解説、昭和26年10月)

「(「蓼喰う虫」は)動きを中心に展開する初期のものより遥かに動的な印象を与える」と書いていますから、吉田氏もうすうす感付いてはいるのです。しかし、「動きより状態の描写に重点を置いた作品である」と、吉田氏がなおも斯波夫婦の状態を「動かない」と見ていることも確かなのです。まあ読み方はそれぞれのことですからどちらが正しくて・どちらが間違いということではないですが、そういう読み方が提示されていないようですから・本稿では吉之助が別視点から「蓼喰ふ虫」の読み方を提示申し上げたいと思うわけです。すなわち「蓼喰ふ虫」を動的な揺れるイメージで読むということです。同時に作品のなかで重要な役割を持つ文楽人形の描写から谷崎の人形観についても考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(H22・7・4)


7)「蓼喰ふ虫」を揺れるイメージで読む・続き

「蓼喰ふ虫」では大阪道頓堀の弁天座での文楽人形(第2〜3章)・そして淡路人形座での淡路人形(第10〜11章)と操り人形についての言及がかなりの分量を占めます。「人形」が本作の重要なモティーフ なのです。通常「蓼喰ふ虫」を論じる時の「人形」のイメージは次のように集約されると思います。まずそこに登場する女形人形(例えば「天網島」の小春)は特定の女性をイメージさせるものではなく・女性を象徴するものであるということです。それは没個性的でひとつの類型(タイプ)を提示しており、その印象は生(なま)なものではありません。それは肉体を持った女性ではなく、感情を顕わにすることはありません。谷崎は象徴的な「女性なるもの」に憧れており、それに文楽人形を重ねています。「永遠女性」は谷崎文学の重要なキーワードとされています。もうひとつは人形と・それを操る人形遣いとの関係が強く意識されていることです。これは立場が逆転して人形が人形遣いを操るように見える場合もあるのですが、いずれにせよどちらかが操り・片方が操られる関係をそこに見ています。これが「蓼喰ふ虫」の人形論の一般的な読み方かと思います。関連しそうな箇所を小説中から引いてみます。

『(六代目)梅幸や(五代目)福助のはいくら巧くとも「梅幸だな」「福助だね」という気がするのに、この小春は純粋に小春以外の何者でもない。俳優のような表情のないのが物足りないといえばいうものの、思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出したりはしなかったであろう。元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聴きに来る人たちの夢見る小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形のような姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかも知れない。昔の人は小春も梅川も三勝もお俊も皆同じ顔に考えていたかも知れない。』(「蓼喰う虫」第2章)

『ふと要は、ああいう暗い家の暖の簾のかげで日を暮らしていた昔の人の面ざしを偲んだ。そういえばああいう所にこそ、文楽の人形のような顔立ちを持った人たちが住み、あの人形芝居のような生活をしていたのであろう。どんどろの芝居に出てくるお弓、阿波の十郎兵衛、順礼のお鶴などというのが生きていた世界はきっとこういう町だったのであろう。現に今ここを歩いているお久なんかもその一人ではないか。今から五十年も百年も前に、ちょうどお久のような女が、あの着物であの帯で、春の日なかを弁当包みを提げながら、やっぱりこの路を河原の芝居へ通ったかも知れない。それとも又あの格子のなかで「ゆき」を弾いていたかも知れない。まことにお久こそは封建の世から抜け出してきた幻影であった。』(「蓼喰ふ虫」第十章)

人形は没個性的であり・ひとつのタイプを表す。 肉体を持たず・感情を顕わにしない。そして、人形と・これを操る人形遣いとの関係。確かにその通りですが、吉之助が考えるには これだけだとまだ足らないのです。「蓼喰ふ虫」の人形論の一般的な解釈には重要な点で見落としがあると思いますねえ。これらの要素だけが主人公がお久に興味を覚える理由であるならば、小説に出てくるのが文楽人形である必然性は別にないのです。操り人形でさえあればそれで十分良かったはずです。東京生まれである谷崎は関東大震災罹災をきっかけにして関西へ引っ越しました。谷崎は大正12年10月に京都へ転居、さらに兵庫へ転居しました。小説の舞台が関西なので描写にリアリティを持たせる為に文楽人形を材料に取り入れたということでしょうか。そこに谷崎の上方的なものへの憧れが強く出ているのでしょうか。確かにそれもあるかも知れませんが、谷崎が小説中に文楽人形を取り上げなければならなかった必然があるはずです。そこのところをもっと深く考えてみたいと吉之助は思うのです。谷崎文学を考えるうえでも、このことがとても大事だと思うのです。

それでは谷崎が他の操り人形では駄目で・文楽人形でなければならないとする特徴的なものとは何でしょうか。実は谷崎は小説のなかにこのことをはっきり書いています。谷崎は文楽好きの老人(主人公の義父)に「文楽の人形はダークの操りとは違う」ということを言わせています。ダークの操りというのは明治32〜35年にイギリスからやってきた興行師ダークが率いる人形劇団のことで、つまりそれは上から糸で操るマリオネット人形のことです。帰国するダークが置いていった人形を引き取って浅草花屋敷で昭和10年代まで興行が続けられ、世間ではこれを「ダークの人形」と呼んでいました。

『彼(要)はじいっと瞳を凝らして上手にすわっている小春を眺めた。治兵衛の顔にも能の面に似た一種の味わいはあるけれども、立って動いている人形は、長い胴の下に両脚がぶらんぶらんしているのが見馴れない者には親しみにくく、何もしないでうつむいている小春の姿が一番うつくしい。(中略)老人はこの人形をダークの操りに比較して、西洋のやり方は宙に吊っているのだから腰がきまらない、手足が動くことは動いても生きた人間のそれらしい弾力や粘りがなく、したがって着物の下に筋肉が張り切っている感じがない。文楽の方のは、人形使いの手がそのまま人形の胴に這入っているので、真に人形の筋肉が衣装の中で生きて波打っているのである。これは日本の着物の様式を巧みに利用したもので、西洋でこのやり方を真似ようにも洋服の人形では応用の道がない。だから文楽のは独特であって、このくらいよく考えてあるものはないと云うのだが、そう云えばそうに違いない。(中略)老人の議論を押し詰めて行くと、矢張据わっている時の方がねばりの感じが表わせる訳で、動くとしても肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんの僅かにに動くしぐさが却って不気味なくらいにまで生きいきと感じられる。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

文楽の人形は西洋の操り人形とは違うというのです。それは人形遣いが自分の手を使って人形の胴を支え・手足を動かすので、人形の動きに生きた人間の弾力や粘りが伝わってくるからです。上から垂らした糸で人形を操る西洋のマリオネットではこれは表現できません。もうひとつ主人公の観察のなかで見逃してはならぬ指摘は、文楽人形は激しく動いている時よりも・むしろじっとしている時の方が生きている感覚が不気味なほど強く伝わってくると言っていることです。これこそが谷崎が他の操り人形では駄目で・文楽人形でなければならないとする理由なのです。(この稿つづく)

(H22・7・11)


文楽人形の動的な感覚

ポール・クローデルは二十世紀の重要な劇作家のひとりで、作品としては戯曲「繻子の靴」が有名です。クローデルは優秀な外交官でもあり、大正10年(1921)から昭和2年(1927)にかけて駐日フランス大使を務めました。クローデルは大正11年(1922)5月に大阪で初めて文楽を見て以来、文楽をたびたび見たそうです。これは谷崎の「蓼喰ふ虫」執筆とほぼ同時期の文楽ということになります。日本に関する数々の美しい文章を収めた随筆集「朝日のなかの黒い鳥」のなかでクローデルは次のように書いています。

『操り人形は完全な仮面であって、もはや単なる顔ではなく、手足であり、身体の全体である。(中略)操り人形は人間の演者のように、重力と労力に捕われることなく、どの方向にも同じほど身軽に移動し、重みのない中を白紙の中の図案のように漂う。これは中心部に生を与えられているのであって、頭とともに星状をなす四肢は、操り人形が表現を行なうための要素にほかならない。これは、あらゆる接触を禁じられながらも、口をきき、光を放つ星なのである。日本人はこの操り人形を歩かせようとはしなかった。それは不可能なのだ。(中略)手や足はもはや単に前進したり支えたりする手段ではなく、あらゆる動作や、行動の仕方や精神錯乱など、つまり、私たちの内にある不安や躍動や抵抗や挑戦や疲労や覚醒や、出発したいとか留まりたいとかの願望を表現する道具のすべてであり、力なのだ。見たまえ、諸君によく見えるようにと持ち上げてくれているのだから。あの小さな男を見たまえ。彼はすべてを行なう。見たまえ、この宙に浮かぶ男女を、そして、棒の先端に宿る生面の全体を。私たちの背後にうまく隠れて誰かを存在させることはなんと面白いことであろうか。』(ポール・クローデル:「文楽」〜「朝日のなかの黒い鳥」・1924年)

*ポール・クローデル:「天皇国見聞記」(「朝日のなかの黒い鳥」を中心にクローデルの日本関連の文章を集めたもの)(新人物往来社)

西洋の操り人形は操り糸あるいは操り棒で手足を遠隔操作されます。何者かに動かされていることが明瞭で、「動かされている」ところに人形の本質があるのです。どんなに精巧に人間の動きを模していようと操り人形は「動かされている」印象から逃れられません。ところが、文楽の人形には動作にまったく次元の異なる力感があります。これは人形遣いが直接手を添えて動かしているからですが、その動作から強い「意志」が伝わってくるのです。つまり、文楽の人形は自身の意志で動いているように見えるのです。谷崎が「蓼喰ふ虫」のなかで「文楽の人形はダークの操りとは違う」と指摘した。それと同じことをクローデルも感じているのです。

二十世紀初頭の時代的気質(無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代)に生きた芸術家たちは人形のことを単なる「外から動かされる意志のない存在」であると見て、これに生きている人間を重ねて見ていたということではないのです。人間のことを内的な意志を持っているけれども、それを自由にありのままの形で表情・動作に表現できない存在と見ているのです。そのような自由な表現を阻むものが彼の周囲にいっぱい存在しているのです。それらは国家・社会であったり、世間の柵(しがらみ)であったりもします。それだけではありません。彼の自由な意志を阻むものが彼の内面にも存在するのです。つまり無意識のことです。それらがいろんな方向から連関なくバラバラに「お前はこう動かねばならない」と彼を強制するのです。「こう動かなければお前は不要な存在となる。だからこう動け」と脅迫するのです。彼は内面に豊かな感情を持っていますから、しばしば自分の意志で動きたい強い衝動にかられるのですが、それは決して許されないのです。そうすると彼の動作は傍から見ると、とてもギクシャクした不自然な動きに見えて来ます。彼の動作は外側の意志で動かされる時は内側の衝動によって邪魔されます。内側の欲求から動かされる時は外側の意志によって阻まれるのです。だから素直で自由な動きになることは決してないのです。そのような状況をよく示す動作は、ギクシャクした鋭角的な動き、ブルブルと細かく痙攣するような動き、引き攣ったような表情・・などです。すなわち「人間とは生きている人形ではないのか」ということが、二十世紀初頭のフロイトの無意識の発見以後の人間の見方です。西洋のマリオネットより何よりも、文楽の人形は現代の人間の在り様をその視覚的本質のなかに秘めているのです。クローデルも谷崎もそれぞれの過程を経て同様の発見にたどり着いたわけです。その発見には洋の東西もバックグラウンドの違いも何も存在しません。それは二十世紀初頭の時代的気質に拠るからです。

これで谷崎が「蓼喰ふ虫」で扱う人形を文楽人形でなければならないとした理由は明らかであると思いますが、さらにもう少し文楽人形のことを考えてみます。クローデルは人形が激しく動く場面をみて、まるで人形遣いの手を振り切って自分の意志で動こうとしているかのようだと書いています。

『日本の操り人形は私たちの腕の先の手に身体と魂がすっぽりと入るというようなものではない。不確かな運命に翻弄されたり、見放されたり、引き戻されたりを交互に繰り返す人間のように、何本かの紐の縁で不安定に揺れ動くこともない。人形師がすぐ近くから心を通わせて操作するのであり、その上、人形が強く飛び跳ねるところを見ると、まるで、人形師からも逃れようとしているかのようなのだ。』(ポール・クローデル:「文楽」〜「朝日のなかの黒い鳥」・1924年)

クローデルは文楽人形の動的な感覚をズバリと見抜いています。(なおクローデルの文楽観についての詳細は別稿「クローデルの文楽」をご参照ください。)これに対して谷崎もクローデルとはちょっと角度が違ったところから文楽人形を観察しているのが興味深いところです。谷崎も文楽人形に同じく動的な感覚を見ていますが、谷崎は人形の激しい動きのなかにそれを見るよりも、静止した人形の方により強く動的な感覚を見ているのです。そこに谷崎の独自の感覚があるのです。

『老人の議論を押し詰めて行くと、矢張据わっている時の方がねばりの感じが表わせる訳で、動くとしても肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんの僅かにに動くしぐさが却って不気味なくらいにまで生きいきと感じられる。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

この後に主人公の「河庄」の小春の人形の印象が長く続きます。ここで谷崎がどうして人形が静止した人形の姿により強く動的な感覚を見たのかをちょっと考えます。文楽の人形の場合は三人の人形遣いが協同で人形の動きを形造りますが、静止する場合は大の男三人が息を詰め・筋肉を硬直させて静止した形を作らねばならぬのです。人形遣いの手先がちょっとでも動いてしまえば、その動きは人形に伝わり・静止の形は崩れてしまいます。逆に言えばちょっとした人形の震えが人形の生きている感情を表現するのです。静止する人形の姿は人形遣いが何もしていないように見えるでしょうが・そうではなくて、実は人形遣いの肉体がもっとも緊張して力の入った形なのです。その意味では人形が躍動して動いている時の方が人形遣いにとってはまだいくらか楽だと言えます。谷崎はじっと下を向いて物思いに沈む小春の人形を見ながら、その静止した形の裏に渦巻く力感をビンビンと感じ取っています。その力感は人形遣いの肉体の緊張から来るものです。と同時にそれは小春の内面に激しく渦巻く葛藤を示してもいるのです。「肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんの僅かにに動くしぐさが却って不気味なくらいにまで生きいきと感じられる」と谷崎が書くのはそういう意味です。谷崎が文楽人形を実に深いところまで観察していることに感嘆させられます。(この稿つづく)

(H22・7・19)


9)文楽人形の動的な感覚・続き

大阪道頓堀の弁天座での「心中天網島」の舞台を見ながら、主人公斯波要は舞台から同席者の観察まで、いろいろと思索を巡らせます。要は客席に座って舞台に見入っており・物理的には静止状態ですが、その思考回路は激しく動いています。それが読者に動的な印象を与えるものです。小春の人形を操っているのは名人文五郎です。要は文五郎の操る小春の人形を見ながら、こんなことを考えます。

『要はふとピーターパンの映画のなかで見たフェアリーを思い出した。小春はちょうど、人間の姿を備えて人間よりはずっと小さいフェアリーの一種で、これが肩衣を着た文五郎の腕に留まっているのであった。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

文楽を見ながら突然ピーターパンが出てくるところが面白いところです。谷崎の感性にはこのように西洋的な感覚で理解しようとするところがあるのです。「痴人の愛」(大正13年)にはヒロインのナオミの容貌を映画女優のメアリー・ピックフォードに例える場面が繰り返し登場します。主人公河合譲治のなかで西欧世紀末の人形のイメージが重ねられています。人形は没個性的であり・ひとつのタイプを表す。人形は感情を顕わにしない。そして、人形と・これを操る人形遣いとの関係ということです。「痴人の愛」はまるで主人公が人形遣いになろうとして逆に人形に自分が操られてしまうというような倒錯的なストーリーです。しかし、文楽の小春がティンカー・ベルみたいだという観察に留まるならば、谷崎は「痴人の愛」の世界から大して発展していないことになるでしょう。「文楽の人形はダークの人形とは違う」という老人の指摘が、要の観察をさらに深いところへ導くのです。ここから要の文楽人形の見方が微妙に変化してきます。

『酔いがだんだん醒めて来るにつれて、小春の顔が次第に刻明な輪郭を取って映った。彼女は左の手を内ぶところへ、右の手を火鉢にかざしながら、襟の間へ頤を落として物思いに沈んだ姿のまま、もうさっきからかなりの時間をじっと身動きもしないのである。それを根気よく視つけていると、人形使いもしまいには眼に入らなくなって、小春は今や文五郎の手に抱かれているフェアリーではなく、しっかり畳に腰を据えて生きていた。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

小春は操られている人形ではなく・生きている存在に変化していきます。そのような変化が要のなかで生じたのは、文楽の人形は人形遣いが直接手を添えて身体を動かすからで・人形のほんの少しの動きが却って不気味なほど生きている感触を見る者に与えるからです。要はこのことを「文楽の人形はダークの人形とは違う」という老人の指摘から教わったのです。

さらに大事なことは「左の手を内ぶところへ右の手を火鉢にかざしながら・襟の間へ頤を落として物思いに沈んだ姿のまま・もうさっきからかなりの時間をじっと身動きもしない」小春の姿です。確かに視覚的には小春はじっとしたまま動きません。しかし、小春の思考回路は激しく動いているのです。小春は治兵衛のこと・あるいは女房おさんのことを考えています。治兵衛が恋しい。逢いたい。しかしそれではおさんに悪い。別れねばならない。いっそのこと死んでしまいたい。いろんなことを考えて小春の心は激しく乱れています。要が見ている「河庄」の場面はそのような箇所なのです。視覚的には静止しているようですが、心理的には激しく渦を巻いているのです。要はこの場面を熱いエネルギーが迸る動的な情景として捉えているのです。そこに小春が生きているということの証を感じています。もちろん客席から舞台を見る要の心のなかも激しく動いているのです。

『梅幸(六代目)や福助(五代目)のはいくら巧くとも「梅幸だな」「福助だね」という気がするのに、この小春は純粋に小春以外の何者でもない。俳優のような表情のないのが物足りないといえばいうものの、思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出したりはしなかったであろう。元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聴きに来る人たちの夢見る小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形のような姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかも知れない。昔の人は小春も梅川も三勝もお俊も皆同じ顔に考えていたかも知れない。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

この文章は「蓼喰ふ虫」評論で引用される機会が多い箇所です。しかし、吉之助に言わせればそのちょっと前の文章「それを根気よく視つけていると、人形使いもしまいには眼に入らなくなって、小春は今や文五郎の手に抱かれているフェアリーではなく、しっかり畳に腰を据えて生きていた」の方が重要なのです。この認識を踏まえて次を読まなければ正しい意味を取ることができないのです。そうでないと「元禄の時代に生きていた小春は恐らく人形のような女であったろう」という文章からマリオネットと依然変らぬ操り人形のイメージを読むことになります。残念ながら 多くの「蓼喰ふ虫」評論がそういう見方をしているようです。しかし、小春が生きているという認識があれば、上記の文章の意味は一変します。要の考えていることは、江戸時代の女性は内心に激しい情熱や感情を秘めながら・それを日々の生活のなかで静かな形象のなかに閉じ込めて生きていたのであろうということです。見掛けは静的に見えるけれども、内面は激しく動いているということなのです。だからこの人形でいいのだと要は思うのです。文楽人形の小春が要に訴えかけるものはそういうことです。

ところで文楽の人形をそのように読むならば、「すでに夫婦ではなくなっている・しかし別れることが出来ない」という斯波要と美佐子の夫婦の状態を静的な・動かないイメージで読むことが出来るでしょうか。答えは明らかであると思いますねえ。(この稿つづく)

(H22・7・24)


10)たそがれの感覚

「陰翳礼賛」(昭和8年)は谷崎の随筆の代表作とされます。谷崎は、日本人は陰翳の美を認め・これを生活のなかに利用する工夫を考えた・これこそ日本独特の美学であるという趣旨のことを書きました。「陰翳礼賛」は谷崎の「日本への回帰」を表明したものとされる重要なものです。事実、「吉野葛」や「細雪」など谷崎中期以後の名作がこの「陰翳礼賛」に前後して続々と生み出されているのです。しかし、篠田一士氏はこの「陰翳礼賛」について「日本への回帰といった、軽薄な殺し文句は上っ面もいいところ、作者の真意を損なうこと甚だしいものと確信するに至ったのである」と書いています。そこでレアリストたる谷崎の「陰翳礼賛」の真意をちょっと考えてみたいのです。

『私はしばしばあの障子の前に佇んで、明るいけれども少しもまばゆさの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、ほとんどそのほのじろさに変化がない。(中略)そういう時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだたく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うのは力が足らず、かえって闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ混迷の世界を現じつつあるからである。諸君はそういう座敷へ這入った時に、その部屋にただようている光線が普通の光線と違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。あるいはまた、その部屋にいると時間の経過が分からなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかというような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。』(「陰翳礼賛」・昭和8年)

ところで吉之助は上記のような文章を読むと、別の作家の似たような文章を思い浮かべないわけにいかないのです。それは泉鏡花の文章です。(別稿「泉鏡花のたそがれの味」もご参照ください。)

『世間にたそがれの味を、ほんたうに解して居る人は幾人あるでせうか。多くの人はたそがれと夕ぐれを、ごつちやにして居るやうに思ひます。夕ぐれと云うと、夜の色、暗の色と云ふ感じが主になつて居る。しかし、たそがれは、夜の色ではない、暗の色でもない。と云つて、昼の光、光明の感じばかりでもない。昼から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるのではありませんか。(中略)世界の人は、夜と昼、光と暗との外に世界のないやうに思つて居るのは、大きな間違ひだと思ひます。夕ぐれとか、朝とか云ふ両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。(中略)このたそがれ趣味は、単に夜と昼との関係の上にばかり存立するものではない。宇宙間あらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思ひます。例へば人の行ひにしましても、善と悪とは、昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、又滅すべからず、消すべからざる、一種微妙なところがあります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさう云ふたそがれ的な世界を主に描きたい。』 (泉鏡花:「たそがれの味」」・明治41年3月)

鏡花は明治6年(1873)・谷崎は明治19年(1886)の生まれです。大正期の鏡花は文壇では既に過去の作家と見なされていましたが、自然主義文学に飽き足らない若手作家には慕われていました。芥川龍之介や谷崎などがそうです。谷崎文学と鏡花との関連はすでに指摘もされています。耽美主義と言われた初期の作風などは、鏡花との類似が特に強く出たものだと思います。また両者は個人的な付き合いもあって、谷崎の長女・鮎子は鏡花夫妻の媒酌で佐藤春夫の甥・竹田龍児と結婚しています。まあ両者の関連はそんなところですが、これまで本稿において考察した「静止した状態こそもっとも内面的に動いている状態である」という認識を以って、「陰翳礼賛」と「たそがれの味」を読み比べるならば、感性的に鏡花と谷崎をつなぐ共通項が何であるかが次第に分かってきます。そこに19世紀末から20世紀初頭の世界的な気質が感じられます。つまり、無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代ということです。

谷崎の言う「陰翳」・鏡花の言う「たそがれ」とは、物事の境目が曖昧になった状態を言います。たとえば昼の明るさと夜の暗さが混ざり合います。昼と夜が同居して、そこに独特の世界が生まれます。それは昼ではなく・夜でもありませんが、同時に昼であり・夜でもあるのです。いつそのような中間の世界に入っ てしまったのかも分からないし、気が付いたら自分はそこにいたという感じです。そこは本来は対立するはずのどちらの要素もが共存・交流するところの緩衝地帯です。ちょっとしたきっかけで、それは昼の様相を見せたり・夜の様相を見せたりするのです。しかもそれは長くは続きません。その様相は一瞬にして消え去って、また別の様相を見せたりもするのです。そのようなことが起きるのは、実はその光景を見詰めている当人の内面が激しく動いているからです。心理的な動きが周囲の様相を変容させて見せるわけです。谷崎の言う「陰翳」・鏡花の言う「たそがれ」とはそういうものです。つまり、静かに佇んでいるような風情を見せているようだけれども・それは表面だけのことで、実は内面的には非常に激しく動いている状態なのです。その裏に当人の不安とか葛藤とか様々な感情があるのです。

谷崎が「陰翳礼賛」で述べるところの陰翳は、静かに押し黙り・どこかしっとりと湿り気を帯び・ひんやりと冷たい佇まいを見せているように感じられるかも知れません。それが日本的であるとか・静止したような印象を読み手に感じさせるわけですが、ところが、そう書きながらその一方で谷崎は「そういう座敷へ這入った時に・その部屋にただようている光線が普通の光線と違うような・・」と書き、「その部屋にいると時間の経過が分からなくなってしまい・知らぬ間に年月が流れて・出て来た時は白髪の老人になりはせぬかというような・「悠久」に対する一種の怖れを抱く」ということを書くのです。実はこちらの方こそが谷崎の真意なのです。

『いつも誰かから、「君お化けを出すならば、出来るだけ深山幽谷の森厳なる風物の中へのみ出す方がよからう、何も東京の真中の、しかも三坪か四坪の底へ出すには当たるまい」と言はれた事がある。が然し私は成るべくなら、お江戸の真中電車の鈴の聞こえる所へ出したいと思う。』(泉鏡花:「予の態度」・明治41年)

谷崎の小説にはお化けは出ませんが、日常生活のなかにアブノーマルな感性がふっと顔を出す瞬間があります。それが谷崎にとってのお化けなのです。「痴人の愛」(大正13年)や「卍」(昭和6年)などがそういう世界です。実は「蓼喰ふ虫」にもお化けが出て来るのですが、しかし、そのことに触れるにはもう少し考察を経なければなりません。(この稿つづく)

(H22・8・15)


11)内面に渦巻く感情

「蓼喰ふ虫」の第9〜11章では要が美佐子の父親である老人と・その妾であるお久と一緒に三人で淡路に出かけて現地の民俗芸能である淡路人形を見る挿話が綴られます。淡路旅行の場面には遥か昔の江戸の・今は過ぎ去ってしまって・再び見ることの出来ない幻影を見ているような、どこか時代離れしたのどかな印象があります。この旅行の部分だけを読めば確かにそういう印象になると思います。ここでは要も夫婦の問題などすっかり忘れて想像の世界に遊んでいるようです。しかし、小説を読み終わって改めて振り返って見れば、淡路旅行の場面はもう少し別の読み方をしなければならぬことに思い至ります。

その理由のひとつは淡路三十三箇所巡礼の旅を途中で切り上げて・老人とお久に別れて先に帰途に着く要が、まっすぐに家に帰らずに神戸の山手にいるルイズという愛人のところに出かけていくことです。(第12章)この場面はその前の淡路ののどかな雰囲気から一転してとても違和感があります。松本清張はこの場面について「三味線の音楽に突然ジャズが割り込んでくるような違和感」という否定的な感想を書いています。(「昭和史発掘・3・」〜「潤一郎と春夫」・昭和40年)それではこの違和感は作品の欠陥なのでしょうか。吉之助はそうではないと思いますねえ。谷崎は意図的にこの違和感を表出しているのです。谷崎の意図的なところを読み取らなければならぬと思います。

もうひとつの理由は第13章冒頭が要から夫婦の事情を打ち明けられた老人(義父)からの返事の手紙から唐突に始まることです。これにもちょっと驚かされます。「すでに夫婦ではなくなっている・しかし別れることが出来ない」と言ってウジウジとして行動を起こさなかったはずの要がここでは既に別れる決心をしており、しかも義理の父親宛てに手紙を書いてそのことをもう知らせてしまった後なのです。一体要はいつの時点で美佐子と別れる決心をしたのでしょうか。要が老人に手紙を書いたのは、ルイズと別れて帰宅してすぐのことなのは確かです。しかし、小説に要が離婚の決心をする時点の描写は見当たりません。

だとすると老人と一緒に淡路を旅していた時に要が夫婦の問題のことをすっかり忘れていたということはあり得ないと吉之助は思いますねえ。どんな場面においても、淡路人形の舞台を見ている時であっても、要の意識のどこかに夫婦の問題が離れることはなかっただろうと思います。しかし、小説にはそのことをほのめかす文章さえありません。路の旅先から要は、夫婦のことを心配して相談に乗ってくれる従兄弟の高夏に宛てて「カタが附いたら知らせるが、今の所いつになるやら全く不明。」などとのんびりしたことを書いています。「夫婦のことを老人に打ち明けなければ・・と要は旅行中ずっと考えていたが・その機会をついに得なかった・・」というような文章でもあるならば解釈は楽になりますが、小説にはそのようなヒントがありません。それならば淡路旅行中に要は夫婦の問題をまったく忘れて幻想の世界に遊んでいたということでしょうか。それは「ない」と吉之助は断言します。

「蓼喰ふ虫」の淡路旅行の場面は「動かない・静かな場面にこそ激しく渦巻いている感情がある」ことを念頭に入れて読む必要があるのです。視覚的にはじっとして動かない小春の人形は、実は激しく動いている小春の情念を表現しています。小春は治兵衛のこと・あるいは女房おさんのことを考えています。治兵衛が恋しい。逢いたい。しかしそれではおさんに悪い。別れねばならない。いっそのこと死んでしまいたい。いろんなことを考えて小春の心は激しく乱れているのです。これが老人と一緒に見た弁天座での文楽観察のなかで要が得た 印象でした。同じように時間が停止してしまったような淡路旅行の場面においても、文章には表面的に全然表れていないけれども・実は要の内面は激しく揺れ動いているのです。淡路旅行の場面では夫婦の問題が要のなかで意識の奥に押し込まれています。だから表面的には夫婦の問題をまったく忘れ去られているように見えますが、それは別の形をとって要の想念のなかに現れることになります。

『ふと要は、ああいう暗い家の暖の簾のかげで日を暮らしていた昔の人の面ざしを偲んだ。そういえばああいう所にこそ、文楽の人形のような顔立ちを持った人たちが住み、あの人形芝居のような生活をしていたのであろう。どんどろの芝居に出てくるお弓、阿波の十郎兵衛、順礼のお鶴などというのが生きていた世界はきっとこういう町だったのであろう。現に今ここを歩いているお久なんかもその一人ではないか。今から五十年も百年も前に、ちょうどお久のような女が、あの着物であの帯で、春の日なかを弁当包みを提げながら、やっぱりこの路を河原の芝居へ通ったかも知れない。それとも又あの格子のなかで「ゆき」を弾いていたかも知れない。まことにお久こそは封建の世から抜け出してきた幻影であった。』(「蓼喰ふ虫」第10章)

上記も「蓼喰ふ虫」評論で引用される機会が多い箇所です。要は「概念としての昔の女の面差し」を懐かしみ・その幻影を現実の女性に照射しようとするかのようです。要が欲しているのは、生きていた女性ではなくて同じ顔をした人形で良かったということです。しかし、この部分の要の思索は弁天座での文楽観察の印象(第2章)を明らかに引きずったままです。これは淡路旅行の最初の日程でのもので、この時点では要は淡路人形をまだ見ていないのです。(淡路人形の印象は次の章で綴られます。) 下記の第2章の文章と比較してみれば、要の興味はまだ操り人形というところに留まっていることが分かります。

『昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかも知れない。昔の人は小春も梅川も三勝もお俊も皆同じ顔に考えていたかも知れない。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

ここで分かる重要なことは、弁天座での文楽観察のなかで要が得た重要な印象・すなわち文楽人形では「肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんの僅かにに動くしぐさが却って不気味なくらいにまで生きいきと感じられる」ということが、淡路旅行を開始した時点の要のなかでまだ確実な認識になっていないということです。(本稿「その8」を参照のこと)それは印象としてチラッと要のなかに浮かんだもので、もちろん本人はそれが何かとても重大な意味を持つことに感付いてはいるのですが、その正体が何かということまではっきりと掴んではいないのです。ですからまだ要の興味は依然として操り人形としての小春というところに留まっているようです。しかし、「動かない・静かな場面にこそ激しく渦巻いている感情がある」という文楽人形の印象は要の心のどこかでずっと引っかかっています。深層のところで自分に呼応しているように感じられるその正体を要はまだ掴みきってはいないのです。

淡路旅行に誘われた時・お愉しみで妾と旅行する老人にアテられるだろうし・遠慮した方がよかろうと最初は思ったのですが、要が結局誘いを受けたのは、この間の文楽の印象もあり・淡路浄瑠璃につい好奇心が動いたからでした。これは普段の要にはまったく似合わぬことで、美佐子にも「まあ酔興ね」と眉をひそめられもしたのですが、それでも淡路に行ってみたいと思わせる何かがあったということです。それが「すでに夫婦ではなくなっている・しかし別れることが出来ない」という要と美佐子の夫婦の状態とまったく無関係なものであるはずがありません。「のどかだ、実にのどかだ」・・という言葉が淡路旅行では繰り返されます。ここで谷崎は巧妙に夫婦の危機的状況を押し隠します。しかし、「動かない・静かな場面にこそ激しく渦巻いている感情がある」ということを念頭に入れて淡路旅行の場面を読 むならば、その印象はまったく違ったものとなります。文楽人形では「肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんの僅かにに動くしぐさが却って不気味なくらいにまで生きいきと感じられる」という印象がどうして自分のなかでこれほど引っかかっているのか、その正体を掴むために要は淡路旅行に行くのです。(この稿つづく)

(H22・8・22)


12)密かな楽しみ

話はちょっと遡りますが、要が淡路旅行に発つ前の第8章に要が「アラビアン・ナイト」を読むエピソードが出てきます。要はかねてから従兄弟の高夏にリチャード・フランシス・バートン版の「アラビアン・ナイト」の英訳本の入手を依頼しており・それを高夏が中国で購入してくれたので、まずその第1巻を手に取って読み始めます。ここで要はそのなかの「バグダットの三人の貴婦人と門番の話」(バートン版では第9夜〜第19夜)でバートンが付した注釈に目を留めます。

『「・・このところはこの美しく物語られた美しい物語中での唯一の汚点で、レーンが此処を訳したために擯斥(ひんせき)されたのは一往当然なことである。・・・」 要ははっとして、とうとう見付けたなと思いながら、急いでその注を読みくだした。 「・・レーンが此処を訳したために・・・一往当然なことである。しかし此処でもその猥雑さは、われわれの古い時代の舞台のために書かれた戯曲(たとえばシェークスピアのヘンリー5世の如き)に比べてみて大した相違はないであろう。ましてこの夜話のような物語は、男女の席で朗読されたり暗誦されたりするものではないのである。」』(「蓼喰ふ虫」第8章)

この部分ですが、新潮文庫の注釈によると「レーンが此処を訳したために擯斥(ひんせき)されたのは一往当然なことである」という箇所は谷崎の誤訳だそうです。原文は「Lane is scandalized and naturally enough by this scene・・・」とあって、正しい訳は「レーンはこの場面に、至極もっともながら憤慨している」なのです。もうひとつ「バグダットの三人の貴婦人と門番の話」とあるのも谷崎の誤訳で、原文のPorterは運搬人あるいは軽子という意味ですが、谷崎はこれを門番と訳しています。しかし、これは単に谷崎の誤訳・勘違いだと言って済まされない問題を含んでいます。フロイトは「日常生活における精神病理学」(1901年)においてジョークや失策行為・記憶違い・言い間違いなどからその人の無意識の有り様を探ることができるということを述べています。谷崎の場合は言い間違いではなくて・誤訳ですが、この場合にも同じような考察を付することができます。つまり要はここはそのような訳でなければならない・・という意識の下に英文を読んでいるのです。もし正しい訳をしていれば、「蓼喰ふ虫」のこの章での「アラビアン・ナイト」の箇所は異なった扱いにならざるを得ません。要にとっては「レーンはアラビアン・ナイトを訳したために擯斥された」でなければならないのです。だから「要ははっとして・とうとう見付けたなと思いながら」 バートンの注をそのように読むのです。

エドワード・ウィリアム・レーンはバートン以前に「アラビアン・ナイト」を欧米に紹介した人物です。レーンは翻訳の際に猥褻あるいは不道徳で受け入れられないと判断した場面を削除したり、書き改めたりしました。その後、完訳・無修正版の『アラビアン・ナイト」はバートンによって行なわれました。その出版は1885年から88年にかけてのことです。しかし、その不道徳な内容が欧米社会で顰蹙を受けかねないことを考慮して、バートン版は私家本として予約会員のみに限定して千部だけ印刷されました。その後のバートン版は猥褻本扱いをされて珍書として高値取り引きをされていました。要はその評判を聞いて、高夏にバートン版「アラビアン・ナイト」の入手を依頼したのでしょう。要は(ここでは谷崎と要が重なってきますが)、バートン版が社会的にこのような扱いを受けているくらいだから、先輩の翻訳者であるレーンはもっと激しい非難を浴びたに違いないと思い込んでいるのです。だから「レーンが此処を訳したために擯斥されたのは一往当然なことである」という読み間違いをするのです。つまり、要がバートン版「アラビアン・ナイト」に期待しているのは猥雑かつ不道徳な内容ということになりますが、同時に要にとってそれは社会的に「擯斥されねばならぬもの」です。それは密室に置かれることで密かな個人の楽しみを増すということでもあります。

「蓼喰ふ虫」のなかでそのような「アラビアン・ナイト」のエピソードが淡路旅行の前に置かれる意味がどこにあるのかと言えば、そのひとつは淡路人形の舞台をみながら老人がこんなことを語る場面です。

『「玉藻の前とか、伊勢音頭とか、ああ云うんものはなかなか大阪とは違っていて面白いそうだよ。」 なんでも文楽あたりでは残忍であるとかみだらであるとか云う廉(かど)で禁ぜられている文句やしぐさを、淡路では古典の姿を崩さず、今でもそのままにやっている、それが非常に変っていると云う話を老人は聞いて来たのであった。たとえば玉藻の前などは、大阪では普通三段目だけしか出さないけれども、此処では序幕から通してやる。そうするとその中に九尾(きゅうび)の狐が現れて玉藻の前を喰い殺す場面があって、狐が女の腹を喰い破って血だらけな腸(はらわた)を咬(くわえ)出す、その腸には紅い真綿を使うのだと云う。(中略)「そういう奴を見なけりゃあ話にならない・・」』(「蓼喰ふ虫」第11章)

つまり淡路人形の舞台、あるいは今はカットされたり改変されて原作通りには上演されていないが本来の文楽のなかには、残忍であるとか淫らであるとか、社会的に不道徳・不埒なものとして糾弾されるべき要素が数多くあるということです。それが要のなかで「アラビアン・ナイト」の印象と不思議に重なっているのです。ですから要が老人の誘いを受けて淡路旅行に発つのも「アラビアン・ナイト」の世界に遊ぶような気分というところも多分にあるわけです。しかし、淡路旅行の場面では「のどかだ、実にのどかだ・・」という文句が意図的に繰り返されていますが・これは作者の隠蔽工作なので、実は淡路旅行のなかで要は心底のびのびと自由かつ幸福な気分で「アラビアン・ナイト」の世界に遊んでいるわけではないのです。そこのところを注意せねばなりません。このことは要が「要ははっとして・とうとう見付けたなと思いながら」読むバートンの注釈の文章を読めば分かります。それは「・・・ましてこの夜話のような物語は、男女の席で朗読されたり暗誦されたりするものではないのである」という箇所です。この箇所を読めば、後に谷崎が書いた有名な随筆のなかに似たような文章があることが思い出されます。

『返す返すも互いに相警(いまし)めたいのは、これは世界的だとか国粋的だとか言って、外国人にまで吹聴すべき性質のものではないことである。三宅周太郎氏は痴呆の芸術という代わりに白痴美の芸術と言っておられたが、まことにこれは我々が生んだ白痴の子である。因果と白痴ではあるが、器量よしの、愛らしい娘なのである。だから親である我々が可愛がるのはよいけれども、他人に向ってみせびらかすべきではなく、こっそり人のいないところで愛撫するのが本当だと思う。』(谷崎潤一郎:「いわゆる痴呆の芸術について」・昭和23年)

「アラビアン・ナイト」のような猥雑な物語は公の場で暗誦したり朗読すべき性質のものではない。他人のいないところで夜に独りこっそりと楽しむべきなのです。同様に文楽の楽しみも他人に向ってみせびらかすべきものでは決してなくて、こっそり人のいないところで愛撫するのが本当のところではないのかと谷崎は言うのです。それが要が何となく淡路に行って人形でも見てみようかと感じる理由のひとつであるということになります。(この稿つづく)

(H22・9・5)


13)密かな楽しみ・続き

「アラビアン・ナイト」のような猥雑で不道徳な物語は公の場で暗誦したり朗読すべき性質のものではなく、他人のいないところで夜に独りこっそりと楽しむべきものである。この要の認識(ここでは谷崎と要が重なってきます)が、どのような意味を持つのかを考えます。それは「アラビアンナイト」が登場する第8章後半に出てくる挿話を読めばわかります。要は妻美佐子に対し「では僕たちは自分たちにも分からないように極く少しづつ別れる手段を取ろうではないか」と言って、箇条書きにした条件を切り出します。(その詳細については小説本文をご覧ください。)それは試験的かつ段階的に妻美佐子を阿曾に譲渡する為の五つの条件でした。2年間付き合ってみて阿曾と巧く行きそうになければ戻っても良いとか、何だか彼女の意志と判断を尊重しているのようにも見えます。しかし、実はこれは要は美佐子を試して弄んでいるのです。だから後で老人(美佐子の父親)から「こりゃあ要さん、私に云わせると、一体あなたが悪いんだね」と言われることになりますが、もちろんこの譲渡取引みたいなものは、世間に知れれば不道徳の極みであると擯斥されて仕方ないものです。そのことを承知で要は取り引きを美佐子に対して提示しています。本来は夫婦間のなかに秘めておかねばならぬ問題を取引契約みたいなものにしているのです。何だかこれは「アラビアン・ナイト」めいていて大人の艶笑話にでもなりそうなものです。同時に世間に対して公開する性質のものではないのです。

『「・・このところはこの美しく物語られた美しい物語中での唯一の汚点で、レーンが此処を訳したために擯斥(ひんせき)されたのは一往当然なことである。・・・」 要ははっとして、とうとう見付けたなと思いながら、急いでその注を読みくだした。』(「蓼喰ふ虫」第8章)

要がバートンの注を見てハッとして「とうとう見付けたな」と思うのは、自分たちの行為がどこか「アラビアン・ナイト」の世界に似ていると感じるからです。上記のバートン注が谷崎の誤訳を含むことは既に触れましたが、ラカン流に言うならば要はまさに自分たちがそうならねばならない(=レーンと同じく世間から擯斥されねばならない)と思っているので自分が望む通りにその注を読んでいるのです。要が「バグダットの三人の貴婦人と軽子の話」のタイトルの軽子(Porter)を門番と誤訳したのも同様の意味があります。門番とは門に立ち・そこを通ろうとする者を通行可であるか否であるかを判断する役目です。つまり門番とはジャッジ(裁く)する者です。要は自分たちの行為は世間から裁かれならねばならない不道徳な行為であることを分かっているのです。だから要はこのような誤訳をするわけです。

もうひとつ大事なことは、「アラビアン・ナイト」という幻想的でエロチックで・時に残酷・時に不道徳な物語が、イスラム社会という厳格な規律を持つ世界で生まれたものであるということです。これもとても不思議なことです。しかし、西尾哲夫著「アラビアンナイト」によれば、「アラビアン・ナイト」はイスラム世界ではもともと文学としてさほど重要視されていたものではなく、むしろ19世紀末の西欧によって見出されたと言って良いものだそうです。西欧の人々は「アラビアン・ナイト」を当時の時代的気質において人間の深層に潜む欲望・願望をイメージ豊かに羽ばたかせた幻想であると同時に、それは厳格な規律によってどこか歪んでもいると読んだのです。密かな楽しみはその厳格さによってさらに高められます。「アラビアン・ナイト」はユラユラした幻想世界で、それはひとつの定まった形を取ることはありません。次に泉鏡花の文章を引用しますが、そこに人間世界の幻想と現実、あるいは理性と欲望というものが境界なく入り混じっているという点においては、「アラビアン・ナイト」もたそがれ趣味の物語であるということが言えます。同時にそれは谷崎の「陰翳礼賛」の世界に通じてもいるのです。(これについては本稿その10を参照ください。)

西尾哲夫:アラビアンナイト―文明のはざまに生まれた物語 (岩波新書)

『このたそがれ趣味は、単に夜と昼との関係の上にばかり存立するものではない。宇宙間あらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思ひます。例へば人の行ひにしましても、善と悪とは、昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、又滅すべからず、消すべからざる、一種微妙なところがあ ります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさう云ふたそがれ的な世界を主に描きたい。』 (泉鏡花:「たそがれの味」」・明治41年3月)(この稿つづく)

(H22・9・14)


14)擯斥されねばならないもの

老人とお久と一緒に三人で旅する淡路人形見物の旅は、まるでアラビアン・ナイトの世界を旅しているような幻想的な気分に思えます。要は旅の途中で「のどかですなあ。・・」という言葉を何度も繰り返します。確かに現在が昭和なのか・江戸時代かも分からなくなってくるような、時間の座興が失われてしまっているような印象があります。

『太夫はだんだん本職に近いような上手なのが床にあがる。それを一方の桟敷から、「どうだ、わしの村の太夫はうまいもんだろう、みんな静かに聞いてくれ」と、同じ村の人らしいのが声援すると、「己の村の何々太夫はもっとうまいぞ、良い加減に引っ込んでくれ」と、一方の桟敷から罵声を飛ばす。寄った勢いで見物人の大半がめいめいどっちじゃへ味方をして村と村との競争が夜が更けるほど激しくなる。サワリの美しい文句へ来ると、ドースル連がいろいろの言葉で半畳を入れる。そしてしまいには「あんまいじゃぞえ」と、みんなが一緒に泣き声を出して感心する。』(「蓼喰ふ虫」第11章)

ここ淡路では芸能が人々の生活のなかに密着して、まだビビッドに生きているのです。このような雰囲気は大阪の文楽でもその昔はあったものでしょうが、現在ではそのような熱い感覚は薄れてしまっています。ここでは江戸が眼前に生きているかのようです。要の生きている昭和が現実ならば、江戸の昔は幻想に違いありません。要には淡路の光景が現実と幻想が入り混じって見えているのです。鏡花の「たそがれの味」の表現を借りるならば、昼から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるように、現実と幻想が渾然一体に入り混じっています。そこに境目がないのです。そのどちらもがリアルな感覚で要に実感されています。

道中で要は「のどかですなあ・・」を何度も繰り返します。しかし、それは幻想のなかに心地良く身を伸ばして浸っているということではないのです。要は今自分が夫婦離婚の危機にあることを片時も忘れていません。横にいる老人が妻の父親であることを思い出せば当然そのことを思うでしょうし、そういうことは小説中に一切出てきませんが、恐らく要は機会を見て老人にこのことを告白しようと思ったことが何度かあったに違いありません。現実と幻想が渾然一体であるということは、自分が現実に向き合おうとすれば幻想の方に逃げようとし、幻想に酔おうとすれば知らず知らずにうちに現実の方に引き戻されて・醒めてしまうということです。そういう雰囲気を「蓼喰ふ虫」の淡路旅行の場面に感じにくいかも知れませんが、その文章を読むと要の観察はとても細かくて、どこか冷静な目が感じられます。要は決して醒めているわけではありません。しかし、幻想に酔っ払ってもいないのです。

このことがはっきり分かるのは、老人とお久と別れて・先に神戸へ戻る場面です。要は家にまっすぐ帰るのではなく、そのまま山手の愛人ルイズのところへ寄ります。のどかで幻想的な淡路旅行の描写の後だけに、ルイズが登場する第12章は「蓼喰ふ虫」のなかでも評判があまり良ろしくない箇所です。松本清張は「三味線の音楽に突然ジャズが割り込んでくるような違和感」があると書いています。しかし、たそがれ感覚のことが分かっていれば、これは酔い覚ましみたいなものなのです。要にとってアラビアン・ナイトのたそがれの世界から現実の社会に戻る為にどうしても必要なことであったのです。しかし、酔い覚ましには手荒い手法が付き物です。「ほんとうに惚れてる?惚れてるなら千円ぐらい出したらいいわよ。でなきゃ優待してあげないわよ。・・さあ、どっち?・・出すか出さないか・・・いつ出す?」とルイズに言われて、要は「ここにはもう来ないぞ」と心のなかで思います。しかし、すぐに要は「今度こそほんとうにこれっきりだろうか。もう二度と行かずにいられるだろうか」と自問自答をするのです。(この稿つづく)

(H22・9・22)


15)擯斥されねばならないもの・続き

吉之助が「蓼喰ふ虫」関連の評論をいくつか読んで不満を感じる点は、要にとっては義父であり・美佐子の父親である老人に対する考察が足りないと感じることです。要にとっての義父とはどういう存在なのでしょうか。傍に妾をはべらせて・気楽に芝居見物をしている道楽人、いつかはあんな風になってみたいもんだということを要は感じているのでしょうか。確かに第2章にはそれらしき文章が出てきます。

『(要は)十年のあいだにやっぱり(自分も)歳を取ったんだなと、思わずにはいられなかった。この調子だと京都の老人の茶人ぶりも馬鹿にはできない。更に十年も立つうちには自分もそっくりこの老人の歩んだ道を辿るようになるのではないか。そしてお久のような妾を置いて、腰に金から草の煙草居れを提げ、蒔絵の弁当箱を持って芝居見物に来るようなふうに、・・・・いや事に依ると十年を待たないかも知れない。自分は若い時分から老成ぶる癖があったから、人一倍早く年を取る傾向があるのだ。要は下膨れのお久の横鬢と、舞台の小春とを等分に眺めた。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

「痴人の愛」(大正13年)では主人公河合譲治はナオミを自分好みの人形に仕立てようとしますが、逆に人形遣いが人形に操られてしまうという倒錯的なストーリーです。一方、「蓼喰ふ虫」では、老人の妾であるお久は自分の感情を顕わにすることがない・慎み深い女性です。要は肩衣を着た文五郎の腕に留まっている妖精ティンカーベルを思い浮かべたりします。お久は良い意味で人形に徹しており、老人を操ろうなどと決してしません。そこにあるのは人形遣いと人形の理想的な関係です。そうすると、要は十年後の老境の自分の理想像みたいなものを老人に見ているのでしょうか。まあ第2章だけを読めばそういうことなのかもしれません。しかし、「蓼喰ふ虫」の最後の最後まで老人が傍に妾をはべらせて・気楽に芝居見物をしている道楽人であるわけではないのです。そこのところが取りこぼされていると思いますねえ。

「蓼喰ふ虫」第13章は老人の手紙から始まります。要から夫婦の事情を打ち明けられた老人(義父)からの手紙の文章は、不自然なほどに畏まったもので、「然る上は拙老より篤と本人へ申聴かせ何卒して料簡を入替えさえ度、万一改悛不致候わば如何様にも成敗可仕」などと綴ってあります。この老人の手紙が「吹き出したくなるくらいユーモラス」だと書いている評論を見ましたが、とんでもないことです。この手紙の文章は、美佐子の父親としての老人がカッカと頭に来ているのが伝わってくるようです。老人は怒っているのです。この時代(昭和初期)においては家長の判断は絶対です。家長である要が「この女と別れる」と決めた以上は、美佐子の父親である老人が何を言おうと、もう変えようはないのです。まして美佐子自身も別れることに同意なのだと言うならば、なおさら変えようがないはずです。昔気質の老人にそんなことは分かりきったことです。分かっているけど、それでも父親として言わねばならぬから、家長としての要を最大に立てつつ、老人は身体をコチコチにしながら言い難いことを言っているのです。それが不自然なほど畏まった文体になっているのです。そこのところが大事なことです。手紙を受け取った要と美佐子は老人の家を訪ねますが、要に対して、老人はこう言います。

『「なあに大凡そは分かっています。しかし、こりやぁ要さん、私に云わせると、一体あなたが悪いんだね。」 はっとした要が何か云おうとするハナを抑えて、老人は後を被せた。「いや、悪いと云うと穏やかじゃないが、つまり、私の考えじゃあ、あなたがあんまり理 詰めに持って行き過ぎたんじゃないか。・・・」』(「蓼喰ふ虫」第14章)

老人の言葉の調子はあくまで柔らく、家長としての要を立ててもいます。が、「要さん、あなたが悪い」と、老人ははっきり言っています。それを聞いて、要はハッとします。もちろん傍に妾をはべらせて・気楽に芝居見物をしていた道楽人の爺さんがヘラヘラ笑って許してくれると、要が思っていたわけではないでしょう。が、どうして、要はハッとするのでしょうか。そこに要がこれまで見たことのなかった老人の顔を見たからです。この後の老人の話でそれが明らかになります。(この稿つづく)

(H22・10・3)


16)二十世紀初頭の時代的気質

『何も当節のことだから、女房を一人前の男なみに扱うのもようがしょうが、なかなかそれが思い通りには行かないもんでね。早い話が、あなたは自分に資格がないからと云う訳で、試験的に外の夫を選ばせた。こりゃあどうして出来ないことだ。口で何のかのと新しがりと云ったってそれだけ公平にはやれるもんじゃない。・・・・いや、要さん、私は皮肉を云ってるんじゃないんですよ。ほんとうに感じ言っているんですよ。これは一と昔前だったら、あなたがたのような夫婦は世間にいくらもあったんで、私なんぞが現にその通りだったんだが、・・・』(「蓼喰ふ虫」第14章)

「こりやぁ要さん、私に云わせると、一体あなたが悪いんだね。」と言っておいて、美佐子の父親である老人は、こんなことを言い出すのです。ひと昔前でも要・美佐子のような夫婦はいくらもあった。そういう場合は昔の亭主は女房打ち棄てておいて・外に愛人を作って、それで平気で済ましていたのです。しかし、要は当世の人間だから、女房をひとりの人間として対等に扱った。自分には夫の資格がないというので、美佐子に試験的に外の夫を選ばせた。そうして美佐子は自分の判断で阿曾の方を選んだ。要はその意志を尊重して、分かれることにした。いやどうして出来ないことだ、私は感じ入ってるんですと、老人は言います。これを老人が本心で言っていると思いますか。まあ要が分かれるのが自分の娘でなかったのならば、確かに老人はこれを本心で言ったかも知れません。しかし、この場合は分かれるのが自分の娘です。老人は抑えに抑えて、要に対してものを言っているのです。最初に「要さん、あなたが悪い」と、老人ははっきり言っています。女房をひとりの人間として対等に扱い・試験までして、女房が分かれると判断したから・彼女の意志を尊重して分かれるという要の論理は、如何にも公平・対等に 見えますが、要のどこが悪いのでしょうか。それは、その後の老人の話を聞けばわかります。

『・・しかし、女と云うものは、試験的にもせよ、一度脇へ外れてしまうと、途中で「こいつはしまった」と気が付いても、意地にも後ろへ引っ返すことが出来ないようなハメになるんで、自由の選択ということが、実は自由の選択にならない。ま、これからの女はどうか知れないが、美佐子なんかは中途半端な時勢の教育を受けたんだから、新しがりは附け焼き刃なんでね』(「蓼喰ふ虫」第14章)

老人は、要は美佐子をひとりの人間として対等に扱い・美佐子本人も自分で判断したんだと言うけれども、実は美佐子は自分で判断などしちゃいないと言うのです。成り行きでそうなって引っ込みがつかなくなっただけで、自由の選択ということが実は自由の選択になっていない。夫婦の契約とか言って「美佐子をそういう風に仕向けたのは、要さん、あなただろう」というのが、老人の言いたいことです。だから「要さん、あなたが悪い」と老人は言うのです。言葉の調子は抑えていますが、老人は父親として怒っているのです。

つまり、要は表面上は如何にも美佐子をひとりの人間として対等に扱い・その意志を尊重しているように見えるけれども、実は美佐子は自分の意志で行動などしておらず、その意味で要の操り人形なのです。しかし、時勢の教育を受けて、女性は自由で意思的であるべきだなどという意識を附け焼き刃では持っているので、本人は自分の意志で行動して判断しているようなつもりでいます。しかし、日本の女性の意識はまだそういうところまで行っていない。実はこれは要がそうなるように美佐子を操っていたということだから、実は美佐子は自分で何も判断なんかしていないのです。老人は、要が人形遣いで・美佐子は人形であったことを看破しています。老人のことを、傍に妾をはべらせて・気楽にお茶やら芝居見物にうつつを抜かして・何も考えていないただの道楽人の爺さんだと思っていたら大間違いです。(注:ここで老人は美佐子のことのみを言っています。これは当世の男性が人形ではないということを意味しません。このことは後で分かります。)

「一度脇へ外れてしまうと、途中で「こいつはしまった」と気が付いても、意地にも後ろへ引っ返すことが出来ないようなハメになるんで、自由の選択ということが、実は自由の選択にならない」と言っていることで、老人が本質を確かに見抜いていることは明らかなのです。本論前半では二十世紀初頭の芸術家たちが、その時代に生きる人間というものを人形のイメージに重ねてきたことを見てきました。生きている人形(つまり現代人)は、確かに自分の意志で生きようという意欲は持っているのです。しかし、状況は彼が自由の意志でしたい放題にすることを許しません。彼は自分の意志でどうにもならないものを自分の内面にも持っています。これはフロイトの発見した無意識ということです。彼の判断・行動は外側・内側から捻じ曲げられて、彼は自分の意志で生きているようだけれど・実は生きていないという軋轢がしばしば生じます。結局、彼は自分ではない何者かに操られる人形だということです。これが二十世紀初頭の人間観なのです。

このような二十世紀初頭の時代的気質を、この昔気質の老人がどうして看破できたのでしょうか。これは老人が文楽に親しみ・人形というものの本質を観察するなかで自然に習得してきたものです。なぜならば文楽の人形にはそのような要素が先取りされているからです。文楽の人形はダークの操りとは違うということを要に教えたのは、老人でした。文楽の人形はただの操り人形ではありません。文楽の人形はその動きに力感があります。それは時に人形遣いの腕を振り払って、自分の意志で動き出しそうにさえ見えます。しかし、本当にそうなることは決してありません。人形は自分の意志でどれだけ動こうとしても、やっぱり人形は人形遣いの腕のなかにあるのです。文楽の人形のその姿は二十世紀初頭の人間が置かれた状況を象徴しているのです。(この稿つづく)

(H22・10・8)


17)操っていたのは何者か

吉之助が「蓼喰ふ虫」関連の評論を読んで不満を感じるもうひとつの点は、「蓼喰ふ虫」最後の時点で、斯波要・美佐子の夫婦は離婚すると決め込んでいるものが多いということです。確かに要・美佐子は分かれると決めて周囲に宣言していますが、まだ離婚はしていません。現に老人が娘に言って聞かせますと言って、美佐子を連れて外に行ってしまいます。小説は老人と美佐子がまだ帰ってこないうちに終わり、結論は出ないままです。つまり、要・美佐子は本当に分かれることになるかは小説では最後まで分からないのです。それなのに「蓼喰ふ虫」は斯波要・美佐子の夫婦は最後に離婚すると決め込んで書かれている評論が実に多い。何故そうなるかと言うと、小説「蓼喰ふ虫」執筆前後の谷崎潤一郎の状況、当時の妻千代と佐藤春夫の妻譲渡事件の顛末を、この小説に投影して読むからです。本稿ではそのような私小説的な読み方はしないようにしたいと思います。

小説「蓼喰ふ虫」は、老人と美佐子がまだ外から帰って来ず・親娘の話しの結論がもたらされないままに、不安のままで・宙ぶらりんで終わるのです。どうせ老人は娘を説得できないから離婚の結論は変らないと要が自信を持っているとは思えません。ポツンとひとり残された要が考えていることは、「自分はこれからどうなるのか」ということです。それを決めるのは美佐子であって、要ではありません。美佐子が父親に説得されたのなら・夫婦はそのままということですが、それが今までと同じ生活に戻るということになるのかは分かりません。父親の説得が失敗ならば・夫婦は離婚するということですが、当然いろいろな騒動に巻き込まれることになります。いずれにせよ、何が起こるかは老人と美佐子の話し合いの結果に拠って決まります。そのような不安定な・揺れる気分のなかに要はいるのです。

実は吉之助は「蓼喰ふ虫」の末尾を読んでいて、ある小説の末尾を思い出すのです。別に谷崎がその最終場面を真似たと言うのではありません。しかし、とても似た気分がそこに漂っているようです。ふたつの小説の結末部分を・最後の一行だけを除いて比べてみます。新潮文庫版「蓼喰ふ虫」では実に都合の良いことに・最後の一行を残したところで・頁が変わります。

『旦那、旦那、旦那、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から、……あ、あ、ああ、旦那、向うから、が来ます、とおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が。」 境も歯の根をくいしめて、「しっかりしろ、可恐しくはない、可恐しくはない。……まれるわけはない。」 電燈のが巴になって、黒くふわりと浮くと、炬燵の上に提灯がぼうと掛かった。 ・・・「似合いますか。」』(泉鏡花:「眉かくしの霊」 末尾)

鏡花の「眉かくしの霊」(大正13年・1924)の最終場面では、お艶という姦通事件で死んだ美しい女性のことをふたりの男が語りあっているところにお艶の姿が現れ、部屋の電燈がふうっと消えて、「似合いますか」というお艶の声がそこに響きます。冷水をさっと首筋に浴びせ掛けられたような、いかにも鏡花らしい幻想的・かつ怪奇的な雰囲気が急にやってきます。

『行燈が仲にあるせいか外はもやもやと翳っていて、図柄も楽観もよく分からない。(中略)ふと、要は床脇の方の暗い隅にほのじろく浮かんでいるお久の顔を見たように覚えた。が、はっとしたのは一瞬間で、それは老人の淡路土産の、小紋の黒餅の小袖を着た女形の人形が飾ってあったのである。涼しい風が吹き込みのと一緒にその時夕立がやって来た。早くも草葉の上をたたく大粒の雨の音が聞こえる。要は首をあげて奥深い庭の木の間を視つめた。いつしか逃げ込んできた青蛙が一匹、頻りにゆらぐ蚊帳の中途に飛びついたまま光った腹を行燈の灯に照らされている。 ・・・「いよいよ降って来ましたなあ」』(「蓼喰ふ虫」第14章 ・末尾)

鏡花と谷崎との関連性については先に触れました。この場面はたそがれの世界・陰翳の世界として読まねばなりません。「蓼喰ふ虫」最終場面では夕立前のもやもやと翳った雰囲気が描写されています。要は薄暗い床の間に置いてある淡路人形を見て、そこにお久の顔を見たような錯覚を覚えてはっとしますが、それは一瞬で終わります。そして、夕立が始まって要の意識が次第にたそがれ状態になって来たところで、「・・・いよいよ降って来ましたなあ」という女性の声が響くのです。その瞬間、女形人形が口を聞いたように感じられて、要は一瞬、ぞっとしたに違いありません。そのように谷崎は最終場面を書いたのです。

この結末は、この小説に「蓼喰ふ虫」にどういう意味をもたらすのでしょうか。斯波要は夫婦の危機のなかで、妻譲渡の契約などという・それが知れたら世間から擯斥されるような不道徳なことをしています。自分たちは別かれた方が良いのか・このままでいるべきか、それとももっと良い手段があるのか・ないのか、いろんなことを考えながら夫婦は具体的な行動に踏み出せないままでいます。そんななかで、要はもともとあまり関心が持てなかった文楽に次第に興味を持つようになり、どうして自分はこんなに人形に惹かれるようになっていったのか、その理由を自分なりにいろいろ考えているうちに、自分は実は人形遣いを気取っていたことに次第に気が付いてきます。しかし、同時に要は自分は本当に人形遣いであったのだろうかということも感じ始めます。最後の場面で実は人形にも心があったことを要は知ります。突如人形が口を開いてしゃべり始めた瞬間を、要は体験しました。しかし、人形が何を考えているのか、要には分かりません。自分はこれからどうなるのだろうか。彼の未来は他者に握られています。もしかしたら操られていたのは自分の方なのかも知れない。自分を操っているのは何者か、あるいは・・・。

吉之助にとって「蓼喰ふ虫」という作品は、谷崎潤一郎が文楽を・文楽の人形をどう見たか・どこに魅せられたのか、その思索を通じて・谷崎が自らの内面を重ねた「人形論」なのです。

(H22・10・12)


(後記)

*本論考中の引用文章は蓼喰う虫 (新潮文庫)を参照しています。

*「蓼喰う虫」に関する重要な作品論がまとめて収録されていて便利です。
谷崎潤一郎『蓼喰ふ虫』作品論集 (近代文学作品論集成 (13))(クレス出版)

*本稿の姉妹論というべき別稿「鬼が棲むか蛇が棲むか〜谷崎潤一郎:「卍」論」もご参考にしてください。

 

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